2013年04月09日 公開
2023年05月24日 更新
《 『Voice』2013年1月号より》
百田尚樹さんといえば、いまではミリオンセラーとなった『永遠の0』(講談社)の作者としての顔を思い浮かべる人が多いのではないか。「関西の化け物番組『探偵ナイトスクープ』を担当する放送作家を長年続けながらも、50歳にして小説家としてもデビューした、あの人かぁ」と、どこかでインタビューを受けている姿を見かけた人も割といるのかもしれない。
その百田さんが新たに書いた、事実を基にした新作小説 『海賊とよばれた男』(講談社)が、またまたよく売れ続けている。国のため、仲間のために命を懸ける人たちの物語という点では、明らかに『永遠の0』にも通じるところがある、百田節全開の小説だ。
最近では、論壇誌にもちょくちょく登場しては自説を伝える百田さん。『永遠の0』『海賊とよばれた男』、論壇での発言の3つに通底する「憂国」について、今回はたっぷり語っていただいた――。
<聞き手:木村俊介(ノンフィクションライター) 写真:Shu Tokonami>
木村 すでに21万部突破のヒット作『海賊とよばれた男』は、石油などを精製、販売するほかにさまざまな事業を手がける国内企業・出光興産の創業者、出光佐三という実在する人物の生涯を下敷きに書かれています。なぜ、彼を小説に書きたいと思われたのですか?
百田 いま書かなあかんと思ったんです。とにかくいまの日本人に彼の生き方をみてもらいたい。それだけ。
この日本は、バブルが弾けて以降、もう長いこと、国民全体が自信を失っていますから。暗いじゃない? しかも2011年、東日本大震災があって、あそこでもう、壊滅的に「もうダメだ」という思いが国土を覆ったような気がした。だからこそ、出光佐三という男や彼と同じ時期に立ち上がった多くの人たちのことを知ってもらいたかった。戦争で負けて、国民のうち300万人もが命を失い、千数百万人もが失業者になった。その人たちって……会社はない。住む家はない。もちろん、カネもない。コメもない。戦前から築き上げたほとんどの資産を失ってしまったという、そんななかから立ち上がるって、考えられます? 欧米に追いつくなんて絶対に考えられもしない状況でしたよね。しかし、日本はそこからたった20年で追いつき、追い越したわけですからね。
本書で中心に据えたのは昭和28(1953)年に起きた「日章丸事件」です。この事件が起こる2年前、半世紀にわたってイギリスに石油資源を搾取され続けたイランが製油所の国有化を宣言し、イギリス資本を追い払います。怒ったイギリスは巨大な国際石油メジャーと結託してイランを経済封鎖し、国際的に孤立させます。このとき、出光佐三がイランへタンカーの日章丸を派遣し、見事イギリス海軍の海上封鎖を突破して、日本に石油を持ち帰ったのが「日章丸事件」です。出光佐三は小説のなかでは、国岡鐡造という名で登場してもらいました。彼がいなければ、日本のエネルギー業界はどうなっていたのかわからない、というほどの仕事をやり遂げる。彼のような大人物があちこちにいて、日本は復興したわけです。
木村 日章丸事件を知ったきっかけは、何でしたか?
百田 もともとテレビの仕事をやってきまして、テレビの作家とも交流がずっとあった。そんな同業者の一人、ある女性がたまたまテレビ番組の「世界を驚かせた知られざる日本人」みたいなコーナーでいろいろ事件を探していたんです。そのときに見つけたものの一つが、日章丸事件だった。その彼女と雑談していたときに訊かれたんです。この事件を知ってますか、と。何それ、聞いたこともないというと説明してくれたけど、最初に聞いたときはガセネタかと思った。何かのフィクションと勘違いしているんじゃないか、と。僕も割と長く生きてきて、テレビの仕事もずっとやってきてたので、そんな大事件があったならどこかで自分のアンテナに引っかかったはず。知らないんだからなかったのだろう、と。
でも、彼女が「ほんとうです」というので自分なりに調べてみたら……実話だったんですよ。驚きました。
木村 それで、小説に書きたいと思われたのですか?
百田 いえ、「すごい事件があったんや」とは思ったんですけど、自分で本に書くという意識はなかった。ただ驚いたので、当時、会う人会う人にこの事件を知っているか訊いて回っていたんですね。でも、知ってるって答えた人間は誰もいなかった。「え、コイツでも知らんのや?」というインテリには同い年で東大出身、講談社学芸図書出版部の部長がいたのですが、あるとき、彼から段ボール箱いっぱいの荷物が家にドーンと届きました。「前に百田さんからうかがった話が興味深かったので、自分なりに調べてみたらこれだけの資料が見つかりました。参考になればと思って送ります」みたいなことだった。
木村 面白い展開ですね。
百田 忙しかったですし、「こんな大量に読めるかい!」と、もらって半年以上は放っておいたその資料を、仕事が一段落ついた2011年の秋に読みはじめたら……面白いだけでなく、どんどん、日章丸事件を仕掛けた出光佐三という男に惹かれていったというわけなんです。
百田 日章丸事件もすごかったけど、もっとすごいのはこの事件を立案、計画してやってのけた出光佐三という男。彼自身の迫力からすれば日章丸事件でさえも生涯を彩るアクセントにすぎない。そこにさらに驚き、こんな男が先ほどいったように知られていないのだったら、いますぐ書かなあかんとなったんですよね。それが11年の10月の終わり。その時点では、段ボール箱の資料のうちでも、まだ、ほんとうにごく一部しか読んでいなかった。でも、「……あ、コレは、全部を読んでいるヒマはないぞ。できるだけ早くに伝えなければ!」と、それぐらい書きたい気持ちが沸き上がってきたんですよね。
木村 そこから、具体的にはどう書きましたか?
百田 11年の10月終わりぐらいから書きだしたから、書きはじめはほぼ11月ですよね。で、1日十数時間はワープロの前に座って、10月までの3カ月間で、上下巻合わせて750ページ以上になるノンフィクション・ノベルの第一稿を一気に書き上げた。その後は、僕は出来上がった原稿を、もう一回、一から書き直すということをよくやるんですが、今回も、全部をアタマから5回は書き直しましたね。とにかく、書き直して、書き直して、書き直し続ける日々が終わったのが12年5月の初めでした。半年ちょっとは、この小説のなかの世界にどっぷり漬かっていたんですが、とくに1月の半ば、第一稿が仕上がる直前から最後、5月に自分の手から離れるまでには、じつは僕、3回救急車で病院に運ばれてるんです。これ、あまり自慢できんことですが。
木村 え、3回も運ばれた? どうされたのですか?
百田 1月に東京に出張しているとき、突然いままで味わったことがない激痛がおなかに来て、もう3時間ぐらいはホテルで七転八倒してたんです。最終的には「このままでは死ぬんじゃないか」というぐらいの痛みになったので、ホテルのフロントに電話して、救急車を呼んでもらった。その30分後、救急車が来たときには、ぼくはもう、半ば失神していて、タンカにも自分独りでは乗れなかったんです。そのまま、病院に運ばれました。
検査の結果、胆石発作だった。一刻も早く手術しないと肝臓と胆のうの癒着がひどくなって大変なことになるといわれた。でも、手術したら1週間以上は執筆できないと聞き、うーん、と。こんなに書き上げたい物語が佳境を迎え、こちらも乗って書いている。その1週間がもったいない。だから痛みに関しては「だましだまし」でいいから、何とか書き上げてから入院しようと思いました。でも、その1カ月後にまた救急車で運ばれて、頑張っていたらまた、3回目に運ばれてしまって……。
木村 「もう、入院しなさい」となったのでしょうね。
百田 はい。5月の連休明けに手術することになった。4月の終わりまでに入稿し、手術のあいだに出てきたゲラを手術2日後には見はじめて、編集者を病室に呼んで打ち合わせもした。そこからは看護師さんに怒られないよう、明かりが漏れないよう部屋に目張りをしてカーテンで囲ったなかで、ずっと徹夜で書き直していた。そこまで書くことに夢中になれたのは、特殊な体験でしたね。
書いている最中は、とにかくこの男を、一人でも多くの人たちに知ってもらいたいと思っていた。ただ、そんな思いでこの男や周囲の姿を書いているうちに気づいたのは、彼らのように死に物狂いで働いた人たちが当時の日本に溢れていたからこそ、戦後の日本は復興を成し得たのだろうということでした。その戦争直後のつらさに比べたら、いまの日本の厳しい状況を前にしても、諦めるなんてことはありえない、と思った。終戦のわずか2日後に社員の前で「日本は立ち直る。世界は再び驚倒する」「わが社には最大の資産である人がまだ残っとるじゃないか」という。人をコストとのみ考えがちな、いまの経営者にも読んでもらいたいんですよ。
更新:11月23日 00:05