鹿児島から見つかった古い遺跡は、縄文時代に対する見方を変えている。旧石器人は獲物を求めて移動生活をしていたと信じられていたが、縄文早期前葉に、すでに南部九州では安定した定住生活が始まっていたことを示していた。いったい彼らはどこからやってきたのか。そのカギを握るのが、幻の大陸スンダランドの存在である。
※本稿は、関裕二著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
日本列島と朝鮮半島の間を、自在に往き来してきた倭の海人(あま)は、いつ、どこからやってきたのだろう。ヒントを握っていたのは、南部九州だ。
南部九州から、常識はずれの古い遺跡が、次々と見つかっている。たとえば、水迫遺跡(鹿児島県指宿市)からは、後期旧石器時代終末(縄文時代に入る直前の約1万5000年前。この時代は獲物を追いかけて移動する生活が続いていたと信じられていた)の竪穴住居跡や道路状遺構、石器製作所、杭列(くいれつ)などが出土している。
「定住化へ向かう集落」ではないかと疑われている。旧石器人は獲物を求めて移動生活をしていたと信じられていたから、これは大発見だった。
縄文時代に対する考え方を変えたのも、鹿児島県の遺跡だった。縄文人が海に出て、沿岸部の貝を採取し、漁撈(ぎょろう)を始めたのは縄文時代早期前半とされていたが、この常識も、鹿児島県の遺跡が覆してしまった。
縄文時代草創期から早期にかけて、鹿児島県霧島市周辺に、突発的に先進の文化が花開いていたことがわかってきた。それが、上野原遺跡(鹿児島県霧島市国分)の発見で、縄文早期前葉に、すでに南部九州では安定した定住生活が始まっていたことを示していた。
日本列島で、いち早く平底の土器(円筒形土器)が使われていたこともわかってきた。縄文時代早期の縄文土器は、底が尖っていた(地面に突き刺した)のである。
上野原遺跡から計52棟の竪穴住居も出土していた。同時代に存在したのは10棟と見られている。日本最古最大のムラが九州にあったのだ。そして、燻製を作る炉穴も作っていた。
更新:12月22日 00:05