
ドーリットル空襲の標的と着陸場を示す地図(写真=National Museum of the United States Air Force/PD US Government/Wikimedia Commons)
七三一部隊──。正式名称は関東軍防疫部(1940年より関東軍防疫給水部〔満洲第六五九部隊〕。七三一部隊はそのなかの本部を指すが、一般的に部隊全体の通称とされる)。
戦場の日本兵に飲用水を供給し、細菌感染を防ぐ防疫給水を表看板に掲げ、背後で細菌戦に使用する細菌兵器の開発と製造、およびそのための人体実験(生体実験)を繰り返した部隊だ。
彼らを統括したのは、部隊の創設者で京都帝国大学(現京都大学)医学部出身の陸軍軍医(最終階級は軍医中将)、石井四郎である。
本稿では、中国戦線で行なわれた細菌戦とドーリットル空襲との関連について広中一成氏に解説して頂く。
※本稿は、広中一成著『七三一部隊の日中戦争』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです

1941年12月8日午前1時過ぎ、歩兵第二三旅団の部隊が英領マレー半島のコタバルに奇襲上陸し、南端のシンガポールに向けて進撃を開始。それからおよそ2時間後、日本海軍機動部隊が米国ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争の火ぶたが切られる。
2日後の10日、日本政府は米英との戦争の呼称について、日中戦争を含めて「大東亜戦争」(以下、アジア太平洋戦争)とすると決定した。文字どおり、日中戦争はアジア太平洋戦争の一部に組み込まれ、太平洋戦争の戦局の影響を大きく受けることになる。
たとえば、太平洋戦争開戦とともに始まった香港作戦がそれだ。広州に駐屯していた支那派遣軍隷下の第二三軍は、マレー進攻の一報を受けて香港に向けて進撃を開始。先陣を切った若林東一中尉の活躍もあり、大きな損害を受けることなく、25日に占領した。
当時、日本陸軍は大持久戦方針のもと、不必要な戦線拡大を控えており、これまでと同じく中国だけを相手に戦争をしていれば、イギリスと戦端を開くことはなかったであろう。
このように、太平洋戦争の開戦を境に性格を大きく変えた日中戦争を筆者は「後期日中戦争」と名づけた。この「後期日中戦争」で細菌戦はどのように行なわれ、これまでとどのような違いがあったか。
日本が太平洋戦争の緒戦の勝利に沸いていた42年4月12日、当時支那派遣軍総司令部で作戦担当の参謀だった井本熊男少佐は、その日誌に「昭和十七年㋭号指導計画」を記し、攻撃目標として雲南省昆明、浙江省麗水・衢県・江西省玉山・広西省桂林・南寧のほか、南太平洋のサモア、アラスカのダッチハーバー、オーストラリア主要都市、インドのカルカッタをあげた。
これまで中国戦線だけで行なわれていた細菌戦が、太平洋戦争をきっかけに一気にその範囲を拡大させたのだ。
それから6日後の18日、日本海軍の快進撃に盛り上がる日本人に冷や水を浴びせるようなできごとが起きる。同日昼頃、W・ハルゼー中将率いる米海軍空母ホーネットとエンタープライズは、巡洋艦4隻に守られながら、秘密裏に日本本土へ近づく。そして、本州東方1000キロメートル余り先からB25爆撃機16機を発進させ、東京・横須賀・名古屋・神戸などの各都市を爆撃した。
もともと夜間に奇襲爆撃をする予定だったが、監視に当たっていた民間徴用船に事前に見つかり、急遽日中での攻撃となる。この空襲は爆撃機を指揮したJ・ドーリットル中佐の名をとってドーリットル空襲と呼ばれた(『昭和の歴史』第7巻)。
すでにこの5年前の37年、日本政府は、第一次世界大戦での戦略爆撃の被害を教訓に「防空法」を制定。内務省が主管となって、敵機の空襲に対し、官民が協力してこれに備える「国民防空」体制が整えられる。具体的には灯火管制・消防・防毒・避難と救護、並びにこれらに関する必要な監視・通信・警報の実施で、同年成立した「家庭防火群組織要綱」により、防火演習の際、市民一人ひとりが家庭防火群に組み込まれ、敵の焼夷弾攻撃の最前線に立って防火に当たるとされた(『都史資料集成』第12巻)。
41年12月10日、日本政府各省などが発行し、東京市(43年に東京府と統合して東京都になる)など日本の重要都市の各家庭に配布された、「時局防空必携 昭和十六年版」のはしがきでは、「列強と開戦すれば空襲は必ず受けるものと覚悟しなければならない」(同上所収)と警鐘が鳴らされていたが、ドーリットル空襲でまさにその心配が現実のものとなったのだ。
空襲により、東京市内の牛込区(現新宿区の一部)・小石川区(現文京区の一部)・品川区などで被害が出て、死者39人、負傷者307人、罹災家屋251戸を数えた(『港区史』第5巻)。
皇居では、空襲警報の発令を受けて、天皇が皇后と第五皇女子の貴子内親王(後の島津貴子)、さらに神器の剣璽とともに宮内省第二期庁舎御金庫室に避難し、杉山参謀総長から敵機襲来の奏上を受ける(『昭和天皇実録』第8)。
米軍機は日本空襲後行方をくらませたが、支那派遣軍によって2機が杭州上空を飛び去り、そのうち1機が江西省南昌に不時着したことがわかった。そして、彼らを南京の総司令部に移送し尋問したところ、日本本土空襲後、空母に戻らずそのまま浙江省の中国側飛行場に着陸する予定であったことが判明する。
これら情報を受けて、参謀本部は対抗策として「浙江作戦案」を作成。24日、参謀本部作戦課の高山信武中佐を支那派遣軍総司令部に派遣し、案をもとに作戦内容を協議させた。
同案によると「本作戦の目的は、主として浙江省方面の敵を撃破して主要なる航空根拠地を覆滅し、該方面を利用する敵のわが本土空襲企図を封殺するにある」とし、作戦開始予定は5月中旬頃で、「軍はなるべくすみやかに、主力をもって紹興(しょうこう)─諸曁(しょき)─金華道、一部をもって杭州─ 富陽─蘭谿(らんけい)道方面から、敵を撃破して金華を攻略し、引き続き玉山及び麗水付近を占領する」(『昭和十七、八年の支那派遣軍』)と定めた。
「浙江作戦案」とホ号作戦の攻撃目標はほぼ一致している。「浙江作戦案」の起案に高山と同じ作戦課の井本がどの程度関わったのか不明だが、彼にとって浙江作戦は、実戦で細菌兵器を試すことができる格好の機会となった。
ドーリットル空襲は日本人を恐怖に陥れたが、その反面、日本軍に中国で細菌戦を行なわせる口実を与えてしまったのだ。
更新:09月16日 00:05