2013年08月05日 公開
2024年12月16日 更新
《PHP総研研究員ブログ 2013年8月2日掲載分より》
先の参院選の投票率は52・61%と、前回の参院選を5ポイント以上も下回る戦後3番目の低さだった。野党が協力体制をとれないなか、アベノミクスへの期待感を維持する安倍政権の信任投票という色彩が濃かったため、当初から低投票率で自民の勝利と予想する向きが多かった。とはいえ、期日前投票も定着し、ネット選挙も解禁されるなど、投票の負担が減り、PRツールも増えたことを考慮すれば、この数字は大方の期待を裏切るものではなかったか。
投票するという行為は、その効用と負担だけを考えると、そもそも非合理的なのである。ある候補者が自分に何がしかの「利益」をもたらしてくれる可能性があるとしても、自分の1票がその候補者の当選を左右する確率はきわめて低い。したがって、わざわざ時間を割いて投票所には行かない、ということになる。換言すれば、投票する人たちは、その為自体に対する義務感や満足感で投票するということでもある。ほとんど当たらないのに、束の間のウキウキ感を味わいたくて宝くじを買う心理と構造的には同じである。
参院選の争点をテーマにした第1回「変える力」フォーラムでは、政治を「自分ごと」にし、政治に参加することが、社会をよりよい方向に「変える力」になるとの認識が共有された。だが、この投票の非合理性を考えると、いかに選挙が有権者の意見を反映させるチャンスだとPRしても、それだけで投票率を上げることは難しい。また、オーストラリアやベルギーに見られるように、投票しなかった場合には罰金を課すという制度をつくって投票率を上げたところで、政治を「自分ごと」と捉えなければ、それで政治参加が高まったとは言えない。
政治を「自分ごと」にする方法がないわけではない。たとえば「バラマキ」とよばれる利益分配である。地元に公共施設をつくる、子どもやお年寄りに手当を配る、税金を控除するといったことは、直接的な受益になるので自分ごととして捉えやすく、高い投票率につながりやすい。だが、こうした利益分配による受益は「自分ごと」の片面でしかなく、もう一つの面は忘れられてきた。つまり、受益の裏には負担があるのだが、それが域内総生産が高い地域あるいは将来世代に転化されているため、「自分ごと」とは捉えられなくなっている。「いつか誰かがやってくれる」という感覚が蔓延し、GDPの2倍に上る公的累積債務という結果を招いた。
この厳しい状況から脱却するには、受益と負担の関係を曖昧にしている空間と時間のトリックの破壊が必要である。その具体的な方法が、「地方分権」「地域主権」さらには「道州制」などによって、受益と負担の空間を狭めることである。地域のことを地域の責任で行うことになれば、有権者ひとり一人にとって、受益と負担の両面が「自分ごと」にならざるをえない。あるいは、赤字国債の発行を抑制すれば、借金を先送りすることは難しくなり、年金・医療など社会保障サービスの受益と負担の両面が、受益だけに関心がある高齢者にも、いまは負担だけを強いられる若者にも、「自分ごと」になっていく。受益と負担の両面が「自分ごと」になれば、持続不可能なゆがんだ再分配の仕組みにも修正が加えられていくはずである。
だが、政治家は理屈では理解しても、政治現場では消極的になる。なぜなら、「甘いこと」を言わない政治家は支持を失う恐れがあるからだ。裏を返せば、有権者には、負担を「自分ごと」にしたくないという気持ちがある。だから、地方分権への本質的転換も赤字国債発行の抑制も長年停滞したままである。では、どうしたらよいのか。妙案があるわけではないが、日本という国の営みが、一面の「自分ごと」で動き、全体としてきわめて厳しい状態にあることを訴え続けることがまず必要であろう。そして、それを理解した人は、みずからできることを始めることだ。政治の動きを待っていても、それがいつになるかわからない。
今回の参院選前に行なわれた朝日新聞デジタルの調査で「政治に言いたいことがあるが、投票はしない」という若者が「政治に言いたいことがあり、投票する」に次いで多かった。政治的関心は強いが、これまでの政治には期待しないという若者が少なくないということだ。社会的な課題を真正面に「自分ごと」としてとらえ、動けない政治をスルーして、自発的に活動を展開している人たちが、とりわけ東日本大震災以降から増加しているように思われる。これは新たなかたちの政治参加=New Publicである。今回投票しなかった人たちの中には、そうした活動を展開している人たち、あるいはそうした意識をもった人たちが少なからず含まれているのではないか。投票率の低さをそう理解し、未来への希望と考えたい。
更新:12月28日 00:05