2018年06月07日 公開
2019年04月20日 更新
聞き手:編集部(中西史也) 写真:大坊崇
――本書は、2016年8月13日に放送されたNHKスペシャル「ある文民警察官の死~カンボジアPKO 23年目の告白~」を基に、未公開の事実を盛り込んで書籍化したものです。日本が初めて本格的に参加したPKO(国連平和維持活動)の地・カンボジアで、文民警察官の高田晴行警部補(当時33歳)が殉職した事実について、いまや多くの日本人が忘れてしまっているかもしれません。まず、番組制作のきっかけからお聞かせください。
旗手 カンボジアPKOにおいて文民警察隊長を務めた警察官僚・山﨑裕人氏(警視正、当時40歳)から、長年保管していた報告文書を何人かの手を経て、私たちに託されたことが始まりです。山﨑氏は警察庁を退職したあと、二十数年間秘蔵していた報告文書を何とか世に出せないか、と述べられました。
文書のページをめくると、「隊長失格」という4文字がまず飛び込んできました。報告文書という体裁でありながらも、部下を全員無事に帰国させられなかった山﨑氏の後悔や嘆きが、生々しく書き綴られていたのです。
「決して美談とはなりえない話なのに、なぜ公開したいのですか?」という私の問いに対して山﨑氏は「自分たちが仲間を失ってまで行なった活動が歴史に埋もれていることに忸怩たる思いがある」という。「75通り(カンボジアに派遣された文民警察官の人数)のPKOが眠っている」という彼の言葉を聞き、私たちは当時の隊員たちへの取材を始めたのです。
――本書で印象深いのは、「カンボジアの停戦は保たれている」とする日本政府の前提と懸け離れた現地の惨状です。1992年10月のPKO文民警察隊派遣当時、カンボジアはどんな状況だったのでしょうか。
旗手 日本からPKOが派遣された時期は91年のパリ和平協定によって内戦が終結した直後で、プノンペン政府、ポル・ポト派、シアヌーク派、ソン・サン派といった勢力が入り乱れていました。ポル・ポト派の影響力が強かった一部の州でゲリラが橋を爆破したり、住民を殺害したりすることがあったものの、危険な地域は限られていた。
ところが93年に入ると、それまで比較的安定していた北西部でも銃撃事件が相次ぎ、カンボジア全土で状況が緊迫化していきます。
――高田警部補が所属する部隊が派遣されたアンピルでも銃声が鳴り響き、想定外の情勢悪化に困惑する隊員の様子が記されています。
旗手 日本政府としては「紛争地域に行くわけではない」という前提であるため、文民警察官は武器を携行しておらず、丸腰の状態。また警部補以下の隊員たちのほとんどは海外勤務の経験がなく、PKOについて特別な訓練を積んでいない状態でした。
文民警察官は現地で基本的にUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の指揮の下に行動しますが、日本政府からも部隊の安全確保について命令を受けていた。隊員たちはそのような二重指令による板挟みにも悩まされました。
(本記事は、6月9日発売の『Voice』2018年7月号「著者に聞く」旗手啓介氏の『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』を一部抜粋、編集したものです)
更新:11月22日 00:05