2020年06月25日 公開
2022年06月13日 更新
古代の日本人は、陸続きだった大陸から歩いてやってきたのではなく、何らかの手段で海を越え、日本列島へたどり着いたーーもしこれが事実であれば、当時の人たちの知識や技術で航海が可能だったのか?
その謎に挑むべく命がけの実験航海実験を敢行した東京大学総合研究博物館教授の海部陽介氏。クラウドファンディングで計6000万円もの資金を調達し、実現した「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」を通して見えてきた日本人誕生の物語と「祖先たちの本当の姿」を著書『サピエンス日本上陸』にて詳述している。
本稿では海部氏がプロジェクトを通して見た「日本人の実像」について聞いた(聞き手:『Voice』編集部)。
本稿は月刊誌『Voice』2020年7月号、海部陽介氏の「挑戦心は人類の根本的要素」より一部抜粋・編集したものです。
――3万年前の人類の大航海を徹底調査し、人類学者自らが日本上陸を再現。その全貌が描かれた『サピエンス日本上陸』が話題になっています。人類がいかにして日本へと辿り着いたのかについて、疑問をもったきっかけは何ですか。
【海部】多くの化石が眠る沖縄は、人類学者の聖地です。私も沖縄で人骨を採掘し、調査していました。あるとき、「そもそも、この骨の人たちはどうやってこの島に来たのだろうか」という根本的な疑問が湧いてきました。
世界史の教科書には、アフリカやヨーロッパに住むネアンデルタール人やクロマニョン人のことが載っています。でも、その時期に日本に誰がいたかは知られていない。ヨーロッパから人類学の知識を輸入して伝えているだけで、自分たちの手で日本の歴史を検証していなかったともいえます。
そこで、日本列島で人類がどのような歴史を織りなしてきたのかを調査しようと決めました。
――過去にそのような研究は進んでいなかったのでしょうか。
【海部】研究自体はされていましたが、「最初の日本列島人は大陸から徒歩ではなく、海を越えてやってきた」という事実とその重要性は見過ごされていました。日本列島がまさか人類史の大きな挑戦の舞台のひとつだったなんて、想像していなかった。
ある時期を境に、長いあいだ海を越えられなかった人類がオーストラリアに舟で渡ったという事実は世界で知られています。じつは日本でも、3万八千年前にそういった展開が起こっていたわけです。
――今回のプロジェクトでは、台湾ルートから上陸をめざしましたね。
【海部】大陸から日本列島に入るには、朝鮮半島、北海道、台湾の3つのルートがありますが、渡航の難易度がもっとも高いのは台湾―沖縄(与那国島)ルートです。
台湾と沖縄の境には黒潮が流れていて操船が困難なうえ、島は水平線の先にあるため船上からはみえません。命の保障もないのに、安全な地を離れてみえない島をめざす。当時の人にとっては、とてつもない冒険だったといえるでしょう。
台湾―沖縄間の航海の難しさは、地図を見ればある程度想像はつくものの、そこで研究を終わりにしたくなかった。人類はどんな舟できたのか、航海はどれだけ大変だったのかを確かめてみたかったのです。
――当時の舟に使われた「素材」の検証から始められていますね。
【海部】旧石器時代の遺跡に当時の舟は残っていませんが、さまざまな根拠から草、竹、丸木のどれかだろうと候補を絞りました。3万年前の最初の日本列島人は、そのどれかの舟で海を渡ったはずです。
そこで、それぞれの舟を試すことにしました。始めてみて、「海に出るためには、まず山に行かなければならない」と気づきました。現在のように波止場に行けば舟があるわけでないので、まず山で材料を調達するところから始まるわけです。
竹筏(たけいかだ)舟を造るときも、竹であればどれでもいいと思っていましたが、お世話になった台湾の長老から「何歳の竹じゃなければダメだ」と教わりました。どの素材が舟を造るのに一番適しているのか、人類は経験から知識を蓄えたのでしょう。
また舟の上では、星の位置や波・風の流れをみて、方向を確認します。ひとつの教えられたセオリーに則ればいいのではなく、その場その場で変わる状況に合わせて、どのサインを使うかを選択していく。
先人たちはコンパスやGPSがなくても、自然のなかにあるサインを読みとって立派に生き抜くことができた。こんなにも高度な能力をわれわれの先祖はもっていたのです。
更新:10月30日 00:05