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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第19回 ニコラス・ティンバーゲン(1973年ノーベル医学・生理学賞)

2023年08月01日 公開
2024年12月16日 更新

高橋昌一郎(國學院大學教授)

動物行動学を確立し、ナチスに抵抗し、自閉症の原因を親に求めた天才

ニコラス・ティンバーゲン
ニコラス・ティンバーゲン(1973年)

どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。

天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!

※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。

 

温かく幸福な環境に包まれた少年時代

ニコラス・ティンバーゲンは、1907年4月15日にオランダのハーグで生まれた。

ハーグは、居住者人口では、首都アムステルダムとロッテルダムに次ぐオランダで第3位の都市だが、ビネンホフ地区には国会議事堂と首相官邸、その周辺には官庁や各国大使館などが立ち並び、実質的にはオランダの「政治的な首都」機能を果たしている。

ハーグには、「国際連盟」の主要機関として1922年に「国際司法裁判所」、2003年には「国際刑事裁判所」が設立された。現在のハーグには150以上の国際機関が存在し、世界の「平和と司法の国際都市」ともみなされている。ハウステンボス宮殿やエッシャー美術館でも知られる北海沿岸の美しい都市である。

ティンバーゲンの父親ディルクは、グラマー・スクール(中等教育機関)のオランダ語と歴史の教師であり、中世オランダ語の研究者として著書も数冊上梓している。

母親ヤーネッタも同じ学校の教師で、オランダ語以外に、英語・ドイツ語・フランス語を自由に話せたという。両親とも冗談が好きで、子どもが好きで、何よりも教育熱心だった。夫妻は、生まれてきた5人の子どもたち全員を大学に進学させた。ティンバーゲンは、一家の三男である。

1903年に生まれた長男ヤン・ティンバーゲンは、国家規模のマクロ経済学の「動学的モデル」を最初に確立した経済学者となり、1969年にノーベル経済学賞を受賞する。これまでのところ、兄弟でノーベル賞を受賞しているのは、ティンバーゲン兄弟だけである。

長女ヤコミエンは父親の後を継いでグラマー・スクールの教師となり、次男ディックはハーグのエネルギー庁の長官になっている。

ティンバーゲンよりも8歳年下で、彼と最も仲の良かった末っ子ルークは、フローニンゲン大学の生物学科の教授となったが、1955年に39歳の若さで自殺している。鬱病が原因だったが、当時、すでに世界的な研究業績を挙げていた長男と三男、そして政府の要人に出世していた次男に比べて、自分の才能を悲観したことが要因になったという説もある。

のちにティンバーゲンは、温かく幸福な環境に包まれた幼少時代の思い出を、次のように述べている。

「私たちの両親には、芸術や自然などに関する多彩な趣味を持つ幅広い友人たちがいました。父親からは、絵を描く喜びを教えられました。楽しい休暇になると、田舎に滞在して、皆でスケッチ・パッドを持ち歩いて、何時間も過ごしたものです。それに演劇やコンサート、美術館やアートギャラリーにも、家族や友人たちと定期的に出掛けました」

幼少期から自然に生息する「野生動物」に興味を抱いていたティンバーゲンは、12歳でグラマー・スクールに入学すると、さっそく「オランダ青少年自然研究会(Dutch Youth Association for the Study of Nature)」に入会した。12歳から23歳までの学生たちが「自然」を研究する組織である。

ティンバーゲンは、高校生や大学生たちと一緒にオランダ各地の海浜や砂丘、牧草地や森、そしてオランダ特有の干拓地に出掛けて、「自然」のすばらしさを満喫した。

 

ライデン大学とグリーンランド

高学に入学したティンバーゲンの成績は振るわなかった。というのは、彼がどの授業科目に対しても、単位取得に必要最低限なレベルしか勉強しなかったからである。その代わりに彼が熱中したのは、夏はフィールド・ホッケー、冬はアイス・スケートであり、積極的に参加し続けた「オランダ青少年自然研究会」の活動だった。

とくにティンバーゲンが「異様なほどの興味」を抱いたのは「生きている野生動物の生態」だった。

その反動として、彼は、生物を解剖して体内の構造を分析するような「学術的な生物学」に「嫌悪感」を持つようになった。そのため、彼は「生物学者だけには、決してならないと決心していた」と、のちに述べている。

大学進学の時期が近づいても、ティンバーゲンは進路に迷っていた。父親ディルクは、ティンバーゲンが高校の科目の中では比較的得意としていた歴史学を薦め、長兄ヤンは、経済学のおもしろさを伝えて、社会科学を薦めたが、そのどちらにも乗り気になれなかった。

さて、ティンバーゲン家の友人たちの中に、ライデン大学教授の物理学者ポール・エーレンフェストがいた。エーレンフェストは、ヴェルナー・ハイゼンベルク【本連載第6回参照】、ポール・ディラック【本連載第11回参照】やエンリコ・フェルミ【本連載第12回参照】をはじめとする多くの若手研究者を指導した人物で、彼には「人を見る目」があった。

ティンバーゲンの生物に対する情熱を見抜いていたエーレンフェストは、ケーニヒスベルク大学の友人の生物学者に手紙を書いて、高校卒業後の夏季休暇にティンバーゲンが「ロシッテン鳥類観測所」で過ごせるように取り計らった。

ドイツ東プロイセンのバルト海沿岸にある「ロシッテン鳥類観測所」は、長く続く海岸線とクルシュー礁湖の間に位置する世界初の鳥類自然研究基地であり、ケーニヒスベルク大学によって管理されていた。

「ロシッテン鳥類観測所」の研究者たちの助手として、活き活きとした夏を過ごしたティンバーゲンは、帰国後、「思い切って学術的な生物学に進む」と日記に記している。エーレンフェストが見込んだ通り、結果的にティンバーゲンは生物の世界に飛び込むことにしたわけである。

1925年9月、ティンバーゲンはライデン大学の生物学科に進学した。しかし、やはり老教授たちの授業には落胆するしかなかった。

ティンバーゲンにとって、大学における生物学は「事実のリストの無味乾燥な比較検討」で構成され、息苦しい教室で延々と講義が行われ、脳内で生物について思考するゲームにすぎなかった。

当時のティンバーゲンが憧れていたのは、ミュンヘン大学教授の動物学者カール・フォン・フリッツの研究手法である。フリッツは、長年ミツバチの野外研究を行い、ミツバチがいわゆる「8の字ダンス」でコミュニケーションを行い、紫外線に鋭敏な感覚を持ち、さらに知的で複雑な行動を取ることを次々と発見していた。

そこでティンバーゲンは、「自分の正気を保つため、刺激的な課外プロジェクト」に自発的に取り組むことにした。彼は、生物学科の教授たちの手をまったく借りずに、「オランダ青少年自然研究会」の仲間たちと、課外で独自の研究を進めたのである。

彼は、カモメ科のセグロカモメとアジサシの縄張り、猛禽類やフクロウの行動、浜辺の貝殻の生態などを観察し、それらに関する論文をオランダの自然史雑誌に投稿した。

1930年、大学卒業の年に、ティンバーゲンは3人の同級生と共に、ロッテルダム近郊デビア地域の自然環境に関する著書『フォーゲライ・ランド(鳥の島)』を上梓した。 そして、彼は共著者の一人の妹エリザベート・ルッテンと交際を始めた。

この年の9月、彼は専攻を動物学に変更して、大学院に進学した。動物学科のヴァン・デア・クラウ教授は、ティンバーゲンの課外活動に基づく論文を高く評価し、37歳の若い講師ヒルデブランド・ボシュマの下で研究を続けるように指示した。

1932年にティンバーゲンが仕上げた博士論文「スズメバチの帰巣本能について」は、スズメバチに対する野外研究をまとめた成果だった。スズメバチのメスは、地面に50cmほどの穴を掘って「幼虫室」と呼ばれる部屋を幾つか作り、そこに獲物のミツバチを入れて、卵を産み付ける。生まれた幼虫は、餌のミツバチを食べて成長するわけである。

そこでティンバーゲンが行った野外実験の一つは、スズメバチが巣を掘ると巣の周囲30cmを松ぼっくりで円形に囲み、スズメバチがミツバチ狩りに出かけると、松ぼっくりの円を移動させ、スズメバチが戻ってきたときどれだけ「混乱」するかを調べるものだった。

ティンバーゲンの博士論文は、1932年に「Zeitschrift für Vergleichende Physiologie」(比較生理学研究)に掲載されたとはいえ、それほど抜群の研究成果とはいえなかった。この論文はドイツ語で29ページしかなく、ライデン大学で承認された最も短い博士論文となっている。

ただし、クラウ教授とボシュマ講師が高く評価したのは、ティンバーゲンが、あらゆる条件を制御して昆虫を観察する研究室における実験とは対照的に、「自然」な条件下で昆虫を観察し、その中で1つだけ条件を変える種類の野外実験を多く行ったことだった。この実験方法は、その後の野外研究にも大きな影響を与えた。

さらにティンバーゲンは、ハーグ人類学博物館が「国際極年」(International Polar Year)のイベントとして企画した派遣団の一員として、グリーンランドに向かうことになっていた。そこで、彼の将来性を考慮したうえで、クラウ教授とボシュマ講師は、特別に博士論文を急いで通過させたのである。

1932年4月12日、25歳のティンバーゲンは博士号を取得した。その2日後の4月14日には、20歳のエリザベートと結婚している。「ニコ」と「リース」と呼び合う2人の新婚旅行は、グリーンランド東部の過酷な環境だった。

ここで2人は1年間、イヌイットの集団の中でテントに滞在し、犬ゾリで移動し、オットセイやセイウチを食べた。彼らは、博物館のためにイヌイットの道具や美術品を収集し、ティンバーゲンは、ユキホオジロとアカクビファラロープの縄張り行動を研究した。

1933年9月、グリーンランドから戻ったティンバーゲンは、ライデン大学動物学科でクラウ教授の研究助手として迎えられた。彼は、グリーランドでの体験を多くの写真と共に掲載した『エスキモーランド』を1935年に上梓した。

やがてクラウ教授の代わりに講義も担当するようになったティンバーゲンは、学生に野外研究の重要性を説いた。彼は、動物学科の図書室のドアに「書物ではなく自然を研究せよ」と書いて貼った。

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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