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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第13回 ヴォルフガング・パウリ(1945年ノーベル物理学賞)

2023年02月01日 公開
2023年03月02日 更新

高橋昌一郎(國學院大學教授)

 

ユダヤの出自

ところで、この年にゾンマーフェルトの助手として赴任したパウル・エヴァルトという遠慮のない人物がいる。彼は、パウリと初めて会った際に「君はユダヤ人かね」と尋ねた。パウリが「違います。僕の父も母もカトリックです」と答えたところ、エヴァルトは「本当かな? 自分の顔を鏡でよく見てみろよ」と言った。

パウリは身長165㎝と小柄で、縮れた黒髪に茶色い瞳、肌の色は少し浅黒く、これらは典型的なユダヤ人の特徴である。夏季休暇にウィーンに帰省したパウリは、自分の出自を両親に問い質し、そこで初めて自分の祖父がユダヤ人であることを知って、計り知れないほどの衝撃を受けた。後にパウリは、この瞬間から「人生の万事が面倒なことになった」と述べている。

内心の傷を隠して、パウリは研究活動に没頭した。彼は、ニールス・ボーア【本連載第4回参照】の原子モデルでは、水素分子イオンの定常状態が説明できないことを立証し、その内容を博士論文としてまとめた。1921年7月、パウリは大学を3年間の飛び級で卒業すると同時に、博士号を取得した。

この年に『数理科学百科事典』が発行された。多くの項目の中でとくに注目を浴びたのが、パウリが執筆した237ページに及ぶ「相対性理論」の解説論文である。

その相対性理論を発見した大御所アルベルト・アインシュタイン【本連載第8・9回参照】は、「この考え抜かれた見事な解説論文を読むと、その著者が21歳だとはとても信じられない。根本的な理解から発想を広げる独創性、数学的に厳密な論理性、物理学全般に関するすばらしい洞察性、主題そのものに対する完全性、多彩な観点に対する批判性……、そのどれもが賞賛に値するとしか言いようがない」と絶賛した。

この解説論文は、この年に単行本「相対性理論」として発行された。第二次大戦後の1958年には英語版に翻訳されて、世界各国の標準的な教科書となった。

 

「排他原理」と「パウリ効果」

1921年9月、パウリはゲッチンゲン大学でマックス・ボルンの助手となり、1922年9月からはコペンハーゲン大学でボーアの助手となった。この2年間に最先端の量子論を修得したパウリは、ハンブルク大学の物理学科に私講師として迎えられた。

1924年、パウリは「二つ以上の電子が同一の量子状態を占めることはない」という「排他原理」を数学的に厳密に立証した。この原理によって、原子内の電子が最も内側の殻に落ち込まない理由や、元素の周期表が成立する経緯が明らかになった。この難解な原理を「パウリの排他原理」と名付けたのは、ケンブリッジ大学のポール・ディラック【本連載第11回参照】だった。

さて、手先の不器用なパウリは、ミュンヘン大学時代から実験が苦手で、何度も実験器具を壊していた。ゲッチンゲン大学では、パウリが近付いただけで実験装置が壊れるという不可解な現象が何度か生じた。

ある日、ゲッチンゲン大学の物理学研究所で原因不明の爆発事故が起きた。慌てて皆でパウリがどこにいるのか探したところ、彼は学会出張中だった。ところが後に、爆発が起こった時刻、パウリの乗った列車がゲッチンゲン駅に停車していたことが判明したのである!

ハンブルク大学では、天文台の完成記念式典が開かれた。パウリは、自分が行くと何かが壊れるかもしれないからと遠慮したが、物理学科の教員全員が招待されたため、やむを得ず同行した。すると、パウリが天文台に入った瞬間、望遠鏡のカバーが落下して粉々に砕けたのである。この事件以来、パウリが接近すると実験装置や機器が破壊される現象は「パウリ効果」と名付けられた。

ハンブルク大学物理学科のオットー・シュテルン教授は、後に陽子の磁気モーメントの測定を行なって1943年にノーベル物理学賞を受賞する実験物理学者である。彼は、「パウリ効果」を本気で信じて怖れおののき、自分の実験室には絶対にパウリを入室させなかったという。

 

酒と売春街

不吉な「パウリ効果」ばかりでなく、なぜかパウリには周囲を困惑あるいは不愉快にさせる一面があった。有名なのは彼の毒舌で、他者の発表や論文の間違いを徹底的に追及した。ある論文に対して「この論文は間違ってさえいない(その判断以前の低レベルだ)」と述べて、著者を深く傷つけたこともある。パウリの批判を「物理学の良心」と擁護したのは、ハイゼンベルクのような限られた抜群に優秀な研究者たちだけだった。

パウリは、次第に酒に溺れるようになった。当時の彼が書いた手紙には、次のように記されている。「僕には酒が必要だ。シャンパンとワインのボトルを空けた後、周囲の連中に酒を奢ると(酔っていなければ、他人に奢ることなど絶対にないが)、皆が僕を好きになってくれる。とくに周囲にいるのが女性だと嬉しいね」

さらに彼は、大学関係者の誰にも秘密にして、売春街に通うようになった。彼が深い関係を持った女性たちの中に、2歳年下の金髪女性がいた。パウリは、彼女がモルヒネの常用者であることを知って、即座に手を切った。ところがパウリは素性を隠していたにもかかわらず、彼女はなぜか彼の居場所を探し当てて、大学の研究室に訪ねてきた。金を無心するためである。パウリは激怒して彼女を追い返したが、内心では恐怖を覚えていた。

1927年の秋、パウリの父親ヴォルフガングが家を出るという事件が起きた。彼も息子と同じかそれ以上に女癖が悪かったが、聡明な妻のベルタは、夫がウィーン大学教授の体面を保てるように我慢を重ねてきた。

ところがヴォルフガングは、今回は息子と同年齢の彫刻家マリア・ロットラーと恋に落ちて、完全にベルタを捨てて出て行ってしまったのである。悲嘆にくれたベルタは、11月15日に服毒自殺した。この事件も、パウリの精神を大きく傷付けたとみなされている。

 

1年に満たない最初の結婚

1928年4月、28歳のパウリは、スイスのチューリッヒ工科大学理論物理学教授として招聘された。5月には、カトリック教会を脱退した。長年悩んだ末に、彼は自分がユダヤ人であることを受け入れたのである。

パウリの妹ヘルタは、ベルリンのマックス・ラインハルト演劇学校を卒業して、劇団に所属していた。パウリは、数年前に妹に紹介された22歳の女優ケーテ・デップナーと、出版社のパーティで偶然再会した。

二人は情熱的な交際を開始して、1929年12月に結婚した。ただし、彼らの結婚は衝動的すぎて、長続きするはずがないというのが周囲の評判だった。

事実、若いケーテは、ハンブルク大学化学科の若い研究者パウル・ゴルトフィンガーに恋して、家を出て行ってしまった。パウリとケーテは、結婚から1年もたたない1930年11月に離婚している。

パウリは、「たとえば闘牛士のように太刀打ちできないような男ならばまだしも、どこにでもいるような二流の化学者に妻を盗られるとは……」と自嘲した。

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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