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「世間教」の同調圧力から抜け出せるか

2024年05月07日 公開

佐藤直樹(九州工業大学名誉教授)

佐藤直樹

日本社会では、法律ではないマナーが、あたかもルールのように強制されている。その恐ろしさについては、多くの日本人がコロナ禍で実感したところではないだろうか。「世間」や同調圧力に関する研究を続ける筆者が考える、これからの企業や組織の在り方とは。(取材・構成:清水泰)

※本稿は『Voice』2024年5⽉号より抜粋・編集したものです。

 

「法のルール」より「世間のルール」

――佐藤さんは長年、「世間」や同調圧力に関する研究を続けています。日本では、たとえばコロナ禍のときに営業活動の自粛が求められ、「密を避ける」という理由で街中の喫煙所が閉鎖されました。また、従業員の健康管理を理由に社内の喫煙所を撤去し、喫煙者は採用しないという企業も見られます。どう思われますか。

【佐藤】規制の問題を語るうえで、まず前提となる「世間」について話したいと思います。

コロナの感染拡大時に明確になったのは日本と海外、とくに欧米との対応の違いです。営業の自粛やマスクの着用に関して、日本の同調圧力がいかに強いかが、誰の目にも明らかになりました。

世界中を見渡しても、「自粛警察」や「マスク警察」は日本だけ。さらには、あろうことか感染者差別も起きました。欧米でも、中国発のウイルスということでアジア人が標的になりましたが、これはもともとあった東洋人差別を背景にしたものです。しかし日本では、コロナに感染しているという理由だけで、同じ日本人が差別の対象となりました。

――何か理由があるのでしょうか。

【佐藤】日本人の心には古来、「世間教」と呼ぶべき意識が根強くあります。コロナ感染拡大時、欧米における政府の対応は外出禁止命令や罰則付きの外出制限、ロックダウン(都市封鎖)など、「法のルール」による強制でした。

一方、日本では命令も罰則もロックダウンもなく、行動制限は、改正新型インフルエンザ対策特別措置法に基づく緊急事態宣言による「外出自粛」「休業要請」のみ。それでも著しい効果が見られたのは、現在は欧米には存在しない「世間のルール」があったからです。

象徴的なのは2020年4月、大阪府が休業要請に応じないパチンコ店の店舗名を公表したときのことです。府のコールセンターには、1283件の営業中の店舗の情報が寄せられたといいます。要はタレコミの電話です。「周囲の目」という同調圧力が、法のルール以上の効果を発揮したわけです。

2011年の東日本大震災では、避難所で規律正しく、冷静に行動する被災者を見た諸外国のメディアから、「略奪も暴動も起きない日本はすごい」と称賛されました。海外ではしばしば緊急災害時に警察が機能せず、法のルールが失効して略奪や暴動が起きる。

ところが日本の場合、緊急事態が発生すると法の代わりにすぐさま「世間」が立ち上がりました。避難所で音を立てず静かにするといった迷惑への配慮に始まり、行列を守るマナー、弁当の配布やトイレ掃除の役割分担に至るまで、同調圧力の「空気」が略奪や暴動を抑え、避難所の秩序を維持したわけです。

――法のルールが機能しなくなっても、日本には「世間のルール」という強い縛りがあるのですね。

【佐藤】私の見解は「日本人が3人以上集まったら世間になり、世間のルールが立ち上がる」というもの。「世間のルール」の拘束力は法のルールと同等かそれ以上で、順守しないと排除される。日本人の大半は「世間を離れたら自分は生きていけない」と思い込んでいるので、いつも周囲に気を使いながら暮らしています。

弊害として考えないといけないのは、「世間」ではウチとソトを厳密に分けるため、「世間のルール」に従わない人をソトに排除し、徹底的に追い込むこと。端的なのは自殺率の高さです。日本では1998年に自殺者数が急増して初の3万人台となり、2000年代に至る14年のあいだ、自殺者が3万人を超える状態が続きました。現在は2万人台に減ったものの依然、他の先進国を凌駕している。これも失踪者など、公式統計に数えない分を入れるともっと多いのではないか、と私は疑っています。

「世間」の強い同調圧力によるストレスを溜め続け、限界まで追い込まれると、日本人は他人ではなく「自分」を殺してしまう。それでようやく同調圧力から逃れられるわけです。

さらに問題なのは、「世間のルール」が肥大化すると、法律ではないマナーまでルールであるかのように強制されてしまう。最たる例が冒頭の喫煙所です。コロナ下での喫煙所の閉鎖は、法律で定められたものではありません。「法のルール」のよいところは、違反した場合の処罰の基準が明確な点です。

他方、「世間のルール」は成文化されておらず、あるいは明確な罰則もないため、各人が忖度して解釈・自主規制をしようとする。その結果、「人に迷惑をかけてはいけない」という程度の理由で、規制の範囲がとめどなく拡大してしまうのです。

 

個人の「権利」を認めない国

――「世間」の大元はどこにあるのでしょうか。

【佐藤】「世間」という言葉は、遡ると1200年前の『万葉集』に出てきます。歌人の山上憶良が「世間」という言葉を使い、「世間を 憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」という歌を詠んでいます。万葉集の時代と、いまの我々が使う「世間」の意味はまったく同じ。じつはヨーロッパでも中世には「世間」があったのですが、いまではなくなっています。

――なぜですか。

【佐藤】要因の一つは都市化、さらに大きいのはキリスト教の普及です。

12世紀前後にキリスト教がヨーロッパ全域を覆い、1215年の第四ラテラノ公会議で、ヨーロッパの男女に年に最低一回の告解が義務付けられました。告解とは「私はこんな悪いことをしました」と神に向かって告白することで、ヨーロッパ人の内面に大きな変化をもたらしました。神と一対一で対峙し、神に対して自分の内面をプレゼンテーションすることにより、因習や人間関係から離れた「個人」(インディビジュアル)が生まれたのです。同時に聖書に記述のない不文律、つまり「世間のルール」が徹底的に否定されていく。

この「脱世間」の過程を経た個人の集まりが、ヨーロッパにおける「社会」(ソサエティ)。社会の基本原則が「法の支配」(ルール・オブ・ロー)です。12世紀前後から徐々に個人が形成され、17、18世紀に市民社会が誕生すると「世間」が消え、近代社会に移行したと考えられます。

こうした過程を経なかった日本には「社会」も「個人」もない、というのが私の見方です。明治初期、日本にソサエティとインディビジュアルという言葉が輸入されました。当時の日本人が賢かったのは、ソサエティの意味は「世間」とは異なる、と考えて「社会」という訳語を新たにつくったことです。インディビジュアルも同様に「個人」と訳した。以後、150年が経過した日本に「社会」や「個人」が生まれたかといえば、そうは見えません。うわべは「社会」を装っても、下の層には分厚い「世間」が積み重なった二重構造になっています。

ヨーロッパにおいて、個人とは「権利」(right)や「人権」(human rights)と一体となった概念です。面白いことに権利にはもう一つ、「正しい」(right)という意味がある。つまり「権利」=「正しい」。ヨーロッパの個人にとって権利は自明のことであり、無条件に尊重されるべきものです。

ところが日本では、権利という言葉に「正しい」というニュアンスがない。むしろ「あいつは権利ばかり主張するいやなヤツだ」というように、ネガティブな意味で使われます。この国ではいまだに権利、人権の概念が「世間」に浸透していない、と見るべきでしょう。

――だから「たばこを吸う権利」や「嗜好の自由」が通らないわけですね。

【佐藤】そのとおりです。日本は同調圧力という「世間のルール」で動いており、迫害されるのは喫煙者のような少数派、「皆と違う人」です。「世間」の最大の特徴は、「個人」を認めないことにあります。いまや20%を切ったマイノリティとして、たばこを吸う人には居場所がなくなっていく。これが法のルールに基づく社会であれば、「他者に対して危害を加えないかぎり、個人の自由を妨げることはできない」というJ・S・ミル(19世紀イギリスの哲学者)の「他者危害原理」が貫徹されます。他人に危害を加える喫煙状況のみを法で厳格に定め、分煙をすれば事足りる。

しかし、「人に迷惑をかけてはいけない」といった「世間のルール」で動く日本では、そうはいきません。個人の嗜好である喫煙に対して、「君のためにもよくない」という「自己危害」を口実に、際限なく改善を求めてくる。日本ではパターナリズム(父権主義)がきわめて強く、他者危害原理がなかなか定着しません。

――最近は日本企業で「健康経営」が推奨されているようですが。

【佐藤】従業員の健康管理や健康診断の強制など、はっきりいって大きなお世話だと思います。「世間」による個人への干渉にほかならず、愚行権(人から見れば愚かな行動でも、個人の領域に関するかぎり邪魔されない権利)の侵害といえるでしょう。これだけ「世間」の負荷が重い国で、ストレス解消のお酒やたばこなしにはやっていられない、というのが偽らざるところです。

健康増進法が施行されたのは2003年で、第二条に「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」とあり、まさに健康が国民の義務となりました。この条文が典型的だと思いますが、日本ではある時期を境に同調圧力が強まり、世の中が大きく変質してしまった。何が起きたかというと、グローバル化です。いわゆる新自由主義が国内に入り、日本の国柄を根本から変えようとした時期にあたります。

――2001年の小泉・竹中改革の時代ですね。

【佐藤】新自由主義とは端的にいえば弱肉強食、自己責任の世界で、とにかく「強い個人になれ」という。ところがいままで縷々説明したように、日本にはそもそも「個人」がいない。個人を圧殺する国で自由化と剥き出しの個の競争を求めた結果、同調圧力が一気に強まり、前述した1998年以降の14年連続の自殺者3万人に至ります。それからうつ病が急速に増えました。労働者の賃金も一向に上がらない。現在に至る日本の衰退の始まりが、この「個を認めないのに個を強いられる時代」でした。

――組織も表は近代の体裁をしていても、内実は中世の組織ばかり、ということですか。

【佐藤】自民党なんてまさにそう。近代政党の体でいながら、実態は永田町という「世間のルール」で動いており、「世間」の身内優先の裏金分配を組織的に続けてきたわけですから。

トップの岸田文雄首相も、むろん「世間」どっぷりの人です。私が唖然としたのは2023年のウクライナ訪問時、岸田首相はゼレンスキー大統領に地元・広島の「必勝しゃもじ」を贈りました。戦争中のウクライナ人が、しゃもじをもらって喜ぶとでも思ったのでしょうか。国際社会でも日本と同じ「世間」の感覚が通じると一国の指導者が勘違いし、周囲も誰も止めず、他国を馬鹿にするような頓珍漢な振る舞いが平然と行なわれてしまう。呆れるのを通り越して恐ろしくなりました。

 

上下関係+格差+差別の三重苦

――「世間」と「社会」の二重構造をもつ日本と日本の組織には、どういう特徴がありますか。

【佐藤】日本で同調圧力を生み出すような「世間のルール」は無数にありますが、類型的には4つです。

1つ目は「お返しルール」で、何かをもらったら必ず返さないといけない、と刷り込まれています。

年賀状に始まりお中元とお歳暮、バレンタインデーとホワイトデー。これらは皆、人間関係を円滑にするための「世間のルール」で、無視すれば非常識と見なされます。LINEの既読無視がなぜ問題になるかというと、お中元をもらったのに返さないのと同じ理由です。相手から贈与を受けるとそれが心理的に大きな負担となり、解放されるためにはなるべく早く返さなければいけない。返事や返礼が滞ると、人格の評価に関わり、「世間」での評判が落ちる。

日本人、とくに組織に属する人はこのお返しルールから逃れられず、非合理・非生産的な儀礼とわかっていても、なかなかやめられません。

2つ目は「身分制ルール」。先輩・後輩、目上・目下、格上・格下、男性・女性といった「上下関係」をつねに意識し、両者の関係性にふさわしい言動が求められます。英語の一人称と二人称にはIとYOUしかないですが、日本語だと立場により数えきれないほどあります。どれを使うか、どちらの身分が上か下かで言葉使いや振る舞いが変わる。人と会うとき、私たちの頭は身分の査定でつねにフル回転しているんです。

欧米の社会・組織にいると、こうした人間関係への配慮で疲れるようなことはないんです。私たち日本人は、日常的に上下関係+格差+差別の三重苦に苛まれています。にもかかわらず、男女の平等やジェンダーギャップには無関心。日本はとてつもない男尊女卑の国だと思いますが、差別をしている実感が、これは自戒を込めていいますが、とくに中高年男性に乏しい。

たとえば2021年、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗会長が「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」と発言し、辞任に追い込まれました。その後ある男性タレントが、日本は「男性優位社会っていわれていますけど、そんな風に感じたことはありません」「やっぱり日本でいちばん強いのは奥さんたちだと思いますよ」とコメントしました。一見女性を立てているようですが、まったく違います。

また、ある女性タレントは、夫の不倫が発覚すると「世間の皆さま」に対して謝罪をしました。なぜ謝罪が必要なのか。日本の「世間」では妻に夫の「管理責任」があり、女性の「監督不行き届き」とされるからです。上記の「日本でいちばん強いのは奥さんたち」発言も根は同じで、日本の夫婦関係は妻が「母」、夫が「子」の母子関係なんです。女性が母子関係を強いられるのは抑圧そのもので、とても男女対等の社会とはいえない。

3つ目は「出る杭は打たれる・みんな同じルール」。たとえば職場で自分の仕事が終わって帰ろうとすると、上司や残業中の同僚から冷たい目で見られる。「お前だけ早く帰るな」という同調圧力です。

日本の企業では「同じ時間を一緒に過ごすこと」が大事であり、仕事の内容や成果は二の次。このルールはたばこにも適用され、喫煙者は完全に少数派ですから、「みんな同じルール」によって「喫煙をするな」という同調圧力が生まれる。受動喫煙の有無以前の話で、単純に数の問題なのです。

そして4つ目が「大安・友引ルール」。「仏滅の日に結婚式を挙げてはいけない」「友引の日に葬式をしてはいけない」という法のルールはないのに、迷信の類を守るべき規範、常識として固めてしまう。

これらは合理的根拠のない「謎ルール」ですが、守らないと世間知らずと非難され、場合によっては仲間から排除されてしまう。お葬式に行くと、帰宅した参列者が穢れを落として祓い清めるための塩をもらいますね。科学的根拠はないけれども、長い年月にわたり、当然の習慣とされています。この伝統的な「穢れ」の意識が非常に厄介で、病気や死、身内の犯罪なども穢れとして差別につながるわけです。コロナ感染者はもちろん、感染者の家族や医療従事者まで蔑視された一因がまさにこの大安・友引ルールでした。

――なるほど。そうすると、たばこにも「煙」という穢れがある、というわけですね。まさに非科学的。

 

「謎ルール」を白日の下にさらすこと

――経済産業省は「健康経営優良法人」の認定制度を始めていますが、社員のメンタルを含めた健康を損ない、職場の生産性を低下させているのはどうやら会社組織にはびこる「世間のルール」ですね。個人を認めない企業・組織のあり方と、日本経済の「失われた30年」は関連しているのですか。

【佐藤】明らかに密接なつながりがあります。「お先に失礼」できない職場で長時間労働を行なうことにより、労働生産性が落ちるというデータがあります。また「出る杭は打たれる・みんな同じルール」の下では、周りに迷惑をかけたくないという理由で有給休暇すら自由に取れません。

さらに先輩・後輩の「身分制ルール」もあり、目上の人の誤りに対して物がいえない。自分の意見や心情、アイデアを忖度なく表せる状態を「心理的安全性が高い」といいますが、日本企業の心理的安全性は著しく低い。仕事の効率が下がるのは当たり前なんです。

タレントのパンツェッタ・ジローラモ氏は「イタリア人は遊んでるように見えるけれど、仕事をするときは集中してやっている。日本人はだらだらとお茶を飲んでいる」といっていました。

また文化人類学者のルース・ベネディクトは、「心理テスト」の結果として、日本人は他人との競争があると、自分1人でやるときよりぐんと作業効率が低下したと報告している。アメリカ人だったら最善の努力を引き出すような競争的環境に置かれると、日本人は「相手に負けて恥をかくかもしれない」と恐れ、それに心を奪われるからだ、といっています。

日本では人間関係を重んじて余計なことに気を使うから、仕事の効率が上がらない。それがGDPでドイツに抜かれた理由であり、労働生産性が落ち、賃金が上がらない理由です。企業内に同調圧力が完全に浸透しており、他人と合わせることを強要される。

第三次産業が中心のポスト近代社会において、成長に必要なのはイノベーションです。しかし、ポスト近代どころか近代的個人すらない日本において、突き抜けたアイデアを求めるのは難しい。変わったことを考える人が組織にいないと、イノベーションを起こすのは無理なんです。

そこで「世間」による同調圧力の改善策として、いま挙げたような職場の「謎ルール」を徹底的に洗い出して公開し、組織の問題点を白日の下にさらすことが大事です。在宅勤務中の喫煙禁止とか、たばこを吸ったら45分間はエレベーター使用禁止とか、女性社員は男性社員より早く出社して机を拭くとか、合理的理由が皆無の謎ルールを一つずつ暴き出し、不要なルールは公開し廃止する。それだけで従業員の心理的安全性は改善するでしょう。経営者は健康経営という名の管理強化ではなく、生産性低迷の原因に取り組むべきです。

 

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