2017年08月07日 公開
2024年12月16日 更新
1937年の支那事変(日中戦争)から1941年の対米開戦へと、大きな流れをつくったのは、近衛文麿政権だった。この近衛政権の中枢にソ連のスパイがいたことは、すでによく知られたことであろう。
1941年(昭和16年)10月、リヒャルト・ゾルゲというドイツ人と、時の近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実を中心とするグループがスパイ容疑で逮捕された。世を震撼させた「ゾルゲ事件」である。彼らのスパイ活動が日本史、そして世界史の流れに与えた影響は大きなものであった。
ゾルゲは表向きは同盟国ドイツの大手新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」(現フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙の前身)の特派員として活動しながら、熱心なナチス党員を装い、駐日ドイツ大使館のアドバイザー的な役割も務めていたが、実際には、ソ連の赤軍情報部(GRU)のスパイであり、尾崎らをメンバーとするスパイ組織を率いていた。
尾崎は朝日新聞の記者だった人物で、月刊誌などへの寄稿も多く、当時の言論界で影響を持ちうる存在であった。当時、国民的人気があった政治家・近衛文麿のブレーン組織である昭和研究会にも参加。近衛内閣が成立すると朝日新聞を退社して内閣嘱託となり(南満洲鉄道調査部の嘱託も兼務)、政権中枢深くに入り込んだ。ゾルゲはその尾崎を通じて、日本の国策をソ連に有利な方向に導く工作を行なっていたのである。
日本に来る前にゾルゲは上海におり、中国国内に、ソ連と中国共産党による大規模なスパイ網を運営していた。尾崎と出会ったのも上海でのことであった。
そのゾルゲが日本に来る前にまずやったことは、日本の歴史と文化と伝統を徹底して学ぶことだった。来日後は日本に関する豊富な知識を背景に、知日派としてドイツ大使館員からも信頼され、日本社会にも食い込んでいった。
日本のことが大好きで日本をよく知っている外国人。しかも、有名なジャーナリストで弁が立つ……。大人気にならないわけがない。しかも、当時の政府や軍に都合のいいことを書いてくれるのだから、スパイだと疑われるはずもなかった。
尾崎も同様だ。朝日新聞記者を務め、メジャーな月刊誌に記事を書き、近衛首相の信頼が篤いブレーンであり、首相側近でもある。反体制グループを取り締まる特高(特別高等警察)にしても、軍事機密などに対するスパイを取り締まる陸軍憲兵隊にしても、よほどのことがなければ、官邸の奥深くに踏み込んでこのような人物を逮捕するのはまず不可能だ。
2014年、わが国では、特定秘密保護法が施行された。
国家機密を漏洩したりした場合に処罰できるようにすることで、スパイを防止しようとする趣旨だ。「この法律が制定されると、戦前のように言論が弾圧される」と一部のマスコミが盛んに批判したが、私の問題意識は別のところにあった。この法案について担当の官僚と議論した際に、私はこう質問した。
「特定秘密を入手できる人物の多くは、官邸にいる。ということは、特定秘密保護法に違反した容疑者が官邸の人物だった場合、その人物を逮捕するため、警察は官邸に乗り込むことはできるのか」
担当の官僚は絶句した。そんなことは想定していなかったようなのだ。
しかし戦前、近衛内閣のブレーンとして官邸に事務所を持っていた尾崎秀実がソ連のスパイだったのである。スパイは味方のふりをして身近に存在していることを忘れてはなるまい。
その尾崎たちは、官邸の一員という立場を利用して、日本を死地に追い込む工作をしていた。彼らは、支那事変を泥沼化させることに成功した。昭和天皇も陸軍参謀本部も、支那事変の早期終結を願っていたにもかかわらず、だ。
また、近衛内閣当時、日本では、主敵をソ連と考えるグループと、英米を主敵と考えるグルーブが、主導権争いをしていた。
当時、近衛内閣は、支那事変において、中国国民党の蔣介石政権と戦っていた。
この蔣介石政権を背後から懸命に応援していたのが、イギリスとアメリカだった。特にアメリカのルーズヴェルト民主党政権は、露骨に蔣介石政権を支援し、日本に対して圧力をかけてきていた。そのため、日本政府側は、早期和平を望んでいたにもかかわらず、蔣介石政権は和平に応じようとしなかった。
このため、中国での戦争を終わらせるためには、蔣介石政権を支援しているアメリカとイギリスと戦うしかないのではないか。また、「総力戦」を戦えるような日本にするためには資源を確保する必要があり、中国、さらに南方の資源地帯を勢力範囲下に置くべきだ。そう考えたのが「南進論」である。一方、イギリスは、日露戦争以来、日英同盟があったこともあり日本に対して好意的であった。また、アメリカも、ルーズヴェルト民主党政権は反日かもしれないが、野党の共和党は、日本に対して好意的であった。むしろ、問題なのは、蔣介石政権に背後から軍事支援を実施し、アジアに対して進出しようとしているソ連である。よって、ソ連のアジア進出を阻止することこそが、日本の独立と平和のために重要だ。これが「北進論」である。
この「南進論」対「北進論」の対立の中で、尾崎らは朝日新聞などと連携して「主敵は英米だ」と主張し、日本の長期戦略を北進(ソ連との対決)ではなく、南進(英米との対決)へと誘導したのである。
かくして日本は対英米戦に突入し、国民の勇戦むなしく、1945年(昭和20年)8月、未曾有の敗北を喫することになる。
実のところ、日本政府に巣くっていたのはゾルゲたちばかりではなかった。日本政府の内部には、(確信犯であるか否かは別として)当時のソ連にとって都合のよい活動を行なう人間たちが多数存在していたのである。
日本は、インテリジェンス、スパイ工作によって負けたという見方も必要ではないだろうか。
※本書は、江崎道朗著『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(PHP新書)より、その一部を抜粋編集したものです。
更新:12月16日 00:05