写真:大坊崇
2022年2月1日、作家で東京都知事を長年務めた石原慎太郎氏が逝去した。大胆な発言から時に物議を醸すこともあったが、政治家としての実行力や手腕を評価する声も根強い。
そんな石原氏と政治活動を共にし、プライベートでも親交があった橋下徹氏は、石原氏は「人生の教科書」のような存在だったという。公私ともに熱い議論を交わした橋下氏が語る、「男・石原慎太郎」の生き様とは。
※本稿は『Voice』2022年4⽉号より抜粋・編集したものです。
政治家としての石原慎太郎さんの手腕は、とくに東京都知事時代に発揮されたように思います。特筆すべきは、政治家と役人の役割分担を明確にされていたことです。
石原さんは政治家として大胆なアイデアを発信しては、世間からの批判を一身に受け止めていました。一方で細部の政策・制度の中身は役人に詰めてもらい、着々と実行する。このマネジメントの手法を僕も大いに学ばせてもらいました。
たとえば、石原さんは国に先駆けてディーゼル車の排出ガス規制を行ないましたが、この政策は役人的な発想からは出てきません。業界団体から猛反発を食らうことが目にみえているからです。
それでも東京都は、独自の排出ガス基準を策定し、環境に悪影響を与えるディーゼル車を徹底して取り締まりました。当時は賛否両論を巻き起こしましたが、その施策はやがて神奈川県や千葉県といった近隣県、さらには国(環境省)へも広がっていきました。
もちろん、石原さんの業績はそれにとどまりません。銀行税(外形標準課税)の導入や築地市場(東京都中央区)の豊洲(同江東区)への移転、東京オリンピック・パラリンピックの招致表明、横田空域の航空交通管制圏の一部返還など、並みの政治家ではとうてい手をつけられない政策を次々と実行していきました。
石原さんの都知事退任後、都政は猪瀬直樹さん、舛添要一さん、小池百合子さんが順番に舵をとっていきましたが、じつは石原都政の時代に大きく動き始めた大胆な施策を継続したものが多いですね。
「東京から日本を変える」という意味では、石原さんが東京都による尖閣諸島の購入を表明したことを覚えている人も少なくないでしょう。
2012年の出来事ですが、最終的に国有化に落ち着いたように、この件は本来ならば地方自治体ではなく国レベルの問題でした。国を憂う気持ちが人一倍強い石原さんだからこそ、都知事というポジションから日本の国家課題に挑んだのでしょう。
ここでも尖閣諸島の購入にあたっての具体的な手法は役人に詰めさせており、たんなるアイデアをぶち上げただけではありませんでした。国が掲げて然るべき大方針を都知事の立場からぶち上げて、一方で具体的な手法の中身は役人に任せる。石原さんの都政運営は、じつに合理的だったと思います。
そんな石原さんの政治手腕を振り返ると、ある方に思いを馳せずにはいられません。僕の政治家への道をつくってくださり、2019年に83歳で亡くなった堺屋太一さんです。石原さんも堺屋さんも、いつも僕のことを気にかけてくださったし、学ばせてもらうことばかりでした。
生意気なことを言わせてもらえば、お二人と僕はまさしく「体温」が合うと感じていました。そのなかでもあえてタイプの違いを挙げるならば、石原さんは突破力があって政治家的、堺屋さんは知識と実務に優れた官僚的な方だったと思います。まさにお二人は、政治家と官僚がタッグを組む一つのロールモデルなのではないでしょうか。
僕は、石原さんと堺屋さんと、日本維新の会のパーティで、三人一緒になったことがあります。そのときに衝撃だったのは、石原さんが堺屋さんのことを「堺屋君」と呼んでいたこと(笑)。
普段は周囲から「堺屋先生」と敬われている方が、少し年上の石原さんからは後輩として話しかけられている。すごい世界だと思いましたね。個性の塊のようなお二人ですが、僕にとっても、日本にとっても間違いなくかけがえのない存在でした。
更新:12月21日 00:05