2019年04月28日 公開
2023年02月15日 更新
山本さんの工房は京都府の下京区、西本願寺の裏手にある。決して大きな工房ではない。
山本家は代々続く和鏡師の家系であり、山本さんは五代目となる。江戸時代末期、初代の石松が当時の京都における二大鏡工房の一つとされた金森家に師事。和鏡作りの技術を学び、その後の慶応2(1866)年に独立した。石松は神社や仏閣に納める神鏡を主に作ったという。
だが、時代が明治期に入ると、銅鏡に代わってガラス製の鏡が広く普及。工場での大量生産が可能なガラス鏡の出現により、手作業を生業とする多くの和鏡師たちが仕事を失った。さらに、キリスト教の布教が許されたことにより、魔鏡はその需要を大きく減らした。
だが、そんな時代の逆風の中でも、大正時代には山本家の二代目となる真一が、伊勢神宮式年祭の御神宝鏡を制作して奉納。社会が大きく移り変わる過渡期においても、山本家は和鏡師としてその技術を維持し続けた。
ところが、昭和に入って大東亜戦争が始まると、次第に金属類の不足が深刻化。和鏡の原材料である銅の入手に苦労するようになった。昭和16(1941)年には金属類回収令が公布され、戦略物資の不足を補うために鉄や銅が回収された。
戦争末期には家庭内の鍋や、寺社の釣り鐘までが供出される時代の中で、和鏡の制作は難しい状況となった。
戦時中、京都は大きな空襲の被害からは免れたが、和鏡師としての山本家の境遇は、極めて厳しいものであった。
そして、そんな物資不足の時代は、戦後もしばらく続いた。結果、山本家では和鏡の他、仏具金物なども作るようになった。
やがて日本が高度成長期を迎えると、社会の機械化と合理化はさらに進んだが、それでも山本家は和鏡の伝統を墨守し、技能の継承に努めた。気が付けば、江戸以来の伝統技術を持つ和鏡師は、日本で山本家だけになっていた。
しかし、こと魔鏡作りに関しては、二代目・真一がその制作をやめたことにより、完全に途絶えていた。日本で魔鏡を作れる職人は、一人もいなくなっていたのである。
魔鏡の技術が復活したのは、昭和49(1974)年である。断絶の時代を乗り越え、魔鏡を再び作り始めたのは、三代目の真治(屋号・凰龍)であった。真治は先代が魔鏡を作っている姿を見た記憶はあったが、その製法を習った経験はなかった。
それでも真治は試行錯誤を繰り返し、ついに魔鏡の制作に成功したのである。
その後、真治の息子である富士夫が四代目を継承。そして、富士夫の長男が五代目の晃久さんという系譜になる。面妖なる魔鏡を作る技術は、こうして今に受け継がれている。
更新:11月21日 00:05