2019年04月23日 公開
2022年07月11日 更新
現代史家であり、陸上自衛隊幹部学校の講師も務めた大木毅氏が上梓した一冊の書籍が注目を集めている。それが『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』である。
ドイツ国防軍で最も有名な将軍として数々の戦績を残してきたロンメルだが、第二次世界大戦で欧州西方の指揮を任された彼は、連合軍のノルマンディー上陸を許してしまう。
なぜ、ロンメル率いるドイツ軍はノルマンディーへの上陸を防げなかったのか。ドイツが犯した「失敗の本質」を語る。
本稿は『Voice』6月号(5月10日発売)の「著者に聞く」『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』(角川新書)より一部抜粋・編集したものです。
聞き手:編集部(中西史也)
――北アフリカ戦線での活躍から「砂漠の狐」と呼ばれたドイツ国防軍の将軍エルヴィン・ロンメル。本書は彼の生涯を辿ることで、軍人としての資質や、ドイツ国内ひいては国際社会における評価の変遷に迫っています。
大木さんは長年、ロンメルについて研究していますが、まず、軍人としての評価からお聞きしたいと思います。
【大木】 ロンメルは一般的に「名将」と称えられますが、まず、何をもって名将といえるのかを考える必要があります。軍人を評価する際は、「統率」と「指揮」の2つの観点から見るべきです。
「統率」とは、すなわち部下をいかに掌握し、管理するか。ロンメルは兵士には人気があった一方、直属の師団長のなかには敬遠する者もいた。統率力を1つの指標から評価するのは難しい面があります。
もう1つの「指揮」は、いかに味方の損害や物資の消費を抑えて勝つかが問われます。これは高次元の概念から順に、「戦略」「作戦」「戦術」の3つに分けられます。
ロンメルはそもそも、戦争に勝つためのリソース(資源)をどう配分するかという「戦略」を立案する立場には置かれませんでした。たとえば第2次世界大戦時のアメリカでいえば、日本とドイツのどちらを先に叩くか、という次元です。
ロンメルは連邦国家だったドイツ帝国の主流だったプロイセンではなく、ヴュルテンベルク王国に生まれ、しかも陸軍幼年・士官学校や陸軍大学校の出身ではなかった。
いわばアウトサイダー(部外者)だったのです。専門的な教育を受けていなかったこともあり、「作戦」では一定の優秀さにとどまったといえます。
最後の「戦術」は、作戦のなかで戦闘をいかに指揮していくかということですが、ロンメルは率先垂範に努め、卓越した能力を発揮します。危険をものともせず、勇猛果敢に陣頭に立ち続けました。
――ロンメルは「指揮」において、最前線に近づくほど、有能だったわけですね。
【大木】 ロンメルが戦術面に傾倒した理由は先述のように、彼が当時のドイツにおいて傍流であり、司令官としての教育を受けていなかったことが挙げられます。
加えて、強い功名心をもった彼自身の性格も影響しているでしょう。
自らの手柄を執拗にアピールしたい欲求と、功績を示さなければドイツ陸軍のなかで出世できないという環境の相互作用によって、戦術面に傑出した「ロンメル将軍」が生み出されたのです。
更新:11月25日 00:05