【横田】教会で祈る、ということによって、ものの見方が変わってくることはありますか。
【片柳】たしかに皆が一堂に会して祈ることで、より神の存在を意識しやすくなる、ということはあります。
他方、普段の祈りは一人で行うもので、その際に求めるのは自らの「本心」。言い換えると「自分の本当の望み」を知ることです。私たちの心の最も深いところには神、すなわち愛が住んでいて、愛を生きることこそ自分の本当の望み、すなわち本心である、ということ。
ですから、「神に従う」というのは、決して「他者に命令される」という話ではなく、自分の本心に気づいて、自分の本心のままに生きるということなのです。
「自分が望んでいるものは何か」と問うたとき、先述のようにいくら富や名声があっても、愛がなければ虚しい。欲望や感情から解放されて、自らの本心である愛、すなわち神に立ち返る、それが祈りの意味である、といえるでしょう。
【横田】本心は愛である、というのは素晴らしい言葉ですね。われわれはよく「仏心」という言葉を使います。仏の心とは何か。それは慈悲であり、万物は慈悲の心を具(そな)えている。すべてのものに慈悲がある、と気づくのが仏心であり、禅の行ないといえます。
【片柳】私たちイエズス会の伝統に「霊操」という祈りのプログラムがあります。1カ月に及ぶ霊操の1週目にあるのが、「ゆるされてある私」を自覚することから神との出会いを始める、というものです。
【横田】ああ、なるほど。
【片柳】すべての人間は罪に染まっている、という点はあるにせよ、罪の意識を抱くだけでは信仰には至らない。むしろ自らの不完全な部分、罪深さを感じるほど「そんなわたしであっても、神にゆるされ、いまここに生かされている」ことへの感動が生まれ、それが信仰につながるわけです。
【横田】この境地に達するまで、私も長いあいだ苦労しました。「ああ、何だ。自分は許されていたんだ」という。八木重吉(詩人)が「あき空を はとが とぶ/それで よい/それで いいのだ」(『秋の瞳』)と気づいたように、お日様の光、水、空気、すべてが慈悲によって与えられていること。
人間の一呼吸すら「許されたもの」であり、ただ足で地面を踏んでいるだけで感動と喜びが得られる。これで十分という気がいたします。
【片柳】私が近著『何を信じて生きるのか』のラストシーンに描いた光景が、まさに横田師のおっしゃった場面に近い。生きる意義や目的を見失った青年が、教会の花壇に植えてある花、空を舞う蝶を見てはっと気づく――「この世界、なかなかいいぞ」と。
最近、宗教のさまざまな問題点が指摘されていますが、少なくとも私は「生きているだけで、実はすごいことなのかもしれない」と気づかせてくれるだけでも、宗教には存在する意味があると思うのです。
更新:11月25日 00:05