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石平 聖徳太子の思想戦略Ⅱ

2018年02月15日 公開
2024年12月16日 更新

石平(評論家/拓殖大学客員教授)

「論外」だった朱子学

 ――大増刷が決定した『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』でも解説されていますが、江戸時代に入ると、徳川幕府は儒教(儒学)を社会の中心に定めます。これはなぜでしょうか。

  戦国時代に織田信長が一向一揆で苦しめられた史実は、よくご存じでしょう。時代が下るにつれ、仏教は大衆化することで、民衆を広範囲に結集する力をもちました。その最たる例が一向一揆であり、その恐ろしさを肌で理解していたのが徳川家康でした。家康は、仏教に取って代わる新しいイデオロギーが必要だと思案します。そこで目を向けたのが、儒教でした。つまり、儒教を利用して仏教を抑え付けようとしたわけです。なお江戸時代で儒教といえば朱子学が盛んであり、幕府も官学にしました。

 ただし、重要なのは、日本では朱子学を学んだほぼ直後から、その内容に疑問を感じて乗り越えようとした思想家が現れたということです。荻生徂徠や伊藤仁斎がその代表です。

 ――彼らが疑問に感じたのは、朱子学のどの部分だったのでしょうか。

  私にいわせれば、朱子学が日本人の精神に合うはずがないのです。というのも、朱子学は究極の原理主義で、人間の欲を極端に抑え付ける思想だからです。かつての明、清や李氏朝鮮は、朱子学に基づいた社会をつくりましたが、「三従四徳」という考え方があります。これは、女性は生まれてからは父親、結婚したら夫、夫が亡くなったら息子に従うという教え。それでは夫も息子もいなくなったら、どうするのか。驚くべきことに、殉死するほかないのです。ある史料によれば、明では毎年、1万人ほどの殉死者がいたとされています。

 同じころ、日本は戦国時代から江戸時代でしたが、2代将軍・徳川秀忠の正室であるお江(崇源院)にとって、秀忠はなんと3人目の夫です。「昨日の敵は今日の友」「惻隠の情」という言葉に代表されるように、恩讐を超えて、目の前の人間を大切にする。それが日本人の気質なのであり、そうであればこそ、朱子学は日本人にとっては「論外」の教えだった。

 ――荻生徂徠や伊藤仁斎は、そのことを見抜いていたわけですね。

  そうでしょう。彼らが朱子学からの脱却を唱えたのちに登場したのが、賀茂真淵や本居宣長です。かくして日本で国学が誕生した。ここで詳述はしませんが、このとき日本人は儒教、さらにいえば中華思想を完全に切り捨て、『古事記』や『日本書紀』、『源氏物語』などに代表される、日本人の本来の心に立ち返ったのです。

 そもそもの始まりは、儒教ではなく仏教を選んだ聖徳太子の英断にあったといえますが、そうした先達の懸命かつ賢明な判断があればこそ、日本は東アジアにおいて、中華秩序の呪縛にとらわれずに済んだのです。

(本記事は『Voice』2018年3月号、石平氏の「儒教ではなく仏教を選んだ聖徳太子の思想戦略」を一部、抜粋したものです。全文は現在発売中の3月号をご覧ください)

著者紹介

石平(せき・へい)

評論家

1962年、中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)で第23回山本七平賞を受賞。近著に、『なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか』(KADOKAWA)などがある。

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