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「中国戦線の兵力を削減せよ」七三一部隊に課せられた任務

2025年09月09日 公開

広中一成(愛知学院大学文学部歴史学科 准教授)

細菌戦「ホ号」
中国ハルピンにあった七三一部隊の本部(写真=Bulletin of Unit 731/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

七三一部隊──。正式名称は関東軍防疫部(1940年より関東軍防疫給水部〔満洲第六五九部隊〕。七三一部隊はそのなかの本部を指すが、一般的に部隊全体の通称とされる)。

戦場の日本兵に飲用水を供給し、細菌感染を防ぐ防疫給水を表看板に掲げ、背後で細菌戦に使用する細菌兵器の開発と製造、およびそのための人体実験(生体実験)を繰り返した部隊だ。

彼らを統括したのは、部隊の創設者で京都帝国大学(現京都大学)医学部出身の陸軍軍医(最終階級は軍医中将)、石井四郎である。

本稿では、中国戦線で行なわれた細菌戦「ホ号」を取り上げて、七三一部隊や細菌戦実行部隊との関連について広中一成氏に解説して頂く。

※本稿は、広中一成著『七三一部隊の日中戦争』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

コードネームは「ホ号」

1940年の日本軍による細菌戦は、9月中旬から11月末にかけて中国浙江省で実行された。これはいかなる目的のもとどのように行なわれたのか。

当時支那派遣軍総司令部で作戦担当の参謀だった井本熊男少佐は、その日の業務内容をまとめた全23冊に及ぶ「井本日誌」を残した。現在、防衛省防衛研究所戦史研究センターに保管されている日誌の原本は非公開だが、幸い、「日本軍の細菌戦」にその一部が掲載されている(以下、断りない限り、「井本日誌」はすべて同論文による)。

それによると、40年5月31日付の記述に「『ホ』号」という言葉がある。これが細菌戦攻撃作戦を表す通称だ(「㋭」、「ほ号」、「保号」とも)。

6月5日、井本は南京に出張で来ていた参謀本部作戦課(第二課)作戦班員の荒尾興功中佐らとホ号作戦の協議を行ない、実施時期を7月中、攻撃目標を浙贛鉄道沿線の都市とした。浙贛鉄道は、浙江省(略称は浙)杭州江西省(略称は贛)南昌を結ぶ全長約980キロメートルの鉄道路線だ。作戦部隊の指揮は支那派遣軍総司令部が行ない、井本が作戦の責任者を務めた。

具体的な作戦は次のとおりである。日本軍占領下の江蘇省句容の飛行場から離陸した飛行機が、高度およそ4000メートルに達した時点で細菌に感染したノミを地上めがけて投下していく。

 

中国戦線維持のための細菌戦

井本らがホ号作戦の検討を始めた頃、すでに第二次世界大戦が始まっていたヨーロッパでは、ナチス・ドイツ軍の西方電撃戦によりオランダとベルギーが降伏し、1940年5月27日には、英仏連合軍がフランス北岸のダンケルクからイギリス本国へ撤退していく。英仏軍をドーバー海峡の向こうへ追いやったドイツ軍は、6月14日、フランスの首都パリに無血入城した。

これにより、ドイツに抵抗を続けていたフランス政府のレノー政権は崩壊し、第一次世界大戦の英雄で副首相を務めていたフィリップ・ペタン元帥が首相となる。ペタンはすぐにドイツと休戦協定を結ぶと、フランス南部の小都市ヴィシーに政府機関を移し、ドイツに恭順する態度を示す。

このヨーロッパ情勢を受けて、日本では長引く中国との戦争による経済悪化と戦争必需品の不足を解決するために、本国がドイツに占領された仏印(フランス領インドシナ)や蘭印(オランダ領東インド)方面に進出し、そこにある豊富な資源を獲得すべきであるという意見が強く打ち出されるようになる。6月12日、日本とタイの間で友好関係の存続と相互の領土尊重に関する条約が結ばれたことは、日本が南方に関心を見せたひとつの表れだ。

また、29日の有田八郎外務大臣による演説「国際情勢と帝国の立場」(『日本外交年表並主要文書』下)のなかでも次のような言葉で日本と南方との結びつきを示した。

「東亜の諸国と南洋諸地方とは地理的にも、歴史的にも、民族的にもはたまた経済的にも極めて密接なる関係にありまして、互に相倚り相扶け有無相通じて共存共栄の実を挙げ、以て平和と繁栄とを増進すべき自然の運命を有するのであります」

日本陸軍も5月18日、「昭和十五、六年ヲ目標トスル対支処理方策」を決定し、今後の世界的な戦局の変化に備えるため、1940年末をめどに国民政府を屈服させて泥沼の日中戦争をすみやかに解決し、とくにこのとき進められていた蔣介石を交渉相手とした直接和平工作を推進していくよう定める。

その一方で、同方策では1940年末までに国民政府が屈服しない場合、「軍は自主的に態勢の収縮を決意し、成るべく速に之に転移し遅くも昭和十六年秋迄に其態勢を概成す」(『支那事変陸軍作戦〈3〉』)とも明記した。「態勢の収縮」とは、すなわち支那派遣軍の兵力削減のことだ。

陸軍は明治以来、対ソ防衛を主要な任務のひとつとしてきた。満洲事変および満洲国建国の目的は、満洲に眠る資源の確保もさることながら、対ソ防衛の拠点としての満洲の獲得という理由が大きかった。

しかし、対ソ防衛に当たる在満鮮日本軍と極東ソ連軍との戦力差は、満洲事変以降徐々に拡大し、38年末には、日本軍9個師団、ソ連軍24個師団とおよそ2.67倍の戦力差となる。
このままこれを見過ごしていては、対ソ防衛は維持できない。この差をどう解消するか。

39年6月に陸軍省が参謀本部と検討の末にまとめた軍備拡充計画によると、41年末までに陸軍の総兵力を平時44個師団115万人、戦時65個師団300万人とし、満洲と朝鮮にはこれまでの2倍近い平時17個師団を置くとした。

だが、これらに最新鋭の兵器を装備させるには膨大な予算がかかる。それをまかなうために陸軍省が考えたのが、開戦から2年が経ち、すでに約85万人にまで膨れあがっていた中国戦線の兵力を削減することだった。

戦線の急速な拡大は、将兵の質の低下をもたらしており、それらを取り除いて軍紀を引き締めるためにも軍内をいったん整理する必要があったのだ。

計画では39年以降段階的に兵力を減らしていき、41年末までに40万人以下にすることを目標に掲げた。これにより生み出された資金の余剰を軍備拡充と対ソ防衛に充てるのだ。参謀本部もこの意見に同意した。

その矢先の39年末、中国戦線では国民革命軍が「冬季攻勢」を敢行し、中国全土にわたって大規模な反攻に出た。中国側はすでに増大していた兵力を削減し、装備の充実と訓練の強化を実行しており(第二次整訓)、これを機に反転攻勢のきっかけを得ようとしたのである。

国民革命軍の反攻が依然として旺盛である以上、支那派遣軍総司令部にとって彼らを倒して日中戦争を終わらせるためには、さらなる戦力の投入が必須であり、陸軍中央が進める兵力削減はもってのほかだった。

井本が戦後公刊した回想録『作戦日誌で綴る支那事変』によと、40年1月4日、支那派遣軍総参謀長の板垣征四郎中将は東京に向かい、陸軍省と参謀本部に対し中国戦線への兵力増強を求めた。しかし、これに同意は得られず、その後の関係者間の協議でも、若干の計画修正があったのみで、兵力削減の方針を変えることはできなかった。

支那派遣軍の兵力削減が既定路線となるなかで、これ以上戦力を落とすことなく中国戦線を維持するにはどうすればよいか。考え抜いた末に井本らが編み出したのが細菌戦のホ号作戦だったのだ。

細菌を使えば貴重な兵力を戦場に投入しなくても中国側に深刻な被害を与えられる。戦地を細菌で汚染させれば、国民革命軍をその地域から追い出せるだけでなく、安全になるまでそこに誰も立ち入ることができなくなる。さらに、細菌による被害が拡大すれば、中国民衆に身体に加えて心理的ダメージを与えて、厭戦感情を広げることができる。

前述した「井本日誌」に初めて「ホ号」ということばが書かれた5月31日は、ちょうど兵力削減の具体的折衝のため、参謀本部から担当参謀が南京に現れたその日だった。荒尾はその中のひとりだ。井本は兵力削減の代案として荒尾にホ号作戦を示し、それが受け入れられて、効果を試すために急速に実現化されていったのではないか。

井本は回想録のなかで、兵力削減をめぐる当時のやりとりを次のように振り返る。

「実際のところ、国の運命を根本的に考えるならば、八万や十万の削減ではなく、八十五万の在支軍を全部引上げるため、極度に条件を緩和して支那と和平をしなければならなかったのである。既に行詰っていた支那事変の解決は、それ以外にはなかったのである」(『作戦日誌で綴る支那事変』)

だが、実際に井本がやったことは、日中戦争の解決どころか、戦争を長引かせ、かつ深刻化させる細菌戦だったのだ。

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