2015年11月18日 公開
2022年10月05日 更新
なんという怖い人だろう——。それが、いまから35年前に松下政経塾の2期生として学んだ私の、松下幸之助塾主への率直な印象である。
たとえば、年度末の「成果発表」の場でこんなことがあった。ある塾生が1年間の研究・実践活動の成果を発表したときのことである。聞き終えた松下塾主は、「君らには猫に小判だった」と厳しい叱責を下されたのだ。政経塾の塾生のためにいろいろなことを教えてくださった方々、研修先の方々、さらに政経塾という「自修自得」の環境、それらすべてをおまえたちは無にしてしまったという「完全否定」である。塾生はもちろん、顔面蒼白だ。助け舟もいっさい出さず、ひたすらに叱りつける松下幸之助塾主の形相は、世間がイメージする「経営の神様」とは一線を画するものであった。
これほど怖い人には会ったことがない、と思った。そしてその思いは、あれから長い年月を経たいまでも変わらない。逆にいえば、あんな若いころに、もっとも怖い人にお会いできたからこそ、その後は誰かに会って「怖い」と思うことがなかったのであろう。
松下幸之助塾主の「怖さ」は、そこまで本気で塾生に対峙してくださったからこそだと、いまにして思う。
松下政経塾は、1979(昭和54)年に松下幸之助塾主が、自らの私財70億円を投じて設立した私塾である。日本の将来を真剣に憂えていた松下塾主は、身命を賭して日本のために働く真のリーダーを養成したいと考えておられた。「リーダーたるものが、そんなことでどうする」——塾主の思いは限りなく高かった。
塾生に同情する余地もある。海のものとも山のものともわからなかった当時の松下政経塾の門を叩いた20代・30代の青年は、もちろん社会に貢献したいという願いを胸に抱いていたが、同時に若さゆえの名誉欲や出世欲があったことも否定できない。いわば欲とパブリックマインドが織り交ぜになった塾生と、つねに日本の現状を憂い、21世紀のあるべき日本の姿を思い描いていた松下塾主とのあいだでギャップが生じるのは仕方がない。それでも松下塾主は、極限まで追い詰めて、なおのし上がらんとする人間でなければ、国家を運営するリーダーには相応しくないという気持ちで、塾生を叱っておられたのであろう。きっと歯がゆかったに違いない。しかし一方で、けっして塾生を放ってはおかなかった。まさに真剣かつ真実の慈愛であった。
松下政経塾の研修方針は、「自修自得」である。国家百年の大計をつくり、実践者になるために、自らファクト(事実)に基づき論理を組み立てなければならない。ハーバード・ビジネス・スクールのような体系的で効率的な教育を期待して入塾した者にとっては、その精神は、あまりにも想像と乖離していて戸惑わされるものだった。じつは、私もそう感じた1人である。
しかし、その後、オックスフォード大学などにも足を運び、その教育体系に触れて初めて、松下幸之助塾主が訴えたかったことがわかった気がした。たとえばオックスフォードなどで学問体系の最上位にあるのは神学であり、哲学や歴史であり、ロースクールやビジネススクールのような実学は、その下に位置付けられる。当時、塾生たちが期待していたのは、すぐに役立つ「実学」的な教育であったが、しかし、松下塾主が伝えたかったのは「人間観」や「国家経営」などといった、いわば哲学や歴史観にあたるようなものだったのである。
しかも松下塾主はじつに平易な言葉でそれらを語る。実践経験を多く積んだ人であれば、「人情の機微こそが大事だ」といわれて悟るところもあっただろうが、われわれ当時の塾生には、残念ながら「猫に小判」だった。いまなら松下塾主の精神をつかみ、誰かに翻訳して伝えることもできるかもしれないのに、と口惜しく思う。
松下幸之助塾主の政治ビジョンは、「無税国家」「新国土創成」「政治の生産性の向上」など独創性に富んだものであり、けっして日本で十分に理解されたとはいえない。
だが、そのような考えを力強く実践した指導者たちが、アジアにはいた。改革開放を行なって中国の経済成長を築いた小平はその1人だろう。かつて人口6万人の寒村だった深センは、わずか20年で人口1000万人超の一大工業地帯へと成長した。このような成長は世界でも過去に例を見ない。小平は、当時の中国において「新国土創成」を実践したといっていい。
もう1人は、シンガポールの初代首相リー・クアンユーである。彼は、1965(昭和40)年にマレーシア連邦から追い出されるように独立し、資源も水も土地もなかったシンガポールを、アジアで最も豊かな国へと変えた。いまや、シンガポールの1人当たりの個人所得額は日本の2倍である。シンガポールは無借金で、経常収支の黒字分をプールしては2つの国家系ファンドで運用している。両ファンドの合計資産額は30兆円と、GDP約37兆円に迫り、平均利回りは1割超と驚異的だ。その結果、相続税はなし、法人税率17%、所得税率20%と各種税率は低水準にある。リー・クアンユーは、まさに「無税国家」を創り上げたのだ。
松下哲学の要諦を一言でいえば、「人間大事」であろう。簡潔にいえば、人間を物として見るのではなく、人間の本質を見ること、人間のもつ無限の可能性を信じることである。松下幸之助塾主の人間観や物事の考え方の底流には、つねにこの考え方が据えられている。小平やリー・クアンユーが大きな業績を挙げることができたのも、やはり人間の本質を理解し、人間の無限の可能性を信じつつ、困難に果敢に挑んだからであろう。
ところが、いまの日本において、松下幸之助塾主の「人間大事」の哲学が十全に受け継がれているとは言い難い。松下幸之助という存在がこの20年間なおざりにされてきたがゆえに、独自の人間観に基づいて理想を追求していく姿は、日本においては、ある意味で「孤高の人」ともいえるものだったかもしれない。
私は松下政経塾を卒塾後、数々の紆余曲折を経て経営と向き合ってきて、ようやくいま松下塾主の考えや言葉の意味が身に染みてわかりはじめたように感じている。あのとき松下塾主が真剣に講義してくださったことを、1人の語り部として紹介することで、少しでも松下塾主に恩返しできるなら、これに勝る喜びはない。
このたび松下政経塾との共同企画により、松下政経塾内で収録された生前の幸之助氏の秘蔵映像が、インターネット動画メディア『10MTV(テンミニッツテレビ)オピニオン』にて配信開始されることとなった。今回の映像には、幸之助氏が険しい表情を浮かべて経営観や人生哲学を語る姿も収められている。本映像を通して松下幸之助塾主の“透徹した理想”の一端を味わっていただければ、まことに幸甚である。
松下幸之助が84歳の時、リーダー育成のために創設した私塾「松下幸之助塾」。今回、塾内で収録された生前の幸之助映像をメディアに初公開する。幸之助が提言した「無税国家」や「新国土創世」への思いなど見どころ満載!インターネット動画メディア『10MTV(テンミニッツテレビ)オピニオン』で順次、配信開始。
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更新:11月21日 00:05