2019年09月19日 公開
この秋の10月22日、「即位礼正殿の儀」が行なわれ、皇位継承問題に関する有識者会議も開かれるなど、日本人があらためて皇室について考えるべき時期となっている。皇室の稀有なる歴史を、われわれはいかにして学び、再認識すべきなのか。
※本稿は、宇山卓栄著『世界史で読み解く「天皇ブランド」』(悟空出版)より一部抜粋・編集したものです。
天皇の価値は歴史的に3つの要素により、形成されてきました。それは「外交」「政治」「文化」です。
古来、日本は「天皇」の称号を持つ君主を戴(いただ)き、中国皇帝に対抗しました。
アジアでは、朝鮮王などの各地の王を、中国皇帝が従えていました。天皇は中国皇帝の支配下の王ではなく、王よりも格上の「皇」として、中国皇帝と対等の存在であり、日本の主権を守ってきました。
これが3つの要素のうちの「外交」です。
明治時代、福澤諭吉が「わが国の皇統は国体とともに連綿として外国に比類なし」(『文明論之概略』1875年より)と述べたように、日本の皇統は古代から現在に繫がる一貫性を持ちます。
諸外国では、しばしば有力者によって王統が廃絶させられ、取って代わられ変乱や革命に巻き込まれました。
18世紀末のフランス革命で、民衆は国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを殺し、その後、ナポレオンがならず者を率い、ヨーロッパを荒らし回り、混乱に陥れました。
わが国は天皇の永続性により、無用な混乱もなく、長い歴史の中で国家の安定を維持できました。
日本では、中世以降、源平の政権から徳川の江戸幕府に至るまで、武人政権が世俗権力を握りましたが、皇統が神聖不可侵であることをよく理解し、天皇によって委託された政権を預かるということを前提として、天皇を唯一の主権者と仰ぎ、その立場を変えることはありませんでした。
天皇が日本の社会安定に果たした役割は極めて大きいと言えます。
これが3つの要素のうちの「政治」です。
諸外国では、血で血を洗う宗教戦争が絶えませんでした。
日本で、大規模な宗教戦争が起こらなかったのは、天皇が大神主を務める神道が日本人の心に浸潤し、異端的な宗教が勃興したとしても、負の影響を最小限に食い止めることができたからです。
神道という大らかな精神文化を司る祭祀者としての天皇は抗争を調和へと導き、日本人は天皇の宗教的威厳を崇敬することにより、一体化できました。
これが3つの要素のうちの「文化」です。
これら3つの要素のすべてを兼ね備えた君主が世界史の中に存在したでしょうか。世界史の奇跡とも言うべき天皇、それがわれわれ日本人の変わらぬ君主なのです。
多くの外国人が天皇について疑問に感じることは、なぜ天皇は「キング」ではなく「エンペラー」なのか、ということです。そもそも、欧米人は天皇をいつから「エンペラー」と呼びはじめていたのでしょうか。
現在、世界で「エンペラー(emperor:皇帝)」と呼ばれる人物はたった一人だけです。それは日本の天皇です。
世界に王は多くいるものの、皇帝は天皇を除いて、残っていません。
国際社会において、天皇のみが「キング(king:王)」よりも格上とされる「エンペラー」と見なされます。
「天皇」は中国の「皇帝」と対等の称号で、「キング」ではなく、「エンペラー」であるのは当然だと思われるかもしれません。
日本人にとって当たり前の話ですが、欧米人もこうした経緯を理解して、「エンペラー」と呼んでいたのでしょうか。
一般的な誤解として、天皇がかつての大日本帝国(the Japanese Empire)の君主であったことから、「エンペラー」と呼ばれたと思われていますが、そうではありません。
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時よりもずっと前に、天皇は欧米人に「エンペラー」と呼ばれていました。
江戸時代に来日した有名なシーボルトら3人の博物学者は、長崎の出島にちなんで「出島の三学者」と呼ばれます。
「出島の三学者」の1人で、シーボルトよりも約140年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。
ケンペルは1690年から2年間、日本に滞在して、帰国後、『日本誌』を著します。
『日本誌』の中で、ケンペルは「日本には2人の皇帝がおり、その2人とは聖職的皇帝の天皇と世俗的皇帝の将軍である」と書いています。
天皇とともに、将軍も「皇帝」とされています。
1693年頃に書かれたケンペルの『日本誌』が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。
更新:11月22日 00:05