第2次世界大戦が終結すると、ティンバーゲンはライデン大学に戻った。1946年には、アメリカの進化生物学者エルンスト・マイヤーの招きでニューヨークに行き、コロンビア大学で6回の連続セミナーを行った。
帰国後の1947年、40歳のティンバーゲンは、ライデン大学動物学科の教授に任命された。彼は、すでに多くの論文を発表して国際的に知られ、オランダでは異例の若さで教授に就任し、国際的な学会誌の編集者でもあった。家庭的にも4人の子どもたちに恵まれ、何不自由のない生活があった。
ところが、そのティンバーゲンが、2年後の1949年、突然イギリスに家族を連れて移住し、「教授」よりもはるかに地位の低いオックスフォード大学の「講師」となる道を選んだのである。
当時、彼の妻エリザベートは5人目の子どもを身籠っていた。4歳から15歳の4人の子どもたちは、外国語である英語を使う新たな環境に適応しなければならなかった。それでもイギリスに到着した一家は、意気揚々としていたという。
ティンバーゲンを誘ったのは、彼のすばらしい課外研究方法を英語圏に広めるべきだと考えていたオックスフォード大学動物学科長のアリスター・ハーディ教授だった。
もちろんティンバーゲンにとっても、世界最高峰のオックスフォード大学に移籍することは、たとえ地位が下がっても、大きな誇りだったに違いない。
それに加えて、もしかすると彼は、ナチス・ドイツにあっけなく占領されたオランダに失望し、いつ首を吊られるかわからない恐怖の2年間の収容生活を送った国から出て行きたかったのかもしれない。
ティンバーゲンが1951 年に上梓した『本能の研究』は、「動物行動学」の基本的な教科書として、英語圏の動物学界で高く評価され、世界中に翻訳されることになった。ティンバーゲンは、それまでのフリッツとローレンツの研究成果に対する科学的基礎を明確にして、「動物行動学」が「科学」であることを示したのである。
とくに重要なのは、彼が動物の行動に対して、①至近要因(行動を直接引き起こすメカニズム)、②発達要因(行動を習得するメカニズム)、③進化要因(行動の適応についての進化論的な意味)、④系統発生要因(どのような祖先型の行動から進化したのか)のすべてを解明しなければ、「動物の行動」の説明としては不十分であることを立証した点にある。
これは「ティンバーゲンの4つの疑問」と呼ばれ、今でも動物行動学の基礎概念となっている。
1953年には『動物の社会行動』と『セグロカモメの世界』、1954年には『鳥の生活』を上梓し、1958年に野外研究についてわかりやすく解説した『好奇心旺盛な自然主義者』 はベストセラーになった。
1962年、55歳のティンバーゲンはイギリス王立協会フェローに選出され、1966年にオックスフォード大学の教授に昇格した。
ティンバーゲンの下には、世界中から野外研究者が集まり、研究室は活気に満ちていた。『マン・ウォッチング』で知られる動物行動学者デズモンド・モリスやケンブリッジ大学教授となるパトリック・ベイトソン、カリフォルニア大学バークレー校教授となるリチャード・ドーキンスといった著名な学者たちも彼の指導を受けている。
そもそもドーキンスが科学者を志すようになったのは、大学時代の次のエピソードに感銘を受けたからだと述べている。
「あるアメリカ人の生物学者が、オックスフォード大学に招かれて講演した際、こともあろうに、動物学科の著名な教授の理論を公然と反証してみせた。これに対して、当の教授は、講演が終わるやいなやステージに歩み寄り、講演者の手を力強く握り締め、感動冷めやらぬ声で言った。『君に何とお礼を言ったらいいのだろう。ありがとう、私が15年間間違っていたことに気付かせてくれて』...」
ドーキンスを含めて、講堂にいた学生は、手が真赤になるまで拍手を送り続けたという。この「動物学科の著名な教授」というのが、ティンバーゲンだった。
1973年のノーベル医学・生理学賞は、「個体的および社会的行動様式の組織化に関する研究」に対して、フリッツとローレンツとティンバーゲンの3人に授与された。
その授賞講演「動物行動学およびストレスによる病気」において、ティンバーゲンは「私たち受賞者3人は、つい最近まで『単なる動物観察者』とみなされておりましたので、『医学・生理学賞』をいただいて大いに驚いております」と話を始めている。
そして「私たちを生理学者とみなすことはどう考えても無理なことですから、私たち『科学目愛好科』(scientia amabilis)の3人を、非常に幅広く実践的な医学者の一部であるとみなされたものと理解しております」とジョークを交えて語っている。
そこから彼は「これまで古めかしい手法とされてきた『観察と疑問:見て不思議に思う方法』に基づいて『心理社会的ストレスと心理身体的病気』がどのように分析できるかをお話ししたいと思います」と述べて、残りの講演では、さまざまな人間の精神疾患とくに「自閉症」について語り、聴衆を大いに驚かせた。
ここでティンバーゲンは、彼の動物行動学の理論を人間の「自閉症」に適用して、その病因に対する「環境仮説」を提示している。それは、「自閉症」とは、幼児期に母と子の接触関係が不十分であるために子どもが「対人離脱」を引き起こし「コミュニケーション障害」が生じるという仮説である。
その仮説に基づき、ティンバーゲンは「自閉症」の治療として「保持療法」を勧める。ティンバーゲンによれば、「自閉症」を治療するためには、母親は、たとえ子どもから抵抗されたとしてもアイコンタクトを取り続け、さらに長時間、子どもを抱きしめなければならない。
さて、実際にはティンバーゲンの仮説は非常に推測的あるいは感情的に構成されており、とくに「自閉症」が遺伝的および神経的な脳疾患を原因とするという数多くの証拠と矛盾している。
さらに彼の勧める「保持療法」は、経験的に有意な効果がないことが立証されており、場合によっては、逆に子どもが狂暴化して危険な状況に陥る可能性も指摘されている。
というわけで、ノーベル賞受賞直後から、ティンバーゲンは、大いなる批判に晒され、1974年にはオックスフォード大学を辞職した。
晩年のティンバーゲンは、妻エリザベートと「自閉症」研究を続けて1983年に最後の著書『自閉症児:治療への新たな希望』を上梓したが、ここでも治療に「保持療法」を勧めているため、大きな非難を浴びた。その後の彼は引き籠り、家族と少数の友人としか会わなかった。
1988年12月21日、81歳のティンバーゲンは、脳卒中により逝去した。
更新:11月23日 00:05