2017年10月08日 公開
2017年10月10日 更新
9月1日の民進党代表選挙は前原誠司氏と枝野幸男氏が争ったが、隠れた争点は「共産党と組むか、組まないか」である。前原氏は「共産党とは一線を画し、憲法改正には応ずる」。枝野氏は「共闘には賛成。したがって護憲」というものだ。前原氏は議員票の6割を取ったが、4割の共闘派、護憲派を切り捨てるわけにはいかなかったのだろう。枝野氏を代表代行に任じ、選挙対策委員長も国対委員長も容共派に明け渡した。この中途半端な方針に見切りをつけて、細野豪志、松原仁、長島昭久氏らがぞろぞろと離党しはじめた。前原氏が党再建を成功させるためには、共産党との共闘を明確に拒否することが必要なのだ。しかし前原氏は共闘の動きを阻止できなかった。
彼らを集めているのは小池百合子・東京都知事を党首に担ぐ「希望の党」という生まれたばかりの小党である。かつて大阪では府・市改革を標榜する「維新の党(現・日本維新の会)」が誕生し、国政にも衆参で30名ほどの勢力を保っている。小池氏の「希望の党」は都議選の結果から見てかなりの求心力があり、すでに自民党現職からも参加していた。
この様相を見て「シロアリ」退治は困難と見た前原氏は、驚くべき手を打った。シロアリにかじられている巣から、自分も含めてみんなで脱出しようというのである。第二保守党の誕生という政界再編ののろしを上げたのである。
民進と希望が合体して、共産党から離れれば爆発的に大党派になる可能性がある。民進党に残るのは共産党と組む少数の容共派だけになるだろう。
加えて橋下徹氏が政界に出てくれば、その人気から大阪党から全国党に成長するだろう。
橋下氏には日本の政治を革新するために今回、ぜひ出馬してもらいたい。
保守対革新の目で政界を眺めていると、大政党に付いたほうが選挙には都合が良いと見えるだろう。現に選挙制度は二大政党制が生まれるのに都合の良い制度だ。しかし自・社体制が崩れたように自・民体制は崩れつつある。前原氏が「民進党は公認を出さない」との決心に至ったことは、共産党との癒着が自分で処理し切れないほどのものだったことを物語る。議員の選別を「希望」の手に委ねたのである。選別の基準はとりあえず「改憲」となるはずだ。
共産党の役割は完全に終わった。
錦の御旗だった非武装の必要性が薄れたどころか、非武装を称えること自体、亡国への道である。
非武装を押し付けたのは米国のマッカーサー司令部である。日本に進駐した当時の米国は、日本を永遠に無力化すべきだと決意していた。日本の産業を徹底的に破壊し、二度と戦争をできない国に変えようと決心していた。教育内容も変え、歴史も教えないようにした。民主主義も教え込もうとしていた。当時の日本は2000年の歴史から見ると、天皇が直接、政治に関わる特別の時期で、軍部が閣内に入って軍国主義化していた。明治生まれの私の父などは「アメリカ人に民主主義なんか教わらなくても、大正時代にオレたちは経験しているんだ」と怒っていた。
戦争に突き進んだのは軍部が世界情勢に無知で、「1年半しかもたない」といっていた山本五十六連合艦隊司令長官までが戦争に賛成した。閣議で決定した責任は天皇にあるが、天皇の責任を追及すれば日本国民は収まらなかっただろう。天皇親政自体が間違いだった。
いずれにしろ、占領軍は日本人をとてつもない野蛮人と見なしていたから、憲法まであてがった。その憲法の核心が9条というわけだ。しかしマッカーサー元帥は占領中に日本を学んだのだろう。1951年、上院で「日本が戦争をしたのは安全保障のためだった」と証言している。
いま、日本人に非武装を説教しているのは共産党だけだ。どうやら共産党は占領軍の代わりに日本に駐在しているようだが、もう見当違いの〝駐在〟は要らないのだ。
(本記事は『Voice』2017年11月号、屋山太郎氏の「希望の党の拡大は歓迎だ」を一部、抜粋したものです。全文は10月10日発売の11月号をご覧ください)
更新:10月30日 00:05