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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第16回 ウィリアム・ショックレー(1956年ノーベル物理学賞)

2023年05月02日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

トランジスタを発明し、人種差別を正当化し、ノーベル賞受賞者精子バンクに協力した天才


ウィリアム・ショックレー(1956年)

どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。

天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!

※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。

 

暴力的で、すぐに癇癪を起す子ども

ウィリアム・ショックレーは、1910年2月13日、イギリスのロンドンで生まれた。

彼の父親ウィリアムは、1855年にアメリカ合衆国のマサチューセッツ州ニューベッドフォードで生まれ、マサチューセッツ工科大学を卒業した。その後、ウィリアムは鉱山の採掘技術者となり、フロリダ州とカリフォルニア州の鉱山に勤務した。

1896年から1905年にかけての10年間は、ロシア・中国・韓国・オーストラリア・ペルー・アルゼンチン・チリ・スーダン・エジプトなど世界各地を渡り歩き、金・銀・銅・鉄鉱石・石炭・石油などの採掘事業に携わっている。彼は、8カ国語をスムーズに会話することができたという。

50歳になったウィリアムは、アメリカに帰国して、ネバダ州の鉱山で水銀の採掘調査を行った。そこで出会ったのが、1879年生まれの26歳のメイ・ブラッドフォードである。

メイは、ミズーリ州で金の採掘を行っていた父親の影響で、当時の女性としては珍しくスタンフォード大学を卒業後、アメリカで最初に「鉱業測量士」の資格を取得した女性である。

彼女は、ネバダ州の「鉱物資源地・連邦副測量官」として、鉱山に集まってくる「荒くれ男」たちを監督する立場にあった。

この仕事は、もちろん「男勝りで強気な性格の女」でなければ務まらない。メイの綽名(あだな)は「ピストルの似合う女」で、実際に彼女は常時ピストルを携帯していた。そのメイが、世界中を旅して知識が豊富で、裕福で、洗練された物腰のウィリアムに惹かれたわけである。

ウィリアムは、1908年にロンドンでメイと結婚して、ヨーロッパの採掘調査事業を開始した。その2年後に生まれた息子に、自分と同じ名前を付けたわけである。ショックレーが生まれたとき、父親は55歳、母親は31歳だったことになる。

1913年、アメリカに帰国した一家は、スタンフォード大学のあるカリフォルニア州パロアルトに邸宅を構えた。ウィリアムとメイは、公立学校の教育を信用していなかったため、ショックレーが8歳になるまで家庭内で育てた。

両親が息子に英才教育を施し、さらに隣の家に住むスタンフォード大学物理学科の教授が数学と物理学を教えた。

大人たちに育てられたショックレーは、誰もが驚くほど賢かったが、近所の同年齢の子どもたちと仲良く一緒に遊ぶことはできなかった。彼は、自分の思い通りにならないと癇癪(かんしゃく)を起こし、暴れて、他の子どもたちに暴力を振るうこともあった。

ところが、近所から苦情が来ても、母親メイは、ショックレーを叱るどころか、周囲の子どもたちの方が悪いと言って自分の息子を庇(かば)った。彼女は、ショックレーを徹底的に甘やかした。

 

カリフォルニア工科大学とマサチューセッツ工科大学

ショックレーは、9歳で公立中学校に飛び級で入学した。どの教科でも抜群の成績を取る一方で、気に入らないことがあると、すぐに癇癪を起こして暴れる性癖は直らなかった。

ついに決意した父親ウィリアムは、13歳のショックレーをパロアルト陸軍幼年士官学校に入学させた。この学校の寮生活では、朝起床して夜就寝するまで、厳しい軍隊規律に縛られ、あらゆる行動が監視される。

それまで自分勝手が許される環境にいたショックレーは、2年間の地獄のような寮生活を送った。彼が解放されたのは、ショックレーが15歳になったときに70歳の父親ウィリアムが逝去したためである。

再び彼を甘やかすようになった母親メイは、ショックレーを自由な校風で知られるロサンゼルスのハリウッド高等学校に編入させた。

映画の街ハリウッドの中心に位置する高校での生活は、陸軍幼年士官学校の「地獄」とは正反対の「天国」といえる。ここでショックレーは、映画とジャズに夢中になり、女子学生の前では、覚えたばかりの手品を披露してみせた。

17歳のショックレーは、ハリウッド高等学校を優秀な成績で卒業し、カリフォルニア工科大学に入学した。夫の死後、母親メイは、それまで以上に一人息子を溺愛するようになった。

彼女は、自分の息子が天才だと信じて疑わず、毎日のように息子に「いずれあなたは、世界をアッと驚かせる人間になるのよ」と言い続けた。

大学時代のショックレーは、母親譲りの習性によるものか、常にピストルを持ち歩き、1932年に発売されて大流行したオープンカーの「デソト・ロードスター」に乗って大学街を疾走した。その一方で、専攻した物理学では最優秀の成績で、幾つもの大学院から合格通知を受け取っている。

1932年、ショックレーはマサチューセッツ工科大学大学院に進学した。彼がハーバード大学よりもマサチューセッツ工科大学を選んだのは、それが父親の母校だったからなのかもしれない。

大学院で彼の指導教授になったのは、量子力学の「スレイター行列式」で知られる物理学者ジョン・スレイターである。彼は、電磁気学や物理化学など幅広い研究で知られ、ショックレーの能力を高く評価して親身に指導した。

その翌年の1933年、23歳の大学院生ショックレーは、ジーン・ベイリーと結婚した。ただし、2人は1953年には離婚することになる。後に詳細を述べるが、1950年代から、ショックレーは、遺伝による能力や人種の差別を公然と表明するようになる。

ショックレーは、ジーンとの間に長女と長男と次男を儲けたが、3人の子どもたちについて「明らかに退化している。その理由は、私の妻つまり彼らの母親が、私のように高い学歴でないからだ」と言い放ち、妻と3人の子どもたちを「退化した人種」と呼んで、後に捨て去るのである。

実際には、離婚後に長女はハーバード大学を卒業し、次男はスタンフォード大学で博士号を取得しているように高学歴の能力を示したにもかかわらず、ショックレーは頑(かたく)なに自分の子どもたちの才能を認めようとしなかった。

大学院におけるショックレーの成績は抜群で、博士論文「塩化ナトリウムにおける電子エネルギー」を書き上げてスレイターに提出し、1936年にマサチューセッツ工科大学の物理学博士号を取得した。

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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