東の縄文人は、なぜ弥生化を拒み続けたのだろう。それは、信仰上の理由からだろうか。あるいは信仰を含めた「システム変更への抵抗感」なのだろうか。東の縄文人たちは、弥生文化の何を嫌ったのだろう。
広瀬和雄は弥生文化が日本文化の源流として、次の三つの特性を持っていたと指摘している。端的に弥生時代を表現していて、じつに参考になる。
第一は、水田稲作や金属器の製作・使用に代表される大いなる技術革新で、文明社会のいわば正の側面である。第二は、社会の階層化や戦争や環境破壊など、その負の側面とも言えるものである。第三は、そうした正・負の要素が中国王朝を中核にした東アジア世界のなかで動きはじめる、いうならば国際化である(『歴博フォーラム弥生時代はどう変わるか』)
かつて、弥生時代の始まりは文明開化と見なされていた。それが第一と第三の指摘にあたる。その一方で、第二の負の側面もようやく注目されるようになってきたのだ。それは特に九州や西日本で顕著だった。北部九州で始まった水田稲作は、大きな社会変革をもたらした。
具体的にいえば、富が蓄えられ、首長(王)が生まれた。弥生時代の到来によってもたらされた「縄文と異なる文化要素」は、水田だけではなく、武器、環濠も重要だった。水田はそれまで園耕民が行っていた農作業とは比べものにならないほど大規模で、人びとの共同作業が求められた。そして、それを指導し指揮する者が集団のトップに立つ。
こうして、弥生化が進むと戦争が勃発する。コリン・タッジは人類が戦争を始めたのは、農業を選択したからだと述べている(竹内久美子訳『農業は人類の原罪である進化論の現在』新潮社)。おそらくその通りだろう。余剰が生まれ、人口は増え、新たな農地と水利を求め、争いが起きた。
日本列島でも、組織的な戦争は、弥生時代から始まったようだ。佐原真も日本で初めて戦争が起きたのは弥生時代だといっている。神話の中で日本の国土は武器(矛)を用いて作り出された。
乱暴者のスサノヲをアマテラスは「弓矢」で迎え撃とうとしている。葦原中国の平定に向かった武甕槌神は剣の神だ。天孫降臨も神武東征も、武人が活躍する(『大系日本の歴史1日本人の誕生』小学館)。日本神話の神々は、好戦的で弥生的だ。
その上で、戦争を次のように定義している。すなわち「考古学的事実によって認めることの出来る多数の殺傷をともないうる集団間の武力衝突」(佐原真編『古代を考える稲・金属・戦争』吉川弘文館)だという。そして、戦争の証拠の9割は、農耕社会から出土すると指摘する。
ヤマト建国の直前には倭国大乱が勃発していたが、春成秀爾はその原因を鉄と流通にあったと推理している(吉田晶・永原慶二・佐々木潤之介・大江志乃夫・藤井松一編『日本史を学ぶ1原始・古代』有斐閣選書)。
抗争が始まったのは弥生中期中ごろで人口増に伴い、前期の氏族社会が一度分裂し、新たな耕地を開発する段階だった。農業共同体ごとに高地性集落が形成されるが、その分布域が銅鐸文化圏とほぼ重なる。高地性集落は防御力が強く、「攻められる側」と想定できる。
この文化圏内では、石製武器や石製利器が原産地集団から交易によってもたらされ、この中で抗争が起きていた可能性が高い。乱は石器を多用する時代に勃発したが、鉄器時代に移行し終わった時点で収束していることに、春成秀爾は注目している。いずれにせよ、弥生時代に本格的な戦争が勃発していたことは間違いない。
更新:11月22日 00:05