近年メディアで大きな問題として扱われることの多い「ヘイトスピーチ」、そして「ヘイトクライム」。表現の自由を大義名分として行われる差別的言動の数々だが、これらの問題には日本社会の「国語力崩壊」が関係しているのではないだろうか――。
本記事では国語力崩壊が引き起こしたヘイトクライムの一例として、2022年にコリア国際学園で起きた放火事件に、ノンフィクション作家の石井光太氏が迫る。裁判記録から見えてきた「ヘイト思想に洗脳されていくプロセス」とは。
2022年4月5日午前2時過ぎ、大阪府茨木市にあるインターナショナルスクール「コリア国際学園中等部・高等部」に、1人の男がガスバーナーを手にして不法侵入した。太刀川誠、30歳(事件当時)である。
太刀川が同校に踏み入ったのは、SNSで在日韓国・朝鮮人(以下「在日」)への差別発言に触れているうちに、感化されたからだ。彼はネット検索で自宅の近くにコリア国際学園があることを知り、そこで在日の教員や生徒の名簿を盗み、嫌がらせをしようと考えたのだ。
校舎の裏手にある金網を乗り越えた太刀川は、1階の自動販売機の横に、複数の椅子が一カ所に集められているのを見つけた。大きな段ボールも束になっていた。翌日が始業式だったため、学校側が新入生用の椅子を10脚ほど用意していたのである。
太刀川の脳裏に次のような考えが過った。
――事件を起こせば、あいつらは日本から去っていくはずだ。
彼はライターオイルを取り出し、段ボールにふりかけた。それにガスバーナーで引火させると、ボッという音と共に巨大な炎が上がった。黒い煙が立ち込め、空気が熱くなる。太刀川は放火に成功したことを確かめると、ゆっくりと正面玄関へと歩いていき、門を飛び越えて去っていった。
警察が太刀川を逮捕したのは、翌月の5月だった。同校への放火の前月に、大阪府高槻市にある前衆議院議員・辻元清美氏の事務所の窓ガラスを割って侵入するなどした容疑で逮捕されたのである。
その後の取り調べで、コリア国際学園の放火事件が明らかになっただけでなく、創価学会淀川文化館への侵入事件も起こしていたことが発覚した。
なぜ太刀川はコリア国際学園放火事件を起こしたのか。後の公判で、彼は次のように犯行動機を語った。
「在日韓国人らを日本から追い出したかった」
この発言だけみれば、差別主義者が起こしたヘイトクライム(憎悪犯罪)だ。だが、そこまで大きな憎悪を口にするわりには、太刀川は在日の人たちとまったく接点がなかっただけでなく、朝鮮半島の歴史も、彼らが日本に渡って来た背景も知らなかった。
ネットの差別的な発言を見ただけで鵜呑みにし、自らも差別思想に染まって事件を起こしたのである。
日本で在日へのヘイトスピーチ(憎悪表現)やヘイトクライムが注目されたのは、2000年代の後半から2010年代にかけてだ。
ヘイトスピーチやヘイトクライムは、「人種、民族、性などのマイノリティーに対する差別に基づく攻撃を指す」(『ヘイトスピーチとは何か』師岡康子、岩波新書)という点において同じものだ。そして日本で起きた一連の事件は、特に在日の人々に対する差別行為として現れた。
日本でこれらが話題になりはじめた頃、加害者は「表現の自由」を盾に自らのヘイトスピーチを正当化することがあったが、2016年に施行された「ヘイトスピーチ規制法」(正式名称「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」)によって今は完全な違法行為とされている。
これまで「在特会」(正式名称「在日特権を許さない市民の会」)などが起こしたヘイトスピーチ、ヘイトクライムは様々なところで取り上げられてきたし、専門書も多数あるので、逐一紹介するようなことはしない。
ここではコリア国際学園の元校長が、放火事件と重ねたと語る「京都朝鮮学校襲撃事件」の経緯と、当時飛び交った暴言だけを簡単に紹介したい。
京都市西区に、京都朝鮮第一初級学校(現在は休校)があった。この学校には校庭がなかったため、隣接する勧進橋児童公園の一部を運動場として無断で使用していた。2009年、在特会など過激な団体がこのことに反発し、ネットで仲間に呼びかけ、同校へ押し寄せた。
彼らは授業中だった校舎を取り囲み、拡声器を使って教員や小学生に向かって差別に満ちた罵詈雑言を浴びせかけた。また、一部の人たちは公園にあった朝礼台を門にぶつけたり、サッカーゴールを押し倒したりするなど、暴力的な行為に及んだ。
一連の騒ぎは警察が駆け付けてもなかなか収まらず、動画サイトでその光景が流された。後に裁判にもなったが、本稿ではこの時に在特会のメンバーらが教師や小学生に浴びせた中傷に注目したい。次は裁判資料からの抜粋である。
「我々の先祖の土地を奪った。戦争中、男手がいないとこから、女の人をレイプして虐殺して奪ったのがこの土地」
「スパイの養成機関、日本人拉致の養成機関、朝鮮学校を解体しろ」
「ここは横田めぐみさん始め、日本人を拉致した朝鮮総連」
「現行犯逮捕せえ! 現行犯逮捕! 日本から出て行け、ほれー。何が子どもじゃこんなもん。お前ら、スパイの子どもやないか、スパイの、ね」
「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮半島へ帰れー」
「約束というのはね、人間同士がするもんなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません」
「日本の子どもたちの笑い顔を奪った卑劣、凶悪な朝鮮学校を我々日本人は決して許さないぞ」
「朝鮮人、北朝鮮ですね、その朝鮮総連、どういう団体かわかるでしょ、みなさん。北朝鮮のね、スパイ、もしくはね、いつテロリストに変貌するかどうかわからんような、そういった連中がね、日本のね、あちこちに潜伏し、あちこちでふんぞり返っとるんですよ」
これは本件だけに限らず、日本で起きている様々なヘイトスピーチや、ネットに書き込まれる差別的な言葉と共通するものだ。在日差別は、このような暴力的な言葉によって行われているのである。
今回、取り上げるコリア国際学園放火事件の犯人・太刀川誠は、大学を卒業後しばらくしてアパートで独り暮らしをしていた。実家からも遠くなく、関係も良好だったという。
そうした生活の中で、北朝鮮のミサイル発射実験などから国際問題に関心を持ち、ネットで検索をはじめた。そこで目にしたのが、前述のようなゆがんだ差別発言だった。そして彼らはそれらの言葉に触れているうちに、自らもSNSで過激な差別発言を発信するようになっていく。たとえば次のような投稿だ。
<もう日本人に朝鮮人の射〇許可出してくれよ>
<俺が首相になったら在日狩りを合法化します>
このような流れの中で、太刀川はコリア国際学園放火事件を起こすのである。
だが、冒頭で述べたように太刀川は日韓関係を勉強した上で、差別的な思想を持つに至ったわけではなかった。それどころか、中学生ほどの知識もないまま、ネットの罵詈雑言を鵜呑みにしていたのである。
それは公判での次のようなやり取りが示している。『ヘイトクライムとは何か』(鵜塚健、後藤由耶、角川新書)から引用する。
――(弁護側)なぜこの学校を狙ったのですか。
「朝鮮学校という言葉でネットで検索をかけると、家から近い場所にこの学校があり、狙おうと考えました」
――コリア国際学園には、日本人の学生も通っていることを知っていますか。
「あとになって知りました」
――在日韓国人、在日朝鮮人の人たちと話したことはありますか。
「そういう機会は特にありませんでした」
――北朝鮮も在日コリアンもコリア国際学園も一緒だと考えていたということですか。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感じで、一緒だと思っていました」
――(検察側)韓国人への嫌悪感を持つに至った情報源は何ですか。
「簡単に言うとですね、ツイッターやネットです」
――本を読んだり人から話を聞いたりすることはないですか。
「そういうことはありません。ネットがほとんどです」
ここから見えてくるのは、国語力を持たない人々がネットの言説にいとも簡単に洗脳されている現状だ。太刀川は、幼児が親から教えられた言葉をそのまま信じて反復するように、ネットの言説を盲信し、同じような行為をしようとした。一体なぜなのか。
〈いいね〉がつけば、世論が自分の味方だと感じて、犯罪にすら手を染める
まず、国語力のない人は、何かしらの言説に触れた時、周辺の情報を集めたり、因果関係を考えたりして、自らの言葉でそれが信じるに値するものかどうかを判断することが非常に苦手だ。疑って、調べて、判断するだけの力を持ち合わせていない。だから、簡単に情報に騙されてしまう。
今回の事件でいえば、ネットで差別表現を見かけても、きちんと本を読んだり、調べたりすれば、北朝鮮と在日コリアンの違いは簡単にわかるし、コリア国際学園が生徒の半数以上を日本人が占めるインターナショナルスクールであることもわかるはずだ。
しかし国語力のない人は、そんな当たり前のプロセスを踏む力さえないために、目に飛び込んできたほんの数行の情報を頭から信じてしまい、その瞬間に沸き起こる怒りや絶望をそのまま吐き出す。そうやってネットの差別的な言葉は、さらに激しい差別思想によって上書きされていく。
また、国語力のない人は、自分がネット上で見つけた言説を「真実」だと誤認する傾向もある。ネットに書かれている言葉の多くは、マスコミが発信するそれのように裏を取り、校閲が入り、法的にも問題ないとして発信されるものではない。
誤解を承知で言えば、素人が無責任にその時々の感情で書き連ねている言葉が少なくなく、キーワード検索の仕方やSNSの使い方によっては、そういうものばかりが画面上に列挙される傾向にある。なぜ、それを疑いもなく、信じるに値する情報だと考えるのか。
国語力のない人たちは、情報を主体的に読み解く力がないので、ネットの情報をすべて「パブリック」だと考えているのだ。ネットという誰もが閲覧できる空間にある言葉は公的であるからこそ真実であり、Xやインスタグラムのように公共性の高いSNSについても同様の考え方を持っている。
だからこそ、事件を起こした時、太刀川は自らのゆがんだ思想や言葉が間違っているとか、差別思想に染まっているといった認識はなかったはずだ。彼が目にしているネットやSNSの世界では、それは正義なのだ。
ましてやSNSの発言に〈いいね〉がつけば、世論が自分の味方になってくれていると勘違いする。それゆえ、彼はそれに背を押されるように、自ら学校に侵入し、放火事件を起こしたのである。
それは事件後に彼がSNSで発信した言葉からも読み取れる。
「外国人勢力が政界、メディア、ビジネスを支配して外国人犯罪者が実名報道されない今の日本が素晴らしいとは思えない」
このような安直で粗末な言動は、近年の日本人の国語力の衰退を象徴するものとなりつつある。そうした中で、彼らの標的になった人々は、これをどのように感じ、受け止め、前に進もうとしているのだろうか。
後編【ヘイトクライム被害者は日本社会をどう見た? 差別を乗り越える「対話の力」】では、コリア国際学園の側に視点を転じてみたい。
更新:11月21日 00:05