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小浜逸郎 誤解されている福沢諭吉

2018年05月08日 公開
2023年01月12日 更新

小浜逸郎(批評家)

ほとんどの人が見逃す「と云えり」

 こう考えただけでわかるように、福沢思想を西欧型のリベラルな進歩主義の代表と見なすとらえ方も、国粋主義的な保守思想の代表と見なすとらえ方も、いずれも自分の都合のよいところだけを切り取った我田引水に他ならないのです。福沢の生きた時代との関係を踏まえて彼の書いたものを素直に丁寧に読めば、そういう誤解の生じる余地はありません。

 また活躍期が長きにわたっているため多少の変節は認められるものの、おおもとのところで彼の思想は一貫性を保っています。

 とかく大きな思想というものは、右からも左からも誤解や批判を浴びるものです。それは現実の複雑さに見合う複眼的な思考力を持った人の宿命といってもいいかもしれません。西欧で言えば、ヘーゲルの思想がそれに当たるでしょうか。

 こうした誤解を具体的にほどいていく作業は、同時に、福沢思想の真像をよりはっきりと浮かび上がらせる作業でもあります。それはまた、現代における福沢思想の意義を甦らせることにつながります。その作業はこれからおいおい展開してゆくとして、ここではごく簡単な、どこにでも転がっている誤解について述べましょう。

 福沢諭吉というと、誰もが『学問のすゝめ』(初編)冒頭の、

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

 という文句をすぐ連想します。

 つまり人間はもともと平等に造られているのだ、それは天賦(天から賦与されたもの。生まれつき)のものなのだ、と。

 ところがこれは福沢自身の言葉ではなく、したがって彼の思想を表してもいないのです。

 彼は、「天賦」という言葉を「平等」や「人権」に当てはめて用いたことはありません。逆に「天賦」という言葉を用いるのは、知力、気力、性格などにかかわる人間の不平等の実態について述べるときだけでした。

 実はこの文句のあとには、「……と云えり」とあるのですが、ほとんどの人がこれを見逃しています。「……と云えり」とは、「と言われている」という意味なので、「一般にはそういうことになっている」、ならば誰もが平等なはずだ、ということです。

 さて、その数行後に、「されども今、広くこの人間世界を見渡すに」とあって、いかに現実の世が貧富、賢愚、身分、権力においてはなはだしい格差に満ち満ちているかというくだりがあります。『学問のすゝめ』はここを出発点として、この格差にまつわるいわれなき尊卑感情を少しでもなくし、多くの人が自主独立の気概をもって人生を歩めるようにするには、「学問」がどうしても必要だ、というように展開されていくのです。

「学問」というと難しく聞こえますが、福沢のいう学問とは、「知性の活用」というのとほぼ同じです。つまり、単に学者が文献に首を突っ込んで博識をため込むのとはまったく違います。書物や経験や見聞から得たあらゆる知見を総合し、これを実地に用いて、みんなのために役立てることを意味しているのです。

 福沢は、「学問」という言葉を次のように定義しています。

《世帯も学問なり、帳合も学問なり、時勢を察するもまた学問なり。何ぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみをもって学問というの理あらんや》(『学問のすゝめ』二編)

 福沢は、学者オタクを徹底的に嫌っており、しばしば軽蔑の情を隠しませんでした。

 たとえば、同書に次のような記述があります。

《学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し。在昔(むかし)ある朱子学の書生、多年江戸に執行(修行)して、その学流に就き諸大家の説を写うつし取とり、日夜怠らずして、数年の間にその写本数百巻を成し、もはや学問も成業したるがゆえに故郷へ帰るべしとて、その身は東海道を下り、写本は葛籠に納めて大廻しの船に積出せしが、不幸なるかな、遠州洋において難船に及びたり。この災難に由て、かの書生もその身は帰国したれども、学問は悉皆(残らず、すべて)海に流れて、心身に附したるものとては何に一物もあることなく、いわゆる本来無一物にて、その愚は正しく前日に異なることなかりしという話あり》(『学問のすゝめ』十二編)

 福沢はこのように、高尚ぶって役に立たない知識ばかり詰め込んでいる「学者」、つまりオタク知識人を非常にバカにしていました。当時で言えば儒学者の大半がこれに当たります。社会情勢と時代の気運を読めないこれらの手合いを「腐儒」とまで呼んでいます。

 こうした状況は、現在でも変わっていません。たとえば、政府の経済政策のブレーン役を務めている経済学者たちはみなアメリカ留学の輝かしいキャリアを持った一流大学の教授または名誉教授です。しかし終章で改めて問題にしますが、その経済理論なるものは根本的に誤った人間把握を出発点にしています。

 誤った人間把握を前提に、いたずらに精緻に仕上げているだけなので、肝心の「何のために、誰のために」をまったくわきまえていません。そのため、日本を間違った方向にばかり導いています。1万円札の肖像からは涙が流れ続けているのではないでしょうか。

(本記事は、小浜逸郎著『福沢諭吉 しなやかな日本の精神』<PHP新書>を一部抜粋、編集したものです)

著者紹介

小浜逸郎(こはま・いつお)

批評家

1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。 2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『デタラメが世界を動かしている』『13人の誤解された思想家』(以上、PHP研究所)など多数。

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