2022年02月23日 公開
ドイツとの戦いに苦慮するチャーチルにとって、アメリカのヨーロッパ戦争への参戦は是が非でも実現したかった。しかし、アメリカの世論は非参戦に傾いていて、このままでは盟友ルーズベルトも動けない。行き詰まったチャーチルは、数々の陰謀を仕掛けた――。
※本稿は、渡辺惣樹著『第二次世界大戦とは何だったのか 戦争指導者たちの謀略と工作』(PHP研究所)を一部抜粋・編集したものです。
フランクリン・ルーズベルト大統領(FDR)は、英国の対独宣戦布告直後の1939年9月11日、当時まだ海軍大臣だったチャーチルに、「これからのことは何でも直接自分に相談してほしい」と秘密の暗号電を打っていた。FDRは、カウンターパートであるはずのネヴィル・チェンバレン首相の頭越しに一介の大臣と交信を始めていた。
首相を飛び越えての異常な外交でありながら、「かくして私たちの交信ははじまり、双方の通信は約1000通に達し、5年余り後の彼(FDR)の死まで続いたとチャーチルは自著の中で自慢する。
2人がこの日から米国参戦実現のための密議を凝らしたことは間違いない。そのことは、米駐英大使館の暗号解読事務官タイラー・ケントが突然に逮捕されたことでわかる(40年5月20日)。
2人の謀議の内容に驚愕したケントが、その内容を公にしようとした直前に英国官憲に拘束された。米国は彼に外交官不逮捕特権を行使させず、英国は非公開裁判で彼を有罪として収監した。
ケント逮捕は、この日のわずか10日前に首相の座に就いたチャーチルが直接指令したことは間違いない。
チャーチルは、秘密の交信を通じて米国の近い将来の参戦を確信していた。しかし、彼には気にかかることがあった。
1940年は大統領選挙の年であった。民主党のFDRは3選をめざしていたが、彼の人気は陰りを見せていた。
また米国民のほとんどは、第一次世界大戦への米国の参戦は失敗だったと考えていた。
米国民はFDRの3選立候補にも疑念をもち、3選禁止の不文律を守るべきだとも考えていた。FDRの物言いには、ヨーロッパの戦いに参戦したいとの思いが滲んでいた。国民は袈裟の下の鎧を見ていたのである。国民の嫌がる戦争を始めようとする政治家の人気が上がるはずもなかった。
だからこそ、チャーチルは米大統領選の行方が気がかりだった。彼は、FDRの3選を実現させるためにあらゆる支援を惜しまないと決めていた。そして同時に、万一(FDR敗北)の場合にも備えなくてはならなかった。
11月の選挙で共和党大統領が誕生すれば、FDRが強引に進めようとしている軍船・航空機・戦車などの軍需品の供給も、米海軍による英国貨物船団護衛行動も期待できなくなる。そうなればチャーチルは、ヒトラーとの敗北的講和も覚悟しなくてはならない。
共和党の有力候補には、ハーバート・フーバー元大統領、ロバート・タフト上院議員、トーマス・デューイ検察官(ニューヨーク市)らがいた。いずれも党是であるヨーロッパ問題の非干渉を訴えていた。
チャーチルらの対独強硬派は、仮に共和党大統領が生まれても、軍事支援だけは可能にしなくてはならないと決めた。そのためにはまず、英国の「息がかかった」候補を担ぎ出さなくてはならなかった。
チャーチルは、その難しい作業をフィリップ・カー駐米大使らに命じていた。彼らが白羽の矢を立てたのは、ウェンデル・ウィルキーなる男だった。前年(39年)までは民主党員であり、一度も公職についたことのないニューヨーク市の法律家だった。後になってわかるのだが、彼は相当な英国大好き人間であった。
更新:11月21日 00:05