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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第17回 ジェームズ・ワトソン(1962年ノーベル医学・生理学賞)

2023年06月01日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

 

ワトソンとクリック

フランシス・クリック
フランシス・クリック(1962年)

フランシス・クリックは、1916年6月8日、イギリスのノーザンプトン郊外で生まれた。父親は、小さな靴製造工場を経営し、母親は敬虔なキリスト教徒だったが、クリックは12歳の頃に「宗教はウソだ」と確信して日曜日に教会に行くのをやめた……。この紹介だけでも、ワトソンとクリックの家庭環境が類似して、しかも2人とも少年時代に宗教に拒絶反応を示したという共通点のあることがわかるだろう。

その後、クリックはロンドン大学に進学して物理学を専攻するが、やはりワトソンと同じようにシュレーディンガーの『生命とは何か』に感銘を受けて、ケンブリッジ大学大学院では生物物理学に専攻を変えて、1949年にキャベンディッシュ研究所の研究員となった。

のちにクリックは、1951年秋に初めてワトソンと会った日のことを次のように述べている。

「彼と私は、会った瞬間から意気投合した。私たちの考え方は驚くほどよく似ていたばかりでなく、宗教的詐欺に対しては立腹し、冷徹無比な科学思想に惹かれ、そして若者だけに特有なある種の傲慢さを持っていた。私たちは、最初からこれらの感性を共有していたのである」

ワトソンとクリックは、DNA構造の解明に向けて共同研究を開始した。当時、DNA研究で最先端を走っていたのは、コロンビア大学の生化学者エルヴィン・シャルガフだった。

彼は、生物のDNAの塩基構造において、「アデニン(A)」と「チミン(T)」の数が等しく、「シトシン(C)」と「グアニン(G)」の数が等しいという「DNA塩基存在比の法則」を発見していた。ただし、シャルガフは、なぜこの「経験則」が成立するのかを説明できなかった。

1952年7月、ケンブリッジ大学を訪れた47歳のシャルガフは、36歳のクリックと24歳のワトソンと夕食を共にしている。

すでにDNA研究の世界的権威として知られ、ニューヨーク生活の長いシャルガフ教授は、ワトソンと会った途端に彼のシカゴ訛りの英語に皮肉を言い、物理学科出身のクリックがDNAを構成する四塩基の化学的性質を覚えていないことを嘲笑した。

彼は、まさかこの若い2人がDNAの構造を発見することになるとは夢にも思わず、2人に彼の発見したさまざまな「経験則」を学生に教えるように話した。

シャルガフ以上の「競争相手」は、カリフォルニア工科大学の化学者ライナス・ポーリング【本連載第15回参照】である。ワトソンは、ポーリングのことを尊敬し、「世界中を探しても、ライナスのような人物は一人もいないだろう。彼の人間離れした頭脳と、周囲を明るくする笑顔は、まさに無敵だ」と述べている。

ポーリングは、1951年に7編の論文を発表し、タンパク質の基本的な構造を解明していた。彼は、「右巻きらせん」形状のポリペプチド構造を「αへリックス」と名付け、人体の毛髪・筋肉・ヘモグロビンのようなタンパク質の構造を次々と解明していた。

1952年12月中旬、ワトソンとクリックの共同研究室に、ポーリングの次男ピーター・ポーリングが入ってきた。彼は、ケンブリッジ大学大学院博士課程に在籍し、陽気な好青年で、ワトソンとクリックと仲がよかった。

彼は、父親ポーリングから届いたばかりの手紙を2人に見せた。そこには「ついにDNA構造を解明した」という、ワトソンとクリックが最も恐れていた一文があった。

1953年2月初旬、ポーリングの論文が届いた。ワトソンは「序論はざっと目を通して、原子の位置が記してある図を見た。一目で何かが間違っていると感じた」とのちに述べている。

ポーリングの論文によれば、DNAは3本のらせん構造の鎖で構成され、個々の塩基が水素原子と結合している。つまり「リン酸基がイオン化しておらず、全体として電荷がない。ポーリングの核酸は、ある意味では、まったく酸ではない」ことになっていた。

「DNA」(デオキシリボ核酸)は、その名前のとおり「中程度に強い酸」でなければならない。ワトソンは「なぜポーリングともあろう人物が、こんな大失敗を演じたのか、我々の誰にもわからなかった。もしカリフォルニア工科大学の学生がこんな論文を書いたら、大学から追い出されるはずだ」と驚いている。

ここで思い起こしてほしいのは、この時期のポーリングが研究に専念できる状況ではなかった点である。当時のポーリングは、朝鮮戦争に反対し、公然とアメリカの軍備拡張を批判していた。彼が「ついにDNA構造を解明した」という論文を書いた1952年には、合衆国国務省から「国外渡航禁止命令」が出て、パスポートを没収されている。

その意味で、ポーリングは不運だったといえる。もし彼が健全な環境で研究できていたら、彼こそがDNA構造を解明し、「ノーベル化学賞」と「ノーベル平和賞」に加えて「ノーベル医学・生理学賞」と、前人未到の3賞を受賞できていたかもしれない。

 

DNA二重らせん構造の発見

DNA結晶X線解析写真
フランクリンによるDNA結晶X線解析写真

ミュンヘン大学の物理学者マックス・フォン・ラウエ【本連載第7回参照】がX線による結晶の回析現象を発見して以来、低分子から高分子の結晶化が可能となり、1952年の段階では遺伝子結晶の解析にも応用されるようになっていた。

当時、この分野の研究で世界をリードしていたのが、ロンドン大学の生物物理学者モーリス・ウィルキンズとロザリンド・フランクリンの共同研究室である。ただし、36歳のウィルキンズは、4歳年下の女性研究者フランクリンと折り合いが悪かった。

ウィルキンズは、フランクリンのことを助手のように扱っていたが、彼女は博士号を取得した有能な研究者として、つねに彼と対等あるいはそれ以上の立場を求めていた。

生粋のイングランド家系で質実剛健に育てられたウィルキンズに対して、裕福なユダヤ人の両親のもとで我儘(わがまま)に育てられたフランクリンの家庭環境の相違も、2人がうまくいかない原因の一つだったかもしれない。

当時のロンドン大学キングス・カレッジには、男性教授陣のために高級な専用レストランがあったが、そこは「女性禁制」だった。したがって、フランクリンをはじめ、数少ない女性研究者たちは、学生食堂で食事を取らなければならなかった。

このように、あらゆる意味で女性研究者が差別されていた当時のイギリスの大学社会において、フランクリンのように自己主張が強く、単刀直入に論点を追及する攻撃的な女性は、男性研究者にとってきわめて扱いにくい存在だった。

さて、ワトソンは、ポーリングから届いた論文をロンドン大学のウィルキンズの研究室に見せにいった。ちょうどその日はフランクリンが不在だったので、ウィルキンズは、何かにつけて彼に逆らうフランクリンの悪口を言った。男性研究者たちは、陰でフランクリンのことを「ダーク・レディ」と呼んで皮肉っていた。

ここでウィルキンズは、のちにスキャンダルとなる事件を起こす。ウィルキンズは、フランクリンがDNAの結晶にX線を照射した解析画像を、おそらく彼女のキャビネットから勝手に持ち出して、ワトソンに見せたのである。

ワトソンは「その写真を見た瞬間、私は驚愕して、心臓が早鐘(はやがね)を打ち始めた」と述べている。「写真の中で一番印象的な黒い十字の反射は、らせん構造からしか生じえないものだった」からである。

この写真からインスピレーションを得たワトソンは、ケンブリッジ大学の研究室に戻ってクリックと構造分析に取り掛かり、1953年2月28日、「DNA二重らせん構造」の原子モデルを完成させる。

彼らは、DNAの構成要素をすべて正確にコピーした模型を機械工場に発注し、3月7日に「DNA二重らせん構造」の180cmを超える3次元模型を組み立てた。ワトソンとクリックの「DNA二重らせん構造発見」を記した2ページの論文は『ネイチャー』4月25日号に掲載され、世界中に大反響を巻き起こした。

1962年、ワトソンとクリックとウィルキンズの3人は「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」により、ノーベル医学・生理学賞を受賞する。

もしウィルキンズがフランクリンの「DNA結晶X線解析写真」を無断でワトソンに見せていなかったら、「DNA二重らせん構造」の発見には、もっと時間がかかったかもしれない。

ただし、ワトソンとクリックのモデルが他に類を見ないほど独創的であるのは、「二重らせん」が互いに対構造になっていて、XYの二重らせんが解(ほど)けると、XはYを複製し、YはXを複製して、新たな二重らせん構造が成立する仕組みを明快に説明できる点にある。

つまり、ワトソンとクリックは、生命の遺伝情報が「自己複製」する仕組みを人類史上初めて明らかにしたわけである。このようにDNAの構造をうまくモデル化するためには、幼少期から「生物」に親しんできたワトソンと、「非生物」の物理現象を研究してきたクリックの2人の共同作業が必要不可欠だったように思える。

実際に「DNA結晶X線解析写真」を撮影したフランクリンも、DNA構造が「らせん」の形状であるらしいことには気づいていたが、それが何本なのか、どのように自己複製するのかについては、追究した形跡がない。

彼女は、できる限り多くのDNA結晶にX線を照射して、それらの実験データを集約して構造解析するという地道な研究方針をとっていたためである。

ところが彼女は、X線を無防備に浴びすぎたことが原因で、卵巣癌に罹(かか)ってしまう。何度か手術をしたが、癌は身体中に転移し、フランクリンは1958年、37歳の若さで逝去した。

 

有色人種差別とノーベル賞メダル売却

1956年9月、世界的著名人となった28歳のワトソンは、ハーバード大学生物学科の教授として迎えられた。この時期に彼は、カリフォルニア工科大学からも教授職を提示されている。つまりワトソンは、彼の大学院入学を断った2つの大学に借りを返したことになる。

1968年、ワトソンはエリザベス・ルイスと結婚し、その2年後に長男ルーファス、その2年後に次男ダンカンが生まれた。成長した長男ルーファスは統合失調症に罹り、ワトソンは遺伝が精神疾患にどのような影響を与えるのかについて興味をもつようになる。

1968年9月、42歳のワトソンは、コールド・スプリング・ハーバー研究所の所長として迎えられた。彼は、研究所のあるニューヨーク州ロングアイランドに家族と邸宅を構えて、遺伝学に関する幅広い研究に着手した。

研究所所長と兼務して、ワトソンは、1988年に「アメリカ国立衛生研究所」が立ち上げた「ヒトゲノム・プロジェクト」の責任者に就任している。

ヒトゲノムを解明すれば、どの遺伝子の影響で遺伝性疾患が生じるかわかるようになる。一方、この研究には、それが優生学的な人間の選別に繋がるのではないかという批判もあった。当時の『ニューリパブリック』誌は、ワトソンの写真を表紙にして「狂気の科学者?」という見出しを付けている。

1991年に「アメリカ国立衛生研究所」の所長にバーナディン・ヒーリーが就任すると、さらに事態は悪化した。

ヒーリーは、ハーバード大学医学部を首席で卒業し、ジョンズ・ホプキンス大学医学部教授からロナルド・レーガン政権で大統領顧問に就任した政治的手腕のある女性である。その後、ジョージ・ブッシュ政権でもヒーリーの能力は高く評価され、「アメリカ国立衛生研究所」に史上初めての女性所長が誕生した。

この人事によって、47歳の女性が63歳のワトソンの上司になった。ワトソンは「我が国の生命科学に関する役所の責任者は、女か、無能な奴か、どちらかしかいないな。女というものは、もっと別の場所にいるべきなのに...」と発言し、顰蹙(ひんしゅく)を買った。ヒーリーは「ワトソンの発言は、男性と女性の両方に対する侮辱」だと反発した。

その後もワトソンとヒーリーは「ヒトゲノム・プロジェクト」の特許取得、民間委託、倫理問題、プライバシー保護など、あらゆる問題で対立し、ついに1992年4月、ワトソンが辞任せざるをえない事態となった。

「アメリカ国立衛生研究所」に辞表を提出した直後、ワトソンは、怒り心頭に発して「今日は人生で最低の日だ。あれほど一生懸命やってきたのに、これほどひどい扱いを受けたことはない」と述べている。

なお、ヒーリーもその翌年の1993年に「アメリカ国立衛生研究所」を退職し、共和党から上院議員選挙に立候補したが落選した。彼女は、2011年、脳腫瘍のため67歳で逝去した。

1993年、コールド・スプリング・ハーバー研究所の理事長となったワトソンは、次第に過激な発言をするようになる。

2000年に開催された講演会で、ワトソンは、肌の色は性欲と関連があると断言して、聴衆を驚かせた。彼の理論によれば、皮膚の色を決定するメラニン抽出物が人間の性欲を高めるため、肌の色が濃ければ濃いほど、性欲が強くなることになる。

ワトソンは「だからこそ、あなた方には(肌の色が褐色の)ラテン系の恋人がいるわけだ」と語り、「(肌の色が青白い)イギリス人の恋人など聞いたことがない。イギリス人は病人ばかりだ」 と述べて顰蹙を買った。

彼はまた、人種や民族の傾向には遺伝的な根拠があると語り、「ユダヤ人は、知性が高い。中国人は、知性は高いが、順応性を選択したため創造的でない。インド人は、カースト内部で結婚を繰り返したため、卑屈になった」とも述べている。

2007年10月、79歳のワトソンは、コールド・スプリング・ハーバー研究所でインタビューを受け、「黒人と白人のIQ測定値の相違は、遺伝によるものだ」と断言し、「アメリカのすべての社会政策は、黒人が白人と同じ知性をもつという前提に基づいているが、あらゆるIQ測定値は、それが事実でないことを示している。そんなことは、どこの会社でも黒人の従業員を見れば、簡単にわかることだ」と述べ、それが雑誌やテレビで広まった。

彼の発言により、その後に予定されていたワトソンのイギリスとアメリカでの講演は、すべてキャンセルされた。コールド・スプリング・ハーバー研究所の理事会は、ワトソンの理事長職を剥奪した。

ワトソンは、自分の発言の目的は「人種差別ではなく科学促進だ」と弁解したが、彼の謝罪は受け入れられなかった。彼の名声は地に落ち、友人たちも皆、去っていった。

2014年、86歳になったワトソンは、社会から「人間扱いされなくなった」と訴え、研究資金を得るためにノーベル賞メダルを売却することにした。 このメダルは、この年の12月にクリスティーズのオークションにかけられ、475万7000ドル(約5億4700万円)で落札された。

ワトソンは、この収益の一部をロングアイランドの自然保護活動とアイルランドのダブリン大学の研究資金として寄付した。

このメダルを落札したのは、ロシアの大富豪アリシェル・ウスマノフで、その後彼は「ワトソン博士は、人類史上最も偉大な生物学者の一人です。ノーベル賞メダルは、彼が所有すべきです」と述べて、このメダルを無償で返還した。

2019年1月、ワトソンは、再び人種と遺伝に関する偏見に満ちた見解をテレビドキュメンタリーで述べた。これを受けて、コールド・スプリング・ハーバー研究所の理事会は、ワトソンに最後に与えていた「研究所名誉所長」の称号も剥奪し、「ワトソンとのあらゆる関係を断つ」という声明を発表した。これに対して、ワトソンは何も述べていない。

2023年5月現在、95歳のワトソンは、ニューヨーク州ロングアイランドに健在である。

 

著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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