2015年07月30日 公開
2023年01月12日 更新
――それにしてもなぜ、日本人は思ったとおりの道を歩むことをリスクだと感じてしまうのでしょう。
(川口)以前に聞いた話で印象深かったのは、東西ドイツが統一したときのことです。統一する前の西ドイツは、すでに過度なほどの自由主義。対する東ドイツは社会主義だったので、国民を縛る統制の文化が40年続いた。
そのような状況下でドイツが統一し、東西がともに自由な社会になった瞬間、東ドイツの人びとは生活のあらゆる局面で「何を選んだらよいか」に困ってしまったのです。
なにしろ以前は数えるほどしかなかった商品の種類が爆発的に増え、進学先から就職先まで、人生の至るところで選択を余儀なくされた。それまでは、ショーウィンドーに並んでいるのは、おもちゃも服もヨーグルトも、どの街も同じ。主体的に選ぶという行為など大して必要なかったのに、ある日突然、状況が一変したのですから、彼らの当惑は無理もありません。
私にこの話をしてくれた人は、旧東ドイツ出身の顧客相手の仕事では、「こういう選択肢があります」といっただけではスムーズにいかないと気付き、そのあとに、「私は以下の理由でこれが向いていると思いますが」と付け加えるようにしたそうです。
じつは日本人も、旧東ドイツの人と同じく、自分で選んで決めることが少なかったのではないか、と思います。
これは稲作民族という日本人の歴史・文化的背景を考えると理解できます。田んぼに水を引くのも、田植えも稲刈りも、皆で協力しなければうまくいかない。個性よりも協調です。多くのことは個人の決断というより、天候で決まった。
そこから日本的な集団主義や、個人の意思で勝手に行動しないという社会的土壌が生じたと思われます。「周囲に合わせること」は日本人の長所であり、強みです。しかしそれが時として自己責任に基づく選択を鈍らせ、グローバル時代の競争や変化から取り残される一因になっているようにも感じるのです。
とくに政治家の場合は、正しいと思ったことを自分の責任で行なえる人、たとえ国民に嫌われても、外に向かってしたたかな外交のできる人物がなってほしいと思います。
――日本にはエリート教育が欠けている、という意見もありますが。
(川口)もちろん日本にもエリートはいます。東京大学の卒業生は、アメリカのMITやイギリスのオックス・ブリッジの卒業生と比べても、専門知識ではもちろん絶対に負けない。しかし、その周りに付随しているさまざまな教養は、と見ていくと、しばしばあちらのほうが堅固な気がします。ヨーロッパには、専門知識以外に、芸術も、哲学も、文学も一晩中でも議論できるし、スポーツはするし、という途方もないエリートがいます。
本書で記したように、日本は底辺や中間層の教育においては世界のトップクラスです。なのに結局、その後の高等教育にうまくつながらない場合が多いのではないか、という懸念を抱きます。
たとえば語学ですが、私自身、学校で8年間も学んだ英語は使い物にならない。それに比べて、大人になってから手掛けたドイツ語はマスターできたのですから、英語下手は自分のせい、とばかりはいえません(笑)。教え方にも問題があるのではないでしょうか。
とはいえ、繰り返しますが日本の初等教育は本当に素晴らしい。ドイツでは小学1年生にアルファベットを1年かけて教えても、まだ正しく書けない子がいます。算数でも、日本の小学1年生は100まで数を教わるのに、ドイツは20までしか教えない。こうした積み重ねが、先ほど述べた底辺や中間層の学力に差をもたらしているように思います。
――ちょうどこのインタビュー場所までタクシーで来たとき、乗務員さんに1420円の運賃で5020円を渡したら、即座に正しいおつりが帰ってきました。
(川口)日本人合格ですよね(笑)。将来、生きるうえで最も基本的な要素、昔でいう「読み書き、そろばん」のレベルにおいて落ちこぼれが少ないことは、日本の国力となっています。
ドイツの初等教育では、小学校4年生後半での国語、算数の成績でA校、B校、C校という具合に振り分けがなされ、C校に分けられた子供の多くは、小学校4年生の時点で勉強を放棄してしまう。もとは、C校は職人になる子供が行く学校で、悪い学校ではなかった。でもいまは、あとで述べますが、落ちこぼれの学校になってしまっています。
だから、進路はあとで修正できるとはいえ、C校に振り分けられると、10歳の小学生でも、「私はもう期待されていない」と感じます。子供のモチベーションを削ぐのにこれほど確実な手法はない。C校に格付けされた子供がその後、奮起して学力を伸ばす可能性は低いでしょう。
この制度を改革しようとする動きは30年、40年も前からあるけれども、なかなか変わりません。これが、ドイツで底辺の学力が揃わない原因の一つといえます。
その点、日本のように多少の学力差には目をつぶり、根気よく9年間かけて、騙し騙し子供のさまざまな能力を引き出そうとするやり方は、長い目で見るなら、初等教育としてはるかに優れた仕組みであると思います。ただ、本来ならそのあと、エリート教育にうまくつなげていく高校、大学があってもよさそうなのに、そこがうまくいかない。
その点ドイツのA校は、昔ほどではないにしても、エリート養成を念頭に置いています。そして、ここからいまも頭抜けたエリートが輩出するのです。
ドイツの超エリートというのは、とにかく日常会話のレベルが高い。家族でお茶を飲んでいるだけでも、新進のピアニストのことから、戦後の独米関係まで、ありとあらゆるテーマで会話がなされ、そのうえ、話し言葉がそのまま活字に印刷できるほど綺麗なドイツ語なのです。
そういうのを目の当たりにすると、身も蓋もない言い方ですが、これは敵わないと思いますね。
ドイツでエリートが強く、日本で中間層が強いという事実は、メディアの中身の違いにも端的に表れています。
たとえばドイツには『デア・シュピーゲル(Der Spiegel)』という週刊誌があります。時事問題をテーマにした長文で内容の濃い記事が多く、文章も難しい。明らかにある程度の知識人を対象とした雑誌です。
他方、『ビルト(Bild-Zeitung)』という大衆紙があり、時事問題の扱い方も違えば、スポーツ選手や芸能人のゴシップもどっさり載っている。『デア・シュピーゲル』の読者は、おそらく『ビルト』は手に取ったことすらないでしょう。
翻って、日本で週刊誌といえば『週刊文春』や『週刊新潮』『週刊現代』の名前が挙がります。いずれもエリートも読めば、庶民も読む。
誌面の内容は、政治や経済の堅い記事もあれば、鋭いルポ、くだけたエッセイ、麻雀や競馬情報から裸に近い女性のグラビアまであります。そういえば、『日経新聞』にポルノまがいの小説が載った時代もありました。ドイツではありえない誌面構成です。
先ほど述べたように、ドイツでは読者層が二極化しているので、日本のように硬軟織り交ぜた誌面にはなりません。『デア・シュピーゲル』を読んでいる層は、絶対に自分のことをエリートであると自覚していると思う。そういう意味では、ヨーロッパはいまでも階級社会なのです。
更新:11月23日 00:05