地政学は、地理的な条件と政治、経済、社会、軍事といった分野の相互関係を分析する。日本の指導者と海外の指導者の間には、地政学と不即不離の関係にある軍事的知識について大きなギャップがあり、日本の指導者が国際情勢を理解する際の盲点となっているのではないか。
本稿では、元陸将の磯部晃一氏、元韓国防衛駐在官の鈴来洋志氏に、韓国の李在明新大統領誕生で揺れる「朝鮮半島」の現状について、地政学の観点から分かりやすく解説して頂く。
※本稿は、折木良一編著『自衛隊最高幹部が明かす 国防の地政学』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです
先の韓国大統領選で、最大野党「共に民主党」の李在明氏が勝利した。そもそもいま、朝鮮半島はどのような状況にあるのか、李在明新大統領の誕生は朝鮮半島情勢にどう影響するのか。
2024年1月、金正恩総書記は、最高人民会議で、韓国を「第1の敵国」に定めるべきだと述べた。そして、有事においては、短期に勝敗を決する「速戦即決」を基本方針とし、特殊作戦やミサイル・核戦力を軸とした「非対称戦」を重視するものと思われる。
地上戦力は、約110万人で、兵力の約3分の2を非武装地帯(DMZ)付近に展開。四軍団、二軍団、五軍団と一軍団をDMZに張りつけておき、首都防衛のための平壌防衛司令部が平壌一帯を防御するという部隊配置は、基本的に冷戦時代から変わっていない。
海軍は約760隻の艦艇を有しているが、前方に兵力を浸透させるためのホバークラフト、小型潜水艦の他、ミサイル艇、魚雷艇など米艦隊の接近を阻止するための機能を整え、東西海岸の防衛のために配置している。もっとも、海軍が東西に分かれていることは、戦力を合一できない弱点とも捉えられる。
空軍の戦闘機は、平壌から元山(ウオンサン)ラインの南に40%を配置し、防空部隊は各種対空兵器の特性に応じて重層に配備されている。とくに、平壌地域には地対空ミサイルと高射砲を集中配置し、複数の対空防御網を形成している。また、約20万人規模の特殊戦部隊や新たに戦略軍が創設された。
さらに北朝鮮のサイバー部隊は、偵察総局隷下に2009年に再編され、数千人の人員が、情報収集、破壊工作、情報工作、外貨獲得等に従事していると思われる。
2021年の朝鮮労働党第8回党大会では、核抑止力のさらなる強化を図ることが謳われ、①戦術核の開発、②超大型核弾頭の生産、③極超音速滑空飛行弾頭の開発導入、④水中・地上固体燃料推進の大陸間弾道ミサイルの開発、⑤原子力潜水艦の開発といった戦力を増強する方針が打ち出された。
2016年、北朝鮮人民軍最高司令部は重大声明を発表した。そのなかで第一次打撃目標は「青瓦台(韓国の当時の大統領府)と反動統治機関」で、第二次打撃目標は「アジア太平洋地域の米帝侵略軍の対朝鮮侵略基地」と「米本土」だと表明した。
韓国全土を同時制圧できる圧倒的火力と半島南部まで到達できる機動戦力により短時間で韓国を占領できる戦力と、核戦力を含む打撃力で在韓・在日米軍そして米国本土を射程内に置き、米国の朝鮮半島への関与を拒否する能力を確保することが、北朝鮮の目標である。
昨今、北朝鮮は盛んにミサイル発射実験を行なっているが、これは第8回党大会で定められた目標を達成するために計画に沿って実験が進められているものである。北朝鮮は2024年4月、新型中長距離固体燃料弾道ミサイル「火星砲─16ナ」型の初の発射実験を実施。これにより異なる射程のすべての戦術、作戦、戦略級のミサイルの固体燃料化、弾頭操縦化、核兵器化を実現したと、その成果を誇示した。
経済制裁下に長年置かれていたため苦しい経済状況のなか、北朝鮮が核及びミサイル開発については確実に前進させていることは驚異的だが、サイバー攻撃を含めたさまざまな違法活動などで獲得した資金をこの分野に集中的に投入することで、目標に突き進んでいるものと考えられる。
金正恩氏は当初、経済建設と核武力建設の「並進路線」を推進していたが、並進路線とは言いながらも、同氏の究極的な狙いは核武力を建設して国家の基盤を固めたのちに経済建設を図ることであろう。
2017年11月には大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星砲─15」型の発射に成功し、これにより北朝鮮は核武力の完成を宣言し、経済建設に集中する路線に移行することを考えた。そして、金正恩氏は2018年6月、金日成氏も金正日氏も成し遂げることのできなかった米朝会談をトランプ米大統領と実現。これこそ核武力建設の成果と考えられたのだが、結果は上手くいかなかった。
そして、2019年の米朝ハノイ会談の挫折を受けて金正恩氏は、さらに強力な軍事力をもって米国に挑まなければならないと考え、「正面突破戦」を宣言。主体的に状況を好転させるべく、一層の軍事力の増強を図り、長期的な闘争に突き進む決意を表明した。金日成氏は「思想強国」、金正日氏は「軍事強国」としての国家建設に努めたが、金正恩氏が最終的にめざしているのは核武力を背景にした「経済強国」だと思われる。
しかしながら、北朝鮮は、度重なる核実験やミサイル発射により経済制裁を科され、経済状況は好転しなかった。そのようななかで勃発したウクライナ戦争は、北朝鮮にとって僥倖と言えるだろう。北朝鮮は開戦当初から外交面でロシアを支持した。戦争2年目となってロシアの弾薬や兵器の欠乏が現れると、これらを積極的に支援した。
2024年には24年ぶり2度目のプーチン訪朝が行なわれ、露朝が包括的戦略パートナーシップ条約を締結し、兵員までも派遣するに至った。北朝鮮はロシアへの軍事支援で、ロシアの軍事・政治的な後ろ盾を強固なものにすると共に、得られた経済的利得により軍事力の近代化を図るものと考えられる。
一方の韓国軍は、歴史的に北朝鮮の脅威に対する防衛を主任務とし、DMZ付近への軍の配備を最重要視してきたが、現在の韓国は「全方位の安保体制」をとっており、「韓国の主権、国土、国民、財産を脅かし、侵害する勢力を我々の敵と見なす」と規定している。
また、韓国は、戦力強化のなかで、「先進国として侮られない軍事力」を保持したうえで、「作戦統制権を移管する条件」を整備して、自主国防を推進している。つまり、北朝鮮だけでなく、覇権を拡大する中国を潜在的な脅威と認識している可能性がある。また、日本とも竹島をめぐる領土問題を抱えている。
韓国は近年、戦略兵器の開発を進めており、「玄武(ヒヨンム)」系列のミサイルを開発し、射程を延ばすことに成功(上図)。もともと1979年の米韓ミサイル指針により、韓国軍が保有できるミサイルの射程は180㎞、弾頭500㎏に制限されていた。ソウルから平壌への距離が約200㎞であり、韓国が暴走して平壌に手を出さない程度のミサイルの保有にとどめるよう米国が制限していた。
北朝鮮が軍事力を増強していくなか、韓国の要求を受け入れる形で米韓は同指針を4回にわたり改訂し、2021年5月には同指針を全廃することが決定された。米国は、この地域におけるミサイル能力の不足を補う目的で、韓国の能力向上を容認する方向に切り替えたものと考えられる。文在寅大統領が登場してからも、韓国は2018年に「国防改革2.0」を打ち出し、軍事力の増強を強力に推し進め、当時のドル換算での実質的な軍事費は日本と同等レベルとなった。
2021年9月には潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の発射実験に初めて成功したことも発表し、原子力潜水艦の建造も視野に入れている可能性がある。そして、韓国は、2024年の「国軍の日」の軍事パレードで弾頭重量約8トンもの貫通弾頭をもつ短距離弾道ミサイル「玄武5」を登場させた。
北朝鮮の核やミサイル開発にばかり目がいきがちだが、じつは韓国も着実に戦略兵器の開発を進めているのである。保守と革新の政治的分断が根深いにもかかわらず、着実に軍事力増強を進めてきた韓国の姿勢に注目すべき点は多い。
尹錫悦前大統領の弾劾・罷免を受け、前倒しとなった大統領選挙では、最大野党「共に民主党」の李在明氏、与党「国民の力」の金文洙氏、保守系野党「改革新党」の李俊錫氏が出馬し争った。選挙の結果、李在明氏が49.42%の得票率で当選し、第21代大統領に就任した。尹前大統領の戒厳令に対して国民の批判は大きく、李在明氏が楽勝で当選すると思われたが、過半数の得票を得られなかったことは、韓国社会がいかに分断社会であるかを露出させた。
李在明氏は過去に反日的な発言をしてきたが、韓国国内では若年層を中心に反日感情よりも経済成長を優先する傾向が強まっており、李政権が日本との関係を極端に悪化させる可能性は低いと考えられる。ただし、徴用工問題や歴史認識の違いが再燃すれば、日韓関係の緊張が高まる可能性もある。
李氏は「堅固な韓米同盟」を外交の基盤とし、日米韓の協力を強化する方針を示している。これは、北朝鮮の核開発や中国の地域覇権拡大に対応するための戦略と考えられる。しかし、在韓米軍の削減問題が持ち上がり、米国と摩擦が生じる可能性もある。
一方で李氏は北朝鮮との対話を重視し、朝鮮半島の平和構築を目指す姿勢を示している。しかし、北朝鮮は韓国を敵対国家と定めており、韓国の対話路線が北朝鮮の軍事的挑発を抑制できるかは不透明である。とくに、北朝鮮とロシアの軍事的接近が進むなかで、韓国の安全保障環境は厳しさを増している。
李在明氏は「国益中心の実用外交」を掲げ、中国やロシアとの関係を安定的に管理する方針を示している。これは、米中対立が激化するなかで韓国の外交的選択肢を広げる狙いがある。しかし、米国が韓国に対し対中圧力への協力を求める可能性があり、韓国の立場が難しくなる可能性もある。
実用主義を掲げる李在明氏の国家運営は大きな困難が予想される。朝鮮半島南部が我が国と敵対的な勢力の影響力の下に置かれないように、我が国の「重要な隣国」韓国情勢に注目していかなければならない。
更新:06月18日 00:05