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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第16回 ウィリアム・ショックレー(1956年ノーベル物理学賞)

2023年05月02日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

 

シリコン・バレーと人種差別

1955年、特許に対する不満が爆発してベル研究所を退所したショックレーは、母親メイの住むカリフォルニア州パロアルトに戻った。そして彼は、サンタクルーズ山脈を見渡すサンタクララ郡マウンテンビューに「ショックレー半導体研究所」を設立した。

ショックレーは、この年の11月、精神科看護師のエミリー・ラニングと再婚している。公表されてはいないが、1953年の離婚により、それまで20年を共にしてきた最初の妻と3人の子どもたちと別れ、ベル研究所でも居場所のなかったショックレーは、もしかすると精神科に通院することになり、そこでエミリーと知り合ったのかもしれない。

ショックレーは、ベル研究所から自分の研究所に何人かの研究者を引き抜こうと声を掛けたが、誰一人として付いてこなかった。そもそも当時のトランジスタ産業は東部に集中し、カリフォルニアで会社を興すこと自体に無理があるとも思われた。

ところが1956年度のノーベル賞受賞によって、ショックレーの名前はアメリカ中で知られるようになった。ショックレーは、電子工学関連学会の論文を読み漁り、これはと思う若手研究者に直接電話を掛けた。

後に「インテル」を創業する当時29歳のロバート・ノイスは、マサチューセッツ工科大学を卒業してフィラデルフィアの半導体会社の研究者として勤めていた。彼はショックレーから掛かってきた電話について、後に「まるで神と話すような体験だった」と述べている。

ノイスと共に後に「インテル」を創業する当時27歳のゴードン・ムーアは、カリフォルニア工科大学大学院で化学博士号を取得し、ジョンズ・ホプキンス大学応用物理学研究所にいたところを同じようにスカウトされた。

彼らの面接は3日間に及び、あらゆる種類の知能テストと心理テストを受けさせられた。その結果、「ショックレー半導体研究所」には、25名の超有能なメンバーが集まった。

ここまでは大成功だったが、結果的に1957年9月18日、研究所でもトップクラスの研究者8名(ロバート・ノイス、ゴードン・ムーア、ユージーン・クライナー、ビクター・グリニッチ、ジュリアス・ブランク、ジーン・ホアニー、ジェイ・ラスト、シェルドン・ロバーツ)が集団退所したため、ショックレー半導体研究所は2年も経たずに崩壊に向かうことになる。

その原因は、一言でいえば、ショックレーの精神状態にあった。彼は「自由に研究できる」という謳い文句で若者たちを集めたにもかかわらず、彼自身の思い付きで毎日のように異なる命令を下し「従わない者は馘(くび)だ」と威嚇した。その一方で「上下の関係なく公平に扱う」という概念を勘違いして、研究員全員の給与を壁に張り出し、研究員たちの間に溝を作った。

研究員だったビクター・グリニッチは、次のように証言している。「ショックレーは、我々をフェアに扱うことができなかった。研究員の話を真剣に聞く姿勢がなく、他人の発想には極めて冷酷だった。部下に仕事を任せて見守ることができず、あらゆる些事に口を出して、毎日のように我々のやる気を失わせた」

8人が集団離脱する直前、ショックレーの秘書が机にあった画鋲でケガをする事件があった。ショックレーは、これを研究員の誰かによる陰謀だと信じ込み、研究員全員をウソ発見器にかけて尋問したが、もちろんそのような陰謀はなかった。

ショックレーの学歴偏重も常軌を逸していた。彼は「博士号を持っている人間は、持っていない人間よりも、あらゆる仕事ができる」と公言している。「博士号を持っている人間の方が、トイレ掃除でも完璧にできる」と言って研究員たちの失笑を買ったが、本人はそれを真面目に信じていたという。

彼の学歴やIQに対する妄信は、黒人差別にも繋がった。彼は「アメリカ合衆国の黒人は白人よりもIQが12ポイント低いというデータ」から、「黒人には低能な者が多すぎて、難しい仕事をこなせない」と結論付け、さらに「これは遺伝的問題だから、社会福祉や教育で改善できる問題ではない」とまで言い切っている。

このような彼の偏った思想によって、彼の最初の妻と3人の子どもたちが捨て去られた経緯は、すでに述べた通りである。

さて、「ショックレー半導体研究所」から集団離脱した8人は「フェアチャイルド半導体研究所」を設立し、そこで集積回路を発明して大成功を収める。

ここに「シリコン・バレー」の歴史が始まるわけだが、ショックレーは彼らを「8人の裏切り者」と呼んで、生涯許さなかった。もし「ショックレー半導体研究所」が正常な研究所として機能していたら、おそらく世界のトップメーカーになっていたはずである。

 

遺伝学と「ノーベル賞受賞者精子バンク」

ロバート・グラハム
ロバート・グラハム 1980年

1963年、ショックレーはスタンフォード大学に教授として迎えられた。何といってもノーベル賞受賞者は大学に寄与するに違いないと理事会がみなしたからだが、この頃からショックレーの関心は「遺伝学」に移行していた。

彼は、1972年の論文で「自然界は、人間を皮膚の色でグループに分け、知的価値への適応性に対する統計学的に明らかな推論によれば、どちらが効率的に生計を立てているかを功利的に見極めれば明白である」と述べている。

1973年の論文では、黒人と白人のIQを研究した結果、「アメリカの黒人の知的・社会的な欠損の主要な原因が人種的遺伝にあり、よって環境を改善させたとしても治療の余地がないという結論を必然的に導かざるをえない」とも明言している。

ここでショックレーが支持しているのは、黒人が白人よりも急速に繁殖したため、全人口の知能レベルを下げる原因となっているという優生学上の「退行進化」の考え方である。

彼は、この問題を根本的に解決するためには、遺伝的に恵まれない人々に不妊手術を施すための経済政策を推進するべきだと考えるようになった。

彼は、合衆国政府が「自発的不妊手術ボーナス」を提供すべきだと主張した。これは、IQが100以下の人に対して、100を1ポイント下回るごとに1000ドルをボーナスとして支払うという政策である。

したがって、たとえばIQ95の人が不妊手術を受ければ、政府から5000ドルを受け取ることができる。「もちろんこの支給金は、これらの愚かな人々には管理できないから、信託財産として保管しなければならない」という但し書きが付いている。

このようなショックレーの発言に対して、スタンフォード大学の学生たちは反対集会を開き、「ナチ崇拝のショックレー」や「白人至上主義者のショックレー」を大学から追い出せと叫んだ。彼の人形を火あぶりにするデモ隊もいたが、これらの様子を、ショックレーはむしろ楽しそうに見ていたという。

ある日、彼の研究室の前の中庭からデモ隊が「ショックレーを馘にしろ」とマイクで演説していたところ、そのマイクが壊れたことがあった。するとショックレーは部屋を飛び出していって、そのマイクを修理した。そして「このマイクには、私が発明したトランジスタが使われているね」と言ったという。

1977年には、精子バンクの経営者ロバート・グラハムの「優生学プログラム」を目的とする「ノーベル賞受賞者精子バンク」に彼自身の精子を寄付したことを、後に公表して世間を驚かせた。

グラハムが創立した「ノーベル賞受賞者精子バンク」には、ノーベル賞受賞者3名をはじめ、科学者や技術者、オリンピックの金メダリストなどの精子が集められて、高値で販売された。

なお、1977年には、彼を長年甘やかし支配し続けた母親メイが逝去している。このことが、ショックレーに奇怪な行動を取らせた原因の1つかもしれない。それから、精子を提供した彼以外の2人のノーベル賞受賞者が誰なのかは判明していない。

「ノーベル賞受賞者精子バンク」は、1999年まで続き、そこで買い取られた精子によって218名の子どもが生まれたことがわかっている。全体的なIQの平均値は高目だが、ショックレーやグラハムが夢見たような天才は1人も誕生していないという。

1989年8月12日、79歳のショックレーは、妻エミリーに見守られながら、前立腺癌のため逝去した。晩年の彼の奇矯な行動により、ほとんどの友人は立ち去り、3人の子どもたちも新聞記事で初めて父親の死を知ったという。

 

著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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