2016年02月26日 公開
2017年03月22日 更新
——それにしても、戦争で失った領土を外交交渉で返還してもらうのは、困難を極めるのではないのかなと思うのですが。
東郷 沖縄は北方領土や竹島とは背景が違います。ソ連(当時)の立場からすれば、北方領土は占領したわけですから、もう自分のものになったと考えています。また、竹島は1954年に韓国が実効支配します。韓国は、もともとこの島は始祖の時代から韓国のものだと主張しています。とくに実効支配を確立してからは、自分たちの主張は揺るぎないというわけです。
沖縄の場合は、2つの事例と違います。それはサンフランシスコ平和条約に遡ればわかります。日本が領土放棄した朝鮮、台湾、千島などを明記した第2条と違い、第3条においては日本による領土的主権の放棄を規定していません。そこでは、沖縄を国連の信託統治にする。国連の信託統治ができるまでのあいだ、アメリカが施政権を行使するということが決められました。したがって、日本の主権がなくなったわけではありません。
ちなみに尖閣諸島については、沖縄の返還協定を結んだときに日本の主張によって返還の範囲を緯度、経度で示しました。そのなかに尖閣も入っています。ここから尖閣諸島が日本領だという強い根拠が1つ生まれているわけです。
さて、沖縄については日本は主権は失ってはいない、しかし行政権はアメリカが行使する、この状態を、「潜在主権」が日本にあると表現されるようになります。第2条で日本が主権を失った地域との関連で議論される問題と、潜在主権が日本にもともと残った第3条とのあいだには大きな差があって、いずれかの時点で潜在主権は戻ってくるというふうに日本は考えていたのです。
ただ、それをいつ、どういうふうにやるのかは、そのときの国際情勢のなかで考えるしかない。アメリカの施政権を外して日本の施政権に移すわけですから。アメリカからすればアメリカに移行した島が、今度は日本が使うことについては利害が絡む。アメリカが引き続き維持したい基地をどうするかという問題もある。それはアメリカにとっても大きな政策転換です。いずれにせよ、北方領土や竹島とはやはり事情が違うのです。
——なぜ若泉敬先生が沖縄返還交渉の舞台裏の舵取りとして選ばれたんでしょうか。
東郷 それはわかりません。ただし若泉敬の書いたものをいろいろ読むと、リアルポリティックスに基づいた思想が基盤になっています。当時の学者は、戦後丸山眞男に代表されるいわゆる中道左派系統の人たちが学界の中心でした。軍部の戦争主導により日本は塗炭の苦しみを味わった。実際それは否定できません。それゆえ、平和憲法の象徴である憲法9条のいちばん純粋な解釈論が、一時強くなるわけです。もう日本はあんな戦争を2度としないということのためにリベラルな平和主義が「世論」の中核になっていく。安全保障でいうと非武装です。サンフランシスコ平和条約に関しては、単独講和と全面講和で国論が割れます。現実主義の立場からいえば、米ソ冷戦時代にアメリカ側に付くか、ソ連側に付くかという選択で両陣営に付くというのは現実的ではありません。しかし、「世論」の多くは、全面講和と非同盟に流れていくのです。
戦後の日本は、こうやって、リベラルな理想論に傾きます。しかし、現実の世界は朝鮮戦争が勃発し、中国が参戦しアメリカと中国は本当に戦うわけです。全面講和となると、実際問題、日本は平和条約を結べない。そこで、吉田内閣の英断でサンフランシスコ平和条約を締結し、西側陣営として日本は歩み始めます。けれども、朝鮮戦争が収まったのちも非同盟、非武装、全面講和は1つの勢力でした。一方、若泉敬は全然そうではなかった。今日の国際関係においても違和感のないリアリズムを唱えています。やはり国際政治の根っこはパワーバランスだということです。日本がこれから生き延びていくためには、きちんとしたパワーをわきまえて外交をやらないといけない。ただし、戦後の日本がもっているある種の平和主義も、現実のパワーバランスのなかで生かすにはどうしたらいいかを考えてもいます。まったく理想主義的な側面を否定したわけでもないのです。
若泉敬のような立場の、つまり外務官僚ではない人が外交交渉のなかで、どうして活動できたのか。これは彼の思想が政府がもっていたリアリズムと共鳴し合ったということに加え、人柄というか、人間的な魅力がベースにあり、人を説得する力をもっていたということもあるでしょう。ある種のカリスマ的な魅力が、日本人に対してもアメリカ人に対しても共感をもたれたのかもしれません。
——若泉敬先生は全方位平和外交というようなスタンスを唱えられていますが、いわゆる等距離外交とは違う考え方ですね。
東郷 全方位平和外交という言葉が盛んに使われるようになるのは田中角栄政権のころだと記憶しています。沖縄問題が一段落し、次の課題が中国との国交正常化でした。国内も中華民国(台湾)か、中華人民共和国かで分裂します。結局、1972年ニクソンの中国訪問で米中の雪解けがあり、その後日中の関係が回復します。そういう意味では、どこの国とも仲良くするというのとは違い、現実的な選択をしたということでしょう。
若泉敬と東郷文彦に共通しているのは、こうしたパワーポリティックスに対する考え方であり、先ほども指摘したように、「自主独立」と「能動的国益」とでも呼ぶべき、日本の国益は自らの判断で状況変革的につくりあげていくのだという強烈な意識です。
沖縄については、自らの責任において日本としてきちんと処遇していかねばならないという信念でした。パワーポリティックスという観点から世界を見たとき、2人が生き抜いてきた冷戦時代は、米ソの核対立が世界に激しい緊張をもたらし、巨大な核兵器の均衡によって世界の安定が保たれていた。東郷文彦は価値を共有するアメリカに対し、日本の立ち位置をより強固にすることによって日本と世界を変えようとし、そこから沖縄返還に取り組んだ。
若泉敬は核保有能力は持つが、核を持つことをしない国のリーダーになることにより、日本の国際社会における自立的な地位を高めることに取り組みながら、「これなくして戦後は終わらない」といわれた沖縄の返還という課題にのめり込んでいったのです。
更新:11月25日 00:05