2017年10月10日 公開
2017年10月10日 更新
コミンテルンの「破壊工作」に対して戦前の日本は、共産党の非合法化と共産主義者の取り締まりによって対応しようとした。
だが、この手法はあまりにも拙く、戦前において成功しなかった。詳しくは拙著『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』をご一読いただきたい。
じつは、コミンテルン・共産党の「議会制民主主義」破壊工作は不況のときはきわめて有効だが、景気がよいときは、さほど効果がない。戦前、コミンテルンの工作が世界的に大きな力を発揮できたのは、世界大恐慌という深刻な不況が続いたからだ。
景気がよければ、コミンテルンのプロパガンダに騙される人も増えない。よってコミンテルンの工作に対抗するための最大の武器は、スパイ防止法の制定でもなければ、共産主義者の取り締まりでもない。景気回復なのだ。
そのことを戦後の自民党はよく理解していた。自民党が結党したのは昭和30年11月15日だが、当時のわが国には、ソ連をバックにした革新勢力、つまりコミンテルンの後継勢力による社会主義革命の危機が迫っていた。
その危機から祖国の自由と独立と繁栄を守るために自民党は結成された。当時、発表された「党の使命」には次のように書かれている。
《原子科学の急速な進歩は、一面において戦争回避の努力に拍車を加え、この大勢は、国際共産主義勢力の戦術転換を余儀なくさせたが、その終局の目標たる世界制圧政策には毫も後退なく、特にわが国に対する浸透工作は、社会主義勢力をも含めた広範な反米統一戦線の結成を目ざし、いよいよ巧妙となりつつある》
何と大げさな、と思われる方もいるかもしれないが、社会主義革命の危機は当時、現実のものだった。
隣の中国大陸では、蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党が激しい内戦を繰り広げ、昭和24年10月、中国共産党政府が誕生した。翌昭和25年には北朝鮮が韓国を攻撃し、朝鮮戦争が勃発。前後してラオスやベトナム、カンボジアもソ連の影響で次々と社会主義国となり、社会主義革命をめざす国内の革新陣営の勢いは、凄まじいものがあった。
このように社会主義勢力(=革新陣営)と、自由主義陣営とが激しく対立し、昭和30年当時のわが国は、あたかも内乱前夜という様相を呈していた。
昭和30年11月、自民党は結党するや、2つの路線を追求した。
1つは、「国民経済再建」路線だ。当時、少なからぬ国民が革新陣営を支持したが、そこには敗戦に伴う悲惨な貧困があった。
そこで、科学技術振興や地方自治の拡充、道路・交通網の整備、社会福祉の充実を進めるとともに、国連への復帰や東南アジア諸国との国交樹立を通じて、貿易立国による経済再建をめざした。
もう1つは、「独立体制の整備」路線だ。鳩山内閣は、占領政策の集大成とも呼べる現行憲法の問題点を研究し、その改正を推進する「憲法調査会」の設置や、ソ連の軍事的脅威に対抗する国防体制の確立、教育界を牛耳る日教組の偏向教育を容認している欠陥教育関係法令の是正などに取り組んだ。
この2つの路線を同時に推進したのが、昭和32年2月に発足した第3代総裁の岸信介内閣だった。
岸内閣といえば、「60年安保」騒動に象徴されるように、国内の革新陣営の過激な暴力闘争に屈することなく、昭和35年6月、従来のあまりに不平等だった日米安保条約の全面改定を成し遂げるなど確実に「独立体制整備」路線を推進したイメージが強い。
しかしその一方で「国民経済再建」路線についても、実質6・5%の経済成長と500万人の雇用増加、4割の生活水準の向上などを内容とする「新長期経済計画」を策定し、その後の高度経済成長時代への端緒を切り開いた。さらに老齢者、母子世帯、身体障害者に対する「国民年金法」を制定したのをはじめ、国民すべてが健康保険を受けられるようにする国民皆保険制度を導入するなど福祉国家の基盤整備も開始した。
このように「国民経済再建」路線で広く国民の支持を集めつつ、「独立体制整備」路線を推進して、日本の社会主義化をめざす革新陣営と断固として戦うというのが、自民党の基本戦略であった。
「国民経済再建」か「独立体制整備」かという二者択一ではなく、どちらも重視するというのが自民党の基本理念なのだ。
(本記事は『Voice』2017年11月号、江崎道朗氏の「コミンテルンVS自民党」を一部、抜粋したものです。全文は現在発売中の11月号をご覧ください)
更新:11月26日 00:05