ジェームズ・ワトソン(1962年)
どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。
天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!
※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。
ジェームズ・ワトソンは、1928年4月6日、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴで生まれた。
彼の父親ジェームズは、植民地時代にイギリスから移民した家系の出身で、仲買店の集金人である。母親ジーンはアイルランドから移民した仕立屋の娘で、シカゴ大学の職員として働いていた。ワトソン一家は、あまり裕福とはいえない居住者が多いシカゴ南部に暮らしていた。
仕事よりも趣味を大切にする父親ジェームズは、バード・ウォッチングの「熱狂的な愛好者」だった。熱心なカトリック教徒の母親ジーンは、日曜日には必ず教会の礼拝に参列したが、父親ジェームズは、ミシガン湖畔のリンカーン・パークに早朝から出掛けて、日が暮れるまでバード・ウォッチングに没頭した。
幼少期のワトソンは、日曜日には母親に連れられて神父の話を聴いていたが、やがて父親のバード・ウォッチングに付いていくほうがはるかに楽しく有意義であることに気付いた。
その後、ワトソンは、二度と教会に足を踏み入れなかった。のちに「あらゆる宗教は迷信だ」と宣言するようになるワトソンは、「私の人生で最も幸運なことは、父が神を信じなかったことだ」と述べている。
公立ホーレスマン中学校に入学した12歳のワトソンは、父親のおかげで、鳥について知らないことはなく、将来は鳥類学者になるつもりだった。日曜日のバード・ウォッチングに加えて、金曜日に父親チャールズの仕事が終わると、ワトソンは待ち合わせて一緒にダウンタウンの中華街にある「シカゴ公立図書館」に行って、週末に読む本を何冊も借りた。
13歳になる頃には、ワトソンの中学校の成績はどの科目でも最上位となり、彼の博識は群を抜いていると評判になった。その結果、彼は選ばれて、優秀な子どもたちに難問を解かせる「クイズ・キッズ」というラジオ番組に出演することになった。
ワトソンは、最初の2問は簡単に解けたが、3問目のシェイクスピアの問題には答えられなかった。彼は、あらゆる自然現象に興味をもっていたが、文学には興味がなかったためである。
1929年、シカゴ大学の学長に、全米の大学学長としては最年少の30歳のロバート・ハッチンスが選出されて、評判になった。ハッチンスは、21歳でイエール大学法学部を卒業し、25歳で同大学法科大学院を首席で修了した逸材である。
彼の法律に対する洞察力と大学経営に関する現実的な処理能力は抜群に優秀で、26歳でイエール大学法学部教授、28歳でイエール大学法学部長兼副学長に選ばれている。シカゴ大学に赴任したハッチンスは、積極的に大学改革を行った。
彼がシカゴ大学学長、後に理事長を務めた1951年までに行った改革で最も有名なのは、1917年に設立されたカレッジ・フットボールの「ビッグ・テン・カンファレンス」(アイオワ州立大学・イリノイ大学・インディアナ大学・ウィスコンシン大学・オハイオ州立大学・シカゴ大学・ノースウェスタン大学・パーデュー大学・ミシガン大学・ミネソタ大学が参加)から、シカゴ大学を1945年に脱退させたことだろう。
その理由は「商業化された大学のスポーツは学問と両立しない」うえに、「教育よりもスポーツが注目される大学は軽蔑されるべきだ」という彼の理念にあった。
日本ではアメリカの「ビッグ・テン・カンファレンス」の熱狂が伝わりにくいかもしれないが、たとえばミシガン大学のフットボールチームが本拠地とする「ミシガン・スタジアム」の収容定員は10万7,601人で、日本のプロ野球の読売巨人軍が本拠地とする「東京ドーム」の収容定員4万3,500人の2倍以上である。
つまり、アメリカの一州立大学のスタジアムが、日本のプロ野球球場の2倍以上の収容定員であるほどに、人気があるということである。
もともと「ビッグ・テン・カンファレンス」はシカゴ大学とパーデュー大学の理事会が主導となって創始した経緯もあり、シカゴ大学の脱退は全米中の大きなニュースとなった。
これは、たとえば1925年に創始された「東京六大学野球連盟」(慶應義塾大学・東京大学・法政大学・明治大学・立教大学・早稲田大学)から、東京大学が突然脱退するようなイメージを思い浮かべてもらえば、わかりやすいかもしれない。
また、ハッチンス学長は、大学から「フラタニティ」と呼ばれる権威組織や特定宗教を信奉する団体を追い出し、「学問の自由」を何よりも優先した。
彼の在籍中、シカゴ大学の教授が「共産主義」を授業で扱ったために大学が訴えられた事件があったが、彼は「私は、シカゴ大学の教授陣が自由に学問を教える権利を支援する。いかなるイデオロギーであろうと、その学問的な分析と議論は公開され、精査されるべきだ」と主張して、教授陣を擁護した。
さらにハッチンスは「生涯教育」の最初の提唱者としても知られる。彼は、夏期休暇中に大学を開放して、一般向けの公開教養講座を開いた。入試改革も積極的に行い、優秀な高校生には2年の飛び級を認め、特別奨学生として授業料を免除したうえで、シカゴ大学に入学できるようにした。
すでに中学校の飛び級により14歳でサウスショア高等学校に入学していたワトソンは、ハッチンス学長の提案によって成立した特別奨学生試験に合格し、1943年9月、若齢15歳でシカゴ大学に入学することになったのである。
シカゴ大学でのワトソンは、鳥類学者になることを目指して動物学を専攻したが、「入学後の2年間は、あまりうまくいかなかった。成績は概ねBで、私が天才ではないことは徐々に明らかになっていった」とのちに述べている。
通常の新入生よりも3年も早く入学したハンディがあるのだから、「B」でも十分立派な成績だといえるが、それでも「A+」や「A」を目指した彼の負けず嫌いな性格がよく表れている。
3年次、シーウェル・ライト教授の「生態遺伝学」の講義を受けたワトソンは、急速に「遺伝子」という言葉に関心をもつようになる。とくに彼は、1944年に発行されたダブリン大学の物理学者エルヴィン・シュレーディンガー【本連載第10回参照】の『生命とは何か』を読んで感銘を受け、大学院に進学して遺伝学を学ぶことを決意する。
1947年春、19歳でシカゴ大学を卒業したワトソンは、ハーバード大学とカリフォルニア工科大学の大学院に入学願書を送ったが、どちらも不合格だった。
この2校に大学院に出願する大学生の成績は、最優秀の「A+」あるいは「A」ばかりが並んでいるのが普通だから、「B」が多かったワトソンは、志願した時点で振り落とされた可能性が高い。
結果的に、ワトソンはインディアナ大学大学院に進学することになるが、のちに彼はそれが「きわめて幸運なことだった」と述べている。というのは、インディアナ大学には1946年にノーベル医学・生理学賞を受賞したばかりのハーマン・マラー教授がいたからである。
マラーは、ショウジョウバエの雄にX線を照射すると、その影響が子孫に伝わることを立証し、遺伝子研究に新たな道を切り開いた分子生物学者である。
放射線によって突然変異を人為的に発生させて、それが子孫に伝わるということは、遺伝子に放射線被曝(ばく)損傷を与えたことを意味する。要するに、この実験結果によって、「遺伝子」が「放射線の影響を受ける物質」であることが明らかにされたわけである。
1950年5月、21歳のワトソンは、インディアナ大学より生物学の博士号を取得した。彼は、ニューヨーク州ロングアイランドにある民間非営利団体のコールド・スプリング・ハーバー研究所で研究を続け、奨学金を得て1951年9月、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の研究員となった。
更新:12月22日 00:05