2019年04月30日 公開
2024年12月16日 更新
<<デジタライゼーションは加速的に進展し、やがてAIの頭脳労働をも代替するだろうとも予測される現代でも、日本の職人の手による甲冑や陶器、酒といった、極めてフィジカルな存在が人びとを惹き付けてやまない事実もある。
ノンフィクション作家の早坂隆氏が発表した著書『現代の職人 質を極める生き方、働き方』では、そんな全国の匠たちを訪ね、現場の熱量と物づくりにかける職人の思いを伝えている。
本稿では、同書より東京の甲冑師・加藤鞘美(かとうともみ)氏を取材した一説を紹介する。>>
※本稿は早坂隆著『現代の職人 質を極める生き方、働き方』より一部抜粋・編集したものです。
加藤さんの家系は、祖父の代からの甲冑師である。明治期に祖父・秀山が五月人形を作る職人として活躍。父・一冑(いっちゅう)がそれに続いた。
加藤さんが生まれたのは昭和9(1934)年。現在の東京都北区滝野川にて生を享けた。
時代は昭和12(1937)年に日中戦争(支那事変)、昭和16(1941)年から対米戦争へと拡大していくが、五月人形の業界も大きな打撃を受ける。
「材料がなかなか手に入らないということでした。さらに、五月人形自体も贅沢品ということで、生産が難しい時期が続きました」
そんな苦しい戦時下であったが、加藤さんは父親から甲冑師としての仕事を少しずつ教えられたという。
「父は心臓病だったため、兵隊に行かず家におりました。そんな父から『戦争が終わったら、またできるようになるかもしれない』ということで、兜に付ける飾りの彫り方など、いろいろと教わりました。父は『きっといつか役に立つから』と言っていました」
昭和19(1944)年、空襲を避けるため、一家は静岡県の宇佐美に疎開。伊豆半島東部の港町である。しかし、同年の暮れには、同地も危険だということで岩手県の遠野に改めて疎開した。
遠野での暮らしは、どのようなものだったのだろうか。
「食料が足りなくて大変でした。『ひえ7割、米3割』というのが主食でした。ひどいものでしたよ」
加藤さんが続ける。
「大規模な空襲というのはなかったのですが、時々、敵の飛行機が『いたずら』をしてくるんです。学校帰りの私たち目掛けて突然、急降下してくるんですね。みんなで田んぼの中に逃げ込んでびちゃびちゃになったこともありました。やっぱり恐かったですよ。本当に恐かった」
父親は遠野でも細々と仕事を続けていた。加藤さんはそんな父親を手伝いながら、甲冑師としての基礎的な知識と技術を身に付けていった。
全国を行脚戦争が終わった後も、一家は6年ほど遠野で暮らした。加藤さんは父親の傍らで、甲冑制作の基礎を引き続き学んだ。
「父は厳しかったです。金物を磨いて仕上げていく工程を続けているうちに、指の指紋が消えてしまったことがあったのですが、『手を磨けとは言っていない』と怒られました」
その後、17歳になった加藤さんは上京。先に加藤さんが単身で上京し、その後に家族も東京に戻った。
加藤さんは東京の夜学に通学した。昼間は甲冑師の仕事をし、夜に勉強する毎日だった。夜学は4年間で修了。卒業後、加藤さんは父親と一緒に仕事に専念するようになった。
父はどこまでも本物志向の職人だった。戦前から全国各地の博物館や神社、仏閣に足を運び、実物の甲冑を丹念に調べ、その技法や材料を細部まで調査していた。日本画家を帯同し、様々な甲冑を写生させた。細かな紐の組み方まで丁寧に研究した。
こうして得た知見を、甲冑や五月人形の制作に活かしていった。このような父の調査旅行は戦後も長く続いたが、加藤さんもこれに同行して貴重な知識を深めた。
昭和36(1961)年頃には、東京都青梅市に建つ武蔵御嶽神社に通った。平安時代から江戸時代にかけて、武蔵国の武士たちから厚い信仰を集めた同神社の宝物殿には、歴史的価値の高い鎧や具足などが多く奉納されている。加藤さんたちはこの地で、国指定の国宝や重要文化財の甲冑を研究。そして、その再現に挑んだ。
加藤さんたちの行脚はその後も続き、全国各地で実物の甲冑を精査していった。とにかく「本物の甲冑を再現したい」という一心であった。
「金メッキ1つとっても『昔の技法でやらなければならない』ということで、様々な実験を繰り返しながら挑戦しました。
水銀を使う手法があるんですがね。水銀に金を溶かして、それを和紙の上に出して、しぼって中身を濃くしていく。これを塗るわけですが、その後に熱処理を加えると白い煙が出る。これで水銀が飛ぶんですね。
こうして美しい金メッキができあがる。有毒なので室内では危険なのですが、最初はよくわからないものだから、危ない思いもしましたよ。そんな試行錯誤を経て、昔の技法を学んでいきました」
更新:12月21日 00:05