――松村さんは、エチオピア南西部のコンバ村でフィールドワークをするなかで「国家」のあり方を意識し始めたそうですね。国家を前提として生きる私たちが失ってしまった視点を垣間見る瞬間はありましたか。
【松村】日本で暮らす私たちに比べて、コンバ村の人びとは「生きていく力」をもっていると感じます。
都市社会は、さまざまなインフラによって支えられています。都市部では24時間、コンビニエンスストアが開いていて、いつでも食べ物が手に入る。お金を払えば何でも購入でき、誰にも頼らずに1人で生きていける。ただし裏を返せば、お金がなければとたんに飢えてしまう。失業保険や生活保護など国の制度がないと生きていけません。
ところがコンバ村では、暮らしの多くの部分を自活できています。庭には野菜や果樹が育ち、畑には穀物が実り、飼育する牛からミルクも絞れる。たとえ国の機能が麻痺しても、人びとには生きていく知恵や手段がある。日本では、携帯電話を落としたとたんに身動きがとれなくなり、電気が止まればパソコンが開けず、仕事も回らない。便利な社会の「自由」は、さまざまなシステムや制度に依存したうえに成り立っているのです。
――また本書では、困ったらまず警察を呼ぶのはおかしいという指摘があり、目から鱗でした。たしかに日本では電車で痴漢に遭って周りに助けを求めても、誰も助けずに見て見ぬフリをする人が多い。
【松村】いつの間にか、日本では何か問題が起きたときに動くのは自分たち民間人ではなく、警察や駅員など公的な役割を担う人間だ、という感覚が染みついています。
しかし、目の前で困っている人を現場の人ではなく、遠くから駆け付けた人が助けるのは困難なケースもあります。災害時などもそうですが、いじめや虐待問題にも通じる話です。担任の教師や児童相談所の職員がクラスや家庭内の子どもの状況をすべて把握できるはずがない。むしろ、クラスメイトや近隣住民のほうが異変を察知できる可能性が高い。
つまり社会に生きる一人ひとりが身近な問題を把握でき、対処できる人間関係を築くことで、国の制度や家族関係も上手く機能するのです。
もちろん私が考えるアナキズムは、国家や市場の機能を否定しているわけではありません。時には、警察のような強制力をもった力を頼る必要もある。しかし、コロナや震災で直接、被害を受けた人のなかには、自分たちの力でなんとかしなければならない状況に陥った方もいたはずです。国家のシステムが機能しないとき頼りになるのは、人びとが繋がる「顔のみえる社会関係」なのです。その重要性を忘れてはいけないと思います。
更新:11月22日 00:05