2024年05月13日 公開
2024年12月16日 更新
議論がつづく女性活躍の問題。「男女共同参画社会」というスローガンは何をめざしたものなのか。前編となる今回は、NPOや環境問題に軸足を置き、幅広く社会を見つめてきた萩原なつ子氏にこれからの社会のあり方を聞いた。
※本稿は、『Voice』(2024年3月号)より、内容を編集したものです。
女性の「社会進出」という言葉がよく用いられますが、私にはこの言葉は疑問です。というのも、すでに女性は社会に「進出」しているし、さらに言えば、「参加」もしているからです。
とはいえ、現在の日本に、依然として男女のあいだにギャップが存在しているのはたしかです。ならば何が問題かと言えば、女性の社会「参画」が後れていることでしょう。
「参加」と「参画」には大きな違いがあります。具体的には、「参加」とは現在の枠組みのままの社会に進出して加わることですが、「参画」とはこれまでの枠組みを変えること、そして、物事の意思決定過程に関わることです。
これまでの日本社会の枠組みに適応できて「参画」できているのは、鍵括弧付きの「男性」のみでしょう。かつてのテレビCMを引き合いに出すならば、「24時間戦えますか」という問いに首肯できる男性にとって都合のよい社会の枠組みであり、そういう「男性」が働きやすい職場環境であったり、物事の意思決定がされてきたといっても過言ではないでしょう。
社会進出、社会参加してきた女性たちも「男性」のみ対応できる枠組みに自分を合わせることが求められてきました。
しかし、「女性は家事、育児」という固定的役割分担意識に囚われたステレオタイプが根強くあるなかで、結局は、仕事と結婚や子育て、介護などのケア労働との両立は難しく、途中で仕事を諦めざるを得ない女性が大勢いたわけです。結婚や第一子出産により退職せざるを得なかった女性の労働力率の形状がM字型カーブといわれる理由です。
さらに申し上げると、女性のみならず、障害や病気を抱えていたり育児や介護していたりする男性も、既存の「男性」の枠組みから排除されてきたと言えるでしょう。
男性のなかにも、育児に関わったり社会貢献に時間をかけたりしたいと思っても、「男は外で仕事」というステレオタイプに縛られたり、長時間労働があたりまえの労働環境のなかで、そんな気持ちに蓋をせざるを得ない人たちは少なくなかったはずです。
ですから、私はかねてより、女性のみならずそうした男性の多様さへの無理解を問題視してきましたし、いま議論すべきは既存の枠組みや男性や女性に対するバイアス(偏見)を抜本的に見直すことだと考えています。
今年(2024年)、男女共同参画社会基本法は成立から25周年を迎えます。そうした法律があるにもかかわらず、依然として男女のギャップがなくならないのは、いま指摘したような枠組みやバイアスが残されているからです。この点を見直さなければ、社会に生きづらさを感じる人が減ることはありません。
以上は私個人が思いついた問題意識ではなく、これまで多くのフェミニスト、研究者や現場の方々が指摘し続けてきたことです。それでも、まだ十分な変革を起こすには至っていません。
しかし、いま変化の兆しが見え始めています。本来は喜ばしいことではありませんが、新型コロナ禍がきっかけとなり、働き方改革が進むとともに「男性」だけが生きやすい枠組みやこれまでの価値観が見直されつつあるのです。またこの2、30年間、女性はもちろんのこと男性の賃金も上がっていないことが強く指摘され始めた点も見逃せません。
加えて既婚女性の働き方の問題として浮上しているのが、「年収の壁」です。
現在、103万円、106万円、130万円とそれぞれの収入に応じた社会保険料控除の壁があるため、既婚女性は扶養の範囲内で働くことが暗黙の了解のようになっていました。そのため、もっと働きたくても働けない女性が多く存在しています。配偶者の扶養の範囲内に収めようと年末に労働時間を調整するという状況が起きています。年収の壁のほかに、1985年に改正された国民年金法の第三号被保険者も関係してきます。
じつは当時すでに少子高齢化の問題が顕在化していて、これからの時代には福祉にお金がかかることがわかっていました。
しかし、それを税金で賄うのは難しいという政治的判断がなされ、家庭内のケア労働を女性に無償で任せるには「年収の壁」を設けたり、国民年金法を変えたりして、女性たちに「家庭内にも『仕事』があって大変だから、扶養の範囲内にいたほうがお得ですよね」というメッセージを暗に送ったわけです。
「年収の壁」の影響は、最低賃金の設定にも及んでいるという指摘がされていて、シングルの男性、女性、若者が経済的に自立していくときにも「足枷」になるなど、きわめて深刻な問題です。
2022年6月の『男女共同参画白書』(内閣府男女共同参画局)で注目された言葉が「もはや昭和ではない」です。具体的には令和時代になっても、いまだに固定的性別役割分業規範に基づく雇用機会や賃金格差などの男女不平等な分配が根強く、その不平等はとくに女性に対する社会的排除として起こると指摘しています。
それから、年収の壁や、年金の第三号被保険者制度など、「社会保障制度や組織そのもののシステムや文化、意識を変革することなくして不平等は解消しない」とも明記されています。
女性活躍や女性の社会参画を推進するうえで「落とし穴」になりがちなのが、ダイバーシティという名の下に、たとえばGDPのアップや生産性を向上させるためだけに女性を登用しようとする考え方です。最近よく耳にする議論ですが、それは生産性に寄与する、優秀な女性ならOKという考えが見え隠れします。
男性もいろいろなはずなのですが、つまり、女性たちの分断を引き起こしかねないのです。男女雇用機会均等法が施行されたとき、女性たちが「一般職」と「総合職」という枠組みで分断された歴史がまた繰り返されるのは避けたいですね。
GDPなどの指標とは関係なく、まさしく一人ひとりに寄り添う社会を考えなければいけません。私はその寄り添いがあってこそ「ダイバーシティ」であると理解をしています。女性活躍や女性の社会参画についても、同じ発想のもとで議論していくべきではないでしょうか。
英国の経営哲学者で、ロンドンビジネススクールの創設者でもあるチャールズ・ハンディは著書『パラドックスの時代』(原著は1994年)のなかで「4つのワーク」を提唱しました。のちに世界的に流行した「ライフシフト」「ワークシフト」の種本ともいわれています。
4つのワークとは「ジョブワーク(仕事)」「ホームワーク(家事育児介護)」「スタディワーク(学び)」「ギフトワーク(ボランティアなど社会貢献活動)」で、ハンディは人生100年時代にはこの4つをバランスよく回すべきだ、というのです。
かつては一人がジョブワーク、一人はホームワークに専念するなど分業制が効率的とされてきましたが、「4つのワーク」の考え方をふまえれば非常にリスキーであることがわかるでしょう。
女性差別撤廃条約が国連で採択されたのは1979年で、日本はこれに1980年に署名し、5年後の1985年に批准しました。批准のためには国内法の整備が必要であり、そこで進められた3つの改革が、「国籍法の改正」「男女雇用機会均等法の制定」「高校の家庭科の男女共修」でした。
「高校の家庭科の男女共修」については批准する条件として意外に思われる方が少なくないかもしれませんが、男女に関係なく生活者として経済的に自立できるようになるため、あるいは固定的性別役割分業を変えていくうえで重要な科目が家庭科だったのです。
独り身になって初めて家事に向き合い、「お米ってどう炊くのか?」などと語る高齢者もいると聞きますが、それではさすがに生活者としてリスクが高いと感じました。
これからは、4つのワークを男女ともにバランス良く行なう、人生の役割を複数行なう多様な生き方、働き方が「あたりまえ」になっていくことが望ましいでしょう。
昨年、岸田文雄首相が発言した「女性ならでは」という言葉に多くの批判の声が向けられました。多くの人が指摘していますが、この発言のどこが問題かと言いますと、岸田首相の発言は世の女性全員を一括りで見ていることです。女性ならではという言葉のあとには、「細やかな」とか「優しい」といった、ステレオタイプ的な言葉が並びます。
「女性」とひと口にいっても、一人ひとりの価値観やバックグラウンド、経験は十人十色です。もしも五人の女性の大臣について「女性」と一括りにせずに、「一人ひとりの見識や経験に基づいた」という表現であれば、疑問の声をあげる人はいなかったのではないでしょうか。
さらにいえば、「男性ならでは」という言葉を使う人にはなかなかお目にかかれませんが、それは女性と比較して、男性のほうが一人ひとりの人間として認識されているからでしょう。
かく言う私も、各種の会議などあらゆる場面で「女性の視点」を求められます。そういうときには、「『萩原なつ子の経験に基づいた意見』は言えますが、日本だけでも何千万といる『女性』の意見なんて畏れ多くて代表できません」と答えるようにしています。
「代表性」という点に鑑みれば、NPOで働いている立場から、あるいは研究者の立場から、専門分野の見解を集約して申し上げることはできます。しかしやはり、「女性」の意見として代表することは不可能です。
日本社会を見渡せば、至るところで「女性の視点」がスローガンなどに用いられますが、それは裏を返せば「女性とはこういうものだ」というジェンダー・バイアスに囚われていることに他なりません。
更新:12月21日 00:05