では、南部九州になぜ、最先端の文化が花開いていたのだろう。東南アジアの幻の大陸・スンダランドからやってきたのではないかとする説がある。
スンダランドはマレー半島東岸からインドシナ半島にかけて、寒冷期に実在した沖積(ちゅうせき)平野で、地球規模の温暖化によって海水面が上昇して住める土地が減少していった。すると住民の一部が5万〜4万年前に北上し、東アジアや日本列島にたどり着いている。
彼らが日本列島の旧石器人にもなった。さらに、ヴュルム氷期(最終氷期)が終わって海面がさらに上昇すると、スンダランドは水没を始めた。
小田静夫は、この時、スンダランドを脱出した人間の中に、黒潮に乗って直接日本列島にやってきて、南部九州に定住した人びとがいたのではないかと推理している(『遥かなる海上の道』青春出版社)。
証拠になるのが、拵ノ原遺跡(鹿児島県南さつま市)から出土した鋭利な磨製ノミ、拵ノ原型石斧だという。
磨製ノミがあれば、外海を航海できる。丸木舟を外洋航海用に作ることが可能になる。それが1万2000年前ごろの薩摩灰地層の下から見つかっている。石を磨みがいて丸ノミ状にしたもので、丸木舟を作るための海人の貴重な道具だった。
海人の分布域でもある宮崎県、長崎県、沖縄県でもよく似た石斧が見つかっている。しかし、前述した上野原遺跡は突然消滅してしまう。約6400年前に鬼界カルデラの大爆発が起き、アカホヤ火山灰が降り注いだ。この火山爆発は巨大で、西日本の縄文社会に多大な影響を及ぼした。
また、南部九州の縄文人たちは南方に逃れ、一部は日本列島に散らばっていったようだ。
倭の海人の原型は、この時生まれたのだろう。スンダランド沈没時、はるばる黒潮に乗って日本列島にたどり着いた南島の海の民は、せっかく安住の地を見つけたのに、火山の大爆発によって、逃げ惑い、日本列島各地に広がっていったのだろう。
九州西岸から北西部や北部、壱岐、対馬、朝鮮半島最南端に拠点を構えていったにちがいない。こうして、縄文の海人のネットワークは1万年の年月をかけて、形成されていったのである。
九州北西部の人びとは縄文的と指摘されているし、『風土記』は五島列島の人びとの話す言葉は異質で、隼人と似ていると記録していた。
倭の海人は縄文的だったのだ。旧石器時代の終わりから縄文時代の始まるころ、スンダランドから日本列島にたどり着いた海の民が、縄文と倭の海人の先祖だったことになる。
更新:11月25日 00:05