聞き手:編集部
――本書『安楽死を遂げるまで』(小学館)は、スイス、オランダ、ベルギー、アメリカ(一部の州)など安楽死が合法化されている国々で、安楽死に臨む患者や医者、遺族などへの取材をまとめたルポルタージュです。そもそもなぜ、安楽死というテーマを取材しようと思ったのですか。
宮下 ジャーナリストによって書くもののスタイルが異なりますが、私は「人間はどうすれば幸福になれるのか」という点に焦点を当てて、取材に取り組んできました。幸福というテーマは生と死に関わってきます。
これまでも、『外人部隊の日本兵』(並木書房)では軍隊で死に直面している人たちの生き方、『卵子探しています』(小学館)では不妊治療を題材に、究極の誕生の在り方について書きました。今回は、誕生とは正反対の「究極の死に方」について書きたかったので、安楽死を題材に選びました。
――「安楽死」には複数の意味があることを本書で初めて知りました。
宮下 いわゆる「安楽死」という言葉は次の4つに分類されます。
1つ目は、医者が薬物を投与して患者を死に至らせる「積極的安楽死」。専門的には、安楽死はこの積極的安楽死のみを指すことが多く、本書でも自殺幇助と区別するために使用しています。オランダやベルギーなどがこの手法を認めています。
2つ目は、医師から与えられた致死薬で患者自らが命を絶つ「自殺幇助」。この手法を認めている(正確には、違法ではない)スイスでは、世界で唯一、外国人希望者の自殺幇助が可能です。オランダやスイスでは、1つ目の積極的安楽死やこの自殺幇助が、患者にとっての「尊厳死」であると認識されています。
3つ目は、延命治療措置の手控えや中止を指す「消極的安楽死」。日本でいわれる尊厳死は、この消極的安楽死に近い意味で使われます。
4つ目は、終末期の患者に投与した緩和ケア用の薬物が結果的に生命を短縮する「セデーション(終末期鎮静)」。通常は緩和ケアの一環として行なわれ、大半は「安楽死」と見なされません。
消極的安楽死やセデーションは日本を含む各国で実践されているものの、日本でこれらの法整備はなされていません。積極的安楽死や自殺幇助は日本では違法であり、過去、実際に医師が罪を問われた事例があります。
――取材を重ねるにつれ、宮下さん自身の安楽死に対する考え方の変化や葛藤も見られました。インタビューした相手が、数時間後にはこの世にいない。取材をしているときはどういう気持ちでしたか。
宮下 取材中はいろんな考えが頭を巡り、自分がどうすればいいのかわからなくなるときもありました。この人は明日死ぬというけれど、もしかしたら助けられるのではないか、彼らに掛けられる言葉は何かないか、と。
彼らを説得できないまま翌朝、安楽死を行なう現場に向かい、「逝く」ところを見て取材が終わります。人を助けて幸福にすることがジャーナリズムの役割なのに、これでよかったのかと葛藤が生まれるんですよね。
それに安楽死をする人は、末期の病気で見るからに苦しそうというより、普通に歩いたり人と話して笑ったりできる人が多いんです。そういう人たちを看取り、あとになって本当によかったのかと思うことがあります。
――「死の直後、犯行現場に居合わせている気分に襲われた」とも書かれていますね。
宮下 自殺幇助が認められているスイスでは、安楽死の措置後すぐに警察が現場に来るんです。あくまで自殺なので、医者自らが手を下すわけではありませんが、証拠がないと他殺の可能性を否定できません。安楽死の実施中はビデオカメラでの撮影が義務付けられており、撮った映像を警察に見せる必要があります。そうした状況に置かれると、まさに犯行現場に居合わせた気分になります。
加えて、自分が患者に掛けた言葉が間接的に死に絡んでいるのではないか、という意味もあります。私が相手にもっと気を遣ってあげられたら、安楽死を断念していた可能性もあったかもしれない。そういう意味でも、自らが犯行の一端に関わっているのではないか、という思いがあります。
更新:12月22日 00:05