Voice » 李登輝 指導者とは何か(3)
※本稿は李登輝著『指導者とは何か』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。
危機の際は情報の有無も、指導者の判断において重要である。
1995年、私がアメリカを訪問して母校のコーネル大学で講演したとき、中国は軍事演習と称して台湾近海にミサイルを撃ち込んできた。翌96年の総統選挙の際にも、ミサイルを発射して軍事的脅威を台湾に及ぼしたことがあった。
総統選挙に際して、私は国民に2つのことを呼び掛けた。1つは「ミサイルの弾頭は爆弾ではなく、計測器である。だから、それほど恐れなくてよい」ということである。もう一つは「われわれは大陸中国の脅威への対応について、18通りのシナリオをもっている」というアピールである。
この「シナリオ」とは1995年から96年にかけて、行政院(内閣)での8回にわたる結束会議で検討されたものである。問題別に30以上のシナリオを作成した。
「18通りのシナリオをもっている」と述べたのは、すべてを明らかにすればこちらの手の内を中国に見せることになるからだ。ただし、国民にはある程度報告しなければならないので、数を減らして「18通りのシナリオ」といい、「心配しなくてもよい。投票をしてほしい」と呼び掛けたのである。
われわれが用意したシナリオのいくつかを簡単に紹介しておく。
まず、中国から軍事的脅威を受けた際に最も困るのは、国民があわてて銀行からお金を引き出すことだと考えた。その場合にどう対処するかが第一のシナリオである。このケースでは、預金の準備金を各銀行に与えておくことが最善の対処法という結論に達した。それによって銀行は落ち着いていられるし、国民も困ることがない。そこで500億元の預金準備金を中央銀行に用意した。
第2は株式市場の混乱を回避することだ。そのために、2000億元の安定資金を組んだ。第3は航空機の安全飛行区域を各国に伝えることだ。
ミサイルが飛ぶ空域を各国に知らせ、民間航空会社が気をつけるように通告した。
軍に対しては、いつでも対応できる態勢を取るように命じておいたが、大規模には動かさなかった。有事に備えて台湾海峡の防衛に軍を展開させてもおかしくなかったが、われわれが懸念したのは大規模な軍の行動がなされることで国民に不安を与え、ひいては「戦争か!」とパニックが発生し、社会を大混乱させることだった。
1990年から96年の期間、われわれは中国とのあいだに貴重な情報ルートを数多く有していた。台湾侵攻を想定したミサイル発射や軍事演習は心理的な作戦であり、実際の武力侵攻はない、という中国側の意思をつかんでいたのである。そのため、あわてて軍を動かさないという選択肢を取れた。
この一事でも、情報の重要性がわかってもらえるだろう。われわれが用意したシナリオの多くは、中国の軍事演習が心理的作戦であることを見抜きつつ、備えるべきものは備え、何があっても困らないようにしておくという方針で検討したものである。
『指導者とは何か』(PHP文庫)より
更新:12月04日 00:05