2014年12月26日 公開
2023年01月30日 更新
《『Voice』2015年1月号より》
福島のありのままを伝えたい
――原発事故が風化の様相を呈している
『前略おふくろ様』『赤ひげ』『勝海舟』『北の国から』……。心に深く残るドラマを手がけ、テレビドラマ黎明期を牽引してきた脚本家の倉本聰氏。倉本氏はいま、テレビの世界に見切りをつけ、富良野(北海道)を本拠地に、劇団を立ち上げ、独自の舞台活動を精力的に行なっている。
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故で被害を受けた福島の現状について書き下ろした演劇作品を引っさげて、2015年、全国を巡る。人の心を動かす台詞の数々はどこから生まれてくるのか、そして倉本さんを駆り立てているものはいったい何なのか。
<聞き手:五十川晶子(編集者/フリーランス・ライター)>
――いまの40代、50代の人たちは子供のころから思春期にかけて、年がら年中テレビを見ていた世代ではないかと思います。私も倉本聰さんのドラマを見て育ったようなところがあり、『赤ひげ』や『勝海舟』、ちょっと毛色の変わったところで『浮浪雲』も拝見しました。
倉本 『浮浪雲』は、時代は幕末なのに、妙なちょんまげ姿の渡哲也さんが時代考証も無視してピンクレディーの曲を歌うなど、いま振り返ると、ずいぶんと滅茶苦茶な設定でした。1974年にNHK大河ドラマ『勝海舟』で渡さんが病気のため降板して、テレビに復帰した直後のドラマだっただけに期待度も高かった。制作過程は私も楽しかったですし、役者も遊び心をもって演技に臨んでいました。
そんな現場の和やかな雰囲気が作風にも反映したのか、一部の視聴者からの評判は良かったのですが、大衆的に支持されたかといえば、視聴率だけで判断すると難しかった。
――倉本さんの書かれたドラマを見ていると、役柄と演じる役者の人生がシンクロしていることが多いように思います。視聴者の立場からすれば好奇心を刺激する要素になりますが、ドラマをヒットさせるための作戦なのでしょうか。
倉本 僕の場合、役者をじっくり観察したうえで脚本を書くので、実際の役と演者の性格とがシンクロしているように感じるのは当然かもしれません。役者の長所だけを捉えても、面白いと思ってもらえるストーリーは書けないんです。むしろ欠点(コンプレックス)を捕まえて、それを炙り出すような役を配することで、役者の個性に繋げています。最終的に役者の欠点が、ドラマの魅力を引き上げる要因になるのです。
そういう意味では、八千草薫さんや若尾文子さんの場合は非常に書きにくかった。彼女たちのような欠点を表に出さないタイプの役者とは、じっくり時間をかけて付き合う必要があります。一緒に食事をして普段どんなことに興味関心があり、悩んだりするかを聞き出す過程を経て、ようやく役者を生かせるストーリーを書ける状況に行き着きます。
――役者さんたちは、きっと倉本さんに自分の“欠点”をいくらでも引き出して、膨らませてほしいと思っていらっしゃるでしょうね。
倉本 じつは僕の場合、役者からのオーダーで書いた脚本のほうが多めです。
ショーケン(萩原健一)のドラマ(『前略おふくろ様』など)はそのパターン。 彼の場合はいい意味で“欠点だらけ”だったから、非常に書きやすかった(笑)。珍しいパターンですが、僕はできるだけ彼の欠点を隠す努力をしましたね。そのほうがショーケンの魅力が滲み出るのです。
――先ほど名前の挙がった八千草さんや若尾さんに見出した欠点とは、どういうものでしたか。
倉本 それは……企業秘密です(笑)。あと、気になる役者が出演するドラマは見ないようにしていますね。むしろインタビュー番組に出演したときの受け答えや、クイズ番組にゲスト出演している際の身体の癖や素に近い言動を見て、「あ、こういう性格なのかな」と役柄のヒントを掴むことが多いんです。
――1981年に初放送された『北の国から』シリーズは、なんと21年間にもわたって放送され、日本を代表するロングヒットドラマとなりました。移り気な視聴者の気持ちを引っ張り続けられた理由はどこにあるのでしょうか。
倉本 連続ドラマ(1981年10月9日~1982年3月26日)での最初の数話は視聴率でいえば14%、15%とあまり高くはなかったのですが、回を追うごとに尻上がりに推移して、最終回では20%を超えました。その後は2、3年おきにスペシャル編をつくり、吉岡秀隆さんや中嶋朋子さんという二人の子役が成長して高校生になった『北の国から '87初恋』で、いきなり30%の大台を超え、ブームに火がつきました。
――『初恋』で視聴者層が大きく変わったのでしょうか。
倉本 中嶋朋子さんと吉岡秀隆さんがリアルタイムで大人になっていく時間の経過を視聴者も共有していた。それが堅調に視聴率を維持できた要因ではないでしょうか。
じつはあの時期、彼らの親御さんに年中電話をして、彼らの実人生のリアルな様子をこっそり聞いていました。「恋人に振られた」「友人関係で落ち込んでいる」など二人に実際に起きたことを、ドラマが放送していない期間の役柄づくりに投影させました。
――現実世界での裏付けがあって、リアルな設定が生まれてきた。一人一人のキャラクターが膨らむことで、ドラマ全体が生き生きとしますね。
倉本 ただ、これは諸刃の剣でもあり、シリーズが継続しているあいだに亡くなる方が出ると成立しません。実際、大滝秀治さんや地井武男さんが亡くなってしまい、その瞬間ドラマの役も死んでしまった。『北の国から』シリーズを続けたいと思っても続けられないのです。
――倉本さんご自身が、1977年を境に東京から富良野に本拠地を移されました。富良野は『北の国から』ほか数々の名ドラマが生み出されるきっかけとなりました。
一方で、テレビの仕事を続けるにあたり、東京との距離も長く、不都合を感じませんでしたか。
倉本 富良野に活動拠点を移したことに対しては、それほどシリアスに考えていませんでした。食えなくなっても、「いざとなればトラックの運転手をやろう」と(笑)。知人に勧められた理由のほかに、富良野の景色や匂いなど魅力的な環境に惹かれたことが大きいですね。
――1984年にはその富良野に、私財を投じて若い俳優と脚本家を養成するための「富良野塾」を開設し、26年間、主宰されました。現在は「富良野GROUP」という形で、「富良野塾」のOB・OG等を軸に演劇公演を続けていらっしゃいます。舞台を拝見して驚いたのは、役者たちの逞しい身体です。
倉本 農作業を通して筋肉が付いたからでしょう。塾生たちは富良野市から20km離れた場所で共同生活をするかたわら、生活費を稼ぐために地元の農家で農作業を手伝います。3カ月もあればだいたい男は痩せて、筋骨隆々になります。女性は逆に太る傾向があり、3カ月で12kg太った塾生もいました。特殊な環境になると、女性は子孫を産むように脂肪が付きやすい体に変化するのかもしれません。
――農作業のあとに、芝居の稽古をする環境は、体力的にそうとうきついですね。
倉本 若者だけでなく、僕にとっても非常に過酷な日々でした。当時、つねに連続ドラマの仕事を抱えていたので、二足、三足のわらじ状態で、富良野と東京を行ったり来たりする生活はしんどかったですね。若いから乗り越えられたのであって、いまならもうできませんよ(笑)。それでも「これをやらなくては」と自分を駆り立てていたものは、昨今のテレビコンテンツに対する抵抗心です。
いまのテレビには、僕らがつくり上げた時代のテレビの姿は見る影もありません。昔のテレビは、家庭に溶け込んでいた存在でした。家庭には多種多様なかたちがあり、寝たきりの病人がいる家庭もあれば、幼い子供のいる家庭もある。先輩たちから「内輪の空間にテレビが踏み込むのだから、暖簾をそっと開けて、『お邪魔します』って小声で囁きながら入るつもりで番組をつくれ」と教わったものです。
昔に比べて最近のテレビは、土足で騒がしく音を立てて入り込んできて、居間にドーンと居座っている印象があります。無礼の極みという気がして、見ていられません。そういう悔しい思いが、自分のなかで次第に強くなってきたのです。
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更新:11月21日 00:05