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正義の名のもとに執行される“イジメの構造”…「フラットな社会」に潜む危険

2021年07月15日 公開

太田肇(同志社大学政策学部教授)

 

「正義・イジメ・ハラスメント」その類似点は?

ところが日本では異論どころか、違う角度からの問題提起や冷静な議論を呼びかけるだけでも、正義を否定しているかのようなレッテルを貼られ、糾弾される。そして社会的な地位を追われる。

タテの同調圧力を批判する側が、いっぽうでその批判に同調するようヨコの圧力をかけるという構図がしばしばみられる。

たとえば役所の審議会やスポーツ団体のトップが問題発言をして批判にさらされているとき、ほかの委員や団体のメンバーは口をつぐむ。するとマスコミなどは、「トップに逆らえない空気がある」と指摘する。たしかにそういう場合もあるだろう。

しかし、ほとぼりが冷めたころに関係者から聞こえてくるのは、むしろそれと反対の声が多い。事情をよく知る者として少しでも弁明すると「同じ穴のムジナ」だとして自分に矛先が向けられたり、組織全体が批判の矢面に立たされたりするのである。

そのためテレビでもコメンテーターは、周囲に同調して紋切り型の批判ばかりを口にする。つまり、みんなが糾弾の輪に加わるように圧力がかけられるわけであり、それはイジメやハラスメントの傍観者が置かれた立場、心理状態と本質的に差異はない。

イジメやハラスメントと構図が似ているというと、そこに「正義」があるか否かは決定的な違いだと反論されるかもしれない。しかし注意すべき点は、学校や地域でのイジメも、相手の落ち度を追及する素朴な正義感から始まるケースが多いということだ。

学校では下級生をいじめた子が同級生からその何倍ものイジメを受けたり、地域では共同作業を頻繁にサボる人がときには村八分に近い扱いを受けたりする。

むしろ「正義」を背負っているという確信があるだけに独善や行き過ぎにも気づかない場合が多く、周囲もいっそう異論を唱えにくい。

「正義」の偏りは多くの場合、全体主義的な方向に傾く。

ここで思い出してほしいのは、第2章で述べたように戦前・戦中の軍国主義が強力な独裁者によって導かれたというより、民衆の主導による「草の根」的な性格を持っていたということである。

そしていまでも、いざとなれば個人の利益や人権よりも社会や会社の利益、つまり共同体全体の利益を優先する方向へ人びとの立ち位置が大きく動く。

それはコロナ禍に見舞われたときの世論にもみて取れた。コロナの流行の波が二度目、三度目に訪れたとき、緊急事態宣言を出すかどうか、解除するかどうかの議論で天秤にかけられたのは、感染の抑制か、経済への影響か、だった。

どちらも全体の利益であり、個人の自由な活動や社会生活といったものはほとんど判断材料にさえならなかった。国や社会の利益に比べたら個人の自由などは取るにたらないものだという考え方が暗黙の前提になっているのだ。

コロナ禍が日本よりはるかに深刻な状況にあったドイツでさえ、メルケル首相が、自分たちが勝ち取ってきた自由を制限することの苦衷を吐露しながら国民に理解を求めたのとは実に対照的である。

 

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