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		<title>Web Voice</title>
		<link>https://voice.php.co.jp/</link>
		<description>新しい日本をつくる提言を！　「Web Voice」は、月刊誌『Voice』編集部がお届けするWebメディアです。雑誌掲載記事を中心に、政治・経済・社会など、いま注目の話題を幅広く取り上げ、議論を深める場を提供します。</description>
		<dc:language>ja</dc:language>
				<copyright>Copyright PHP研究所　All rights reserved.</copyright>
		
				<pubDate>Fri, 28 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
						
				<item>
			<title>中道改革連合は誰のための新党だったのか？ 公明党の選挙戦略と立憲民主党の誤算  泉房穂（参議院議員、元明石市長），福田充（日本大学危機管理学部教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14724</link>
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			<description><![CDATA[元明石市長の泉房穂氏と日本大学教授の福田充氏が、公明党の連立離脱と新党結成の背景、比例名簿の仕組みや選挙戦略を詳しく分析します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="選挙のリアル" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_senkyo.jpg" width="1200" /></p>

<p>2026年総選挙を前に、公明党と立憲民主党は新党「中道改革連合」を結成しました。<br />
しかし、その狙いは政権交代への布石だったのか、それとも党勢維持を優先した戦略だったのでしょうか。</p>

<p>本稿では、元明石市長の泉房穂氏と日本大学教授の福田充氏が、公明党の連立離脱と新党結成の背景、比例名簿の仕組みや選挙戦略を詳しく分析。さらに、地方選挙や参議院選挙への影響を踏まえながら、中道改革連合の課題と、日本政治における野党再編の行方を多角的に読み解きます。</p>

<p>※本稿は、泉房穂、福田充著『国民のお金はどこに消えた？』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>新党結成に動いた公明党の思惑　</h2>

<p>【福田】2025年10月、公明党が高市自民党との連立を解消し、下野しました。その後、公明党の斉藤鉄夫代表と立憲民主党の野田佳彦代表は両党の連携を模索していましたが、26年1月に「高市首相が解散を検討」との報道が流れると連携の動きは加速し、あっという間に新党「中道改革連合」が発足しました。<br />
中道改革連合に合流したのは衆議院の公明党と立憲民主党所属の議員でしたが、参議院で立憲と会派を組んだ泉さんは、この過程を間近でご覧になっていたと思います。こうした一連の動きについて、どう思われていましたか。　</p>

<p>【泉】立憲にも公明にも国民が見えていない、目先の選挙にとらわれていると印象づける大きなきっかけになってしまいました。<br />
踏まれても蹴られても強いものにくっついていく「下駄の雪」のように、公明党は26年間、組織防衛のために自民党と連立を組んできました。しかし高市政権ができると、「いい加減にしろ」とばかりに離れていった。でも内心は、高市さんじゃない自民党になったら戻りたい、という思いがあるのだろうと察します。</p>

<p>公明党は、いずれ再び自民党と組むという選択肢も念頭に置いているでしょうが、高市さんとは組めないので、自民党に高市路線ではないほうに戻ってもらいたいのではないでしょうか。しかし、戻るまでのあいだ、党を維持しなければいけない。そのための手段としての新党結成だったのではないか。そういう意味で、中道改革連合の急な結成は、明らかに組織防衛を意図したものだったと感じます。<br />
実際、公明党に関しては、この目的を達成しました。</p>

<p>自公連立時代の2024年の総選挙で、公明党は小選挙区「4」、比例代表「20」、合わせて「24議席」を獲得しています。しかし、連立を離脱した今回、公明党単独では小選挙区で勝ち目はありませんでした。<br />
そこで中道改革連合を結成した公明党は小選挙区から撤退して、候補を立てませんでした。その代わりに前回小選挙区で当選した4人を比例に回し、前回の比例当選組20人に加え、さらに4人を新たにプラスして、計28人を比例名簿の上位に並べました。結果は、28人全員が当選です。今回の選挙で一番勝ったのはもちろん自民党ですが、その次は公明党です。</p>

<p>もし公明党単独だったら、小選挙区は全滅で比例も20に届かなかったでしょう。それが中道をつくったことで、前回の24議席を28議席に増やすことができたのですから、公明党としては「してやったり」でしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>立憲と公明は地方議会・参議院でも合流するのか　</h2>

<p>【福田】これから2027年には統一地方選挙が、2028年には参議院選挙がありますが、その2つの選挙では、立憲民主党と公明党はどのように戦うことが予想できますか。　</p>

<p>【泉】立憲民主党と公明党は、2027年の統一地方選までは、地方議員は中道改革連合に合流しないで、独自候補を立てると表明しました。立憲側にすれば、中道への合流はとりあえずもういい、ということでしょう。最近では、「合流しないのも選択肢としてある」との発言が報道されていますが、流動的な状況です。</p>

<p>地方議会の選挙は10人、20人を選ぶ戦いです。これまで公明の名前で戦ってきた人も、立憲の名前で戦ってきた人もいます。公明の候補は、中道に合流してもしなくても、創価学会票がついているから当選します。中道に合流すれば、立憲支持者の票も入るかもしれませんが、そうした票はあってもなくても、あまり変わらないでしょう。</p>

<p>立憲にとって、合流はあまり得にはならず、合流しても公明に票が流れるだけでしょう。結局、公明、立憲ともに地方議会での合流に大きなメリットは見出せません。<br />
リアルな話、参議院での合流も立憲にメリットはないでしょう。なぜなら、合流したところで比例区の得票上位は公明の候補者が独占することが予想されるからです。<br />
どういうことか、2025年の参議院選挙をひもといて見てみましょうか。</p>

<p>比例区で当選したのは、公明が4名、立憲が7名でしたが、注目すべきはそれぞれの当選者の得票数です。公明は1位が約37万票台、2位が34万、3位が32万、4位で31万の得票です。5位が29万、6位が21万と、落選した2名も20万票を超えている。<br />
一方、7名の当選者を出した立憲は、1位の蓮舫さんこそ33万票台の得票数ですが、2位は一気に14万票、3位、4位は11万票台で、5位以下は9万票台と、10万票すら切っている。20万票を超えて名前を書いてもらえた候補者は、知名度のある蓮舫さんただ一人なのです。</p>

<p>参院選の比例区は名簿順ではなく、個人の得票数に応じて当選していく仕組みです。もしも公明と立憲が合流した場合、前回の選挙の結果を見ても、上位の当選者は蓮舫さんを除き、公明出身者がほぼ独占する状態になることは容易に想像できます。得票数が20万に届かない立憲の候補者は軒並み落選する可能性があるのです。</p>

<p>そのうえ、2022年の参院選では自民が圧勝して、立憲はボロ負けしています。このとき立憲は1人区でほとんど勝てていません。ほぼ比例か複数区での当選です。複数区では、基本的に公明のほうが有利です。もし公明の候補と立憲の候補が同じ中道の名で戦ったら、公明の岩盤支持者は当然、公明の候補に投票します。一方、立憲の候補からは浮動票が逃げていきます。結局、当選するのは公明の候補になるでしょう。</p>

<p>つまり、立憲と公明が参議院でも合流すると、立憲側では比例でも複数区でも現職の多くが落選することになります。だから参議院の立憲議員には、中道に合流するエネルギーは働かず、「一緒になったら、我々は落ちるじゃないか」と考えても不思議ではありません。一方で公明からは「合流するべきだ」との発言が出ています。<br />
それが政治のリアルです。今の流れのままでは、立憲民主党が公明党と一緒に躍進する未来は描きづらいのが正直なところですけどね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>政治のリアルから懸け離れていた驚きの名簿　</h2>

<p>【泉】それにしても今回の総選挙でびっくりしたのは、中道改革連合の比例名簿です。なぜあのような順位になったのか、理解不能です。<br />
たとえば比例の近畿ブロックで中道の候補は5人当選していますが、すべて公明党出身者です。近畿ブロックだけではありません。中道の比例代表での当選者は、近畿から西ではすべて公明出身です。西日本では公明出身者がきれいに全員通って、あとはゼロ、公明のあとに名前が出てくる立憲出身者に当選は回ってきませんでした。</p>

<p>近畿ブロックでは前回、2024年の総選挙で、公明党は3人当選しています。ところが今回は名簿の5位までを公明にプレゼントして、全員当選しています。名簿の6位にようやく立憲出身で重複立候補の馬淵澄夫さんの名前が出てきますが、小選挙区で落選した馬淵澄夫さんは比例復活できませんでした。結局、近畿で当選した中道の立憲出身者は、京都3区の泉健太さんだけでした。</p>

<p>無所属の私も参議院で立憲と会派を組んでいて無関係ではないので、比例名簿には注目していたのですが、当然、公明の候補者すべてを上位に並べるなどということはせず、小選挙区で当選したことのある立憲の候補者を重複候補として間に挟んでくるだろうと予想していました。そうでなければ、立憲の候補者を選挙区で応援する動機づけが公明サイドに生まれないからです。</p>

<p>近畿ブロックでいえば、5位まですべて公明の候補者で独占するのではなく、4位あたりで立憲の候補者を数名、間に挟むだろうと思っていました。そうなれば、下のほうの公明の候補者を当選させるために、間に挟まっている立憲の候補者を小選挙区で勝たせようと、公明は必死になって応援したはずです。</p>

<p>こうやってサンドイッチのように立憲を挟むことで、公明は名簿の最後の候補者まで通したいから頑張ります。当然、そういうエネルギーが働く順位づけをするものだと思っていたのですが、まったく違っていました。中道の比例名簿は11ブロックすべてで公明出身者が上位を独占していました。</p>

<p>ちなみに、かつての新進党には公明党も合流していましたが、小沢一郎さんは比例名簿で公明系候補を当選ラインぎりぎりの順位にしています。小沢さんは公明党が必死に頑張るようにちゃんと考えていました。政治のリアルをわかっているのです。</p>

<p>ところが今回の選挙では、頑張らなくても公明系の候補は全員通ることが明らかでした。前回まで小選挙区で公明党と喧嘩していた立憲の候補を頑張って当選させようというインセンティブが、これでは働きません。<br />
選挙後、立憲の人たちは公明の悪口を言わず感謝していますが、何がなんでも小選挙区で勝たせようとする本気の応援が展開されたわけではなかったと思います。</p>

<p>街頭演説をすれば公明が動員をかけて人を集め、拍手をしてくれます。立憲の候補者からすれば、100人も集まったら「たくさん来てくれてありがとう」と思うでしょう。しかし100人、200人集まったところで実際の得票はたかが知れています。</p>

<p>公明党の強さは、そこではありません。創価学会員が電話をかけまくって行う票の掘り起こしこそが強みです。学会員が非学会員の友人・知人に特定の候補への投票を依頼して獲得する票です。今回、公明党は全国的にそこまではやっていないのではないでしょうか。表の見えるところで、頑張っている姿を立憲側にアピールしただけの結果に終わっています。</p>

<p>本来、公明党の本気はそんなものではありません。死活問題になったときの最後の追い込みなど、半端ではないです。本当に自分たちの味方だと思って応援しているのか、昨日までの敵を応援する体制になっただけなのか、その違いだと思います。立憲の議員のうち、どれだけの人が、そうした内情を理解しているのか。結果として、各選挙区における立憲候補者は、公明党の比例票の積み増しに貢献しただけ、ということになってしまったのではないでしょうか。</p>

<p>その意味では、当時の立憲側の執行部があまりにも政治的駆け引きに対して無頓着というか、政治のリアルから懸け離れていると痛感せざるをえませんでした。それも含めての今回の結果かなと思いますね。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 28 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[泉房穂（参議院議員、元明石市長），福田充（日本大学危機管理学部教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】文明のなかで築かれた日本人の死生観（１）  佐藤弘夫（東北大学名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14582</link>
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			<description><![CDATA[なぜ生き、いかに死ぬのかという生と死の意味や価値についての基本的な考え方は、宗教・文化・個人の経験によって大きく異なります。日本文明のなかでかたちづくられた日本人の「死生観」とは。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、日本文明のなかでかたちづくられた私たちの「死生観」について、4回にわたって見ていきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「もの」を供養する日本人</h2>

<p>突然こんな話から始めて恐縮ですが、私は研究を始めるとき、資料や論文よりも「もの」から入ることが多くあります。全国各地を歩き、実際に目にして手に触れたさまざまな「もの」から、思索の幅を広げ深めていく。歩いた距離と見聞した「もの」の数からいえば、私は日本の学者の中でもかなり上位に入るのではないかとひそかに思っています。</p>

<p>今回いただいた「日本人の死生観」というテーマについても、まずは具体的な「もの」の話から始めたいと思います。</p>

<p>私が2024年まで勤めていた東北大学には医学部があります。その敷地内に「惜命碑（せきめいひ）」と呼ばれる石碑があります。研究の過程で命を失った実験動物たちを供養する慰霊碑です。日本の医学部や研究機関では、このような慰霊碑があることは決して珍しくありません。</p>

<p><img alt="" height="734" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260701satou1.jpeg" width="1200" />　　<br />
東北大学敷地内に建つ「惜命碑（せきめいひ）」（写真：佐藤弘夫氏、以下同）</p>

<p>ところが、海外ではそうではないのです。20年以上前、アジア諸国における実験動物の供養について調べたことがありますが、日本以外の国では動物慰霊碑の事例をほとんど見出すことはできませんでした。中国や韓国でわずかに見られた供養碑も、日本の影響を受けて建てられたものでした。実際、東北大学の動物慰霊祭に参加していた中国人留学生は、「私の国ではこういう儀式を行ないません」と話してくれました。</p>

<p>動物供養は研究用の動物に限定されません。家畜として育てられた牛や馬、ペットとして飼われてきた犬、猫、鳥類、さらには野生動物の熊、鹿、サルに至るまで、多種多様な供養碑が各地に建てられています。くじらの追い込み漁で知られる和歌山県太地町には、「くじら供養碑」も存在します。</p>

<p>さらに注目すべきは、日本では人間や動物だけでなく、草木の類、道具・器具といった無生物までもが供養の対象となっていることです。東北地方、とくに山形県の置賜地方には多くの「草木供養塔」が見られます。山仕事に従事する人びとが、伐採した木や刈り取った草に感謝と鎮魂の思いを込めて建立したものです。無生物の供養といえば、折れたり錆びたりして使えなくなった針を豆腐や蒟蒻などに刺して労う「針供養」や、役目を終えた雛人形や市松人形などを納める「人形供養」があります。近年では、使い古したコンピュータを供養する「電脳供養」まで行なわれています。</p>

<p><img alt="" height="734" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260701satou02.jpeg" width="1200" />　　<br />
役目を終えた雛人形や市松人形などを納める「人形供養」</p>

<p>人間以外の存在を供養の対象とするのは、世界的にみても極めて珍しい現象です。なぜ日本では、これほどまでに人ではないものたちを丁重に弔うのでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「社会は人間のみで構成されている」のではない</h2>

<p>この疑問を解き明かすカギは、日本人が長く抱いてきた世界観（コスモロジー）にある、というのが私の見立てです。</p>

<p>現在、わたしたちは日本で生を享け、日本で生活しています。しかし、地域や時代が異なれば、そこには全く違う空間が広がっています。一歩海外に出れば、日本の常識や価値観が通用しないことがよくありますし、日本国内であっても時代を遡ると、現代人の尺度では理解できない世界が存在しているのです。</p>

<p>では、かつての日本社会を覆っていたコスモロジーと、現代人が共有するコスモロジーの間は、どのような違いがあるのでしょうか。</p>

<p>現代では、「世界や社会は人間によって構成される」という前提が、ほぼ疑うことなく受け入れられています。社会を構成する主体は人間であり、だから動物には選挙権がない、というわけです。しかし歴史を遡れば、この前提は決して自明のものではありませんでした。</p>

<p>たとえば、現代でもその名残が見られますが、中世ヨーロッパの都市では、街の中心に教会が置かれました。日本でも、寺院や神社が地域の要所に設けられていました。公共空間の重要な場所に、神仏のための施設が存在したのです。これは、神や仏が社会の不可欠の一員として位置づけられていたことを意味します。</p>

<p>神や仏だけではありません。死者、そして動物や植物、ときには無生物までもが、世界を構成する要素として認識されていました。人ではなく、神仏や死者のほうがこの世の「主役」とみなされるケースさえありました。人は、社会を構成する無数のピースの一つにしか過ぎなかったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「主体は人間」である欧米社会</h2>

<p>イギリスの作家Ｅ.Ｍ.フォスターに、『インドへの道』という有名な長編小説があります。イギリス植民地時代のインドを舞台に、英国人とインド人の複雑な人間模様を描いた名作です。</p>

<p>その中で、2人のイギリス人宣教師が、「神の恩寵」の範囲（天国にはだれが入れるのか）について議論するという、興味深い場面があります。</p>

<p>人間は神に似せて造られたから当然、神の恩寵の対象となる。サルは人間に近いから恩寵を受けることができるだろう。ジャッカルはサルよりは下等だけれども、哺乳類だから仲間に加えてよい。では、スズメバチはどうか。オレンジ、サボテン、水晶、さらには体内のバクテリアはどうか&hellip;&hellip;。ここまで話が及ぶと、彼らは「それは行き過ぎだ」として議論を打ち切ります。</p>

<p>ここにあるのは、人間と人間以外を明確に区別するとともに、万物にランク（階層）を設けるという発想です。ヨーロッパのようなキリスト教世界では、神に似せて造られた存在として、人間を特別視する世界観が確立していきます。そして近代以降は、神の存在感が後退する一方で、人間そのものが特権的な存在として前面に押し出されていくのです。</p>

<p>人間は、みずからに内在する理性を発現していくことによって理想の生き方が可能となる。社会もまた人の進化に対応して、際限のない発展を遂げていく――デカルト以降の近代思想は、そのような前提の上に築かれました。人間が中心となり、世界を解釈し、支配していくことを当然とする世界観が、その背景に存在したのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>万物との関係性を重視する日本</h2>

<p>それに対して日本列島では、前近代の世界観が後世まで長く影響を残していました。社会は人間だけで構成されているのではなく、神仏、動物、植物から命のないものまでが、世界のあり方に関与しているという感覚です。</p>

<p>そのような世界観のもとでは、あるべき生き方とは、人間のみが主体性を発揮して思うがまま生きていればいいということにはなりません。この世界を構成する人と万物が、いかにうまく調和していけるかという点が重視されることになります。</p>

<p>近代ヨーロッパと日本の世界観の違いを、別の角度から考えてみましょう。近代の西欧で発展した「哲学」では、「人はどう生きるべきか」という問題が真っ向から論じられます。日本でもそういったタイプの哲学が全くないわけではありません。明治維新を経て近代化が進展すると、西欧哲学の影響を受けて人生観が盛んに語られるようになります。西田幾多郎と京都学派の哲学はその代表的なものです。</p>

<p>しかし、近代でもそうしたタイプの哲学は日本の思想の主流にはなりませんでした。日本では伝統的に、いかに生きるべきかが声高に論じられることはなく、寓話や説話のなかに、あるいは祭りなどの儀礼のなかに、人生の知恵が埋め込まれるという形が取られてきました。その流れを受けて、近代になっても「人はどう生きるべきか」というテーマが正面から論じられるケースは少なく、宮澤賢治の文学のように、他者との関係性を描いた物語に深い思索が散りばめられることになったのです。</p>

<p>仮に、個々人における理性の発現と主体性の確立を至上視する西欧近代思想を、「主体性の哲学」と呼ぶことにしましょう。それと対比したとき、万象の調和を重んずる日本のような思想は、「関係性の哲学」ということができるのではないでしょうか。どちらがいいか悪いかという問題ではありません。両者の間では、目指すべき人生のあり方そのものがはっきりと異なっているのです。</p>

<p>日本では、生物・無生物問わず、世界の多種多様な構成員との間に結ばれる「縁」や「関係」をいかに調和的なものにしていくかが、理想の生き方として長く追求されてきました。今も日本列島で営まれる人以外の存在に対する手厚い「供養」は、そうしたプロセスを経て身についてきた日本人の肌感覚の象徴のように思われるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>＊本原稿は、日本の文明的な性格がいかなるものかを顕在知として表出していくことをめざす「日本文明研究会」の内容を記事化したものです。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260701satou02.jpeg" />
						
						<pubDate>Thu, 27 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[佐藤弘夫（東北大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「右」対「左」の時代は終わる　泉房穂氏と福田充氏が語る日本政治の新しい時代  泉房穂（参議院議員、元明石市長），福田充（日本大学危機管理学部教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14667</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014667</guid>
			<description><![CDATA[参議院議員で元明石市長の泉房穂氏と日本大学教授の福田充氏が、総選挙の結果を踏まえ、多角的な視点から日本政治の未来を語り合います。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「右」対「左」の時代は終わる　" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_vote.jpg" width="1200" /></p>

<p>2026年衆議院議員総選挙で自民党が歴史的な大勝を収め、日本政治は新たな局面を迎えました。<br />
この結果は「右対左」という従来の政治の対立軸が終わりを迎えたことを意味するのでしょうか？<br />
それとも、小選挙区制が生み出した一時的な現象なのでしょうか？</p>

<p>本稿では、参議院議員で元明石市長の泉房穂氏と日本大学教授の福田充氏が対談。総選挙の結果を踏まえ、「国民を向いた政治」という新たな対立軸の可能性や、健全な野党の再建、政権交代が機能する民主主義のあり方について、多角的な視点から日本政治の未来を語り合います。</p>

<p>※本稿は、泉房穂、福田充著『国民のお金はどこに消えた？』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「右」対「左」の時代は終わる</h2>

<p>【福田】2026年2月の衆議院議員総選挙で、高市早苗首相率いる自民党が単独で総定数の「3分の2」を超える316議席を獲得する圧倒的な勝利を収めました。真冬の2月に総選挙が実施されたのは、奇しくも私と泉さんが出会うきっかけとなった1990年2月の総選挙以来、36年ぶりのことでした。</p>

<p>振り返れば、わずか1年4カ月前の2024年10月に行われた石破茂政権下の総選挙では、自民党は67議席減の191議席と大敗を喫し、連立を組む公明党と合わせても過半数を割り込む少数与党に転落していました。さらに2025年7月の参議院議員選挙でも自民党と公明党は大きく議席を減らし、非改選と合わせて、参議院でも与党は過半数を割り込みました。</p>

<p>そして高市政権発足後の同年10月、公明党は26年間続いた自民党との連立を解消、自民党は新たに日本維新の会と連立を組んだものの、参議院では少数与党の状態が続きます。</p>

<p>こうした流れの中で、政界再編、政権交代が現実味を帯びてきたというのが、高市政権発足前後の政治状況だったと思います。ところが、今年（2026年）2月の総選挙で状況は一変しました。立憲民主党と公明党は「中道改革連合」を立ち上げましたが、2月の総選挙で大敗しました。</p>

<p>高市政権の圧勝と中道リベラルの崩壊を経て、これから本腰を入れて「新しい軸」の構築、健全な野党の育成と政権交代可能な政治システムの構築をいかに進めていくかが、今非常に重要になっていると私は考えています。</p>

<p>なお、日本で「リベラル」というと、どうしても「リベラル左翼」のことと思われがちですが、そうではありません。真の「リベラル」とは何か、その本質についても議論したいと思います。</p>

<p>これまで自民党と対峙してきた野党のリベラル勢力は、失礼な言い方かもしれませんが、ほぼ「焼け野原」になったといえます。そんな中で新しい軸の構築を担えるのは泉さんしかいないと私は考えているのですが、泉さんは2月の総選挙の結果をどのように見ていますか。</p>

<p>【泉】長い目で見たとき、私はこの状況が悪いとは思っていません。福田君は「焼け野原」という言葉を使いましたが、まだ火が収まったわけではないから、しばらくは大変な時期が続くでしょう。しかし極端に前向きな人間としては、一度焼け野原になったほうが、新しい種をまいて、新しい作物をつくれるという意味において、可能性が広がったともいえます。</p>

<p>【福田】なるほど、そのように考えたら前向きになれますね。</p>

<p>【泉】だから、私としてはそんなに悲観していなくて、逆にきれいな更地にしてもらったほうが、新しいものをそのあとにつくるには都合がいいと思っています。</p>

<p>大きな話をすると、戦後、日本で続いてきた「右」対「左」の政治が終わって、私の言葉を使うと「国民を向いた政治」か「企業やこれまでの既得権益者を向いた政治」か、という対抗軸に移っていくでしょう。もう「右・左」の時代は終わると思います。</p>

<p>いわゆる「中道」勢力も基本的には「右・左」を前提にしていて、いくら「真ん中の中道」といっても、「そうはいっても、お前ら左じゃないか」という批判も含めて、「右・左」という概念に乗っかってきたわけです。しかし、この旧来の構図に乗っかっていては、もう多数派にはなれない時代になりました。これに代わる新しいビジョンで再構築すべきです。</p>

<p>その意味で、今回の総選挙で注目されたのが「チームみらい」です。彼らは「右・左」の概念にとらわれないほとんど唯一の政党でした。彼らは「テクノロジーで徹底的に政治をアップデートします」と主張します。「いつまで古い人間に政治を任せているんですか。新しいテクノロジーをもっと活用しましょう」という「右・左」ではないメッセージを受け止めて、「古いよりは新しいほうがいいな」と、チームみらいに票を入れる人が一定数いたわけです。</p>

<p>今回、チームみらいに投票した人の中には、これまで右を支持していた人、左を支持していた人、両方いると思います。では、チームみらいがこれまでの古い政治に代わる一大勢力を形成できるかというと、そう単純にはいえないでしょう。</p>

<p>いずれにせよ、これまでの「右・左」にこだわっていた勢力がいったん、焼け野原になった状況だとはいえると思います。</p>

<p>【福田】確かに「右か左か」という旧来のイデオロギーの対立は、現代社会では無意味になりつつありますね。東西冷戦構造も55年体制も崩壊している政治状況で、すでにマルクス主義も敗北して、「何が右で、何が左か」という基準や対立そのものがわかりにくくなりました。</p>

<p>アメリカの共和党と民主党の対立構造は、「リバタリアン」と「コミュニタリアン」を軸とした政治思想、政治概念を基盤としていますが、それは日本の政党の政治思想には必ずしも合致していません。</p>

<p>日本でいう「保守か、革新か」という軸も、現代では不明確になってきました。私自身、大学生と危機管理学や政治学の研究、教育をしていて、学生たちと議論することが多いですが、新しい政策を提案する与党の自民党のほうが「革新」的で、旧来の主張を繰り返すばかりの立憲民主党や共産党などの野党のほうが「保守」的だと感じている学生がたくさんいる、ということに気づきました。そういう意味では、「保守か革新か」という構造も相対的なもので、絶対的なものではないですね。</p>

<p>私たち研究者や、政治家のほうが、そういう古い対立軸や図式にとらわれすぎないことが大事ですね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>圧勝したからといって勝ち続けるとは限らない</h2>

<p>【泉】前向きな人間としては、現状を悲観していない理由はまだあります。日本が民主主義の国だからです。独裁国家でもなければ、かつてのような武家社会でもありません。日本には選挙があります。選挙のない国であればいざ知らず、選挙があるんだから、選挙を通して状況を変えることは可能です。どんなに遅くとも、4年以内に総選挙があります。</p>

<p>今回の総選挙で自民党が圧勝しましたが、自民党の小選挙区での得票数は2700万台で、岸田文雄政権の2021年に行われた総選挙とほぼ一緒です。もっといえば、2009年の民主党に政権交代したときの総選挙で自民党が獲得した票ともあまり変わりません。自民党票が大幅に増えたわけではないのです。</p>

<p>それなのに、自民党が今回圧勝できたのは、小選挙区制のなせる業です。野党統一の動きが鈍く、全国289の小選挙区で次々にトップが入れ替わっていったことで、結果的に自民党が圧勝しただけです。その意味では、小選挙区をベースとした日本の選挙制度の特徴がよく表れた選挙だったといえます。小選挙区制というのは、たとえそれぞれの選挙区では僅差であっても、オセロのように全体の景色が一瞬で入れ替わる制度なんです。</p>

<p>さらに言うと、選挙というのは、一度圧勝したからといって、次も勝てる保証はありません。たとえば2005年の郵政選挙、私が落ちた衆院選ですが、このとき自民党は296議席を獲得して大勝しています。</p>

<p>当時はこれがずっと続くかと思われたけれど、その2年後の参院選では与野党が逆転し、2009年の総選挙で今度は民主党が308議席を取って圧勝、政権交代を実現しています。こういうことは選挙制度上、ありうることです。</p>

<p>このときは郵政選挙で圧勝した小泉純一郎首相が2006年に退任すると、そのあと安倍晋三首相、福田康夫首相、麻生太郎首相と1年交代の政権が続き、国民が新しさを求めている状況の中で2009年、政権交代が実現、鳩山由紀夫民主党政権が誕生したわけです。もちろん状況は当時と違いますが、2年半後（2028年）には参院選があり、4年以内に総選挙もあります。理論上、2009年の再来は可能だと思います。</p>

<p>今回の総選挙以前に自民党が衆議院で300議席を超えたのは、1986年の衆参同日選挙1回だけです。これは中曽根康弘首相のいわゆる「死んだふり解散」に伴う総選挙で、追加公認を含めて304議席を獲得しています。しかし、翌87年の統一地方選で自民党は負けています。</p>

<p>このように歴史を振り返ると、今焼け野原だからといって、永遠にそれが続くわけではないことがわかります。ポイントは、新しい勢力をいかにして形成するかというところだと思います。</p>

<p>ちなみに86年の「死んだふり解散」では、中曽根首相が解散は絶対にないと思わせておいて、電撃的に解散に打って出ました。2005年の郵政選挙では、郵政民営化法案が参議院で否決されたから衆議院を解散して国民に信を問うという、誰もが「そんな無茶なことをするはずがない」と思っていた解散を小泉首相が断行しました。結局、過去2回の自民党の大勝は、「不意打ち解散」によって勝ち取ったものなのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 25 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[泉房穂（参議院議員、元明石市長），福田充（日本大学危機管理学部教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】現代天文学から見た、人間のこれまでとこれから（１）  高梨直紘（天文学者／東京大学EMP室特任准教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14579</link>
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			<description><![CDATA[天文学者の高梨直紘さんが、宇宙が人間社会や精神に及ぼしてきた影響を手掛かりに、これからの人間の在り方を見つめ直す視座を拓きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="人間像研究会" height="736" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260628takanashi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>「22世紀の人間像研究会」は、多様な分野の専門家とともに「人間とは何か」という根源的な問いを見つめ直し、未来の人間像を探究する試みです。今回は二回にわたって、天文学者の高梨直紘さんが、宇宙が人間社会や精神に及ぼしてきた影響を手掛かりに、これからの人間の在り方を見つめ直す視座を拓きます。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>星空と人間の精神性の芽生え</h2>

<p>天文学というと、浮世離れした学問と思われがちですが、実は天文学は人間社会の秩序の形成、芸術や都市建設など、日常生活のあらゆるところにかかわっています。その天文学から見た人間社会のこれまでとこれからについて、お話ししていきたいと思います。</p>

<p>そもそも、人間はいつから星空を認識していたのでしょうか。正確にはわからないのですが、証拠的なものとしてよく引き合いに出されるのが、洞窟の壁画です。有名なラスコーの洞窟やアルタミラの洞窟には、クロマニョン人が描いたとされる壁画があります。狩猟の対象となった動物の絵が知られていますが、星空から何らかのインスピレーションを受けて描かれたような絵も残っています。</p>

<p>私はこの時代の壁画を実際に見たことはないのですが、洞窟に入ったことは何回もあります。光が届かない内部は真っ暗です。昔の人は闇のなかで、おそらく松明か何かを掲げながら絵を描いたのでしょう。そこまでして、なぜわざわざ洞窟の中に絵を描く必要があったのでしょうか。</p>

<p>ある研究者が、「あれは古代の人にとっての映画館みたいなものだ」という話をしていました。炎のゆらめきの中でウマやシカなどの絵を眺めると、それらの動物があたかも動いているかのように錯覚できるのだ、と。当時の人間たちは、そこで何を思い、話していたのでしょうか。そこでの語りも神話のもとになっていったのかもしれません。</p>

<p>そうした営みは、洞窟の中だけではなかったのだろうと思います。夜、焚き火をしながらゆらゆらと揺れる炎の光を囲んで、いろいろな話をしたことでしょう。そのとき、上を見上げるとそこには表情豊かな星空があった。一年の半分は夜ですから、星空は人間の精神性の芽生えに深く関係していたと私は思います。</p>

<p>この話は想像の域を出ませんが、満天の星の下に身を置いたときに覚える深い感動は、その確かな根拠のひとつかもしれません。なぜかわからないけれど、星空を見上げると心を動かされる――みなさんにも、そんな経験があるのではないでしょうか。</p>

<p>星空に対しては、美しさだけでなく、恐怖を感じることもあったかもしれません。いずれにせよ、星空という大自然に圧倒される感覚は、現代人にも確かにあります。その感覚を手がかりにすれば、何万年も前の祖先たちもまた、同じような思いを抱いていたのではないかと思えてきます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>人類が星から教わった「三つの秩序」</h2>

<p>星空は、人間にどのようなことを教えてくれたのでしょうか。代表的なものとして、ここでは三つ挙げてみます。</p>

<p>まず、空間的な秩序です。人間は地球の重力のもとで生活するなかで、上下という感覚を身体的に獲得してきました。前後左右は自分を中心とした相対的な方向ですが、東西南北は個人に依存しない絶対的な方向として成立します。こうした方角の概念は、ほぼすべての文明に見られます。</p>

<p>その背景には、天体の規則的な運動があります。太陽は毎日昇って沈むため、「日が昇る方」「日が沈む方」として東西の感覚が生まれたと考えてもよいでしょう。また星空を観察することで、北と南に対応する方向を意識するようになったのだと思います。</p>

<p>第二に、時間的な秩序です。私たちは「1年365日」として生活していますが、人類はかなり早い段階でこの周期を認識していたと考えられます。太陽の運行を継続的に観察することで、その周期が測定され、暦として体系化されていきました。月の満ち欠けも同様です。月の運行に基づく「ひと月」という概念が生まれ、陰暦として社会の基盤的な時間体系を形づくってきました。</p>

<p>この世界は整然と流れる時間によって支えられているという、現代を生きる私たちにとってはごく当たり前のこの感覚も、その起源をたどれば、星空の観察に行き着きます。</p>

<p>空間や時間に関する感覚が人間の意識のなかに定着していくなかで農業が始まり、やがて収穫した作物を交換するようになりました。そうした経済活動においては、「いつ、どこで物を受け渡すのか」を、離れた人どうしで共有する必要が生じます。そのため、特定の天体の動きに基づいて、「この月のこの日に、この場所で市を開く」といった取り決めが行なわれるようになったのだと思います。</p>

<p>日本各地に残る「廿日市」や「四日市」といった地名は、その名残のひとつです。月の満ち欠けを基準に、人々が定期的に集まり、物々交換を行う場所だったのです。こうした初期の交換社会を支えていたのは、星空の観察から得られた知識と知恵だったと言えるのではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「北極星」が象徴した人間界の権威</h2>

<p>三つめは、精神的な秩序です。星空は、人間が世界の意味や権威の根拠をどこに見出すかという点にも大きな影響を与えてきました。</p>

<p>たとえば北極星は、古代中国においては天帝と結びつけられていました（ただし、これは概念として天の北極を指しており、現在のおおぐま座アルファ星のことではない事には注意が必要です）。天帝とは、すべての権力を統べる中心的存在です。星の動きを観察すると、北極星を中心に他の星々が回っているように見えることから、権力の中心の象徴として位置づけられたのです。</p>

<p>中国の皇帝を指す天子は、天帝から地上の統治を任された者とされました。天子は天の意志を読み取る存在であり、日食や月食といった天文現象も政治（まつりごと）のなかで重要な意味を持ちました。</p>

<p>こうした例は、中国に限りません。古代文明においては、権力の正当性の根拠を天に求める発想が広く見られます。たとえば、ハンムラビ法典の石碑には、太陽神シャマシュが王に法を授ける姿が刻まれています。またルーブル美術館や大英博物館には、星座の原型となる図像が刻まれた境界石がいくつも展示されています。これらは、メソポタミアにおいて土地の所有権を公式に記録するための石であり、そこに刻まれた星座は契約の証人となる神々の象徴と考えられていました。土地の所有権を示すこうした石に天の象徴を刻むことで、その正当性を担保しようとしたのです。</p>

<p>このように古代においては、支配者と被支配者、王と民といった身分的秩序も含め、精神的秩序の根拠が天の世界に求められていました。世界各地の神話において宇宙や星の物語が重要な位置を占めていることも、そのことを裏づけていると言えるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>経済学にも影響を与えた星の動き</h2>

<p>人間は古来、星空からさまざまな知恵や知識を吸収してきたわけですが、さらに時代を進めれば、「学問の方法論」もまた、星空の観察を通じて育まれたところがあります。</p>

<p>天文学は、古代ギリシア時代から自然哲学の一部として存在しました。星空の構造や星の種類、星の動きなどさまざまな角度から探求が行なわれ、そこで培われた方法論は、その後に続く学問の礎になりました。たとえば、星の動きを測定し、距離や位置を特定するために幾何学や三角法などの数学が発達しました。占星術や航海術なども、天文学から枝分かれしていった実学です。</p>

<p>16世紀から17世紀になると、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクス、その正しさを証明したガリレオ・ガリレイやヨハネス・ケプラーなどが出てきます。観測によって現象を数値化し、数学に基づいたモデルと照らし合わせながら物事の本質を探究していくという方法が、近代科学の「型」として定着していきます。</p>

<p>こうした実証的な方法は、サイエンス以外の分野にも広がりました。有名な例を挙げれば、アダム・スミスの初期の論考の一つに「天文学史」というものがあります。正式名称は、&ldquo;Principles Which Lead and Direct Philosophical Enquiries; Illustrated by the History of Astronomy&rdquo;ですが、直訳すると、「天文学に見る哲学的探究を導く諸原理」となります。</p>

<p>アダム・スミスは、この論考のなかで、天文学という自然科学の成功モデルを、人間社会の理解に応用しようとしました。複雑な現象の背後にある秩序や体系を、実証的な方法を通じてシンプルな原理で説明する、そういった天文学の手法を、その後自身の経済学に取り入れていきます。いまある学問の源流には星空も含めた「自然との付き合い」があったと言えるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>＊本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。天文学者の高梨直紘さんにお話しいただいたこちらの内容は、後日掲載する「ディスカッション篇」に続きます。</p>
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						<pubDate>Tue, 25 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[高梨直紘（天文学者／東京大学EMP室特任准教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ高齢者があえて大手コンビニで万引きするのか...刑務所がセーフティネット化する日本の今  橘真理夫（弁護士）,真田幸光（嘉悦大学学長）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14872</link>
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			<description><![CDATA[東京銀行、モルガン・スタンレーを経て55歳で弁護士に転身した橘真理夫氏。刑務所が福祉の受け皿と化す現実を見つめ、孤立や貧困に向き合うことで再犯を防ぐ「よりそい弁護士制度」の挑戦を語る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="橘真理夫（たちばなまりお）" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260814tachibanamario.jpg" width="1200" /><br />
&nbsp;</p>

<p>東京銀行、メリルリンチ、モルガン・スタンレーと国際金融の最前線を歩み、55歳で弁護士に転身した橘真理夫氏。現在は障害者の刑事弁護を専門とし、罪を犯した人の社会復帰を支援する「よりそい弁護士制度」の導入に尽力しています。嘉悦大学学長で国際金融に精通する真田幸光氏との対談から、異色の法律家の来歴と活動の核心をお届けします。</p>

<p>（写真提供：橘法律事務所、構成：佐藤有真[PHP研究所]）</p>

<p>※本記事は真田幸光オンラインサロン「経済新聞が伝えない世界情勢の深相～真田が現代の戦国絵図を読む～」で開催されたイベントより一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>金融マンから55歳で弁護士へ</h2>

<p>真田：今日は私の大事な親友、橘真理夫さんに来ていただきました。東京銀行時代からの仲間で、早くに銀行を辞められて、メリルリンチなど外資系で大活躍された後、弁護士資格を取られた方です。米国公認会計士など多くの資格をお持ちで、ニューヨークと東京を行き来する飛行機の中で勉強して取ったと伺って、驚いたものです。私はビジネス弁護士になるのかと思っていたら、違うんですね。いまは刑事事件を中心に、自ら弁護を頼めないような人たちの弁護をされている。まず自己紹介を含めてお願いします。</p>

<p>橘：街の金融業の家に生まれて、早稲田の理工に進んだんですが、当時、理系の先輩がいなかった金融の世界に、敢えて飛び込んでみようと思い、東京銀行に入りました。ニューヨークでディーラーをやって、その後メリルリンチに移って、その後に転職したモルガン・スタンレーで上司と喧嘩してクビになりましてね。解雇無効の裁判をやったとき、その裁判が本当にひどかったので、「これなら自分でやろう」と勉強を始めたんです。でも、なかなか司法試験に受からず、弁護士になったのは55歳のときでした。</p>

<p>橘：司法修習のときに依存症の方などと接した経験もあって、刑事弁護を専門にしました。障害のある方の刑事弁護もやりますが、扱うのは殺人、強盗、覚醒剤といった重大事件が中心です。2024年度は第一東京弁護士会の副会長も務めました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>刑務所が「最後のセーフティネット」になっている</h2>

<p>真田：刑事弁護の現場から、日本社会はどう見えていますか。</p>

<p>橘：裁判をやっているとよく分かるんですが、生活保護などのセーフティネットからこぼれた人を、最後は刑務所が救っている形になっています。何をやってもこぼれてしまう人がいる。その受け皿が結果的に刑務所になっていて、だから日本では野垂れ死にする人があまりいない。これが現実なんです。</p>

<p>橘：たとえば冬が近づくと、住む場所のない高齢者がわざと万引きをするんです。一般商店だと許してくれてしまうから、絶対に警察に通報すると決まっている大手のコンビニをわざわざ選ぶ。捕まえてもらって、やっと屋根のある所でご飯が食べられる。刑事施設によっては、正月にお餅を食べられるので「拘置所でお正月を越したい」という人が実際にいるんですよ。</p>

<p>真田：それは驚きです。</p>

<p>橘：例えば国内最大の府中刑務所では、いまや65歳以上の受刑者が目立って多いんです。刑務所は、受刑者の処遇を本気で考えますし、受刑中は規則正しい生活を送れます。刑務所には医師がいて、処方薬を刑務所職員がきっちり管理して飲ませますから、入るとかえって健康になる。働きたくても働けない、そういう人に機会を与えられない社会そのものの問題かもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「よりそい弁護士制度」とは何か</h2>

<p>真田：その中で、橘さんが取り組まれている再犯防止の活動について聞かせてください。</p>

<p>橘：再犯を重ねる人は、社会的な弱者が多いんです。お金があって失うものが多い人は、なかなか犯罪を繰り返しません。何度もやってしまう人は大体厳しい生活をしていて、更にそういう人を食い物にする悪い連中も現実にいる。出所しても、彼らにむしり取られてしまい、「刑務所に戻った方がましだ」という人までいるんです。</p>

<p>橘：そこで、前から一部の刑事弁護人がボランティアでやっていた寄り添い活動を、弁護士会の「よりそい弁護士」という制度にして、拡げる仕組みを作りました。不起訴・執行猶予で釈放された人や刑務所を出所した人に対して、本人が拒絶したらやめますが、いつでも電話をかけられる状態にしておいて、時々面接をする。弁護士だけでできることは少ないので、社会福祉士やお医者さんと連携して、治療につなげたり、社会的な制度を使えるようにサポートしたりします。</p>

<p>橘：真夜中に不安を抱えた人から電話がかかってくることもあります。例えば、自殺したいと言われても、私は話を遮ったり説得しようとはせず、まず最後まで聴きます。1時間くらい聴いていると、気持ちが落ち着かれることが多いです。また、社会での弱い立場につけこまれて、他人からの理不尽な請求をされるケースもよくありますが、弁護士が出ていくと、大抵は止まります。横に頼れる存在がいるだけで、精神的に安定していく人は確実にいるんです。まだ寄り添っている人数は多くありませんが、効果は出始めています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>孤立と貧困への対処が、重大犯罪を防ぐ</h2>

<p>真田：この制度は、どういう問題意識から生まれたのですか。</p>

<p>橘：過去の社会を震撼させた無差別的な大事件を分析すると、共通するパターンがあるんです。加害者が社会的に孤立して、困窮して、最後に自暴自棄になって「世の中をひっくり返してやる」という行動に出る。例えば京アニ放火事件の青葉真司死刑囚は、社会的な孤独を深める過程で、コンビニ強盗などの前科という形で危険なサインが現れていた。こういうサインはさすがに受け止めようと。危なそうな人が、まだ微罪という形で現れてくる段階で網をかけて、できるだけサポートしようと考えたんです。</p>

<p>橘：こういった凶行が1件起きれば、被害者とその家族や関係者まで含めれば千人単位の人を不幸にします。逆に言えば、一人の暴発を防げれば千人を不幸から救える。私が千人救えるなら、10人の弁護士がいれば1万人です。だから弁護士会の制度にして、補助の仕組みも作り、いろんな専門職につなげられるようにしたんです。</p>

<p>真田：厳罰化を求める声もありますが。</p>

<p>橘：お気持ちはよく分かります。ただ、どんな罪でも刑期を終えれば社会に戻さざるを得ない。また、出所者などにGPSを付けて監視したとしても、多少の抑止力にはなるかもしれないけど、依存症などが原因の犯罪にはあまり効果がない。後の祭りになってから居場所が分かっても仕方がないんです。だから、犯罪そのものを抑制できるソフトな仕組みを整備することが、いまできる中では一番現実的だと考えています。治療が必要な人には治療につなげる。矯正と社会的サポートの両方が要るんです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「自分ができることを、できるところから」</h2>

<p>真田：最後に、この活動にかける思いを聞かせてください。</p>

<p>橘：日本の課題は山ほどありますが、「自分のスコープで何ができるんだろう」とまず考えるんです。私にできるのは、再犯率を少しずつ減らすこと。流されるだけでなく、他力本願でもなく、自分ができるところで貢献していく。そう考えると、やれることは結構あるんですよ。</p>

<p>真田：我々もそれぞれのポジションで、やるべきことをやりながら、ということですね。本日はありがとうございました。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260814tachibanamario.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 18 Aug 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[橘真理夫（弁護士）,真田幸光（嘉悦大学学長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【AI時代】シリコンバレーを追うな！日本独自の｢混ぜるOS｣という最強の生存戦略  柳澤田実（関西学院大学神学部准教授）,大柴行人（ロバスト・インテリジェンス共同創業者）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14715</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014715</guid>
			<description><![CDATA[アメリカの｢強い思想・直線的進歩｣に対し、日本は手元の技術を工夫し循環させる｢ブリコラージュ｣や、すべてを｢混ぜる｣柔軟性が強み。二つのOSを自覚し、独自の精神性でAI時代を生き抜く道を示す。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="グローバル" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityLI/pixta_global20170606LI.jpg" width="1200" /></p>

<p>シリコンバレーのトレンドを追う日本に勝機はあるのか？ 大柴氏と柳澤氏が、手元にある技術を面白がりながら応用する｢ブリコラージュ｣や、すべてを｢混ぜ合わせる｣日本の身体感覚を活かした独自のAI生存戦略を語る。</p>

<p>※本稿は、前後編の後編です。『Voice』2026年5月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>完璧な設計より、現場の応用力｢日本的ブリコラージュ｣という最強の生存戦略</h2>

<p>【大柴】僕たちがピーター・ティールのような存在から学ぶべきは、目先の変化に振り回されるのではなく、10年、20年先を見据えながら、自身のルーツとなる精神性を、テクノロジーというかたちで社会に具現化してきたことにこそあると思います。ただし、彼らの手法までを真似て、日本がシリコンバレーのテック企業のようにカウンター・イデオロギーを掲げて対抗しようとしても、結局はアメリカ国内の対立をなぞるだけになってしまう。</p>

<p>【柳澤】私も大柴さんと同意見で、アメリカ人のような強い思想やイデオロギーを掲げるのは得策ではない、と思います。｢日本的なもの｣を声高に主張しても、結局はオリエンタリズムとして消費されて終わる危険性もあります。</p>

<p>【大柴】日本が伝統的に得意としてきたのは、絶対的なイデオロギーや思想を掲げることではなく、現場の｢実践｣や｢工夫｣のなかで技術を磨き上げる部分だったはずです。外来の技術や概念を取り入れて組み合わせながら、独自の文化や技術を育ててきた強みがある。目的から逆算するエンジニアリングより、ブリコラージュ(手元にあるものを活かす知恵と工夫)に近い発想です。あらゆる技術を柔軟に取り入れ、AIをものづくりや生活のなかで｢面白がりながら｣活かしていくアプローチこそ、日本人の性に合っているのではないでしょうか。</p>

<p>【柳澤】歴史的に見ても、日本にはキリスト教の神のような超越者を立てる発想が根づきにくく、絶対的な規範を掲げる思考が馴染まない傾向があります。</p>

<p>しかし2010年代までの、シリコンバレーも、日本のような反超越的で分散型のコミュニケーションを理想として発展してきた側面があります。スティーブ・ジョブズが禅や苔寺(西芳寺)に惹かれていたのは、日本の反超越・分散型の思想に傾倒していた証左です。</p>

<p>ですので私も期待を寄せるのは、大柴さんがおっしゃるような、言語化は難しいもののコンセンサスとして否定し難く存在する、日本独特の｢空気感｣や｢バイブス(雰囲気)｣のポテンシャル。そこから立ち現れる価値にこそ、今後のイノベーションの可能性があるのではないかと感じています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「今のままでは不幸せ」な米国と「暮らしを面白くする」日本</h2>

<p>【大柴】柳澤さんのおっしゃる｢日本的な感覚｣は、僕たちの頭(意識)というより、むしろ身体や土地に刻まれたものだと思います。</p>

<p>たとえば以前、京都の京北(右京区北部)で出会ったフランス人の建築家は、自分で改装した茅葺き屋根の古民家に住んでいました。建築雑誌の表紙を飾るほど見事な家なのですが、彼はそこで｢これは未来(フューチャー)だ｣と語っていたんです。</p>

<p>木造だからこそつねに修繕や更新が可能で、自然と共生し、住み手の暮らしに合わせて変化していくのが日本の建物です。さらに、屋根や庭の修理を通じて自然にコミュニティが生まれるプロトコル(手順)が埋め込まれている。日本人が古い伝統と思い込んでいるもののなかにこそ、未来的な可能性が宿るという好例です。</p>

<p>その意味で懸念するのは、とくにソフトウェア分野において、日本がシリコンバレーの流行を追うだけの戦略に終始している点です。日本には本来、半導体製造装置や産業機械など、身体性や土地の感覚と結びついたハードウェアやものづくりの伝統的な強みがあります。</p>

<p>AIやソフトウェアの世界でも、シリコンバレーの二番煎じではなく、日本人の身体性や土着性を活かすほうが、はるかに独創的で面白い技術が生まれるはずです。同時に重要なのは、歴史をたんなる伝統として保全するのではなく、先述の建築家のように｢未来｣という時間軸で語り直し、世界に通用する言葉へ翻訳していくことでしょう。</p>

<p>【柳澤】ピーター・ティールの卓見は、まさしくいま大柴さんが言われたような未来に向かう進歩(テクノロジー)と伝統(信仰)を結びつける必要性を熟知している点にあります。</p>

<p>現在のシリコンバレーではキリスト教的な終末論が技術発展の強い駆動力となっていますが、一方で日本社会には、アメリカのような合目的な歴史観が根づきにくい。しかしテクノロジーを扱う以上、進歩という概念は避けて通れません。日本において進歩と伝統をどう整合させるのか、あらためて考える必要があるように思います。</p>

<p>【大柴】そこは使い分けの問題だと思いますね。コンピュータや宇宙開発のように０から１を生み出す領域では、シリコンバレー的な直線的進歩史観による発想は強力です。しかし、既存の技術を改良し、生活を豊かにしていく場面では、日本がもつ「円環的な発想」のほうが理にかなっている。</p>

<p>たとえば伊勢神宮の式年遷宮のように、社殿を定期的に造り替えることで永続させる知恵は、円環的な発想が生み出す日本独自の｢進歩のかたち｣です。現在のAIは、シリコンバレーにいるごく少数のエンジニアの指向性や｢常識｣に基づいて開発されたものです。遠く離れた日本社会の文脈や身体性のなかに、それをそのままもち込もうとすれば、どうしても拭いきれない違和感や限界が生じるはずです。</p>

<p>シリコンバレーの加速主義には｢現状のままでは幸せになれない｣という前提があります。いまある技術や暮らしから離れることを革新のエネルギーに変えているわけです。</p>

<p>対して日本的なアプローチの強みは、いま目の前にある現実に向き合い、技術を改良し、いかに日々の暮らしを面白く豊かにするか、という｢身体的・土地的な実感｣にあります。日本独自の精神性は、暮らしから生まれる問いへの答えが、実装として立ち現れるものです。そこには、シリコンバレーのメシア的な論理に対するコンプリメンタリー(補完的)な力があるのではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「混ぜる」が最強。AI時代を生き抜く日本の生存戦略</h2>

<p>【柳澤】大柴さんがおっしゃるコンプリメンタリーという視点は、非常に重要だと思います。現在のシリコンバレーの価値観には、ゲームやSFに没頭する少年のような感覚と、キリスト教的な終末観が同居しています。しかし、それはとても限定的な世界観だという認識を、私たちはもったほうがよいと思います。その限界を見極め、何を補うべきかを考えるところに、日本の役割があるのでしょう。</p>

<p>またアメリカは、ピューリタン(改革派プロテスタント)に端を発するキリスト教的世界観の上に啓蒙思想というプログラムを植え付け、近代という仕組みを実験場のようにむき出しのかたちで走らせてきた人工国家です。パワフルであると同時に、無理も生じている。だからこそ私たちは米国の構造を一歩引いて冷静に相対化し、何が必要なのかを考えたほうがよいと思います。</p>

<p>【大柴】同意します。一方で、相対化したアメリカの極端な事例を｢自分たちと関係ない｣と切り捨てるのも危険です。なぜなら、明治維新から戦後を通じた欧米化により、日本はすでに政治や経済、企業統治に至るまで、アメリカ的なOS(思考体系)を実装しているからです。</p>

<p>重要なのは、アメリカのOSを削除しようとするのではなく、自らのなかにある｢アメリカ的OS｣と、土地や身体を通じて脈々と受け継がれてきた｢日本的ＯＳ｣の両方を自覚することです。僕自身、シリコンバレーの文化にどっぷり浸かったからこそ、逆に日本の社会や自分自身にインストールされたOSの存在を客観視できるようになりました。双方が見えてはじめて、これからどう進むべきかという道筋が見えてくるのだと思います。</p>

<p>この感覚の根底にあるものを確かめるように、最近は日本の古墳や神社仏閣を巡っているんですが、実際に現地に立つと、日本という社会が舶来の文化や精神を多層的に積み重ね、矛盾を抱えたまま共存させてきたことを深く感じます。現代の加熱するイデオロギー闘争に呑み込まれないためにも、身体感覚を取り戻すアジール(自由領域)を自分たちの手で広げながら、そこで｢純粋に面白いものを作る｣という感覚を取り戻すことが大切だと思います。</p>

<p>【柳澤】おっしゃるとおりで、日本でも政治・経済とは別の精神的な拠り所が必要だと思います。アメリカ人が｢信仰復興｣を起こす背景にも、政治や経済に還元されない領域を確保しなければ、精神的な均衡を保てないという問題意識があるのでしょう。</p>

<p>実際、ピーター・ティールと関係の深い教会の牧師は、パンデミック後にシリコンバレーの人びとのあいだに｢金・権力・快楽｣中心の価値観への疑問が広がり、キリスト教へ回帰する動きが生まれている、と語っていました。</p>

<p>もっとも、アメリカと同様に｢日本にも宗教が必要だ｣ということではなく、日本独自のかたちで精神的な領域をどう再構築するかを考えるのが、私たちの大きな課題だと思います。</p>

<p>【大柴】よく｢日本人は無宗教｣と言われるのは、たんに｢西洋的な定義に当てはまらない｣というだけではないでしょうか。西洋が近代化の過程で明確に切り離した信仰・政治・経済が日本の神社仏閣においては未分化に重なり合う拠点として、日常のなかにオーガニック(有機的)なかたちで存在していました。</p>

<p>制度としては分離された現在でも、人びとの身体感覚や生活実践のレベルでは、生活に沿った宗教性から政治や経済、技術が自然に立ち上がるのが、日本における｢宗教的なもの｣の姿だと考えられます。近代的な民主主義制度というマクロな枠組みのなかで、こうしたミクロな｢混ざり合った感覚｣をノスタルジーとしてではなく、実践として取り戻すことは、現代の硬直したシステムとのバランスを再構築するヒントになるはずです。</p>

<p>【柳澤】たしかに西洋は、信仰と公的領域を切り分けすぎた結果、行き詰まっている側面があります。宗教を私的領域に押し込めたことで信仰が極端になり、カルト化が起きたという指摘もある。現在のトランプ政権に悪影響を与えている一部の福音派が示す通りです。</p>

<p>日本の精神性、宗教性のキーワードは｢混ざる｣かもしれないですね。混ざることは先鋭化を防ぎ、偶然思いもよらないものが生まれ得る土壌にもなる。最近日本でも政治にスピリチュアルや陰謀論が入ってきて不安も感じますが、</p>

<p>幸いにもたしかに米国ほど拡大していないのです。他方で、テック業界出身の若者が政界進出するなど新しい動きも見られます。異なる精神性が｢混ざる｣機会や場所こそが、活路を開いていくことに期待したいと思います。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 17 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[柳澤田実（関西学院大学神学部准教授）,大柴行人（ロバスト・インテリジェンス共同創業者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>AI時代をどう生きる？ 10代・20代前半が読む「AI時代、有限から無限に移行するか」【読書会レポート】  Voice編集部</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14861</link>
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			<description><![CDATA[松原仁・京都橘大学工学部教授による論考「AI時代、有限から無限に移行するか」を題材にした読書会の様子をレポートします。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="読書会" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book2.jpg" width="1200" /></p>

<p>10代・20代の参加者が集まり、『Voice』2026年 5月号に掲載の松原仁・京都橘大学工学部教授による論考「AI時代、有限から無限に移行するか」を題材にした読書会を開催しました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>AI時代、高等教育の本質は何か</h2>

<p>Y：皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。インターン生のYと申します。現在、公共政策大学院の修士2年生で、本日はインターン生のOさんとともに読書会の進行を担当させていただきます。</p>

<p>O：同じくインターン生のOです。文学部4年生です。本日はよろしくお願いいたします。</p>

<p>SK：お誘いをいただき、参加しましたSKです。私は今年3月に高校を卒業し、現在は秋から海外の大学へ進学するための準備をしています。</p>

<p>SO：Yさんと同じ公共政策大学院で修士2年生のSOです。本日はどうぞよろしくお願いいたします。</p>

<p>Y：それでは早速ですが私より、今回の読書会で取り上げる『Voice』2026年5月号に掲載された、京都橘大学工学部教授・松原仁先生の「AI時代、有限から無限に移行するか」の概要をご紹介します。</p>

<p>この記事では、生成AIの発展によって「時間」が無限になるのではなく、むしろ時間の使われ方が不均質になり、その密度の差が拡大していることが論じられています。AIは人間がこれまで時間をかけて行なってきた知的作業の一部を、並走しながら肩代わりするようになり、人間の思考時間の構造そのものにも介入し始めています。同じ物理的な時間のなかで、人間が遂行できる認知的・知的活動は大きく増えつつありますが、それは私たちの働き方や学び方にどのような影響を及ぼすのか。そしてAI時代においては、「何を速くし、何を遅く保ち、何に時間を使うのか」が問われている、という内容であると私は理解しました。</p>

<p>この記事の内容をふまえ、本日は三つの論点を用意しました。それぞれについて、皆さんと意見を交わしていきたいと思います。まず一つ目の論点は、生成AIがもたらした変化について、私たち大学生・大学院生にとってもっとも身近なテーマである「高等教育」という観点から考えてみたいと思います。</p>

<p>実際のところ、皆さんは普段どれくらいAIを活用していますか。大学生や大学院生にとっては、すでに身近な存在になっていると思いますが、秋から海外の大学へ進学予定のSKさんも、入学準備にAIを活用されていますか。</p>

<p>SK：ここ1年くらいは、毎日使っていますね。もちろん、大学への入学準備にも活用しています。ただ、AIが示す情報は古かったり、誤っていたりすることもあります。たとえば海外大学の学費は毎年変わることがありますが、そうした最新の情報に対応できていない場合がありました。そういうときは、大学の公式ホームページを直接確認するようにしています。</p>

<p>Y：ありがとうございます。私は現在修士2年生ですが、学部1年生の頃はAIをまったく使っていませんでしたので、ここ数年のあいだでも時代の変化を強く感じます（笑）。いまでは、多くの大学生や大学院生が、授業内容の理解やレポート、課題の作成などにAIを活用しているのではないでしょうか。こうした変化は、私たちの「学び」を効率化したと言えるのか、それとも深い理解を伴わない学びへと変えてしまったのか。さらに言えば高等教育の本質とは何なのかという点について、皆さんと議論できればと考えていました。</p>

<p>O：私は、AIに代替されても問題のない部分を一つひとつ取り払っていったときに最後に残るものこそ、高等教育の本質なのではないかと考えています。そこで、現時点でAIが教育や学術の分野で十分に担えていないことは何かを考えて、二つのことが思い浮かびました。</p>

<p>一つ目は、AIはあくまでも言語モデルである以上、与えられた情報の範囲内でしか回答できないという点です。たとえば、選択肢AとBが提示された場合、専門性の高い人間であれば、それらとは異なる、より優れたCという答えを導き出すことができます。しかしAIは、基本的にはAかBの枠組みのなかで回答してしまいます。</p>

<p>二つ目は、物事の重要度や濃淡を見えにくくしてしまう点です。たとえば、ある出来事の要因をAIに尋ねると、多くの要素を挙げてくれます。しかし、それぞれの重要性や比重を十分に考慮することなく、横並びに列挙してしまう傾向があります。</p>

<p>以上をふまえると、現段階で人間がAIよりも得意としているのは、より大きな知識体系のなかでパターン認識を行ない、それぞれの関係性をふまえながら最適な答えを見出すことではないでしょうか。もちろん、こうした点についても、今後のAIの進歩によって改善される可能性はあります。</p>

<p>それでも、高等教育において最も重要なのは、価値判断を行なう力や、フレームワーク、つまりは考え方の土台や物事を整理するための枠組みを身につけることだと思います。物事に対する考え方そのものを体系的に学び、その内部にある濃淡や相互の関係性まで理解することこそ、高等教育が果たすべき役割ではないかと考えています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「問う力」の重要性</h2>

<p>Y：ありがとうございます。SOさんはいかがでしょうか。</p>

<p>SO：私も大学院の研究で、毎日、ChatGPTにコードを書かせています。そうした日々のなかで最近考えているのは、「問う力」の教育がますます重要になるのではないか、ということです。</p>

<p>現時点では、人間がプロンプトを書き、それに対してAIが答えを返すわけですから、出発点となる人間の「問い」が非常に重要です。また、研究を「仮説を立てる段階」と「仮説を実証する段階」に分けて考えると、後者はAIが非常に得意です。一方で、前者の仮説を立てることについては、人間自身が学問や物事に対して好奇心をもっているからこそ可能になるのではないでしょうか。</p>

<p>先ほどOさんがおっしゃったことにも関連しますが、研究史を概観したうえで、「この研究にはまだ足りない点がある」「ここが面白い」と感じ、自分なりの問いを立てること。それこそが、いま高等教育で求められている力なのだと思います。</p>

<p>ただ、その力は自然に身につくものではありません。教育機関のなかで意識的に育てていく必要があるでしょう。最近、大学ではAIを活用してリサーチクエスチョンを考える授業もありますが、そうした教員側の工夫も、これからはますます求められるのではないかと思います。</p>

<p>Y：「問う力」という言葉は印象的ですね。私も、特定の箇所を「面白い」と感じて問いを立てることは、人間にしかできない営みなのではないかと考えていました。そう考えると、「面白がる力」こそ、人間らしさの本質なのかもしれません。SKさんはいかがでしょうか。</p>

<p>SK：私はまだ大学には通っていないので詳しいことは分かりませんが、友人の多くはレポート作成や授業内容の要約などで、日常的にChatGPTを使っているようです。やはりAIがなかった時代の学生といまの学生では、学んでいる内容や学び方そのものが変わってきているのだろうと感じます。</p>

<p>それが良いことなのか悪いことなのか、私にはまだ分かりません。でも、パソコンが登場してこれだけ普及したように、AIが「当たり前」になる時代は確実に来るでしょう。そう考えると、学生がAIを使うこと自体は当然ですし、決して悪いことではないのかなと思います。</p>

<p>Y：ちなみに、SKさん以外の皆さんは、大学生時代にAIが普及し始めた世代だと思いますが、どのタイミングから使い始めましたか。</p>

<p>SO：学部3年生のころから少しずつ使われ始めましたが、研究やレポート作成で本格的に活用するようになったのは、昨年、大学院に進学してからですね。</p>

<p>O：僕はいま学部4年生ですが、1年生の春学期に担当の英語教員が、じつは「生成AIを使いこなせるようになろう」という方針だったんです。その授業で訓練した結果、自然と使えるようになりました。</p>

<p>ただ、僕自身、当初はレポート作成にAIを使うことには抵抗があり、できるだけ使わないようにしていました。それでも、使い始めるようになったのは、昨年くらいからでしょうか。資料を集める際に、日本語や英語の検索だけでは見つけられない文献まで提示してくれるのは非常に助かりますし、「どのような論点を立てるべきか」といった壁打ちの相手としても有用だと感じるようになり、いまでは頻繁に活用していますね。</p>

<p>Y：SOさんが私の一つ下、Oさんがさらにその一つ下の世代ですが、私もお二人とほぼ同じタイミングでAIを使い始めたことが分かりました。やはり私たちは、本当に過渡期を生きている世代なのだと思います。</p>

<p>こうした変化がプラスに働くのか、それともマイナスに働くのかは、まだ誰にも分かりません。しかし、SKさんがおっしゃったように、AIが社会の標準になっていくことは間違いないでしょう。その過程では、体系的な学びや「問う力」の重要性は、これまで以上に増していくのではないかと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>人間だからこそできること・やるべきこと</h2>

<p>O：それでは、二つ目の論点に移りましょう。AIにできることが増えているなかで、AIが得意なことがある一方、人間だからこそできること、人間が担うべきことは何なのかについて考えてみたいと思います。</p>

<p>とくにYさんは公共政策がご専門で、価値判断が多くの人々に影響を及ぼす分野を学ばれています。一方で、AIを導入すると、「これもAI、あれもAI」というように、なし崩し的に判断を委ねてしまう可能性もあるかもしれません。そうしたなかで、人間が担うべき役割についてはどう考えていますか。</p>

<p>Y：私は将来、国家公務員を志望しているので、国の意思決定にAIをどこまで関与させるべきかという議論には強い関心があります。たとえば、国会は最終的には議員による表決で意思決定が行なわれますが、行政の担当者がAIの提案を下敷きにして政策を立案するようになれば、それはAIが意思決定に一定程度関与しているとも言えます。どこまでをAIの関与とみなすのか、その線引きを厳密に行なうことは、実際には難しいのではないでしょうか。</p>

<p>O：AIを活用することが当たり前になった以上、その提案にどれだけ人間自身の意思や判断が反映されているのかという問いは、これからますます重要になっていくのかもしれません。</p>

<p>SO：Yさんのお話を聞きながら、私はあえて少し違う視点から考えました。たしかに、アイデアを練ったり、リサーチを進めたりする場面では、AIと人間は互いを補完し合える存在だと思います。一方で、官公庁が企業や団体と契約を結ぶような場面では、その契約の責任を負い、矢面に立つのは最終的には人間です。裏を返せば、そうした責任までAIに委ねることはできないのではないでしょうか。</p>

<p>O：なるほど。つまり、最終的な取捨選択や責任、さらにはセキュリティの担保といった部分は人間に帰属するものであり、とりわけ交渉の場では、人間にしか果たせない役割が残るということですね。</p>

<p>SO：そう思います。ただ、これはホワイトカラーの仕事を前提とした話で、ブルーカラーの仕事については違う側面があるかもしれません。SKさんのご意見も伺いたいです。</p>

<p>SK：そうですね。最終的な意思決定や交渉には人間が必要だという点では、お二人と同じ考えです。「これに決める」という場面では、人間同士の信頼関係や温かさが重要になってくると思います。</p>

<p>いまSOさんに問題提起いただいたブルーカラーの仕事という点で言うと、私はイベントスタッフのアルバイトをしているのですが、つい2日前もMUFGスタジアム（国立競技場）で催されたスポーツの試合の運営に携わりました。その経験から感じたのは、現場のスタッフがすべてロボットに置き換わることはないだろう、ということでした。人は、人の温かさに触れたり、笑顔で声をかけてもらったりするときに心を動かされます。そうした働きかけは、感情を持たないロボットには難しいのではないでしょうか。</p>

<p>これは、ペットの存在にも少し似ている気がします。人間は長い歴史のなかで、犬や猫と共存し、彼らの感情を読み取りながら関係を築いてきました。これからも、人はペットを大切にし続けるでしょう。そう考えると、お店の店員さんをはじめ、人と人とが直接関わる仕事までAIに完全に置き換えられることはないのではないかと思います。</p>

<p>O：最近では、目的だけを与えると自律的に考え、判断し、行動するAIエージェントが登場していて、それを応用したロボットの開発も進んでいます。それでも、すべての店員さんがロボットに置き換わってほしいとは、私も思いませんね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>AIによって認知負荷は高まったのか</h2>

<p>O：ここまでの議論をまとめると、人と人とが関わる場面では、人間の役割は確実に残るということになりそうですね。そこで、もう一つ皆さんにお聞きしたいのが、本記事でも指摘されていた、AIの導入によって「認知負荷」が高まっているという問題です。</p>

<p>とくに大学生活の途中でAIが普及したYさんやSKさんは、そのような実感はあるでしょうか。文献を調べたり研究テーマを決めたりする時間は短縮された一方で、AIが提示した情報の真偽を見極めるなど、新たな負担が増えているでしょうか。</p>

<p>Y：認知負荷が高まったというよりも、頭の使い方そのものが変わったという感覚がありますね。学部生のころは、自分で論文を検索して図書館へ行き、論文を読み込み、必要な箇所を抜き出すという作業を、すべて自分で行なっていました。でもいまでは、その多くをAIが担ってくれます。その代わり、「この論文は本当に存在するのか」「引用されている内容は正しいのか」といったファクトチェックを自分で行なうようになりました。</p>

<p>その作業をしていて思うのは、自分自身が、少し「スカスカ」になっているのではないか、ということです。時間をかけて自分で本や論文を探すほうが、結果的には自分の知識や経験として蓄積されていたのではないか、と感じることがあるんです。</p>

<p>O：それはすごく共感できますね...。</p>

<p>SO：私もよくわかります。ですから最近は、まずは自分で論文にざっと目を通してからAIに要約させるようにしています。そうすると、AIがまとめた内容に対しての理解も深まるので。もっとも、AIを使うようになる前も、論文のアブストラクトを読んでから本文の冒頭や必要な箇所を確認するという読み方をしていましたから、そう考えると、作業の流れ自体はそれほど大きく変わっていないのかもしれません。</p>

<p>O：冒頭でも、AIは情報の濃淡を見えにくくしてしまうという話をしました。実際にAIへ要約を依頼すると、内容を項目ごとに整理して並べてくれる一方で、本当に重要な論点が薄く要約されてしまうことがあると感じています。そのため私は、要約にはあまり頼らないようにしていて、日本語の文献であれば自分で読み、英語の文献であれば対訳してもらう程度にとどめています。</p>

<p>ただ、これは私たちの世代が、自分で文献を探し、重要なポイントを見つけてレポートを書くという経験を積んできたからこその感覚なのかもしれません。高校時代にAIが普及したSKさんの場合は、AIが出力した情報にどれくらい信頼を置いていますか。</p>

<p>SK：調べものをするときは、まず情報源を確認して、それが信頼できるものかどうかを判断しています。AIにも、ChatGPTのようにインターネット上の情報を参照するものと、NotebookLMのように、自分で資料をアップロードしてその内容に基づいて回答を得るものがあります。</p>

<p>前者の場合は、自分で情報源をファクトチェックしないと誤っていることも少なくありません。一方で、NotebookLMは自分でアップロードした資料だけをもとに回答してくれるので、その資料自体が正しいという前提に立てば、追加の確認作業はそれほど必要ありません。ただ、コーディングのようにAIが非常に得意な分野については、AIが出力した内容を基本的には信頼していますね。</p>

<p>O：いまのお話を聞いていて思ったのですが、これからはインターネット上に公開されている情報の比重がますます大きくなっていくのではないでしょうか。たとえば、ChatGPTは、国立国会図書館デジタルコレクションや紙の書籍そのものに収録されている情報へ自由にアクセスできるわけではありません。そのため、そうした情報の存在感は相対的に低くなっていくような気がしています。</p>

<p>一方で、NotebookLMは、自分がアップロードした資料の正確性は担保されるものの、その周辺知識まで自動的に補ってくれるわけではありません。そうした特性を理解したうえで使い分けなければならないという意味では、AIは単純に人間の負担を減らすだけではなく、別の種類の認知負荷を生み出しているとも言えるのかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>人間的な時間の使い方を大事にするために</h2>

<p>Y：それでは最後の論点です。AIによる効率化が進み、社会全体で期待されるスピードや生産性の水準が高まるなかで、私たちはどのような「人間的な時間の使い方」を大切にすべきなのでしょうか。</p>

<p>私自身は、「遠回りすることを恐れない」ことが大事なのではないかと考えています。先ほど、AIが提示した文献情報をファクトチェックしているという話をしましたが、「もっとゆっくりでいい」という空気が社会全体に広がるといいなと思うんです。SKさんはいかがでしょうか。</p>

<p>SK：私も、同年代にはどこか生き急いでいるような雰囲気を強く感じています。大人の方からも、「失敗や計画変更といった遠回りを、恥ずかしいことのように捉える風潮が強まっている」と言われたことがあります。</p>

<p>SNSの普及によって、メッセージのやり取りもどんどん速くなり、「効率」や「速さ」が社会全体の価値観になっているのではないでしょうか。だからこそ、もう少し立ち止まって考えたり、ゆっくり休んだりする時間があったほうが、暮らしや人間関係はもっと豊かになるのではないかと思います。</p>

<p>SO：私も全面的に同意します。昨年、半年ほどスイスへ留学したのですが、SNSから少し距離を置き、アルプスの大自然のなかでゆったり過ごした時間は、人間として大切なものを取り戻す経験だったように感じています。</p>

<p>そのうえで、Oさんや公務員を志望しているYさんにお聞きしたいのですが、AIによって時間の濃度が変わっていく社会では、福祉国家として賃金を保障するだけでは、人間的な生活を支えることが難しくなるのではないでしょうか。その場合、国や公共はどのような役割を果たすべきだと考えますか。</p>

<p>O：私自身も、「もっとゆっくりする」という考え方には賛成です。ただ現状では、社会全体が「同じ船」から降りられなくなっているように感じます。教育でも就職でも競争が当たり前になっていて、その価値観から抜け出せなくなっている。だからこそ、私はもっと人文学が重視されてほしいと思っているんです。</p>

<p>昨日も寮のお風呂で友人とそんな話をしていたのですが、人文学はよく「役に立たない」と言われます。しかし、人間としての文化的な経験や感性を育み、人生に娯楽や豊かさをもたらしてくれるものでもあります。うまくまとまりませんが、もっと文化的な生活が重視される社会になってほしいですね。</p>

<p>技術が発展すれば生活は豊かになる、という未来像は、近年少しずつ揺らいできています。だからこそ、人間そのものについてもっと考える必要があるのではないでしょうか。お金のことだけを考えて時間を切り売りするのではなく、「豊かさ」とは何かという価値観そのものを、社会全体で見直していく必要があると思います。</p>

<p>Y：「人生100年時代」とよく言われますよね。でも、長く生きることだけが「理想」なのでしょうか。極端な話ですが、楽しく生きられるのであれば、人生は短くてもいいのではないか、とさえ思うことがあります。</p>

<p>というのも、高校時代の同級生に、大学卒業後も定職には就かず、半年働いてお金を貯めたら半年海外で過ごし、また半年働いて、今度は宮古島へ行く、といった暮らし方をしている人がいるんです。また、別の友人は新卒で地域おこし協力隊に入り、この春から山形へ移住する予定です。現在の社会では、こうした生き方は「枠から外れている」と受け止められるかもしれません。でも、国の側から「こうした選択肢も一つの豊かな生き方だ」と積極的に発信すれば、社会の受け止め方も変わっていくのではないでしょうか。</p>

<p>もちろん、半年働いて半年海外で暮らすような生活を支えるためには、社会保障制度などの整備も必要になるでしょう。それでも、国として後押しする価値はあるように思うんです。たしかに、経済を成長させ、再分配のための財源を確保することは重要ですから、数字を追い求めることも必要でしょう。でも、「楽しく生きていたら、結果として経済も成長していた」くらいの社会のほうが、人間にとっては幸せなのではないでしょうか。少しまとまりませんが、そんなことを考えています。</p>

<p>それから、これは私の趣味の話ですが、私は鉄道が大好きで、とくに各駅停車での旅が好きなんです。新幹線で一気に移動するのではなく、一日かけて関西へ向かうような時間の使い方もあっていい。そうした「ゆっくり移動すること」そのものを楽しめる社会を後押しする政策も、分野は限られるかもしれませんが、国にはまだできることがあるのではないかと思います。</p>

<p>SO：たしかに、AIだけでなく、交通の発達も時間の濃度を変えていると言えますよね。そう考えると、交通政策や都市政策といった観点からも、人間らしい生活を支えるための政策を考えることができるのかもしれません。</p>

<p>Y：本日は、さまざまな視点から貴重なご意見をいただき、本当にありがとうございました！</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 14 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[Voice編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【AI時代】なぜシリコンバレーの天才たちは｢世界の終わり｣に本気で備え始めたのか？  柳澤田実（関西学院大学神学部准教授）,大柴行人（ロバスト・インテリジェンス共同創業者）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14713</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014713</guid>
			<description><![CDATA[シリコンバレーの起業家たちが持つ｢世界を救う｣という強い思いや、その背景にある宗教的な動きについて、現地の若手日本人起業家と宗教学者が対談。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="アメリカ合衆国国旗" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_USAflag.jpg" width="1200" /></p>

<p>シリコンバレーの起業家たちはいま、メシア(救世主)的な使命感のもと、凄まじいエネルギーで技術を開発し、世界を変えようとしているー。若くしてAI企業を創業し、｢フォーブス30アンダー30｣(30歳未満の特筆すべき30人)にも選出された日本人起業家と、アメリカの終末論を調査・研究する注目の宗教学者が、｢リバイバル(信仰復興)｣の実態と日本が進むべき道を議論する。</p>

<p>※本稿は前後編の前編です。『Voice』2026年5月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>シリコンバレーで進む「終末後への備え」</h2>

<p>【柳澤】大柴さんとの出会いは、ある財団が主催したシリコンバレーの｢リバイバル｣(信仰復興)と呼ばれる動きに関するセッション(公開討論)を聴いてくださったのがきっかけでしたね。</p>

<p>【大柴】はい。当時の僕は、ハーバード大学在学中に共同創業した企業を売却し、シリコンバレーの起業家としての自分のルーツを見つめ直していました。関連資料を貪るように読み、自分なりに探究を深めるなかで柳澤さんの話を拝聴してあまりに面白く、主催者に｢お話を伺いたい｣と紹介してもらいました。</p>

<p>【柳澤】大柴さんとは、それから何度かお会いする機会がありました。今日はシリコンバレーのリバイバルと連動する｢アメリカン・ダイナミズム｣、そして日本の進むべき方向性やポテンシャルについてお話しできればと思います。</p>

<p>【大柴】僕がいまなおシリコンバレーにいて衝撃を受けるのは、現地の起業家たちが共有している独特の｢精神性｣です。イーロン・マスク(テスラ／スペースX CEO)やサム・アルトマン(OpenAI CEO)が典型ですが、彼らは文字どおり人類の｢終末｣が近い、という強烈な危機感を抱いている。｢自分たちが道を切り拓き、人類を救う｣という、本人は合理的な思考のつもりでも、構造的にはキリスト教のメシア(救世主)的な使命感のもと、凄まじいエネルギーで技術を開発し、世界を変えようとしています。僕の周りでも、日常的にポスト・アポカリプス・プラン、｢終末後への備え｣を真剣に議論している起業家がいます。</p>

<p>【柳澤】私がシリコンバレーの教会に調査で訪れたとき、熱心なキリスト教徒でもある防衛テック企業の共同創業者のお話を聞くことができたのですが、この方もサバイバリズム(終末に生き残る術を身につけること)に熱心です。SNSにもアラスカで鮭を捕るトレーニングをしている様子を上げていました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>キリスト教保守派とテクノロジー</h2>

<p>【大柴】シリコンバレーにおける起業家の｢メシアになって世界を救う｣という熱狂は、いまや隠しようのないものになっています。近年のOpenAIを巡る一連の分裂劇にも、じつはメシア論が介在しています。創業者のサム・アルトマンCEOのもとからダリオ・アモデイが離脱してアンスロピックを設立し、チーフ・サイエンティストのイリヤ・サツケヴァーらも新たなAIラボを立ち上げるなど、混乱が相次いでいます。</p>

<p>彼らはすでに十分すぎるほどの富をもっており、たんなる金儲けが目的ならば、独立の必要はない。彼らを真に突き動かしているのは、「私こそが人類を救うメシアなのだ」という強烈な自負であると、僕は見ています。あたかもカトリックからプロテスタントが分離し、さらに新しい宗派が次々と生まれたキリスト教史を彷彿とさせます。</p>

<p>【柳澤】大柴さんがおっしゃるように、終末論的な世界観とテクノロジーの加速主義は表裏一体の関係にあります。混沌とした世界のなかで新技術を開発し、AIの進化によるシンギュラリティ(技術的特異点)を突破することこそが世界を救う唯一の道であるという発想が、彼らのメシア的な使命感と結びついている。</p>

<p>彼らの思想のバックボーンには、間違いなくシリコンバレーの思想的リーダーの一人、ピーター・ティール(PayPal共同創業者)のようなキリスト教保守派の影響があります。｢歴史の終わりを経た新たな秩序と世界の完成、最後の審判を経た救済｣を信じる黙示禄的な歴史観が、彼らの強い駆動力になっています。</p>

<p>【大柴】僕自身、彼らの終末論的な不安を頭では理解できても、日本人の感覚としてはどうしても一歩引いて見てしまいます。シリコンバレーのど真ん中に身を置き、イノベーションを競うゲームを楽しみながら、彼らが語る終末への｢救済｣の物語に、同じ熱量でのめり込めない。そこでシリコンバレーの起業家としてのルーツ探しと同時に、自国の精神性や風土・身体に根ざす日本人独自のビジネスのあり方を考えるようになりました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>アメリカン・ダイナミズムの正体</h2>

<p>【柳澤】現在のシリコンバレーの動きを理解するには、ヒッピー的なカウンターカルチャー(対抗文化)が隆盛した1960〜70年代に遡る必要があります。もともとシリコンバレーはこの時期、東海岸のエスタブリッシュメントであるWASP(ホワイト・アングロ‒サクソン・プロテスタント)への対抗軸として、西海岸に技術者や企業家が人と情報の流動性が高いエコシステムを築いたことから発展しました。ヒッピー思想やカウンターカルチャーとシリコンバレーの勃興は、当初から深く結びついています。</p>

<p>興味深いのは、今回のシリコンバレーのリバイバルを含め、アメリカ建国以来の四度の｢信仰復興｣が、60〜70年代のカウンターカルチャーのような｢左寄り｣のムーブメントと同時に生まれた点です。言い換えれば、既成概念を打破し、個人の自由を重んじるリベラル全盛の時代に、信仰こそ個人の自由だと考える保守派によって現在につながる信仰復興の種が蒔かれていたわけです。</p>

<p>実際、トランプ大統領への支援で注目を集めた福音派など、キリスト教保守派の勢力が水面上に現れるまでに、数十年にわたる準備期間がありました。福音派は、同じく60〜70年代に遡るリベラルな文化への反動として活発化し、トランプ政権の誕生によって一大政治勢力として可視化されたのです。</p>

<p>そしていま、福音派の台頭とは別のかたちで進行しているのが、前述のピーター・ティールを中心としたシリコンバレーの動きです。</p>

<p>たとえば2026年1月、ベネズエラ大統領拘束の作戦を支えたＡＩ技術の一部を提供したのは、ティールが支援し、10年以上かけて育てた防衛テック企業のアンドゥリルでした。</p>

<p>2003年に共同創業者として立ち上げたデータ解析会社のパランティア(アメリカも含めた各国の政府や軍の情報分析を担うデータ解析企業)も関与しているでしょう。</p>

<p>ティールは｢9・11｣テロ以降、リベラリズムやグローバリズムの限界を強く意識し、この20年間着々と防衛テック企業やデータ解析企業を創業し、独自のキリスト教思想を発信しながら次の時代の到来に備えてきたのです。</p>

<p>こうして｢キリスト教｣と［ナショナリズム｣が｢テクノロジー｣と重なり合い、顕在化したのが、現在のアメリカン・ダイナミズムだというのが、私の理解です。</p>

<p>【大柴】いまのお話を聞いて、現在の状況はむしろ1940〜50年代への回帰に近いのではないか、とも感じます。</p>

<p>テクノロジーの観点からアメリカの歴史を振り返ると、第二次世界大戦(1939～45年)中に暗号解読の手段として開発されたコンピュータは戦後、軍の上層部や一部の名門大学、大企業しかアクセスを許されない聖域、｢権威の象徴｣でした。そして現在の状況も、突出したＡＩの専門技術が｢権威化｣しているように思います。</p>

<p>シリコンバレー黎明期において、テクノロジーは、権威に対するカウンターカルチャーの象徴でした。技術を開発し続けさえすれば世の中は良くなるという｢楽観主義｣が支配的で、テクノロジーを個人に取り戻すという思想的な特徴があります。スティーブ・ジョブズらが広めたPC(パーソナル・コンピュータ)は、一部の権威しか利用できないコンピュータへのアクセスを可能にするものでした。</p>

<p>しかし2010年代後半になると、フェイスブックの不祥事(個人情報の大量流出や選挙干渉が問題化）やケンブリッジ・アナリティカのスキャンダル(SNSの個人データを政治広告に利用した事件)、さらにSNSによる社会の分断など、テクノロジーの弊害が次々と露呈してきました。</p>

<p>これに地政学的な緊張や、国家規模の資本を要するＡＩ開発の熾烈な競争が重なった結果、現在、シリコンバレーの起業家たちは、政府や軍と再び結びつき、新たな｢既得権益｣をもつ｢権威｣へと変質しつつあるように見えます。</p>

<p>【柳澤】大柴さんがおっしゃるとおり、かつてカウンター(対抗)だったものが権威となり、そこからまた新たな対抗運動が生まれるというダイナミックな歴史的サイクルのなかにアメリカは身を置いています。かつてシリコンバレーでは、基本的に｢無神論｣｢リベラル｣であることがコミュニティのデフォルト(標準設定)でした。裏を返せば、キリスト教は｢古い権威｣の象徴と見なされ、忌避される対象でした。</p>

<p>ところが現在、構図が逆転して｢反・リベラル｣であることがトレンドになり、共和党支持者が増えた。ピーター・ティールらが批判する多様性の尊重(DEI)のような｢リベラル｣な価値観が教条主義(ドグマ)と見なされ、｢古い権威｣として忌避されている。規制の多い民主党アジェンダに対する不信感が広がるなかで、ティールらの掲げる技術革新のための共和党支持が浸透してきた側面もあります。</p>

<p>【大柴】ところがそのティール自身も、トランプ政権との結びつきを通じて急速に｢権威｣の側へと組み込まれていますね。</p>

<p>【柳澤】思うに、現在のアメリカ社会は右派・左派といった従来の枠組みを超えて、｢富裕層｣が既得権益層として右派・左派共通の問題となる時代にシフトしたのではないでしょうか。2024年の大統領選でトランプ大統領は、既得権益層を攻撃し、その腐敗を暴くことが期待されて、プアホワイト(白人低所得者)や若者の支持を得ることができた。</p>

<p>ところがシリコンバレーの富裕層との癒着やエプスタイン文書の隠蔽によって、最近はその期待が裏切られたと感じて支持を止める人も増え、先行きの見えないカオス状態になっています。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 13 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[柳澤田実（関西学院大学神学部准教授）,大柴行人（ロバスト・インテリジェンス共同創業者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ日米の差は開いたのか？ 空母量産の米軍と｢数字捏造｣の日本軍  波多野澄雄(筑波大学名誉教授)</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14789</link>
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			<description><![CDATA[大量の空母と巨大な工業力で太平洋を制した米軍。対する日本は、目的を見失ったまま戦線を際限なく拡大し、国力の限界から｢架空の増産計画｣を捏造する事態に陥る。勝敗を分けた日米の戦略と国力の格差に迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="地球儀　日本" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_japanLIG.jpg" width="1200" /></p>

<p>大量の空母と圧倒的な国力で太平洋を制した米軍に対し、日本軍は目的を見失ったまま戦線を拡大。国力の限界から｢架空の増産計画｣を捏造する事態に陥る。勝敗を分けた日米の戦略と総合力の格差に迫る。</p>

<p>※本稿は、波多野澄雄著『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』（PHP新書）から一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>アメリカ勝利の要因</h2>

<p>太平洋を舞台とした熾烈な戦いを米軍が制した要因として、米海軍が真珠湾攻撃を契機として、巨大な大砲を備えた戦艦ではなく、空母を中心とする機動部隊の編成へ移行したことを挙げることができる。</p>

<p>ただ、戦争前半期には空母の数は限られ、米海軍が開戦時に保有した空母は護衛空母を含めて合計8隻にすぎなかった。終戦までに、主力空母のエセックス級16隻、軽空母9隻に加え、護衛空母115隻を完成させている。日本海軍による大型空母の建造はわずか1隻であった。ただ、エセックス級の高速の大型空母建造には2年以上を要することから、急速な需要に間に合わせるため、建造中の1万トン級の巡洋艦を航空機が搭載可能な軽空母に転用している。</p>

<p>43年半ばから大型空母9隻が中部太平洋戦域に投入され、同時期には新たな空母艦載戦闘機であるF６Fヘルキャットが登場している。ゼロ戦をはるかに上回る撃墜率を誇り、増強された空母艦隊に加えられた。補給面でも、前進基地の整備、洋上補給部隊の編成によって長期行動が可能となった。空母機動部隊は船団の護衛、敵艦隊の攻撃に加え、地上の重要施設や敵基地の攻撃までも担うようになる。</p>

<p>43年後半から44年前半にかけ、空母機動部隊を先頭に、ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻撃し、44年2月には南太平洋の日本海軍の中核基地トラック島を攻略した。同年6月にマリアナ諸島を攻略した第58機動部隊は、正規空母7隻、軽空母8隻、航空機800機、上陸前に艦砲射撃を行う高速戦艦7隻、巡洋艦21隻などで構成される大部隊であった。</p>

<p>44年10月のレイテ上陸作戦時には、第38機動部隊は正規空母8隻、軽空母8隻、作戦戦闘機1100機であった。第58機動部隊（旧第38機動部隊）は、沖縄戦では高速空母11隻、軽空母6隻、作戦機は1200機を擁する巨大な戦力となっていた。</p>

<p>こうして、高速の空母機動部隊は米海軍の中核戦力となったが、それを支えたのは、大量の空母や航空機の生産を可能にする巨大な工業力であった。加えて航空機パイロットの教育訓練、米本土から遠く離れた作戦海域において部隊を運用するための前進基地と洋上補給部隊から構成される大規模な補給システムも不可欠であった。</p>

<p>総じて、総合的な国力と技術力、それらの効率的で迅速な動員力において日本を圧倒していたのである(八木浩二｢アメリカ海軍における空母の誕生と発展｣)。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>作戦の拡大と国力の限界</h2>

<p>日本陸海軍は何を求めて対米戦争に突入したのであろうか。開戦の経緯をつぶさにたどると、最も重要な目標は、日本帝国の経済的生存と帝国圏の安全保障の確保(自存自衛)であったことがわかる。</p>

<p>この｢自存自衛｣は南方作戦によって東南アジアの資源地帯を占領し、一応達成されたはずであった。実際、陸軍は東南アジアの防備を固め資源開発に努めるという守勢作戦を主張した。しかし、海軍は真珠湾奇襲の勢いをもって攻勢作戦の続行を説き、両者の主張は前述のとおり、42年3月の大本営政府連絡会議決定の｢第一回戦争指導大綱｣において両者の主張を併記する形で決着している。</p>

<p>その結果、どの地域まで進出すれば自存自衛が可能になるかという問題が戦争指導のうえで考慮されることはなく、作戦優位の戦争指導は戦場を際限なく広げ、それに応えるための海上輸送路の確保、船舶増徴と航空機の増産といった総合的国力の問題が置き去りにされてしまった。</p>

<p>たとえば、43年8月、陸海軍は66万トンという膨大な船舶の増徴とともに、55000機にのぼる航空機の増産を相次いで要求した。ガダルカナル島撤退後、ソロモン、北部ニューギニアにおける激しい攻防戦において大量の航空機が損耗し、制空権も失うという状況がその背景であった。</p>

<p>増産計画を立案していた企画院は、これらの要求を満たすことは不可能と知りつつも、企画院調査官・田中申一の回想のように｢架空に近い条件を前提に増産計画を捏造｣しなければならなかった。そして、企画院がはじいた机上の計算を陸海軍が奪い合うという悲喜劇が繰り返された。</p>

<p>作戦上の要求と国力の限界というジレンマは政戦略の不統一、国務(政府)と統帥の不調和という深刻な問題にも及び戦争指導体制を破綻させるのである。手段や資源に見合ったレベルの戦略構想を組み立てるという自明の英知はついに発揮されなかったのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 12 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[波多野澄雄(筑波大学名誉教授)]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>英･仏･独の世論は｢米国よりも中国のほうが『頼りになる』｣と見ている　この時代に日本の首相が持つべき大局観とは  田村重信(政治評論家、元自民党政務調査会調査役)</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14847</link>
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			<description><![CDATA[米同盟国で米国より中国を頼る動きが広がる中、高市政権の対米・対中外交の偏りを指摘。田村重信氏は、安倍元首相の｢大局観｣や柔軟性、周囲に任せる姿勢を参考に、情勢に応じた外交戦略を持つべきだと論じる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="アメリカと中国の国旗" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_america_china.jpg" width="1200" /></p>

<p>いま英仏など米国の同盟国の中で、米国よりも中国のほうが｢頼りになる｣と見なす動きが広まっている。高市政権が持つべき大局観とは何か。自民党政務調査会職員として9人の首相に仕えた田村重信氏が、安倍晋三氏の例を挙げながら論じる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「米国よりも中国のほうが頼りになる」</h2>

<p>私は2018年に自民党本部定年退職をするまで、政務調査会職員として9人の総理に仕えてきた。その経験を通じて実感しているのは、危機の時代にこそ、指導者には大局観が求められるということである。</p>

<p>いまの世界は、大国による力の行使が横行する危機の時代であり、指導者には広い視野を持って現下の情勢を把握する姿勢が求められるといえよう。</p>

<p>その点でわれわれがまず押さえておくべきことは、じつは米国の同盟国で、｢トランプの米国よりも中国のほうが頼りになり、中国の技術のほうが米国より優れていると思っており、さらに10年後の世界の覇者は中国であると思っている」という世論調査の結果が出始めていることだ。その結果に対する評価はさまざまな見方があるかもしれないが、私たちはその現実から目を背けることは許されない。</p>

<p>以下、遠藤誉著『G2構想 勝つのは米国か中国か』(PHP新書)の記述から引用しながら、この世論調査の詳細について述べていく。同書の文言をかなり使っているが、世界の現実を知るためには非常に重要な記述なのでお許し願いたい。</p>

<p>『Ｇ２構想　勝つのは米国か中国か』によれば、2026年3月15日、米メディアのポリティ(POLITICO)がイギリスの世論調査会社パブリック・ファースト(Public First)に依頼して、米国とそのトップ同盟国(米国、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ)を対象とした世論調査を発表したとのこと。</p>

<p>まず、｢トランプの米国と中国、どちらを頼りにするのがよいか？｣という問いについて、下記のような結果が出ている。</p>

<p><img alt="図表4‐1:トランプ大統領が統治する米国と中国、どちらを頼りにするのはよいか？" height="710" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260810TamuraShigenobu01.png" width="1200" /><br />
&nbsp;</p>

<p>この結果には私も驚いた。どの国も｢トランプの米国より中国を頼りにするのがよい｣と回答している。特にカナダは中国が57％、米国が23％とダブルスコアで中国が勝っている。</p>

<p>これは遠藤氏も同書で分析している通り、トランプがカナダに対して｢カナダを米国の第51番目の州にする｣と暴言を吐いたことが大きく影響しているのだろう。私も先日カナダを訪れたのだが、トランプに対する反発を如実に感じとった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>10年後には中国が覇権国になるという予測</h2>

<p>このアンケートの結果をさらに二つ紹介しよう。｢米国と中国、どちらの技術が先進的か？｣という質問に対しては下記のような結果が出ている。</p>

<p><img alt="図表4‐2:最も先進的な技術を持っている国は中国か米国か？" height="752" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260810TamuraShigenobu02.png" width="1200" /></p>

<p>こちらも米国以外の4か国が、米国よりも中国のほうが先進的な技術を持っていると見なしている。</p>

<p>実際の両国の製造業と軍事力の分析は『G２構想 勝つのは米国か中国か』で的確になされているので、現実を直視するために是非読んでいただきたいのだが、端的にいうと中国の製造業は米国のそれをはるかにリードしている。</p>

<p>そして、｢米国と中国、10年後にはどちらが覇権国になっているか？｣という質問に対しては、下記の結果が出ている。</p>

<p><img alt="図表4‐3:10年後に世界の覇権国となるのは中国か米国か?" height="746" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260810TamuraShigenobu03.png" width="1200" /></p>

<p>遠藤氏は、同世論調査に答えている米国の同盟国が全て『10年後には中国が覇権国となる』と考えているというのは、相当に衝撃的な話だと述べているが、全く同感である。そして遠藤氏は｢決定打となったのは、このたびのイラン攻撃だ。イラン攻撃によって、トランプはイスラエル一国を除いた全世界、とりわけ同盟国の信用を失った｣と分析しており、たしかに米国はこの世論調査の後に行なわれたイラン攻撃によって、さらに同盟国の信頼を失ってしまったといえよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>中国に対する高市政権の姿勢</h2>

<p>このような世界の情勢に対して、日本はどう向き合っているか。</p>

<p>まず対米関係だが、遠藤氏が同書で指摘している通り、上記のイギリス、フランス、ドイツ、カナダほか世界各国が、いずれも米国のイラン攻撃を批判する意思表明を出しているが、日本はイラン攻撃に対して公式な批判の声をあげていない。日本政府に言わせれば｢日米首脳会談で衝突するのは避けるべき。下手なことは言えない｣ということだろう。その立場もわかるが、私は日米関係が重要であればこそ、日本はもっと米国に対して毅然とした態度をとるべきだと考えている。元米国国防総省アジア・太平洋部局特別補佐官のマイケル・グリーン氏が私に対して｢横須賀に米軍基地があることで、米国は非常に助かっている｣と述べたことがあるが、独立国に米国基地が多数あるという現状を、高市政権はもっと対米関係において重視すべきだろう。</p>

<p>その一方で、対中関係が冷え込んでいるのは戦略的な観点からも気にかかる。そのきっかけとなったのは、言うまでもなく2025年11月の｢高市発言｣(中国が台湾に対して戦艦による武力行使を行なった場合、日本の存立危機事態になり得る、という内容)であるが、私はさらに、高市政権で｢議員外交｣が実行されていないことを懸念している。議員外交とは超党派の日中友好議員連盟などによる訪中を指すが、高市政権が発足してから、日中友好議連の中国との接触は、非公式の場にとどまっているのだ。</p>

<p>もし高市氏本人が、中国に対する交渉をスムーズにすすめることができないのであれば、このような議員外交を進めるというやり方もあるはずだが、このチャネルも活用されていない。高市政権のこのような姿勢は、ややバランスが欠けているのではないかと心配だ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>安倍元首相がいま、政権を担っていたら...</h2>

<p>では、歴代の総理でバランス感覚に優れていた総理は誰かと問われれば、候補の一人はやはり安倍晋三氏になるのではないだろうか。</p>

<p>周知の通り安倍氏はトランプ大統領と非常に親密な関係を結んだが、ロシアのプーチン大統領とも信頼関係を結んでおり、名うての外交上手の首相として知られた。外交面だけでなく、国内の政治家同士の付き合いでも、安倍氏はバランス感覚に秀でていた。他の政治家と比較して言えば、橋本龍太郎や小泉純一郎は、我が道を進むタイプの政治家で、両氏は会合にあまり参加せず、｢つき合いが悪い｣と言われても気にしなかった。逆に、総理の座をつかめなかった安倍晋太郎や渡辺美智雄は、周りに対して丁寧すぎた。彼らのような態度だと、総理になった場合、すぐ疲弊してしまっていただろう。</p>

<p>そして安倍晋三氏は、この両者の両方の面を兼ね備えた総理であった。だからこそ、長期にわたって安定した政権運営を行なえたのではないだろうか。</p>

<p>読者のなかには、｢安倍氏の対中外交はあまりうまくいっていなかったのではないか｣と考える方もいるだろう。たしかにそのような面があったことは否定できないが、いまは、トランプ氏と習近平氏が一定の関係を結んでいる時代である。私はもしも現在、安倍氏が政権を担っていたら、大局的な戦略眼から、あえて中国との関係強化に動くのではないかと推測する。仮に安倍氏個人が難色を示したとしても、周囲の側近がそのように促したのではないか。</p>

<p>安倍氏は周囲の側近に仕事を任し、側近の声に耳を傾けることができる首相であった。高市氏がXで、自らが膨大な量の仕事をこなしていることを示唆するポストをしたことがあったが、自身の職務に対する責任感とは別の話として、周囲に仕事を任せることも首相にとっては重要なことである。そうしなければ、指導者の｢大局観｣は生まれてこないのではないだろうか。一国の首相にはやはり、世界情勢を的確に把握する大局観と、周囲に仕事を任せる姿勢が不可欠であるといえよう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 10 Aug 2026 16:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[田村重信(政治評論家、元自民党政務調査会調査役)]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>破竹の勢いで連勝する日本軍　その裏で激化した、陸海軍の対立  波多野澄雄(筑波大学名誉教授)</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14788</link>
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			<description><![CDATA[1941年12月の南方進攻で開戦した太平洋戦争。英米が即座に強力な共同防衛体制を固める一方、東南アジアを席巻した日本軍内部では｢守勢｣を唱える陸軍と｢攻勢｣を求める海軍が激突し、対立が激化していく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="海" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sea.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争の開戦とともに東南アジアを席巻した日本軍。英米が強固な軍事同盟へと突き進む一方、連勝に湧く日本軍内部では｢守勢｣か｢攻勢｣かを巡る陸海軍の溝が深まっていた。焦点となったオーストラリア防衛と、米豪遮断作戦へと至る葛藤を解説する。</p>

<p>※本稿は、波多野澄雄著『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』（PHP新書）から一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>南方進攻と米英の結束</h2>

<p>日本の南方攻略作戦は1941年12月8日、マレー半島コタバルへの奇襲上陸に始まった。もう一つの上陸地、中立国タイのシンゴラは、日本軍の上陸直前に、ピブン首相と坪上貞二大使との間で日本軍のタイ領内通過を認める議定書に調印していた。いずれも、真珠湾奇襲より1時間以上前であった。その後の主要戦場は、しばらくは東南アジア、インド洋方面であった。</p>

<p>12月10日には、｢対日抑止｣のため極東に派遣されていたイギリスの新式戦艦プリンス・オブ・ウェールズと高速戦艦レパルスが日本海軍の基地航空戦隊の魚雷攻撃で撃沈し、イギリス極東艦隊の主力が壊滅た。両艦は、12月2日にシンガポールに到着したばかりで、日本軍の輸送船団を撃破するため、八日に友軍による航空支援がないままシンガポールを出港したところ、仏印南部から発進した日本軍機に発見された。</p>

<p>真珠湾攻撃とマレー半島奇襲上陸の報告を受けたチャーチル英首相は、彼の幕僚たちと、レパルス、プリンスの両艦を残存する米艦隊と太平洋で合流させ、オーストラリアの防衛の｢最善の盾｣とする方向で議論していた。イギリスにとってのオーストラリア防衛の重要性を物語っている。</p>

<p>ところが、それから2時間も経たないうちに両艦は海底に沈んでいた。両艦轟沈の電話連絡を受けたチャーチルは、｢すべての戦争を通じて、これ以上、直接的な衝撃を受けたことはなかった｣と回想している。「真珠湾の残存艦隊を除いて、インド洋にも太平洋にも英米の主力艦隊がいなくなった｣のである。</p>

<p>チャーチルは対日宣戦の手続きを終えると、直ちにワシントンに向かった。英米間の密接な協力が何よりも優先する、と考えたからである。チャーチル一行は、ドイツのＵボートを避けながらジグザグ航法で大西洋を渡り、12月下旬にワシントンに到着した。直ちに英米高級軍事会議が開かれ、英米合同の｢三軍参謀首脳会議｣の設置など、緊密な軍事的提携のための仕組みが確立された。チャーチルが｢同盟国の間にこれ以上有効な戦争機構が確立されたことはなかった｣と回想する通り、連合国の｢大戦略｣を支える英米の｢特別な関係｣をよく示している。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東南アジアの席巻と要衝の占領</h2>

<p>この間、12月10、堀井富太郎海軍少将を隊長とする日本陸海軍は、マリアナ諸島の米領グアム島に米軍守備隊を圧倒して上陸した。まもなく日本によるグアム島統治が始まり、海軍が民政部を置き、他の植民地と同じく学校における日本語教育など｢日本化｣が進められる。</p>

<p>翌42年1月末にはマレー半島全域、2月中旬にはシンガポールが占領された。フィリピンでも1月2日にマニラが占領され、バターン半島に立てこもって抗戦した米比軍も4月9日に降伏した。</p>

<p>マレー、フィリピンの作戦が予定より早く終了したため、参謀本部は蘭印作戦を繰り上げ、42年1月20日にはジャワ島攻略を命じた。日本軍は周辺のボルネオ、セレベス、チモール、スマトラなどの諸島を攻略、2月14日には、陸軍の空挺部隊がスマトラ島のパレンバンに落下傘部隊を急襲降下させ、製油所や付近の飛行場を制圧し、オランダ軍による石油施設の破壊を防いだ。3月1日に主力の第一六軍がジャワ島に上陸した。上陸軍はほとんど抵抗を受けることなく、オランダ軍を無条件降伏させた。油田地帯が破壊される事態も避けられた。マレー作戦の順調な進展で予定を早めたビルマ攻略作戦も、5月初旬までにほぼ完了した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>激化する陸海軍の対立とオーストラリア攻略の行方</h2>

<p>1942年2月初旬、東條首相は、陸海軍の南方作戦が一段落した後の作戦計画や戦争指導の検討を命じた。最も重要な問題は以後の戦争をどのように進めるかであり、3月7日に大本営政府連絡会議は第1回｢戦争指導大綱｣を決定した。この大綱は、緒言で占領地域の重要資源の開発、海上交通線の確保のほか、｢長期不敗の態勢を整えつつ機を見て積極的の方策を講ず｣と述べていた。この不明瞭な表現の裏には、陸海軍の激しい戦略論争が潜んでいた。</p>

<p>陸軍は、南方の要域を確保した段階で戦線の拡大を抑え、長期持久戦に転移すべきと主張した。南方圏域内の防備を固め、資源開発と国力増強に努めようというのである。</p>

<p>一方、海軍は、このような守りの姿勢では、やがて増強される連合国の戦力に圧倒され勝機を見出すことは不可能になるため、引き続き攻勢作戦を続行すべきだと主張した。とくに、オーストラリアを英米の対日反撃拠点として重視していた軍令部は、陸軍と妥協のうえ、米豪遮断作戦によるオーストラリアの孤立化を図ろうとした。</p>

<p>42年2月、第2段作戦について軍令部と参謀本部の調整協議が行われた。そこでの主題の1つは、オーストラリアの攻略であった。参謀本部は10個師団以上を大陸から抽出する必要があるとして反対であった。</p>

<p>他方、オーストラリアが対日反攻基地となるのを防ぐ必要性については両者は一致し、小規模な陸軍兵力による協力を前提に、米豪遮断作戦を実施することになった。フィジー、サモア、ニューカレドニア攻略作戦(F･S作戦)がこれであった。結局、陸海軍ともに譲らず、第1回｢戦争指導大綱｣では守勢、攻勢の両論を併記した形となった。</p>

<p>たしかに、オーストラリアは米英にとって重要な反攻拠点であった。米陸軍は太平洋における危機的状況に直面し、オーストラリア防衛のため、42年1月から3月にかけて、8万人の部隊を太平洋に向け出発させていた。陸軍航空機も数百機がオーストラリア、ニュージーランド、太平洋諸島に配備され、太平洋方面は米陸軍にとって重要な戦略正面となっていた(赤木完爾｢米英ソ『大同盟』における対日戦略｣)。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 10 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[波多野澄雄(筑波大学名誉教授)]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>真珠湾攻撃でチャーチルの不安は吹き飛んだ？ 米英を結束させた日本の誤算  波多野澄雄(筑波大学名誉教授)</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14785</link>
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			<description><![CDATA[日本は東南アジアへの進出を進め、イギリスとの対立を深めていった。しかし、当初は考え方の違ったイギリスとアメリカも、日本の行動によって協力関係を強めることになる。太平洋戦争へ向かう国際関係の変化を見ていく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日米国旗" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_usajapan.jpg" width="1200" /></p>

<p>1941年、日本の南進によって国際情勢は大きく動いた。対日政策をめぐり、当初は思惑が異なっていたイギリスとアメリカ。しかし、日本の行動をきっかけに両国の協力は強まり、やがて太平洋戦争へとつながっていく。本記事では、英米の外交戦略と日英対立の深まりをたどる。</p>

<p>※本稿は、波多野澄雄著『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』（PHP新書）から一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>対日包囲網とイギリスの葛藤</h2>

<p>三国同盟の成立と日本軍の北部仏印進駐以後、英米は対日統一戦線の形成に向けて努力を重ねた。軍事レベルでは、41年1月から英米参謀会談が開かれ、その成果を米英蘭参謀協定(ADB－1)として結実させていた。この協定で樹立された軍事戦略の原則は、ドイツ打倒が第一であり、戦争の主正面は大西洋である、したがって極東では｢戦略的守勢｣をとる、というものであった。</p>

<p>極東における戦略的守勢とはいったい何を意味するのか、英米の思惑は異なっていた。とくに、シンガポールの戦略的意義についての両者の評価は全く異なっていた。</p>

<p>極東防衛の要衝としてシンガポールを重視するイギリスは、アメリカ参戦の場合に米艦隊のシンガポール派遣を要請したが、同意は得られなかった。また、日本が武力で南進した場合に、イギリスやオランダを支援してアメリカが直ちに参戦する、という確約も得られなかった。4月にもオランダやオーストラリアの軍事代表を交えて具体的な対日戦略が協議されるが、結局、極東における統合戦略は樹立できなかった。</p>

<p>日本が武力南進したとしても、アメリカの支援を期待できないというイギリスの不安感は日蘭会商(通商交渉)の決裂でますます高まり、アメリカに対する猜疑心につながっていた。41年4月中旬から公式に始まった日米交渉に、この交渉はイギリスを犠牲にした日米間の裏取り引きの始まりではないかという疑惑さえイギリス政府部内に生まれ、ハリファックス駐米大使(前外相)が弁明に苦慮するほどであった。</p>

<p>こうしたイギリスの対米不信感を一挙に解消したのが、日本軍の南部仏印進駐に対するアメリカの全面禁輸と在米日本資産の凍結であった。ほとんど事前協議のないまま発動された強硬な対日経済措置に、イギリスは対日戦を覚悟で経済制裁に同調するか否か、という決断を迫られた。軍部はアメリカの軍事的支援が確約されないときに安易に同調すべきではない、と消極論で一貫していた。</p>

<p>しかし、アンソニー・イーデン外相らは、対日戦争は遅かれ早かれ免れないものと判断し、その際、アメリカの支援を取りつけるうえでも同調すべきであることを強調して軍部を制した。こうして8月初旬、イギリスは、アメリカの対日政策に全面的に協力することを決定し、在英日本資産の凍結、日英通商航海条約の廃棄を通告した。イギリスは以後、対日政策をほぼ全面的にアメリカに委ね、日米交渉にも情報は求めるものの、介入を避けた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大西洋憲章から真珠湾攻撃へ</h2>

<p><img alt="1941年8月10日、大西洋会談に臨むローズヴェルト(左)とチャーチル" height="928" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260730HatanoSumio02.jpg" width="1200" />1941年8月10日、大西洋会議に臨むローズヴェルト(左)とチャーチル</p>

<p>41年8月中旬、ローズヴェルトとチャーチルの間で大西洋会談が開かれる。会談後に発表された大西洋憲章は、領土不拡張、主権・領土の尊重、民族自決(脱植民地化)、通商の自由などを謳い、のちに連合国の戦争目的となる。チャーチルは、民族自決の原則などに批判的であり、のちに、イギリスの自治領や植民地には適用されない、と英議会で宣言することになる。とはいえ大西洋憲章は、とくにアメリカのアジア太平洋地域の戦後構想の立案に当たって大きな影響を及ぼすことになる。</p>

<p>またチャーチルは、共同宣言の発表によって、アメリカを参戦の立場に拘束できると考えて会談に応じた。しかしチャーチルは、日本の武力南進の場合にアメリカは参戦するという言質を得ることはできなかった。</p>

<p>日米交渉が最後の段階に差しかかった11月20日、ハル国務長官は、暫定的な妥協案を関係国に諮った。チャーチルは、アメリカの過度な対日譲歩を警戒し、より厳しい対案が必要と述べた。日米の妥協によって中国が戦意を失い、対日戦に重大な影響を及ぼすことを心配した。日本の侵略を一時的に食い止めたとしても、その代償はあまりにも大きかった。こうしてチャーチルは暫定協定案を拒否し、ハル・ノートの提出を後押しした。</p>

<p>チャーチルは、戦争を回避するのではなく、アジアでもヨーロッパでも、アメリカが必ずイギリスを支持すると確約させることを戦時外交の優先目標としていた。ローズヴェルトからは、そうした確約は最後まで得られなかったが、幸か不幸か、日本軍の真珠湾攻撃はアメリカの対日・対独参戦を同時に実現させ、チャーチルの不安を一挙に解消させて、軍事的には英米の一体化が実現することになった。その一方、英領マレーやタイなどは日本軍の奇襲攻撃にさらされ、チャーチルは新たな試練に直面することになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日英関係の変容と｢東亜新秩序｣の影</h2>

<p>細谷千博氏は、｢太平洋戦争とは日英戦争ではなかったのか｣と題する講演で、こう述べている(要旨)</p>

<p>中国問題についての日米間の対立は、プログラムと原則とをめぐる対立であり、実質的な利益をめぐっての対立という点では、むしろ日英の方がより深刻だった。日英間では、中国での実質的な利益の調整を図るという面では、利益と利益との関係であるから、妥協の余地があるが、日米間ではプログラムと原則との対立で、妥協点の発見は難しい。日本が東亜新秩序を外交の旗印として揚子江以南でのイギリスの権益の排除に取りかかると、妥協の余地はなくなり、日英間での戦争は不可避の形勢になるーー。</p>

<p>たしかに、日中戦争をいかに収拾するか、という観点では日英は妥協の余地が多々あった。たとえば38年9月、宇垣外相との会談でクレーギー大使は、｢われわれは協力とはギブ・アンド・テイクと理解しているが、日本の在華当局は全てを取りあげて何もあたえないのが協力だと考えているようだ｣と皮肉って日本側のかたくなな態度を批判している。ここにもイギリスの交渉姿勢が示されている。</p>

<p>いったいどの時点で、日英は｢妥協の余地｣がなくなったのであろうか。それを見極めることは難しい。日中戦争の収拾をめぐって対立が深刻化するにつれ、アメリカに和戦の最終判断を委ねるようになっていったからである。したがって、対日戦争の決断も決定もなされず、極東における帝国としての戦争計画もとくに作成されなかった。</p>

<p>その一方、日本側では日中戦争が始まる頃には、陸海軍の｢年度作戦計画｣にはイギリスが想定敵国の一つに加わり、｢敵対勢力｣の一つに格上げされる。しかし、具体的な｢対英作戦計画｣が作成されるのは40年夏からであり、想定された戦争の舞台は、戦略資源地帯である東南アジアであった。南方への攻撃拠点とみなされたシンガポールやマレーが攻撃対象とされた。その際、日本軍としては対英(蘭)戦争を覚悟しても、対米戦争は避けたかったのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 07 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[波多野澄雄(筑波大学名誉教授)]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>｢日本を満洲事変前に戻す｣　日米の開戦が避けられなかった決定的な理由  波多野澄雄(筑波大学名誉教授)</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14784</link>
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			<description><![CDATA[なぜ日本とアメリカは戦争を避けられなかったのか。日中戦争の行き詰まりから始まった外交交渉は、中国問題や資源をめぐる対立で次第に緊迫化する。最後の和平の可能性が消え、開戦へ向かう過程を追う。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="アメリカと中国の国旗" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_USAflags.jpg" width="1200" /></p>

<p>1941年、日本とアメリカの対立は決定的な局面を迎えていた。しかし、開戦直前まで両国の間では交渉が続けられ、戦争回避の可能性も模索されていた。中国問題、南進政策、経済制裁&hellip;複雑に絡み合う利害の中で、なぜ外交は破綻し、両国は戦争への道を進んだのか。その真相にせまる。</p>

<p>※本稿は、波多野澄雄著『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』（PHP新書）から一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日米交渉と日中戦争の行き詰まり</h2>

<p>1940年末、日本の日中戦争の解決方策は行き詰まっていた。対中和平工作(桐工作)は挫折し、汪政権の承認を余儀なくされ、援蔣遮断措置(仏印ルートやビルマ・ルートの遮断など)も効果は見られなかった。こうしたなかで、最後に残された外交的手段はアメリカによる日中間の和平斡旋を期待して直接、対米交渉に臨むことであった。</p>

<p>41年4月中旬、アメリカから届いた｢日米了解案｣(民間人を含む日米の関係者が両国政府の了解を得て作成)は、三国同盟の実質的な無力化を求める一方、一定の条件のもとでの事変の和平斡旋や東南アジアの資源獲得に対する日米協力を掲げ、日本側は政府も軍部もこれを歓迎した。ただし、了解案は和平斡旋の前提として、｢ハル四原則｣(領土保全と主権尊重、内政不干渉、機会均等、平和的手段によらざる限り太平洋の現状不変更)の受諾を求めていた。</p>

<p>だが、日ソ中立条約という外交的成果をもって帰国した松岡外相は、日中間の和平条件の明確化という観点から日米了解案を大幅に修正することになる。松岡の意見を反映した日本側の対案(5月12日対米提案)の日中戦争に関する部分は、アメリカは、40年11月に汪兆銘政権との間で締結した日華基本条約を｢了承｣したうえで、蔣政権に対して和平を勧告すべし、と要求していた。　&nbsp;</p>

<p>これに対するアメリカの回答(6月21日米国案)は、汪政権の否認、満洲の中国への復帰、日本軍の無条件撤兵、防共駐兵の否認、通商上の無差別待遇などの要求を列挙し、日本の提案をほとんど否認していた。その後の交渉においてもアメリカはこれらの条件を後退させることはなかった。この回答に接した松岡は日本を｢弱国・属国扱いするもの｣と激怒し、交渉打ち切りを主張するが、近衛首相は松岡の更迭によって交渉の継続を図った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>独ソ戦争と日本の進路</h2>

<p>41年6月22日、ドイツは不可侵条約を破りソ連に侵攻。この独ソ戦争の勃発は、ソ連が明確に反枢軸陣営の一員となったことを意味し、松岡外相の抱く日独伊ソの｢四国同盟｣構想を破綻させるものであった。アメリカは対ソ援助をさらに強化させる。</p>

<p>日本では陸軍部内に｢北方戦争論｣が浮上し、参謀本部や松岡外相はドイツのソ連攻撃に呼応した対ソ攻撃を主張した。南進論との論争の末、国策としては｢南北併進｣に落ち着いたが、対ソ攻撃(北方戦争)は独ソ戦争がドイツに有利に展開した場合とされた。その準備のため、関東軍特種演習(関特演)の名目で関東軍が増強されるものの、シベリアの気候的条件に加え、独ソ戦が早期に終結する見込みはなくなり、8月初旬に中止される(翌年まで延期)。</p>

<p>一方、南進政策は、仏印との軍事的結合を強化するとの既定方針に基づき、7月下旬、南部仏印進駐が断行される。資源供給のための交渉が不調に終わった蘭印を威圧するという効果や、南部仏印に航空基地を設定するという目的も含まれていた。</p>

<p>南部仏印進駐に対し、アメリカは在米日本資産の凍結と石油の全面禁輸という最高度の経済制裁で応え、英蘭もこれに倣ならった。しかし、日米ともに戦争を決意したわけではなかった。アメリカの最大の脅威は依然としてドイツであり、米独関係は極度に悪化し、6月には独伊の在米資産はすでに凍結されていた。アメリカの対日強硬措置は、戦わずして日本を屈服させ、さらなる南進を抑止するためであった。</p>

<p>他方、日本側からすれば、最高度の経済制裁はＡＢＣＤ包囲陣が国防上耐え難いものとなったことを意味していたが、政府・軍部の指導者はなおも対米戦の回避の可能性を追求した。その一つが、近衛首相とローズヴェルト大統領との直接会談構想であった。</p>

<p>この頂上会談のためにあらためて用意された対米提案(9月25日案)は、通商上の門戸開放・機会均等については譲歩し、アジア太平洋における経済活動の自由を原則として認める方針を示していたが、駐兵について譲歩することはなかった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東條内閣と日米交渉の決裂</h2>

<p><img alt="東條英機" height="1710" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260730HatanoSumio01.jpg" width="1200" />東條英機</p>

<p>10月2日のアメリカの回答(ハル覚書)は、日本の提案を否認するとともに、首脳会談についても、その前提として｢根本的な諸問題について討議の進展｣が必要である、として否定的であった。それでも近衛首相は戦争回避の立場から、部分的撤兵案によって妥結に持ち込もうとするが、陸軍の立場を代表する東條英機陸相は撤兵に強硬に反対して内閣は崩壊する。</p>

<p>10月18日に成立した東條内閣は、天皇の指示を受け、｢白紙｣の立場から非戦の可能性を追求した。11月5日の御前会議は、11月末を限度に対米交渉と作戦準備を併進させ、妥結しない場合の武力発動は12月初旬と決定した。</p>

<p>同時に、最後の交渉案として｢甲案｣｢乙案｣が了承された。｢乙案｣は、アメリカの対日石油供給の約束と引き換えに、南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐させ、当面の危機を回避しようとする暫定協定案であり、11月20日に米政府に示される。</p>

<p>アメリカ政府でも暫定協定案の検討が進み、｢乙案｣に近い内容の暫定協定案が用意され、英蘭と中国(重慶政権)に内示される。しかし、日本との苦しい戦いを強いられていた蔣介石の期待はアメリカの対日参戦であった。暫定協定による日米の妥協は、中国からみれば、アメリカは中国の犠牲において日本を宥和しているのであった。イギリスもまた、アメリカの中国問題における譲歩が中国政府や国民の士気に及ぼす影響を恐れていた。</p>

<p>こうしてハル長官は、｢乙案｣の拒否とともに、暫定協定案も取り下げ、11月26日、ハル・ノートという形で対日回答がなされた。ハル・ノートは中国全土および仏印全土からの撤兵、重慶政権以外のすべての政権の否認、という要求を含み、日本をいわば満洲事変以前の状態に引き戻すに等しかった。これを事実上の最後通牒と受け止めた日本政府は12月1日、御前会議において最終的に対米英蘭開戦を決定した。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 05 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[波多野澄雄(筑波大学名誉教授)]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】これからの秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か（ディスカッション・３）  22世紀の人間像研究会</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14563</link>
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			<description><![CDATA[信じていたものが崩れるとき、社会不安が人々の怒りにつながります。私たちはそのパワーを制御できるのでしょうか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「22世紀の人間像研究会」メンバーによる座談会" height="732" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260624senzakiakinaka7.jpg" width="1200" /></p>

<p>信じていたものが崩れるとき、社会不安が人々の怒りにつながります。私たちはそのパワーを制御できるのでしょうか。日本思想史研究者の先崎彰容さんによる「秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによる座談会を、3回にわたってお届けします。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「底が抜ける」不安</h2>

<p>【為末】不安ということでいえば、私は宗教が衰退していることも背景にあるのかな、という気がしています。権威や秩序は「そういうことにしておきましょう」という立て付けによって守られている側面があると思うんですよね。ある場面で「それらしい振る舞いをする」ということも含めて。</p>

<p>「そういうことになっている」という立て付けが、秩序にとって重要な気がします。それを暴露主義的にひっくり返してしまうと、秩序そのものがひっくり返ってしまうというか。トランプ大統領が天皇陛下に会われるときにドキドキしたのは、そういうところですかね。立てつけが壊れるといろんなものの底が抜けてしまう、という感覚がありました。</p>

<p>【先崎】「底が抜ける」という感覚はよくわかります。経済学者の岩井克人が、100年前の戦争は信用が崩れていく過程だったという分析をしているんですね。当時、世界全体の価値基準であった機軸通貨のポンドへの信用が失われて、その座をドルにとって代わられた。そして、その変わり目で戦争が起きた。つまり、信用が壊れて穴が空いたところを別の何かが埋めるまでの過渡期に戦争に向かう、と。</p>

<p>最近言われているのは、トランプがドルを基軸通貨という権威の座から降ろそうとしているということです。これは、さまざまな通貨のなかでは最大勢力だけれど、基軸通貨としての責任からは自由になるということです。喩えて言えば、先生が最強の生徒になるようなものです。</p>

<p>そうすると、信用が崩れて通貨システムに穴が開く。その穴を、中国元や仮想通貨のようなものが埋めようとする。今、そういう混沌のなかにいるということで、100年前とよく似ていると言われるんですね。ここから新しい秩序とか価値が生まれるのか、その虚無に向かうのか、その境目なのかなと思います。</p>

<p>【為末】不安ですよね。円がこのままどんどん安くなったらどうなるんだろう、とか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>極右も極左も「怒り」に駆られている</h2>

<p>【中嶋】能の話にもどるのですが、小癋見は無言の反抗、ひょっとこは茶化すことで権威をおとしめているということですが、ほかに面従腹背的キャラクターはいるのでしょうか。恭順の意を示しながら裏で足を引っ張るとか。</p>

<p>【先崎】それも小癋見に入ります。小癋見は通常無言で反抗するのですが、「相手の言葉と同じことを繰り返して言う」という反抗の仕方もあります。権力者が言ってきたことを何回も繰り返して謡うのは、ある種の反抗なんですよ。従っているように見えて同じことをおうむ返しに繰り返すような態度を、「もどき」といいます。</p>

<p>折口は、小癋見が一回黙った後に、次に出てくる言葉が文学というものの始まりだという考えていました。それゆえに、文学というのものは、政治的に挫折した者たちが紡いでいくものになる。そういうことを折口は言いたかったのではないかと思います。</p>

<p>【磯野】「これはこういうものだ」という立て付けがないと秩序が成り立たない、というのは本当にそうだと思います。現代社会はそういうものが崩れているのが問題だというのもわかります。ただ、今ある秩序がつくられた過程やそれができた結果何がおきたのか、ということを踏まえたうえで秩序を更新できるかどうかも大事なのだろうと思います。</p>

<p>それをやらずに「とにかくこういうものだ」と言うと、「それは抑圧だ」とか「多様性を排除している」ということになって対立や分断になりますよね。もう一回中庸の部分をどう取り戻せるのかというところを考えながら、お話を聞いていました。</p>

<p>【先崎】それはものすごく大事な論点ですね。子どもの頃から「〇〇らしさ」に縛られていた人が、「そういうものでもないんだよ」と知ることって、窓から風が入ってくるようなことではないかと思います。「こういうものだ」が「そうでもなかった」に変わることで、実存的に解放されるようなことがある。そんな気がしています。</p>

<p>でも一方で、「私はこれだけ苦しんだ」というトラウマを抱えている人が、「何でそれをおまえたちは分からないんだ」という情念にかきたてられる方向に行く人もいる。結局、右寄りの人とも左寄りの人も、極端な人は常に怒りにかられているという点で似ているのですよ。でも、「なんで私のこの苦しさが分からないんだ」と常に怒りにかられている状態では心が満たされないし、自由にもなれない。自分で納得できる物語を再形成することが、中庸への道だと思っています。</p>

<p>【磯野】たしかに、今のＳＮＳ空間とかは特にそうですが、「私にはこんなに苦しかった」「それは社会のせいなんだ」という話が溢れていますね。ただ、「社会に傷つけられた人」の話は人の関心をひくし、市場的に受けてしまうところがあります。それをやっていると、ずっと負の情念から抜け出せないのはそのとおりですが、新たな物語もひとつ間違えば危ないものですよね。そういうものが必要である、というのはわかりますが。</p>

<p>【先崎】たぶん国際社会でも同じようなことが起きていて、ロシアの行動の根底にあるのも怒りですよね。本来の自分を取り戻したくて、常にブチ切れています。</p>

<p>【中嶋】アメリカも本来のグレートなアメリカを取り戻したい、ということでブチ切れていますね。</p>

<p>【為末】怒りのパワーも役に立つこともありますよね。既存の権力に向かうときに、「こういうやり方もありますよね」と建設的に攻撃するパターンでは、なかなか物事は変わらない。「これはおかしいだろう」と打ち倒すことで、次が展開することはあります。ただそこで問題なのは、一度発動した怒りはかんたんには収まらないことですね。ガーッとひろがって収拾がつかなくなる。</p>

<p>【磯野】怒りの瞬間速度で何かを打ち破ったあと、そのパワーを違うものに変換していくころで多分失敗するのですよね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>もし太陽が二つあったら地球の秩序は変わっていたか</h2>

<p>【中嶋】「戦争と革命なしに中庸にたどり着けるのか」という問いですね。怒りとも関連しますが、いま陰謀論というのがありますよね。陰謀論が支配する社会は、それこそ黒式尉もひょっとこもいない。ディープ・ステートというのは黒式尉自体が操られているような世界観です。</p>

<p>【金子】それは誰かというのではなくて、システムなのかもしれないですね。</p>

<p>【高梨】結局、構図を構想しているのは人間なので、我々の中の何かが操っている主ではあると思います。ただ自然科学に関して言えば、過去には秩序や物語を成立させるために危険な使われ方をしたこともよくあったので、注意しながら考えなければいけないと思います。</p>

<p>一方で、現代の科学が見せているような宇宙観であるとか生命観であるとか、そういったところを更新していくのだったら、うまく取り込めるような仕組みを考えていかなければいけないな、とも思います。</p>

<p>よく妄想するのは、他に惑星があって、そこにもいろいろな知的生命がいたとしたら、地球と同じような秩序や物語があるのかということです。意外と物理的環境が秩序の形成には効いているのではないか、と。たとえば、太陽系に太陽が二つあったらどうなるか。神話の体系はかなり変わるしょうね。</p>

<p>【磯野】太陽の貴重さが減ったりするのですかね。一つはなくなってもいいとか。</p>

<p>【高梨】そう。神が交代するようなことが当たり前のように起こったりして、神の相対化がおきるとか。</p>

<p>【為末】絶対神ではなくて、二つの神が対立しているような宗教になるかもしれない。</p>

<p>【高梨】もっと言えば、太陽が三つ、四つとあったらどうなるのか。そういう物語のところに絡めるというのは非常に興味深いのですが、自然科学に携わる人と人文系の人がこうしたテーマで対話する場というのがあまりないので、今後作っていかなければいけないなと改めて思いました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>＊本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 04 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[22世紀の人間像研究会]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】「日本の精神性」はいかに形成されてきたか ――仏教から日本政治思想史を問い直す（４）  末木文美士（仏教学者／国際日本文化研究センター名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13881</link>
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			<description><![CDATA[日本人の精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきた仏教と政治の関係性を見ていく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日本文明研究会" height="732" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260628sueki04.jpg" width="1200" /></p>

<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、日本人の精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきた仏教と政治の関係性を、4回にわたって見ていきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>近世こそ「仏教の時代」だった</h2>

<p>近世以降の仏教の影響力についても触れておきたいと思います。一般には近世（江戸時代）は朱子学（儒教）の時代とされ、仏教は停滞したと考えられがちですが、これは誤りです。近世こそ、寺檀制度によって仏教が民衆の隅々まで浸透した「仏教の時代」でした。</p>

<p>初期の徳川幕府も仏教の影響下にあり、本地垂迹説の立場をとる僧侶・天海（てんかい）が、家康・秀忠・家光の三代にわたって、政治・宗教のブレーンとして仕えたことは有名でしょう。</p>

<p>儒教はむしろ仏教に対抗し、仏教批判を通じて自己を確立しようとしていました。新井白石らの儒学者は、仏教が提示する来世観・霊魂観を「虚妄」と断じ、現世主義的な倫理を打ち立てようとします。白石は『鬼神論』『折たく柴の記』等で仏教を批判し、儒教中心の倫理体系を提示した。これは裏を返せば、それだけ仏教が民衆の精神に深く根ざし、その影響力を無視できなかった証であると言えるでしょう。</p>

<p>また近年、とくに近世を研究対象にしている研究者に多く見られる「儒教的東アジア」という見方も、見直しが必要です。もともと漢民族による中国の周辺には、チベットや契丹など、儒教化する中国に対抗して仏教を受容した「環中国仏教圏」が存在しました。その中で、中央アジア方面では主にイスラム化が進み、日本では仏教が最後まで残っていく。そういった大きな見通しや視点を持って論じるべきで、近世だけを切り取って「儒教的東アジア」と捉えるのは間違いであると言わざるを得ません。</p>

<p>儒教がいかに台頭しても、日本では仏教が構築した精神基盤は揺るぎませんでした。むしろ平田篤胤（ひらた・あつたね）のような国学者が再び、儒教的合理主義が否定した「霊魂」「来世」を『新鬼神論』で復活させ、幽冥思想を重視する思想を展開した背景には、仏教の基盤が社会に深く浸透していたことがあるでしょう。例えば近世において、寺院は単なる宗教施設ではなく、図書館や学校のような知的生産の拠点（寺子屋）として機能していたことは、よく知られる通りです。</p>

<p>儒教だけでは説明できない日本の精神文化の奥行きは、まさに仏教が長い時間をかけて形成したものと言えます。この精神を受け止めて改変した篤胤の思想が明治維新の原動力になり、近代の「草の根天皇信仰」や国家神道へとつながっていくわけです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>民俗文化のかなりの部分は仏教的世界観</h2>

<p>近代以降の日本思想を語る際は、民俗学の視点もよく用いられます。柳田國男や折口信夫を代表とする民俗学は、近代化の過程で失われつつある「日本人の原風景」を採集・記録し、日本文化の深層に潜む「原型的なもの」を可視化しようとしました。その成果は、たしかに大きいものがあります。</p>

<p>しかし彼らは、「仏教以前の日本」といったものを想定しているという意味では、丸山眞男の「古層論」と同じ流れに立っている。実際にわれわれが「日本的」と考える原型の多くは、仏教だけとは言いませんが、多分に仏教的な要素が入ってきていると思われるのです。</p>

<p>例えば葬送儀礼、死後観、来世観といったものは仏教が深く浸透している。実際、寺院は中世から近世にかけて民衆生活に深く根ざし、死生観や祈祷習慣を通じて精神構造を形成してきました。仏教が民俗文化に与えた影響は圧倒的であり、むしろ民俗文化のかなりの部分は仏教的世界観によって支えられたと言っていい。しかし民俗学はそれを「本来の日本の姿」とはみなさなかったのです。</p>

<p>この仏教軽視を鋭く突いたのが、民俗学者の五来重（ごらい・しげる）です。彼は日本の祭礼、祖霊祭祀、民間信仰に仏教が溶け込んでいる事実を丹念に示し、日本の宗教文化は神仏が不可分に組み合わさって形成されていると主張しました。彼の仏教民俗学も再評価してしかるべきでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>従来の学問の枠を超えて</h2>

<p>近代以降の日本思想史は、欧米の哲学史の枠組みを輸入する形で語られてきました。そこでは哲学と宗教、政治、文学が互いに切り分けられて考えられます。その結果、政治思想史の中心が儒教や国学に偏重し、仏教の思想的遺産は周辺に追いやられてしまいました。戦後の政治思想史における丸山眞男の影響力は、さらにこの構図を固定化したように思います。</p>

<p>しかしいま、日本の思想は、哲学、宗教、歴史、文学といった区分を超えて考える必要があるのではないでしょうか。なぜなら日本の精神文化はまさに、宗教、政治、歴史、文学が幾重にも織り重なって形成されているからです。日本は宗教国家でも世俗国家でもなく、神仏と政治が重層的に絡み合う独特の文化を育んできました。この構造を理解することで初めて、日本の政治文化や精神性の本質が見えてくると思うのです。</p>

<p>仏教は、千年以上にわたり日本社会の深層に影響を与え続けてきました。仏教は日本の思想を支える最大の基層文化であり、日本的精神の形成を語るうえで欠かせない軸でもあります。繰り返しにはなりますが、寺院儀礼、死生観、霊魂観、循環的時間意識といったものは日本社会に深く根付き、政治や倫理の基盤となってきました。この視点を出発点として、私たちは日本思想史を捉え直す必要があるのではないでしょうか。</p>

<p>仏教が照らし出す日本の姿は、複雑ではありますが、豊かさに富んでいます。その重層性を丁寧に読み解くことで、日本の精神性がきっと見えてくるはずです。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260628sueki04.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 30 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[末木文美士（仏教学者／国際日本文化研究センター名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】これからの秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か（ディスカッション・２）  22世紀の人間像研究会</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14562</link>
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			<description><![CDATA[既存の秩序のなかでもがくか、新しい秩序を自ら打ち立てるか。どちらの選択肢もないとしたら、人はどこへ向かうのでしょうか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ノバ広場の建築士会館のピカソの壁画" height="734" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260624senzakiakinaka5.jpg" width="1200" />　　ノバ広場の建築士会館のピカソの壁画</p>

<p>既存の秩序のなかでもがくか、新しい秩序を自ら打ち立てるか。どちらの選択肢もないとしたら、人はどこへ向かうのでしょうか。日本思想史研究者の先崎彰容さんによる「秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによる座談会を、3回にわたってお届けします。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ピカソの文脈形成力とデュシャンの文脈破壊力</h2>

<p>【為末】先日、ある人から現代アート界の構造を説明してもらいました。簡単に言うと、アートが作家と作品だけでは成立せず、意味づけと価値づけによって社会的に成立するという話です。その構造というのは、三者から成り立っている。すなわち、作品を生み出すアーティスト、作品の意味を文脈に位置付ける批評家やキュレーターなどの「テキストを書く人」、作品の価値を市場で位置付けるオークションです。</p>

<p>この三者が、作品を生み、それに意味を付与したうえで、交換可能な価値に変換するという構造です。これは循環構造になっていて、権威ある人が「これはいい」と言ったものに価値が付き、市場が「そういうことですね」と認められると、転売するときにさらにテキストが書かれて作家の地位が上がり、次の作品も高く売れて転売の受け皿になるセカンダリーマーケットが形成される。美術館などが購入することで、さらに価値が上がる。</p>

<p>話が長くなりましたが、このテキストを書く人、オークションを仕切る人、作品を売り買いする人は、ヨーロッパの白人男性がほとんどなのだそうです。この人たちが、作家の生み出す作品の価値を決める文脈をつくっている。</p>

<p>【中嶋】権威とか秩序を作っている人たち、ということですね。</p>

<p>【為末】ピカソの作品がなぜあんなに高い値段になったかも、この構造で説明できるそうです。ニューマネーがアメリカで生まれてきたときに、アメリカ人はお金はあるけどヨーロッパほど歴史がないということにコンプレックスがあった。そのヨーロッパからきたピカソの作品を意味付けして買うことで、ヨーロッパに対抗していった。</p>

<p>ピカソの価値はそういう文脈のなかでどんどん上がっていった、という話を聞いたのです。ピカソが新しい権威になっていったんですね。一方でアート界では、価値が固まりそうになったものをひっくり返すこともやる。たとえば、デュシャンという人が出てきた。</p>

<p>【磯野】ああ、便器の人ですか。</p>

<p>【為末】そうです。デュシャンの「泉」という作品です。作品といっても、店で売っている便器にサインをしただけのものです。これが世に出た瞬間、何かがひっくり返った。</p>

<p>アーティストにとっては、今ある評価軸の中で成功するか、それをひっくり返したり壊したりしてデュシャンのような存在になるのか、というのは悩むところではないでしょうか。デュシャンになろうとしても、何の価値も残せない可能性もある。でも、一発当たれば歴史に名前が残るかもしれない。今ある評価軸のなかで認められようとした場合、一発当てるのは難しい。簡単に言うと、既にKPIが決まっている世界のところに身を委ねるのか、そうじゃない新ジャンルに賭けるのか。</p>

<p>ひっくり返すことに賭けるというのは、結構勇気がいりますよね。自分の人生が全く無駄に終わるかもしれないけれども、もしかしたら新ジャンルを作って、自分がその始祖になるかもしれない。今までの話で言うと、これがひょっとこ的な生き、なのかなと。そういう当てはめでいいのか、わからないですが。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>死の無意味性を描いたシェークスピア</h2>

<p>【先崎】いや、そこは当たっていると思います。柄谷行人もマクベス論を書いていて、そのタイトルが『意味という病』というんですね。そこで言っている「意味」が、今の為末さんの話にあった「こういうふうにやったらこういうふうに売れるよね」という文脈なのです。デュシャンは便器を作品に見立てて、その文脈を壊したのですね。ここに、現代アートの一つの醍醐味があるわけです。</p>

<p>前回、高梨さんが「マクベスはキリスト教的な秩序」という話をされましたが、柄谷のマクベス論では、キリスト教的な戯曲と、シェークスピアの戯曲は全く違うジャンルであるとしています。キリスト教的な戯曲は、神の救い、つまりある種のハッピーエンドに向かって話が進んでいく。つまり、意味がある。一方、『マクベス』を含めシェークスピアの悲劇は、人間は悲惨に死ぬ時は悲惨に死ぬというだけで、そこには「意味」がないんですよ。</p>

<p>【為末】なるほど。</p>

<p>【先崎】決定的に無意味なんです。これが『マクベス』の面白いところなのだと、柄谷は書いています。さきほど為末さんは、現代アートの世界で名を残そうとして文脈から外れたことをしたときに、一発当たるか無価値で終わるか、という話をされましたよね。</p>

<p>【為末】はい。「賭け」ですね。</p>

<p>【先崎】今日の話で言うと、その賭けをつかさどるのが魔女の役割で、魔女たちが無価値の方に振り切ると、究極の虚無主義になると思うのです。既存の文脈のなかで自分にとっての究極の成功を目指すマクベスは、気が付いたら全て失う賭けをさせられていた、と。</p>

<p>だけど一方で、大儲けできる可能性も秘めているのが賭けなのであって、それが新しい物の見方や、社会の活性化にもつながり得る。シェークスピアの悲劇は、その賭けがことごとく無意味に終わるという話なんですね。</p>

<p>【為末】いやー、面白い。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「自由と民主主義」はお花畑である</h2>

<p>【金子】凡庸な喩えかもしれませんが、よくトランプはトリックスターだといわれますよね。オレン・キャスのようなMAGA派の思想家は、トランプは秩序を壊し、その後に来るJ.D.ヴァンス副大統領的なものが新しい秩序を打ち立てるのだ、という議論をしています。</p>

<p>すると、トランプは硬直化した黒式尉の世界を活性化するひょっとこ的な存在で、次の世代が新しい秩序をつくる、ということなのでしょうか、秩序が壊されたところから、本当に次の秩序が生まれてくるのか。先ほどのマクベスの話ではないけれども、虚無のほうに近づく可能性のほうが高いような気がします。</p>

<p>【先崎】今日は文学の話をするか、今と似ていると言われる100年前話をするかで悩んだのですが、実はこの二つはつながっています。</p>

<p>100年前、第一次世界大戦から第二次世界大戦に入っていくときに、外交官であり分筆家だったE・H・カーという人がこんなことを言っています。「自由と民主主義という価値は19世紀的な価値にすぎないのだ」と。彼は国際政治におけるリアリズムの源流と言われているのだけれども、これは極めて鋭い指摘だと思います。</p>

<p>当時は1920年代ですから、19世紀的価値というと、たかが20年前の話をしているわけですね。自由と民主主義というのを絶対的な価値だと考えたウッドロー・ウィルソンは、国連まで作ったけれども、こんなものは西ヨーロッパにしか通用しない価値であって、ユートピア的であるとしてリアリズムの視点から批判している。リアリズムというのはたんなる現実主義ではなくて、「現実はそんなものじゃない」と相手の夢を叩き壊す立場です。今回の話でいうと、マクベスの魔女のような立ち位置です。</p>

<p>ただ、カーは叩き壊すだけではなくて、こう付け加えるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>今日のユートピアをリアリズムの武器でもって粉砕した暁には、われわれはさらにみずからの新しいユートピアを築く必要がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>では、新しいユートピアとは何だったのか。当時、独自の経済体制を敷いていたのは、ドイツと共産主義のソビエト連邦です。カーはこれを肯定的に評価していました。結果的にその時代診察は大きく間違っていたわけですが、少なくとも当時は、理念を巡るこうした議論が存在していました。</p>

<p>最近でも、「自由と民主主義は限界だ」としばしば言われていますが、100年前よりしんどいのは、より選択肢が少なくなってきていることです。もはや共産主義は誰も信じる人はいないし、強い統制経済を自由民主主義国が受け入れることはあり得ない。だから、ある種の理念不在の状況になっています。</p>

<p>この理念不在の状況に対する不安がいら立ちを生み、それがトランプの登場を促したのではないかと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>＊本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260624senzakiakinaka5.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 28 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[22世紀の人間像研究会]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>家事育児をキャリアの足枷にしない　右肩下がりの社会を救う「柔軟な働き方」  三原邦彦（株式会社ビースタイルホールディングス 代表取締役社長）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14739</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014739</guid>
			<description><![CDATA[家庭と仕事の両立を可能にする働き方の創出に取り組む株式会社ビースタイルホールディングスの代表取締役社長・三原邦彦氏に話を聞いた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="柔軟の働き方" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_street.jpg" width="1200" /></p>

<p>「将来子どもが欲しくない」と考える未婚女性の割合は2025年に6割を超え、過去最高となった（ロート製薬調査）。背景には、経済的不安やキャリアの中段への懸念があるとされる。こうした状況のなか、2002年という早い時期から、家庭と仕事の両立を可能にする働き方の創出に取り組んできた企業がある。</p>

<p>聞き手：編集部（田口佳歩）</p>

<p>★本論稿は、意見集約プラットフォーム「Surfvote」と連動しています。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家事育児と両立できる仕事を増やしたい</h2>

<p>――ビースタイルホールディングスでは、子育てや介護などによりフルタイムで働くことが難しい「しゅふ」に向けたパートタイム型人材派遣サービス「しゅふJOBスタッフィング」を2002年に開始し、数多くのビジネス賞を受賞されています。あらためて当時の問題意識を教えてください。</p>

<p>【三原】2002年の創業当時は、「寿退社」という言葉が当たり前に使われていた時代であり、女性は結婚や出産を機に仕事を辞めるのが一般的でした。一方で、総合職として働く女性も増え、結婚前には男性と同様の仕事を担うようになっていた。それにもかかわらず、スキルや経験をもつ優秀な人材が離職してしまう状況を、私は非常にもったいないと感じていました。そこで、家事や育児と両立しながら働ける仕事を増やしたいと考えて起業に至りました。</p>

<p>派遣会社として取引先企業の開拓をするなかで、私たちは男性ばかりのメンバーで起業したこともあり、「なぜそのコンセプトで起業したのか」と不思議がられることも多くありました（笑）。それが結果として、テレビや雑誌からの取材を多く受けることにもつながったのですが、私たちの考えは極めてシンプルで、「家庭と両立できる仕事を増やすべきだ」という一点に尽きます。</p>

<p>――それほど強い確信があったのですね。</p>

<p>【三原】ええ。人は誰しも生まれ、育てられてきた存在であり、育児は本来肯定されるべきものです。それにもかかわらず、育児がキャリアの「足枷」になったり、自由な選択ができなかったりする社会には問題があると考えていました。実際、周囲を見ても、仕事にやりがいを感じ、組織のなかで自己表現ができていた人ほど、その選択に悩んでいました。</p>

<p>いまでこそ、キャリアと家庭を両立する選択肢は広がっていますが、当社の創業当時はほとんど存在していませんでした。ホワイトカラーであっても柔軟な働き方は限られており、いまでは考えられませんが、朝9時出社を一時間後ろにずらして10時にするだけでも大きなハードルがあった。企業側には「決められたルールに従うべきだ」という意識が強く根付いていました。</p>

<p>そのような状況のなかで求人企業の開拓を進めるにあたっては、企業にとってのメリットを地道に訴求していきました。求職者が優秀であること、そして「しゅふ層」が報酬よりも家庭との両立を重視していることを粘り強く伝えることで、ようやく企業側も採用を検討するようになりました。当時は「人に合わせて仕事を設計する」という発想が乏しく、私たちの取り組みは「営業」というよりも、むしろ「啓蒙」に近いものであったと感じています。</p>

<p>さらに、私たちより「本当に9時から18時の勤務が必要なのでしょうか」「残業が50時間増えたからといって、一人月分（160時間）の労働を追加するのは合理的なのでしょうか」といった問いを投げかけることで、企業側の従来の働き方そのものの見直しを促していきました。実際、一人月を追加して残業が解消されたとしても、業務の進め方や役割分担によっては、効率化につながらない可能性もあります。過剰な労働時間は必ずしも生産性向上にはつながりません。</p>

<p>また、時短勤務者がいると「引き継ぎが大変になる」といった声も多く聞かれましたが、詳しく聞いてみると実際にはそれほど大きな負担ではないことも多い。こうした現場の課題に一つひとつ耳を傾け、丁寧に解消していくことで、事業を軌道に乗せていきました。</p>

<p>――現在では「しゅふJOBスタッフィング」に加え、ハイスキル人材向けの「スマートキャリア」や、しゅふに特化した求人媒体「しゅふJOB」、さらにはDX推進支援など、幅広い事業を展開されています。それぞれの事業の背景には、どのような課題意識があるのでしょうか。</p>

<p>【三原】根底にある目的は一貫しており、「家庭の事情などと両立して働ける仕事を集約する」ことです。従来のリクルーティングサービスは、正社員・派遣社員・パートタイムなどといった雇用形態軸や、業界・職種軸に分類されるのが一般的ですが、当社は「ライフスタイル軸」という切り口でサービスを展開しています。</p>

<p>また、DX推進支援事業に参入した背景には、少子化による人口減少と労働力不足という構造的課題があります。これに対応するためには、企業は代替労働力の活用を進める必要があります。正社員以外の雇用形態の活用はもちろん、しゅふやシニア、外国人など、雇用対象そのものを広げていくことが求められるでしょう。それと同時に、テクノロジーを活用して労働生産性を高めることも不可欠です。現在ではDXを推進するエンジニアを約70名擁し、AIなどのテクノロジーと人間が担うべき業務を適切に棲み分けながら、企業に対してソリューションを提供しています。</p>

<p>――「ライフスタイル軸」という特徴のほかに、差別化のポイントはありますか。</p>

<p>【三原】求人媒体における最大の競争優位は、認知度であると考えています。当社のサービスは女性の登録が多く、女性労働者だけでも3000万人規模の市場があります。共働き世帯は約1300万世帯にのぼり、家庭と仕事を両立しながら働く人は増加しています。なかでも「しゅふJOB」という求人媒体が着実に成長しており、2024年の調査では全国の認知度ランキングで6位に位置しています（子どもと同居かつ育児の負担がある、求職中または求職する可能性のある30～59歳の女性が対象）。こうした認知の積み重ねが、当社の競争優位性につながっていると感じています。</p>

<p>さらに50代、60代の採用も進んでいます。女性の場合、依然として年齢とともに再就職が難しくなる現実がありますが、当社の求人媒体に掲載されている企業は「しゅふであること」を歓迎しています。そのため、求職者にとって心理的なハードルが低い点も特徴です。たんなる人手不足を補うための採用ではなく、ライフスタイルに寄り添ったマッチングを重視しています。</p>

<p>――柔軟な働き方には、昇給の機会が限られるといった課題もあるのではないでしょうか。</p>

<p>【三原】おっしゃる通りです。とくに近年は共働き世帯が増えており、当社としても新たな取り組みが求められています。男性も仕事に加えて家事・育児を担う必要がありますし、夫婦双方がキャリアを築いていかなければなりません。また、一度いわゆるマミートラックに入った女性が、リスキリングを通じてキャリアアップしていく仕組みも重要になるでしょう。</p>

<p>こうした社会の変化に柔軟に対応できる企業を、私たちはエージェントとして発掘していかなければならないと考えています。この20年間で「働きやすさ」は大きく進展し、働く場所や時間の柔軟性は高まりました。これからは、それに加えて「働きがい」をいかに実現するかが問われる時代になるのではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家事育児を協力し合う風潮に</h2>

<p>――三原さんは大学時代に人材派遣会社の営業としてアルバイトをされて以来、一貫して人材業界に携わってこられました。この2、30年の労働環境の変化をどのようにご覧になっていますか。</p>

<p>【三原】大きな変化の一つは、男性の働き手が家事や育児に取り組むようになったことです。家事育児を夫婦で協力し合う風潮が広がったことは、非常に重要だと考えています。どちらか一方が家事育児を担う状況では選択肢が限られがちです。しかし互いに協力できる環境が整えば、家族やライフプランについてより柔軟に考えられる余地が生まれるはずです。</p>

<p>人口が減少し続ければ、経済はどうしても停滞します。だからこそ、安心して子どもを産み育てられる労働環境を整えることが重要であり、それは私たちが事業を通じて解決したいもっとも大きな課題でもあります。</p>

<p>――一方で、制度面における課題についてはどのようにお考えでしょうか。</p>

<p>【三原】柔軟な働き方の導入は進みつつある一方で、その取り組み状況は企業ごとに異なります。とくに「働く時間の柔軟性」は、可能な限り高めるべきだと考えており、私は企業に対して「フルフレックス制」の導入を提案しています。</p>

<p>仕事をレースにたとえるなら、家事や育児に費やす時間は一時的な「ピットイン」のようなものです。家事育児を終えた後、本来であればすぐにレースへ復帰できるはずなのに、「朝9時から始業」といった制約があるために、それまで待たなければならない。たとえば、子どもを寝かしつけた後に少しでも仕事ができれば、時間を有効に活用することができるはずです。このような仕組みは、仕事の成果を大きく高めると考えています。</p>

<p>――4月からは正社員や契約社員を対象に、週休4日制や1日最短6時間勤務を可能にする制度を導入すると発表されていますね。育児や介護などの理由を問わない点も画期的です。</p>

<p>【三原】これも一つの挑戦です。週休4日ということで、記者の方からも「（3日ではなく）4日ですか？」と何度も聞かれました（笑）。</p>

<p>導入したばかりですので、どの程度活用されるかはまだ分かりません。ただ、この制度と同時に社員には「時間当たりの経済効果を追求する」ことを求めています。休暇を増やすこと自体が目的ではありません。ビジネスの価値は「時間」ではなく「結果」で測られるべきだという意識への転換が必要だと考えています。非常にチャレンジングな取り組みではありますが、私たち自身が実践しなければ、他の企業に広がることはありません。その意味でも、今回の導入を決断しました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>働くとはどういうことか</h2>

<p>――これまでのご発言からは、三原さんが仕事に対して強い情熱をもち続けていることが伝わってきます。そもそも「働く」とはどのようなことだとお考えですか。</p>

<p>【三原】私は、仕事におけるキャリアを「社会的影響力」と定義しています。目の前のお客様はもちろん、上司や同僚に対して、経済的・社会的にどのような影響を与えられるか。その影響力の範囲が広がり、深まっていくことが、キャリアを積むということだと考えています。</p>

<p>たとえば、世界的なアーティストは、世界に対する影響力をもっているからこそ「世界的」と呼ばれますし、メジャーリーガーも同様に、世界的な影響力をもつ実力があるからこそ、その舞台で活躍できる。ビジネスパーソンも同じで、社会に対してどれだけ広く、深い影響力をもてるかを考えることが重要ではないでしょうか。</p>

<p>当社の場合でいえば、登録企業への影響力、求職者の「働くこと」に対する影響力、さらには日本社会の未来に対する影響力があります。また、上場企業である以上、株主に対する影響力も無視できません。こうした多方面に影響力をもち続けるためには、あらゆる場面で決断と挑戦が求められます。</p>

<p>――社会に目を向けると、さまざまな事情で働きたくても働けない人や、次の仕事が見つからない人もいます。そのような方々に、まず何を伝えますか。</p>

<p>【三原】転職には必ず何らかの目的があるはずです。まずはその目的を明確にすることが重要でしょう。目的が明確になれば、おのずと優先順位も見えてきます。最低限満たすべき条件である「マスト」と、実現したい希望である「ウォント」を分けたうえで、自分の資産――――マインド、スキル、ナレッジ――――を整理することが必要でしょう。</p>

<p>企業側は、この三つの要素ができるだけ高い人材を求めていますから、そのあいだで折り合いをつけていくことになります。ただし、本当に入社を希望する企業があるのであれば、エージェントを介さずに直接アプローチすることも一つの方法でしょう。とはいえ、一人で目的を明確にしたり、自分の資産を棚卸ししたりするのは容易ではありません。だからこそ、私たちのようなエージェントの存在意義があるのだと思います。</p>

<p>――同僚から見ると非常に優秀でも、会社からの仕事の評価が低かったことで落ち込み、最終的に仕事を辞めてしまうような場合もあると聞きます。</p>

<p>【三原】残念なケースです。ただ、もしかすると見直すべきポイントはそこにあるのかもしれません。仕事において重要なのは、会社や顧客が何を求めているのかを理解し、それにどう応えるかという点です。</p>

<p>たとえば、恋愛でも相手を好きであるあまり、気持ちが先走って相手が望まない行動をとってしまい、かえって失敗してしまうことがありますよね。この場合、逆にいえば冷静に考えて「相手が望む行動」をとることができれば、良い関係を築けたかもしれない。会社との関係性も同じことで、「何が求められているのか」という視点が欠かせません。</p>

<p>もっとも、個人の特性などによってそれが難しいケースもあります。その場合には、アーティスティックな仕事やプロダクト開発のように、専門性を活かせる分野のほうが適していることもある。実際、昨日ある化粧品会社の代表取締役との対話のなかでも「業界が成熟している現在では、顧客ニーズに応えるだけでは売れない。顧客の想像を超える商品を開発しなければならない」と話されていました。</p>

<p>当社においても同様で、他社が実現できないレベルの価値を提供しなければ競争優位は維持できません。100％の成功をめざしても、結果は50点にとどまることもある。だからこそ、200％の成功を見込める水準をめざすことで、仮に失敗しても150％の成果を確保できる。これこそがもっとも重要なリスクテイクだと考えています。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 27 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[三原邦彦（株式会社ビースタイルホールディングス 代表取締役社長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】「日本の精神性」はいかに形成されてきたか ――仏教から日本政治思想史を問い直す（３）  末木文美士（仏教学者／国際日本文化研究センター名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13880</link>
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			<description><![CDATA[日本人の精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきた仏教と政治の関係性を見ていく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日本文明研究会" height="734" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260628sueki03.jpg" width="1200" /></p>

<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、日本人の精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきた仏教と政治の関係性を、4回にわたって見ていきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本では「歴史が一度、なくなる」</h2>

<p>空海や最澄から時代が下ること300年余り、中世日本において、まさに仏教的なものから政治論が登場します。それが慈円の『愚管抄』で、政治と宗教の関係を包括的に捉えた中世最大の歴史思想書です。</p>

<p>日本では面白いことに、「歴史が一度、なくなる」。古代の六国史（日本書紀〈720〉、続日本紀〈797〉、日本後紀〈840〉、続日本後紀〈869〉、日本文徳天皇実録〈879〉、日本三代実録〈901〉）の後、長らく歴史書は編まれなくなります。</p>

<p>頻繁に王朝交代が起こる中国では、次期王朝が自らの正当性を主張するために、前王朝の歴史を書く必要があります。そうして、つねに歴史が根本に置かれる。しかし日本は王朝交代がないため、権力の正当化をめぐる歴史叙述の必要性が希薄だったのでしょう。</p>

<p>その間に、朝廷文化の中心に置かれたのが、勅撰和歌集などの和歌です。この「和歌」とは、どういうものか。「四季の巡り」を詠み「変わらぬ世界」を象徴するもの、変化ではなく反復と永続性を基調とするもの――つまり「循環」です。この「循環」が、日本の文化的な時間意識を形作ることになります。</p>

<p>歴史物語においても、『大鏡』『今鏡』といった「鏡物」が登場します。「鏡」、つまり基本的には同じことの繰り返しであり、「歴史とは移り変わるものでなく循環していくものである」という思想です。</p>

<p>しかし武士政権が誕生すると、「王権とは何か」といった政治の正統性が問われ、再び歴史を記述する必要が生じました。そこで書かれたのが、『愚管抄』だったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「循環」する時間意識で編まれた天皇論</h2>

<p>比叡山の高僧であり、摂関家出身の公家であった慈円は、宗教的知識と政治的経験の双方を兼ね備えた人物です。彼の『愚管抄』は、日本の歴史を「仏教的宇宙論」「神々の秩序」「天皇の正統性」という三層構造の上に位置づけます。</p>

<p>見逃されがちなのですが、『愚管抄』の根底にある時間観は、仏教の四劫（しこう）説です。四劫とは、成劫（じょうこう）、住劫（じゅうこう）、壊劫（えこう）、空劫（くうこう）で、つまり世界は成立し、留まり、崩壊し、何もなくなるという四つの時期の繰り返しであるというものです。そこでは人間の寿命すら長短のリズムを帯びて変化するとされる。世界は永遠不変ではなく、巨大な時間スケールで生滅を繰り返すという壮大な世界観です。もうお分かりかと思いますが、その構造は、やはり「循環」なのです。</p>

<p>慈円はこの宇宙的時間の中に、日本の政治、天皇の在り方を位置づけました。現在の日本は「住劫」にあり、世界が安定している過渡期にある。その中で天皇は、人間社会へ秩序をもたらす存在、人間社会の秩序をつかさどる存在として理解されたのです。</p>

<p>慈円の構築した天皇論は、「顕（うつつ）」と「冥（みょう）」の二元論です。冥なる世界（神々の領域）から顕の世界（人間の力が及ぶ領域）が派生するという構造で、天皇は冥界からの連続性をもっとも純粋に体現する存在とされました。ある意味では、万世一系の発想の元でもあるわけです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>現在は『神皇正統記』のほうが評価されているが......</h2>

<p>ただ慈円は、天皇が絶対的な主権者であると捉えたわけではありません。天皇の権威の根拠は、天照大神（皇室の祖）と春日大明神（藤原氏の祖）の契約（一諾）に基づいているとします。天皇の権威は、慈円自身の出身である藤原氏との関係の中で成立すると論じるのです。いわば藤原氏の政治的役割を正当化する形で、天皇と藤原氏は主従関係に置かれるとしたわけです。</p>

<p>いずれにしても慈円は、仏教的な末法の世を前提とし、天皇は歴史の推移と因果のなかに置かれる存在として理論的に位置づけました。</p>

<p>中世日本の書では、その後に書かれた北畠親房（きたばたけ・ちかふさ）『神皇正統記（じんのうしょうとうき）』が、しばしば天皇論の代表として評価されます。親房は伊勢神道の影響を強く受け、天皇を「歴史を貫く絶対の正統」と捉えて、南朝の正統性を主張しました。私は、親房よりも慈円のほうが理論的な天皇の位置付けができていると考えます。</p>

<p>余談ですが、近代になってから、親房が非常に高く買われることになります。とりわけ昭和初期に活躍した国史学者・平泉澄（ひらいずみ・きよし）は、親房の思想を高く評価し、そこに「日本本来の天皇観」を見出しました。平泉が示したのは、皇統の歴史的連続性がいかに政治的・精神的な共同体の基礎となるかという視点であり、親房の天皇論を近代的に展開しました。皇国史観の色彩を帯びた彼の議論は戦後には批判の対象となりましたが、彼の研究成果には見るべきものがあり、今日あらためて評価されるべきだと思います。</p>

<p>以上のように、中世最大の歴史書『愚管抄』は、まさに仏教的思想による天皇論でした。第1回で指摘したように、この時代の政治思想をとり上げるにあたって仏教や天皇論に言及しないのは不可解だと言った理由が、お分かりいただけたのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 23 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[末木文美士（仏教学者／国際日本文化研究センター名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>イラン攻撃から抜け出せないトランプ　そもそもネタニヤフの甘言に敗けたのが失敗  遠藤誉（中国問題グローバル研究所所長）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14750</link>
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			<description><![CDATA[なぜトランプはネタニヤフの要望に応えたのか？ 書籍『G2構想　勝つのは米国か中国か』より解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_iranUSAflag.jpg" width="1200" /></p>

<p>ようやく停戦合意の覚書に署名したというのに、トランプがまた激しいイラン攻撃を始めている。そもそも、歴代の大統領でイランへの攻撃を命じたのはトランプしかいない。トランプはなぜ、イスラエル・ネタニヤフ首相からのイラン攻撃の要望に応じたのか。遠藤誉氏が鋭く分析する。</p>

<p>※本稿は、遠藤誉著『G2構想 勝つのは米国か中国か』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>歴代大統領は誰も手を出さなかった「イラン攻撃」</h2>

<p>トランプはイラン攻撃を「これまでどの大統領もできなかったこと」と自慢しているが、「できなかった」ではなく「しなかった」のだと、2026年4月13日にヒラリー元米国務長官がMS NOWの番組「モーニング・ジョー」に出演して、以下のように批判している。</p>

<p>●私はこれまでイスラエルのネタニヤフ首相の「イランとの無期限戦争」への意欲に反対するため、何度も長時間の話し合いを重ねてきた。トランプが「イランがホルムズ海峡を封鎖する可能性があると誰も教えてくれなかった」と言ったのは衝撃的だ。私が参加したあらゆる「戦争ゲーム」（シミュレーション）で、イランが最初に取るであろう行動として想定していたのは、まさに「ホルムズ海峡封鎖」だった。</p>

<p>●ネタニヤフが歴代のアメリカ大統領全員にイランとの無期限戦争に同意させようとしてきたことも、私自身の経験から知っている。私はネタニヤフや彼の戦争内閣とこの件について何度も何度も長時間話し合ったからだ。私は、明確な最終目標が定まっていない、「イランに対して何かをしたい」というネタニヤフの漠然とした願望に賛同することを拒否した。（ヒラリーの発言は以上）</p>

<p>4月10日に、ケリー元米国務長官が同じMS NOWの「ザ・ブリーフィング・ウィズ・ジェン・サキ」のインタビューに応じて、以下のように回答している。</p>

<p>●ネタニヤフはかつて歴代米大統領にイラン攻撃をくり返し迫ったが、同意したのはトランプだけだった。ネタニヤフとは複数回にわたって協議を行なったが、彼は常にわれわれに攻撃を仕掛けるよう望んでいた。</p>

<p>●ネタニヤフは、この提案をオバマ前大統領にも直接提示したが、オバマは拒否した。ジョー・バイデン大統領も拒否した。ジョージ・Ｗ・ブッシュ大統領も拒否した。これに同意した唯一の大統領は、明らかにトランプ大統領だけだ。（ケリーの発言は以上）</p>

<p>ネタニヤフの首相在任期間と、そのときの米政権を記すと以下のようになる。</p>

<p>・1996年6月18日〜1999年7月6日（クリントン政権）<br />
・2009年3月31日〜2021年6月13日（オバマ政権、トランプ1.0政権、バイデン政権）<br />
・2022年12月29日〜現在（トランプ2.0政権）</p>

<p>ネタニヤフが30年の長きにわたって首相を務めてきたというのも驚きだが、それ以上に驚くのは、クリントン政権から始まって五代の政権にわたって「イラン攻撃」を呼びかけ続けてきたという、その「悪の執念」だ。</p>

<p>これまで中東ではアフガン戦争やイラク戦争など、次から次へと戦争を仕掛けてきたアメリカだが、イラン攻撃だけは避けてきたのは、イランの領海内にはホルムズ海峡があるからだ。ホルムズ海峡は国連海洋法条約上の「通過通航権」の行使が認められる「国際海峡」ではあっても、「ホルムズ海峡封鎖」という手段に出られたら、世界の石油市場が混乱して、アメリカは窮地に陥る。これまでの大統領はこのことを知っていたということが、ヒラリーやケリーの発言から真実味を帯びて見えてくる。</p>

<p>トランプにもこのたび、「イランがホルムズ海峡封鎖に出たときのアメリカの窮地」に関して注意を喚起した者がいたと、4月7日のニューヨーク・タイムズが報じている。それによると、統合参謀本部議長のケイン将軍が「イランを攻撃した場合のホルムズ海峡封鎖の危険性」に関してトランプに注意を喚起し、「閣下、これは私の経験上、ネタニヤフの常套手段です。いつも誇張して宣伝しているだけで、われわれの力が必要なので強引にイラン攻撃を売り込んでいるだけです」と忠告した。しかしトランプは「そのような事態になる前にイランは降伏するだろう」と主張して、その危険性を否定したという。</p>

<p>CIA長官（ラトクリフ）も「ネタニヤフのイラン政権転覆シナリオ」を「茶番劇だ」と一蹴し、「達成可能な目標と考えるべきではない」と発言した。にも拘らず、トランプはそういった忠告には耳を傾けず、ひたすらネタニヤフの「甘い言葉」にのみくすぐられていったという。</p>

<p>ネタニヤフは、ベネズエラ攻撃の成功例を挙げてトランプの「自尊心」をくすぐった。トランプとしてはトランプ関税（相互関税）に違法判決が出たり、エプスタイン事件などの嫌疑でも追及されて窮地に立ったりしていることもあり、ネタニヤフの甘言のほうに傾いていったのだろう。</p>

<p>ネタニヤフは、ベネズエラ攻撃におけるマドゥロ大統領拘束連行による成功例を理由に、イランのハメネイ師など指導層全員を爆殺することによって、一気にイランを陥落させることができるとトランプに約束し、それを実行に移したものと考えられる。</p>

<p>しかし、イランは予想以上に強かった。政府転覆も起きなかった。</p>

<p>そして、歴代の米大統領が、それ故にイラン攻撃を回避していた通り、イランは奇襲を受けるとすぐさまホルムズ海峡を封鎖した。世界の石油価格が高騰すると、アメリカにおける石油価格も高騰していき、それにつれて車社会のアメリカのガソリン代も高騰し始めたので、トランプは焦った。そしてNATO諸国などに対して米軍基地の使用や護衛艦の派遣を要請したのである。</p>

<p>しかしNATO諸国もG7諸国も、それに応じなかった。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_iranUSAflag.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 22 Jul 2026 17:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[遠藤誉（中国問題グローバル研究所所長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】これからの秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か（ディスカッション・１）  22世紀の人間像研究会</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14561</link>
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			<description><![CDATA[「多様な正義」が徹底して貫かれ、笑いや遊びが衰弱し、言葉狩りによる他者否定がエスカレートしていく時代をどう見るべきなのか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「22世紀の人間像研究会」メンバーによる座談会" height="736" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260624senzakiakinaka6.jpg" width="1200" />　　</p>

<p>「多様な正義」が徹底して貫かれ、笑いや遊びが衰弱し、言葉狩りによる他者否定がエスカレートしていく時代をどう見るべきなのでしょうか。日本思想史研究者の先崎彰容さんによる「秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによる座談会を、3回にわたってお届けします。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「遊びの不在」は何をもたらすか</h2>

<p>【為末】批評家のテリー・イーグルトンの『マクベス』論では、魔女というトリックスターのような存在が、既存の秩序やそれを信じている人を嘲笑い徹底的に否定していくと、虚無に陥っていくというお話でした。それはよくわかる気がしますが、そこには何段階かステップがあるように思います。</p>

<p>私は「遊び」に関心があって、これが一つのステップである気がするのです。真面目と不真面目の間には、たとえば笑いで文脈を変えるようなことってありますよね。虚無まで至る前に。</p>

<p>【先崎】そうですね。さきほど折口信夫の藝能発生史の話をしましたが、芸能というのは、まさに「遊び」です。昔から戦いで相手を打ち負かす場面を戯画化したり、歌舞にして酒を飲みながら興じたりするという遊びがあり、その一部が芸能として、日常の状態を壊す機能をもちました。イーグルトンは日常を壊すという機能を徹底的に突き詰めると、虚無に至ると考えたわけです。</p>

<p>為末さんのおっしゃるとおり、実際はその間に幾つかのグラデーションがあります。ただ、現代の社会は、この遊びの部分がかなり失われている気がします。たとえば、各種のコンプライアンスを含め、多様な正義が貫かれることで、逆に生きづらい社会になっているようにも思います。グレーゾーンがなくて、黒か白かを迫られる。そこに遊びはないですよね。</p>

<p>「遊びの不在」ということが最も極端なかたちで出ると、イーグルトンが出してきたような病的な状況に陥るということです。いま社会全体として、ユーモアが欠如しているのかなという感じがしています。</p>

<p>【中嶋】笑いから虚無までの距離が縮まっているという話でいうと、最近はスポーツでもエンタテインメントでも、政治と近くなっていて、うかつにコメントできないような雰囲気があるように思います。</p>

<p>【先崎】言葉を言葉どおりにしか受け止められない社会になっている、と言うこともできますね。言葉の中にあるニュアンスや抑揚や陰影が読み取られなくなっている。かつては言霊のような、直接言葉になっていないものへの感受性も豊かな社会だったのに、いまは「ばか」と言ったら「ばか」としか受けとられない。</p>

<p>友だちに対して「ばかだなあ」と言うとき、それは「親しみ」のようなニュアンスがあったりもするのだけれど、言葉どおりに受け取ると、「人にばかというのはいかがなものか」という、正しいか正しくないかという俎上に乗せらる。僕たちは言葉がものすごくやせ細った時代を生きているのですよ。そういうこともお話しできたらと思って、折口信夫について触れたのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>権威なき社会では抵抗は無意味になる</h2>

<p>【磯野】折口信夫の黒式尉、小癋見、ひょっとこの話とマクベスの話をうかがっていて思ったのは、黒式尉、小癋見、ひょっとこがいる世界とマクベスがいる世界は、対立するような気がします。</p>

<p>いわゆる黒式尉が作る秩序を、ひょっとこが回避するからこそ面白さが出ると思うのですが、そもそも共有されている秩序のようなものがないと、回避するものもないので面白くなくなってしまいますよね。その面白くない社会がマクベスのいる、ひたすら出世を目指すしかない世界なのかなと。</p>

<p>【先崎】おっしゃるとおりですね。折口の文学論とマクベス論は、直接は重ならないのですが、ひょっとこのような存在を許容する社会のほうが、ある種健全に回っているのに対して、そういうものがいないマクベス的な社会は、かなりギスギスしてしまっているということは言えますね。それ以前に、今の社会はそもそも秩序というか、ある種の善悪感みたいなものがうまく機能していないのではないかと思うのです。</p>

<p>夥しい数の各個人の正義感があって、それぞれが、それぞれを追い込むような社会になっている。コロナの時の自粛警察みたいに。社会が安定的に機能していたら、ひょっとこや魔女のような存在が「ケとハレ」を循環させていくこともできるのでしょうが、それがうまく機能していないように思います。</p>

<p>【磯野】わたしは小癋見とひょっとこの話がとても面白いと思いました。高校生くらいの時って、たしかにむすっとしている生徒と、先生の変な似顔絵を描いているような生徒っていましたよね。それは先生という権威が確立しているからこそなのですが、今は先生が生徒を叱るというより、気を遣ったり機嫌をとったりしていますよね。そうなると、小癋見もひょっとこもその地位を失っていく感じがします。</p>

<p>【先崎】そうです。黒式尉としての先生がいるからこそ、小癋見とひょっとこという役割が成立する。それぞれが既存の秩序を刺激し合って、たとえば学校であれば一学年のサイクルの中で死と再生を繰り返して変わっていく。でも今の社会は、そもそも権威自体が壊れているので、それをひっくり返すような行為自体が成り立たないのです。</p>

<p>既存の秩序への刺激が効かなくなると、より強い刺激が求められるようになります。薬が効かなくなってどんどん強い薬を打つようになるようなイメージですね。ひょっとこが「面白い」を通り越してグロテスクな顔になっていく。権威が壊れるということは、そのような一面を持っています。</p>

<p>【磯野】今のお話を聞いていて、高校の頃を思い出していました。私の通っていた高校はそこそこ自由な校風で、上履きぐらいしか決まっていないところだったのですが、それでも権威や秩序はありました。</p>

<p>文化祭だけは生徒が羽目を外すのですが、そこは周りの大人も教員も許容していました。「見て見ぬふりをする」ということが成立していたんです。ある意味で、小癋見とひょっとこが「ハレの時間」には好きにやることを許されていたというか。今同じことをやったら、いろいろなところに通報されて大変でしょうね。お昼休みに買い物に出かけることすらだめだそうです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>創造的破壊とは違う破壊のための破壊</h2>

<p>【高梨】今回は自分の専門とは全く違う話を聞いて、いろいろ質問したいことがあります。</p>

<p>マクベスという人は、ある意味、キリスト教の正しい教えのようなゆるぎない権威に向かうベクトルを持った人だと思うのですが、魔女にはそういうベクトルはないのか、つまり魔女を魔女たらしめているものは何かということも気になりました。冷笑的なものが行き過ぎると虚無に陥るというのがイーグルトンの指摘だったと思いますが、魔女が魔女たる軸みたいなものをもっていれば、一気にそういう方向にいくこともないのではないかと。</p>

<p>それから、折口のいう「神」は、一神教的な神とはかなりイメージが違うと思うのですが、いかがでしょうか。</p>

<p>【先崎】そうですね。まず教科書的に言いますと、最も日本の一番古いところから出てきているのが神で、これが最終的には天皇の権威に結びついていきます。</p>

<p>神が秩序を作る存在になっていくにあたって、日本の場合は、天皇は神話的な力を持つ女性と多様な性的関係を結び、権力者としての力を蓄えていきます。これはよろしくないという考えがのちに中国から入ってきましたが、古代の日本では、神は女性との関係を通じて力を得て秩序をつくっていくのです。　</p>

<p>その後、平安時代の『源氏物語』の時代になってくると、精霊と呼ばれる存在が出てきます。この精霊は、神の権威や秩序を乱すような存在です。具体的には、春先に疫病をもたらしたりするのが精霊の仕業とされました。天皇の特別な力が、それを抑えて鎮めていく。その力は民俗学用語では、「ニイヅ」とか「イツ」と言われています。</p>

<p>【高梨】さきほど、絶対的な力を持つ神に対して、二つの対抗の仕方があるというようなご説明があったかと思います。この二つは、そもそも秩序をひっくり返すことは考えていない抵抗の仕方ですね。</p>

<p>【先崎】鋭いご指摘です。恐らく日本の神話というのは基本的に天皇の権力関係について書かれているので、完全にひっくり返すという発想は出てこないかと思います。ただ、ひっくり返さないまでも、さまざまな反抗の仕方がありました。もう一カ所、折口のテキストから引用します。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>神武天皇大和入りの初めを伝へる日本紀には、諷歌・倒語を以て、目に見え、見えぬ兇悪を従へられたと言ふ。&hellip;&hellip;また、精霊・兇悪の輩には言語の表面どほりの意義に考えられ、実はその反対の効果の現れるやうに使われたのが倒語であった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>ここで折口が言う「倒語」とは、マクベスの魔女たちが唱える「きれいはきたない、きたないはきれい」と同じです。相手の言葉に足を引っかけるようにして、言っていることを反転させる。それが反抗の色を示すということになる。これも秩序全体を壊すというよりは、秩序に疑いを挟んだり、別の角度から見たりすることを示唆しています。つまり、小癋見とひょっとこの役割ということになります。</p>

<p>【高梨】マクベスの魔女たちは、秩序をよりよいものにしていくために、あえて逆のことを言っている、秩序を体現しているマクベスと、実は共犯関係であるということはないのですか。</p>

<p>【先崎】それは『マクベス』をどう読むかという話にもなりますが、僕が参照していたイーグルトンの見方に寄せると、共犯というよりは対立的な世界だと思います。つまり、「ケとハレ」で刺激を与え合うような世界ではなくて、魔女はマクベスの価値観に対して完全に攪乱を狙っている。</p>

<p>しかも、既存の秩序を壊して新しい秩序を作るための攪乱ではなく、壊すこと自体が目的になっています。ひょっとこのような道化が既存の秩序を笑いによって更新していくのに比べると、より虚無的で破壊的な側面があるかなと思います。</p>

<p>【中嶋】マクベスは魔女たちに煽られて、結局は自滅しますよね。</p>

<p>【先崎】そうです。絶対実現しないと思ってしゃべった言葉がすべて実現して破滅に向かっていく。そこが悲劇のクライマックスなのですが。</p>

<p>マクベスはそもそも安定した出世コースに乗っているのではなく、出世の階段を上りながら、常に疑心暗鬼の連鎖に陥っています。ソビエト時代の全体主義社会のようなものを、ちょっと感じさせるところがありますね。レーニンが亡くなる前に、自分の寝ているベッドの周辺に兵隊を何人も取り巻かせたという話もあります。</p>

<p>誰かが自分を裏切るのではないかという恐怖心に死の前までさらされ続けていた。マクベスがとりつかれていた不安とは、そういうものに近い。マクベスは出世しているはずなのに、常に「不安だ」と口にするのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>＊本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 21 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[22世紀の人間像研究会]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】「日本の精神性」はいかに形成されてきたか ――仏教から日本政治思想史を問い直す（２）  末木文美士（仏教学者／国際日本文化研究センター名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13879</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013879</guid>
			<description><![CDATA[日本人の精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきた仏教と政治の関係性を見ていく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日本文明研究会" height="734" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260628sueki02.jpg" width="1200" /></p>

<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、日本人の精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきた仏教と政治の関係性を、4回にわたって見ていきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>空海は明確に「仏教優位」を打ち出していた</h2>

<p>多くの方がご存じの通り、平安仏教の中心となったのは、空海と最澄です。この二人は、王法（政治権力）と仏法（宗教権威）の関係をめぐり、独自の構想を提示しました。</p>

<p>空海はしばしば「密教の大成者」として語られますが、彼に「政治論」が存在することはあまり知られていません。彼の主著の一つである『秘蔵宝鑰（ひぞうほうやく）』の中で、若い時期に書かれた著作『三教指帰』を再構成して、その構想が語られています。</p>

<p>本書において空海は、「十住心（じゅうじゅうしん）」の体系、つまり人間の心の発達段階を十段階に分類して提示します。動物的な本能である第一段階から始まり、素朴な倫理意識が芽生える第二段階、宗教が芽生える第三段階ときて、以降は徐々に仏教の深い真理へと進展していくわけですが、その最初の段階である第四段階「唯蘊無我心（ゆいうんむがしん）」で、世俗（政治）と仏法を比較する議論が登場します。</p>

<p>ここでは、憂国公子と玄関法師の問答形式で、政治と宗教の価値評価を確かめている。ごく簡単に言えば、仏教のもっとも初歩的な段階として「政治の問題を論じる場合にも仏教は大事ですよ」ということを議論しているのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>経を読み、仏を礼して、国家の恩を報じ、観念坐禅して四恩の徳を答う（『空海コレクション』Ⅰ、p.120）</p>

<p>外書は百姓の文の如く、仏経は天子の勅の如し（前掲書p.123）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>注目すべきは、空海が世俗の政治を「仏法より下位に置く」という立場を明確に打ち出している点です（仏法優越論）。仏法は宇宙の根本原理に通じ、存在の真理を説くものであり、政治はあくまで現世的秩序を保つための営みにすぎない、というわけです。</p>

<p>この仏法優越論は、のちに日本仏教が政治と関わる際にしばしば示す特徴的な思考の原点となります（ちなみに、前近代の日本政治において「王法優越論」であったことはありません）。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>最澄が唱えた「真俗一貫」という革新の発想</h2>

<p>政治論としてより理論的に優れているのは、最澄のほうです。空海は、先述のように一種の価値評価が出てしまうために、世俗の権力をどう位置づけるかについて必ずしも十分に議論できていない面がありました。</p>

<p>最澄の打ち出した構想はどのようなものか。晩年、彼は従来の具足戒（ぐそくかい：出家者用の250戒）を「小乗戒」として批判し、大乗独自の戒（大乗戒）を用いるべきだと主張します。そこで採り上げられたのが、「梵網戒（ぼんもうかい）」です。</p>

<p>梵網戒は『梵網経』（中国での偽経と考えられます）に基づくもので、出家者だけでなく在家者（※出家せず世俗の生活を営みながら仏道に帰依する者）にも通用するとされました。梵網戒は日本でもそれ以前から存在しており、実際に出家者の戒としては不十分なところも多いため、従来は具足戒を補完するものとして位置づけられていました。しかし最澄は、出家者に純粋な大乗戒である梵網戒のみ授戒することを主張したのです。</p>

<p>この構想は南都（奈良）の旧仏教勢力から強い反発を招きます。それもそのはず、出家者・在家者ともに通用する戒では両者の境界が曖昧になりかねません。曖昧になれば僧団の統制が崩れ、修行の体系も維持できない。実際、両者の区別ができなくなるわけです。</p>

<p>しかし最澄にとって、両者の境界の曖昧化こそが利点であり、革新でした。出家と在家の区別を超え、「すべての人が菩薩である」という「真俗一貫」を唱えたのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>「仏道には菩薩と称し、俗道には君子と称す。その戒、広大にして、真俗一貫す。故に法華経に、二種の菩薩を列ぬ。文殊師利菩薩・弥勒菩薩等は皆な出家の菩薩、跋陀婆羅等の五百の菩薩は皆なこれ在家の菩薩なり」（思想体系本p.201）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>彼は『法華経』に基づき、出家の菩薩と在家の菩薩を同列に並べました。俗世を治める天皇（君子）も、精神的指導を行なう僧侶も、ともに菩薩として同じ方向を歩む存在であるという、いわば「菩薩の二元論」です。「天皇はあくまで俗の頂点に位置づけられるけれども、仏道と方向性を共有し、共同して世界の秩序を支える存在である。役割が異なるだけである」というわけです。このように最澄は、仏教と政治を並列的な関係として捉えたのです。</p>

<p>究極の真理に近いのは仏道であり、天皇や政治権力は仏道に導かれる存在であるという意味では、仏道のほうが上位に位置していると言えます。しかし、それでも「両者は対立するものではない」。これが最澄の思想の特徴であり、独創的な発想でもありました。</p>

<p>最澄のこの発想が実際、どれほど影響を及ぼしたかについては分かりません。ただ、その後の展開を見ていくと、中世日本は「王法仏法相依論」が精神的な支配構造となる。最澄のロジックに通底するような、王権と神仏とが補完し合う二重構造が浸透していくことになるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>王権と仏法が並列であるが日本の特徴</h2>

<p>こうした日本の権力構造は、アジアの中で非常に個性的なものと言えます。</p>

<p>例えば、中国の権力構造は、儒教を軸とした「縦の一元構造」です。天子が天から命を受け、それを官僚、知識人が支える。仏教を含む宗教は、本来政治とは関わってはいけないものとして排除されます。ゆえに反乱の際には逆に、仏教はしばしば持ち出されることにもなる。</p>

<p>また東南アジアの上座部仏教圏では、仏教が王権よりも上位に位置づけられ、国王であっても僧にはひざまずかなければならないという、宗教優位の上下構造が形成されました。</p>

<p>対して日本の場合、王権と神仏が互いに牽制しながらも補完し合うという並列構造です。神仏は恐ろしい霊的権威をもち、祈祷・加持・鎮護によって政治の正統性を支える。一方、王権は現世秩序を維持する権力を握りながら、宗教を保護する役割を担いました。先に述べたとおり、戦後日本では従来「仏教が政治権力と癒着して屈服した」という見方がなされていたわけですが、実はそうではなく、「仏教は政治を支えなければならない」あるいは「互いに支え合わなければならない」と考えられていたのです。</p>

<p>この日本の在り方は、アジア的な構造に比べると、むしろ中世ヨーロッパに近いと言えるかもしれません。ヨーロッパにおいて王権は神から与えられるものでしたが（王権神授説が理論化されるのはもちろん時代を下るわけですが）、王と教皇はつねに権威を争うという意味で政治と宗教は並列構造であったと言えるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>神仏と王権それぞれがまた重層化していく</h2>

<p>さらに中世日本においては、並列構造であった神仏と王法それぞれが重層化されていく点が、また特徴的です。</p>

<p>神仏の側では、神と仏の関係を整理する「本地垂迹説」が登場します。本地垂迹とは、仏を本地とし、神をその権化＝垂迹とする思想であり、神と仏の間に階層的連関を築きました。</p>

<p>また世俗の側では、天皇（朝廷）と武家政権（幕府）が並立することで、政治権力そのものが二重化します。武家は実力を持ちながらも、朝廷の有する文化的・儀礼的正統性を必要とし続けました。将軍が任命の権威を朝廷に求めたことに、この依存関係はよく表れています。</p>

<p>皆さんがよくご存じの『忠臣蔵』でも、その一端が垣間見えます。事件の端緒となったあの日は、朝廷から派遣された勅使と院使が、将軍に年賀の答礼を行なう儀式がありました。赤穂藩士・浅野内匠頭は、その接待役を務めていた。その礼儀作法を指南していたのが、高家（幕府の儀式・典礼を司る役職）の吉良上野介でした。つまり、朝廷からの遣いをどういう形で迎えるかという有職故実の知識を武士側で持っていたのが吉良であって、「それを浅野なんぞに教えないぞ」といったことが発端になるわけです。</p>

<p>いかに武家政権であろうと、秩序の根源は朝廷・公家社会にあり続けました。武力だけでは平和な社会秩序を構築する論理をもてないため、武士も伝統的権威に依拠せざるをえなかったのです。</p>

<p>そのような複合的な権力構造は、近世まであったと考えられます。そのため来日した外国人たちは、「天皇と将軍のどちらが日本の王か」が分からず困惑したという。幕末には両陣営が衝突したわけですが、逆に言うと、中世から近世までの長期にわたって、日本の政治体制はこの重層構造でうまく機能していたと言えるのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 16 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[末木文美士（仏教学者／国際日本文化研究センター名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】これからの秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か（２）  先崎彰容（社会構想大学院大学社会構想研究科教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14560</link>
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			<description><![CDATA[人間は秩序や権威というものとどのように折り合いをつけてきたのか、それがうまくいかないときに何がおきるのか。日本思想史家の先崎彰容さんと、折口信夫とシェークスピアの作品を手がかりに考えていきます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="これからの秩序との向き合い方" height="734" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260624senzakiakinaka4.jpg" width="1200" /></p>

<p>人間社会は秩序によって維持され、秩序の破壊によって更新されてきました。秩序が大きく崩れるとき、分断や争いがおこります。20世紀の前半に、人類は史上最悪の戦争を二度にわたって経験しました。その戦争前夜と現代社会の様相が似てきているという指摘があります。</p>

<p>人間を考えるとき、秩序や権威というものとどのように折り合いをつけてきたのか、それがうまくいかないときに何がおきるのか。日本思想史家の先崎彰容さんと、折口信夫とシェークスピアの作品を軸に、二回に分けて考えていきます。（構成：中嶋愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>出世志向の権化としてのマクベス</h2>

<p>さて、ここから唐突に折口信夫からシェークスピアの『マクベス』まで話が飛ぶのですが、実はそれほど唐突でもないことが、最後までおつきあいいただけるとおわかりいただけるかと思います。僕は昨年、『批評回帰宣言』という少し重たい本を出したのですが、そこに書いた『マクベス』の論考が今回の話のベースになっています。</p>

<p>『マクベス』はシェークスピアの四大悲劇のなかでは、最も短くてわかりやすい戯曲です。主人公のマクベスはスコットランド王ダンカンに仕える武将です。このマクベスが戦いの帰りに、魔女たちから「いずれ王になる」という予言を受けます。</p>

<p>もともと出世欲にとりつかれた男なので、喜んで妻にそのことを話す。すると妻もその気になってマクベスをそそのかし、二人で結託して王を殺してしまいます。このあと予言どおり王位についたマクベスですが、不安にかられ、疑心暗鬼になって破滅に向かっていくという悲劇です。</p>

<p>このマクベスという主人公は、ひたすら上昇志向にとりつかれた存在として描かれています。少し前の日本で言えば、東京大学の法学部を出て、官僚になって、政治家になって、大臣になる――という典型的な出世街道がありましたが、それを何の疑いもなく邁進していくようなイメージです。出世街道というのは既存の社会秩序の一部ですが、その秩序に対して何の疑いももたない人間、それがマクベスです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>王座を目指す者を嘲け笑う魔女たち</h2>

<p>その対極として、魔女という存在が出てきます。魔女というと女性のようですが、実は女性ではなくて両性具有の存在です。男性でありかつ女性であり、「○○らしさ」の境界にいる存在です。</p>

<p>イギリスの文芸批評家のテリー・イーグルトンは、『マクベス』という作品のなかで最も注目すべきは、この魔女たちの存在だと言っています。主人公のマクベスをはじめ、戯曲に登場する男性たちは、スコットランド王になるために陰謀や暗殺を企てます。王位こそが彼らの世界を構成する秩序の頂点だからです。</p>

<p>対照的なのが魔女たちです。彼らは秩序そのものを一笑に付します。わざと意味を反転させて「きれいはきたない、あるのは無い」と唱えながら、イモリの眼や犬の舌など得体のしれないものを煮込んだ大鍋の周りで踊っている。そうすることで、王座に執着する権力に「前向きな」男たちをばかにしているのです。</p>

<p>野望に急き立てられている人間は、現状に満足できず、さらに上を目指して心が休まることがない。むしろ出世していくほどに不安が増し、猜疑心にとりつかれていく。それを見て魔女たちは窮屈で滑稽な存在として嘲笑うのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>行きつく先は全体主義か、虚無か</h2>

<p>イーグルトンのマクベス論が現代に接続するのはこの後の分析です。マクベスと魔女に象徴されるような存在が最終的にどういう社会状況を生み出すのか。</p>

<p>まずマクベスのほうですが、この人間は王を殺して自ら王になってからも、常に不安にさいなまれ、疑心暗鬼にかられて、側近などを次々に暗殺していきます。独裁者が全体主義的な社会を作っていくのと同じメカニズムです。</p>

<p>次に魔女です。社会の常識を疑い、それを揶揄したりひっくり返したりする存在は、どんな社会にも、どんな時代にもいます。イーグルトンが鋭いのは、そうした魔女的な生き方が行き着く先を、究極まで突き詰めて考えているところです。それは、他人を批判や否定すること自体が目的化する社会であり、結局のところ虚無に陥るということです。</p>

<p>例えば、「人を殺してはいけない」という考え方に対して、「なぜ人を殺してはいけないのか」を究極まで突き詰めた場合、「それって絶対的な理由はないですよね」というところまで行ってしまいます。それが虚無です。それが行きつくところまで行くと100年前のナチスによる大虐殺になると、イーグルトンは言うのです。</p>

<p>つまり、おどけたりまじめな雰囲気を壊したりすることは、因習を打破したり、秩序に対して風穴を空けたりするという意味ではいいことかもしれないのですが、徹底した他者否定は、イーグルトンが言うところの「病的なまでの虐殺」をも可能にしてしまう虚無的な世界につながっているのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>たしかに暴露は積極的な道化の一種である。それは、「思いあがった連中」つまり、マクベスの鼻をへし折りはするが、虚無的な世界へ危うく近づくことにもなる（中略）そこで問題なのは、健全なる因習打破の行いが病的な冷やかしに限りなく近づいてしまうことだ。（テリー・イーグルトン『シェイクスピア』（平凡社、2013）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>ここでイーグルトンは、きわめて重要な指摘をしています。マクベスは、自分自身の権力欲にからめとられて破滅の道を突き進むのですが、このマクベスの上昇志向と不安を嘲笑する魔女にも、この悲劇の一因があるということです。過剰な暴露主義が、世界の「虚無」をあからさまにするとき、終わりのない他者否定につながっていく。それは戦争における他民族排斥のような凄惨な虐殺まで生むと、イーグルトンは言うのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>私たちは社会を壊さずに更新していけるのか</h2>

<p>さて、ここで前回のひょっとこの話に戻りたいと思います。折口信夫の日本文学の起源についての論考で参照された黒式尉は、権威の象徴であったということを思い出してください。黒式尉は秩序というものを担っているという意味では、マクベスに通じる存在です。</p>

<p>それに対して、小癋見のように無言で反抗する存在もいれば、ひょっとこのようにちゃかしたりおどけたりして権威を貶める存在もいます。</p>

<p>健全な社会を回転させるためには、ひょっとこのような役割も必要だけれども、それも行き過ぎれば魔女のようにただ単に他者を否定し、前向きな価値を作ることを一切拒否するような虚無的な社会をつくってしまうのではないか。それに対して、どう踏みとどまるか。道化や現実暴露以外の方法で、社会の閉塞から抜け出し、秩序を更新することはできるのか、ということがいま問われていると思います。</p>

<p>今回は今の社会を読み解く人間洞察につながるものとして、折口信夫の日本文芸論とイーグルトンのマクベス論をとりあわせてみました。</p>

<p>マクベスが生きている社会は、不安が連鎖する「近代システム」そのもともいえます。不安に閉じ込められた人間が、どういうやり方で精神的な安定を取り戻そうとするのか、そしてそれがどんな結末をもたらすのか、ということをここから考えていけたらと思います。</p>

<p>イーグルトンは虚無主義の最果てとしてナチスによるユダヤ人虐殺の話に触れていますが、それは100年も前の話ではないのです。僕は現代社会と100年前の社会が似ているという立場をとっているのですが、「22世紀の人間像」という本来ならば建設的な話の前に、僕たちが今結構危ない場所にいるということを確認しておきたいと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>＊本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。日本思想史家の先崎彰容さんにお話しいただいたこちらの内容は、後日掲載する「ディスカッション篇」に続きます。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 14 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[先崎彰容（社会構想大学院大学社会構想研究科教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「小さく失敗をする」ことの大切さ...エビデンスの時代に効く「凡庸な結論」  朱喜哲,谷川嘉浩,杉谷和哉</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14628</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014628</guid>
			<description><![CDATA[エビデンスもナラティヴも社会に必要だが、同時に両者にはそれぞれ別の危うさもある。では、私たちはそれぞれとどう付き合えばよいのだろうか。エビデンスの時代に求められる態度や知恵を検討する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_people_1.jpg" width="1200" /></p>

<p>エビデンスもナラティヴも社会に必要だが、同時に両者にはそれぞれ別の危うさもある。では、私たちはそれぞれとどう付き合えばよいのだろうか。6月に共著『増補&nbsp; ネガティヴ ・ ケイパビリティで生きる』が刊行された三氏が、エビデンスの時代に求められる態度や知恵を検討する。（構成：編集部）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>保守性と反体制性はなぜ同時に存在するか</h2>

<p>【谷川】現代の政治や消費を論じるうえで、「人が自分で選びたがっていない」という見識は大事だと思います。たとえば買い物でも、商品を一つずつ調べるのは面倒だから、ランキングやレビューを見て「とりあえず一番人気なら安心だろう」と選ぶことがありますよね。</p>

<p>政治でも商品でも、複数の選択肢をちゃんと比較して主体的に選ぶ人はほとんどいないだろうし、選択にかけるコストが小さい分、たとえば政治ならば、誰に投票したか一年後に覚えていることも珍しいかもしれない。そうして判断を外部に委ねることも、現代社会では一つの合理性になっている。</p>

<p>この「自分で選びたがっていない」状況に、エビデンスを装う言説や、「こちらを選ぶべきだ」と思わせるナラティヴが入り込んでくる。チームみらいや参政党などの呼びかけはその典型でしょう。しかも現在は、「みんなが選んでいるものに乗りたい」という保守性と、「既存を壊す新しいものを選びたい」という反体制性が合体して、終末論的なニーズが生まれている。つまり、世界のあり方を決定的に変える何かを引き起こす誰かを待望している。旧体制の破壊と革命を約束する人に従えば、やはり選択や決断を避けることができます。</p>

<p>【杉谷】昔は「この人を支持する」という属人的なコミットメントに、さほど抵抗感がなかったのかもしれません。でもいまは「選ぶ責任を負いたくない」という感覚が強くなっている。そこで、その選択が「データやエビデンスに基づいている」と言われると、人は納得しやすい。結果的に失敗しても、「あの時点ではそう判断するしかなかった」と、自分を納得させられますから。</p>

<p>だから参政党なども、たんに「私たちを信じてください」と呼びかけるのではなく、「これだけのデータや証拠があるのだから、この判断は合理的ですよ」と提示している。言い換えれば、「あなたが責任を感じなくて済む選択肢を、私たちが用意します」と語りかけているのです。要するに、人は一方で「自分で選びたくない」と感じていると同時に、「新しい選択をしたい」という欲望ももっていて、その二つが政治や消費の世界では同時に動いているのかもしれません。</p>

<p>【谷川】なるほど。エビデンスであれ、ナラティヴであれ、自分の手元に責任を置かなくて済む、と。</p>

<p>【杉谷】だからこそ、自分と違う判断をする人がいたら、その人はお金をもらっているか陰謀論者か、完全に頭がおかしいのだ、と決めつけることで自分の世界観を守るわけです。そして、自分の判断が間違ったとしても、その責任はエビデンスやナラティヴを提示した側にあるという理由で安心するのではないでしょうか。</p>

<p>【朱】面白い議論ですね。たしかに、理由をうまく提供してあげることが、いまの投票行動の一つのポイントになっているのかもしれません。選挙はじつのところ民主主義の一つのチャンネルにすぎませんが、他方で投票行動には、「とにかく誰かに入れなければならない」と考えられている側面がある。</p>

<p>でも、多くの人はすべての候補者や政策を比較したうえで合理的に判断するわけではないし、そんな時間もありません。すると、エビデンスにせよナラティヴにせよ、「なぜそこに投票するべきなのか」について「言い訳」を提供してくれる政党が支持を集めやすくなるのでしょう。</p>

<p>【谷川】参政党については、独特の言葉遣いの導入も見逃せません。支持者の一部は「グローバリゼーション」と「グローバリズム」を区別し、後者を口にしたら、既存のイデオロギーに感染した人だと判断する。オーガニズム（有機体）のように、英語ではイズムが名詞化である場合も多いのですが、参政党目線で言えば、この「混同」や「誤用」は、既存の権威の知的レベルを嘲笑する根拠になるわけです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>私たちはいかに「共に生きる」べきか</h2>

<p>【杉谷】私は新著『エビデンスの罠』（PHP新書）の本の最後で、相手をナラティヴやエビデンスによって自分と同じ地平に立たせようとするのではなく、まずは「違う人がいるのは当たり前だ」と受け入れることから始めるのが大事だと書きました。そのうえで、対話を諦めるのではなくて、共生していくことが重要なのではないか、と。</p>

<p>これは、朱さんの新刊『バラバラな世界で共に生きる』（NHK出版新書）に書かれていることにも通じます。朱さんの本を読んで感じたのは、私たちは「共生」や「共に生きる」ことを難しく考えすぎているのではないか、ということでした。複雑な論点を取り出しすぎているのかもしれない。本当はもっと単純でシンプルな原則に基づいて、共に生きていくことができるのかもしれません。</p>

<p>【朱】あえてEBPMにも引き寄せて、政策において「何を目的に置くか」「どの数字をKPIに置くか」という話を考えてみます。たとえば「交通事故をゼロにする」と掲げることが現実的で適切なのかは疑わしいですが、「死亡事故をなるべく減らす」はめざせますよね。さらに、事故の際に死亡に直結する要因としてシートベルトの着用率が重要とわかっていれば、「シートベルトの着用率を上げる」という施策が考えられる。</p>

<p>このように、漠然と「あらゆる事故を防ぐ」と掲げるのではなくて、目的を分解し、KPI同士の関係を示したうえで「ここに効かせるためにこれをやる」と整理することが、考えが異なる人同士が共に生きていくうえでも重要なのだと思います。</p>

<p>この話をするときに私が思い出すのが、哲学者の三木那由他さんに指摘されたことです。私はそのとき、「会話の事故」を起こさないためにはどうすればよいかについて話していたのですが、すると三木さんに「でも、小さな事故を経験するからこそ大きな事故を避けられるようになるのではないですか」と言われた。ハッとしましたね。三木さんの言葉はかなり示唆的で、最初から絶対に事故を起こさないようにしようとすれば、「もう運転するな」という話になってしまうでしょう。</p>

<p>【谷川】「一発退場だから、もう社会参加するな」という話にならないように、小さな失敗が大事ですね。</p>

<p>【朱】私たちはそんな世の中をめざすべきなのか、という話です。個人のコミュニケーションで言うと、少し怒られるとか、相手にマズいことを言ってしまったと気づくとか、そういう小さな事故の経験があるからこそ、差別や排外的な言説に乗ってしまうことを避けられるかもしれない。ならば政治でも、私たちはどうすれば小さく失敗できるのかを考える必要があるように思います。</p>

<p>【杉谷】政治における小さな失敗として、すぐ思いつくのは選挙です。投票した政治家が本当はかなり問題のある人だったと選挙後にわかって、「なぜあんな人に騙されたのか」と感じるような経験が、じつは大事ではないでしょうか。というのも、谷川さんが先ほどお話しされていたように、最近ではそもそも自分が誰に投票したのか、覚えていない人が多いからです。</p>

<p>【谷川】そうか。問題のある政治家に投票しても、そもそもその人物に投票したことさえ覚えていなければ、それを「失敗」だと認識できませんからね。</p>

<p>【杉谷】おっしゃるとおりです。もちろん、投票した人の問題が発覚したからといって、それが直ちに失敗だというわけではありません。民主主義はやり直しができる仕組みですから。問題なのは、フィードバックがまったく利いていないことでしょう。投票したら「やりっぱなし」になっているとすれば、それこそ大問題です。</p>

<p>学生と話していると、「間違った人に投票したくない」という声が少なくありません。でも、「間違っているかどうか」の線引きは難しいですよね。汚職や捕まるような政治家は明確に「間違った人」ですが、多くの場合、判断の境界線はもっと曖昧です。大事なのは、自分が何を望んでいるのか、どんな価値観に基づいて政治に向き合うのかを考えたうえで、候補者や政党を選ぶことではないでしょうか。</p>

<p>そして、その価値が実現されたのかどうかを自分なりに検証すること。その結果、満足できないのであれば次は別の人に投票すればいい。何も大それたことを求めているわけではなくて、最初は「なんとなく違ったな」くらいでもいいと思うんです。</p>

<p>だから私は、主権者教育について話すとき、よく「選挙の前にやっていては遅い。選挙のあとにやらないとだめだ」と言っています。投票して終わりではなくて、そのあとに「結果をどう思ったか」を話す必要がある。本当は1年後、2年後に、自分が投票した政治家がいまどうしているのかを確認することもやったほうがいい。けれども、社会では投票率というKPIが設定されているから、主権者教育もその数字に紐づけて論じられます。</p>

<p>【朱】なるほど。具体的で小さくて、そして非常に重要な「凡庸な結論」ですね。</p>

<p>【谷川】でも、やはりそれが大事なんですよね。逆に言えば、「凡庸な結論」に帰着しないと、具体的な事柄に地道に取り組むことの大切さは容易に見落とされるんだと思います。それを忘れたら、善悪二元論や終末論のような極端で浮ついた想像に絡めとられかねません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「小さく失敗をする」大切さ</h2>

<p>【朱】主権者教育について、選挙という行動のあとにフィードバックするべきという指摘は、とても納得感がありました。ただ同時に重要なのは、投票行動を振り返るには、自分がどういう理路で投票したのかを自覚していなければならない、ということです。</p>

<p>いまであれば、ChatGPTに聞くなりメディアのボートマッチを使うなりして、自分の主張に合っている候補者や政党を選べてしまうわけですよね。それらに任せて投票した場合、間違っていても「頼ったものが悪い」という話になってしまう。自分が何を間違えたのか、フィードバックが働きにくいんです。</p>

<p>要するに、私たちはいま、どんどん「間違うことが難しい」環境に身を置いているのだと思います。「小さな失敗」という話がありましたが、上手く間違えることがますます難しくなっている。</p>

<p>【杉谷】私は、第一歩としては「ChatGPTに聞いて投票したのはさすがにマズかったな」と思うくらいでいいと思うんです。そうやって、少しずつ行動が変わっていくことが大事ではないでしょうか。</p>

<p>【朱】そもそも間接民主主義という仕組み自体が、情報化社会とかなり相性が悪い面があると思うんです。当然ですが、自分の主張や価値観と完全に一致する政治家なんて、まず存在しません。小選挙区制ではなおさらでしょう。だから本来必要なのは、やはり「投票したあとにどうコミットメントをもつか」であり、当選したかどうかで終わりではなく、その後どう活動したのかをモニタリングする仕組みなのでしょう。</p>

<p>投票行動とは、消費財を買う感覚とは違います。本来は未来への投資であり、その意味では耐久財や不動産投資に近い。買って終わりではなくて、その後も運用や変化を見続ける必要があるのです。</p>

<p>【谷川】投資家が株を買って終わりではなくて株価や経営を見続けるように、本来は、自分が投票した政治家も追い続ける必要があるわけですね。</p>

<p>【朱】もちろん、それを個人が全部やるのは認知的にかなり無理がある。だからこそ、そこを支援するテクノロジーも必要になるでしょう。</p>

<p>【谷川】私は、まずは「なぜその人に投票したのか」を日記に書くだけでもいい気がするんですよね。「顔がかっこいいから」「直前にあのニュースを見たから」とか最初の理由は軽薄でもいい。とにかく、そのときの自分の判断を書いておく。そして次の選挙のときに、「前回、自分はなぜこの人に入れたんだっけ」と見返してみる。テクノロジーを活用することも大事ですが、そういう小さな実践も選択肢に入れたほうがいい。</p>

<p>【杉谷】要するに、自分はどんなナラティヴやエビデンスに基づいて投票したのかを覚えておこう、ということですね。そして、それらに基づいて語られていた政策が本当に実現されたのかを、そのあとに検証していく。</p>

<p>【谷川】杉谷さんが冒頭でお話しされていたように、エビデンスにせよナラティヴにせよ、どちらも社会に必要です。それらを使って議論するとき、忘れてはいけない前提が「私たちは意見が違っても同じ社会を構成している仲間なんだ」という感覚です。最終的にはノーサイドである、という共通認識ですね。</p>

<p>ロバート・B・ライシュが『コモングッド』（東洋経済新報社）で扱ったのも同じ話で、アメリカの民主党・共和党両方が相手に勝つために何でもやった結果として、「自分たちは同じ国を支えている仲間だ」という感覚を壊してしまった。この状態では、民主主義だけでなく、まともな経済を機能させることも難しい。いま、その感覚の修復が必要なのだと思います。</p>

<p>【杉谷】最近の知識人のSNSを見ていると、「あいつらとはわかりあえない」という方向に人を導くような発信をしている人が散見されます。私はその風潮に危機感を抱いていて、たとえば「もう世界は終わりつつある」などと唱える識者は、個人的にはそうしたラディカルな思想も大切だと思う一方で、そうした伝え方で本当によいのかと勿体なく感じてしまいます。本来であれば、彼らだって、よりよい社会をめざして発信しているわけですよね。そうであれば、人びとを変に煽るのではなくて、どう伝えれば社会をポジティブな方向に動かせるのかを考えるべきでしょう。</p>

<p>【朱】結局のところ、小さくできることを、淡々と積み重ねる。それがまずは大事なのでしょうね。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 14 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[朱喜哲,谷川嘉浩,杉谷和哉]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>中道改革連合はなぜ「失敗」したのか　政治のマーケティング化の危うさとは  朱喜哲,谷川嘉浩,杉谷和哉</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14626</link>
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			<description><![CDATA[エビデンスを重視するのか、 あるいは批判するのか 。近年の日本社会で繰り返されている議論だが、 本来は二者択一で考えるべきテーマではない エビデンスとナラティヴとの賢い付き合い方について論じ合う。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="政治のマーケティング化" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_vote.jpg" width="1200" /></p>

<p>エビデンスを重視するのか、あるいは批判するのか――。近年の日本社会で繰り返されている議論だが、本来は二者択一で考えるべきテーマではない。6月に共著『増補&nbsp; ネガティヴ ・ ケイパビリティで生きる』 が刊行された三氏が、 エビデンスとナラティヴとの賢い付き合い方について論じ合う。（構成：編集部）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>政治の世界が踏むマーケティングの世界が踏んだ轍</h2>

<p>【杉谷】今回、私は「数字やエビデンスにあまり踊らされるな」という内容を扱った『エビデンスの罠』（PHP新書）という新著を出しました。類書は山ほどありますが、私自身はエビデンスと政策の関係を研究してきた人間なので、業績の管理や測定の問題なども絡めながら現代社会を広く論じることを意識しました。</p>

<p>もう一つ意識したテーマが、いわゆる「アンチ・エビデンス論」でした。昨今、「エビデンス重視ばかりで息苦しい」「専門家は信じられない」といった声が聞こえてきます。そのうえで、物語や個人の経験のようなもの、つまりはナラティヴが大事だと言われている。私自身はその考えに同意なのですが、だからといってエビデンスを完全に無視してよいはずはなくて、現に世の中にはフェイクがあふれているわけです。</p>

<p>日本社会では、エビデンスを重視するのか、あるいは批判するのかという二つに引き裂かれている状態が、ここ数年ずっと続いているような気がします。そのような状況を、お二人はどのように見ていますか。</p>

<p>【谷川】杉谷さんは本書の序盤で京都大学・吉田寮での実体験を紹介しながら、「エビデンスの信奉は良くない」としつつ、「エビデンスの単純な否定も良くない」と指摘したうえで、それを「凡庸な結論」と表現しています。政治やSNSで極論が主流化するなかで、バランスのとれた議論を構築して聞いてもらう凡庸さが、ラディカルに見える時代なのかもしれないと思いました。</p>

<p>世の中の言説を見ていても、エビデンスへの肯定性が強まってきましたが、ここで肯定される「エビデンス」は、大抵の場合「自分にとって都合の良いことを証明してくれるもの」を指していますね。都合が悪い意見や提案にはエビデンスを問い、都合が良い考えには、遮二無二データを示すばかりで、そのエビデンスの妥当性やほかのデータとの整合性を気にする視点はありません。エビデンスや専門家への信頼に基づいて、人びとはエビデンスを肯定しているとは思えないんです。</p>

<p>【杉谷】専門家は基本的に信頼しないけれども、自説を支持してくれる専門家のことは盲信する。そんな人が増えているのでしょう。陰謀論にコミットしている人たちがその典型で、「専門家は信用できない」と言っているにもかかわらず、「あの先生は海外の大学に留学して研究員まで務めた立派な方だ」と平気で話す。</p>

<p>【朱】私は哲学者であるとともに、データビジネスの従事者という立場からも本書を読みました。EBPM（エビデンスに基づいた政策立案）が流行って以降、「政策にも科学を」などのフレーズが使われてきましたよね。EBPMについて、政策においてもKPI管理をして、PDCAを回して成果をあげるものだと定義するならば、それはまさしく政治にマーケティングの方法論を適用するという話でしょう。</p>

<p>そのマーケティングの世界では、データに基づいて意志決定する「データドリブン」という考え方が定着して久しいです。だからこそ近年では、統計的につくられたペルソナは実在の顧客像とはどうしてもズレるので、むしろ特定の一人の顧客を深掘りして仮説を立てる「N1（n＝1）マーケティング」も出てきました。杉谷さんが紹介されたエビデンスとナラティヴを巡る議論について、似たような変遷がマーケティングの世界ではすでに起きていたのです。</p>

<p>実際、マーケティングでデータドリブンな手法が広がった結果、多くの企業は「測れるもの」ばかりを追うようになりました。クリック数や購入数などのポジティブな行動は、簡単に数値化できますから。</p>

<p>一方で、「買わなくなった」「反感をもった」などのネガティブな変化は測りづらい。かつてはアンケート調査で企業や商品の好感度が長期的に追われていましたが、いまは瞬間的なアクションが重視されます。そうして成果が見えやすい新規顧客の獲得ばかりに注力すると、過激な広告やアテンション狙いの施策に傾きやすくなり、ブランドが毀損されて既存客が離れていく。</p>

<p>その結果、新規獲得効率は上がっているにもかかわらず、ブランド全体の売上は落ちてしまった――。そんな現象が起きるわけで、だからこそ「N1マーケティング」が提唱されたのです。</p>

<p>私は、昨今の政治の動きを見ていると、これと同じ過ちが繰り返されつつあると危惧しています。短期的に可視化しやすい「新規の支持」ばかりを追い、刺激的なメッセージを発信する。マーケティングの世界が踏んだ轍を、政治の世界も踏もうとしているのはないでしょうか。</p>

<p>【杉谷】私は今回の本を書くうえで、マシュー・スチュワートの『マネジメント神話』（明石書店）などを参照しましたが、マーケティングやマネジメントなどさまざまな領域で、朱さんがいまお話しされたような失敗が繰り返されてきたのでしょう。政策の世界でも、研究者が領域の異なる民間企業の取り組みをきちんと参照してこなかった残念な歴史があります。</p>

<p>【谷川】そもそも人間は反省を活かせない生き物なんでしょうね。大事なのは、「エビデンスには必ず条件や限界があることをふまえて理解する」という、凡庸で単純な話だと思うんです。この手法で扱える範囲はここまでだ、という留保を込みで考える必要がある。</p>

<p>サミュエル・W・フランクリンの『クリエイティブという神話』（河出書房新社）には、創造性をアイデアの数で測ろうとする立場が出てきます。ブレインストーミングが典型ですが、「たくさんアイデアを出せる人ほど創造的だ」と考えられた。創造性は本来もっと広い概念なのに、数分あたりのアイデア数の問題になったわけで、十年かけて何かを生み出すような創造性は視野の外です。結果として、「ブレストをすると創造性が高まる」というわかりやすい結論だけがミームとして広がった。</p>

<p>人間は大抵の場合、細かな留保や、繊細な文脈ごとには知識を伝承しないということでしょう。付帯条件は抜け落ち、「結局こういうことらしい」という圧縮されたナラティヴやミームとして、知識は流通してしまう。だからこそ、過去の失敗や反省はなかなか活かされないのだと思いますし、他領域の話ならばなおさらです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「エビデンス重視」でも用いられるナラティヴ</h2>

<p>【谷川】今回の杉谷さんの本では、ロバート・マクナマラのような「エビデンス主義」の象徴とされる人たちが、じつは強いナラティヴや情動によって動いていたことが紹介されていますよね。しかも、その支持者もまた、彼らの合理性や科学性ではなく、その背後にある物語や神話に共鳴していた。「データがあるから正しい」という考えは、情動的に駆動されて生まれていたわけで、そこを描くのが本書の重要な点だと思いました。</p>

<p>【杉谷】数字で伝えられることと、ナラティヴで伝えられることは、やはり違うんですよね。数字は一見すると簡明に見えるのですが、実際にはそれだけで伝えられることはそれほど多くない。人の心を動かすには、どうしても物語が求められる。ですから、私はエビデンスもナラティヴも社会に必要だと思っています。ただし同時に両者には、それぞれ別の危うさもある。</p>

<p>【朱】エビデンス主義については、よく「属人化を避けましょう」というスローガンで語られますよね。マーケティングやデータビジネスの世界でも、データドリブンな手法が広がるなかで同じことが起きました。ただ実際には、そうしたスローガンを掲げた人たち自身が、自分たちのポジションを築くうえでそれを利用していた側面がある。</p>

<p>ビジネスでは、ブランド担当者が3年程度で異動することが珍しくありません。すると極端な話、その3年間だけ成果を出せばいいわけです。データドリブンな手法を使えば、クリック率や顧客獲得効率などわかりやすいKPIは上げやすい。その裏で、じつは既存客が離れていたとしても、都合の良い数字だけを切り取れば「この指標では何％成長しました」と容易に示せます。</p>

<p>つまり、エビデンスを重視する人たちも、一見すると属人化を避けているようでいて、実際には「データを使いこなせる科学的マーケター」というブランドをつくることで自分たちの価値を高めている面がある。そこには決して純粋な客観性だけがあるわけではないのです。善し悪しは別にして、自分だけが知る情報をもとにナラティヴをつくり、自身の価値を高めようとする人間だっているでしょう。</p>

<p>【谷川】先ほど紹介した『クリエイティブという神話』にも似た話が出てきます。広告業界で「創造性こそ重要だ」と言い始めた人たちは、不況になって広告費が削られたとき、「なぜあなたたちにお金を払う必要があるのか」と問われて、「私たちに創造性があるからだ」と説明したんですよ。だから悪いというものでもないのですが、自分たちの立場を守るナラティヴではある。</p>

<p>もちろん、こうして議論している私たち自身も含めて、完全に中立な言葉なんて存在しない。どんな立場にも必ず物語が入り込んでいると考えたほうがいいんだと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>中道改革連合が陥った罠</h2>

<p>【朱】ここで議論したいのが、先ほども触れた政治のマーケティング化についてです。政治や政策の世界において、マーケティングのように短期で「成果」を出すために、安易に数字を稼ぐような施策を行なわれたら困りますよね。そこに、政治の世界にマーケティングの論理を持ち込む危うさがあると思うのですが、公共政策が専門の杉谷さんはどう考えますか。</p>

<p>【杉谷】いま政治では、既存の政党や支持組織が弱体化し、既得権益批判が非常に強くなっています。そのなかで、新興政党は「自分たちは、しがらみから自由だ」と訴えている。ただし本来、政党が中長期的に支持を維持しようと思えば、どうしても地域組織や支持団体など、ある種の&quot;しがらみ&quot;は必要になる。</p>

<p>だからこそ、たとえば参政党も、実際には地方のネットワークを丁寧につくっているわけで、彼らは極めてオーソドックスな手法で政党を運営しています。同時に「自分たちは既存政党とはまったく違う」というマーケティングを仕掛けているのであり、つまり古典的な政党組織をつくりながら、見せ方としてアテンション・ポリティクスをやっている。</p>

<p>むしろ最近、目先の利益に固執し、派手に花火を打ち上げる戦略をとった政党は、中道改革連合ではなかったかと私は思っています。彼らはサプライズで一気に局面を変えようとした結果、既存支持層を手放してしまった。言うなればアテンション型の政治に引き寄せられた結果大敗したわけで、いまだに立ち直れていません。まさに「マーケティングの罠」に巻き込まれてしまった事例でしょう。</p>

<p>【朱】いまのお話を聞いていて再認識したのは、データドリブンな手法には「向いている商材」と「向いていない商材」があるということです。2,000円の商品であれば、一つの広告を見て勢いで買うこともあるでしょう。でも、2,000万円の高級車となると、「この広告を見たから買いました」と単純に説明することはほとんどできませんよね。そのとき、「一つの施策が一つの効果を生む」という発想自体に、ある種の誤謬が生まれるんです。</p>

<p>ただ、現実として世の中には、その単純な因果関係が成立しているように見えやすい「商材」もある。だからこそデータドリブンな手法が説得力をもつわけで、これは政治の世界にも当てはまる話です。投票行動は「風」で動くこともあるので、一見すると「この施策が効いた」と言えてしまう。</p>

<p>けれども、政党への信頼や長期的な支持は本来、短期的な施策と一対一で結びつくものではないはずです。中道改革連合で言えば、「測れないもの」に対する慎重さを欠いていたのかもしれません。</p>

<p>【杉谷】政治とは結局「信頼」や「ブランド」の世界なのだと思うんですよね。中道改革連合が有権者にとってわかりにくかった理由の一つは、立憲民主党が政権与党だった公明党と組んだことでした。</p>

<p>中道改革連合の斉藤鉄夫共同代表（当時）は、菅義偉元首相の不出馬表明に際して「われわれは菅氏の思いもつなぐ」と発言しました。しかし立憲民主党は当時、菅政権をかなり強く批判していたわけです。つまり、内部で足並みが揃っていないまま「アテンション」で一気に局面を変えようとしてしまったわけで、有権者からすると理解が追い付かなかったはずです。</p>

<p>結果、立憲民主党と公明党が積み上げてきたブランドを「賭け金」として投入し、すべてを失ってしまった。朱さんのご指摘のとおり、政治はデータドリブンな手法だけでいくと危うい。</p>

<p>【谷川】そもそもマーケティングは「誰が何を買うのかわからなくなった社会」で発達した技術ですよね。それは政治で言えば、無党派層や浮動票が増えた状況に相当する。マーケターは、不確かな状況を「確かなもの」にしたいからセグメントを分けたり、データ分析したりする。マーケターも政治家も、そうすることで市民＝消費者の実情に近づこうとするけど、かえって現実の人びとから遠ざかっているのかもしれないですね。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 09 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[朱喜哲,谷川嘉浩,杉谷和哉]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】「日本の精神性」はいかに形成されてきたか ――仏教から日本政治思想史を問い直す（１）  末木文美士（仏教学者／国際日本文化研究センター名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13878</link>
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			<description><![CDATA[日本人の精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきた仏教と政治の関係性を見ていく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日本文明研究会" height="732" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260628sueki01.jpg" width="1200" /></p>

<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、日本人の精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきた仏教と政治の関係性を、4回にわたって見ていきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦後の政治思想から「無視」され続ける仏教</h2>

<p>日本という国家や社会の精神性を問うとき、私たちは近世・近代以降の制度や思想（議会制民主主義、立憲主義、儒教倫理や武士道など）に目を向けがちです。しかし、これらの思想の背後にはもうひとつ、はるかに長い間、日本社会の深層に広がり続けてきたものがあります。それが仏教です。</p>

<p>日本の精神性、とりわけ政治思想を考察する際、仏教はなぜか軽視され続けてきました。西洋政治思想史においては、古代ギリシアのソクラテスやプラトンから始まり、アウグスティヌス、さらにはトマス・アクィナスなど、近代政治思想はキリスト教神学の前提の上に築かれ発展してきました。宗教は政治思想の不可欠な要素とも言えるわけです。ところが日本では戦後長らく、政治思想史の大家・丸山眞男の『日本政治思想史研究』の決定的な影響により、「仏教は無視される」という歪な状況が続いています。</p>

<p>仏教は宗教であり、宗教は内面の領域に属し、政治からは距離を置くべきである――戦後の日本政治思想界は、こう考える傾向があります。しかし仏教は、日本において死生観といった精神文化の領域にとどまらず、国家の権威構造や統治の正統性にまで深く関わってきました。今回はその「政治と仏教の関係性」に迫ってみたいと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>丸山眞男「古層論」の失敗</h2>

<p>言うまでもなく、戦後日本の政治思想史において、丸山眞男の影響力は計り知れません。</p>

<p>丸山は戦後、「古層論」を展開します。これは、日本の政治文化の深層には近代とは異質の「前近代的心性＝古層」が存続しているとする議論です。彼は、日本の政治思想が古代・中世を素通りして、近世の儒学者・荻生徂徠ばかりを重視するというおかしな状況に気づいていたのでしょう。古層論を通して日本の政治思想史を、時代を遡って考察しようとしたのです。</p>

<p>ですが、これは完全に失敗でした。丸山が古層論で述べた「つぎつぎに、なりゆく、いきほひ」（※日本社会の&ldquo;主体なき政治&rdquo;の象徴的キーワードとして用いられた）といった概念は、紀平正美（きひら・ただよし）など戦時中の日本主義哲学者らの思想の焼き直しに過ぎず、前近代像の刷新には至らなかったのです。</p>

<p>古層論における丸山の基本図式は、「日本に原型的な古層があり、それに対抗する世界宗教として仏教が入ってきた」というものです。</p>

<p>　</p>

<p>「原型」的な世界像を徹底的に突破して、まったく新しい精神的次元を古代日本人に開示したのは、世界宗教としての仏教であった（『丸山眞男講義録』4、p.154）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>丸山は、聖徳太子を「原型」を否定する「世界宗教としての仏教」を導入した者として非常に高く評価する。しかし、その後の仏教は王法（政治）と癒着し堕落したと見なします。そして、鎌倉新仏教の登場により現世否定の世界宗教としての性格を取り戻そうと原点復帰するものの、再び王法と癒着するという。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>王法と癒着した仏法が、ふたたび自らを世間・現世にたいして隔離し、二元的緊張の意識を呼びおこすには、平安末期、末法思想の勃興を待たねばならなかった（前掲書p.171）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>この見解は、丸山の独創ではありません。家永三郎や二葉憲香（けんこう）に代表される、戦後の進歩派仏教史学が唱えた図式が強く反映されています。</p>

<p>ちなみに、少し余談になるのですが、聖徳太子という人物はとても面白い存在です。彼に対する評価は、時代によって主流派に都合よく解釈される。戦時中は、東京大学名誉教授の仏教学者で僧侶でもある花山信勝（しんしょう）が、「日本仏教の根本を創始した」という一種の国家主義の観点から聖徳太子を評価しました。しかし戦後になると一転、「聖徳太子はあくまで個人として現世否定を貫こうとした」という真逆の評価に変わる。聖徳太子はどちらにでも転んでしまう存在なのです。そんなわけで、私は現段階では、聖徳太子に対する評価を保留にしています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マックス・ウェーバー的宗教観の呪縛</h2>

<p>戦後の進歩派仏教学、とりわけ仏教史学は、マックス・ウェーバーの宗教社会学から強い影響を受けています。ウェーバーの宗教学は、宗教発展の基準を「呪術からの解放」「世俗内超越による合理化」といった進歩モデルに置き、プロテスタンディズムをその到達点とみなします。</p>

<p>この理解に従うと、山岳修行や密教のような呪術的儀礼をともなう宗教実践は、「非合理」と評価される。ゆえに空海や真言密教は、つねに「悪役」として排除されてきました。1970年代に作家・司馬遼太郎が『空海の風景』において空海を高く評価するまで、空海は一貫して否定的にしか評価されてこなかったのです。</p>

<p>そういった戦後の仏教史学を、丸山はそのままに反映していた面がある。そのため、平安仏教に関して、最澄はある程度評価するものの、空海の密教については問題外として切り捨てています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>世俗的価値への執着を断つどころか、世間的欲求の追求とほとんど同一化したのが、密教修法であった（前掲書p.191）</p>

<p>空海の真言宗の場合は、まさに密教の本家たることによって、体制権力との直接的抱合と、原型的な呪術的思考との癒着は一層甚だしい。むしろ〔世間否定の論理という〕このテーマからは除外するのが適当である。(前掲書p.192)</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>さらに、丸山および戦後仏教史学の図式には、政治思想の中心にあるはずの「天皇論」が見えないという問題点があります。</p>

<p>例えば、中世日本最大の歴史思想書に慈円『愚管抄』があり、丸山もこれを取り上げます。しかし彼は、『愚管抄』の根本にある「王法を守ることが国家の基本」という天皇論を、ほぼ無視している。この「天皇論の欠如」という現象は、戦後進歩派の興味深い特徴です。</p>

<p>鎌倉新仏教に対する評価にしても、新仏教の政治性を評価するのではなく、「俗権（政治）からの宗教の独立が鎌倉新仏教によって到達された」という、政治思想でありながら政治的でないことを評価するという、逆説的な評価の仕方をしている。その根本にあるのは、「政教分離こそ正しい」「宗教は政治に一切関与してはならない」という、ウェーバー的宗教観の呪縛とでもいったものがあるように思います。</p>

<p>近代日本の知識人の多くが無教会主義のキリスト教的な宗教理解を共有していた点も、政治における仏教軽視に拍車をかけたのでしょう。宗教は「内面の道徳」としてのみ評価され、社会制度や政治構造にかかわる部分については見落とされていった。これが丸山あるいは戦後仏教史学の基本態度であり、この傾向は今日においても転換されていません。</p>

<p>しかし仏教は、鎮護国家思想や国家儀礼、さらには天皇の権威付けに至るまで、政治文化の中枢を形成してきました。仏教を「純粋宗教」として政治から切り離す見方は、むしろ歴史的現実を見誤らせます。事実、中世日本における政治思想の基本パターンを形成したのは、平安仏教として知られる空海と最澄だったのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 09 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[末木文美士（仏教学者／国際日本文化研究センター名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】これからの秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か（１）  先崎彰容（社会構想大学院大学社会構想研究科教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14558</link>
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			<description><![CDATA[人間は秩序や権威というものとどのように折り合いをつけてきたのか、それがうまくいかないときに何がおきるのか。日本思想史家の先崎彰容さんと、折口信夫とシェークスピアの作品を手がかりに考えていきます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>人間社会は秩序によって維持され、秩序の破壊によって更新されてきました。秩序が大きく崩れるとき、分断や争いがおこります。20世紀の前半に、人類は史上最悪の戦争を二度にわたって経験しました。その戦争前夜と現代社会の様相が似てきているという指摘があります。</p>

<p>人間を考えるとき、秩序や権威というものとどのように折り合いをつけてきたのか、それがうまくいかないときに何がおきるのか。日本思想史家の先崎彰容さんと、折口信夫とシェークスピアの作品を手がかりに、二回に分けて考えていきます。（構成：中嶋愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>三種類の能面が象徴している人間社会の型</h2>

<p>「22世紀の人間像を考える」という行為は基本的には未来志向のものですが、一方で人間は根源においてこういう存在である、ということをよく示してくれているものを一度通っておくほうが、地に足のついた人間論になるのではないかと思います。</p>

<p>そこで今回は、民俗学者の折口信夫の藝能発生史と、テリー・イーグルトンのマクベス論を参照しながら、人間社会における権威や秩序の問題を考えていきたいと思います。</p>

<p>まずは折口信夫の話からさせてください。折口信夫は有名な民俗学者であるとともに歌人であり、「釈迢空」という号を持っていました。芸能史にも詳しく、『日本藝能史六講』など著書も多数あります。柳田國男という民俗学者とほぼ同時代の人で、二人とも今でも毎年研究書が出るようなレベルの巨人です。この二人が同じ時代に生きていたことが、学問の世界をどれだけ豊かにしたことかと思わずにはいられません。</p>

<p>最近仕事で読んだ文献のなかに折口の「日本文学における一つの象徴」という短い論考があったのですが、そこに人間の一つの基本形のようなものが指し示されているように思いました。それが、今回ご紹介する「人間の三類型」というものです。</p>

<p>それを説明するために、折口が先の論考のなかでも言及している三種類の能面の話からしたいと思います。</p>

<p>一つは黒式尉（くろしきじょう）と言われるおじいさん、翁の面です。</p>

<p><img alt=" 出典：ColBase (https://colbase.nich.go.jp)" height="1398" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260624senzakiakinaka1.jpg" width="1200" />出典：ColBase (https://colbase.nich.go.jp)</p>

<p>もう一つは小癋見（こべしみ）の面です。</p>

<p><img alt="出典：ColBase (https://colbase.nich.go.jp)" height="1655" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260624senzakiakinaka2.jpg" width="1200" />出典：ColBase (https://colbase.nich.go.jp)</p>

<p>「癋（べし）む」というのは、口を真一文字に結ぶことです。小癋見は口を固く結び、厳しいまなざしでこちらを凝視しています。目鼻がより誇張された造形の大癋見は、目をかっと見開いて、より威圧的な表情をしています。まさに天狗とか鬼の顔ですね。</p>

<p>そして最後がひょっとこです。</p>

<p><img alt="ひょっとこ" height="746" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260624senzakiakinaka3.jpg" width="1200" /></p>

<p>実は僕は大学時代に観世流の能のサークルに入っていて、謡（うたい）ができて、仕舞（しまい）も舞えるくらいにはなりました。などと言うと一様に驚かれるのですが、その頃から古典芸能といったものにも関心がありました。この三つの面は、能の舞台というよりは、神楽などでよく使われているものです。</p>

<p>折口が書いているものを読むと、この三つの面から、人間の社会の基本と人間のありようというのが見えてくるように思うのです。</p>

<p>　</p>

<p>さて、以下の引用は日本の文学芸術がどうやってできてきたか、というくだりなのですが、まずはここから始めましょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>我々の国の文学芸術は、最初神と精霊との対立の間から出発した。神は、精霊に対して、おつかけ語をかけた。神の威力ある語が、精霊の力を圧服することを信じたからである。だが精霊は、其を知つて居た。圧服をくひ止める手段は唯一つ。神の語に対してとりあはぬことである。ひたすらに緘黙を守ることであつた。しじまを守り遂げることの外には神の語の威力を逸らす方法がなかつた。此は固より、精霊自身がさう考へたのではない。古代人が言語の威力を信じ、其に圧服せられ行く物の姿をまざまざと見るに連れて、想像を精霊の上にも廻したのである。（折口信夫「日本文学における一つの象徴」）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>このなかでいくつかの論点が出てきます。まず、神と精霊です。</p>

<p>精霊というのは、わかりやすく言うと、映画『千と千尋の神隠し』のような世界です。この世界観は、実は日本の太古のものではなく、平安時代の頃に成立したものです。たとえば疫病など、人間にとってあまり歓迎できないものが流行ったりすると、それは精霊のしわざと考えられていました。それよりもさらに古い時代をつかさどっていたのが神の世界で、学問的にいうとこちらが天皇につながってくる。</p>

<p>私たちが何となく「古い」と思っていることのなかにも、二つの層があるわけです。『源氏物語』にしても、男女の恋愛や宮廷の政治劇が、神と精霊の世界とつながっているのですね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>権力に対して「黙る」か「茶化す」か</h2>

<p>さきほど出てきたの黒式尉は、秩序を作っている権力者を象徴しています。国の権力者、すなわち神であるとも解釈できます。この神が「威力ある語」を発する。</p>

<p>その「威力ある語」を受け取る精霊的存在が小癋見です。小癋見の面は目をキリリと見張って、口をへの字に曲げていますよね。これは黒式尉＝神が行使しようとしている権力を拒絶しているのです。折口のテキストのなかに「しじまを守り」という表現が出てきますが、「しじまを守る」とは「沈黙を守る」という意味です。</p>

<p>学校で生徒が先生に怒られて「教室から出てけ」と言われてるのに、ずっと黙って席から立たないような場面を思い浮かべてもらうとよいかもしれません。無言は抵抗の表現の一つの典型なのです。小癋見の表情は、まさにこの状況を表しています。</p>

<p>古代の日本では、言葉には強い霊力が宿るとされていました。いわゆる「言霊」です。言霊をかけられたことに対して沈黙するというのも、もう一つの意思表示でした。そのことを、折口はこのように書いています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>絶対に口を開かず、沈黙を守ることを、形に表せば癋見の面になる訣である。......癋見の面を見る毎に思ふ。此は日本文学芸能以前の姿である。ここに胚胎したものが、深い陣痛を経て、此世に誕生したのであつた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>これは、権力者からの圧力に対してぐっと口を結んだ後に長い陣痛を経て出てきた言葉が、日本における文学の誕生なのだということです。</p>

<p>最後に残ったのがひょっとですが、ひょっとこも分類でいうと神から言葉をかけられる側の精霊の一種です。そもそも、ひょっとこはなぜこんな顔をしているのか。小癋見と比較しながら折口はこのように書いています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>癋見ともどきと形から言へばうそぶきだが、もどきと呼ばれるのには意義があつた。もどくと言ふ動詞は、通常「逆らふ」「反対する」「「からかふ」など言ふ用語例を持つて居る......多くの場合、もどき役にあたるものは、主役に逆らひ、反対する......里神楽に出て来る「ひよつとこ面」が、やはり同じもので、神楽師仲間では、もどきで通る。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>つまり、ひょっとこが口を曲げているというところがポイントです。先ほどの学校の例で言うと、先生が生徒に圧力をかけてきたときに、反抗の仕方が二つあるわけですね。</p>

<p>一つは、小癋見のようにだんまりを決め込むこと。もう一つは、ふざけたりからかったりすることです。先生に怒られるとおちゃらけて話をそらしたり、聞いていないふりをしたりする生徒です。要するに、小ばかにしているということですね。ひょっとこは、そうやって現存の秩序を攪乱、擾乱する存在なのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>発信力と影響力のある現代の「ひょっとこ」</h2>

<p>ここに、人間の三類型のようなものが出てきました。秩序を担う黒式尉、不満や怒りで沈黙する小癋見、そして秩序自体をばかにして笑い飛ばすひょっとこ。こういう人間像が浮かび上がってきます。</p>

<p>いささか強引につなげると、現代社会にも、閉塞感のなかで不平不満をためこんで小癋見のように口をつぐんでいる人たちと、ひょっとこのように茶化したりばかにしたりしながら社会に対する不平不満を表明している人たちがいるわけです。いまやSNSのような発信の手段があるので、ひょっとこに意外な影響力があったりもします。</p>

<p>いずれにしても、折口が日本の芸能と文学の原点について書いたこの文章のなかには、人間のありようの基本形のようなものが示されている、というお話でした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>＊本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。日本思想史家の先崎彰容さんにお話しいただいたこちらの内容は、後日掲載する「ディスカッション篇」に続きます。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 07 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[先崎彰容（社会構想大学院大学社会構想研究科教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>金のために彼氏のふりを続け、24時間仕事モード「ホストクラブの過酷な感情労働」  佐々木チワワ（ライター）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12415</link>
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			<description><![CDATA[ホストが担っている過酷な感情労働について、 佐々木チワワ氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="佐々木チワワ" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_kabukicho.jpg" width="1200" /></p>

<p>ホストクラブに頻繁に通い、多額の金銭を投じる「ホス狂い」といわれる女性たちの実態とは？高校生の頃から歌舞伎町に足を運び、トー横キッズやホストなどの現場を取材してきたライターの佐々木チワワ氏は、著書『歌舞伎町に沼る若者たち 搾取と依存の構造』にて、歌舞伎町やホストクラブに通う女性のリアルを社会学的に分析し、その諸問題の解決策までを提言している。</p>

<p>佐々木氏は同書の中で、ホスト特有の感情労働についても言及している。その一部を紹介する。</p>

<p>※本稿は、佐々木チワワ著『歌舞伎町に沼る若者たち 搾取と依存の構造』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ホスト特有の感情労働</h2>

<p>そもそも、ホストの労働のゴールとは何か。それはやはり、客により多くの金を使わせることである。金を使ってもらうために接客し、自分自身と客の関係を構築し、誘惑する。</p>

<p>すべての感情は売上を上げるために管理し、発露させる必要がある。要は自分自身を欺き顧客に愛の言葉を振りまいても、結果的に客である女性の心に刺さり、トキメかせ、売上として返ってこなくては意味がない。その点においてホストクラブは、自分の感情の管理を主体とする他のサービス業とは一線を画すのである。</p>

<p>こうしたホストの感情労働についてアキコ・タケヤマは、相手の心を誘惑することで操作し満足させたうえで、客側をホスト自身の目的に奉仕するように潜在的に誘うことも感情労働として含まれていると主張する（Staged Seduction,2016）。</p>

<p>「相手のことを好きなフリをする」だけではなく、「相手にそれを信じ込ませ、相手に自分のことを好きにさせたうえで、大金を使ってもらう価値があると感じさせる」というのが、ホストの感情労働の目標だ。</p>

<p>そのためただ相手を喜ばせるだけではなく、時に傷つけたり悲しませたりと、感情に「波」をつくる。表面的には対等な立場を取るとしても、自分の利益のために相手を動かすための労働が必要になるのだ。行きすぎると「洗脳」「マインドコントロール」にもつながりかねない。</p>

<p>ホスト以外にもこうした感情労働を行なっている例が、作家を相手にする編集者である。互いにパワーバランスの違いはあれど、ともに仕事相手を選べる立場にある。編集者は時に作家を褒めちぎり、時に叱咤激励し、やる気を出させるのが仕事だ。自分自身の感情をコントロールしながらも、作家により良い作品を書いてもらうよう「誘惑」するのである。</p>

<p>筆者の周りの作家と編集者の話を聞いていると、「私（作家）のことが嫌いだから編集者があんまり構ってくれないんだ！」とか「恋人の作家に編集者として厳しい言葉を言うと人格否定になりそうで悩んでいる」とか、ホストと姫か？と思わされることが多い。</p>

<p>編集者に限らず、自分の感情だけではなく、相手の感情を利用して自分の労働に利益をもち出そうとする人間は、少なくとも既存の感情労働よりも一段階過酷な労働を行なっていると言える。</p>

<p>「18歳くらいのとき、客とわざと喧嘩してたな。店に入ってきてから喧嘩して、シャンパン入れてもらって、仲直りして前よりラブラブになるみたいな。相手に非があるときにキレて、席もわざとつかなかったりして、女の子が金使ったら機嫌直して自分も謝る。指名したら楽しいってだけだとすぐに他のホストに取られたりするから、喧嘩を繰り返したりぶつかることで関係性が深いって気持ちにさせるんだよね」（20代・ホスト）</p>

<p>こうした感情の起伏をホストが意図的に演出していることは、客もある程度理解している。そうした演出も込みで、ホストクラブという場所でのホスト遊びを楽しんでいるのだ。</p>

<p>「不幸も幸せも、その感情の起伏すべてを買っているのだ。お金を払ったら絶対幸せになれるなんて、そんなのクソくらえだ、つまらない」（拙著『歌舞伎町モラトリアム』KADOKAWA、2022年）</p>

<p>ホストが客と関係性を構築していくプロセスは、LINEに始まり電話、食事など多岐にわたる。「自分を好きになってもらう」まで先行投資し、客として自分にハマってからはその状態を「維持」するためのコストがかかってくる。</p>

<p>LINEをしてもらう、電話をしてもらう、食事に連れて行ってもらうために、店で金を落とす。「飲みたいときだけ連絡し、店で金額相応の接客をしてもらう」だけならこのような対応にはならない。ホストに通う客の多くは、ホストとの日々のコミュニケーションを軸にホスト通いをしており、関係性を保つために高額なサブスクリプションに入会しているようなものなのだ。</p>

<p>「使う金額下げたら、私の扱い悪くなるんだろうなって考えちゃって、月アベ（月にホストに使う平均金額のこと）落とせないです。売れてるホストほど、痛い客は自分で切れるから。売上がないホストは客のほうが立場が上かもしれないですけど、大抵はホストのほうが上だと思います。嫌われたくないからお金を使う。いらないって言われたくない」（20代・風俗嬢）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ホストらしさ」と「彼氏らしさ」</h2>

<p>「ホストらしく」自分を装うことで、さらなる売上を求める。なかでも感情労働として最も重労働なのが、客と付き合う「本営」であろう。</p>

<p>アキコ・タケヤマが取材したホストは、客と交際していたときの自分の状態を、「彼氏」として店の外でも24時間仕事モードであり、ホストとして、彼氏としての仕事というダブルシフト状態であったうえで、ホストクラブは「お金を集める表舞台」として役立っていたと述べている。</p>

<p>彼のような立場は都合のいいときは彼氏扱いされ、都合が悪くなったら「所詮ホスト」のように扱われるなど、複雑な側面もある。そのなかで女性客のことを本当に好きになる場合もあれば、好きだったがストレスで気持ちは離れたものの、金のために彼氏のふりを続けるなど、ホストと客の数だけ複雑な人間関係が繰り広げられる。</p>

<p>重要なのは、両者は金銭による支配関係にあることだ。客のほうがホストの売上の大半を占めている場合はホストを金銭的貢献によって縛り、感情労働や自分の求める関係の演出を仕向ける傾向がある。ホストのほうが売上に余裕があり客が振り向いてもらいたい場合は、客側が「いい客らしく」自制的に振る舞うことを求められるのである。</p>

<p>筆者も、ホストに「本営」を受けたことが何度かある。「彼氏」という、他の客に知られたらリスクである関係を築いてでも自分はそばに置きたい客なのだと、自信がもてて率直に嬉しかった。相手が求めてくる限りは、彼氏彼女という疑似恋愛のために大金を投じる覚悟があった。</p>

<p>しかし数カ月が経つと、「自分は本当にお金のためだけの存在なのかな」と相手を試してみたくなったり、「自分が死ぬほど大好きな人間に、自分を好きという噓をつかせて無理やりそばにいさせている」という罪悪感に苦しめられたりと、散々であった。</p>

<p>女性客側は、相手を傷つけないために彼氏として接してくれるホストを「どうせホストだから」と突き放したり、ホストとして売上を求められたら「彼女なのになんでそんなこと言うの」と自分の立場を容易に切り替えたりすることができる。</p>

<p>ホストも客も、金銭を挟んだ曖昧で変化の絶えない関係のなかで、多かれ少なかれ本心を偽り、関わり続ける。ホストらしくあろうとすると、彼氏らしさは消えてしまう。ホストにとって、客がホストらしさと彼氏らしさのどちらに金を使うタイプか見極めるのも重要である。こうした自分の感情を管理しながら他者の感情を誘惑し、関係性を構築する営みは非常に複雑であり、難解な労働であると言えるだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 26 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[佐々木チワワ（ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>歌舞伎町に見るルッキズムのリアル 「整形は努力、ブスは...」の言葉が示すもの  佐々木チワワ（ライター）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12270</link>
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			<description><![CDATA[歌舞伎町で加速する「ルッキズム」について、 佐々木チワワ氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="佐々木チワワ" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_lookism.jpg" width="1200" /></p>

<p>ホストクラブに頻繁に通い、多額の金銭を投じる「ホス狂い」といわれる女性たちの実態とは？高校生の頃から歌舞伎町に足を運び、トー横キッズやホストなどの現場を取材してきたライターの佐々木チワワ氏は、著書『歌舞伎町に沼る若者たち』にて、歌舞伎町やホストクラブに通う女性のリアルを社会学的に分析し、その諸問題の解決策までを提言している。</p>

<p>佐々木氏は同書の中で、夜職業界を筆頭に加速するルッキズムについても言及している。その一部を紹介する。</p>

<p>※本稿は、佐々木チワワ著『歌舞伎町に沼る若者たち』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>加速するルッキズム</h2>

<p>自分のすべてを資本化する動きと消費によるアイデンティティの形成について述べてきたが、そうした現代的な価値観の土台として、ルッキズムの加速があると筆者は考えている。</p>

<p>ルッキズムとは、「外見に基づく偏見や差別」のことである。ルッキズムは「視る／視られる」という社会関係において生まれる現象であり、上野千鶴子は『発情装置　エロスのシナリオ』（筑摩書房、1998年）のなかで、女性が男性の視線によって性的欲望の対象として評価され、比較され、値踏みされる「視られる身体」であることを早いうちから自覚させられると論じた。この「視られる身体」としてまなざされる視線が、現在は男女ともに降り注いでいる。</p>

<p>筆者が女子高生だった10年前と比べても、ルッキズムはとりわけ若者を中心に浸透し、ジワジワと息苦しさが広がっているのではないか。</p>

<p>女子高生ミスコン2024の公式TikTokでは、ミスコンのファイナリストの女子高生たちが「整形したい？」という質問に次々と答えていく動画を投稿。「脂肪吸引したい」「エラを削るのと鼻を小さくしたい」「骨切りたい」「顔全体を変形させたい」と答える女子高生たち。「しません」と答えた子に対しては、撮影者が「えらい！」と発言する場面もあった。</p>

<p>この動画は2025年1月現在、公式からは削除されている。女子高生が整形の単語を覚えており、動画の質問に平然と答えられていることから、若い世代でも身体の改造に対して当たり前に知識をもっていることがうかがえる。</p>

<p>2024年10月7日には、スキンケアやボディケア商品を扱うブランド「Dove」が「＃カワイイに正解なんてない」と題し、10月11日の国際女性デーに合わせて広告を展開した。Doveが16〜19歳の女性に容姿や体型に関するアンケートを取ったところ、82.３％が何かしらのきっかけで自分の容姿や体型に自信がなくなった経験があると回答し、そのうち半数以上がSNSを見ているときに自信をなくすことがあったという。</p>

<p>そんな女性たちの「美」に対する意識を変え、自己肯定感を上げてほしいと打ち出した広告。「カワイイ」とされる基準の言葉を並べ、その言葉を消すような広告には、次のような言葉が並んでいた。</p>

<p>「中顔面6.5cm」（中顔面＝目の下から唇までの長さ。小顔かどうかを判断する基準）<br />
「人中短い」（人中＝鼻と上唇の間にある溝の部分。溝の長さがカワイイかどうかに影響すると言われる）<br />
「スペ110」（スペ〈スペック値〉＝身長&minus;体重の数値。痩やせているかどうかの基準とされる）</p>

<p>こうした10個のカワイイの基準を並べた広告を渋谷に計64枚貼り出した。ルッキズムを否定し、数字に縛られたカワイイの基準を打破する意図があったコピーだが、結果的に「むしろルッキズムを助長している」と炎上。批判のなかには「広告のせいで美の基準を植え付けられた」という声もあった。</p>

<p>筆者も以前、ホストから「中顔面短いね」と言われたことがある。言葉の意味を知っていれば嬉しいであろう褒め言葉だが、そのときは知らなかったためネットで検索をかけてしまい、結果的に顔面の黄金比率を知ることになり、自分の顔の「数字」と向き合うことになった。</p>

<p>Doveの広告コピーの大半は整形用語である。なかでも「スペ110」はもともと夜職界隈発祥の言葉と言われており、スカウトが女性を夜の店に紹介する際、写真でしか判断がつかないときに女性を商品として説明するために用い始めた基準だ。</p>

<p>この言葉がSNSによって普及し、大手企業である「Dove」が若者向けの広告として採用した事実こそ、歌舞伎町の規範がSNSを通じて社会に流れ出ている裏付けになっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>外見が「能力」と見なされる時代</h2>

<p>では、近年はなぜこうもルッキズムが加速しているのか。</p>

<p>第一に、身体加工のハードルが極端に下がったことが挙げられるだろう。社会学者である谷本奈穂の『美容整形と化粧の社会学』（新曜社、2008年）では、スーザン・ボルドーが提唱した「変えることのできる身体＝プラスティックボディ」の考えをはじめ、消費文化によって身体は思いどおりに形作られるものとして捉えられるようになった過程を論じている。</p>

<p>「身体加工」はダイエットなどのボディメイクから脱毛、化粧も一時的な身体加工と言える。近年では、写真を「盛る」フィルターも身体加工の一種だろう。こうした身体加工が一般化していくなかで、自分磨きや垢抜けの一種として整形という手段も一般化し、「整形は努力、ブスは努力不足」といった風潮が広がっている。</p>

<p>本来高額な手段であるはずの整形も「垢抜け」と一括りにされ、身体加工を助長しているのだ。こうした流れは美容資本への投資を過剰に正当化し、ルッキズムを加速させている。</p>

<p>このようなルッキズムの最前線を走っているのが歌舞伎町を中心とする夜職業界だ。夜の業界の身体加工は「好きな服を着る」「痩せて自分に自信をもつ」といったレベルではなく、基本的には「より高値で売れる商品になる」ための加工である。自らを「モノ」として捉え、市場でよりウケるように身体加工をするのが当たり前の世界だ。</p>

<p>筆者は、夜の業界の価値観が一般社会に急速に広がっている現状に危惧を抱く。商品として己を加工し販売するということは当然、性的にまなざされ、消費される存在であることを忘れてはならない。美の基準がわかりやすい単語や数字で定義づけられることで、「その枠にハマろう」と安易に整形を考える人が増えているのではないか。彼女たちは、「自分らしさ」という曖昧で不安定なものよりも、世間で数値化されている明確な枠にハマろうとしているのだ。</p>

<p>ルッキズムについて研究している西倉実季は、「外見が『能力』となる社会」と題する論考（『現代思想』2019年9月号、青土社）のなかで、労働でも外見が「能力」として商品化されている点について指摘している。</p>

<p>同論考では、接客サービス労働を中心的な事例として、労働において外見が求められる倫理的問題について論じているが、より良い外見を「商品」として売る接客業については言及されていない。接客サービス労働におけるルッキズムの問題を検討するうえで、夜職は今後の重要な分析対象にもなるはずだ。</p>

<p>夜職では、キャバクラ嬢やラウンジ嬢なら時給、ホストなら移籍金や日給、風俗嬢・セラピストなら単価という形で明確にランク分けされ、値段がつけられる。その背景にあるのは、顔や身長、スタイルといった容姿すべてが「能力」であり、加工可能なモノとして見る価値観である。</p>

<p>歌舞伎町の代表的なホストグループ「エアーグループ」のキャッチコピーは「職業、イケメン。」だ。グループとしては看板のコピーに偽りがないよう、ホストという商品を最大限選別するのである。</p>

<p>こうした外見を「能力」としたうえで明確な序列がつけられるのが夜の業界であり、そうした「規範」があることで、働く者は自分の外見の価値を知り、さらに高めるために奮闘するのである。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_lookism.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 24 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[佐々木チワワ（ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>定員割れの大学が続出する理由...破綻と背中合わせの大学経営の難しさ  西山昭彦（立命館大学客員教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12432</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012432</guid>
			<description><![CDATA[続出する大学の定員割れ。理由は単なる少子化だけではない？ 大学経営が極めて難化している状況とその要因を立命館大学客員教授の西山昭彦氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="立命館大学" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_goukakuhappyo.jpg" width="1200" /></p>

<p>少子化で大学経営は困難な局面を迎えている。私立大学のうち、定員割れの大学は59.２％（2024年度入学者）と半分を超えた。立命館大学客員教授の西山昭彦氏は著書『立命館がすごい』にて、大学経営が極めて難化している状況とその要因を分析している。本稿は、その後の状況を加えて加筆したものである。</p>

<p>※本稿は、西山昭彦著『立命館がすごい』（PHP新書）を一部抜粋・加筆・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>なぜ定員割れの大学が続出しているのか？</h2>

<p>大学経営は企業経営より難しい。18歳人口という潜在需要層が大きく減少しているのに、供給（大学）がそれに応じて減少していない。</p>

<p>その結果、日本私立学校振興・共済事業団の調査（全国598校からの回答を収集）によると、2024年度（入学者）の私立大のうち定員割れの大学は59.2％。うち、入学者数が定員の8割未満だった大学は182校（30.4％）だ。すでに私立大の現状は、破綻の連鎖を起こしかねない状態にある。</p>

<p>にもかかわらず、企業と異なり、大学というビジネスモデルの大きな転換はできない。まさに袋小路という言葉が浮かぶ。</p>

<p>少し長いスパンで見てみる。大学の需要は、大学入学年齢人口&times;進学率で決まる。18歳人口は1990年に201万人、4年生大学への進学率は24.6％だった。2000年には151万人、39.7％になった。2023年は109万人、56.6％だ。</p>

<p>大学入学年齢人口&times;進学率で計算すると、需要は2000年の59.9万人から2023年の61.7万人へと、1.8万人しか増えていない。</p>

<p>それに対して、大学数はどうなっているのか。2023年の大学数は国立86、公立102、私立622で合計810校である。1990年には507校、2000年では649校だった。2000年から2023年でも、161校も増えている。</p>

<p>つまり過去の傾向として、2000年から2023年で需要が1.8万人しか増えていないのに、大学は161校も増えており、供給過剰は誰の目にも明らかだ。企業経営であればここまで増やすことはなかったと思うが、大学の現実はこれだ。</p>

<p>問題はこの先、少子化の進展でさらに需給が悪化する。文部科学省の予測によると、大学進学者数は2026年をピークに減少し、50年には41万人と、2021年比で3割減る。いまでも定員割れの大学は約6割なのに、平均して3割需要が減ると、約8割が定員割れになりかねない。</p>

<p>わが国の人材育成に大きく貢献してきた大学経営は、これから歴史上最大の危険な時代に入る。</p>

<p>文部科学省も危機を意識し、「2040年を見据えて社会とともに歩む私立大学の在り方検討会議」を設置している。</p>

<p>そこに提出された日本私立学校振興・共済事業団の調査によると、大学法人の経営は2024年度は44.8%が「赤字」（事業活動収支差額比率がマイナス）で、前年度より35法人増加し、252法人に上る。いまでも半分弱が赤字の業界である。</p>

<p>さらに将来の経営状況については、大学法人の回答「やや厳しい」「厳しい」を合わせると66.8％であり、将来不安が増加している。</p>

<p>この資料を見るまでもなく、需要が大きく減れば定員が充足せず、経営できない大学が増えるのは当然のことである。ここから先、定員の減員、大学の募集停止、閉校、合併などが増えざるをえない。該当する大学は早急な対応を求められている。受験生も、進学先の大学の将来を考え、その動向を注視する必要がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>企業経営はどうなっているか</h2>

<p>ところで、この人口減少時代に企業経営はどうなっているだろうか。</p>

<p>上場企業の2025年3月期の決算発表がほぼ出そろい、全体の純利益が前期比で9%増え、4年連続の最高益だ（『日本経済新聞』2025年5月15日。東証プライム上場の3月期企業［金融など含む約1000社］を対象に集計）。</p>

<p>他方、2026年3月期は、拡大してきた企業業績にブレーキがかかる。純利益合計は前期比7%減と、6年ぶりの減益を見込む。米関税や円高進行が重荷となり、自動車や鉄鋼、海運などが振るわない(同2025年5月22日)。</p>

<p>利益は前年9％増え、本年7％減、しかもトランプ関税で各社が低めの予想を出している中での話だ。絶対水準から見れば、依然としてかなりの高レベルを保っているといえる。大学と企業では、同じ少子化の影響を受けているものの、実績は大きな開きがあった。</p>

<p>いま、企業が赤字の大学の経営をするとしたら、どうするだろうか。①需要に合わせて組織のスリム化を図り、赤字を補うか、②既存商品の販売拡大や価値を高め値上げをするか、③新規の需要を開拓し収益の拡大を図るか。つまりコストカット、利益の向上、新規開拓・事業の3つが考えられる。</p>

<p>教育機関でどこまでそれらができるのか、見通しは明るくない。コストカットはある程度可能だが、校舎を持つ設備産業的な面と教員の定員も規制で定められており、限界がある。</p>

<p>既存学部での学生募集の拡大や学費値上げは、それらがそもそも難しいから悩んでいる。新学部設置は文部科学省の認可事項で、自由にできない。大学の新規ビジネス分野参入は、本業が規制産業なので競争力がつきにくく、シーズをベースとした研究開発型の事業以外は容易ではない。つまり大学というビジネスのフレームが前提にあり、規制規則が多く、他大学との差別化できる範囲が限定的という状況である。</p>

<p>企業人なら、そのような厳しい状況下で改革に励むとともに、一部はその業界からの撤退を考えるだろう。それゆえ、企業人は大学教職員がどこまで危機意識を持ち、日々改革をしているかを聞きたいと思うだろう。</p>

<p>実際、努力している人はたくさんいる。いまは順調でも「この先、少子化で、100年後どうしたら経営できるのか」をいつも考えて先手を打っている経営者もいる。</p>

<p>他方で、この問題を考えないようにしている人もそれなりにいる。「自分はもうすぐ定年だから、いい時代に働けたと思う。あとは次の世代に任せる」と無頓着な人もいる。</p>

<p>現実は、つねに倒産の可能性を持つ企業経営と同じように、いや、企業経営以上にビジネスモデルが決まっているので、将来は危うい。いま赤字の大学はすぐに対策を立て、実行に移す必要がある。</p>

<p>黒字の大学も、さらに3割学生が減るので、「この先、時代に対応できなければ、あるいはちょっと道を誤れば、つねに破綻の危険性がある」という前提で、経営に当たることが必要だ。</p>

<p>以前、赤字企業を立て直した社長に話を聞いたとき、「全社員が、会社が破綻し解雇され、給与がなくなる恐れを共通認識に持ち、意識革新をしないと立て直しはできないよ」と言われた。</p>

<p>他方で、リストラを行なった別の企業の人事担当は「人は悪いことは考えないようにする傾向があり、自分は大丈夫と思っていた社員がたくさんいた。しかし、現実はその人たちも対象だった」と言う。</p>

<p>一度、自分の大学が破綻した場合のシミュレーションを教職員全員でやってみると、意識変革のきっかけになるかもしれない。先行事例を調べれば、容易にできる。米国の企業変革事例で、失敗するケースのかなりが初めに危機の共有化ができてなかった、という報告がある。残された時間はもうわずかである。いますぐ動き出したい。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 23 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[西山昭彦（立命館大学客員教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本で続々とヒットする韓国文学　消えつつある「日韓の文学の垣根」  金承福（株式会社クオン代表取締役）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12419</link>
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			<description><![CDATA[日本でなぜ韓国文学がヒットしているのか? 株式会社クオン代表取締役の金承福氏に話を聞いた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_reading.jpg" width="1200" /></p>

<p>近年、韓国でベストセラーになった本が日本でヒットしたり、その反対に日本で人気の本が韓国で話題を呼んだりする傾向が強まっている。日本の韓国書籍市場を切り開いてきた出版社の代表が語る「日本と韓国のいま」について話を聞いた。</p>

<p>前編では日韓の若者たちの読書事情に迫ったが、後編となる本稿では、さらに踏み込んで、日本の読者が「韓国文学」に何を求めているのか、そして韓国の出版・書店業界のリアルな事情まで深掘りして紹介する。</p>

<p>聞き手：編集部（阿部惇平）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年5月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>韓国の文学と曖昧な境目</h2>

<p>――日本では「韓国文学」も読まれ始めています。たとえば、2016年に韓国で発刊されたチョ・ナムジュ氏の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』（筑摩書房）は、日本で約30万部のベストセラーになりました（韓国では136万部）。「韓国文学」を読む層にも「変化」があるのでしょうか。</p>

<p>【金】昔は、「韓国文学」を読む日本人は一握りでした。書店では「アジア文学」の棚のなかに、中国文学などとひとまとめにされているような状況でしたね。ところが近年では、ご紹介いただいた『82年生まれ、キム・ジヨン』や『菜食主義者』（ハン・ガン著、クオン）などの作品が日本でも話題になったことで、「韓国文学」の棚を設ける書店が増えた気がします。</p>

<p>――日本の読者は、何を求めて日本ではなく韓国の小説を読んでいるのでしょうか。</p>

<p>【金】『82年生まれ、キム・ジヨン』が大ヒットした5年ほど前は、フェミニズムや社会の生きづらさを扱っている作品が多いから、「韓国文学」を読むという人が大半だった気がします。ただ最近では、「韓国の小説＝フェミニズム・生きづらさ」といった図式は成り立たなくなってきています。</p>

<p>実際、日本ではいま、韓国のSF小説や推理小説などの翻訳出版に興味を示す出版社が増えています。</p>

<p>また、大型書店の「韓国文学」の棚には、「チョ・ナムジュ」や「ハン・ガン」といったように作家名で本が区切られるところも目立つようになった。要するに、「韓国文学」だから手に取るのではなく、「このテーマ」「あの作家」だから読んでいるわけで、まさしく国境を越えて、純粋な興味関心で作品を選ぶ人が増えてきているのです。</p>

<p>――一方で、「日本文学」は、韓国ではどのように読まれているでしょうか。</p>

<p>【金】同じような傾向が見てとれます。日本の小説が韓国に入ってきたころは、やはり「日本文学」というジャンルに惹かれて作品を読む人が大多数でした。とくに人気だったのは、日本特有の「私小説」だったと記憶しています。</p>

<p>ただし最近は、「村上春樹だから読む」「東野圭吾だから手に取る」読者が圧倒的に多い。つまりは、「日本文学」「韓国文学」という枠組みが、読者にとっては徐々に曖昧になってきている気がします。</p>

<p>――判断基準が「国」ではなく「作家」や「テーマ」になってきている、ということですね。</p>

<p>【金】そのとおりです。日本の若い女性がBTSやNewJeans（韓国の五人組ガールズグループ）のファンになるのとほぼ同じ理由です。</p>

<p>彼女たちは「韓国のアイドル」だからBTSなどを好きになったのではなく、あくまでも一アーティストとして惹かれて、それがたまたま韓国のグループだったというわけです。</p>

<p>思い返せば、グルメの分野では「チーズタッカルビ」という韓国料理が日本でも一時期流行りましたが、それは「韓国料理が食べたいから」ではなく、「美味しいから」です。もっと言えば、「SNSで映えるから」というきわめてシンプルな理由もあったでしょう。とくに日本の若者世代は、かなり「フラット」に韓国の文化を見ているように感じます。</p>

<p>――韓国の若者は日本の文化をどう見ていますか。</p>

<p>【金】日本の若い人たちと同じですよ。「好きなものは好き」「かっこいいものはかっこいい」と、色眼鏡なく日本の文化と接している人が多い印象です。</p>

<p>他方で、50代以上の韓国人は、若者と比べると日本に対する印象が違うかもしれません。</p>

<p>わかりやすく言えば、いまでも日本に「ライバル意識」をもつ人はいますから、彼ら彼女らは日本の文化に対しても「追いつけ、追い越せ」という姿勢で評価しています。</p>

<p>ですが、先ほども申し上げたように、いまの韓国の若者たちは、日本に対する「憧れ」も「劣等感」も持ち合わせていません。日本の若者と同じく「フラット」な目線で、日本で「かっこいいな」と思ったカルチャーがあればSNSで共有するし、「秋葉原の文化が面白い」と思えば旅行で訪れるわけです。</p>

<p>――韓国の若者は、日韓のあいだに存在する「政治的な問題」はどう見ているのでしょうか。</p>

<p>【金】「文化需要」という面では、私の知る限りでは政治に影響を受けている様子は見られません。政治家の発言や政治の雰囲気を文化交流にまで持ち込まないタイプの韓国人が、若い世代を中心に増えている気がします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「韓国でしか売れない本」はあるか</h2>

<p>――現在の若い世代が社会の中心になるころには、韓国でしか売れない本、反対に日本でしか受け入れられない本は徐々に減っていくのでしょうか。</p>

<p>【金】難しい質問です。たとえば、韓国の「労働問題」を扱った本は、国内でも2000部売れたら良いほうです。もちろん、日本でベストセラーになる可能性はゼロに近い。</p>

<p>ただ、最近では日本の出版社から、専門書の翻訳オファーが来ることがあります。大ヒットは見込めなくとも、「必要な人がいるから出版する」という発想が根底にあるのでしょう。</p>

<p>それはつまり、韓国特有の問題を扱った書籍でも、それを読みたいと思う読者は国内外に必ず存在することを意味します。</p>

<p>また、韓国の「徴兵制」は現在の日本にはない制度ですが、いまでは日本でも若い女性を中心に、その制度について解説したイベントや書籍に関心が集まっています。なぜかと言えば、好きなＫ-ＰＯＰアイドルが兵役に就くことをきっかけに、どんな制度でどんな生活を送ることになるのか、気になるからです。</p>

<p>その意味では、何をきっかけにその国への関心が深まるかは予想できるものではなく、「どちらかの国でしか売れない本」はおそらく減っていく気がします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>出版・書店業界への支援が手厚い韓国</h2>

<p>――出版・書店業界全体では、日本と韓国で大きな違いはありますか。</p>

<p>【金】韓国の人口は約5000万人で、日本よりもはるかに少ない分、出版業界も厳しい状況に置かれています。ただ、公的な支援策は日本よりも充実していると思います。</p>

<p>じつは、韓国の書籍が日本で数多く売られるようになった背景には、韓国政府の強力な支援や施策がありました。もちろん、ほかの国にも同じような制度はありますが、韓国ではそれらと比べても、じつに手厚い支援制度が整えられています。</p>

<p>第一に、韓国では本や雑誌は免税されています。たとえば、カフェと併設している書店では、飲食の売上には税金が発生しますが、 本や雑誌での売上は消費税が免除されます。</p>

<p>第二に、国が1000万ウォン分の書籍を出版社から仕入れて、図書館に納品する制度があります。つまりは、助成金を出すだけではなく、国が「良質な本」を買い上げることで、出版社の経営を支援しているわけです。買い上げた本は、海外の機関に販促見本として送付されることもあります。</p>

<p>第三に、韓国には「軍」に書籍を納品する制度もあります。小説や詩集、エッセイ、歴史書などジャンルは多岐にわたり、軍に納品すれば出版社は何万冊単位の受注につながります。韓国の出版社に勤める知人から、「今年は軍に納品できたから経営が上向いた」という声を実際に聞いたことがあります。</p>

<p>第四に、出版社が海外に進出する際の支援策も充実しています。たとえば、ベトナム、タイ、台湾、日本、スペイン、 アメリカなど、海外のブックフェアに出版社が参加するときには補助金が出ます。もちろんエントリー制ですが、選ばれれば少なくない給付金が国から支給されるのです。</p>

<p>――韓国政府が出版社や書店への支援をそこまで手厚くするのは、なぜでしょうか。</p>

<p>【金】「本の文化を絶やしてはいけない」という想いがあるからだと思います。韓国は、じつのところ日本ほどには「読書」が社会に根付いていません。だからこそ、何も手を打たなければ「出版業界が崩壊する」という危機感を抱いているのでしょう。</p>

<p>町の小さな書店や市民の読書会を支援する仕組みも、韓国では整っています。事実、小さな書店が作家の講演会を開催するときは、作家への謝礼は国が負担してくれます。もちろん申請してそれがとおればのはなしです。また、市民の読書会の費用も、申請さえとおれば国から助成金を受けられる。こうした支援施策の裏には、「出版社・書店を潰してはいけない」という焦りが見てとれます。</p>

<p>――日韓ともに出版を取り巻く環境が厳しいなかで、金さんは今後、どんな活動を行なっていく予定ですか。</p>

<p>【金】私は韓国出身ですから、日本の編集者よりも早く、韓国で出版された本を読むことができます。また日本で出版社を営んでいますから、韓国の編集者よりも早く、日本で話題の本を手に取ることができる。</p>

<p>その強みを活かして、日本と韓国をつなぎ、もっと多くの人に日本と韓国それぞれの「良い本」を届けたいと考えています。「良い本」を知ってもらうことが私の幸せですが、それは「みんなの幸せ」にもつながっていくはずです。日本と韓国の若者たちのように、あくまでもフラットな目線で、これからも「良いコンテンツ」を発掘していきたいですね。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 22 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[金承福（株式会社クオン代表取締役）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>第二次トランプ政権の人材供給源　台頭するMAGA派シンクタンクとは？  宮田智之（帝京大学法学部教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12344</link>
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			<description><![CDATA[MAGA派のインフラが台頭し、伝統的な共和党主流派の存在感が乏しい第二次トランプ政権内部の実態について、帝京大学法学部教授の宮田智之氏に解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="MAGA派シンクタンク" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_whitehouseG.jpg" width="1200" /></p>

<p>MAGA（Make America Great Again）派のインフラが台頭し、伝統的な共和党主流派の存在感が乏しい第二次トランプ政権内部の実態について、帝京大学法学部教授の宮田智之氏に解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2025年5月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>第一次政権との決定的な違い</h2>

<p>1月の発足以来、第二次トランプ政権が矢継ぎ早に新たな政策を打ち出していることを見ると、同政権が事前に政権構想を練り上げたうえでスタートしたことは明らかである。その背景には、「アメリカ・ファースト」を支持するシンクタンクや団体がこの数年で急速に整備された影響が指摘できる。</p>

<p>すなわち、MAGA（Make America Great Again）派のインフラが台頭し、第二次トランプ政権に対する政策案・人材の供給源としての役割を果たしている。このような状況は、「アメリカ・ファースト」を具体化する人材がワシントンの政策コミュニティにおいて乏しかった第一次政権発足時との決定的な違いである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ヘリテージ財団の「変容」</h2>

<p>「アメリカ・ファースト」を唱える団体は以前から存在していたが、MAGA派インフラが本格的に形成されるようになったのは第一次トランプ政権末期のことであり、この動きにおいて保守派最大のシンクタンクであるヘリテージ財団の「変容」は極めて重要である。</p>

<p>2016年大統領選において、保守派の政策エリートの大半は積極的な対外関与と自由貿易の意義を唱える伝統的な保守主義路線に反するとして、トランプの一国主義・保護主義に強い拒否反応を示した。</p>

<p>とくに、アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所（AEI）、フーヴァー研究所、ハドソン研究所、民主主義防衛基金といった保守系シンクタンクなどを拠点に活動していた共和党系外交専門家は、反トランプ書簡を複数回にわたり公表するほど、徹底抗戦の構えを見せた。</p>

<p>じつは、ヘリテージ財団も予備選が始まる前の時点ではトランプに批判的であった。2015年秋に、姉妹団体のヘリテージ・アクション・フォー・アメリカが発表した共和党候補に関する採点表では、トランプの公約について「巨大な関税案がアメリカ経済にダメージをもたらす」などと厳しい評価を並べていた。</p>

<p>しかし、2016年春に当時の所長ジム・デミント元上院議員の号令のもとで、ヘリテージ財団はトランプへの接近を図るようになり、以後最高裁人事案の提供などトランプ陣営に積極的に協力するようになった。一連の反トランプ書簡にも、ヘリテージ財団関係者は1人も署名しなかった。</p>

<p>トランプへの態度を変えた理由の1つに、1970年代初頭の設立以来、長年保守主義運動のリーダー役を自任してきたヘリテージ財団にとって、トランプを熱狂的に支持する草の根保守層の動向は無視できなかったものと思われる。</p>

<p>もっとも、その後もヘリテージ財団がトランプと異なる立場を示すことはあった。ジョージ・フロイド殺害事件を受けて人種差別を非難し、コロナ禍での行動規制を当初支持したことは、そうした例であった。また、トランプ政権が取り組もうとしていたビッグ・テック規制に対しても反対を表明した。</p>

<p>「トランプ後」の政治を見据えて、トランプへの全面的傾斜を避けようとしていた可能性があるが、その代償はあまりにも大きかった。</p>

<p>トランプの支持者がヘリテージ財団に対して猛反発したのであり、とくにFOXニュースのタッカー・カールソンは自身の番組で「もはやヘリテージ財団は保守主義者の利益を代表していない」と訴え、またあるときにはヘリテージ財団の支援者に向かって別の団体に寄付するべきだと呼びかけることすらあった。</p>

<p>こうした突き上げはヘリテージ財団を激しく動揺させた可能性があり、以後、同財団は親トランプ路線を一気に加速させていく。</p>

<p>まず、2018年から所長を務めていたケイ・コールズ・ジェームズが退任し、トランプ政権に一定の影響力を及ぼしていたテキサス公共政策財団のケヴィン・ロバーツを2021年末に新たな所長に迎える。この新体制発足からまもなく、第二次トランプ政権の誕生を意識した政策提言と人材確保を目的とした「プロジェクト2025」が始動した。</p>

<p>同プロジェクトにはMAGA運動のリーダーとしての座を確立するとの狙いが明確にあり、100を超える保守派団体とともに、トランプの側近を含む140名に及ぶ第一次トランプ政権出身者の協力を確保した。2023年春に発表された『リーダーシップのための負託（Mandate for Leadership）』は、同プロジェクトの成果の一部であった。</p>

<p>同時に、親トランプ路線の加速は、ヘリテージ財団が唱える政策の中身にも反映されるようになった。</p>

<p>伝統的に対露強硬派であったヘリテージ財団は、ロシア・ウクライナ戦争勃発直後こそ、ウクライナ支援を強く支持していたものの、トランプが支援反対論を唱えると「ウクライナ支援はアメリカ・ラストだ」と突如訴えるようになり、この急旋回を受けて安全保障の研究を担当していたベテランの研究員たちが相次いで去っていった。</p>

<p>また、ヘリテージ財団は自由貿易を推進してきたが、『リーダーシップのための負託』では、保護貿易派の代表格であるピーター・ナヴァロの主張も盛り込まれた。</p>

<p>以上のように、かつてレーガンとの関係を通じて保守派を代表するシンクタンクへと飛躍を遂げたヘリテージ財団は、MAGA派シンクタンクと化したのであった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>MAGA派インフラの広がり</h2>

<p><img alt="保守系シンクタンク" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250520miyatatomoyuki.jpg" width="1200" /></p>

<p>MAGA派インフラの形成において、第一次トランプ政権の元高官が果たした役割も無視することができない。</p>

<p>過去の共和党政権では、退任した元高官がAEIやフーヴァー研究所といった伝統的な保守系シンクタンクに移籍する例が数多く見られたが、第一次トランプ政権で高官を務めた人びとは、バイデン政権発足後、保守系シンクタンクに移籍する代わりに、「アメリカ・ファースト」を標榜するシンクタンクや団体を次々と立ち上げていった。</p>

<p>ラッセル・ヴォートはその1人であった。第一次トランプ政権に入る前、ヘリテージ・アクションの幹部であったヴォートは、行政管理予算局長を退任後、ヘリテージ財団には戻らず、自らアメリカ刷新センター（CRA）を設立している。おそらく、このような状況もヘリテージ財団が親トランプ路線を加速させた一因であったと思われる。</p>

<p>多くの第一次トランプ政権の元閣僚・高官が結集して誕生したアメリカ・ファースト・ポリシー・インスティテュート（AFPI）は、以上の動きの象徴であった。</p>

<p>初代所長を務めたのは、第一次トランプ政権の国内政策会議委員長であったブルック・ロリンズである。ロリンズは、かつてテキサス公共政策財団を指揮しており、彼女の政権入りに伴い同財団を率いるようになったのが先のロバーツであった。</p>

<p>2024年大統領選では、「プロジェクト2025」ほど取り沙汰されなかったものの、AFPIも政策提言と人材確保を柱とした「米国第一主義移行プロジェクト」という、政権移行プロジェクトを実施し、2024年春には第一次トランプ政権で安全保障担当の高官であったキース・ケロッグやフレデリック・フライツが中心となり『米国国家安全保障へのアメリカ・ファースト・アプローチ（An America First Approach to U.S. National Security）』という政策提言集を発表している。</p>

<p>2017年にヘリテージ財団所長を退任したデミントが設立したコンサーバティブ・パートナーシップ・インスティテュート（CPI）もMAGA派インフラの代表格であり、資金提供などを通じて「アメリカ・ファースト」を唱えるシンクタンクや団体の立ち上げを支援してきた。ヴォートのCRAもCPIの支援を受けて誕生したシンクタンクである。</p>

<p>スティーブン・ミラーの法曹団体アメリカ・ファースト・リーガル、トム・ジョーンズの政府監視団体の米国説明責任財団、ソーラブ・シャルマの人材育成団体アメリカン・モーメントなども、CPIの支援を受けて生まれている。</p>

<p>トランプ現象を擁護する論文で知られたマイケル・アントンが在籍していたクレアモント研究所や、若手論客のオレン・キャスが率いるアメリカン・コンパス（AC）も、MAGA派との連携を強めた。ACについては、J・D・ヴァンスやマルコ・ルビオに近いシンクタンクとしても知られている。</p>

<p>また、最近ではMAGA派は対外政策をめぐる抑制派の一派と位置付けられているが、2016年以降、こうした抑制主義を明確に掲げるシンクタンクも登場している。</p>

<p>この種のシンクタンクについては、クインジー研究所が広く知られているが、同じく抑制派を代表するディフェンス・プライオリティーズ（DP）は、MAGA派と一定のつながりを有しており、例えば、ウクライナ支援法案の先延ばしを求めて、AFPI、CPI、CRAなどと「共闘」したことがある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>第二次トランプ政権に対する政策・人材の供給源</h2>

<p>MAGA派インフラは、すでに第二次トランプ政権の動向に多大な影響力を及ぼしている。「プロジェクト2025」は、正にその1つである。たしかに、2024年大統領選を通じて「プロジェクト2025」はメディアで頻繁に取り上げられ、民主党やリベラル派団体からは「トランプに近い団体が過激な主張を行なっている」といった集中砲火を浴びた。</p>

<p>選挙戦中にシンクタンクが注目されることは滅多になく、トランプ陣営幹部も選挙戦への悪影響を懸念するようになり、一時トランプ本人も「自分はまったく知らない」などと発言し距離を置くこともあった。</p>

<p>しかし、トランプの側近を含む多くの第一次トランプ政権出身者が関与してまとめられた900頁を超える政策提言集が、第二次トランプ政権にとっての重要な指針の1つになっていることはほぼ間違いない。</p>

<p>『ニューヨーク・タイムズ』紙（2025年2月14日付）も、2月半ばの時点で、「移民」、「気候」、「多様性・公平性・包括性（DEI）」、「公衆衛生」、「性・ジェンダー」、「連邦政府職員」、「その他」の分野で打ち出された現政権の政策と、『リーダーシップのための負託』とのあいだで多くの類似性が確認できると詳細に分析している。</p>

<p>3月下旬にトランプ大統領が署名した、教育省の解体を開始するという大統領令についても、『リーダーシップのための負託』が提言している政策案の1つである。「プロジェクト2025」以外では、AFPIの政権移行プロジェクトやCRAの分析レポートなども第二次トランプ政権に影響を及ぼしていると言われている。</p>

<p>MAGA派シンクタンクは、第二次トランプ政権のための人材供給源としても機能している。</p>

<p>なかでも、「第二次トランプ政権待機組」と呼ばれたAFPIは突出しており、ロリンズが農務長官、リンダ・マクマホンが教育長官、パム・ボンディが司法長官、ジョン・ラトクリフが中央情報局（CIA）長官、リー・ゼルディンが環境保護局長官、ケヴィン・ハセットが国家経済会議委員長、マシュー・ウィテカーが北大西洋条約機構（NATO）大使、キース・ケロッグがウクライナ担当特使にそれぞれ起用されるなど、現政権に対する最大の人材供給源と言っても良い。</p>

<p>「プロジェクト2025」に参加した者の多くも政府高官に起用されており、そのなかには、スティーブン・ミラー大統領次席補佐官、トム・ホーマン国境対策担当責任者、ピーター・ナヴァロ大統領上級顧問（貿易・製造業）、マイケル・エリスCIA副長官、エルブリッジ・コルビー国防次官（政策）が含まれる。</p>

<p>CRAからは、ヴォートとマーク・パオレッタがそれぞれ行政管理予算局長と行政管理予算局顧問に復帰し、以前CRAに在籍していたキャッシュ・パテルもFBI長官に任命されている。クレアモント研究所からは、マイケル・アントンが国務省政策企画部長に起用され、ACからは、マイク・ニードハムが国務省顧問に任命されている。</p>

<p>DPも一定の存在感を発揮しており、ウィリアム・ルーガーが国家情報副長官、マイケル・ディミノが国防次官補代理にそれぞれ起用されている。</p>

<p>このように、MAGA派インフラの関係者が続々と政権入りを果たしているが、「プロジェクト2025」では、政策提言と並んで、職業公務員のポストに供給する人材データベースを整備していることも忘れてはならず、そのなかにはトランプへの忠誠心のみで選ばれた政府機関での職務経験のない人びとの情報も少なからず含まれていると見られる。</p>

<p>政府効率化省（DOGE）が主導する職業公務員の大規模人員整理の動きが進むなかで、今後素人同然のMAGA人材が政府機関で大量に採用される可能性は否定できず、政治任用職の人事と並んで、注視すべきであろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>政権人事の特徴</h2>

<p>MAGA派インフラとは対照的に、共和党主流派の中核的拠点の1つとして、歴代共和党政権に対する政策・人材の主たる供給源であった伝統的な保守系シンクタンクの存在感は、現政権において乏しい。たしかに「ネバー・トランプ派」への反発から第一次政権では保守系シンクタンク関係者が政府高官に起用された例は決して多くなかったが、現政権ではより少数にとどまるかもしれない。</p>

<p>8年前、ワシントンの政策コミュニティにおいて「アメリカ・ファースト」を体現する人材は限られていた。そのため、第一次政権では「トランプ政権の大人たち」に代表される共和党主流派が政権入りする余地が生まれたが、トランプや側近たちはそれらの人びとによって「妨害」されたとの認識を強くもっている。</p>

<p>そして、こうした認識から、ヴァンスやトランプ・ジュニアらが中心となり共和党主流派の政権入りをかなり警戒している模様であり、ハドソン研究所に在籍していたマイク･ポンペオ元国務長官が国防長官への起用が噂されながら、トランプ自身によって早々に否定されたのは、ポンペオの立場が「アメリカ・ファースト」に反すると懸念されたからだとも言われている。</p>

<p>ある伝統的な保守系シンクタンクについては、｢ネオコンの巣だ」としてトランプ周辺によって否定的に見られているとされ、またこうした政権内部の動きに、タッカー・カールソンや極右活動家のローラ・ルーマーらも影響を及ぼしているとの報道もある。</p>

<p>MAGA派インフラが大きな影響力を行使する一方で、伝統的な保守系シンクタンク関係者をはじめとする共和党主流派の存在感が乏しい政権内部の実態を見ると、トランプ政権が今後も「アメリカ・ファースト」に基づく政策を強行していくであろうことは十分考えられる。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 19 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宮田智之（帝京大学法学部教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「近頃の政治家は...」と嘆く前に　古代ギリシア哲学から真の問題に向き合う  納富信留（東京大学大学院人文社会系研究科教授、日本哲学会会長）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12191</link>
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			<description><![CDATA[いつも時代でも、どんな政治体制においても「政治不信」は存在した。古代ギリシア哲学から「政治」の真の問題について東京大学大学院人文社会系研究科教授の納富信留氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/kokkai.jpg" width="1200" /></p>

<p>歴史をふりかえれば、政治不信はいつの時代もあった。紀元前6~5世紀の古代ギリシアでは世界ではじめて民主制が完成し、ソクラテスをはじめとする哲学者たちが政治を論じている。古代ギリシア哲学から「政治」の真の問題について東京大学大学院人文社会系研究科教授の納富信留氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年4月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>敢えて、天に向かって唾を吐く</h2>

<p>「政治に失望している。政治家は信用できない。政治が劣化した」</p>

<p>最近しきりに聞かれるこうした不満は、いまに始まったものではない。バブル後も高度成長期も、戦後や戦前の社会でも、ほぼ同じことが語られていた。</p>

<p>また、日本に限った現象でもなく、先進国でも途上国でも、資本主義国でも社会主義国でも、いつもこんな批判や愚痴がこぼされてきた。無論、言論の自由がある下での発言である。</p>

<p>さらに、古代のギリシアやインドや中国でも、政治は乱れに乱れ世も末だと、人びとは嘆き続けていた。人間は進歩していない。そして、過去からそれほど学んでもいない。</p>

<p>翻って考えると、政治家が信頼されている時代、政治に満足していた社会など、かつてあっただろうか。もしあったとして、ファッショやポピュリズムの熱狂だったのかもしれない。それはそれで危険である。</p>

<p>政治に対する批判的な意見や冷静な視線は必要であり、とても大切である。だが、同時に意識しなければならないのは、政治の場で活動する議員は私たち市民が選挙で投票して選んだ代表だということである。</p>

<p>「政治の質が低い」と言い放つことは、それを選んだ社会、私たち自身のレベルが低いと認めることに他ならない。いわば、天に向かって唾を吐くようなものである。</p>

<p>しかし、そうは言っても、ここ十年来の政治状況を見るにつけ、あまりにお粗末で憤まんやる方ない。政治はいつもひどいと言っても、また、その責任はまず私たち自身にあるとは言っても、それでは収まらない怒りが湧き上がる。</p>

<p>自分の顔に降ってくるとわかっていても、それでも天に向かって唾を発したくなる。そうして冷や水を浴びたように反省して、考えていくしかないのだろう。</p>

<p>私はここで、古代ギリシアの哲学に戻って、三つの言葉から現代の状況を反省してみたい。「ロゴス、ディアロゴス、ポリティカ」である。</p>

<p>紀元前六～五世紀のポリス（都市国家）アテナイでは民主制（デーモクラティアー）が完成していたが、まさにその時代に政治を批判的に論じる哲学が生まれていた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>正しく言葉で伝えられているか？――ロゴスを与える</h2>

<p>「人間はロゴスを持つ動物である」とは、アリストテレスが『政治学』講義で与えた定義であった。</p>

<p>そこで「ロゴス」つまり「言葉」を持つとは、単に感情や考えを発する能力や、コミュニケーションのツールを手にしていることではない。合理的に考え、論理的に語るという存在の仕方を意味している。</p>

<p>ギリシア語で「ロゴスを与える（ロゴン・ディドナイ）」とは「知っている」という状態の基準である。</p>

<p>ロゴスは物事について「何であるか」の構造や筋道を示すものであり、それが正しく示される場合は本質が明らかになり、真理が開示される。従って、ロゴスを受け取った者も、その対象を「知る」ことになる。</p>

<p>つまり、きちんとロゴスを与えているか、与えることができるかどうかが、その事柄を知っている人と、よくわかっていない人とを分ける基準となるのである。</p>

<p>この「ロゴスを与える」は、日本語では「説明する」に当たる。「説明する」とは、主題となっている事柄について事実を明確に示し、それがなぜ、どうなっているのかを言葉で明瞭に提示することである。</p>

<p>何事につけ、きちんと説明することは人間が人間として生きること、共同体の一員であることの基本であり、それができない者、行なわない者は「ロゴスを持つ」という人間の本質を実現していない。つまり、人間になっていない未熟者である。</p>

<p>「ロゴスを与える」ことは、生まれ持つ能力として誰にでもできることではない。むしろ、長年の教育と習慣によって培っていく人間性の開花であり、その遂行には巧拙の違いがある。</p>

<p>だが、大人は子供たちの見本として、リーダーは社会の代表として、しっかりとその役割を果たさなければならない。それができない者は、人びとを導くには不適格である。</p>

<p>私たちは日本社会で、ロゴスを与える場面に出会わないこと、素振りだけで何の実質もない言葉を聞くことに、あまりに長く慣れてしまっている。</p>

<p>何を尋ねられても同じ言い訳をくり返す様は、ロゴスを持つ動物に相応しくない。それは、単に聞く人びとに不快や虚しさを与えるだけでなく、社会そのものを機能不全で歪んだものにしてしまっている。</p>

<p>つまり、ロゴスを欠いた私たちの社会は不健全で不幸な状態にある。</p>

<p>正しく言葉を語り物事を明らかにすることは、社会の基本である。なぜ言葉が大切なのか。この点では古代ギリシア哲学だけでなく、古代中国哲学も「正しい名前」の重要性を指摘している。</p>

<p>どんな名前や言葉で語ろうが実質は変わりない、などと思ったら社会は終わりである。</p>

<p>むしろ、物事の条理は正しい名前で区別され、その表示での理解が流通することで、社会の正しいあり方が実現する。もしそうなっていなければ、名前を正す必要があり、それが政治の役割である。これが儒教で孔子や荀子が論じた「正名論」である。</p>

<p>昨今の日本で、「責任をとる。職務を全うする。関わりがない」、そんな言葉が正しい意味で用いられているか、大いに疑問である。「安全、平和、豊かさ」、そんな基本語に立ち返り、言葉の使い方を真剣に反省する必要がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>対話によってお互いを高め合えているか？――ディアロゴスを交わす</h2>

<p>「ロゴスを与える」ことは何よりも大事な基本だが、それだけでは十分ではない。ロゴスだけでは達せないことが、3つある。</p>

<p>自分の誤りに気づくこと、訂正すること、そして自分を変えることである。そこではロゴスを交わす「ディアロゴス（対話）」が必要となる。</p>

<p>自分ではそれなりに考えて説明したつもりでも、そのロゴスが不十分であること、あるいは誤りであることは珍しくない。自分で理解しているつもりで説明しても、聞いている相手になかなか納得してもらえない、そんなことはしばしばある。</p>

<p>しかし、相手の理解力が足りないなどと決めつけてはならない。相手にわからなかったら、それは説明が十分ではないからであり、さらに理を尽くして説明する必要がある。もしかしたら、その人が納得しないのは説明のどこかにおかしなところがあって、思い違いや誤謬や意図的な隠蔽が含まれるからかもしれない。</p>

<p>そんなときには、もっと説明してほしいという要求は大切なステップとなり、そこでその説明が最終的に正しいのか、あるいは間違っていたかが判明する。</p>

<p>説明をする本人は、だいたい自分ではわかっている気になっていて、あれこれ説明することすら面倒だと思っていることも多い。しかし、じつはその人自身がわかっていなかった、あるいは間違っていたことが判明することも少なくない。</p>

<p>つまり、ロゴスを与えるとは、一人で完結してできることではなく、むしろロゴスを語る相手とのディアロゴスで実現するものなのである。</p>

<p>ディアロゴスは双方向的なロゴスのやり取りであり、説明を聞いた側は質問したり、追加情報を求めたり、あるいは批判したりする。それに応答することで、当初の説明が明瞭になったり、修正されたりする。</p>

<p>それは望ましい進歩である。自分ではわからないこと、気づかないことがある以上、他者に指摘されて考えを改めることには何の失点も恥じるところもない。むしろ、適正な指摘を受けながら何も訂正しないとしたら、それはロゴスへの裏切りである。</p>

<p>訂正することで起こるのは、自分が変わること、つまり変容である。人間は失敗もする未熟な存在である以上、できるだけ善いものに変わることがめざされるべきであろう。</p>

<p>それを実現するのがディアロゴスであり、一人のロゴスでは十分に達成できない思考や推論や判断を、共同で遂行するものである。「対話」の必要性はここにある。</p>

<p>哲学の対話とは違うにしても、政治の場での「論戦」や「討論」を見るにつけ、こういった改善への志向が見られないことに失望する。</p>

<p>他者の正しい指摘を真摯に受け止めそれを取り入れて自分が変わること、それが政治家にも私たち市民の一人ひとりにも必要なのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>あらためて「政治」とは何か？――ポリティカを行なう</h2>

<p>人間の基本としての「ロゴス」、それを共有する「ディアロゴス」という古代ギリシア哲学から、現代の政治に欠けているもの、その根底にある言葉の問題を考えてきた。</p>

<p>ここで改めて焦点となるのは「ポリティカ」、つまり「政治」という言葉である。「政治不信、政治的無関心、政治離れ」といった言葉が聞かれるが、何かおかしくないだろうか。その違和感の原因を探るために、「政治」の元の意味を考察したい。</p>

<p>日本では昔は「まつりごと」という大和言葉が語られてきた。すぐに連想がつくように「祭り」を司どるという為政者の役割を表したものである。</p>

<p>祭りは共同体成立の要であり、神々との関係で人間が幸せな生活を送るための知恵が込められていた。中国では古くから「政事」という語が使われてきたが、「政治」は明治の日本から使われて普及した語である。</p>

<p>それは「ポリティクス」や「ポリティカル」といった西洋語の翻訳であり、1877年に創立された東京大学で文学部の第一科が「史学哲学及政治学科」と呼ばれたことから、「政治学」という学問名が広く定着した。</p>

<p>政治としては、文化や社会の歴史において異なるあり方が展開されたが、人間が共同生活を送る仕組みには普遍性がある。</p>

<p>ギリシア語で「ポリティカ」とは「ポリスに関する事柄」という意味で、「公共の事」とか「共同体に関わる問題」を意味する。西洋ではそれが「政治」の基本的な意味となった。</p>

<p>では、「ポリスに関すること」とは何を意味するのか。</p>

<p>古代ギリシアで「ポリス」とは小さな領域や都市からなる共同体で、規模は数千人から数万人、それぞれのポリスは王制や貴族制や民主制などさまざまな国制をとっていた。</p>

<p>プラトンやアリストテレスは、人間は個人では生きられず、多くの人が集まって共同で生活を営むことで人生の充足が可能になると考えた。つまり、役割を分業して社会をつくらないと、人間は一人では生きていけないということである。</p>

<p>そうして形づくられる共同体は、構成員である市民がそれぞれの仕事をするとはいえ、その共同体の全体を見渡して最善に向けて配慮する人が必要である。それがポリスのことを行なう専門家、つまり「政治家」である。</p>

<p>では、政治を行なうために特別に養成された統治者だけが共同体を配慮すれば良いのかというと、そうではない。統治者が発するメッセージを理解して、ポリスにおける自分の役割を果たす個々の市民も、その限りではポリス全体のことを考えていなければならないからである。</p>

<p>ポリスは、市民一人ひとりが人間性を完成する場である。人間はこのような意味で「ポリス的動物」であり、政治とは一部の人が必要により、仕方なく、あるいは野心によって行なうことではなく、人間である限り私たち一人ひとりのすべてが従事する営みである。</p>

<p>そうだとすると、なぜ先ほどの表現に違和感を抱いたかがわかる。「政治不信」や「政治的無関心」と言うが、政治が自分もその一部である人間共同の営みである以上、それを信じないことは「自己不信」であり、無関心でいるとしたら「自己無関心」と同じである。</p>

<p>また、「政治離れ」と言っても政治から離れて生きることはできず、政治に加わらないという態度は、責任の放棄か、あるいは、意図的であれば反対への強い政治的意思表示であろう。</p>

<p>もし、この結論に納得できない人は、あらためて「政治」とは何かを考えてほしい。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>本物の政治とは？</h2>

<p>古典期アテナイの政治と言えば、ペルシア戦争を勝利に導いたテミストクレスや全盛期を担ったペリクレスが思い浮かぶ。</p>

<p>どちらも現代では歴史の教科書にも登場する偉人だが、プラトンの対話篇『ゴルギアス』でソクラテスは、彼らが政治家の名前に値しないと批判している。二人はたしかに国を強力にし、経済的繁栄をもたらしたかもしれないが、それで国民が幸せになったとは言えない。</p>

<p>幸せとはそのとき楽しいと感じる気分ではなく、本当にその人自身が善くなったか、優れた生き方をしたかということ以外ではない。彼らはそうした幸せをもたらすどころか、ポリスを国威で傲慢にし、贅沢で堕落させたのではないか。</p>

<p>対照的にソクラテスは、市民一人ひとりと対話を交わして、魂ができるだけ善くなるようにと配慮を促した。もしかしたら自分だけが本当の政治を実践しているのではないか、ソクラテスはそんな逆説的な見方を提起する。</p>

<p>本物の政治が、私たちの生き方を本当に善いもの、幸せにすることであり、見た目の立派さや物質の豊かさや気持ち良さをもたらす営みとは根本的に異なるとすると、政治に必要なのは哲学であろう。</p>

<p>現代の日本で、そう思っている人はほとんどいないように見受けられるが、とりわけ、そう考えている政治家が皆無であることは、政治家を育てて送り出す私たち社会が深く恥ずべきことである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/kokkai.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 19 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[納富信留（東京大学大学院人文社会系研究科教授、日本哲学会会長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「ホストとキャバクラ」は何が違うのか?　指名制度に表れるその特異性  佐々木チワワ（ライター）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12269</link>
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			<description><![CDATA[ホストクラブとキャバクラ、その違いとは? 佐々木チワワ氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="佐々木チワワ" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_champagne.jpg" width="1200" /></p>

<p>ホストクラブに頻繁に通い、多額の金銭を投じる「ホス狂い」といわれる女性たちの実態とは？高校生の頃から歌舞伎町に足を運び、トー横キッズやホストなどの現場を取材してきたライターの佐々木チワワ氏は、著書『歌舞伎町に沼る若者たち』にて、歌舞伎町やホストクラブに通う女性のリアルを社会学的に分析し、その諸問題の解決策までを提言している。</p>

<p>佐々木氏によると、ホストクラブとキャバクラはそれぞれ接待等飲食営業に該当しているが、内実においてジェンダー対照的な存在であるとは言い難いそうだ。同書より解説していく。</p>

<p>※本稿は、佐々木チワワ著『歌舞伎町に沼る若者たち』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ホストクラブは社交ダンスから始まった</h2>

<p>ホストクラブは業態区分として許可制の風俗産業であり、「接待飲食等営業」に区分される。ホストクラブと言えば現在は歌舞伎町だが、ルーツは1965年に東京駅八重洲口前にオープンした「ナイト東京」であるとされている。ナイト東京は富裕層の女性が社交ダンスをすることを目的としており、店で個人事業主として活動する男性をパートナーに指名し、金銭を渡すという制度が元になっているのだ。</p>

<p>しかし、このシステムではホストが生計を立てるのは難しかったため、次第に女性を客として接客する女性専用クラブというホストクラブの原型が形成されていく。そこで頭角を表した愛田武（本名：榎本武）によって、1973年に歌舞伎町初のホストクラブ、「愛本店」が誕生する。</p>

<p>愛本店はそれまでホスト側が店に支払っていた「場代」を撤廃し、最低時給を設けるなど現在のホストクラブのシステムの基礎をつくり上げてきた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ホスト」の価値を上げるためのシステムと設備</h2>

<p>愛本店は2020年6月に建物の老朽化に伴い閉店するまで、老舗ホストクラブとして歌舞伎町に君臨し続けていた（2025年1月現在、新しく建設されたビルで営業を行なっている）。旧愛本店ではナイト東京のルーツを汲み、女性がホストと社交ダンスを踊るためのステージが用意されていた。</p>

<p>しかし現在のホストクラブでは、女性が社交ダンスをするためのステージを設置している店舗は存在しない。代わりに、日の売り上げが最も高いホストが好きな曲を歌える「ラストソング」や、ホストたちがアイドルのようにダンスするといったパフォーマンスのためのステージが設置されている店舗は多い。</p>

<p>ホストクラブでイメージしやすいシャンパンタワーなどはこのステージに設置されることが多く、女性客が主体となって輝くための「ステージ」から、ホストが女性客に金銭を投じてもらって輝くための場所へと変化してきたのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ホストとキャバクラはどう違うのか？</h2>

<p>同じく接待等飲食営業に該当するキャバクラとはどのような違いがあるのか。社会学者の武岡暢は著書『生き延びる都市　新宿歌舞伎町の社会学』（新曜社、2017年）のなかで、「キャバクラでは主として男性客が『女性従業員（＝キャスト）と会話しながら飲食すること』に対して対価を支払う」とし、その接待と呼ばれる特殊なサービスの売買こそがキャバクラを強く規定する中核的な要素であると述べている。</p>

<p>「基本的にキャバクラにおけるサービス提供者と消費者のジェンダーを入れ替えたような業態」であるホストクラブだが、武岡も、ホストクラブが業態の内実においてジェンダー対照的な存在であるとは言い難いと指摘している。その最大の理由は、ホストクラブの永久指名制度にあるという。</p>

<p>「ところが、指名を変えられない、というこの一点において、指名制度は大きく異なる帰結を導く。ホストクラブでの接客において主導権を握るのは、客ではなくホストなのである。つまり、客がホストの歓心を買おうとする、という構図が観察されるのだ。もちろん、客はホストに満足しなければ店に来なければいいのだが、どこかで逆転した認識枠組みが生まれ、もはや変更することのできない指名をしたホストに対して、来店して売上を上げさせることで、関心を引こうとするのである」（『生き延びる都市』）</p>

<p>たしかに、キャバクラとの違いとして永久指名制度の存在は大きい。しかし、接客において客よりもキャストが主導権を握るのは、キャバクラでもありうる構図である。ホストクラブの永久指名制度によるキャバクラとの違いは、筆者が考えるに次の2点だ。</p>

<p>1つ目は、ホストは永久指名を獲得するため、客に「育て」と呼ばれる先行投資をすることだ。キャバクラはホストクラブに比べ最低料金も低く、指名替えが容易なため、客も「とりあえず」での指名が可能である。しかしホストクラブは永久指名制のため、客が指名に慎重になりやすい。そのためホストは、指名を得るために毎日の連絡や電話、時には店の外で食事をするなど時間を投資し、今後の指名客を獲得するという労働がキャバ嬢よりも発生しやすいのだ。</p>

<p>2つ目に、ホストクラブではキャスト間のチームワークが発揮されやすいことだ。永久指名制度によって店舗内で指名客を奪うことができないため、指名以外のヘルプホストたちは、チームとして指名ホストをサポートする業務に徹することになる。ホストクラブではこうしたチームワークが生まれることも、キャバクラとの違いだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>店以外の支払いはすべてホスト側が負担する</h2>

<p>また、ジェンダー規範に基づくキャバクラとホストクラブの違いもある。それは、キャバクラでは店舗外で客と過ごした際に発生する費用を客側が負担するのに対し、ホストクラブではホスト側が負担することだ。給料を前借りしてでも店の外では客に投資するホストも存在する。これはホストの「男らしさ」に対する価値観と、客側のニーズが合致した結果とも言える。</p>

<p>「店の中では、誰よりも男をお客様に立ててもらっている。だから店の外で女の子を立ててエスコートするのは当たり前。普通の男以上に男らしく振る舞うことが求められるのがホスト。結果的に店の外では電車移動はダサいからタクシー移動が多いし、高い店を予約したりハイブランドのプレゼントを渡すといった行為で女性を喜ばせることが求められるんだよね」（20代ホスト・月間2000万プレイヤー）</p>

<p>このような「男らしさ」の価値観がホストクラブには存在する。実際に店の外でのサービスとして提供されているため、キャバクラと違って女性客が「ホストにどれだけ金銭をかけてもらえているか」という点が評価基準に入り込むことになる。営業後のアフターの場所が毎回自宅だとケチられているように感じる、誕生日にもらったプレゼントの金額が低いと落ち込む、などである。</p>

<p>ホストクラブに通う女性は、指名ホストからの店舗外の時間・金銭によるリターンを「還元」と呼び、「私の担当（指名ホスト）は還元率が良い・悪い」といった評価軸をもつ。</p>

<p>ホストの特徴は、客に対して営業時間外の「時間」の提供や後述する枕営業などの「性的サービス」だけではなく、金銭による奉仕と提供も行なうことだと言える。こうしたホストの特殊性について、ジェンダー研究者のアキコ・タケヤマは「ホストが金で女性的な役割を演じる時、不自然に見え、逸脱的で欺瞞的で下品であると見做される」上で「ホストは自身の規範的非対称性をよく理解している」（Staged Seduction）と述べている。</p>

<p>女性的な感情労働を強いられつつも、男らしさというジェンダー規範を商品にしているホストの特殊性が垣間見えるだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_champagne.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 19 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[佐々木チワワ（ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日韓に共通する読書事情とは？ 競争社会に疲れた若者が求める「癒される本」  金承福（株式会社クオン代表取締役）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12418</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012418</guid>
			<description><![CDATA[日本と韓国で共通する「読書事情」について、株式会社クオン代表取締役・金承福氏に話を聞いた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日韓の読書事情" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book_2.jpg" width="1200" /></p>

<p>近年、韓国でベストセラーになった本が日本でヒットしたり、その反対に日本で人気の本が韓国で話題を呼んだりする傾向が強まっている。日本の韓国書籍市場を切り開いてきた出版社の代表が語る「日本と韓国のいま」について話を聞いた。前編となる本稿では、日韓の若者たちが今、どんな本を読んでいるのか、その読書事情にスポットを当てて紹介する。</p>

<p>聞き手：編集部（阿部惇平）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年5月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本と韓国は競争社会</h2>

<p>――2019年、金さんが翻訳出版に携わったキム・スヒョン氏のエッセイ『私は私のままで生きることにした』（ワニブックス）が日本で刊行されると、累計発行部数55万部のベストセラーになるなど大きな話題を呼びました（世界累計では180万部）。韓国の「イラストエッセイ」が日本で大ヒットした理由を、どう受け止めていますか。</p>

<p>【金】よく語られているとおり、日本も韓国も厳しい競争社会です。とりわけ10代や20代の若者は他者と競うことに疲れています。だからこそ、「周りの目を気にせず、ありのままで生きよう」という本書のメッセージが日韓の若者たちの心を掴んだのでしょう。</p>

<p>実際、この本の読者層を調べると、日本と韓国で大きな差はありません。10代や20代が中心です。文章が少なく、イラストが多い本のつくりも若者世代の共感を集めた理由の一つでしょう。さらに言えば、BTS（防弾少年団、韓国の七人組アイドルグループ）のメンバーであるジョングクが本書を愛読しているとの情報がSNSなどで流れたことも、日韓ともに大ヒットの起爆剤になりました。</p>

<p>――韓国のイラストレーターのハ・ワン氏のエッセイ『あやうく一生懸命生きるところだった』（ダイヤモンド社）も、韓国で30万部、日本でも15万部を超えるベストセラーになりました。本書も「競争疲れ」や「セルフケア」をテーマにした作品ですね。</p>

<p>【金】日韓ともに、いま「売れ筋」の本のテーマの一つが「癒し」です。日本の出版社の本であれば、昨年（2023年）発刊された小説『猫を処方いたします。』（石田祥著、PHP文芸文庫）は、国内でシリーズ10万部を超えるヒット作になりました。本作のテーマもまさに「癒し」で、韓国の出版社のあいだでは、翻訳出版の権利を巡って非常に激しい入札競争が行なわれました。</p>

<p>――「癒し」は、今後も日本と韓国の出版業界で「売れ筋のテーマ」であり続けるのでしょうか。</p>

<p>【金】間違いなく需要はあるでしょう。ただ、じつはコロナ禍を境に、韓国では違うテーマやメッセージの本が世に出てきていることを肌で感じています。</p>

<p>たとえば、いま韓国では50代や60代の女性のオピニオンリーダーが書く「自己啓発本」がよく売れています。彼女たちは若い世代に向けて、次のようなメッセージを本のなかで伝えています。</p>

<p>「会社にいる8時間もあなたの人生です。だから、どんなことでも一生懸命にやりなさい」</p>

<p>先に述べた『あやうく一生懸命生きるところだった』とは、まさに真逆のメッセージです。このように「努力すること」を奨励するような本が、韓国の若い世代を中心に支持を集めていることは、たいへん興味深い現象です。こうした自己啓発本はすでに日本の出版社からの刊行も決まっており、日本市場ではどのように受け入れられるのか、その成り行きを注視しているところです。</p>

<p>いずれにせよ、韓国でベストセラーになった本が日本でヒットしたり、その反対に日本で人気の本が韓国で話題を呼んだりする傾向が、近年強まっているのはたしかだと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本と韓国の若者たち</h2>

<p>――日本では「若者の読書離れ」が進んでいると指摘されていて、ベストセラーと呼べる本も減ってきています。韓国には似たような傾向はないのでしょうか。</p>

<p>【金】若い世代が本にかけるお金や時間については、映画やスポーツ観戦など、ほかの娯楽と比較すれば、やはり間違いなく減ってきています。ただ、本を読む人はどの時代にも必ずいます。</p>

<p>その層に対して、韓国の出版社はより強力なボールを投げることができているため、『私は私のままで生きることにした』などの大ヒット作が出てきているのでしょう。</p>

<p>――韓国では、若者が手に取りたくなるようなデザイン性の高い本が多い印象を受けます。装幀やデザインなど、本の「見た目」へのこだわりも、若者世代の支持を集めた要因の一つとも言えるでしょうか。</p>

<p>【金】韓国の本には、装幀やデザインに「韓国っぽさ」とでも言うべき特徴があるのは事実です。</p>

<p>そのため、韓国の本を日本で翻訳出版する際には、装幀などを極力そのままにするケースが少なくありません。日本の若い読者が、装幀から「韓国のにおい」を感覚的に嗅ぎ分け、それに惹かれて本を購入するケースが増えているからです。</p>

<p>――日本の若者は、「韓国の本」を感覚的に判別できているわけですね。</p>

<p>【金】SNSをとおして、韓国の情報に常日ごろから触れているからでしょう。韓国のアイドルやタレントのＸ（旧ツイッター）やインスタグラムをフォローしていれば、「韓国で話題になっているもの」は自然と目に入ります。要するに、日本で翻訳出版される前に韓国の書籍の装幀を目にして、「可愛らしい本だな」などと気になる機会があるわけです。また、音楽やファッションなどほかの文化に触れることで、無意識に「韓国らしいもの」を感じ取っているのでしょう。</p>

<p>――日本で「韓国の本」を手に取る層が、いまと昔とで大きく変わったとも言えるでしょうか。</p>

<p>【金】重要なご指摘です。以前の日本では、本が好きな「インテリ層」が韓国の本を買い求めていました。</p>

<p>近年は、本をあまり読まない層も「韓国の本（翻訳書）」を買っていく光景をよく目にします。そのほとんどが10代や20代で、Ｋ-ＰＯＰや韓国ファッション、韓流ドラマが好きな人たちです。</p>

<p>つまりは、彼ら・彼女らは、自分が好きな韓国のタレントが着ている服や読んだ小説やエッセイ、さらには生活している文化を知るために、韓国の本を手に取っているのです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book_2.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 18 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[金承福（株式会社クオン代表取締役）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ「学歴」は日本企業で重視されるのか？ 新卒一括採用がもたらす「頑張れる人」の指標  勅使川原真衣（組織開発専門家）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12416</link>
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			<description><![CDATA[学歴はなぜ「ありがたがられる」のか？組織開発専門家の勅使川原真衣が、日本特有の雇用システムに触れ、その背景を解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="学歴社会" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_bizkaiwa.jpg" width="1200" /></p>

<p>日本企業が学歴を重視する理由の根本には、メンバーシップ型と呼ばれる雇用システムやそれに適した新卒一括採用などの日本特有の労務管理の存在があると指摘する、組織開発専門家の勅使川原真衣氏。2025年5月29日に開催される、教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏とのトークイベント「なぜ親は、子どもに「優秀」になってほしいのか？」にも出演する勅使川原氏の著書『学歴社会は誰のため』から、その根深い構造に触れた一節を紹介する。</p>

<p>※本稿は、勅使川原真衣著『学歴社会は誰のため』（PHP新書）から一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>新卒一括採用が定着した背景</h2>

<p>なぜ新卒一括採用が必要とされ、またこれほどまでに定着することとなったのでしょうか。駆け足でおさらいしておきましょう。</p>

<p>戦後の経済成長期に、大量の人員（労働力）が必要となりましたが、長期雇用かつ年功序列の人材マネジメントシステムにおいては、その年々で定年を迎えて一気に退職する分を、ガサッと採用したくなるものです。安定的かつ定期的な、次世代要員の補充のために。そこで目をつけたのが、大学を卒業するタイミングで一括して新しい労働力を確保する新卒採用です。</p>

<p>学校卒業の時期に合わせて一斉に採用活動を行なう合理性は、たとえば次の点です。</p>

<p>同時期に、同じような年齢の若者を入社させることは、人材育成、マネジメントコストとしても秀逸です。個々人の仕事の成果を把握して、到達度を測定、評価し&hellip;&hellip;なんてやらずに、年功序列の賃金体系であれば、同時期入社者は自動的にほぼ同じような昇進カーブを描くことを前提とすればいいのですから。</p>

<p>なおかつ、育成も、新卒者を丸ごと社内で一から教育していくスタイルが確立され、効率もよければ、企業は自社の文化に合った人材を長期間にわたって育成できるという利点もあります。これにより、安定した雇用と組織文化の維持にもつながります。</p>

<p>毎年、日本の卒業時期から逆算して、ほぼ決まったサイクルで就職活動をすることにすれば、計画性という意味では企業側も個人側（学生側）も備えやすい。スムーズな教育から労働への移行を可能にしたわけです。ちなみに、日本経済団体連合会（経団連）が会員1480社を対象にした2021年の調査によると、この新卒一括採用の実施割合は91％となっています。ほぼみんな!!</p>

<p>これはやっぱり「よくできた」仕組みです（いいとは言っていません）。メンバーシップ型雇用、新卒一括採用、終身雇用を前提とした年功序列型賃金などは、職務内容以外は、就職のタイミングも採用ターゲットも、辞める時期までがちがちに決めたものです。</p>

<p>これは逆に、雇用の流動性を阻害することもできるのです。いつでも誰でも会社を飛び出せるはずもないシステムですから。一社でよしなに、つつがなく、臨機応変にそのときどきに目の前にあることを「一生懸命」「頑張れば」いい。仕事とはそういうものである─という労働観ができたことは必然なのです。</p>

<p>仕事の「出来」ではなくて、頑張るかどうか</p>

<p>この労働観であれば、職務を特定することは不要、不可能に近いでしょう。かつ、この労働観であれば、入社前に個人に対して把握しておきたいのは、</p>

<p>「一生懸命」やる奴なのか？「頑張れる」のか？</p>

<p>くらいです。シナプスがつながりますね？学歴という過去の実績と努力の指標は、その意味では適格な代理指標であるわけです。態度・姿勢が「仕事の評価」にすり替わる土俵が、暗黙のうちに整っていると言っても過言ではないでしょう。労働法研究の第一人者である濱口桂一郎氏はこう言います。</p>

<p>「学校教育は職業キャリアに大きな影響を与えています。ただし影響を与えているのは、教育内容ではなく学校の偏差値です。その学校で何をどれだけ学んだかではなく、その学校に入る段階の学業成績が重要なのです。就職の際に企業が若者に求めるのは、その企業で使える技能を学校で身につけてきたかどうかではなく、その企業で一から厳しく訓練するのに耐えられる素材かどうか（官能性）なのです。これを私は『教育と職業の密接な無<br />
関係』と呼んでいます」（濱口桂一郎『ジョブ型雇用とは何か　正社員体制の矛盾と転機』（岩波新書、2021年））</p>

<p>少し余談ですが、このことはアメリカから「成果主義」なるものが輸入された際の抵抗、その後の廃れ方を見れば、察しがつくものです。成果主義は日本の人材マネジメントにおいて失策として語られますが、成果主義自体が日本になじまないのではありません。</p>

<p>敗因は、これまでメンバーシップ型雇用でろくに「成果」なんて定義してこなかったものを急に、「成果主義」≒「目標管理」という形などで、とってつけたような数的目標管理を押し付けっぱなしにしたことです。</p>

<p>職務要件もなければ、求められる成果も明示されぬまま、メンバーシップ型雇用でごっそり採用される。配属や転勤の「ガチャ」を前提として、あちこち飛ばされながらも、会社に面倒見てもらってるし、と、まじめに頑張ってる感が評価されてきた私たち。</p>

<p>それを急に、Performance-based のパフォーマンスが「数的に評価可能な実績」くらいの意味に矮小化されては&hellip;&hellip;。おあつらえ向きの振り返りと講評を垂れ合う&hellip;&hellip;という評価の伝統芸能が誕生するのも無理はありません。</p>

<p>とってつけた「成果」主義によって、ただでさえ職務が曖昧なのに、「成果」も曖昧なくせに、妙に数字で言い切って管理するような使い物にならない代物が出回った。これが、成果主義を巡る私の見方です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>企業が知りたいのは、「頑張れる」奴なのか？</h2>

<p>さて、本題に戻ります。</p>

<p>ここまでをまとめると、さまざまな戦後日本の経済的、社会的背景から、企業は安定的かつ柔軟な配置・処遇を任命権をもつ形でやりくりしてきました。企業にとっての安定的な人材の充足や、柔軟な人材管理は、個人にとっての専門性の追求とは相反するものだったということです。</p>

<p>仕事は本来、職務の内容とその遂行に求められる技能が明示されていそうなものですが、前述の前提では、むしろ仕事の内容を不明瞭にし、ブラックボックス化させておくことの利便性が勝ったわけです。「この仕事には〇〇の知識とスキルが必要ですが、あなたはもっていますか？スキルチェックをしましょう」ではなく、ざっくりと、この先何があるかは神のみぞ知るなかで、</p>

<p>「一生懸命」やる奴なのか？「頑張れる」奴なのか？</p>

<p>こそが、企業が知りたい情報になり下がったのはこうした流れを汲むものでした。ただ、頑張れる人かを知るために、企業はへたにリソースはかけられないとなると&hellip;&hellip;一生懸命働けるか否かを知ってから、給与という形での配分を決めたい。それがまさしく配分原理としての能力主義なわけです。能力を知って、採用や、配置、登用、処遇といったことに至るまで、人の「評価」に関するもっともらしい情報、理屈にしたいのです。</p>

<p>とはいえ、目つきを見ればその「人となり」を理解できるよーと言う人が仮にいるかもしれませんが、それでは選考者（評価者）次第の主観的な見方になってしまいます。主観性では昨今の科学至上主義においては、周りを納得させる理屈たりえません。立ち居振る舞いも同様です。</p>

<p>面接でいろいろな角度から質問したり、テストのようなもの（アセスメントと呼ばれる）を実施したりして「仕事ができる人なのか」を知るのも十分考えられるのですが、いかんせん、リソースを食う。インターンシップのように１週間、２週間と働きぶりを観察・評価するのもいいけど、これはもっとリソースを食う。</p>

<p>&hellip;&hellip;となると、学歴（学校歴を含む）─やっぱりいいじゃないですか。</p>

<p>これまでの実績と努力できそうな度合いが、偏差値別の序列に従ってなんとなく推し測ることができるんですから。こちらが質問を工夫して、面接を実施したり、テストを公平な形で実施したりする手間なく、もう過去の実績が物語ってくれるのだとしたら。学歴という情報はこうして一定の有効性があるものとされ続けてきたのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 16 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[勅使川原真衣（組織開発専門家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「いつから娯楽のホスト遊びが義務に...」ホス狂いとなる女性客の4つの分類  佐々木チワワ（ライター）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12267</link>
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			<description><![CDATA[ホストクラブに多額の金銭を投じる「ホス狂い」その実態とは? 佐々木チワワ氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="佐々木チワワ" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_kabukicho.jpg" width="1200" /></p>

<p>ホストクラブに頻繁に通い、多額の金銭を投じる「ホス狂い」といわれる女性たちの実態とは？高校生の頃から歌舞伎町に足を運び、トー横キッズやホストなどの現場を取材してきたライターの佐々木チワワ氏は、著書『歌舞伎町に沼る若者たち』にて、歌舞伎町やホストクラブに通う女性のリアルを社会学的に分析し、その諸問題の解決策までを提言している。</p>

<p>本稿では、同書より「ホス狂い」の定義、そしてホストクラブに通う女性客の層を分析した内容をお届けする。</p>

<p>※本稿は、佐々木チワワ著『歌舞伎町に沼る若者たち』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ホス狂い」を再定義する</h2>

<p>ホストクラブに投じる金額だけを見ると、本人の収入に比して「過剰に金銭を投じている」のか判断がつきづらい。あらためて「ホス狂い」とはどういう人のことを言うのか、筆者なりに再定義するならば以下のとおりだ。</p>

<p>ホストに対する金銭的・生活的・精神的依存が、本人の生活と自己認識の中心に位置し、自己犠牲を伴ってでもホストクラブに通う状態。</p>

<p>【金銭面】<br />
収入に不釣り合いな高額出費がある場合。家賃や生活費など支払わなければならないものよりもホストクラブ代を優先してしまう状態。さらに進行すると、売掛や立替などで数十万〜数百万円の借金を重ねることになる。</p>

<p>【生活習慣】<br />
日常生活や友人関係・仕事関係よりもホストを優先している状態。さらに進行すると、友人関係についてもホストに干渉され、交友関係が希薄になる。</p>

<p>【自己犠牲的行動】<br />
ホストクラブで使う金銭を稼ぐために働き方を変える場合。脱サラして事業を起こすケースもあるが、手っ取り早く金を稼げる風俗、パパ活といったいわゆる「夜職」に従事するケースが多い。さらに進行すると、担当ホストのためにどこまで過酷な労働に身を投じられるかで、献身性を測る傾向がある。</p>

<p>【精神的依存】<br />
ホストとの関係性や承認がないと精神的に満たされない状態。さらに進行すると、客という立場であるにもかかわらず、ホストに嫌われないため、捨てられないために、下手に出てすべてを捧げようとする傾向がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>客のステージ別の分類</h2>

<p><img alt="ホストクラブに通う女性客、4つの層" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250425sasakichiwawa01.jpg" width="1200" /></p>

<p>次に、先に説明した金銭的・生活的・精神的依存の度合いに応じて、女性客を4つに分類してみよう。</p>

<p>①ライト層（遊び感覚でカジュアルエンジョイ・ファンおよび推し活の延長）<br />
②エスカレーション層（サポーター・専属顧客）<br />
③コア層（太客・ガチ恋・担当の一番になりたい・愛と義務の狭間）<br />
④オブセッサー層（妄信的信者・戦友・御恩と奉公・依存と執着）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>①ライト層：「自分の仕事と人生が優先」</p>

<p>ホストクラブを「エンタメ」として割り切り、使える金額によって「自分軸」で通う頻度を調整している層。ホストクラブでの経験を「非日常」の娯楽として、日常のストレス解消や自分へのご褒美、友人付き合いの一貫として行なう。「SNSで有名なホストに一目会ってみたい」というミーハーな客もこれに属する。</p>

<p>ホストへの依存度は低めであり、連絡が来なくても気にならない。店に行って楽しむことやSNSでのコンテンツで満足しているため、ホストにもそれ以上の関係を求めていないことが多い。</p>

<p>「YouTubeを見てから、ホストクラブに行ってみたいとはずっと思っていて。ホストに通い慣れてる知り合いに連れてってもらいました。知り合いにいろいろ教えてもらいながら、シャンパンコールとかがあるキラキラした店内を初めて見て......。LINEとか聞かれても今後行く気がなかったので基本断ってたんですけど、一人だけちょっとカッコいいなって思う子がいたので交換しました。</p>

<p>その後お店の外でご飯に誘われて。営業だよな、お金使わないとな......とは思ってたので、5万円下ろして財布に入れて。同伴でお店に行って、数万円使いました。これがホストクラブか、なるほど。と思ったんですけど、やっぱただ飲むだけで5万近いのは高くて毎回行けるほどじゃない。自分の生活を犠牲にしてまでホストのナンバーとかを応援したいわけじゃない。</p>

<p>キラキラした世界観は好きだし、好きなアイドルに似てる男の子と近い距離で飲むのは楽しい。お金はあんまり使えないから、連絡は無理しなくて大丈夫だよって伝えてます。お金使えなくて申し訳ないって思いたくないんで......。</p>

<p>月に1度、5万円で会いにいくのを楽しみに、普段は配信とかSNSを見て過ごしてます。ボーナスが入ったら、人生で初めてのシャンパンコールはしてみたいなぁ。でも自分の仕事と人生が大事だし、ホストクラブはいつか終わりが来るから、人生を犠牲にするほどじゃないですね」（27歳・派遣社員）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>②エスカレーション層：「しばらくハマらせてくれればいい」</p>

<p>特定のホスト（複数人いる場合もある）を応援し、ホストの時間や対応を買うために金銭を投じる。金額は徐々に増えていく傾向があり、収入の一部をホストに使うことで自分の投じる金銭と自分自身の応援行為が価値のあるものだと感じる。ホストと特別な関係を築いたり、投じた金銭分のリターンを欲したりする。</p>

<p>ただ、コア層以上に比べると主体はあくまで自分にあり、「指名ホスト都合」よりも「自分都合」で金銭を投じる。ホストクラブへの依存度は中程度。ホストクラブが生活の重要な部分になり、ホストのための消費を中心に生活リズムを調整するようになる。</p>

<p>「ホストにハマって、ノリで売掛（ツケ払い）して、風俗始めたんですよ。そしたら面白いくらい稼げちゃって。金銭感覚バグりましたね。1日で10万円とか稼げるんで。ホストクラブの初回に行きまくって、枕とかデートとかいろいろ時間使ってくれたらお金使って、みたいな遊び方してて。</p>

<p>大事なのは、担当が私に何をしてくれるか、どこまでできるか。お金使った子が偉いんだから、お金使ってる私を優先しろっていう戦闘民族でしたね笑。細客の子がシャンパン入れた日にわざと高額のシャンパン入れて被らせて泣かせたり。担当からしたら仕事増えるんでめんどくさかったと思います。</p>

<p>エースになりたいとかはとくになかったけど、使った金額分仕事して欲しかったですね。二人のホストを指名して、一人といい感じだったけど喧嘩したらもう一人のほうに高額使うとか、駆け引きも含めて楽しんでました。</p>

<p>本営で付き合うとかあったけど、所詮ホストで私以外の女とも会ってヤッてるやつが、他の店に行くなとか言う権利ないと思ってたんで。</p>

<p>最初に風俗始めるきっかけになったホストは、とにかく時間使って特別扱いしてくれるホストでした。そっからやっぱ尽くしてくれないと無理というか。お金稼げるってわかるとみんながっついてくれる感じが楽しくて、けっこう私は遊び散らかしてて、担当狂（一人の担当ホストにのみ入れ込むこと）じゃなくてザ・ホス狂いって感じかなぁ。</p>

<p>金の切れ目が縁の切れ目ってわかってるからこそ、しばらくハマらせてくれたらそれでいいよって感じです」（24歳・風俗嬢）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>③コア層：「娯楽のホスト遊びがいつしか義務に」</p>

<p>生活や人間関係の中心がホストとの関係になり、自分の生活費やその他出費を犠牲にしてまでホストに投資する。通常の生活を送るうえでの収入以上の金額をホストクラブに投じるべく、風俗やパパ活、借金などで資金を調達するケースが増える。</p>

<p>ホストにとって重要な客であることに誇りをもち、ホストとの擬似的な恋愛関係や自己承認欲求の充足に依存している。ホストからの承認が精神的支柱であり生活の中心であるため、ホストクラブに通う時間が優先でプライベートを犠牲にすることが多い。</p>

<p>ホストに嫌われたくない、担当の一番になりたい・なり続けなくてはならないという恋愛感情と義務感のバランスが崩壊している場合が多い。金銭を投じているからいまの関係が維持できているという自覚があるからこそ、一度引き上げた金額をなかなか下げられず、「○○○万円使えている自分に意味と価値がある」と、自らを金銭の枠に当てはめてプライドを保っている。</p>

<p>「いま余裕で生活費滞納してますね。いまの担当は優しいんで『無理しなくていいんだよ、頑張ってるよ』って言われるんですけど。じゃあ先月150万円使ってた私が今月20万円しかもってこなかったら、いままでどおりの連絡頻度じゃなくなるんだろな、使えない子って見なされるんだろなって思ったら、生活費よりも担当に使うお金を優先してました。</p>

<p>ホストが『使うお金の金額がすべてではないよ』って言うのは営業トークなんですよ。だからむしろ頑張りを褒めてほしいです。あなたのためにこれだけ無理できるよ、頑張ったんだよってとこを認めてほしい。</p>

<p>病んでると、逆にこれっぽちの金額で好きとか言ってごめん、ソープとかAVとかやって全部を犠牲にしてるわけじゃない私が一番になりたいとかガチ恋してる資格ないよな、とか思います。</p>

<p>いまの担当は、俺のために働けとか限界までやれとか、そこまで言ってくれないから、私はデリヘルでとどまってるのかも。自己肯定感の低さを金で埋めて、勝手にノルマつくって苦しくなってます。自分が風俗やってるからこそ、クソ客になりたくない。いい子でいたくて。結果都合いい子やってます。</p>

<p>幸せなときももちろんたくさんあるけど、何やってんだろうなって鬱になるときはあります。いつから娯楽のホスト遊びが義務になったんですかね」（23歳・風俗嬢〈大学休学中〉）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>④オブセッサー層：「時間とお金を担当にすべて捧げたい」</p>

<p>特定のホストに対して盲進的な忠誠を示し、他のホストクラブや店舗には一切行かず、すべての資金と時間を捧げる。俗に言う「担当狂い」。担当ホストの力になること、担当ホストに喜んでもらうこと自体が生活および人生の目的化しており、生活のすべてがホストのために回っている状態。</p>

<p>ホストに対する感情は恋愛を超えた執着や崇拝に近い従属と自己満足。ホストに「選ばれること」や「特別視されること」に強い価値を見出しており、担当と同じ目標を達成することに意義を感じる。</p>

<p>ホストへの依存度は極めて高い。ホストからの評価や承認が絶対的な基準であり、ホストクラブに通うことが人生の中心に位置する。</p>

<p>「この人のホスト人生に、私の時間全部捧げようって。担当が年間2億円っていう売上の目標があるなら、私はそれが少しでも達成できるように努力するだけ。自分のためじゃここまでできなかった。</p>

<p>いままでのホストは、適当に風俗出勤して稼いだお金を使ってちやほやしてもらえればそれで良かったんですけど。初めてこの人の目標を達成したい、壇上に上げたい、圧倒的ナンバーワンでいてほしいなって思って。その横にいる圧倒的ナンバーワンの女の子になりたかったんです。</p>

<p>お店でお金を使うタイミングも、全部担当任せです。私は最低ノルマの金額を稼ぎ続けるだけ。遊びじゃないホスト通いの楽しさとか、担当の凄さとかカッコ良さとかは全部私だけが知ってればいいです。ホストしてもらってお店で楽しんでる被りは、そっちの世界で楽しくやってくださいって感じ。</p>

<p>一回、自分に負けて働くのをサボってしまったときがすごい苦しくて。担当の横にいる資格ないなって。だから私は働き続けて、理想の自分で担当の側にいたいんですよね。担当のために風俗での出勤増やして、自己投資してパパ活でも稼げるようになって、海外出稼ぎも行けるようになって。すごい、私こんなになんでもできたんじゃん! 無敵じゃん!って。</p>

<p>この人のためにここまで捧げられる人なんて他にいないはずだから、高額使う被りができると正直焦るけど、それ以上に稼げばいいだけなんで。担当のために身体も人生もかけられないやつに負けないですよ。</p>

<p>伝票で愛を伝え続けて、お店でキラキラしてる担当も、家ですっぴんでゴロゴロしてる担当も全部受け止めて愛してお金使えるの私だけなんで。どれだけ歪んでても、理解されなくても。私の人生はもともと何もなかったんだから、色をつけてくれた担当に全部捧げてお礼したいんです」（23歳・風俗嬢）</p>

<p>いかがだろうか。各階層の女性たちの声を聞くと、それぞれ担当ホストとの距離感と使える金額によって、どこまで「ホストクラブでの評価基準」に己の価値が準じているかがよくわかる。彼女たちはホストクラブで疑似恋愛関係だけではなく、日々の仕事や担当への貢献といった頑張りを「承認」される対価として、金銭を払っていると言えるだろう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 16 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[佐々木チワワ（ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>明治期の権力の縮図　大磯の邸宅に見る邸園文化『近代日本の別荘建築』【書評】  奈良岡聰智（京都大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12154</link>
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			<description><![CDATA[京都大学教授の奈良岡聰智氏が、『近代日本の別荘建築』（創元社 ）について紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book.jpg" width="1200" /></p>

<p>明治期、多くの政財界人、旧藩主が別荘を構えた大磯。その別荘地としての形成、別荘建築の特徴、別荘を設けた人物の来歴や大磯での暮らしについて、新聞、日記、伝記など根拠資料も提示しながら詳らかにした書籍『近代日本の別荘建築』の魅力を京都大学教授の奈良岡聰智氏が紹介する。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年6月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本屈指の別荘地が誕生した背景</h2>

<p><img alt="" height="1051" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/9784422501321.jpg" width="1200" /></p>

<p>現在神奈川県大磯町で「明治記念大磯邸園」の整備事業が進んでいる。同邸園のある場所は、明治期に伊藤博文、大隈重信、陸奥宗光、西園寺公望という4人の政治家が邸宅を構えた地である。</p>

<p>所有者の変転や関東大震災の影響もあり、明治期の姿がそのまま残っているわけではないが、近代の別荘建築と広壮な庭園が集中的に残っている稀有な場所であり、その歴史的価値に鑑み、「明治150年」記念施策の一環として保存・活用が図られることになった。</p>

<p>現在、日本でもっとも有名な別荘地と言えば軽井沢であろうが、明治期に著名人の別荘がもっとも集まっていた場所は大磯であった。</p>

<p>大磯は、東海道の江戸から数えて八番目の宿場町として栄えたが、参勤交代の廃止により明治期に入ると衰退した。しかし、明治18年の日本初とも言われる海水浴場の開設、明治20年の大磯駅の開設が契機となって海浜別荘地として発展し、多くの有力者が別荘を構えるようになった。</p>

<p>東京の南西約60㎞という絶妙のロケーション、夏は涼しく冬は温暖な気候、富士山と江ノ島を望む景観、海水浴場や療養のための宿泊施設の整備などが、別荘地として発展した理由として挙げられる。</p>

<p>大磯に別荘を構えた貴顕はじつに多く、前述した伊藤、大隈、西園寺以外にも、5人の首相経験者（山県有朋、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂）が大磯に居住経験をもっていた。</p>

<p>三井、三菱、古河などの大企業経営者、鍋島家、尾張徳川家、山内家をはじめとする旧藩主家なども別荘を所有しており、大磯は日本の指導者層・富裕層の縮図であったとさえ言える。</p>

<p>残念ながらこれらの邸宅には現存しないものが多く、いまでは大磯の隆盛を想像するのは容易ではない。</p>

<p>著者は、長年こうした大磯の邸宅について調査を重ね、貴重な建築の保存運動にも関わってきた建築学者で、本書はこれまでの研究を集大成したものである。</p>

<p>本書の登場によって、大磯の別荘地としての発展の歴史や主な別荘建築の特徴が通覧できるようになった。300点以上の写真や図版も、理解を助けてくれる。</p>

<p>本書に続いて、今後湘南をはじめとする他地域の別荘建築の研究が進むことも期待される。</p>

<p>大磯の別荘には、和風建築が多かった。なかには和洋館を併置したケースもあるし、大正期からは洋風建築も増えていったが、明治期の別荘はその多くが和風であった。</p>

<p>著者は、田舎家への嗜好や故郷への憧憬があったと思われること、他方で明治期においても邸宅の内部では椅子座が用いられていた可能性が高いことを指摘し、別荘では居心地の良さが追求されていたという推論を示している。</p>

<p>庭園が重要な役割を果たしているケースが多かったのも、大磯の別荘の特徴であった。大磯の別荘には、鑑賞用、実用的な農園などさまざまな庭園があり、邸宅と庭園が一体となって暮らしの場を形成していたと、著者は指摘する。</p>

<p>両者が一体となった営みが「邸園文化」であり、大磯こそ、その文化が見事に開花した場所だったというのが、著者の見立てである。</p>

<p>こうした文化の終焉についての記述も貴重である。</p>

<p>戦後、財閥解体、財産税の課税などによって富裕層は解体され、大磯の居住者は大きく変化した。そうしたなかで、大規模な別荘敷地は住宅地開発の格好のターゲットとなり、名だたる別荘の多くが分譲販売された。</p>

<p>敷地面積が細分化され、戸建て住宅地やマンションになった事例は枚挙にいとまがなく、平成元年頃に27軒残っていた戦前以来の別荘建築は、現在では13軒を数えるのみだという。</p>

<p>著者が関わった三井守之助別荘も保存は叶わず、いまや大磯はわずかな例外を除いて、どこにでもある住宅地になりつつある。</p>

<p>本書は、近代日本の別荘建築やそれに付随して発展したさまざまな文化をいかに保存・継承していくかという重い課題も突きつけている。</p>

<p>その意味で、すでに保存・公開されている旧吉田茂邸や整備の途上にある「明治記念大磯邸園」は、きわめて貴重である。後者はいまのところ一部の庭園のみが公開されているが、数年以内には全面開園すると聞く。</p>

<p>多くの人が大磯の「邸園文化」に触れられるようになる日が待ち遠しい。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 15 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈良岡聰智（京都大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「ブラック霞が関」の実態を夜の人流データで分析する  片山宗親（早稲田大学政治経済学術院准教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12305</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012305</guid>
			<description><![CDATA[「国会議員の質問」と「霞が関における残業」の関係性を夜の人流データを基に早稲田大学准教授の片山宗親さんに解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_kasumigasekiYORU_S.jpg" width="1200" /></p>

<p>霞が関を取り巻く労働環境の変化は、「議員の質問」に起因する...。「国会議員の質問」と「霞が関における残業」の関係性を夜の人流データを基に早稲田大学准教授の片山宗親氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年5月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>把握しにくい官僚たちの「長時間労働」</h2>

<p>「世の中に無意味な質問などはない」と思っていた。</p>

<p>日本の教育や研究の場では、学生から質問が出ないことも多く、心理的抵抗を下げるためにも「くだらない質問などない」などと言うことも多い。ただ、「国会議員の質問」と「霞が関における残業」の関係性を研究し始めてから、それが間違いかもしれないと感じるようになった。</p>

<p>本稿では、両者の関係性を多角的に検証する。</p>

<p>筆者の専門はマクロ経済学である。その分析手法を応用し、霞が関の残業に焦点をあてた研究を近年行なっている。そのような経緯から、年のはじめに、「霞が関『夜の人流』データに見る官僚の長時間労働」と題した記事を『週刊東洋経済』（2024年1月6日発売号）に寄稿する機会を得た（執筆当時）。</p>

<p>これは、米ゲティスバーグ・カレッジの荒井夏來助教授、早稲田大学の濵野正樹教授と村上勇気氏、近畿大学の山田克宣教授と筆者で共同執筆している学術論文の内容を、できるだけわかりやすいかたちで説明したものだ。本記事は、朝日新聞の「論壇時評」や日経新聞の「経済論壇から」で取り上げられるなどの反響があった。</p>

<p>サービス残業などが典型であるが、残業は一般的にはデータとして正確に記録されにくく、外部から把握しにくい。この問題を克服するために、われわれは人流データ（携帯電話の電源さえ入っていれば、特定のエリアに存在している人数を把握できる）を活用して、国家公務員の霞が関における残業問題の一端に光を当てた。この点が評価されたのだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「質問主意書」と官僚の残業の関連性</h2>

<p>われわれは、官庁が集中する「霞が関エリア」の人流データを活用して、国会議員が内閣に提出する「質問主意書」が国家公務員の残業にどのような影響を与えるかを、分析・研究した。国会議員は国会開会中に、議長を経由して内閣に対して文書で質問することができ、この文書を「質問主意書」と言う。</p>

<p>国会議員の質問と言えば、本会議や委員会の場で口頭で行なうものを思い浮かべる人もいるが、これは「質疑」と呼ばれ、質問主意書とは異なる。法律の定めにより、内閣は質問主意書を受け取ってから1週間以内に、質問の内容に回答しなければならない。</p>

<p>「1週間」と聞くと時間的な余裕があると思われるかもしれないが、実際はきわめてタイトなスケジュールである。</p>

<p>質問主意書に対する答え（答弁）を準備するのは霞が関の官僚である。質問への答えを単純に作成すればすむ話ではなく、関連省庁との折衝や省内の決裁プロセスを経なければならない。また、法律との整合性や過去の答弁との一貫性をチェックするために、最終的に内閣法制局の審査を受けなければならない。</p>

<p>また、その答弁は内閣の公式見解となることから、火曜日と金曜日に開催される閣議で判断を仰ぐ必要がある。そのためには、閣議が開かれる2日前の正午までにはすべての作業が完了していなければならない。</p>

<p>そのような制度的な理由から、質問主意書への対応が官僚の残業につながるとはよく言われることだ。また、答弁作成が予期せぬもので、きわめて大変であることは、われわれの耳にも漏れ伝わってくる。</p>

<p>たとえば、厚生労働省の元官僚である千正康裕氏は、著書『ブラック霞が関』（新潮新書）で、「若手が最も業務負担を感じているのが、質問主意書だ」と述べている。</p>

<p>実際、本書のなかでは、答弁書の作成を17時に開始し、省庁内での審査・修正作業を経て、27時過ぎに最終審査のために内閣法制局へ答弁書を提出し、帰宅する、といったワークフローが紹介されている。</p>

<p>また、人流データを活用したわれわれの分析結果は、霞が関の官僚の残業が、質問主意書が提出された1週間後の「締切」に向けて増加することを示している。</p>

<p>さらには、締切を過ぎて質問主意書が提出されてからも官僚の残業は統計的に有意に、かつ継続的に増加する。これはきわめて重要な分析結果である。</p>

<p>質問主意書の答弁作成当事者のみならず、周囲の関係者を巻き込んで雪だるま式に残業増加の連鎖が生まれていることを示唆しているからだ。このことは、質問主意書への対応が負の波及効果を生み出しているということを意味しており、「質問主意書対応」のコストとして認識されるべきだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>官僚の残業に直結する「質疑」</h2>

<p>しかしながら、霞が関の残業の根本的な原因を考えてみると、質問主意書への対応は、じつは残業の主たる要因ではない。時折メディアでも話題になるとおり、予算委員会をはじめとする、国会のさまざまな委員会において行なわれる「質疑」への対応が、霞が関における残業の主な要因となっている。</p>

<p>国会議員が委員会などで質疑をする際、有意義な議論を行なうために、質問する内容を事前に通知するのが慣例になっている。これが、｢質問通告」である。質問通告は質疑の2日前の正午までに行なう必要がある。</p>

<p>内閣人事局の調査によれば、近年状況は改善しつつあるものの、依然として、期日があまり守られていないのが現状だ（ただ、委員会の開催が前日に決まるなど、政治家の意思とは別に質問通告が遅れてしまうケースも存在する）。</p>

<p>質問通告を受けた省庁は、想定問答を作成する。通告された質問内容は、国会議員によって大きくばらつきがあると言われている。ピンポイントな質問内容がくる場合もあれば、内容が漠然としており、具体的にどのような質問なのか、想定問答が作成できるレベルまで落としこまなければいけないケースもあると聞く。</p>

<p>前日ぎりぎりの通告や、きわめて抽象的であいまいな通告内容（1行通告）などは、官僚の残業に直結する。たとえば、昨年（2023年）の臨時国会中（令和4年第210回）に一番遅かった答弁作成着手可能時刻は、委員会開催当日の午前1時だった。</p>

<p>「質問主意書」に関しては、その情報（誰が、いつ、どんな内容を提出したのか、どのような答弁がなされたのか）はすべて公開されており、一通の質問主意書が官僚たちの残業をどの時間帯で、どれくらい増やしたかという因果関係を定量分析できる。</p>

<p>しかしながら、質問通告に関連する情報は、委員会開催日と議事録から事後的に観察される質疑と答弁内容からしか把握できない。この背後でどれほどの想定問答が事前につくられたのか、質問通告のタイミングがどれほどタイトであったかが明らかにされていないため、分析対象としては取り上げることができなかった。</p>

<p>他方で、因果関係に踏み込めなければ意味がないかと言えばそうではない。データ上で何が起きているのか、という「記述的分析」にも十分意味があるだろう。</p>

<p>そこで筆者は、2014年から2021年までの人流データ（株式会社ドコモ・インサイト・マーケティングのモバイル空間統計）をもとに、霞が関エリアに滞在している人口が、予算委員会が開催される前にどのように変化するかを統計的に記述した。『週刊東洋経済』の記事のもとになった研究と類似の手法である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>予算委員会と官僚の残業</h2>

<p><img alt="予算委員会開催前日の霞が関エリア滞留人口の変化" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250502katayama1.jpg" width="1200" /></p>

<p><img alt="予算委員会前々日の霞が関エリア滞留人口の変化" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250502katayama2.jpg" width="1200" /></p>

<p>上の図１と図２の縦軸はそれぞれ、予算委員会前日、前々日の霞が関エリアにおける滞留人口の変化を示している。左側のパネルは衆議院予算委員会前日の、右側のパネルは参議院予算委員会前日の変化である。</p>

<p>時間帯にもよるが、2％から4％程度ほどそれぞれの時間帯で滞留人口が増えていることがわかる。とりわけ特徴的なのは、24時以降の時間帯でも統計的に有意に増えていることである。</p>

<p>特筆すべきは、衆議院予算委員会前日の残業よりも、参議院予算委員会前日のほうがより顕著に残業に影響を与えている点である。衆議院予算員会は参議院のそれよりも日程的に先行するため、前者のほうが残業に与える影響は大きいのではないかと予想していたが、ほかの要因があるのかもしれない。</p>

<p>通常、予算委員会での質疑時間は各政党の獲得議席に比例して配分される。そのため、与党の議席シェアが比較的少ない参議院では、野党議員の質問回数が多くなり、それに応じて、前日の「残業の増加程度」が衆議院予算委員会と比べると大きい可能性がある。</p>

<p>また、参議院予算委員会の質疑では、「片道方式」と呼ばれる方法で質疑時間をカウントしており、その制度的な差も参議院予算委員会前日の残業が増えている要因になっているのかもしれない。</p>

<p>衆議院では質問に対する回答時間も含めて質疑時間をカウントする「往復方式」が採用されているが、参議院では回答時間はカウントされない。このために必然的に質問数が多くなり、予算委員会開催前日の残業増につながっているのかもしれない。</p>

<p>さらに、前日の残業は、国会の「質疑」と統計的に有意な増加が観察されるものの、前々日にはそのような変化は観察されない（図２）。衆議院では早い時間帯で霞が関エリアの人口が減っており、参議院ではすべての時間帯で増えているように見えるが、これらは統計的に増減がゼロではないと言い切れない点に注意が必要である。</p>

<p>質問通告が前々日までに完了していたとしても、想定問答の作成が直前までずれ込むことは大いに考えられる。そのため、前日の残業増をすべて遅い質問通告のせいにできない点は、留意が必要である。</p>

<p>質問主意書提出の影響は、霞が関の官僚のみに影響を与えると考えられるが、予算委員会の日程そのものへの影響は、官僚以外の滞留人口にも影響を与えかねないために（たとえば、通常時よりも多い客待ちのタクシー運転手など）、残業への影響を多少過大に評価している可能性がある。</p>

<p>しかしながら、無視できない数の官僚が、予算委員会直前に早朝まで残業していることは事実である。</p>

<p>このような状況が問題視されるようになって、霞が関の働き方改革や、それに向けた現状把握は徐々に始まっているように見える。内閣人事局の国会対応業務に関するデータ集計によると、近年では委員会開催前々日の質問通告の割合が徐々に増えている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>政治家に求められる「質問の質」</h2>

<p>このような背景から、「官僚の労働環境」を変えるべく、現在さまざまな提案がなされている。霞が関で一番に望まれているのは、質問主意書回答などにおける、「時間的制約の緩和」だ。</p>

<p>しかしながら、時間的制約の緩和は、必ずしも残業を減らすための効果的な対策とは限らない。質問主意書対応に関連して、2018年から2019年にかけて運用の変更が行なわれ、時間的な制約が緩和された。これにより、答弁作成の当事者が楽になった可能性は否定できない。</p>

<p>しかしながら、運用変更前後を比較したわれわれの研究では、主意書提出から数日後に観察される残業の顕著な増加は、ピークのタイミングが後ろにずれるだけで、依然として観察される。</p>

<p>期日がタイトであれば、その制約の範囲内で答弁が作成されるが、時間的余裕が生まれれば、より細かい内容が期待される可能性がある。また、回答期限を延ばすことはタイムリーな答弁を減らしかねない。</p>

<p>現時点でも、正当な理由さえあれば、回答期限の延長は可能である。質問通告の事前提出の期日を前もって設定し、それを政治家が遵守することも必要だ。期日以前に提出できるならば、それにこしたことはない。</p>

<p>しかしながら、直近の議論や社会情勢を踏まえた質疑の必要性を考慮すると、時間的猶予を十分につくることが建設的な議論につながるとは考えにくい。</p>

<p>質問の質は、それを行なう「国会議員の質」である。一番重要なのは、国会議員が真に必要な質問を、適切なタイミングで行なうことである。</p>

<p>質問主意書の内容とそれに対する答弁は衆参のホームページ上で公開されている。霞が関の残業に関する研究を開始して以降、質問主意書の内容に詳しく注意を払うようになったが、質問主意書の提出パターンや議員の質問内容に呆れることがじつに多い。</p>

<p>どんなにくだらない内容でも、シンプルな主意書でも、答弁は閣議決定されなければならず、一定の調整プロセスを必要とする。</p>

<p>国会会期中であればいつでも質問主意書を提出することができるにもかかわらず、会期末に大量の質問主意書が一度に提出されるケースが散見される。実際、会期終了間際に1日で30通の主意書が提出されたケースもあった。</p>

<p>文字どおり解釈するならば、一晩で30個の質問を思い付き、文書化し、提出したということだ。常識的に考えれば、その可能性は低い。質問主意書の提出やその数は、政治家の評価として使われることがあるために、駆け込みで提出されるケースが生じているのだ。</p>

<p>質問通告に関しても、あいまいな「1行通告」は、カバーしなければいけない潜在的な質問数が膨大になるために、残業を増やす。実際には問われることのない潜在的な質問に対して、答弁案を作成する作業は不毛である。</p>

<p>実際の質疑の内容は公になるものの、質問通告の内容や提出のタイミングなどは公表されず、われわれが検証することもできないためにタチが悪い。具体的な質問を事前に提示することは、建設的な議論を行なうためには不可欠である。</p>

<p>有権者にも国会議員の質問を積極的に評価することが求められる。質問内容や明らかになった内容だけでなく、問いの立て方や聞き方に、政治家としての質が現れている。</p>

<p>政策論争も重要だが、どのような質問をしているかも政治家の資質を測るうえで重要である。不毛とも思える質問通告や質問主意書の提出の裏には、高度な政治戦略が隠されているのかもしれないが、霞が関の人的資本を不必要に毀損する戦略は、国民にとっても望ましいものではない。</p>

<p>とりわけ、志望者数の減少と転職者の増加に直面している霞が関では、きわめて重要な課題である。</p>

<p>これらの問題を、政治家の責任や省庁内部に特有な問題などと片付けてしまうのは容易である。人的資本は一朝一夕に改善されるものではなく、霞が関を取り巻く環境の悪化は、公的サービスのクオリティーの低下を通じて、われわれに中長期的な影響を与える。</p>

<p>国会議員は無意味な質問をすることを恥だと思うべきだし、われわれはそれを不毛であると言わなければならない。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_kasumigasekiYORU_S.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 12 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[片山宗親（早稲田大学政治経済学術院准教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>海保を軍事機関にするべきか？『知られざる海上保安庁―安全保障最前線―』【書評】  奈良岡聰智（京都大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12145</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012145</guid>
			<description><![CDATA[京都大学教授の奈良岡聰智氏が、『知られざる海上保安庁―安全保障最前線―』（ワニブックス ）について紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book.jpg" width="1200" /></p>

<p>尖閣諸島、竹島、北方領土問題を筆頭に様々な問題を抱える日本の周辺海域において、日々その最前線で対応している海上保安庁。&quot;誤解&quot;をもって語られることの多い、この組織の実態を詳細に説き明かした書籍『知られざる海上保安庁―安全保障最前線―』について、京都大学教授の奈良岡聰智氏が紹介する。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年5月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>知って欲しい海保の実態</h2>

<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/9784847073847.jpg" width="1200" /></p>

<p>今世紀に入って尖閣諸島問題が厳しさを増すなかで、警備の「最前線」を担当する海上保安庁（以下、海保）の存在がクローズアップされることが多くなってきた。</p>

<p>2010年の中国漁船衝突事件後に動画を投稿して退職した一色正春氏のように、海上保安官の生の声が一般に知られる機会も増えた。しかし、そもそも海保がいかなる組織で、どのような活動を行なっているのかを紹介した本は多くない。</p>

<p>本書は、元海保長官である著者がこうした基本的な問題を概観し、海保の現状をわかりやすく解説している。</p>

<p>本書のなかで著者は、海保はあくまで非軍事組織であり、そうであるからこそ強みを発揮し、実績を残してきたと強調している。著者がこのことを強調するのは、近年以下のような意見が出されることが多いからだという。</p>

<p>「外国のコーストガード（沿岸警備隊）は一般に軍事組織かそれに準ずる組織だ。しかし、日本の海上保安庁は非軍事の警察機関（法執行機関）だ。これは世界標準から見るとガラパゴス化している。海上保安庁を軍事機関（あるいは準軍事機関）にしなければ、中国の脅威にも対抗できないし、有事の際に自衛隊や米軍との連携もうまくいかない」</p>

<p>こうした意見は一見もっともらしく、安全保障に関心が高い人ほど賛同しやすい傾向があるようだ。</p>

<p>しかし著者は、これらには重大な誤解が含まれていると指摘する。著者が強調するのは、法執行機関たる海保には「紛争回避に資する特性（緩衝機能）」があるということである。</p>

<p>海保は、軍隊とは異なり「警察比例の原則」に従って武器を使用するため、保有する武器の火力は限定的である。しかし、そうであるからこそ、事態をエスカレートさせることなく問題に対処することが可能となる。</p>

<p>中国のコーストガードである中国海警局が、軍事組織に属していることはよく知られている。</p>

<p>このほかインドなどにおいても軍事組織であるし、アメリカのように有事の際には軍隊の活動を行なうコーストガードも存在するが、じつは世界的には、領海警備は日本の海保のように非軍事組織が担うほうが主流である。</p>

<p>また、軍事組織に属するとはいっても、中国海警局の船も装備は軍艦とは異なるし、アメリカでも有事の際にコーストガードが海軍とまったく同じことをすることはあり得ないという。</p>

<p>要するに、日本の海保はガラパゴスなどではなく、むしろ、軍事と警察を明確に区別したコーストガードの先駆的モデルを各国に示し、海上保安分野で世界をリードする存在となっているというのが、著者の主張である。</p>

<p>海保は軍事組織ではないため、自衛隊との連携も上手くいっていないというイメージが一部ではもたれているが、著者はこれも間違った見方だと強調する。</p>

<p>たしかに海保と海上自衛隊では、運用している船のエンジン、燃料、武器弾薬が異なり、燃料タンクの共用なども行なわれていない。</p>

<p>しかし、それは双方の任務の違いから装備が異なっているだけの話であり、そもそもそうした面での連携は必要ない。逆に近年は、海保と自衛隊は相互の役割分担を明確にしつつ、協力できるところでは密な連携が行なわれているという。</p>

<p>2022年に政府が決定したいわゆる安保三文書では、防衛省・自衛隊と海保の連携の必要性が謳われているが、それは今後の課題を提示しているというよりも、すでに進んでいる実態を反映しているようだ。</p>

<p>このほか本書では、近年の海保のさまざまな活動が、著者の実体験をもとに具体的に説明されている。</p>

<p>近年日本は「自由で開かれたインド太平洋」を外交目標として掲げているが、海保はその実現のために、他国のコーストガードの能力向上支援（キャパシティー・ビルディング）に積極的に取り組んできた。</p>

<p>北太平洋海上保安フォーラム、アジア海上保安機関長官級会合など、海保が中心となって開催してきた国際会議も多数にのぼる。機密事項があるため詳細は語られていないが、尖閣諸島の警備に関する具体的記述もたいへん興味深い。</p>

<p>本書を通して、海保というどちらかと言えば地味な組織が、日本の安全保障に多大な貢献をしていることがよくわかる。多くの人に読まれることを期待したい。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 11 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈良岡聰智（京都大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>行き過ぎたウォーク資本主義をトランプは止められるか？  カール・ローズ（シドニー工科大学UTSビジネススクール学長兼組織論教授）,インタビュアー：大野和基（国際ジャーナリスト）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12437</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012437</guid>
			<description><![CDATA[気候変動対策、銃規制、人種平等、LGBTQなど性的平等実現......。さまざまな社会問題に取り組む企業はこの世界を変えられるのか。カール・ローズ氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025P/250530CarlRhodes01.jpg" width="1200" /></p>

<p>ウォーク資本主義とは、企業が社会貢献として、気候変動や人種・性差別などの問題に取り組むことを指す。しかし、それが「意識高い系」の偽善であり、新自由主義がもたらした経済格差などの本質的な経済問題には目を逸らしていることはしばしば批判されている。</p>

<p>昨今の&quot;行き過ぎたウォーク資本主義&quot;を止めることは可能なのか? 『WOKE CAPITALISM「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』の著者で、社会における企業の枠割を研究されているカール・ローズ氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、前後編の後編です。『Voice』2024年6月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>米国も世界も「再生」のときを迎えている</h2>

<p>――「ウォーク資本主義」の風潮を変える方法を思いつくでしょうか。</p>

<p>【ローズ】すぐには思いつきません。ただし、変化とは人が干渉しなくても起こるものです。「ウォーク資本主義」はすでに行き過ぎたように思えてなりません。現に多くの国では社会的な分断が引き起こされています。最近ではフロリダ州のロン・ディサンティス知事と米国のディズニーが対立していますね。とはいえ、これは一時的なもので、いずれ自然に解消されるでしょう。</p>

<p>われわれは、企業自身からの改革には期待するべきではありません。新自由主義のもとで経済パワーが暴走して格差が生まれていますが、その結果、企業は莫大な利益を得ています。ならば、そこから変化が起こるのは難しい。これはむしろ政府の失策でしょう。富裕層に対して減税し、グローバルな経済システムをつくり、一方でフェアな経済的配分を犠牲にすることで、世界中の経済成長をつくりだしてきたのですから。</p>

<p>「ウォーク資本主義」から脱却する方法があるとすれば、企業による自主行動ではありません。政府が経済格差をめぐる深刻な問題を認識し、広く利益が共有されるグローバル経済をつくりだすほかないのです。</p>

<p>――今秋には米国で大統領選挙が行なわれます。私から見ると、バイデン大統領は民主党ということもあって「ウォーク的な政治家」である一方、トランプ氏は「反ウォーク的な政治家」に見えます。</p>

<p>【ローズ】2人はじつに異なるタイプの人物です。トランプはどう見ても「ウォーク的」ではありません。いま、米国の最大の課題は分断ですが、トランプは一種の右派ポピュリストで、ひどくpolitically incorrect（言動などが差別的で不適切であること）です。私は彼と会食したいとは思いません。一方で、あなたが言うように、バイデンは「ウォーク的」ですね。</p>

<p>この2人が、米国でますます進んでいる政治的な分断を代表していることはたしかです。ほかの国でも反動的な右派ポピュリズムと、時にはほとんど「ウォーク」と言ってもいいリベラルな民主サイドが対立しています。昔は左派と右派で政治を区別していましたが、いま生じているのは独裁主義と民主主義の分断です。</p>

<p>これははるかに難しい選択です。左派と右派の相違であれば人びとは民主的な選択ができますが、ポピュリズムと独裁主義の増大は真の危険です。経済格差がもたらした帰結であり、ですから政治はそれを逆転させるようにチャレンジしなくてはいけない。しかし、そのチャレンジに挑むリーダーがいるでしょうか。バイデンもそれには当てはまらないでしょう。</p>

<p>――最近の支持率を見ると、バイデンはトランプほど高くありませんね。</p>

<p>【ローズ】興味深い現象です。トランプには強い男のイメージがあり、明らかにアメリカ人にとって魅力があります。彼は何が起きても、どれほど訴訟を起こされても、どれほど刑事責任を問われても人びとに好かれます。この事実こそ、私がもっとも危惧している点です。</p>

<p>でも、現在の米国を見たときに、新しい政治家はどこにいるでしょうか。新しいアイデアはどこにあるでしょうか。依然として古いアイデアがそのまま続いている状態であり、米国に限らず世界中が、renewal（再生）すべきときを迎えているのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>求められているのは世代的な変化</h2>

<p>――日本の岸田政権は「新しい資本主義」を掲げています。株主優先、市場重視の新自由主義の弊害を認識したうえで、中間層の没落、都市と地方の格差、気候変動による持続可能性の喪失に対応する考えです。この方針をどう評価しますか。</p>

<p>【ローズ】実際にその政策を実行しているのならば、たしかに理にかなっています。でも、日本に限らず新自由主義的なカルチャーがグローバルに拡大し、抜け出せなくなっていることもたしかでしょう。そこから抜け出すには継続的なvigilance（警戒、監視）が必要です。</p>

<p>私は次世代に大いに信頼を置いています。われわれの世代は、多くの問題が生じるのを目の当たりにしてきました。他方で、私は大学で教授をしているので若い世代と直接話す機会がありますが、彼ら彼女らは少なくとも1960年代以来、西洋社会では見たこともないような新しい見方で政治を重視しているように感じます。</p>

<p>われわれには変化が必要です。しかし、1人の政治家がその変化を引き起こすことはできません。ですから日本でも、岸田文雄氏がいくら頑張っても、そう簡単には変わりません。世代的な変化が必要です。もっとスケールの大きい視点から見なければなりません。</p>

<p>繰り返しますが、岸田氏の政策はたしかに正しい。重点を置くべきなのは、経済成長がどのように分配されるか、誰がそこから利益を得るのか。その視点がなければ中身がない政策になります。また、長期的な視点をもつことは何よりも重要です。変化のoutcome（成果）が見えるまでにはかなり時間がかかるのですから。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025P/250530CarlRhodes01.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 10 Jun 2026 12:00:30 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[カール・ローズ（シドニー工科大学UTSビジネススクール学長兼組織論教授）,インタビュアー：大野和基（国際ジャーナリスト）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>社会問題に取り組む企業は偽善? 「ウォーク資本主義」によって覆い隠されるもの  カール・ローズ（シドニー工科大学UTSビジネススクール学長兼組織論教授）,インタビュアー：大野和基（国際ジャーナリスト）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12436</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012436</guid>
			<description><![CDATA[気候変動対策、銃規制、人種平等、LGBTQなど性的平等実現......。さまざまな社会問題に取り組む企業はこの世界を変えられるのか。カール・ローズ氏に解説していただく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025P/250530CarlRhodes01.jpg" width="1200" /></p>

<p>気候変動対策、銃規制、人種平等、LGBTQなど性的平等実現......。さまざまな社会問題に取り組む企業はこの世界を変えられるのか。そうした企業が推し進める資本主義が抱える欠陥とは。『WOKE CAPITALISM「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』の著者で、社会における企業の役割を研究されているカール・ローズ氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、本稿は前後編の前編です。『Voice』2024年6月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ウォーク資本主義」とは何か</h2>

<p>――（大野）&quot;WOKE&quot;（ウォーク）という言葉はもともと〈目覚めた〉という意味ですが、現在はより幅広く使われています。あなたは昨年（2023年）4月に、日本で『WOKE CAPITALISM「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』（庭田よう子訳、東洋経済新報社）を刊行されています。そもそも&quot;woke capitalism&quot;（ウォーク資本主義）とは、どのような意味なのでしょうか。</p>

<p>【ローズ】まず&quot;WOKE&quot;という言葉は、公民権運動時代から使われていて、近年では「社会正義」を実践しようとする人びとの合言葉になっています。そして、企業などが気候変動対策や銃規制、人種平等、LGBTQなど性的平等実現などに取り組む考え方が、「ウォーク資本主義」です。</p>

<p>この言葉が生まれたのは2019年ごろのことで、当時はトランプ政権でした。2018年に『ニューヨーク・タイムズ』コラムニストのロス・ダウザットがWoke corporations（ウォーク企業）について書いたことで、「ウォーク資本主義」についても論じられるようになったのです。</p>

<p>トランプ政権は企業に対して大幅に減税しました。もちろん、企業にとっては有難い話で、彼らはすこぶる満足していた。一方で、トランプの政策の恩恵にあずかるからといって、偏屈で人種主義的なトランプの思想と一体だと見られることは受け入れがたい。むしろ、距離をとりたいと考える企業あるいは経営者が多数でした。</p>

<p>そうして、トランプとは一線を画して気候変動対策やジェンダー格差の解決などに力を入れた企業が、「ウォーク企業」と呼ばれるようになったのです。その流れはいまでは英語圏以外にも広がっていて、「ウォーク資本主義」は世界を席巻しています。</p>

<p>――「ウォーク資本主義」については、あなたの本の邦訳版では「意識高い系」資本主義という言葉が使われていて、とても印象的でした。</p>

<p>【ローズ】もちろん、多くの企業は偽りのない気持ちから、気候変動やジェンダーの問題に取り組んでいるのでしょう。でも、社会の主流に阿り、実際にはアクティビストではないのに、まるで真剣にその立場をとっているように見せかけている企業も存在します。それが最近の日本語で言えば「意識高い系」の企業でしょう。</p>

<p>ブラック・ライブズ・マター運動のように、これまで実際にムーブメントを生み出してきたのは、企業ではなく市民です。彼ら彼女らは、リスクをとって真の変化を起こしてきました。他方で企業は、その流れを見て、自分たちが積極的に難しい選択をすることなく、あとから運動に加わっているにすぎません。</p>

<p>――「ウォーク資本主義」は、たとえば1980年代に台頭してきた「新自由主義」とどのような関係にあるでしょうか。</p>

<p>【ローズ】興味深い質問です。両者の関係は密接で、われわれはいま、「ウォーク資本主義」の台頭を見ているとともに、新自由主義の末期のフェーズにいると言えます。新自由主義は1970年代に始まり、80年代には深刻なインパクトを与えました。</p>

<p>そしていま、多くの巨大企業の成長をもたらし、さらに著しい富と国家内や国家間における経済的格差をもたらしています。成長した企業を通して資本を所有した人は裕福になりました。新自由主義は言わば格差を道徳的に正当化しましたが、その流れと強く関係しているのが「ウォーク資本主義」だと言えるでしょう。</p>

<p>「ウォーク資本主義」が支持するのは、一般的には環境問題など社会課題であり、経済的なイシューではありません。たとえば、「ウォーク企業」が過剰な役員給与にメスを入れている場面を見たことがあるでしょうか。最低賃金の上昇について喜んで支持している場面にもお目にかかれない。すなわち、中核になりうる革新的な経済イシューには消極的です。</p>

<p>世界はいま深刻な経済的格差が生じていて、さまざまな問題を引き起こしています。それなのに、「ウォーク企業」は経済イシューには目を向けず、聞こえがいい差別問題などばかりに力を入れている。トランプ現象にしてもイギリスのブレグジットにしても、元を辿れば格差の問題が発端なのに、「ウォーク企業」はむしろ無関係を装っている。「ウォーク資本主義」は新自由主義と密接に結びつく、まったくの偽善です。</p>

<p>――グローバル化や利益追求という面でも、新自由主義と「ウォーク資本主義」は共通しています。</p>

<p>【ローズ】「ウォーク企業」のほとんどはグローバル企業です。すなわち、国をまたがって活動しているのでそれをコントロールする政府もない。だからある意味で、これはグローバルな問題です。「ウォーク資本主義」に関わる企業の多くは英語圏の企業で、グーグル、アマゾンなどビッグネームが名を連ねます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>社会を変革してきたのは企業ではない</h2>

<p>――世界の多くの人びとは「ウォーク資本主義」の実態を見抜けていないのでしょうか。</p>

<p>【ローズ】巨大企業は社会をミスリードさせようとしているかもしれませんが、じつのところ私は、人びとはかなり賢いと思っていて、人間の批判する能力を信じています。なかには騙される人もいるかもしれませんが、とくに企業の「ウォーク戦略」が浅はかである場合は見抜かれるでしょう。</p>

<p>――GAFAMなどのITプラットフォームは「ウォーク企業」の典型と言えそうです。</p>

<p>【ローズ】テック企業はとくに「ウォーク資本主義」に陥っていますね。アマゾンのジェフ・ベゾスは気候変動に100億ドルのコミットメントをしています。マイクロソフトのビル・ゲイツは資産をビル＆メリンダ・ゲイツ財団を通してre-channel（別の使い道に変える）しています。この財団はWHO（世界保健機関）に資金を提供する2番目に大きな組織で、アジェンダに対してかなりの影響力を有している。まさしく「ウォーク資本主義」の最前線でしょう。</p>

<p>しかし、興味深いのは、ビッグテックは「冷酷」な独占企業としても知られていますね。工場などの労働慣行について批判されるケースも少なくありません。ここにdichotomy（対立する二つの対照的な考え）がある。すなわち、ビジネスで稼げるならば何でもありとする一方で、社会的大義を支持しているのです。そこには、かなりのアンバランスが存在しています。</p>

<p>――ビッグテックが「ウォーク資本主義」にのめりこむのは、貪欲な側面を隠蔽したいからでしょうか。</p>

<p>【ローズ】それが一種の陰謀であるかは、私にはわかりません。ただし、企業の貪欲な側面を結果的に隠し、従業員や消費者にとってpalatable（好ましい、容認できる）な企業であるように見せかけ、大規模な変化が起きないようにしているとは言えるかもしれない。</p>

<p>――日本でも「SDGs」（持続可能な開発目標）を掲げる企業が増えています。そうした「意識の高い企業」も、あなたに言わせれば欺瞞でしょうか。</p>

<p>【ローズ】それはケースバイケースしょう。SDGsはアジェンダをグローバルに結束する点で、重要な役割を果たしていますから。誤解されたくないのではっきり申し上げますが、SDGsやESGを支持する企業で働く個々人の多くは、じつに誠実で、素晴らしい仕事をしています。私が主張しているのは、そういう個人に責任を負わせるのではなく、企業も同じような姿勢を見せるべきだということです。</p>

<p>――あなたから見て、本当の意味で社会の役に立っていると思う企業はありますか。</p>

<p>【ローズ】私が住むオーストラリアでは、何年か前にカンタス航空が同性婚についての法案修正を支持しました。心から修正を支持していたでしょう。でも同時に、同社は同性婚が違法である国とのエアラインで儲けているし、労働慣行は調査の対象になりました。相反する事実が共存している状態です。</p>

<p>――「ウォーク資本主義」が「偽善」であっても、結果として社会貢献しているならば何もやらないよりはよいではないか、という意見もあります。</p>

<p>【ローズ】気候変動やジェンダーや人種差別など、重要なイシューを取り上げるという意味ではそれも正しいかもしれません。しかし、繰り返すようですが、経済格差というイシューは世界においてよりベーシックで、それがアジェンダからはじき出されている事実から目を逸らしてはなりません。</p>

<p>私の「ウォーク資本主義」に対する批判は、その取り組み自体を否定するものではなく、その取り組みで覆い隠されるものがあることに対する懸念が原動力となっています。私たちは経済格差解消にもっとも重点を置くべきなのに、そのイシューは十分には注目されていません。</p>

<p>――企業は経済合理性の名のもとに、利益を失うようなビジネスにはお金を注ぎ込まないでしょう。</p>

<p>【ローズ】そう。だからこそ、企業は時に間違った決断を下すのです。「ウォーク資本主義」のもとで行なわれるいかなるビジネスも、つねに最終的な収益が念頭に置かれていて、自分たちに商業的なマイナスが生じないような視点に立ちます。すなわち、リスクをとらないのです。でも、実際に変化を推進する人は、どこかで必ずリスクをとるし、そうした政治的アクティビストこそ賞賛されるべきでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025P/250530CarlRhodes01.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 10 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[カール・ローズ（シドニー工科大学UTSビジネススクール学長兼組織論教授）,インタビュアー：大野和基（国際ジャーナリスト）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>顧客の手元に現金がなくても...ホストクラブで“ツケ払い”の慣習がなくならない理由  佐々木チワワ（ライター）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12268</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012268</guid>
			<description><![CDATA[ホストクラブでなくならない「ツケ払い」の慣習、それはなぜか? 佐々木チワワ氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_bizfoot.jpg" width="1200" /></p>

<p>ホストクラブに頻繁に通い、多額の金銭を投じる「ホス狂い」といわれる女性たちの実態とは？高校生の頃から歌舞伎町に足を運び、トー横キッズやホストなどの現場を取材してきたライターの佐々木チワワ氏は、著書『歌舞伎町に沼る若者たち』にて、歌舞伎町やホストクラブに通う女性のリアルを社会学的に分析し、その諸問題の解決策までを提言している。</p>

<p>2023年に国会でも議論された、ホストクラブの「売掛問題」。2024年には全廃されるも、いまだ「ツケ払い」を顧客に要求する慣習は続いているという。本稿では、同書より売掛に代わる&quot;立替&quot;について解説。その根本的な問題を紐解く。</p>

<p>※本稿は、佐々木チワワ著『歌舞伎町に沼る若者たち』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「歌舞伎町の病」としての売掛金</h2>

<p><img alt="売掛を生む背景" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250425sasakichiwawa02.jpg" width="1200" /></p>

<p>2023年11月、歌舞伎町を中心としたホストクラブの利用客が高額の借金を背負う「売掛問題」が国会で話題に上がった。同月30日には、消費者庁が「ホストクラブなどにおける不当な勧誘と消費者契約法の適用について」として、デート商法に基づき悪質売掛を含む支払いを取り消せる可能性に言及した。</p>

<p>筆者は売掛システムに全面的に反対の立場を取るが、それは何も「ホストが若年女性を騙して風俗に沈める悪質なもの」だからではない。そもそも売掛システム自体が不健全であり、ホストも客も自らの首を絞める制度だと考えるからだ。</p>

<p>本稿ではまず売掛システム、また類似したものとして立替システムについて説明し、その制度によってホストクラブ産業にどのような影響を与えているのか、そして今後付随する問題をどう解決すればいいのかを考える。</p>

<p>売掛金とは簡単に言えば、店舗へのツケ払いだ。店舗ごとに毎月決まった日にちに「入金日」が存在し、その日までにツケを支払えば、月の売上として計上される。売掛金の支払いが間に合わない場合、担当ホストの給与から天引きされる。ホストと客の信頼関係の上で、ホストに営業の幅を、客に支払いの猶予をもたせるシステムである。</p>

<p>売掛が昨今問題になっているのは、返済のために（売掛だけではなく、そもそもホストクラブで遊ぶ代金を稼ぐためでもあるのだが）性風俗や違法売春を行なう女性が後を絶たないからだ。売掛金はいわば借金である。</p>

<p>女性客が返済のためにホストから売春を強要されるのみならず、逆に女性客がわざと売掛金をつくり、その支払いを怠ることでホストに借金を肩代わりさせるなど、ホストと客双方に影響を及ぼしている。</p>

<p>売掛のシステムが常態化していたときのホストクラブでは、月の売上の３割以上が売掛金でつくられていることも珍しくなかった。ちなみに、ホストクラブでは現金払いがスタンダードだ。2024年4月より前は、クレジットカードの決済手数料としてプラス10％かかる店舗が多く、夜職で日払い・現金払いで得た金銭を使う女性が多かったためである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>売掛が全廃されても残る、立替という抜け穴</h2>

<p>先ほど述べた2024年4月は、歌舞伎町の大手ホストグループらが売掛金の全廃を表明した時期である。だが、売掛システムがなくなって万事解決......とはならない。売掛とは別に、「立替」という仕組みが残っているからだ。</p>

<p>売掛と立替は何が違うのか。歌舞伎町のラストオーダー直前によく交わされる、ホストと女性客の会話を見てみよう。</p>

<p>ホスト「今日ラスソン取れそうだから、シャンパン入れていい？会計50万円くらいになるんだけど」<br />
女性客「ええ、入金日来週だよね？いま現金10万円しかないから、売掛（ツケ）になっちゃうし、さすがに１週間でいまから40万円稼ぐのはキツいかな......」<br />
ホスト「いくらなら入金できる？」<br />
女性客「うーん、半分の20万円くらいなら......」<br />
ホスト「じゃあ20万円でいいよ。残りは俺が立て替えておくから、来月中に返して。お前のこと、信用してるし。今日ラスソン取れたらアフターして朝まで一緒にいよ」<br />
女性客「本当に一緒にいてくれるの？じゃあうん、立替ならいいよぉ」</p>

<p>このように、売掛では顧客が店側にツケ払いをするが、立替ではホストが顧客の代わりに支払いを済ませ、個人の貸し借りにする。歌舞伎町では、入金日までに支払える金額なら売掛、難しい場合は立替にするのが一般的だった。</p>

<p>売掛が全廃された2024年4月以降は入金日自体がなくなったが、顧客が手元に現金をもたなくても飲食代を借金させ売上を立てる立替のシステムは残っている。</p>

<p>「『売掛なくなりました!』とか『ウチは100％現入（現金で全額支払うこと）です!』とかいう店舗がありますけど、ほぼ噓だと思っていいですよ。売掛は店管理、立替は個人管理って体裁はあるけど、立替も店舗管理にしている店もありますから。店がホストに金を貸して、その金で立替させるとかもありますよ。立替の時代って感じですね」（30代・月間1200万プレイヤー）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>なぜ手元に金がないのに遊ぶのか　</h2>

<p>そもそも、売掛にせよ立替にせよ、なぜツケ払いの慣習はなくならないのか。遊ぶための金が手元にないにもかかわらず、「娯楽」であるホストクラブで大金を使ってしまうのはなぜなのか。</p>

<p>客の心理的要因として挙げられるのは、担当に頼られた嬉しさ、売上に貢献したいという思い、ライバルに勝ちたいという競争心、担当ホストから好かれてより良い扱いを受けたいという承認欲求などだろう。</p>

<p>また、歌舞伎町に顕著な事例としては「また稼げば返せるか」という楽観的な思考もあるだろう。その稼ぐ手段はまさに、パパ活や風俗、立ちんぼなど、女性性を売ることである。</p>

<p>「風俗で1日12時間出勤すれば最低でも5万円は稼げるから、10日あれば50万円までの売掛は大丈夫だろう」と、稼ぐ見込みに基づき遊ぶことが習慣になる。</p>

<p>売掛の返済日前になると夜の出勤時間をいつもより長くしたり、普段より安い金額で路上に立ったりして現金をかき集めるホス狂いが増えるのは、女性性を売ることでツケ払いを担保する歌舞伎町の文化にほかならない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「掛け縛り」によって太客に育てる</h2>

<p>そもそも、「なぜホスト側も女性客に売掛をさせるのか。接客当日に金を回収してしまったほうがいいのでは」と疑問に思われるかもしれない。</p>

<p>ホスト側からすれば、女性客に売掛をさせることで、客として「囲い込む」ことができるのである。金銭によって持ちつ持たれつの構図をつくり、互いの関係性を深めていく。しかしこの手法が行き過ぎると、自分に金を使わせるために夜の仕事を強要することにつながってしまう。</p>

<p>「ホストクラブに行き始めた友達の話ですけど、ホストって1回2、3万円でも遊べるから、自分の収入に見合った額ならいいんじゃないって思ったらしいんです。アイドルのコンサートとかと比べたら、好きな人と真横で話せるわけだし。でもホスト側に呼ばれたら嬉しくて行くようになっちゃって。シャンパンとか入れたいって言われてて。月収20万円くらいの子だから当たり前に貯金は吹っ飛んで、カード限度額ギリギリまでいってて。本人も断らないで了承しちゃってるの見て、やばいかもなって......。</p>

<p>いま担当ホストから『夜の仕事やらないの？』って言われてるみたいです。『俺がお前くらい可愛かったら、ギャラ飲みとかキャバやって月100万円くらい稼ぐけどね』って。女の子のことも褒めてるじゃないですか、可愛いって。うまいなって思いましたよね」（のちの取材で、彼女の友人はその後2カ月でデリヘルを始めて担当ホストに貢ぎ、さらに1カ月後には昼の仕事を辞めていたことが判明した）（20代・女性）</p>

<p>売掛金という借金を勢いでつくらせ、返済するまでは関係性が切れないことで客との関係性を固める。やっと返したと思ったら、また新たな売掛金をつくる......。俗に言う「掛け縛り」をすることで女性の稼ぎのリミッターを徐々に解除していき、立派な「太客」に育て上げるホストも存在する。</p>

<p>毎月決まった金額を使ってくれる固定客がいることで、自分の売上の皮算用を立てることができる。女性性で稼ぐ客も、顧客のメンタルと稼ぎ次第で売上が変わるホストも、つねに泡銭の皮算用で生きていると言えそうだ。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_bizfoot.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 10 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[佐々木チワワ（ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜUAEはイスラエルに近づくのか　中東「異端」の論理  真田幸光</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14441</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014441</guid>
			<description><![CDATA[イスラム国家でありながらイスラエルと国交を正常化したUAE。ネタニヤフ極秘訪問、発電所攻撃、アイアンドーム導入——中東の新たな対立軸を国際金融の専門家が読み解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="戦国武将・真田家の末裔でもある真田幸光氏" height="396" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2018/01/19461005sanadayukimitsu2.jpg" width="640" /><br />
&nbsp;</p>

<p>中東情勢が激しく揺れるなか、見落とされがちな視点があります。同じイスラム圏でありながら、イランではなくイスラエルとの連携を深めるアラブ首長国連邦（UAE）の動向です。スンニ派とシーア派の対立を超え、中東の勢力図を静かに塗り替えつつあるUAEの立ち位置を、嘉悦大学学長で国際金融に精通する真田幸光氏が読み解きます。</p>

<p>※本記事は真田幸光オンラインサロン「経済新聞が伝えない世界情勢の深相～真田が現代の戦国絵図を読む～」で公開されたポッドキャストより一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「イスラム対イスラエル」という図式では読めない</h2>

<p>中東情勢を語るとき、私たちはついシンプルな構図に引き寄せられます。「イスラム諸国対イスラエル」「スンニ派対シーア派」&mdash;&mdash;そうした対立軸は確かに存在しますが、現実の中東はそれほど単純ではありません。</p>

<p>その象徴が、アラブ首長国連邦（UAE）の存在です。UAEはれっきとしたイスラム国家でありながら、2020年にアメリカの仲介によるアブラハム合意のもとでイスラエルと国交を正常化しました。以来、経済・テクノロジー・安全保障の各分野でイスラエルとの関係を深め、両国間にはすでに直行便が就航し、投資・観光・エネルギー分野での交流も活発化しています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>UAEがイスラエルに近づいた理由</h2>

<p>もともと、イランと距離を置くイスラム国家としてよく名前が挙がるのはサウジアラビアでした。スンニ派とシーア派という宗派の違いに加え、イスラム世界の覇権をめぐる歴史的な競合&mdash;&mdash;メッカを擁するサウジと、ペルシャ帝国の流れを汲むイランという構図&mdash;&mdash;が対立のイメージを強固なものとしてきました。</p>

<p>しかし最近の動向を見ると、サウジ以上にイランと距離を置いているのがUAEです。UAEはイランの軍事的脅威に対して防空システムでの協力体制をイスラエルと構築しており、今年に入ってからのイラン攻撃激化を受けてはアイアンドームの導入も図っています。パレスチナ情勢の悪化でアラブ諸国からの批判が高まる局面でも、UAEはイスラム諸国とイスラエルの和平・対話のパイプ役を標榜し、イスラム教国家でありながら親イスラエル政策を採る独自の立ち位置を貫いてきました。</p>

<p>イスラエル首相府は5月13日、イランとの戦闘が続いていた時期にネタニヤフ首相がUAEを極秘訪問し、ムハンマド大統領と会談したと発表しています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>イランはUAEの発電所を攻撃している</h2>

<p>そのUAEに対し、イランは攻撃を加えています。特に深刻なのが発電所への攻撃です。中東の酷暑地域で電力供給が止まれば、住民の生命に直結する事態となります。発電所を攻撃するということは、その地域の人々に「死ね」と言っているに等しい&mdash;&mdash;UAEがイランとの対立を強めざるを得ない理由は、そこにあります。実際に、一部報道ではUAEによるイランへの報復攻撃も報告されています。</p>

<p>こうした緊張の高まりは、アメリカによるUAE支援の再強化という動きにもつながりかねません。イスラエル寄りに見えるUAEの姿勢が、さらなるイランの攻撃を招き、それがアメリカの介入を呼ぶ&mdash;&mdash;この連鎖が中東の混沌をさらに深める可能性があります。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マンデブ海峡という「もう一つの火薬庫」</h2>

<p>中東のリスクを読む上で、ホルムズ海峡と並んで注視すべき地点があります。スエズ運河から紅海を抜け、アデン湾・インド洋へとつながるマンデブ海峡です。アラビア半島とアフリカ大陸の間に位置するこの海峡のイエメン側には、イランの支援を受けるフーシ派が展開しています。</p>

<p>対岸のジブチには中国軍が駐屯しているとの指摘もあります。中国とフーシ派が連携してマンデブ海峡を抑えるような事態になれば、世界的な物流の遅延・滞留はこれまで以上に深刻化します。UAEをめぐる緊張は、こうした海上交通路のリスクとも連動しています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「和平」と「混沌」のあいだで</h2>

<p>イラン自身も経済的な疲弊が進んでおり、トランプ大統領が訪中の際に習近平国家主席に釘を刺したとも伝えられるなか、イランを支える中国にも一定の圧力がかかりつつあります。停戦に向けた動きが出てきているのは事実ですが、先に一方的に攻撃を受けたイランが簡単に矛を収めるかどうかは不透明なままです。</p>

<p>「和平に向かうか」と思われては再び混沌に引き戻される&mdash;&mdash;それが今の中東情勢の実態です。UAE・イスラエル・イラン・アメリカ・中国が複雑に絡み合うなかで、中東情勢が「落ち着いた」と安心できる日は、当面訪れないかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2018/01/19461005sanadayukimitsu2.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 09 Jun 2026 17:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[真田幸光]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>各国で進む「青少年のSNS規制」 日本はなぜ対応が遅れているのか  曽我部真裕（京都大学大学院法学研究科教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14369</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014369</guid>
			<description><![CDATA[世界各国で青少年のSNS利用規制が進められている。その中で、日本はなぜ対応をアップデートできていないのか。京都大学大学院法学研究科教授の曽我部真裕氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="青少年のスマホ利用" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_smartphone_boy.jpg" width="1200" /></p>

<p>16歳未満の利用を事実上禁止したオーストラリアをはじめ、近年、SNSに対して各国でさまざまな規制が行われている。わが国の青少年を守るためには、どのような政策が求められるのか。時代に対応できていない日本の対策の課題と論点を整理する。</p>

<p>★本論稿は、意見集約プラットフォーム「Surfvote」と連動しています。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>各国で進む規制とその背景</h2>

<p><img alt="デジタル環境下の子どもに関するOECDのリスク類型（2021年）" height="892" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260527Sokabemasahiro01.jpg" width="1200" /></p>

<p>2025年12月10日、オーストラリアで「改正オンライン安全法」が施行された。これは、16歳未満の者によるソーシャルメディアの利用を事実上禁止する規制であり、日本でも大きく報道された。</p>

<p>対象となるのはTikTok、X、Instagram、YouTubeなど、所定の主要サービスを運営する事業者で、16歳未満の利用者がアカウントを保有しないよう、合理的な措置を講じることが義務づけられる。義務に違反した場合、最大で約4950万豪ドル（約50億円）の制裁金が科される。デンマーク、スペイン、フランスなどほかの国々でも、類似の立法を検討する動きが見られる。</p>

<p>もっとも、各国の青少年保護政策は、必ずしもこうした方向にばかり向かっているわけではない。</p>

<p>たとえば、現在段階的に施行が進められているイギリスのオンライン・セーフティ法は、現時点では年齢による一律の利用禁止は採用していない。同法は、ソーシャルメディアや検索サービスなどに対し、青少年のアクセスがあるかどうか評価し、有害コンテンツに青少年がアクセスできないような措置をとることなどを求める。</p>

<p>EUでは2025年7月、デジタルサービス法のもとで未成年者保護に関するガイドラインが策定され、サービスの初期設定において年齢に応じた慎重なデフォルト設定を採用すべきことや、アルゴリズムによるリスクへの対応などが求められている。アメリカでも、州レベルで、アカウント作成時に年齢確認や保護者の同意を求めるなど、さまざまな立法の試みが続いており、これに対して事業者側が憲法違反とする訴訟を提起するなど、せめぎあいが続いている。</p>

<p>なぜ、近年になって、各国でこうした規制が相次いでいるのだろうか。インターネット上の青少年の保護をめぐる規制自体は、以前から存在していた。従来の規制は、アダルトコンテンツなどの有害情報への対処を中心とするものであった。その後は、「ネットいじめ」や、見知らぬ大人と出会って性被害に遭うといった問題への対応が重視されるようになった。</p>

<p>最近の動きは、これらに加え、ソーシャルメディアが子どもや若者のメンタルヘルスに及ぼす影響が懸念されている。また、ｘAI社（Ｘ社の親会社）のAIサービスであるGrokにより人物画像が性的なものに加工されてしまう問題がもちあがったが、このほか海外ではAIチャットボットとの会話の末に自死してしまう事件が相次ぐなど、AIなど新たな技術に起因するリスクにも目が向けられている。</p>

<p>このテーマにおいて広く参照されているOECDのリスク分類も、2011年に作成されたのち、状況変化をふまえて2021年に改訂されている（上表参照）。</p>

<p>実際、2010年代以降、若年層のメンタルヘルスが世界的に悪化しているとの指摘が相次いでおり、その要因の一つとして、スマートフォンやソーシャルメディアの影響が挙げられている。たとえば2023年5月、アメリカ保健福祉省は、ソーシャルメディアを一日平均3時間以上利用する子どもや青少年では、うつ病や不安などの精神的健康リスクが約2倍になるとの研究報告があるとして、注意喚起を行なった。</p>

<p>日本でもさまざまな研究がなされているが、たとえば2024年6月、国立精神・神経医療研究センターなどの研究チームが公表した研究成果によれば、思春期におけるインターネットの不適切使用が精神病症状（幻覚や妄想のような体験）および抑うつといったメンタルヘルス不調のリスクを高めるとされた。</p>

<p>さらに、インターネットの不適切使用による抑うつのリスクは女性のほうが大きいこと、また精神病症状のリスク上昇は社会的ひきこもりを介して起こることも示唆された、とのことであった。</p>

<p>加えて、国立精神・神経医療研究センターなどの別の研究チームは、2025年8月、因果関係を推定できる厳密なデータ分析法を用いて、思春期にオンラインゲームを不適切に利用し続けると、メンタルヘルス不調のリスクが高まることを確認した、との発表を行なった。</p>

<p>アメリカでは、自死した青少年の遺族などによる、ソーシャルメディア事業者を相手取った訴訟が相次いでもいる。日本ではこうした訴訟の例は知られていないが、現在、訴訟の準備がされていると伝えられている。</p>

<p>数々の公共訴訟を手掛けたことで知られる亀石倫子弁護士が代表を務める公共訴訟の専門家集団LEDGE（レッジ）によるもので、亀石弁護士は、SNSは「脳を標的として中毒になるよう、意図的に無限の刺激と報酬が設計されて」おり、「自律的な意思決定が事実上奪われるような、自己決定が侵害されるような状況になっている。そして、利用者として当然持っているはずの権利や健康が、奪われている状態になってい」るとする。</p>

<p>そして、ソーシャルメディア事業者の責任を問う訴訟提起を模索しているとして、原告となる人を募っている（「投げ銭700万円、摂食障害になる人も　利用者をSNS依存に追い込むプラットフォームの責任を問う」Addiction Report、2026年1月12日）。</p>

<p>一方で、ソーシャルメディアの利用には、肯定的な側面があることも否定できない。情報へのアクセスや他者との交流は、子どもの成長や社会参加にとって重要な意味をもつ。</p>

<p>この点について、国連子どもの権利委員会は、2021年に採択した「一般的意見二五号」において、子どもは保護される対象であると同時に、情報へのアクセスや参加の主体でもあると指摘している。そして、一律の年齢制限や過度な遮断は、表現の自由や発達の権利を侵害する恐れがあるとしている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>アップデートできていない日本の対策</h2>

<p>では、日本ではこの問題にどのように取り組んできただろうか。</p>

<p>ソーシャルメディアや携帯端末を利用させないという考え方と、リスクを低減しながら利用を認め、リテラシーを育てるという考え方との対立は、日本でも以前から存在しており、小中学生の携帯電話所持を制限する条例も存在した。</p>

<p>しかし、2008年制定の「青少年インターネット環境整備法（環境整備法）」は、後者のアプローチを明確に採用した。同法は、18歳未満の青少年が安全・安心にインターネットを利用できるようにするためには、青少年自身が主体的に情報を取捨選択し、適切に発信する能力、すなわちリテラシーを身につけることが重要であるとの基本理念を掲げている。この考え方は、憲法上の表現の自由や知る権利とも整合的であり、現在においても妥当性を有している。</p>

<p>最近話題となった愛知県豊明市の「豊明市スマートフォン等の適正使用の推進に関する条例」施行も、スマホの使用を禁止するのではなく、あくまで適正使用を求めるものである。家庭内のことに自治体が口出しすることにつき批判もあり、たしかに運用上細心の注意は求められるが、これまで過小評価されてきたスマホのリスクを周知し、また、自治体がこの問題に積極的に取り組む根拠を与えた面はあるだろう。</p>

<p>さて、環境整備法は、アダルトコンテンツなど青少年有害情報の閲覧を防止するためにフィルタリングの利用を促進することと、リテラシー能力を獲得するための教育啓発を二つの柱としている。また、青少年がソーシャルメディアを通じて見知らぬ大人と出会い、性犯罪などの被害に遭う事件数が増加し、この問題も深刻視されたが、これについてもこの二本柱によって対処するものとされた。</p>

<p>環境整備法は、「ガラケー」時代の産物である。制定された2008年当時は、スマートフォンではなくフィーチャーフォン（いわゆる「ガラケー」）が中心であり、また今日広く利用されているソーシャルメディアは存在していないか、存在していても普及していなかった。当時はモバイルでのインターネット利用においては回線の提供からコンテンツサービスまで、携帯電話会社の役割が大きかった。</p>

<p>フィルタリングに関しても、携帯電話会社についてのみ重い義務が課されている。具体的には、携帯電話の契約の際に、契約者または利用者が青少年であるかどうかを確認し、青少年である場合にはインターネット利用のリスクについての説明義務を負う。また、保護者が不要であると申し出ないかぎり、フィルタリング機能を有効にして提供する義務を負う。</p>

<p>他方で、ソーシャルメディアの運営者やOS事業者の青少年保護に対する取り組みについては、努力義務が課されていたにとどまる。AI事業者の責任に至ってはまったく規定がない。フィルタリングその他の青少年保護機能を管理する保護者の負担も非常に大きかった。</p>

<p>しかし、今日ではスマートフォンが中心となり、携帯電話会社ができることは大きく縮小している。また、フィルタリングは、あるアプリを利用するかしないかをコントロールするにすぎず、あるソーシャルメディアを利用するとした場合に、そのサービス内での有害な投稿などを個別に非表示にしたりすることはできない。要するに、ガラケー時代を前提にした環境整備法の仕組みを、スマホとソーシャルメディアの時代に合ったものにアップデートすることが急務である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>課題と論点の整理</h2>

<p>こうした状況をふまえ、2024年11月、こども家庭庁に筆者を座長とする「インターネットの利用を巡る青少年の保護の在り方に関するワーキンググループ」が設置され、課題と論点を整理するための検討が行なわれた（なお、本稿は筆者の私見を述べるものである）。2025年8月には「課題と論点の整理」が取りまとめられた。以下にその概要を紹介する。</p>

<p>この「課題と論点の整理」は、インターネットが青少年の日常生活に不可欠な基盤となり、低年齢層を含むほぼすべての年代で利用が常態化している現状をふまえ、従来の青少年保護の枠組みが直面している課題と論点を体系的に整理したものである。</p>

<p>スマートフォンや学校での一人一台端末の普及により、青少年が容易にオンライン空間にアクセスできるようになった一方で、インターネット上には有害情報が氾濫し、SNSを契機とする犯罪被害や闇バイトへの加担、誹謗中傷やいじめ、性的被害、消費者トラブルなどが依然として高水準にある。</p>

<p>加えて、生成AIの発展により、実在する児童をもとにした性的ディープフェイクの生成と拡散といった新たなリスクも顕在化しており、青少年自身が被害者となるだけでなく、加害者となる可能性も高まっている。</p>

<p>これまで、環境整備法に基づき、フィルタリングの普及促進や教育・啓発を中心とした対策が講じられてきたが、リスクの多様化・複雑化により、こうした枠組みのみでは十分に対応できなくなっているとの問題意識が共有されている。</p>

<p>ワーキンググループでは、諸外国の制度も参照しつつ、事業者に対する義務づけや年齢確認の強化といった法的手法の有効性と限界、日本における導入の是非が検討された。</p>

<p>その結果、青少年の権利、とくに知る権利や表現の自由、インターネットを通じた学習や居場所としての意義をふまえ、一律の年齢規制ではなく、ウェルビーイングの実現を軸とした多面的・総合的な対応を志向すべきであるとの基本的方向性が示されている。</p>

<p>具体的には、受信リスクへの対応に加え、発信に伴うコンダクト／コンタクト・リスクへの対策を強化すること、デジタルプラットフォーム事業者やOS事業者を含む幅広いステークホルダーの関与を求めること、実効性のある技術的保護手段やコンテンツレーティングの在り方を検討することが課題とされている。</p>

<p>また、青少年自身のリテラシー向上や、保護者を含めた官民連携による啓発活動の強化も不可欠であるとされる。今後は、短期的に対応可能な施策と中長期的な検討を要する課題を整理したうえで、法的対応の必要性も含め、関係府省庁が連携しながら段階的に取り組みを進めていくことが求められている。</p>

<p>以上が「課題と論点の整理」の概要であるが、ここで示されたのは基本的方向性のみであり、具体的な方策は、各テーマの所管省庁において引き続き検討されることになっており、そのための工程表も作成されている。</p>

<p>たとえば総務省では、デジタル空間における情報流通の諸課題への対処に関する検討会のもとに、青少年保護ワーキンググループが設置された。そして、こども家庭庁には、本年1月、各省庁での検討のフィードバックを受けつつ、環境整備法の改正について検討する青少年インターネット環境整備法の在り方などに関する検討ワーキンググループが設置された（いずれも筆者が主査を拝命している）。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>事業者の「自主的な取り組み」を後押しせよ</h2>

<p>今後の検討課題は多岐にわたるが、まずは青少年保護に責任を負う主体間のリバランスが極めて重要である。前述のように、現在は携帯電話会社や保護者に責任が偏っているが、ソーシャルメディア事業者、スマホのOS事業者、AI事業者、ゲーム事業者などの責任を明確化することも求められる。</p>

<p>その際には、青少年が直面しているリスクが、本稿の冒頭に見たようなメンタルヘルスに対するリスクや、性的ディープフェイクなど生成AIの普及に伴うリスクなど、環境整備法の制定時の想定よりも多様化していることをふまえ、幅広いリスクへの対処を事業者に求めるような規律が求められる。さらに、年齢に応じた保護を行なうために、適切な年齢確認措置の在り方の検討も必要であろう。</p>

<p>もっとも、法的規律の具体的な制度設計は非常に困難な問題である。有害情報を定義して、事業者に削除や閲覧できないような措置をとる義務を課すといった単純な規律は、何が青少年にとって有害な情報なのかを明確に定義することができない以上、困難である。</p>

<p>さらに、アルゴリズム設計を法律で規律することも同様に難しいだろう。各事業者がそれぞれのサービスに即した青少年保護措置を自主的に講じることを中心としつつ、年齢確認の制度化や実効性確保のための措置を含め、自主的な取り組みを後押しするような法的枠組みを設けることなどが考えられるだろうか。</p>

<p>また、各事業者が講じたとする対策の実効性を評価するような取り組み、あるいは青少年保護関係者からの意見を事業者に伝達する場を設けることなども考えられるだろう。</p>

<p>青少年保護の政策は、その必要性や効果が見えにくく、議論が進みにくい分野である。しかし、国内外で問題意識が高まりつつあるいまこそ、十分な議論を尽くし、時代に即した枠組みを構築することが求められている。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_smartphone_boy.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 04 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[曽我部真裕（京都大学大学院法学研究科教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「真実とフェイクに大きな違いはない」　不確かな時代に求められる“賢慮”とは  杉谷和哉（岩手県立大学准教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14261</link>
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			<description><![CDATA[EBPM（エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏に真実とフェイク、エビデンスとナラティブに向き合う姿勢について解説して頂きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="正しい情報だけでは判断できない" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_USAelection.jpg" width="1200" /></p>

<p>人間は、自分の党派性に従った推論をする生き物だ。<br />
党派への帰属意識が現実の認知を歪め、敵対的党派が振りまく陰謀論には鋭い目を光らせることはできても、自分の党派が繰り出す陰謀論や、自分の考えに合致した陰謀論に対して、人は驚くほど無防備なのだ。</p>

<p>そう語るのは、EBPM（Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏である。<br />
本稿では、その杉谷氏に真実とフェイク、エビデンスとナラティブに向き合う姿勢について解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ネガティヴ・ケイパビリティ」の大切さと注意点</h2>

<p>フェイクが広がる時代では、客観的な証拠やデータが必要で、「ファクトチェック」が重要である。しかし、それには時間を要する。「早押しクイズ」のように、ありとあらゆる事象に対して何かしらのコメントやレスポンスを即座に求められる時代にあっては、フェイクを吟味する時間もない。</p>

<p>早急に答えを出すのではない、慣れ親しんだナラティヴに頼って決まりきった答えを出すのでもない、自分の考えに合致したエビデンスに飛びつくのでもない、曖昧な状態、答えを留保した状態に耐え続ける、「ネガティヴ・ケイパビリティ」が必要とされている。</p>

<p>しかし、こうした姿勢は「どっちもどっちだ」という、相対主義につながりかねない点にも注意が必要だ。「中立であることは、〇〇の味方をしているのと同じだ」というレトリックがしばしSNS上で見受けられるが、これはあながち間違いではない。結局のところ、イシューごとに判断を下していくしかないのだが、こと政治においては、その判断が難しいこともある。既存の情報を丁寧に吟味したうえで、自分なりの決断を積み重ねていき、誤った判断をした時にはそれを反省するといった営為が望ましい。そしてそれは、口で言うほど簡単ではないのである。</p>

<p>そのような姿勢は当然、ナラティヴを前にした場合にも求められる。というより、ナラティヴのほうが厄介ですらある。ナラティヴは我々の心を揺さぶり、時にエビデンスよりも高いインパクトをもって社会を揺るがす。ビッグデータが隆盛を極める時代において、ナラティヴは一見すると劣勢に見えるかもしれないが、陰謀論の台頭を見れば明らかなように、実際にはそう単純な話ではない。むしろ、これらは時に結託して大きな影響力を得ることもあるのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>フェイクに我々が踊らされている理由</h2>

<p>噓やごまかしがまかり通る時代において人々は、何が真実で何がフェイクなのかの判断基準を欲する。</p>

<p>厄介なのは、何が真実で何がフェイクなのか、その境目がはっきりしていない場合が多いということだ。ポパーの反証主義もそうだったが、これまでも多くの理論家たちが、科学と非科学の線引きを試みてきた。だが、いまだに万能で明瞭な線引きを作ることには成功していない。</p>

<p>そもそも、政治や政策に関して言えば、いわゆるエビデンスやデータだけで、すべての判断が可能になるわけではない。エビデンスやデータに基づいて何かしらの意志決定を下すには、解釈の枠組みが必要だからだ。</p>

<p>大事なのは、その解釈の枠組みの背景にある価値観である。データやエビデンスは、限定的とはいえ、現実を反映したものだ。だが、それだけをもって政策判断を下すことはできない。その現実が好ましいものなのか、そうでないのかを判断する基準が必要である。それこそが価値に他ならない。</p>

<p>世に溢れるフェイクに我々が踊らされている理由は、よく言われるように、偽動画が巧妙になったからでも、市民教育に欠陥があるからでもない。正確に言えば、それらはいくつもある理由のうちの一つでしかない。より重要なのは、我々がどのような社会を望むのか、政治にいったい何を期待し、政策を通じてどのような好ましい現実を生み出そうとするのかといった、価値にまつわる議論が不足しているからである。</p>

<p>ここで言う価値とは、党派性に基づいた、和解の余地のない議論とは別である。党派性もそれぞれの価値観に基づいてはいるが、価値はもう少し幅広い意味合いを含意する。どのような社会を望むかと言った理想像を考えるうえでは、必ずしもキチンとした世界観を伴っていなくてもよい。それは時に揺れ動くもので、人との議論を経て変容することもある。</p>

<p>これに対して党派性は、そうした柔軟性をあまり持っておらず、「分断」を引き起こす要因と目される。こういった党派性は、政治を語るうえで必要な面もあるし、無くそうと思って無くせるものでもない。だが、我々は政治的な価値を論じるにあたって、こうした語り口とは異なったありようを模索することもできるはずである。</p>

<p>政策的な判断には、当然のことながら客観的な情報が必要不可欠だ。だが、この前提が不幸にも、エビデンスだけで政策が決められるという勘違いを生み出した。この勘違いはさらに、ある特定の情報を得さえすれば、誰しもが同じ発想になるに違いないといった思い上がりさえも蔓延させている。</p>

<p>政策をめぐる論争が、お互いに都合のいい情報を投げつけあうだけの不毛な議論に終始してしまう原因の一端には、これらの勘違いや思い上がりがあるのではないだろうか。溢れるフェイクに翻弄される我々は、ものの見事に足をすくわれていると言わなければならない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>真実VSフェイクを超える──失われた賢慮を求めて</h2>

<p>我々は思い切って、次のように断言してしまってすらよいように思われる。真実とフェイクの間には、もはやそれほど大きな違いはない、と。</p>

<p>真実であろうとフェイクであろうと、エビデンスであろうとナラティヴであろうと、我々がいかなる社会を求め、他者とどのような関係を結びたいのかといった前提がなければ、それらを活用し、自分の主張を展開することなどできない。</p>

<p>これは政策決定においても同様だ。エビデンスの活用、客観的な情報に依拠した方針、これらの重要さは論を俟たないが、実際にはどのような局面で、どういった情報を重視するかといった判断が常に求められる。では、それらの判断は何によって可能になるのだろうか？</p>

<p>それを可能にするものの一つが、「賢慮」というべきものである。原型は哲学者、アリストテレスが提唱したもので、状況に応じて何が「善」であるかを判断するための能力のことを言う。政策判断の基盤となるべきなのが、こうした「賢慮」に他ならない。エビデンスであろうとナラティヴであろうと、「賢慮」を欠いた状態では適切な活用などできるはずもない。これまで見てきた社会の混迷や、我々の動揺は、こうした「賢慮」が社会から失われたために引き起こされている。</p>

<p>ならば、いかにして「賢慮」を社会に備えさせることが可能なのだろうか。方途はいくつもある。教育改革や、官僚制の制度設計、参加型民主主義の導入などである。いずれも有用と言えるが、より根本的な視座も必要である。</p>

<p>ここで考えるべきなのは、賢慮の前提にある想定だ。それは、何が「善き社会」なのかをめぐる構想である。ここにおける「善き社会」とは、それこそ計量可能なエビデンスだけで語れるものではない。我々の社会が依って立つ文化や伝統も関係してくるし、倫理や道徳なども、「善き社会」を構成する要素に含まれる。</p>

<p>思えば、公共政策をめぐる評価基準はしばしば、「効率性」や「有効性」といった、数値化が可能で、比較考慮できる情報ばかりに偏っている。だが、我々の社会がそうした情報だけで成立していない以上、そのような基準のみで政策を考えていても、ある種の限界に直面する。こうした基準は、複雑な社会を構成するごく一部の側面に過ぎないからだ。</p>

<p>このような認識に立脚し、「賢慮」を求めることによって我々ははじめて、エビデンスやナラティヴに向き合うことができる。「賢慮」が伴った社会においては、フェイクによる必要以上の揺動も起き得ないのではないだろうか。エビデンスとナラティヴに引き裂かれ、フェイクに怯える我々の現状は、この社会から賢慮が失われたことによって招来されたのだと言わなければならない。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_USAelection.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 03 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[杉谷和哉（岩手県立大学准教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「正しいデータがあれば説得できる」は幻想　エビデンスに基づくポピュリズムの危うさ  杉谷和哉（岩手県立大学准教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14260</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014260</guid>
			<description><![CDATA[EBPM（エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏に政治的主張を補強するために使われる数字（エビデンス）について解説して頂きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「正しいデータがあれば説得できる」は幻想" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_speech2.jpg" width="1200" /></p>

<p>二回目の大統領選に出馬したドナルド・トランプが選挙戦の最中、「移民が隣人のペットを食べている」などという発言をして批判されたが、意識的にせよ無意識的にせよ、トランプはナラティヴの力を最大限に活用して選挙戦を戦った。</p>

<p>フェイクに彩られたナラティヴを我々は簡単に受け入れるわけにはいかない。我々はナラティヴとエビデンスを駆使して他者を意のままに操ろうとする力に囲まれていることを、認識しておくに越したことはなさそうだ。</p>

<p>そう語るのは、EBPM（Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏である。<br />
本稿では、その杉谷氏に政治的主張を補強するために使われる数字（エビデンス）について解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>エビデンスに基づくポピュリズム</h2>

<p>一般的に言って、党派性はエビデンスではなく価値に基づいている。伝統的な価値観を順守すべきと考える人は、それが社会にとって大事だと感じるからである。逆に、個々人の自由な選択を阻害したり、現代の価値観に照らして不適切と思われるような制度を温存したりするような価値観は、積極的に是正すべきと考える人もいる。そうした人々は、伝統的な価値観よりも重視すべきものがあると思っている。</p>

<p>この対立は今日における「右派」と「左派」の価値観に沿っている。そして、それぞれの陣営に立つ人々は、科学的な根拠にしたがった判断を下しているわけでは必ずしもない。そういう人も中にはいるだろうが、実際には各々が各々の価値観に則った上で立場を決めているはずであり、そこにエビデンスが介在する余地はわずかしかない。エビデンスに基づいた判断は今日、ありとあらゆる局面で推奨されているが、価値観に基づく党派的な判断はその埒外におかれている。</p>

<p>にもかかわらず、ある特定の政治的な立場を支持している人々はしばしば、自分たちの政治的主張について、エビデンスを持ち出して自らの立場を補強する。</p>

<p>女性の社会進出を支持する人々は、少子化や人口減少、経済成長の鈍化といった課題の原因を、それらの遅れにあると主張する。したがって、女性の社会進出の阻害は、何よりもまず人権の問題であるとともに、経済にも悪影響を及ぼす課題でもあると定義される。一連の営為は、自らの価値観の正しさを立証するにあたって、補強する論点として経済的な側面を提示することで、その立論の妥当性を高めようとしている試みだと解釈できる。</p>

<p>自分の政治的立場を補強するために、「エビデンス」を用いるスタイル自体は、昔から見られたものだ。だが、エビデンスとは無縁で存立しうる政治的な立場について、エビデンスを用いて相手を説得しようとする試みは、奇異であるとも言える。</p>

<p>ここから派生した政治スタイルを、筆者は「エビデンスに基づくポピュリズム」と呼んだ。これは、今や旧聞に属する2024年の東京都知事選における二人の候補、蓮舫と石丸伸二の政治スタイルが似ていることに着想を受けたものだ。</p>

<p>蓮舫と石丸が似ているなどと言うと、多くの人が疑念を抱くかもしれないが、ここで問題にしているのは、それぞれの政治家のイデオロギーや価値観ではなく、その政治スタイルである。</p>

<p>蓮舫は、民主党政権期の「事業仕分け」でその名を馳せた。数字を駆使し、投入された予算に対して成果が少ないのではないかと担当者を鋭く追及するさまで人気を博したのである。仕分けの様子はテレビで広く放映され、蓮舫は時の人となった。これに対して石丸もまた、知事時代に自分と対立する議員に対して数字を繰り出し、相手をやりこめている動画がネット上で多く再生されて人気を博した。このように、両者は似たような政治手法を駆使して話題を攫い、支持を増やした経緯がある。</p>

<p>その後、「石丸旋風」はあっという間に衰え、彼の作った政治団体も選挙で惨敗した。翻って蓮舫は、都知事選で味噌をつけたものの、ほどなくして参議院議員に復帰し、議員として精力的な活動を続けている。ここに両者の政治的な胆力の違いも見出せるが、本稿で注目したいのは、エビデンスに基づいて政敵をやり込めるありようが支持を集めた事実である。</p>

<p>ここに我々は、エビデンスとポピュリズムの融合を看取できる。ポピュリズムとは、政治指導者が人々の欲望に迎合し、敵と味方を峻別し、敵への苛烈な批判を通じて味方の結束を強めて支持を調達する政治スタイルを指す。</p>

<p>蓮舫と石丸のスタイルは、民意を集めるために数字を巧みに用いた点において共通しているのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>エビデンスを示しても、万人が同じ結論に至るわけではない</h2>

<p>政治に関心を抱く多くの人は、周りの人たちにも政治に関心を持っていてほしいと願っているだろう。だが、これにはある前提がついている。すなわち、「自分と同じような関心を持ってほしい」、「政治について関心を持った結果、自分と同じ考えに至ってほしい」、といった前提である。投票率がいくら向上したからと言って、自分が支持しない政党の得票率が向上すれば、それを喜ぶ人はいないだろう。人間は政治や社会について、他人にも自分と同じような考えに至ってほしいと考えて行動する生き物なのである。</p>

<p>この側面に注目すると、政治におけるエビデンスの重用の背景には、他者を説得したいという意図があるのだとわかる。誰もが納得できる数字データを出しさえすれば、相手は自分に同意し、自分と同じ立場に立ってくれるだろう、という期待が、エビデンスを用いて相手をやり込める態度にもつながる。そして、自分の党派を支持するようなデータを示したにもかかわらず、相手が自分と同じ立場に立たない時、「どこかからお金をもらっている」だとか、「陰謀によってコントロールされている」だとかいった邪推に至ってしまう。</p>

<p>数字そのものは客観的で、動かしようがないものに見える。だが、そもそもの集計の仕方に悪意があったり、数字の解釈が偏っていたりする場合も少なくない。数字があるからといって、万人が同じ結論に至るのは、ありえない想定なのである。</p>

<p>そもそも、上でも述べたように、政治的な価値観は、エビデンスに基づいていなくともよい。もちろん、個々の政策論や方針、価値観を支える要素については、正確な情報が求められるし、それをめぐる議論があってしかるべきだろう。だが、政治的な判断は、必ずしもエビデンスに基づいて行われるわけではない。</p>

<p>要するに、「自分と同じ情報を得れば、自分と同じような立場にみんななるハズだ」というのは、根拠のない思い上がりなのだ。そうした思い上がりを前提に、「お前は金をもらっているのか」などと言うのは、他者や社会に対する理解を欠いた態度である。エビデンスを用いることはもちろん大事なのだが、その濫用は、このような態度を助長しかねず、かえって問題の解決から遠ざかると言わざるを得ない。</p>

<p>だが、だからと言って「あなたはあなたの考えがあるのですね、私には私の考えがあります」だけで済ましてしまえばよいかというと、そうではない。その先にあるのは、相対主義の蔓延であり、ニヒリズムへの頽落である。そもそも、相手に自分と同じ立場に立ってほしい、そうではなくとも、それを理解してほしいと欲望することは、社会や政治における他者との関わりの第一歩である。それを否定してしまうと、他者に対して関わりや関心を持つことすらできない。</p>

<p>よって、ここでもなお我々は「あいだ」を行かなければならない。たとえ、相手が自分の提示した情報を認識したとしても、態度を変えることはないかもしれない。だが、それは自分と相手の間にある価値観の違いによるものかもしれない。そのような、自分にとっては受け入れ難いような他者が存在しているのが社会である。</p>

<p>陰謀論の根本的な問題は、そうした事実を隠蔽し、「自分と違う考えの人の背後には、何かしらの邪悪な意図があるに違いない」などと思わせることにある。これは、自らと相容れない他者がいるという事実に耐えられない人間が自らを守るために生み出す虚構に過ぎない。そのような虚構を排し、自分の考えとは違う人間が当たり前にいる現状を受け止め、そうした相容れない他者が隣り合う社会をどのように目指していくかが課題なのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 29 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[杉谷和哉（岩手県立大学准教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「データがあるから正しい」の罠　数字は“解釈”で簡単に操作される  杉谷和哉（岩手県立大学准教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14259</link>
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			<description><![CDATA[EBPM（エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏に政治家や専門家、研究者といった肩書を持つ人たちが意図的に使う数字（エビデンス）ことについて解説して頂きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「データがあるから正しい」は危険" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/presentation.jpg" width="1200" /></p>

<p>個々人が数字に振り回される現状、それを崇拝して自らの人生の善し悪しの判断すらも委ねてしまう──このような一幕は、現代社会の批判としてしばしば登場してきたし、SNSがなかった時代、人々は銀行預金の残高や所持している資産で自分と他人を比べてきた。</p>

<p>こうした人間の「さもしさ」は古来変わっていない。だが、数字をめぐるさまざまな詐術やすれ違いが、より一層深刻になるのは、これが政治権力と結びついた時である。</p>

<p>そう語るのは、EBPM（Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏である。<br />
本稿では、その杉谷氏に政治家や専門家、研究者といった肩書を持つ人たちが意図的に使う数字（エビデンス）について解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>外国人問題におけるグラフの恣意的な読み違え</h2>

<p>2025年の参議院議員選挙で、「日本人ファースト」を掲げる参政党の候補者が、「外国人には生活保護を受給する権利がない」にもかかわらず、「外国人が生活保護を優先的に受給している」と街頭演説で述べた。「排外主義」だと指摘される参政党だが、この候補者の主張はそれを裏付けるものとして批判された。</p>

<p>この件を報じた『毎日新聞』の記事が正確に指摘しているように、この候補者の発言には、事実と噓が織り交ぜられている。まず、基本的に外国人は生活保護の受給資格を有していない。だが、一定の在留資格を有する外国人らに対しては行政措置の一環として生活保護が受給されてきた経緯がある。</p>

<p>では、外国人の生活保護受給者が多いとの主張はどうだろうか？SNSを席巻したある投稿によれば、生活保護を受給する世帯の3分の1は外国人世帯だという。ご丁寧にグラフまでついている。そのグラフによれば、外国人の生活保護受給世帯は約57万世帯にのぼっている。全国の生活保護受給世帯数が約165万世帯である事実に鑑みれば、確かに先の投稿は事実であるようにも思える。</p>

<p>だが、そのグラフは「年間のべ総数」であり、毎月の外国人の受給世帯数を12か月分積み上げた数字であった。正確に言えば、外国人が世帯主の家庭のうち、生活保護を受けているのは約5万世帯程度に過ぎない。これはせいぜいのところ約3％に過ぎず、外国人が生活保護を優先されているという事実はないことが、この数字からもハッキリとわかる。</p>

<p>以上のエピソードは、グラフの恣意的な読み替えによる、明らかな政治的詐術であるが、実際には数字やデータには解釈の余地が存在する場合も多く、何をもって現状が「良い」のか「悪い」のか判断するのは案外と難しい。外国人が世帯主である世帯の生活保護受給率の3％を「多い」と判断するのはさすがに無理があるが、他に目を転じれば、判断に迷うケースは珍しくない。</p>

<p>たとえば、何をもって景気の良さを判断するのか、という問題を考えてみよう。日本銀行のホームページには、国内総生産（GDP）が適しているとの記載がある。これに対して、いわゆる「株価」を景気の判断基準に挙げる立場もある。株価については、2025年に日経平均株価の終値が史上最高値を更新するなど、上向きのニュースが相次いだ。しかし、いくら株価が上がっているからといって、景気の向上を実感している人は多くないかもしれない。むしろ株価への注力は、一部の富裕層にだけ肩入れしているとの批判も招きうるだろうまた、日銀が依拠しているGDPに対しても批判は根強く、別の指標を用いるべきとの声は絶えない。</p>

<p>今ある数字を多いと解釈するのか、少ないと解釈するのか。あるいは、どの数字を重視するのか。これらは数字を見ているだけでは判断がつかない時がある。明らかなデマや噓については、エビデンスを用いて批判する必要があるが、政治側が都合の良いように数字や情報を解釈する場合において、論争の出口を見出すのは決して容易ではない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>科学は絶対間違えない？</h2>

<p>出口のない論争を前に、「誰か決めてくれる人はいないのか」と思う人もいるだろう。</p>

<p>数字を正しく解釈するにあたっては、専門的な知識が必要となる。そうであれば、各分野の専門家、優れた頭脳を持っている研究者の言うことを聞けばいいとの発想に至るかもしれない。専門家は高度なトレーニングを受けているし、社会からも信頼が厚い。彼らの言っていることを信じておけば、間違いは起きない...果たして本当にそうだろうか。</p>

<p>実のところ、科学者や研究者が意図的に噓をついて、人々を騙すという事態は決して珍しくない。科学史家で環境学者のナオミ・オレスケスと歴史家のエリック・コンウェイによる共著、『世界を騙しつづける科学者たち』（原題はMerchants of Doubt:How a Handful of Scientists Obscured the Truth on Issues from Tobacco Smoke to Global Warming、邦訳は『世界を騙しつづける科学者たち』楽工社、上下巻）は、科学者たちがどのようにして世界を騙し続けてきたかについて述べられた著作である。</p>

<p>オレスケスらはこの本の中で、タバコの害や地球温暖化の影響を過小評価する研究者らの実態を克明に描いている。タバコは実はそれほど体に悪くない、だとか、地球は実は温暖化していない、といった情報は、研究者の肩書を持った者によって流布される。中には、立派な身分を持った人物もおり、一見すると信憑性が高い。だが、そうした人物の裏には企業や業界団体がついている。研究者らはそうした組織からさまざまな形での資金援助を受けており、その利益に沿った活動をしているに過ぎない。科学の名を借りて、一部のステークホルダーに肩入れをする姿勢は、政策決定を歪めるとして厳しく批判されている。</p>

<p>科学者らのこうした姿勢は今日において極めて大きな問題とされており、対策もなされている。そのうちの一つが「利益相反」のルールである。</p>

<p>たとえば、ある研究者がタバコに関する研究に取り組む時、タバコ会社から資金援助をもらっていたら、その実態を開示しなければならない。もし、その開示を怠ったら、場合によっては研究成果の撤回すらもありうる。こうした厳しいルールの下、科学的な営為の中立性を確保しようとする試みがなされているのである。</p>

<p>このようなエピソードは枚挙に暇がない。清廉潔白で真実を追い求める研究者像とはかけ離れた実像に驚く人も多いのではないだろうか。そもそも、理想的な研究者像として思い浮かぶような、謙虚で、いざとなれば自説を修正し、常に真理に忠実な研究者のほうが、珍しい存在なのかもしれない。というのも、利益などに基づいておらずとも、先入観から間違った自説にこだわってしまい、結果として科学の停滞に手を貸してしまう事例も珍しくないのである。</p>

<p>それでは、次のように考えるのはどうだろうか。我々は科学者や専門家という肩書に惑わされることなく、その主張をしっかりと吟味すべきだ。換言すれば、権威に惑わされることなく、専門家であっても間違えることがあると考えた上で、その言説を見つめるのが望ましい。いや、むしろ専門家であるからこそ、何らかの利害関係の中で発言している可能性すらあるのだ、と。</p>

<p>一見すると正しいように見える理路だが、このように論を運べば、たちまち我々は陰謀論、フェイクニュースの罠にはまり込むことになる。偉い先生だからと言って最初から何でもかんでも信じてはいけない、ひょっとしたら利害関係があるかもしれない...こうした疑いは、科学の健全な発展を促す側面もあるが、社会における科学への信頼全体の棄損をも招きかねない。学術の健全さを保つ「良い」疑いと、誤った物語によって社会を間違った方向へ導く「陰謀論」の間は、紙一重であるとすら言えるのである。</p>

<p>数字も専門家も信用できない、かといって、それらを全て無視することもできない...袋小路に嵌った我々は、何を信じていけばよいのだろうか？</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/presentation.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 26 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[杉谷和哉（岩手県立大学准教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「数値化」と「透明性」が招く弊害　データはこうして“捏造”される  杉谷和哉（岩手県立大学准教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14258</link>
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			<description><![CDATA[EBPM（エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏に数字をめぐる悲喜劇を描出した多くの書籍の中から、『測りすぎ』について解説して頂きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「測りすぎ」はなぜ失敗を招くのか？" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_shiryousakusei_PC.jpg" width="1200" /></p>

<p>我々は「エビデンス」や「数字」を用いることで、社会やビジネスを合理化できると考えていたのに、その理想からは遥か遠いところに来てしまったようである。</p>

<p>そう語るのは、EBPM（Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏である。<br />
本稿では、その杉谷氏に数字をめぐる悲喜劇を描出した多くの書籍の中から、『測りすぎ』について解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>『測りすぎ』数字によるトリック</h2>

<p>数値や指標を用いたマネジメントは、我々の社会を飛躍的に進歩させた。しかし、それは同時にさまざまな問題も引き起こしている。</p>

<p>こうした事態を活写した著作も、今や枚挙に暇がないほどだが、中でも有名な一冊は、『資本主義の思想史』（邦訳は東洋経済新報社より刊行）の著者であり、ヨーロッパ知性史を専門とするジェリー・Z・ミュラーによる『測りすぎ』（原題はThe Tyranny of Metrics、邦訳は『測りすぎ：なぜパフォーマンス評価は失敗するのか？』［みすず書房］）である。</p>

<p>ミュラーはその著作において、テイラーの科学的管理法から始まり、「マクナマラの誤謬」に至る数値に振り回されて失敗した経緯を描出している。ミュラーによれば、測定の営為がこれほどまでに社会で影響力を保持するようになった背景には、「信頼」が関係している。</p>

<p>「信頼」の話に取り掛かる前に、アカウンタビリティの概念を確認する必要があるだろう。アカウンタビリティは、ある決定や行動に対して、それをなぜ行ったのかを説明させ、それが誤りだった場合には責任をとらせるという発想である。アカウンタビリティ自体は民主主義を強化し、よりよい政治や社会を生み出すために必要不可欠なものなのだが、これが誤った形で社会に実装されると、問題が起きる。</p>

<p>日本における政策評価の第一人者である山谷清志は、「アカウンタビリティのジレンマ」という概念を通じて、この点を説明している。アカウンタビリティのジレンマとは、アカウンタビリティの確保をやろうとすると、それに手間が取られて本業が疎かになる事態を指している。</p>

<p>たとえば、私たち大学教員は、自分たちの研究がいかに社会において必要なのか、成果はどれくらい上がったのかといったことを日々、報告する義務がある。また、研究費の適切な利用のための種々の研修も受ける必要があり、その量たるや膨大なものがある。いずれも不要であるとは言えない。だが、これらの作業が自己目的化すると、とにもかくにもうまくやり過ごすために「作業ゲー」を繰り返していくことになってしまう。</p>

<p>これは政策評価においても同様である。ほとんどの人が見ないし読まない評価資料が大量に積み上げられている事態は、評価業務がかえって本業を圧迫している点で、典型的な「アカウンタビリティのジレンマ」だと言えるだろう。</p>

<p>アカウンタビリティの追求による組織のパフォーマンスの低下が、いわゆる「測りすぎ」の弊害の一つである。ミュラーは、特に米国において、公共部門の効率性への不信感が高まり、透明性の徹底やアカウンタビリティの強化を求める動きが強まったと指摘する。政府や自治体がキチンと仕事をしているかを疑い、その監視を欠かさないというのは、民主主義社会における理想的な市民の姿で、決して責められるべきものではないのだが、その姿勢こそがアカウンタビリティのジレンマをもたらす。</p>

<p>アカウンタビリティのジレンマは、そもそも何のためにアカウンタビリティを確保するのか、どの程度の情報が必要なのかといった点の吟味が不十分なために起きる。その場しのぎの目標設定、形だけの情報公開といったことが、アカウンタビリティ確保のための際限ない作業を生み出すのである。いずれにせよ、ここでは、政府への厳しい目線が数字による管理の導入を後押ししたのだという観点を強調しておきたい。</p>

<p>「測りすぎ」はさまざまな弊害をもたらす。たとえば、英語の論文の数を研究者の評価として指標にした時に何が起きるだろうか。投稿料を払いさえすれば、名前ばかりの査読で論文を掲載するジャーナル（いわゆる「粗悪学術誌」）が登場し、少なくない研究者がそこに投稿する。評価する側は「これはいけない」と言わんばかりに別の策を講じる。質の高い論文でなければ意味はないので、その論文がどれくらい引用されている有用なものなのかを測る「インパクトファクター」と呼ばれる指標を用いるのである。</p>

<p>これで出版されている論文の質を評価することができる、と思われるかもしれないが、実際には身内で不必要な引用や参照を繰り返してインパクトファクターを水増しする行為が横行している。となると、この指標だけでは不十分で、いっそのこと一部の有力誌に発表された雑誌だけを評価する、という極端な方式のほうがいいかもしれない、との発想に至る。だが、そのような有力誌は数が少ないし、国際誌では評価されない大事な研究の価値を不当に下げることにもつながる。正確に物事を測るのは実に難しいのだ。</p>

<p>また、ミュラーが『測りすぎ』の中で取り上げている、警察の統計をめぐる一幕は数字を前にした人間の行動を表していて興味深い。</p>

<p>米国の政治家にとって、自分の州の重大犯罪率は気になる情報だ。殺人や放火といった重大な犯罪の件数が多ければ現職にとって不利になる。現職から議席を奪おうとしている対立候補は、ここぞとばかりに現職の無能さを強調するだろう。</p>

<p>そこで現職は警察に対して、とりわけ重大犯罪の犯罪率を下げるように有形無形のプレッシャーをかける。あなたが警察幹部ならどうするだろうか。さすがに犯罪そのものを隠蔽するのは大事で、工作は大変だし、バレたりすればタダでは済まない。だが、犯罪の区分の操作は比較的簡単である。議員が気にしているのは重大犯罪の件数であるため、そこをうまく調整してやればいい。侵入窃盗は「不法侵入」、強盗は「ひったくり」といった具合に、重大犯罪を軽犯罪であるかのように扱えば、治安はそれほど悪化していないかのように見せかけられるわけである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>透明性の重視が招く弊害</h2>

<p>このような数字によるトリックが、ありとあらゆるところで起きている、とするのがミュラーの主張なのだが、ここでさらに興味深い指摘をもう一つ取り上げておこう。それは、「透明性」に関する議論である。</p>

<p>ある組織に不正が見つかった時、しばしば求められるのが、「適切なガバナンス」であり、それを支えるのが「透明性」だとされている。透明性を確保するには、ある組織での意思決定が、どのようになされ、なぜそのような決定に至ったかをつまびらかに公表すればいい。具体的に言えば、意思決定に関与した組織を公表し、それらの議事録、意思決定者が誰だったのかを示す公式の資料などの公表が求められる。</p>

<p>透明性は、よりよい組織運用のために必要であるように思える。だが、ミュラーはこのような方針が、議事録の削除のような、記録をそもそも残さないという行動を誘発し、さらには意思決定におけるやり取りで、決定的なことをあえて言わない、隠蔽するといったことを招くと論じる。外交や諜報にあたっては、より一層その側面があるとミュラーは強調する。秘密外交は弊害ももたらすが、国家間の交渉の全てを公にしてしまったら、まとまるものもまとまらないからである。</p>

<p>「透明性」は昔からありとあらゆる問題の解決策として提示されてきた。いわば「万能薬」に近い扱いを受けてきた。今日でも日本のマスコミでは、何かしらの問題に対して「透明性」を掲げることは珍しくない。だが子細に問題を眺めていけば、「透明性」が解決策として通用するのは、ごく一部の限られた領域の問題に過ぎないこともはっきりしている。日本において、アジア・太平洋戦争の終戦工作を、透明性をもって行っていたらどうなっていただろうか？　おそらく終戦に反発する勢力の妨害工作が盛んになったばかりか、一般民衆の反応も予測がつかないものになったのではあるまいか。「透明性」そのものは大切に違いないのだが、それをありとあらゆるところに持ち出すのには、注意が必要だというのがここでの教訓なのだ。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_shiryousakusei_PC.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 21 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[杉谷和哉（岩手県立大学准教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>エビデンス至上主義の落とし穴　「マクナマラの誤謬」と、ヴェトナム戦争“圧勝”の正体  杉谷和哉（岩手県立大学准教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14257</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014257</guid>
			<description><![CDATA[EBPM（エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏に「マクナマラの誤謬」について解説して頂きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="マクナマラの誤謬" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_whitehouseG.jpg" width="1200" /></p>

<p>「エビデンス」という言葉が世間に飛び交うようになって久しい。<br />
ありとあらゆる局面で、「それはエビデンスがあるんですか？」といった、「煽り」のような文言を見かけないだろうか。</p>

<p>しかし、エビデンスがありさえすれば、全ての物事が簡単に片付くかというと、話はそう単純ではない。</p>

<p>本稿では、EBPM（Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成）を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏に「マクナマラの誤謬」について解説して頂きます。</p>

<p>※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ロバート・マクナマラという男</h2>

<p>質の高いエビデンスを積み重ね、それに基づいた政策をつくり、意思決定を改善していけば、問題は解決できるだろう──このような発想が陥る罠を語る上で、欠かせない人物がいる、ロバート・マクナマラである。</p>

<p>靴卸業会社の営業部部長の父親をもつマクナマラは、1916年にサンフランシスコで生まれた。マクナマラの母親は厳しく彼をしつけ、競争に打ち勝つことが正しいと教え込んだ。当時の学校には日本人を含めた移民が多く、マクナマラは母の教えを守るべく、多人種間での競争に勝つために必死で勉強した。ハーバード大学のビジネススクールに進学すると、会計学の才能に目覚め、高い能力を発揮するようになった。</p>

<p>第二次世界大戦が始まると、マクナマラは米国陸軍へ入隊した。それと軌を一にするかのように、当時陸軍では統計を用いた戦略立案や、軍需産業のコントロールといったイシューが重視されていた。マクナマラはその才を買われ、陸軍が開始したプロジェクトの中心的な人物として頭角を現していく。</p>

<p>マクナマラの戦争への貢献の一つが、戦略爆撃の立案である。彼は得意の数字を用いたシミュレーションによって、どの地域を爆撃すれば最も効果的に敵にダメージを与えられるかを割り出すことに成功した。これらの知見は、日本の都市への爆撃にも応用された。</p>

<p>第二次世界大戦が終結した後、マクナマラは上司の売り込みもあり、自動車メーカーのフォード社に幹部候補生の位置づけで入社する。当時のフォード社は同族経営の会社ということもあり、旧態依然とした経営が幅を利かせており、ライバル会社のゼネラルモーターズに水をあけられていた。マクナマラをはじめとした、統計に秀でたチームは当時、「神童（ウィズ・キッズ）」などと呼ばれ、フォードの経営を急速に近代化していくことで、ライバル会社との競争を勝ち抜こうとした。</p>

<p>結果としてフォード社の業績は回復する。この会社経営の成功に、マクナマラをはじめとした「神童」たちがどれくらい貢献したのか、実のところ議論の余地がないわけではないのだが、いずれにしてもマクナマラはその名声を大いに高めることに成功した。同族経営だったフォード社にあってマクナマラは、一族以外の者としてははじめて、社長に就任することになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「マクナマラの誤謬」</h2>

<p>マクナマラが社長に就任して一年も経たないうちに、大きな転機が訪れた。1960年に米国大統領となったジョン・F・ケネディが、マクナマラを国防長官に任命したのである。</p>

<p>ケネディがマクナマラを国防長官にした理由については、いくつかの要因が指摘されている。ケネディは自分の知見が、特に安全保障政策分野については他分野と比して弱いと自覚しており、信頼のたるベテランを据えたいと考えたのだと一説には言われている。外交政策の中枢に長年関与してきた第一候補へ打診するも断られたケネディは、代わりにマクナマラを推薦されたのである。</p>

<p>フォード社の社長として順風満帆な人生を歩みだしていたマクナマラは、ケネディからのオファーを一度は断った。マクナマラは、自身が安全保障の専門家ではないと自覚しており、大統領の期待に応えるのは難しいと考えていたようだ。なお、収入面については圧倒的に下がることになるのだが、マクナマラを含むのちの関係者の証言によれば、その件については本人も家族も、さほど気にはしなかったようである。</p>

<p>この時、ケネディがマクナマラに提示したのは、財務長官の職と国防長官の職のどちらかであった。マクナマラとしては財務長官よりも国防長官の職に関心があったようである。これに対してケネディは、「大統領になるための学校はないし、自分もそこを出ていない」という趣旨の返答をしたとの逸話が残っている。これはケネディの人柄を表す有名なエピソードとして今日でも語り継がれており、マクナマラはこうしたケネディの気さくな人格に好感を持ち、オファーを引き受けることにしたそうだ。</p>

<p>国防総省の長官に収まったマクナマラは、フォード社での経験を活かして国防政策全体の合理化に取り組むことになる。その一環として導入されたのが、PPBS（Planning Programming Budgeting Systems）である。</p>

<p>PPBSとは、事前シミュレーションによって政策の効果を把握し、それに基づいて適切な予算配分を決定するという企てであった。当時、国防省を中心に導入が試みられたのだが、さまざまな要因によってうまくいかなかった。</p>

<p>PPBSのもたらした教訓はいくつもあるが、中でも重要なものの一つが、現実の不確実性があまりに高いため、完璧なシミュレーションが難しい点である。「想定外」という言葉が、大規模な災害が起きるたびに繰り返されるが、現実が理論を追い越すのは珍しくない。どれほど透徹した理論があろうと、充実したデータセットがあろうと、未来を完全に見通すのは不可能なのだ。</p>

<p>マクナマラは国防総省の長官の座にあって、このように大小さまざまな成功と失敗を経験するのだが、中でも後世まで語り継がれる巨大な「失敗」の一つがヴェトナム戦争である。</p>

<p>ヴェトナム戦争は、ケネディ大統領の時代に始まった。マクナマラはヴェトナム戦争を指揮するにあたって、データを重視した戦略を組み立てることを強調した。その中で彼が掲げたのが、「ボディー・カウント」と呼ばれる方法である。これは、敵の戦死者数を計測したもので、戦況を適切に把握するために用いられた尺度の一つである。マクナマラは自身の回顧録で次のように述べる。</p>

<p>--------------------------------------------------------------------<br />
私はハーバードの大学院時代以来、一つのルールに従ってやってきました。ある目的と、それをやり遂げる計画を考え出すだけでは不十分である。その目的を達成しつつあるかどうかを判定するため、計画（の進行度）を監視しなければならない、というのがそれです。もし計画が達成されていないことが発見されれば、計画を修正するか、目的を変更するかです。（味方の進出度を示す）前線といった確たるものを追跡することは、不可能かもしれませんが、成功か失敗かをほのめかすような変数を見つけることはできるだろうと、私は確信していました。そこで我々は、北ヴェトナムで破壊された目標、ホーチミン・ルートを南下する交通量、捕虜の数、捕獲した兵器の数、敵の戦死者数（ボディー・カウント）などを計測したのです。<br />
--------------------------------------------------------------------</p>

<p>マクナマラによれば、敵の損耗率と味方の損耗率を比べた時、ある一定のライン＝損益分岐点を超えれば、戦争に勝利することができるとの想定があった。「損益分岐点を超える」とは、敵（この場合は北ヴェトナム）がこれ以上戦争を続けることができないほどに戦力を失うことを意味している。同時に、米軍ならびに味方（この場合は南ヴェトナム）の損失も測定しておくことで、戦況の把握ができる、というのがマクナマラの言い分である。</p>

<p>しかしながら、我々が知っての通り、ヴェトナム戦争において米国が勝利を掴むことはなかった。理由はさまざまあるが、マクナマラ自身は北ヴェトナムの粘り強い抵抗の背景にあったナショナリズムの軽視などを要因として挙げている。北ヴェトナムが膨大な犠牲を出しながらも戦い抜くという、「非合理的」にも思える選択を行なった要因についてマクナマラは勘定に入れ損ねたのであった。</p>

<p>ナショナリズムや愛国心といった要因は、数字には表れにくい。このため、数字に基づく要因のみを扱うことになるが、これが過ちの原因になるのだ。このように、測定可能な概念にのみ執着するがあまり、大きな過ちを犯すことを、社会学者のダニエル・ヤンケロヴィッチは「マクナマラの誤謬」（McNamara&nbsp;Fallacy）と呼んだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>民間人の死が戦果として報告される</h2>

<p>「ボディー・カウント」の問題はこれだけではなかった。マクナマラが導入した方式は「業績測定」と呼ばれるものである。一般的な民間企業のほとんどが、従業員の業績を測り、それに応じた報酬を与えるマネジメントを行っている。こうしたマネジメントの方法を「業績管理」などと呼ぶが、マクナマラはヴェトナム戦争においてこの方策を導入した。多くの敵兵を殺した部隊に対して多くの報酬を与えたり、休暇を増やしたり、支給される物資の質を上げたりしたのである。</p>

<p>インセンティヴの設計を工夫し、人々の行動を促す手法は、民間企業に限らず公共政策でもしばしば用いられる。人々に行動を強制せず、促すことで行動変容を仕掛けるインセンティヴは、多くの場面で用いられがちだ。</p>

<p>結論から言えば、マクナマラの目論見は全くうまくいかなかった。まず起きたのが戦果の水増しである。これは単純に、報酬が欲しくて殺害した敵兵の数を実態よりも多く報告したという側面もあるのだが、ヴェトナム戦争における、ある種の条件も関係していたので補足が必要だ。</p>

<p>ヴェトナム戦争において米国はゲリラに苦しめられたことで知られている。民間人に扮装して村々に潜伏したヴェトコンが、突如として兵士に襲い掛かるのである。米兵のメンタルは猜疑心に蝕まれ、民間人の虐殺が発生した。こうした事態は多くの戦場でも見られることで、民間人の虐殺が生じる原因の一つとして知られている。ヴェトナム戦争の場合、この条件が数値目標と重なって事態の悪化を招いたと言える。</p>

<p>たとえ意図的でなくとも、村を丸ごとナパーム弾で焼き払うなどの大雑把な作戦が実行に移され、大量の民間人が巻き添えになって死亡する事態が多発した。その民間人の死体を戦果として報告するのである。結果として実態のない戦果の水増しがあちこちで起きて、米国政府中枢にあがってくるデータはとんでもなく肥大化したものとなった。</p>

<p>数字の上ではたくさんの敵兵を殺しているので「圧勝」である。しかし、それらの数字の中には多くの非戦闘員も含まれていた。マクナマラをはじめとした米国政府は、このような誇張されたデータに基づいて戦争を進めていたわけである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_whitehouseG.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 18 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[杉谷和哉（岩手県立大学准教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ動画ではなく音声？ プロが解説する「ポッドキャスト躍進」の構造  野村高文（Podcastプロデューサー／Podcast Studio Chronicle代表）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14181</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014181</guid>
			<description><![CDATA[音声コンテンツはなぜ「長い情報」を届けられるのか。ポッドキャストの可能性と、情報過多時代に求められる&quot;質&quot;の重要性を、Podcastプロデューサーの野村高文氏が語る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="podcast" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_airpods.jpg" width="1200" /></p>


<p>短く刺激的な情報ばかりが消費される時代に、あえて&quot;長いコンテンツ&quot;を届けるメディアとして「音声」が再評価されている。可処分時間の奪い合いが激化するなかで、コンテンツのあり方はどう変わるのか。Podcastプロデューサーの野村高文氏に話を聞いた。</p>


<p>★本論稿は、意見集約プラットフォーム「Surfvote」と連動しています。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年3月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>音声コンテンツの可能性</h2>

<p>――野村さんはかつて『Voice』の編集者として活躍されたのち、外資系コンサルティング会社やウェブメディアの編集部を経て、2022年に制作レーベルを起ち上げられました。現在ポッドキャストを中心としたコンテンツの制作に携わっておられますが、独立した背景について、あらためて教えていただけますか。</p>

<p>【野村】大きく三つの観点から音声コンテンツに魅力や可能性を感じたからです。</p>

<p>一つ目は、純粋にビジネスとして十分に成立すると考えたことが理由です。私が独立を決意した5年前には、海外ではすでにポッドキャストというジャンルでの大きな成功譚が世界を駆け巡っていました。2020年にジョー・ローガンがスポティファイと200億円を超えるとされる額で独占配信契約を結んだと知ったときには、かなりの衝撃を受けましたね。</p>

<p>その前年の2019年には、ポッドキャストの制作会社ギムレット・メディアが、非公開ですが相当高い金額でスポティファイに買収されました。米国のマーケットが音声コンテンツの世界を、有力な「投資先」として目をつけていたわけです。よく米国のトレンドは10年遅れて日本に届くなどと語られますが、これらの動きを見て、遠くない将来に日本でも音声コンテンツが流行すると確信しました。</p>

<p>二つ目は、個人的な体験の話になります。私はウェブメディア編集者時代、TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ！」に週に一度、ニュースを解説するコメンテーターとして出演していました。そんなある日、タクシーに乗っていると、私の声を聞いた運転手の方から「お客さん、ラジオ出ていますよね?」と話しかけていただくことがあったのです。音声コンテンツは私が想像する以上に、人びとに届きやすく、記憶に残りやすいメディアであると肌で感じた印象的な出来事でした。</p>

<p>三つ目はいまも強く抱いている問題意識なのですが、私は紙やウェブの編集者時代には、何千字という「長いコンテンツ」を制作してきました。しかし年々、そうしたコンテンツは受容されにくくなっています。言うなれば、細切れの状態で消費されている。そんな状況で「長いコンテンツ」を届けるには何をするべきか、一編集者として独立前から真剣に考えていました。そうした思いもあり、音声コンテンツでチャレンジしたいと思い立ったのです。</p>

<p>――長いコンテンツを届けるうえで、音声という媒体はどこに強みがあるのでしょうか。</p>

<p>【野村】長いコンテンツが受容されなくなった理由を考えると、スマホの登場によって、我々が短い時間しか集中できなくなっていることが背景に挙げられるのではないでしょうか。スマホの画面を見ていると、断続的に表示されるプッシュ通知に象徴されるように、じっと集中して一つのコンテンツを見たり読んだりすることは難しいですよね。新たなテクノロジーによって、我々はそのように「作り変えられてしまった」とさえ言えるのかもしれません。</p>

<p>こうお話しすると、「スマホを置いて、紙の本を読めばいいじゃないか」という意見もあるかもしれません。でも世の中には本を読んでいる最中でさえ、スマホが気になる人が少なくないはずです。</p>

<p>ところが、スマホから受容するコンテンツで唯一、画面を見続ける必要がない媒体がある。それが音声です。画面を見ずに受容するという特性は、そのまま音声コンテンツの特性や可能性につながります。まず、ポッドキャストを流しながら料理や洗濯などの家事や運動、移動ができます。</p>

<p>また、つまらないからといって聴いているコンテンツをすぐ変えることも比較的少ない。ショート動画をスワイプするように番組を変える構造ではないし、料理している最中ならば、その途中にスマホは触らないでしょうから少なくとも20分や30分は一つの番組を聴いてもらえる。いまの時代、コンテンツを届ける側にとって、それだけまとまった時間を確保してもらえることが、どれだけ貴重なことか。以上から、私は音声こそが長いコンテンツを届けやすいメディアだと考えています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>いま問われるのは情報の「質」</h2>

<p>――そもそも、長いコンテンツを届けることの意味について、どのように考えているのでしょうか。</p>

<p>【野村】誰しもが目の前の課題を解決するため、ヒントや答えを得ようとネットを検索したことがあるでしょう。結果、課題を解決したり、生産性を向上させたりする価値は否定されるべきではありません。ですが私は、そうして情報を得るだけでは、「自分がいまいる空間」の外には出られない、と思うのです。よりわかりやすく言えば、ネット検索を通じていまの自分の課題は解決されても、人生や物事の見方を変えるような情報と出会うことは難しいように考えているのです。</p>

<p>私が大切だと思うのは、偶然見聞きした情報を日常生活のなかに取り込むことです。以前であれば、本や映画などの長いコンテンツからさまざまな気づきを得ていたはずですが、スマホが普及して集中力が続かなくなっているいま、音声コンテンツがその役割を担えるのではないでしょうか。</p>

<p>――長いコンテンツを届けるうえで、たとえば動画は有効なメディアではないのでしょうか。</p>

<p>【野村】もちろん可能性はあるはずです。ただ、少なくとも現在は目立つサムネイルでいかに人目を引いてクリックさせるか、という世界でしょう。私自身がつくりたいものとは違う、というのが率直な感想です。</p>

<p>ユーチューブとポッドキャストを比較すると、前者はアルゴリズムに評価されるか否かで再生回数にバラつきが出ます。すると制作側は、ユーザーが求めるコンテンツのみ量産することになる。それに対して、ポッドキャストは良くも悪くも毎回の再生回数は大きく変わりません。すると、自分が大事だと思った情報を比較的躊躇せず発信できるし、世の中に対してアジェンダをセッティングしやすい。コンテンツをつくるうえではマーケットインとプロダクトアウトのいずれも重要ですが、これらを両立しやすいのが音声というメディアなのです。</p>

<p>――長いコンテンツを届けてアジェンダをセッティングするという意味では、論壇誌が本来めざすべき方向性とも重なりそうです。</p>

<p>【野村】私もそう思いますね。かつて『Voice』を編集していた経験も、いまこうして音声コンテンツを制作するうえでの問題意識につながっています。アテンションに左右されることなく、本当に必要なことを議論するという意味では、論壇誌とポッドキャストは役割が近いのかもしれません。</p>

<p>――昨今メディアでは情報が氾濫することの危険性が強調されていますが、野村さんは本書で「情報を我慢することが正解だとは思わない」と指摘されています。私たちはこれから、どのように情報と向き合うべきでしょうか。</p>

<p>【野村】情報自体はニュートラルだと思うんです。良い影響も悪い影響も及ぼすことがある。一方で、食べ物と一緒で、生きていくうえで必要不可欠で、完全に情報を遮断して生きることは現実的ではないでしょう。いま問われるのは、食事で言えばダイエットと同じく、「口に入れるもの」の質ではないでしょうか。</p>

<p>刺激が強かったり、わかりやすかったりする記事は読んだ瞬間は気持ちよくなります。しかし次第にそうした情報に振り回されてしまったとき、はたして健全な状態と言えるでしょうか。我々自身が情報に対して主導権を握ったうえで、質の良いものを選ぶべきでしょう。そう考えたとき、長いコンテンツを届けうる音声メディアは、これからの時代に少なくない役割を果たせるはずです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_airpods.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 11 May 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[野村高文（Podcastプロデューサー／Podcast Studio Chronicle代表）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>戦争、テロ、自然災害、パンデミック...「オールハザード」の時代に求められる制度と法律とは  米村敏朗（元内閣危機管理監）,福田充（日本大学危機管理学部長・教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14184</link>
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			<description><![CDATA[高市政権が推し進めている国家情報局の設置をどう評価するべきか。スパイ防止法案の必要性は――。警視総監や内閣危機管理監などを歴任した米村敏朗氏と、 日本の危機管理研究の第一人者である福田充氏による対談の後編。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="オールハザード" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_map.jpg" width="1200" /></p>

<p>高市政権が推し進めている国家情報局の設置をどう評価するべきか。スパイ防止法案の必要性は――。警視総監や内閣危機管理監などを歴任した米村敏朗氏と、 日本の危機管理研究の第一人者である福田充氏による対談の後編。（構成：編集部）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>民主主義社会における「情報」の在り方</h2>

<p>【米村】国家の危機管理においては、たとえ悪い情報でも、というよりも悪い情報を国民に開示してこそ、危機管理は前に進むということです。国民の理解と協力がなければ、国の安全を維持することはできません。国民の理解と協力を得るためには情報の開示が必要です。ウィンストン・チャーチルは、第2次世界大戦で戦況がイギリスにとって極めて不利なとき、「我々は断じて目をつぶってはならない」と言って、ありのままを説明し、そのうえで国民を鼓舞しました。日本とは大違いです。</p>

<p>東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のＣＳＯ（チーフ・セキュリティ・オフィサー）を務めたとき、開催前は「コロナ禍の最中で無事に開催できるのだろうか」という非常にネガティブなムードがありました。それに対して、私はトランスペアレントな（透明性の高い）議論をすれば、理解してもらえるはずだと考え、あえてテレビに出演して現状を説明しました。当初は周囲に反対されましたが、やがて私以外の関係者もメディアで話すようになりましたね。</p>

<p>【福田】インテリジェンスが重要であることには間違いありませんが、いま先進国が悩んでいるのは、民主主義国家としてそれをいかに合法的に運営するか、という問題です。言い換えれば、民主主義的な社会におけるインテリジェンスの在り方が課題となっている。</p>

<p>インテリジェンス活動で集めた情報は、本来であれば開示を控えたいケースが存在しますが、他方で開示することが求められる側面もあります。昨今、セキュリティ・クリアランスやスパイ防止法について議論されていますが、結局のところ「社会で情報をどの程度共有すべきか、または秘匿すべきか」についての検討が必要です。この点を突き詰めることは、そのままリスクコミュニケーションにつながります。</p>

<p>もう一つ、民主主義の観点からお話しすると、情報公開が大事であるとともに、インテリジェンス・コミュニティの運用経験が乏しい日本で、政府のインテリジェンス活動が適切に運用されているか、どうチェックするかという問題も存在します。米国には、上下両院にインテリジェンス委員会が設置されています。</p>

<p>【米村】私が内閣危機管理監を務めていた2013年に成立したのが特定秘密保護法でした。当時、内閣情報調査室が作成した原案を見たときに「これは揉めるな」と直感したのですが、それは福田さんがお話しされたチェック機能が十分ではないと感じたからです。案の定、その後、この点が大きな議論を呼びました。</p>

<p>特定秘密保護法そのものについては、国家として当然整備されるべき法律でしょう。ただ、危機管理の現場で働いてきた人間として、嫌と言うほど情報が漏洩したケースを見てきました。これは人間の性なのか、人は秘密を知っているだけでは満足せず、誰かに喋りたくなる生き物なのかもしれません。この現実をふまえたうえでセキュリティ・クリアランスなどの制度を整えるとともに、インテリジェンス・コミュニティの情報の管理の在り方については、民主主義国家として厳しい目を向けなければいけません。</p>

<p>【福田】国家情報局が新設されるとして、その活動をどうチェックすべきでしょうか。たとえば特定秘密保護法については、適切に情報が管理・運営されているのか確認する情報監視審査会が国会に設置されています。インテリジェンス・コミュニティに対してもシヴィリアン・コントロールが必要です。</p>

<p>【米村】私は衆議院の情報監視審査会に出席したことがありますが、それなりには機能していると評価しています。ただしこれから問われるのが、やはり情報公開の在り方でしょう。政府のインテリジェンス・コミュニティが収集する情報とは国家の専有物ではありません。むしろ国民の共有物だと言うべきでしょう。</p>

<p>情報の収集もその活用も、国民の理解と協力がなければできない側面があります。もちろん、何でもすぐに開示することはできませんから、公にできる情報については何年後に公開するという開示基準を設けたうえで、それを国民に理解してもらう作業が必要です。</p>

<p>【福田】米国の場合はＦＯＩＡ（情報自由法）が定められていて、原則として入手から一定期間を経た情報は公開されますが、戦争など安全保障の分野を含む公開できない九つの適用除外事項も定めている。このように基準を設けて国民に周知することが求められるはずです。</p>

<p>【米村】おっしゃるとおりです。実際には米国がすべての法制度を適切に運用しているかと言えば疑問もありますが、それでも、このように基準を設けて国民に周知している点については学ぶべきでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>拉致事件のときにスパイ防止法があれば――</h2>

<p>【福田】高市政権ではスパイ防止法の導入についても検討されています。私は先ほどご紹介いただいた特定秘密保護法については、その是非が議論されていた当時より賛成の立場でした。なぜならば、近代国家が国民を守るためには、特定の機密情報を保護するのは当たり前のことだからです。しかも、実際に機密情報を漏洩して罰せられるのは政治家や公務員であり、一般市民ではないことも理解されるべき大事なポイントです。</p>

<p>一方で、スパイ防止法は特定秘密保護法と同じ「カウンター・インテリジェンス（防諜）」の機能を狙いとした法律ですが、他方で異なる性質をもつのも事実でしょう。機密情報を「漏らした人間」ではなく「収集して盗んだ人間」を罰するのがスパイ防止法です。私自身は、スパイ防止法に関しては時間をかけて検討すべきという慎重な立場ですが、制定の意義について、米村さんはどう考えますか。</p>

<p>【米村】まず、特定秘密保護法が制定された動機をもう一つお話しすると、日本がグローバルなインテリジェンス・コミュニティの一員として活動するためでもありました。提供する情報が守られるという保障がなければ、他国のコミュニティのメンバーは日本と連携してくれません。国際的に信頼を得るためにも特定秘密保護法は必要不可欠でした。</p>

<p>それに対して、スパイ防止法はわが国としてスパイ活動を放置してよいのか、という問題意識です。外事警察として働いていた経験から申し上げるならば、スパイ防止法が存在したほうが間違いなく活動しやすい。たとえば北朝鮮の拉致事件については、「あのときスパイ防止法があれば」と臍をかむ思いがします。</p>

<p>拉致事件の始まりは、1977年、東京・三鷹市役所の警備員が石川県で北朝鮮工作員によって拉致された事件だとされています（宇出津事件）。当時、石川県警は刑法で言う所在国外移送目的拐取罪で立件しようとしましたが、「本当に本人の意志に反していたのか証拠がない」とする地検と対立し、立件に至りませんでした。北朝鮮の拉致事件を「捜査」という観点から捉えるかぎり、どこまでも容疑性の問題になってしまいます。しかし一連の拉致事件は、北朝鮮の国家機関がわが国の主権を踏みにじり、次々に日本国民を北朝鮮に拉致するという、日本の危機管理の問題にほかなりません。拉致協力者の自宅からは、スパイ道具の乱数表や暗号解読表などが押収されています。実態に適用できる法律の制定は、国家の危機管理上必要なことです。</p>

<p>実際に北朝鮮の工作員は日本に潜入して米軍基地などの調査もしていたわけで、スパイ防止法の対象となりうる存在でした。もちろん、戦前の治安維持法を想起して反発する国民の声は十分斟酌すべきものであり、法律が乱用されないような監視システムが求められます。</p>

<p>【福田】戦後の長い期間は、戦争やテロが安全保障の主領域として語られてきましたが、もはや安全保障が総合化している時代でしょう。現に「経済安全保障」「食料安全保障」「エネルギー安全保障」「情報安全保障」などの言葉が定着していて、私は「感染症安全保障」という概念も提唱しています。</p>

<p>いずれにせよ、危機管理と同様に安全保障が「オールハザード化」した現代においては、スパイが狙う情報も多様化しているわけで、スパイ防止法についてもどれだけそうした広がりに対処できるかが問われます。これまでの法制度とは違う仕組みを検討しなければ、オールハザードの時代に対応することは難しいかもしれない。</p>

<p>【米村】一つ言えることは、国家情報局をつくるのにスパイ防止法が存在しないのであれば、それは矛盾した話です。この二つはセットで考えるべきでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「オールハザード」の時代に求められる体制</h2>

<p>【福田】私が教鞭を執る日本大学危機管理学部は「オールハザード・アプローチ」という表現を用いていて、危機管理とはすべての危機に対応できるようにしなければいけない、という問題意識を抱いています。国家としても当然、戦争やテロにかぎらない「オールハザード」に備えなければいけないわけですが、そのためには平時からどのような備えが求められるでしょうか。</p>

<p>【米村】東京電力会長などを務められた平岩外四さんは、企業マインドとして「事いまだ成らず小心翼々。事まさに成らんとす大胆不敵。事すでに成る油断大敵」が大事だとお話しされていましたが、「事いまだ成らず小心翼々」は、私が冒頭で申し上げた「想像と準備」と同じ意味でしょう。そしてそれは、まさしく「オールハザード」に対処するうえで求められる態度です。</p>

<p>実務面のお話をすると、「オールハザード」の時代であることは間違いないけれども、他方で危機の種類によって対処法は異なります。さらに言えば、同じ種類の危機でもケースによって対応は異なる。</p>

<p>2009年にメキシコのベラクルスで新型インフルエンザが発生すると、やがて世界はパンデミックに覆われましたが、翌2010年にはバンクーバーオリンピック・パラリンピックが予定どおり開催され、2021年の東京オリンピックのときのような対策も講じられませんでした。2009年の新型インフルエンザの致死性は季節性の場合とほぼ変わらず、しかもタミフルやリレンザという薬が効いたからです。このように、同じ新感染症の領域でさえ、感染力や致死性の違いによって危機管理対応は大きく変わります。</p>

<p>もう一つ申し上げると、オールハザードのうち日本にとって最大のテーマは、やはり「自然災害」でしょう。日本は地震や台風、火山などのリスクが圧倒的に高い。ですから私は、これらの対策に特化した組織が必要だと考えています。私が務めた内閣危機管理監も、1995年の阪神・淡路大震災のときに官邸に情報が入ってこなかったことへの反省をふまえ、3年後の1998年に内閣官房に設置された官職です。その意味では、コロナ禍を経た2023年、感染症に特化した内閣感染症危機管理統括庁を設立したのは歓迎すべきことでした。</p>

<p>【福田】じつは私が危機管理学の研究を始めるきっかけも阪神・淡路大震災でした。当時は大学院生で、兵庫県西宮市の出身で生まれ故郷が被災しましたが、被災地の調査をしたときに「これは人災だ」と痛感しました。関西人の防災意識がもう少し高ければ、あるいは自衛隊の出動がもう少し早ければ、救えた命がもっとあったのではないかと思ったのです。そして、その2カ月後に東京を襲ったのが地下鉄サリン事件でした。</p>

<p>米村さんにご指摘いただいたように、危機管理とは結局のところ、個別のケースにプラクティカルに（応用的に）対応しなければいけない性質があります。それに対処できる組織や法制度が求められるというのが本日の議論ですが、話題に出た国家情報局は、そこまで網を張れるでしょうか。</p>

<p>【米村】私のイメージとしては、国家安全保障に関わる領域に限定するのが合理的ではないでしょうか。もしも自然災害や感染症などの情報まで国家情報局に集めてしまえば、おそらく収拾がつかなくなります。だからこそ、もっとも「身近」と表現すべき自然災害の危機管理に特化した組織があって然るべきだと思うのです。</p>

<p>現状、内閣危機管理監は自然災害などが起きたあとの初動対応がメインですが、平時からの「想像と準備」がなければ初動対応にも限界があります。防災庁をつくるのであれば、平時と非常時の活動についてそれぞれどう制度設計するのかも含めて議論するべきでしょう。</p>

<p>【福田】防災庁は内閣感染症危機管理統括庁と同様、まさに平時から危機管理に向けて活動する組織として位置づけるべきです。国家情報局や防災庁を設立すると仮定して、次なる課題はそれぞれの役割や所掌範囲をどのように位置づけて、情報をいかに集約し共有するかというグランドデザインを描くことになります。</p>

<p>【米村】国家の危機管理の責任者はトップである内閣総理大臣です。危機管理はまさしくトップの仕事で、部下任せにはできません。企業でも同じことでしょう。トップでなければ判断できない問題はいくらでもあって、ならば実際の権限や情報をいかに収斂させて、決断を担保するか、そのスキームを慎重に考えるべきで、そのうえで全体のグランドデザインを検討すべきでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>危機管理は国民の共有物</h2>

<p>【福田】一方、危機管理についてすべてが「国任せ」ではオールハザードに対処することは難しいでしょう。国民に求めるべき意識については、米村さんはどのようにお考えなのでしょうか。</p>

<p>【米村】私は1986年から1989年まで、当時は旧ユーゴスラビアだったベオグラード（現セルビア共和国）に三年間勤務しました。旧ユーゴスラビアとは「1つの国家」「2つの文字」「3つの宗教」「4つの言語」「5つの民族」「6つの共和国」「7つの国境」があると言われる、いわばモザイク国家でした。だからこそ人びとは、国家とは本質的にアーティフィシャル（人工的）な存在だと知り、それが壊れないよう必死に努力していた。しかし宿痾とも言うべき国内の民族問題が噴火し、ユーゴスラビア（南スラブ人の国）は完全に崩壊しました。</p>

<p>翻って日本に目を転じると、無意識のうちにも国家とはナチュラルな存在で、形が変わるなどとは思っていない国民が多いのではないでしょうか。そこには、とてもラッキーな地政学的な要因などが影響しているでしょうが、戦略的思考の欠如にしても、根本には国家というものについてナイーブで、その本質について考える精神的風土が希薄だからかもしれません。国家とは何か、このテーマについて議論をせずに、国民の危機管理への意識を高められるものでしょうか。</p>

<p>【福田】じつに重要なご指摘です。私からはあえて別の視点からお話しすると、日本の戦後とは危機管理にとっては不幸な時代で、ＰＫＯ法や通信傍受法の制定も、国際的な環境の変化へのリアクションでしか改革できてきませんでした。国民保護法にしても小泉内閣が圧倒的な支持率と議席数を背景に押し通しましたが、メディアは大反対した。結果、法案の中身は二の次で、各々の党派性から賛成と反対が叫ばれ続け、国民はその議論に十分に参加できなかった。その積み重ねが、私たちの危機管理や安全保障の環境をどれだけ歪めてきたでしょうか。</p>

<p>本来であれば、危機管理とは左右の対立や党派性を超えて考えるべきテーマのはずで、なおかつ国民が「私たち」としてどう参加するのが適切なのかという本質的な議論を深めなければいけない。そうして皆で安全や平和の在り方を考え議論することが、民主主義社会における危機管理の理想形ではないでしょうか。</p>

<p>【米村】国家の危機管理は、まさに言うなれば「国民の共有物」ですからね。</p>

<p>【福田】そうなのです。情報の扱い方やその罰則にしても、国家がどこまでやれば私たちの自由や人権が損なわれるかという線引きやバランスのとり方は、国民が積極的に議論に参加して答えを出さなければいけない。それこそが民主主義のはずです。これは市民参加型のリスクコミュニケーションの問題で、私はこうした考え方を「リベラルな危機管理学」と呼んで推奨しています。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 11 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[米村敏朗（元内閣危機管理監）,福田充（日本大学危機管理学部長・教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>フードテックが変える食卓...生成AIの活用で誰でも“食のクリエイター”に?  田中宏隆（UnlocX代表取締役CEO）　岡田亜希子（UnlocX Insight Specialist）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12244</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012244</guid>
			<description><![CDATA[我々はフードテックを駆使することで、誰でも簡単にYouTuberに挑戦できるように&quot;食のクリエイター&quot;になれるのか？フードテックの今に詳しい田中宏隆氏、岡田亜希子氏に解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityLI/pixta_owanOHASHILI.jpg" width="1200" /></p>

<p>皆さんは&quot;フードテック&quot;という言葉をご存じだろうか？</p>

<p>食のシーンにデジタル技術（特にIoT）やバイオサイエンスなどが融合することで起こるイノベーションのトレンドの総称であり、特定の技術というわけではない、食に関わる無数の技術の集合知と言われる。</p>

<p>我々はフードテックを駆使することで、誰でも簡単にYouTuberに挑戦できるように&quot;食のクリエイター&quot;になれるのか？フードテックの今に詳しい田中宏隆氏、岡田亜希子氏に解説して頂く。</p>

<p>※本記事は田中宏隆/岡田亜希子著『フードテックで変わる食の未来』（PHP研究所）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2 align="left">食品業界でもファブレス化が起きている</h2>

<p align="left">ハイテク業界では、2010年頃からファブレス化（生産を別会社に委託し工場［fab］を持たずに研究開発や製品設計だけ行うこと）が進み、多くのスタートアップを生み出す素地がつくられた。</p>

<p align="left">スタートアップが自由にデザインしたものをこうした委託先が大量に生産していく構図になっていったのである。</p>

<p align="left">それが今、食品業界で起きている。欧州の植物性プロテイン製品の生産を、タイの食品メーカーが担うなど、同様の事例が見受けられるのだ。日本の事例を挙げると、ベースフードは味の素と協業し、ベースフードのプロダクトの味の開発を味の素の専門家が支援している。</p>

<p align="left">食の安定供給と安心と安全を重要視したモノづくりを行ってきた食品メーカーの役割は「創造的価値の創出」においても重要な役割を担うようになる。</p>

<p align="left">人々が起業家として、社会活動家として、あるいはライフスタイルの一部として、食の創作活動をするようになる時代、起業家・クリエイターに対して「技術」や「材料」、「場所」といったリソースを供給するのもメーカーの役割になろう。</p>

<p align="left">また、起業家たちが生み出した価値の完成度を高め、大規模化して国内や海外に展開しイノベーションを普及させるという役割もある。さらに、技術の研究開発も企業が重要な役割を引き続き担っていくだろう。</p>

<p align="left">&nbsp;</p>

<h2 align="left">生成AIで引き出される私たちの創造欲求</h2>

<p align="left">近未来、私たちの創造力は生成AIによって強化されていく。生成AIを使って、絵を描いたことがある読者の方も多いのではないだろうか。生成AIを立ち上げ、描いて欲しい絵のイメージを伝えれば、かなり完成度の高い絵が生成される。　</p>

<p align="left">類似したことは料理のレシピの世界でも起こりつつある。</p>

<p align="left">キッチンOS（調理家電のIoT化によってキッチン関連のアプリを連携させる基盤）は、どんな料理を作りたいのか、どんな食材が冷蔵庫にあるのか、どんな食べ物が好きなのか、さまざまな要素を汲み取って、食事のイメージ図を表示させ、作り方をガイドする。</p>

<p align="left">米国のスタートアップであるサイドシェフが提供する「My Substitution AI」は、ユーザーの好みに基づいてレシピを調整する。あらかじめ用意されたレシピを提供するだけではなく、その時に応じて生成するのだ。</p>

<p align="left">例えば、通常であれば肉が含まれているタコスのレシピについて、ユーザーが「肉なし」を選択した場合、AIは野菜ベースのレシピを作成するために、材料と手順を調整する。</p>

<p align="left">このアプリは料理の写真からレシピを生成し、材料リスト、ステップバイステップの手順、カバー画像を提供することもできる。</p>

<p align="left">サイドシェフはさらに、AIが生成した画像とレシピの手順に沿った説明ビデオを作成するツールを提供し、調理プロセスの最初から最後までユーザーをガイドする。ユーザーが「料理する」時にモチベーションが上がり、また失敗しないように、一人一人の料理のスキルに寄り添ってくれる、というわけだ。</p>

<p align="left">アボカドの切り方がわからなければ、AIが適切なテクニックを示してくれる。加えて、レシピに基づいて正確な温度やタイミングになるように、オーブンなどのキッチン家電を自動的に調整するIoT機能まで統合しているのだ。</p>

<p align="left">キッチン家電側でAIが生成したコンテンツを独自に作成・管理することができるので、レシピが気に入ったならば、また再現することも可能だ。</p>

<p align="left">今でも都度検索すれば解決することではあるが、このアプリでは、ユーザーが作りたいと思った料理について、そのユーザーに合わせてAIで必要な情報を生成して伝えていく。</p>

<p align="left">ユーザーの料理のプロセスを最初から最後まで支援するのだ。こうしたアプリが2025年時点ですでに実装されている。生成AIの対話形式のインターフェースは料理支援に非常に向いていると言えよう。</p>

<p align="left">この進化は、ユーザー自身が「料理をする」、「創作していく」ことの支援が起点となっている。</p>

<p align="left">レシピサービスはこれまでもユーザーの料理プロセスを支援してきたが、生成AIが入ってくることによって、ユーザー側のアレンジやアイデアを取り入れやすくなったわけだ。テクノロジー側では、ユーザーの創造欲求に答える準備はすでにできている。</p>

<p align="left">2025年現在、誰でもYouTuberとなって動画制作に挑戦することが珍しくなくなる、という進化があったことを考えれば、誰でも食のクリエイターになることも夢ではなく、そんな未来を創るというのも一つの選択肢なのだ。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityLI/pixta_owanOHASHILI.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 11 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[田中宏隆（UnlocX代表取締役CEO）　岡田亜希子（UnlocX Insight Specialist）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜアメリカは9.11テロを防げなかったのか...「情報」が何の意味もなくなる時  米村敏朗（元内閣危機管理監）,福田充（日本大学危機管理学部長・教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14183</link>
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			<description><![CDATA[インテリジェンスなくして、危機管理は成し得ない。 民主主義社会において政府はいかに国民を守るべきか。 そして、国民一人ひとりは何を意識しなければいけないか―。 警視総監や内閣危機管理監などを歴任した米村敏朗氏と、 日本の危機管理研究の第一人者である福田充氏が徹底議論。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="アメリカ国旗" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_USAflag_1.jpg" width="1200" /></p>

<p>インテリジェンスなくして、危機管理は成し得ない。 民主主義社会において政府はいかに国民を守るべきか。 そして、国民一人ひとりは何を意識しなければいけないか―。 警視総監や内閣危機管理監などを歴任した米村敏朗氏と、 日本の危機管理研究の第一人者である福田充氏が徹底議論。（構成：編集部）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>政府が軽視してきたインテリジェンス</h2>

<p>【福田】昨年（2025年）10月に発足した高市政権は、国家情報局の設置やスパイ防止法の設立について議論を進めるなど、「インテリジェンス」の強化を打ち出しています。こうした組織や法制度の必要性を考えるうえでは、そもそも「インテリジェンスとは何か」という根本的なテーマから論じるべきだというのが私の問題意識です。警視総監や内閣危機管理監などを歴任された米村さんは、わが国の危機管理におけるインテリジェンスの必要性をどのように考えていますか。</p>

<p>【米村】私はインテリジェンスとは、国家の安全保障上、必須要件だと認識しています。そして「インテリジェンスなくして危機管理なし」です。警察庁で働いていた当時から強調していたのが、危機管理における「想像と準備」です。米国政府の統合参謀本部議長や国務長官を歴任したコリン・パウエル氏も、「There are no secrets to success. It is the result of preparation, hard work and learning from failure.（成功に秘訣などない、それは準備と努力、そして失敗から学ぶことの成果である）」という言葉を残しています。</p>

<p>準備のためには、そもそも起こりうる事態を想像しなければなりません。そして想像するためには、インテリジェンス（情報）が不可欠です。つまり、「想像と準備」は、インテリジェンスがあってこそ可能なのです。当たり前のことです。</p>

<p>他方で、情報はなかなか厄介な代物です。私の個人的な実感を申し上げれば、情報とは決して「事実」そのものではありません。「事実の投影」です。「幻影」という情報すらありますが、それは別としても、存在する事実に対して、情報源という光源から、光を当てて映る影が情報です。ですから光源の位置や光の射し方によって影、つまり情報は変わってくる。そうであるならば、事実をより正確に把握するためには、光源となる情報源は複数あったほうがよい。</p>

<p>ただしここで浮上するのが、個々の情報源から得られた情報を、いかに集約して分析するかという問題です。情報は収集、伝達、集約、分析があってこそ意味があります。情報がバラバラのままでは話になりません。現在の日本で、それが十分だと言えるでしょうか。</p>

<p>私が内閣危機管理監として官邸で働いていたときにも、危機管理上の具体的なテーマに応じて、各省庁の担当者に集まってもらい、それぞれの情報を共有しながら、活発な議論を行ないました。そうした普段からの「想像と準備」こそが、危機管理においては重要なのです。危機管理は、いざそのときになって初めてやろうとしても、上手くいきません。「想像と準備」という普段の延長線上にあり、その前提はインテリジェンスであることを、しっかりと認識する必要があります。</p>

<p>もう一つお話しすると、危機管理においては、情報はそれを読む「意志」と「能力」のある人に出会わなければ、ただの紙屑に終わります。福田さんもご承知のとおり、2001年の9.11同時多発テロ事件では、米国では「アル・カーイダ、飛行を学ぶ」という情報が事前にありました。これほど重要な情報はなかったのではないかと思いますが、しかしそれは完全に無視され、米国政府がその重大な意味に気付いたのはテロのあとのことでした。</p>

<p>ほかにもさまざまな情報を事前に摑んでいながら、それを適切に読む意志と能力に欠けていたために、悲劇を防げなかった。高市政権が国家情報局をつくること自体はもちろん歓迎しますが、人材の育成をはじめ制度設計についてもしっかりと考えるべきです。</p>

<p>【福田】私は危機管理とは四つの機能、すなわちインテリジェンス、セキュリティ、ロジスティクス、リスクコミュニケーションから成り立っていると考えています。この四つの機能のうち、スタートでありベースとなるのがインテリジェンスで、その意味において米村さんの「インテリジェンスなくして危機管理なし」というお言葉にはまったく同感です。では、先ほども問題提起した「インテリジェンスとは何か」についてあらためて考えると、現在であれば宇宙からの情報やサイバー空間の情報も含め、世界や日本のあらゆる情報を収集して、それを共有して統合し、分析して評価したうえで、政策立案に役立てるという一連の流れだと定義できるでしょう。</p>

<p>インテリジェンスとはもはや国家運営にまつわる話だけではなく、企業やスポーツの世界でも必要視されています。社会全体でインテリジェンスが求められている時代であるにもかかわらず、政府や官庁は十分に手をつけてこられなかったという表現が正しいでしょう。</p>

<p>【米村】一言で言うと、戦後日本は国家の危機管理において非常に躊躇していたように思うのです。これはやはり、先の大戦での失敗が大きな影を落とし続けたのでしょう。私は警視総監の時代に、当時都知事を務めていた石原慎太郎さんと食事をしながら二人で議論しましたが、「なぜ日本は、あの大失敗と言うべき戦争の過程をみずから検証してこなかったのか」ということが、つねに話題になりました。つまりは「learning from failure」がなかった。</p>

<p>【福田】具体的には、日本は先の大戦でどのような失敗を犯したとお考えでしょうか。</p>

<p>【米村】1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されると、当時の平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という有名な言葉を残して退陣しました。これに対して私も大学時代に教わった高坂正堯さんは、「この『複雑怪奇』という一語に、戦前の日本外交の失敗は現われている。国際政治が複雑怪奇であるのは当然のことにすぎない」と指摘しています。そして、その後の日本は右往左往の果て、日独伊三国同盟へと向かい、結局は状況主義に流れ、戦略的な確固たる意志もなくあの無謀な戦争に迷い込んでしまった。</p>

<p>この史実から導き出されるのは、岡崎久彦さんが幾度も強調されたように「戦略的思考がなかった」という結論です。それは日本人が明治維新以来もっていたインテリジェンスのセンスが、いつの間にかなくなっていた結果ではないでしょうか。さらに言えば、残念ながら現在に至るまで日本人の足らざる部分ではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>米国は「9.11」をなぜ防げなかったか</h2>

<p>【福田】日本と比較したときに、第二次世界大戦の経験から学んでインテリジェンスを強化してきたのが米国でしょう。しかしその米国にしても、9.11という「大失敗」を犯してしまった。先ほどご紹介いただいたように、あのとき米国のFBIは国内で飛行訓練を受ける不審な中東系男性たちの存在を把握していました。「着陸方法は教わらなくていいので早く卒業させてほしい」と訓練で訴える若者たちの存在です。それに加えて、実行犯のうち何人かは職質や交通違反歴があったにもかかわらず、そうした情報や前兆を適切に集約・分析できなかったことで、テロを未然に防げなかったのです。</p>

<p>米国がその反省から着手した改革の手法は、大きく言えば、高市政権が始めようとしているインテリジェンスの構築と同じです。米国にもFBIやCIA、DEA（麻薬取締局）、あるいは国防総省のNSA（国家安全保障局）やNGA（国家地理空間情報局）、NRO（国家偵察局）など、10を超える機関からなるインテリジェンス・コミュニティがあって、かつてはそれぞれがバラバラに情報を収集して、政府にあげていました。その結果、9.11では情報が適切に共有や統合されなかった。そこで当時のブッシュ政権は、DNI（国家情報長官）を創設してすべての情報を集約するとともに、テロ対策などを任務とするDHS（国土安全保障省）をつくり、インテリジェンス活動を統合運用化および効率化していきました。</p>

<p>それでも2024年の大統領選挙中には、当時は候補者だったトランプ大統領への銃撃を防げず、事件後には大統領警護隊長官が辞任しましたが、これはローン・オフェンダー（特定の組織に所属せずテロなどを計画、実行する単独犯）には対処できていないという別の問題として認識するべきです。いずれにせよ、高市政権も米国と同じく情報を集約するメカニズムを整えるという問題意識のもと、日本のインテリジェンス・コミュニティを再編し、国家情報局を創設しようとしています。</p>

<p>【米村】ポイントは、いまお話しいただいたように「組織」でなく「メカニズム」をつくろうとしている点でしょうね。9.11テロは私が警視庁公安部長のときに起きましたが、事件について知った瞬間、アル・カーイダの犯行だと直感しました。実際、当時のブッシュ米大統領は、クリントン前大統領から政権を引き継いだとき、米国の国家安全保障の大きなテーマの一つがアル・カーイダの存在だとレクチャーを受けていました。</p>

<p>1993年2月、アル・カーイダの犯行でニューヨークの世界貿易センタービルで爆弾テロがあり、六人が死亡しています。このテロの首謀者は、9.11テロの計画立案者とされるハリド・シェイク・モハメドの甥ラムジ・ユセフでした。1998年8月には、ケニアとタンザニアの米大使館がアル・カーイダに攻撃されています。そして、そのあいだの1995年1月には、壮大なテロ計画である「ボジンカ計画」がありました。</p>

<p>9.11テロは、こうした一連の流れのなかで起きたわけで、しかも直前の7月から8月にかけて現場が収集した、さまざまなテロのサイン（兆候）となる情報は無視されました。以上の事実に鑑みれば、繰り返しになりますが、情報とはやはり、それを読む意志と能力のある人間や組織のもとに集まらなければ、何の意味もないことがわかります。</p>

<p>もう一つ重要な問題は、これは『フィナンシャル・タイムズ』編集長などを歴任したジリアン・テッド氏の言葉ですが、その属性上、サイロ化（孤立して連携されていない）するのがインテリジェンス・コミュニティの特性だということです。各々が自分の手法や問題意識のもとで情報を集めるため、「隣の人は何するものぞ」となるのは仕方ないのかもしれません。しかし、それではいざというときの国家の危機管理には役立ちません。そこで米国は、9.11テロの反省からメカニズムを改革したのでしょう。日本がその動きを参考にするのは、ある意味では当然の流れです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「インテリジェンスの政治化」をいかに防ぐか</h2>

<p>【福田】私が日本の危機管理に関する議論で問題だと感じているのは、「危機管理」とは英語では「リスクマネジメント」と「クライシスマネジメント」の二つに大きく分けられますが、日本ではその区別がされておらず、曖昧に論じられていることです。危機に対して平時からいかに備えるかを考えるのがリスクマネジメントで、実際に危機が起きたあとにどう対処するかを考える事後対応がクライシスマネジメントです。両者をいかに相互作用させるかは大事な論点ですが、まったく違う概念であることは前提として認識する必要があります。</p>

<p>【米村】私は、危機管理とは一言で言えば平時の延長線上にあると考えていて、いかに日常的に情報を収集して分析するかが問われます。まさしく、いまご紹介いただいたリスクマネジメントの概念ですね。そして、そうしたリスクマネジメントの延長線上に、クライシスマネジメントがあります。</p>

<p>【福田】もう一つ、私がインテリジェンス活動で重要だと考えているのが、政府もしくは首相からの「リクワイアメント（要求）」です。すなわち、どんな情報を収集・分析するかをインテリジェンス・コミュニティに要求し、それをいかに政策立案や戦略に役立てるかは、まさに政治リーダーに求められる手腕でしょう。</p>

<p>【米村】リクワイアメントについては、結局はトップの意志や能力、そして器の問題に帰結するでしょう。元警察庁長官で田中角栄内閣を内閣官房副長官として支えた後藤田正晴さんは、「とにかく悪い情報をもってこい、良い情報は後回しでいい」とお話しされていました。私はこれこそ、トップに求められる態度だと思います。</p>

<p>危機管理とはまず、現実を直視するところから始まります。それも悪い現実です。「人間は見たい現実しか見ない」というジュリアス・シーザーの言葉には、危機管理の失敗の本質が潜んでいます。だからこそ、トップは率先して悪い情報に目を向け、そのうえでリクワイアメントするべきだし、情報を司る組織の責任者も同じ意識をもたなければいけません。</p>

<p>【福田】いまのお話でとても示唆的だと感じたのが、都合の悪い情報をなるべく上にあげようとしない組織や現場が実際にある、というお話です。おそらく日本だけの問題ではないでしょう。これは裏を返せば「インテリジェンスの政治化」と呼ばれる現象で、たとえばトップがリクワイアメントする際、進めたい政策にとって望ましい情報ばかり求めると、「結論ありき」のトップにとって都合のよい情報しかあがってきません。</p>

<p>【米村】おっしゃるとおりです。その失敗例の一つが米国で言えばイラク戦争でしょう。</p>

<p>【福田】あのとき、ブッシュ大統領は「フセイン政権が大量破壊兵器をもっているに違いない」と思い込み、先制攻撃でそれを排除したいという思惑からリクワイアメントしました。その結果、CIAがあげた誤った情報を根拠に戦争を始めた。まさにインテリジェンスが政治によって歪められてしまった典型例です。</p>

<p>【米村】イラクが大量破壊兵器を開発しているのではないかと疑い、トップがそれに関する情報を集めるよう要求すること自体は構いません。問題はそれに対するインテリジェンス・コミュニティのリアクションで、CIAのような組織が政治に引っ張られてしまって、結局「幻影」と呼ぶべき情報をあげてしまったことは、政治とインテリジェンスの関係を考えるうえで他山の石とすべきでしょう。日本に国家情報局を設立するのであれば、局長と内閣総理大臣はフラットにディスカッションできるような仕組みが必要です。</p>

<p>【福田】以上の議論は、インテリジェンスを担う人間の育成の重要性にもつながるように思います。この点はとくに日本が手をつけてこられなかった問題で、大学や研究機関などアカデミズム側の責任も問われるべきです。</p>

<p>私はかつて、米国のコロンビア大学に留学しましたが、向こうではインテリジェンスやストラテジー（戦略）の授業が普通にあります。学生や大学院生にとってCIAやFBIなどは人気の就職先でした。最近では傾向が変わってきましたが、それでもインテリジェンスを巡る教育環境は日本とは比較になりません。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 08 May 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[米村敏朗（元内閣危機管理監）,福田充（日本大学危機管理学部長・教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「働いてもらい方改革」で物価高と人口減を止める  江崎禎英（岐阜県知事）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14262</link>
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			<description><![CDATA[日本全国の自治体が物価高と少子化に悩むなか、岐阜県の取り組みが注目を集めている。県知事の江崎禎英氏に、次世代のまちづくりや災害・物価対応、雇用・農業政策について伺った。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="江崎禎英" height="744" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260507esakiyoshihide.jpg" width="1200" /></p>

<p>日本全国の自治体が物価高と少子化に悩むなか、岐阜県の取り組みが注目を集めている。県知事の江崎禎英氏に、次世代のまちづくりや災害・物価対応、雇用・農業政策について伺った。（聞き手：編集部）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年5月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「歩くまち」づくりで経済を好循環へ</h2>

<p>――岐阜県ではいま「安心」と「ワクワク」、「人やモノが集まる岐阜県」の実現を掲げています。注目の1つが、LRT（次世代型路面電車）構想。メリットについてお聞かせください。</p>

<p>【江崎】導入を検討しているLRTは、かつて廃止した路面電車とはまったくの別物です。低床式車両により停留場での段差も少なく、車いすの方やベビーカーを押した方でも楽に乗り降りできるほか、多くの車の移動を1台のLRTに集約することが可能となり、渋滞の緩和も図れます。</p>

<p>さらに、電気で走るLRTはCO&sup2;排出量が少なく、クリーンで環境に優しいといった利点もあります。また、車が侵入できない専用軌道を走行するため、優先信号により渋滞の影響を受けず、時間どおりに運行することができます。</p>

<p>そして、魅力的な拠点をLRTで結び、パーク＆ライド拠点の整備や、一定時間乗り放題、バス等との共通チケットの導入などにより、運賃や時間を気にすることなくゆっくり散策でき、歩くまちが実現できます。これにより、人やモノを呼び込み、経済の好循環を生み出すことで、まちの活性化にもつながると考えています。</p>

<p>福祉や教育、商工など、さまざまな分野でまちづくりを進めていくことが必要ですが、その1つが交通施策であり、LRTを有力候補とした新たな交通システムです。</p>

<p>岐阜県はいま、世界の注目を集めています。世界遺産の白川郷をはじめ飛騨高山、関ケ原古戦場、馬籠宿、下呂温泉、郡上八幡など人気の観光地が県内にバランスよく存在しています。</p>

<p>さらに岐阜圏域には、織田信長公が天下布武を掲げた岐阜城、日本三大大仏の1つである正法寺の岐阜大仏、金華山や長良川などの歴史的・文化的拠点、岐阜メモリアルセンターや長良川国際会議場などの人が集まる拠点、岐阜インターチェンジや岐阜駅、外国人観光客で賑わう岐阜羽島駅などの交通拠点が数多くあります。</p>

<p>半面、中心である岐阜への人やモノの集まりが課題となっており、モータリゼーションの影響で百貨店が撤退してしまう、という現実があります。各地の拠点を線でつなぎ、周遊性を持たせ、賑わいを広げていく取り組みが求められています。LRT構想は、こうした問題意識から生まれてきたものです。</p>

<p>2025年7月に、新たな交通システムの導入に向けた検討の着手を表明し、これまでにさまざまな関係者と意見交換を行なっているところです。</p>

<p>まちは変化し続ける必要があります。高齢化や人口減少が進むなか、社会構造の変化に適応したまちづくりや交通システムの見直しが重要であり、国の力や民間の力も結集して実現につなげていくことが求められます。将来、どういうまちにしていくのか、県民の皆様も交え、議論を深めていきたいと考えています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>沿岸部の被災者も受け入れる準備を</h2>

<p>――安心の確保という点について、災害対応及びインフラの整備、物価高騰への対策に関する政策のねらい、取り組みを教えてください。</p>

<p>【江崎】2025年度、新たな政策を企画・立案するため、「政策オリンピック」として県民の皆様からアイデアを募集しました。第一弾のテーマを住民参加型の防災訓練とし、優れた訓練に対しては活動費の補助を行ないました。</p>

<p>小学生が防災イベントの内容を企画したものなど、子どもからお年寄りまで多くの方に楽しく防災訓練に参加していただき、手応えを感じたところです。</p>

<p>この取り組みは、地域防災力の強化や地域行事の活性化につながる内容であることから、実施団体による報告会を開催し、結果については関係各所に展開するなど、実のある防災訓練が各地で実施されるよう進めていきます。</p>

<p>また、2026年度までの2カ年で、本県独自に南海トラフ地震の被害想定調査を実施しています。海に面していない岐阜県は、津波で被害を受ける可能性のある沿岸部の方々を受け入れる立場にもなりうると考え、この調査のなかで、本県の受け入れ能力の推計にも取り組んでいるところです。</p>

<p>2011年の東日本大震災時、岐阜県商工労働部長を務めて痛感したのは「人は、知らない土地には避難できない」という点です。</p>

<p>現在、愛知県や三重県などの県外の児童生徒（小中学生）に本県をもう一つのふるさとと感じてもらえるような、防災体験を含めた交流事業「ふたつのふるさと（海・山の防災交流）事業」を展開中です。並行して空き家対策に取り組み、「万が一のときはこの場所へ避難を」と胸を張って言える体制を、私が知事のあいだに整えることが使命だと考えています。</p>

<p>岐阜県では「第三期岐阜県強靭化計画」に基づき、幹線道路ネットワークや緊急輸送道路等の道路ネットワークの整備、流域治水、土砂災害対策などといった防災・減災対策について重点的に進めるとともに、予防保全型の維持管理に計画的に取り組んでいます。</p>

<p>幹線道路ネットワークは、地域と地域を結ぶ時間を大幅に短縮することで、沿線地域の活性化はもとより、災害時の人の移動や物資輸送の面でも大変重要な役割を担います。安全・安心な県土づくりに絶大な威力を発揮するので、積極的に整備を進めていきたいと考えています。</p>

<p>過去に幾度も大災害を経験した本県では、「第三次新五流域総合治水対策プラン」に基づき、河川改修やダム等の整備を効果的に組み合わせた総合的なハード対策と、洪水時の避難行動に資する河川情報の提供など、被害を軽減するためのソフト対策を進めています。</p>

<p>また、土砂災害から県民の生命・身体を守るため、地形、地質及び社会的要因などにより県内を8つの地域に分け、ハード対策とソフト対策の両面から今後の土砂災害対策について取りまとめた「八山系砂防総合整備計画」に基づき、能登半島地震における土砂災害などを踏まえた砂防事業を進めています。</p>

<p>今後も幹線道路ネットワークの整備を進めるとともに、河川改修やダム建設、砂防関係施設の整備、各施設の点検、老朽化対策の実施など、適切なインフラの維持管理に努めていきます。</p>

<p>物価高騰については、日々の暮らしはもちろん、事業活動や地域経済全体に広く影響を及ぼし、県民の皆様が将来に不安を感じる状況が続いています。</p>

<p>こうしたなか、県民の皆様の安心を確保し、物価高騰に負けない力強い社会を創るため、県としては、生活者支援と事業者支援の大きく2つの視点から対策を進めていきます。</p>

<p>1点目は、物価高騰の影響を受ける生活者の方の負担軽減です。国の全国一律の支援や、市町村による生活に密着した支援だけでは十分に行き届かない分野に対し、確実に支援が届くよう、緊急的に対策を講じます。</p>

<p>具体的には、医療機関、福祉施設、私立学校などに対する食材費支援に加え、医療機関や福祉施設については、国の公定価格改定までのあいだ、光熱費高騰分に対する支援を実施します。</p>

<p>さらに、0歳から2歳児の子育て世帯の負担を軽減するため、育児支援サービスや育児用品等の購入に利用できる電子クーポンを発行するほか、児童養護施設などに入所する方の、生活環境の改善に必要な設備や備品の購入費用を支援していきます。</p>

<p>2点目として、物価高騰下にあっても、事業者の方が活動を継続できる環境づくりです。</p>

<p>原材料費やエネルギーコストの上昇に直面する中小企業や小規模事業者に対し、賃上げの後押しや生産性向上、省力化・省エネ投資の支援など、経営体質の強化につながる取り組みを支援していきます。</p>

<p>また、高騰が続く化学肥料の低減に向け、堆肥等の活用に取り組む農業者に対し、機械・施設の導入を支援するほか、酒造原料米価格高騰の影響を受ける県内酒蔵に対し、生産性の向上に資する設備導入支援や、酒米価格　高騰分の支援なども実施していきます。</p>

<p>今後も、県民の声や現場の実情に真摯に耳を傾けつつ、国や市町村が実施する対策を見極めながら、物価高騰という逆風のなかにあっても、「この地域で安心して暮らし、働き続けられる」という実感を持っていただけるよう、必要な対策を適時的確に講じていきたいと考えています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>働き方改革ではなく「働いてもらい方改革」</h2>

<p>――ワクワクの創出という点について、「働いてもらい方改革」と「アグリパーク構想」は興味深いですね。</p>

<p>【江崎】これまでも若者の県内定着や子育て支援などの人口減少対策に取り組んできましたが、ここ10年は、とくに若い女性の「職業上」の理由による県外流出が顕著であり、人口減少の大きな原因となっています。</p>

<p>県内企業の多くは中小企業や小規模事業者ですが、近年は、人口減少の影響もあって、長時間フルタイムを前提とした採用が難しくなっています。</p>

<p>一方、子育て中の方をはじめ、短時間勤務やリモートワークであれば働ける人が多数存在しています。</p>

<p>そこで、県では、従業員が働きやすい業務や時間帯に働いてもらうことが、最も生産性が高くなることに着目し、働く人の目線に立ち、柔軟で働きやすい環境を整えることで、労働力確保と生産性向上を同時にめざす「働いてもらい方改革」に取り組んでいます。いわゆる「働き方改革」ではなく、従業員によりよく「働いてもらう」という経営者の意識改革を図るものです。</p>

<p>県内で4年間、雇用と労働の現場を回って確信したのは、決して人が足りないというわけではなく、経営者は残業できる正社員を求めている、ということです。</p>

<p>ところが、ある会社で話を伺うと、生産性が最も高い社員は子育て中の女性だという。子どもを迎えに行くために午後3時に終業しなければならず、時間や効率を考え、無駄な残業をしない。むしろこのほうが本来、あるべき働き方ではないでしょうか。</p>

<p>女性従業員が働きやすい環境で希望する時間帯に働いてもらうことで主力商品の売上が16倍になった企業や、業務の切り出しと多能工化を行ない、従業員に作業スケジュールを任せたことで作業スピードが5倍になった企業、分単位の時給制を採用し、子どもの急な発熱や送迎などに対応しながら、都合の良いときに働くことを可能とした企業や、60歳以上に限定してやる気のある人を募集した企業など、好事例がいくつも現れています。</p>

<p>さまざまな工夫により、いままで働きたくても働けなかった人や、本当に働きたい人が働けるようになれば、人手不足は解消します。企業の労働力確保と生産性向上が実現すれば勤労者の可処分所得と世帯収入も上がり、最大の物価対策になる、と私は考えています。</p>

<p>県では、こうした先進事例のエッセンスをまとめ、県内企業への浸透を図っているほか、小規模事業者の事業規模拡大や業態転換を支援する「小規模事業者パワーアップ応援補助金」に「働いてもらい方改革枠」を設け、従業員が働きやすい環境づくりに取り組む事業者を支援しているところです。</p>

<p>2026年度は、この改革枠をさらに拡充するほか、「働いてもらい方改革」に取り組む事業者を中心とした合同企業展の開催や、DX活用による働きやすい環境整備のための専門家派遣、商工会・商工会議所の経営指導員向けセミナーの開催、業務細分化に役立つワークショップや実証事業など、多面的に県内中小企業・小規模事業者を支援していきたいと考えています。</p>

<p>こうした取り組みを通じて、若者や女性、さらには高齢者や障がいのある方も能力を発揮できる雇用環境を創設し、若い人たちの人口流出の歯止めとしても期待される「働いてもらい方改革」を県内全域に広げていきたい、と考えています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「地消地産」と「農業の居抜き」</h2>

<p>――アグリパーク構想については。</p>

<p>【江崎】日本の自給率低下が叫ばれるなか、食料を確保する体制が必須です。いままでの農業政策では米価格の高騰を防ぐことができなかったように、機械化、大規模化による拡大一辺倒の農業も見直しを迫られています。</p>

<p>今後は量産品ではなく、より消費者に選ばれるものをつくらなければいけません。地元の生産品を売買するだけの地産地消ではなく、さらに消費者の側に立った「地消地産」をめざしています。</p>

<p>現状、農業従事者数の急速な減少が避けられないなか、従来の取り組みの延長線上では、本県農地の潜在力を十分に発揮できないことが明らかとなっています。</p>

<p>こうしたなかで、将来にわたり県民に安全・安心で美味しい食料を安定的に供給するとともに、県土の保全など農業が持つ多面的機能を将来にわたって発揮させていくためには、従来の専業を基本とする「大規模農家」を推奨するだけではなく、兼業や副業など多様なかたちで農業に参画する方々を含めた「ハイブリッド型」の農業へ転換していく必要があります。</p>

<p>農業は本来「楽しい」ものであり、農業の裾野を広げるためには、美味しく、安全・安心な農産物を自分の手で一からつくり、収穫と販売する喜びを実感していただくことが重要と考えています。</p>

<p>しかしながら、農業を始めるにあたって、農地の確保や技術の習得、農業機械の購入など、さまざまな参入障壁が存在します。</p>

<p>農業を継ぎたい人は減っていても、農業を始めたい人は多い。しかし米づくりを始めようとしたら、機械の購入など初期投資が数千万円かかります。機械の購入に補助金をつける仕組みが機械化と化学肥料の使用を促し、作物の弱体化による農薬の使用という負のスパイラルに陥り、収益性の低い産業になってしまったわけです。</p>

<p>このため、農村地域内の非農家や都市住民など多様な主体が、農業の楽しさを気軽に体験し、ノウハウを学べるスタートアップの「場」を設け、その延長線上で新たに農業に参入いただく農業普及のための「アグリパーク構想」の実現に向けた取り組みを強力に進めていきます。</p>

<p>具体的には、2025年12月から26年1月末にかけて政策オリンピックのスキームにて公募を実施した、意欲ある設置主体による「スタートアップの場」づくりを支援するなかで、横展開が可能な重点推進モデルの構築をめざします。</p>

<p>また、さらに本格的な農業へのステップアップを支援するため、気軽に農地を借りられる環境整備を進めるとともに、設備投資の負担を軽減する「居抜き型」経営継承や農業機械のシェア、就農ニーズに応じた技術サポートなど、支援スキームの整備も並行して進めたいと考えています。</p>

<p>ラーメン店の開業が多いのは、居抜きで店舗や設備が手に入るからです。アグリパーク構想の肝は「農業の居抜き」をしよう、ということ。環境整備でハードルを下げ、農業の楽しさに気づいた人が、そんじょそこらにはない「本当にいいもの」をつくれば、農業は儲かる産業になります。</p>

<p>――最後に、AI（人工知能）と働き方についてどう思われますか。</p>

<p>【江崎】AIの流れは絶対に止まりません。規制するのは論外で、使うべき長所と補うべき短所を理解することです。AIではなく人間にできることとして、よく配慮や思いやりが挙げられます。しかし人間が顔色を窺うより、人工知能のセンサーのほうが精度は高い（笑）。</p>

<p>AIと人間の最大の違いは、感性です。人工知能はロジックしかないので、暴走してしまう。これからの教育で大事なのは、子どもを自然に戻し、感性を磨かせることです。人として何が正しいか、自分はどう思うのかを感覚で学ぶことが、最も重要な教育だと考えています。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260507esakiyoshihide.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 08 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[江崎禎英（岐阜県知事）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>始皇帝の偉業が「東アジア経済成長の鍵」？  武帝が受け継いだ革新的システム  玉木俊明（京都産業大学経済学部教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12156</link>
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			<description><![CDATA[現代にまで及ぶ「始皇帝の偉業」とは? 度量衡や小篆の導入がアジアにもたらした影響を、玉木俊明氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="兵馬俑" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_heimayo.jpg" width="1200" /><br />
始皇帝陵の兵馬俑</p>

<p>「物流」を軸に世界史を見ると、これまで見えていなかった新たな一面が見えてくる――!</p>

<p>なぜ東アジアはヨーロッパに先駆けて経済発展することができたのか? その要因には、始皇帝から武帝までの100年ほどをかけて整備された制度が重要な役割を果たしていたという。書籍『物流で世界史を読み解く』より解説する。</p>

<p>※本稿は『物流で世界史を読み解く　交易、移民問題から食文化の革新まで』より抜粋・編集を加えたものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>春秋・戦国時代の経済成長</h2>

<p>中国の史書『史記』によると、中国最初の王朝は夏王朝であった。その後、前16〜前11世紀の殷王朝、前11世紀〜前771年の（西）周王朝と続いたものの、前770年に周が洛邑に遷都したことをきっかけに、春秋・戦国時代となり、中国は500年以上にわたる争乱の時代に突入したとされる。</p>

<p>戦国時代のうちに鉄製武器が普及した。また鉄製農具や牛耕の普及により、農業生産が拡大した。農業や手工業が活発になったため、青銅貨幣が導入された。このように、春秋・戦国時代に経済発展が見られたのである。</p>

<p>秦は、こういう状況において中国の統一に成功する。すでに、中国の経済は世界的に見てかなり水準が高く、それを秦が受け継いだということになるであろう。しかも、秦はさらにその経済を発展させようと考えたのである。</p>

<p>中国統一時の秦の王は政（在位 前247〜前210年）であった。政は法家思想にもとづき、中国を統一した。度量衡を統一し、文字、貨幣を統一した。そして中央集権的な郡県制を採用し、さらに、単なる王ではない「皇帝」という地位についた。</p>

<p>始皇帝は、中国の経済成長を基盤として国家を統一した。秦では戦国時代に半両銭という中国最初の通貨をつくった。青銅貨幣は、銅と錫でできている。世界的に銅の産地は多いが、錫の産地はかぎられている。青銅貨幣が製造されたということは、すでに交通が発展していた可能性が高いのである。</p>

<p>中国の物流は春秋・戦国時代に盛んになっていったものと思われる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>現代にまでおよんでいる始皇帝の影響</h2>

<p>始皇帝の偉業の大きさについて具体例をあげよう。秦によって前221年に中国が統一されるまで、中国には多数の通貨があった。それが、秦によって半両銭に統一されたことで、広域での取引がずいぶんと容易になったのである。</p>

<p>もし通貨の種類が多いと、両替に手間がかかる。そればかりか、両替商に手数料を支払わなければならない。両替のたびに、カネが実質的に目減りすることになる。統一通貨である半両銭の登場により、そうしたことがなくなったのである。</p>

<p>始皇帝によって、中国という広大な領土が単一通貨圏となった。そのため、春秋・戦国時代にすでにはじまっていた経済成長が、さらに加速されることになった。</p>

<p>しかも、中国の文字は篆書（てんしょ・小篆）に統一された。中国は現在も地域による発音の違いが大きな国であるが、文字は同じなので、簡単にコミュニケーションがとれる。そのもとをつくったのが、始皇帝なのである。</p>

<p>小篆は日本にも伝わり、われわれが使用する漢字の基盤となった。それにとどまらず、東アジア世界の共通の文字であったといっても過言ではない。小篆の導入により、東アジア世界、さらには東南アジアの一部を含めて、コミュニケーションは非常に容易になった。</p>

<p>さらに始皇帝は、郡県制という中央集権体制をつくった。春秋・戦国時代には、各地で諸侯が割拠していたので、中央政府からのコントロールが利く状況ではなかった。始皇帝は、それを中央政府が一括して管理するシステムに変えた。そのため、経済活動の障壁となるさまざまな無駄が省かれるようになったのである。</p>

<p>要するに、始皇帝の政策により、商業活動に付随するさまざまな費用が大きく低下したのだ。</p>

<p>始皇帝はこのように、非常に効率的な経済システムを確立したのである。中国の商品は、いわば単一市場で流通することになった。その市場は、国家の権力によってつくられたものであった。国家が市場に介入し、商品の流れ（物流）を促進したのである。このシステムは、やがて武帝に受け継がれることになった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>結局、秦の統治政策を受け継いだ漢王朝</h2>

<p>始皇帝があまりに急激に改革を進めたことが大きな理由となり、秦はわずか15年しか続かず、前206年に滅亡してしまう。そのあとに覇権を争ったのは項羽と劉邦であり、最終的に劉邦が勝利をえて、前202年、漢王朝が成立した。</p>

<p>漢では、皇帝の力は、当初は秦と比べると非常に弱かった。しかし、皇帝は諸侯の権力を奪い取って、自分の権力を強めようとした。このような動きが重なり、諸侯が反発したのが、前154年に勃発した呉楚七国の乱であった。</p>

<p>呉楚七国の乱は景帝により短期間で鎮圧された。さらに次の武帝の治世になると、諸侯の力はさらに弱められ、君主独裁制が強められることになる。それはまさに、始皇帝が望んだ政策であった。</p>

<p>こうしてみると、秦から漢（前漢）の武帝に至る80年余りは、皇帝独裁＝中央集権化政策の歴史であった。この政策をはじめたのが始皇帝であり、完成させたのが武帝であったといえよう。この政策は、経済的には、単一市場の誕生を目指したものだったと考えられる。そのため、中国の物流は盛んになっていった。</p>

<p>武帝の対外遠征は、結局、始皇帝が長生きしていたらしていたことをおこなったにすぎない。始皇帝から武帝までの100年ほどをかけ、中国は経済成長に適した制度を整えていったのである。</p>

<p>中国ではヨーロッパにはるかに先駆けて、度量衡や文字が統一された。しかもその影響は中国国内にとどまらず、アジア各地、とりわけ東アジアにおよんだ。したがってアジアでは中国を中心とする経済システムができあがり、ヨーロッパより経済成長しやすい制度ができあがったといえよう。</p>

<p>EUができるずっと以前に、中国に単一市場が誕生したのである。その影響は、アジアの多くの地域におよんだ。ここに、アジアの経済成長の鍵があった。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 07 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[玉木俊明（京都産業大学経済学部教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>食料品高騰の背景にある“経済優先”社会　問われるフードテックの使命  田中宏隆（UnlocX代表取締役CEO）,岡田亜希子（UnlocX Insight Specialist）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12240</link>
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			<description><![CDATA[我々はフードテックを駆使することで、食の世界をサステナブルのその先に導くことができるのではないか？フードテックの今に詳しい田中宏隆氏、岡田亜希子氏に解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="フードテック" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_inaho.jpg" width="1200" /></p>

<p>皆さんは&quot;フードテック&quot;という言葉をご存じだろうか？</p>

<p>食のシーンにデジタル技術（特にIoT）やバイオサイエンスなどが融合することで起こるイノベーションのトレンドの総称であり、特定の技術というわけではない、食に関わる無数の技術の集合知と言われる。</p>

<p>我々はフードテックを駆使することで、食の世界をサステナブルのその先に導くことができるのではないか？フードテックの今に詳しい田中宏隆氏、岡田亜希子氏に解説して頂く。</p>

<p>※本記事は田中宏隆/岡田亜希子著『フードテックで変わる食の未来』（PHP研究所）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>サステナブルからリジェネラティブへ</h2>

<p><img alt="退化と進歩の6段階" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250424Foodtech.jpg" width="1200" /></p>

<p>「サステナブル」が利益を追求しつつ自然破壊をゼロにすることを目指すのに対し、その次の段階に「リストアティブ」（自然と共生しながらプラスのインパクトを出すこと）、そして「リジェネラティブ」（自然にも人間にもネットプラス［全体にプラス］の効果をもたらすような状態を実現すること）がある（上図参照）。</p>

<p align="left">東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻特任講師の中島弘貴氏は、リジェネラティブの本質を人間も自然の一部と捉える社会生態系の回復・繁栄であると捉えている。</p>

<p align="left">中島氏は、リジェネラティブの特徴として「共進化（一石Ｎ鳥）」を挙げている。1つのことにＮ個の価値を複層的に重ねていくことでネットプラスの状態にしやすくなるからだ。</p>

<p align="left">つまり、私たちは成長を求めるならば、一石Ｎ鳥、三方よしならぬＮ方よしを実現し、あらゆるものが共に進化していくことを目指すべきなのだ。</p>

<p align="left">自然破壊をくい止め、価値創造、新市場創造を目指していきましょう、というのは、言うは易く行うは難しに思える。そもそも、この「リジェネラティブ」の時代は、何が価値として評価されるのか、一石Ｎ鳥はどうやったら目指せるのだろうか。</p>

<p align="left">この「リジェネラティブ時代の価値」を考えているかいないかで、未来シナリオが全く変わってくるので、今筆者たちが考えている仮説をここに綴ってみようと思う。</p>

<p align="left">&nbsp;</p>

<h2 align="left">私たちはいつから「目指すべきは経済的価値」と考え始めたのだろうか</h2>

<p align="left"><img alt="" height="622" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250424Foodtech2.jpg" width="1200" /></p>

<p align="left">そもそもサステナブルを意識しなければならなくなったのは、人類が「経済的価値」を追求するがあまり、「自然資本」を破壊してきたことにある。</p>

<p align="left">食産業も追求しているのは「経済的価値」である。</p>

<p align="left">もちろん、おいしさや機能性成分や体験価値などさまざまな価値を提供しているわけだが、食産業としてはそれらを対価に変え、消費してもらわなくてはいけない。それを最小限のコストで実現することが産業には求められる。</p>

<p align="left">私たちはいつから「目指すべきは経済的価値」だと考えるようになったのだろうか。私たちは「経済的価値」以外を追求していた時代はあったのだろうか？</p>

<p align="left">産業革命を起点とした経済発展の数百年、私たちは「経済的利益をもたらす価値」を追求してきた。産業の潮流を時代ごとにまとめると上表のようになる。</p>

<p align="left">産業革命の100年後には、Industry2.0として大量生産の時代が到来したが、1970年頃にはこのままでは天然資源が枯渇すると叫ばれ、環境問題も取り上げられ始めた。</p>

<p align="left">しかし、この頃からコンピュータが産業界で導入され始め、デジタルが発展すると天然資源問題の重要性は相対的に低くなった。限界費用ゼロ社会の到来であった。経済発展を遂げた国では、物質的な豊かさが実現した。</p>

<p align="left">&nbsp;</p>

<h2 align="left">&nbsp;経済的価値追求が生み出した副作用</h2>

<p align="left">しかしここにきて、経済発展をすれば人間の暮らしも豊かになるのだという「信念」のようなものが崩れつつある。</p>

<p align="left">GDPが伸びても、幸福度は一定以上には伸びない。大量に生産し、大量に消費をしても、心は満たされない。</p>

<p align="left">資源の枯渇問題には「デジタル」という解決策が示されたが、一方でデジタルで得た利益はほぼ富裕層のもとに留まる不平等さも社会には根付いている（2024年のトランプ返り咲き勝利も、こうした背景が一部影響しているのではないかと思う）。</p>

<p align="left">そのデジタル世界では、AIが人間の思考力を上回るようになり、人間の存在意義が問われるようになっている。</p>

<p align="left">こうしたなかで、単に環境問題を解決しようということだけではなく、これを最優先課題としながらも、私たちが目指したい社会とはどのような社会なのか、私たちが生み出したい価値は何なのかという議論が巻き起こり、そのキーワードが「リジェネラティブ」なのだ。</p>

<p align="left">&nbsp;</p>

<h2 align="left">利便性、生産性という「価値」の見直し</h2>

<p align="left">では、私たちはこれからどのような価値を生み出していきたいのか。2つの仮説がある。</p>

<p align="left">1つは、それは「価値」が多元化していくこと。中島氏の言葉を借りれば共進化であること。つまり、1つの行動にさまざまな価値を重ねていくことである。近江商人の三方よし（売り手よし、買い手よし、世間よし）がこれに近い。</p>

<p align="left">もう1つは、「コスト＝価値」に変わっていくのではないかという仮説だ。つまり、労力をかけて作ること、自らの身体を使って移動したり感じたりすること自体が価値になるということだ。プロセスエコノミーという言葉にもあるように、プロセス自体に価値を感じることもその1つではないだろうか。</p>

<p align="left">生産性だけで測っていた価値を多方面から見直してみる。そうすることで、今までコストだと思っていたことが実は新しい価値に見えてくる。「価値の多元性」をベースに生まれるのが、もしかするとこれからの産業創造のあり方かもしれないのだ。</p>

<p align="left">実は私たちは、食に多元的な価値があること、創造的価値があることを直感的に知っている。</p>

<p align="left">食は食べることも喜びであるが、育てること、収穫すること、料理することなど、時間も費用もかかることにも大事な価値が詰まっている。新鮮な旬のものもおいしいし、時間をかけて発酵、熟成させたものもおいしい。</p>

<p align="left">日本人は食の多様な価値をずっと享受してきたし、それを「文化」として大切にしてきた。しかし、特に戦後、飢餓から脱し経済成長を目指す上で、食においても利便性、生産性を相当に追求してきたため、食の多様な価値を忘れかけているかもしれない。</p>

<p align="left">食の多元的な価値を実現させていく余地はたくさんある。私たちは食をリジェネラティブなものにしていくこと、そこにこそフードテック、つまり食の技術革新の存在意義があると考えている。</p>

<p align="left">Regenerativeという言葉は、外国語ではあるものの、私たちにとってこの概念は産業のDNAとして培ってきたものであるように思う。日本が大切にする価値の発信が、この世界が価値転換していく局面に非常に重要なのではないだろうか。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_inaho.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 06 May 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[田中宏隆（UnlocX代表取締役CEO）,岡田亜希子（UnlocX Insight Specialist）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>天才哲学者が提言、危機の時代に学ぶべき意外な教養とは  マルクス・ガブリエル（哲学者）, インタビュアー：大野和基（国際ジャーナリスト）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12189</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012189</guid>
			<description><![CDATA[西洋哲学と東洋思想の違い、果たしてきた役割、今後期待されることについて哲学者マルクス・ガブリエル氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="741" src="https://shuchi.php.co.jp/userfiles/images/a_image9/250415MarkusGabriel01.jpg" width="1200" />写真：的野弘路</p>

<p>「新実在論」の提唱者であるマルクス・ガブリエルは、「今後、東洋思想がますます存在感を増すことが確実に期待されます」と説く。我々は東洋思想から何を学ぶべきなのか。</p>

<p>※本稿は、マルクス・ガブリエル著、大野和基インタビュー・編、月谷真紀訳『時間・自己・幻想』から、一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東洋思想は現代の状況を解決するうえで重要な役割を果たしうる</h2>

<p>──（大野）各地での紛争、民主主義の危機、経済圏の分断など、世界中で大きな混乱が起こっています。　このような時代において、西洋哲学だけではなく、東洋思想の知恵を学ぶことも重要なのではないでしょうか。</p>

<p>【ガブリエル】私は、東洋思想は現代の「入れ子構造の危機（nested crisis）」についての議論におおいに関わっていると思います。「複合危機（polycrisis）」よりもこちらの言葉のほうが的を射ているのではないでしょうか。複合危機は単に複数の危機です。</p>

<p>私が考える入れ子構造の危機は、一つの危機が別の危機の中に組み込まれ、相関関係を持った状態です。単なる複数の危機ではありません。</p>

<p>量子力学から国際関係まで、21世紀の私たちが究極の相互接続性という条件の中で生きているのは明らかです。現実が、明確に定義でき他と区別できる基本的な実体で構成されているという考えは、今では控えめに言っても時代遅れです。</p>

<p>ですから、私は現実はネットワークのネットワーク、すなわち「入れ子構造」であると考えるのです。</p>

<p>安定した客体や点は関係の動きの結果にすぎず、客体は無限の関係が一時的に停止した点でしかありません。私はそれが存在論、現実そのものの形だと考えています。現実そのものが、現在の人類の危機的な条件の中に表れています。</p>

<p>危機的な現代の状況について考える多くの人は、すべてのものが相関しているという思想に寄与するものとして東洋思想を引き合いに出しがちです。相関関係の観点で考えているわけです。しかしこの問題はもっと深く掘り下げられます。相関関係だけではないのです。</p>

<p>そして、東洋思想の「すべてのものが相関している」という思想も、その一言で言い表せるほど単純なものではありません。もともとの、事象と事象の相関関係についての思索を重ねてきた東洋思想について、もっと精細に考究することは意義のあることです。</p>

<p>東洋思想は現代の状況を解決するうえで重要な役割を果たしうると私は考えています。現在はアジアの世紀です。</p>

<p>今がアジアの世紀であるとすれば、まず、なぜ今がアジアの世紀なのかを理解することが大切です。この問題は、アジアの思想、東洋思想、そしてそれが未来にとって何を意味しうるかに関わってくるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>西洋哲学は不変を追求し、東洋思想はそれを幻想と見なす</h2>

<p>──（大野）非常に大ぐくりな質問なのですが、西洋哲学と東洋思想について、その全体的な特徴に相違点がもしあるとしたら、どのような点が挙げられるでしょうか。</p>

<p>【ガブリエル】西洋哲学と東洋思想の大きな違いは、西洋哲学が不変のものを探求している点だと思います。</p>

<p>この姿勢が現代の原子物理学につながりました。現代物理学は不変のもの、宇宙の構成単位、フェルミオンとボソンを特定する最新の試みにすぎません。それが現代の物理学です（ただ、フェルミオンとボソンはそれほど不変なものではない可能性もあります）。</p>

<p>古代ギリシャ以降の考え方は、存在の原理を見出すことです。原理とは、すべてが変わる中で、同じままであるものを意味します。</p>

<p>他方、日本人が問うのは、「変わらないものが存在するという幻想はなぜ生じるのか」です。東洋思想の立場からすると、西洋の形而上学は、初期からずっと幻想なのです。</p>

<p>2800年ほど前にインドで思想が2つに分かれました。片方は東洋に行き、「変わらないものがあるというのは幻想である、その幻想を克服しなければならない」という考え方になりました。もう片方は西洋に行き、アフリカ発祥の思想と融合しました。</p>

<p>実は、とても重要なことですが、西洋思想はアフリカ思想なのです。西洋とアフリカは実は同じです。ヨーロッパとアフリカに興味深い関係があるのはそこに理由があります。</p>

<p>ヨーロッパはアフリカが存在しないようなふりをしています。しかし実は、植民地支配の歴史もありましたが、アフリカは私たちヨーロッパ人の最も近しい隣人なのです。天候がよければスペインからアフリカ大陸が見えますからね。北朝鮮と日本よりも近い。ヨーロッパとアフリカは本当に近いのです。</p>

<p>プラトンは、あらゆる叡智はエジプトに由来するとはっきり言っています。エジプトはアフリカにあります。西洋思想の歴史をたどれば、2000年前のある時点にアフリカにたどりつくのです。変わらざるものというこの思想の源泉はここにあるのです。</p>

<p>一神教もそうです。著名なエジプト学者のヤン・アスマンがそれを示しました。アスマンが一神教の起源を研究したところ、一神教はエジプトに発し、その後ユダヤ教などに移ったことがわかったのです。「永遠の不変の太陽という思想」です。学問の世界ですっかり明らかになっています。</p>

<p>ただ驚くべきことに、この仮説は日本もギリシャ人と同様に太陽を中心に考えているという誤解にもつながっています。しかしギリシャ人は太陽を不変のものと考え、日本人は太陽とは動きであると考えています（笑）。</p>

<p>どちらも太陽について考えていますが、ギリシャ人は太陽を中心にあって不動のものと考えているのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>西洋哲学と東洋思想は、互いに補完し合う</h2>

<p>──（大野）西洋哲学と東洋思想は、お互いに補完するものになっているでしょうか。</p>

<p>【ガブリエル】西洋哲学と東洋思想、どちらもパラドックスに陥っている側面があります。</p>

<p>東洋思想は、すべてのものは変化しているが、変化は変わらないというパラドックスに陥っています。つまり変化が一種恒久的なものであるという考えです。たえず変化しているが、変化していることは変わらない。これはアリストテレスがすでに言ったことです。</p>

<p>アリストテレスが彼の物理学の中で同じようなことを言っています。「運動は動かない」と。</p>

<p>それが東洋思想のパラドックスであり、東洋思想の表現が逆説的であるのはそのためです。もともと、日本思想などの歴史についても似たようなことが言えますが、特に中国思想を見ると、教説と実践において逆説的な表現がなされています。</p>

<p>他方、西洋哲学は変化に対して悪しき関係に至っています。なぜなら、西洋では変化は幻想にすぎないとして評価をおとしめられているので、すべてを安定させよう、永続するものを作ろうとするのです。</p>

<p>建築のあり方にも、両者の違いが表れています。例えば清水寺は究極の安定した構造物ですが、これが安定しているのは固定されず、揺れやすくて容易に動くからにほかなりません。動くからこそ、幾度もの地震を耐え抜いているのです。</p>

<p>ギリシャ人は永遠を目指して建築物を造りましたが、ギリシャの建築は何世紀も経つうちに壊れて、今では廃墟になっています。</p>

<p>彼らは永遠を目指して建てたのに、造ったのは廃墟だった。日本人は今現在のために建てて、それが永遠に残っている。これはパラドックスです。</p>

<p>私の存在論は、ある意味両者の統合を目指しています。私の思想は14歳のときから東西双方の伝統に影響を受けてきました。両方が常に私の頭の中にあるのです。</p>

<p>私はグローバリゼーション時代の子どもです。私が哲学思想家になった90 年代はグローバリゼーションが最高潮に達した時代です。つまり、西洋と東洋がおそらく初めて本当に出会ったわけです。</p>

<p>日本のソフトパワーも少なからず寄与しました。グローバリゼーションには他の要素もありますが、80年代後半から90年代が日本のソフトパワーと経済力の時代でもあることを忘れてはなりません。私はその時代に成長したのです。</p>

<p>グローバリゼーションは、日本にとって非常に重要な時代だったと私は思っています。</p>

<p>今、世界はグローバリゼーションの終焉に向かおうとしています。グローバリゼーションのかわりに生じたのは、接続性です。私たちはつながっていますが、もうグローバル化はしていません。新たな段階に入ったのです。</p>

<p>しかし東西の世界観が本当に出会い、互いを理解し始めることが可能になったのはグローバリゼーションのおかげです。</p>

<p>これまで、グローバリゼーションの精神的な影響は過小評価されていました。私たちはずっと市場と貿易の面しか見てこなかった。しかしグローバリゼーションは、私たちが自覚している以上に精神面への影響が大きかったのです。</p>

<p>グローバリゼーションは、今現れつつある新しい関係論的世界観の創造を導きました。</p>

<p>人間の意識の変化を、私たちはあらゆる場所であらゆるものがグリーン・ポリティクス（ドイツの政党「緑の党」に由来する政治姿勢で、地球環境保護、環境保全を最優先政策として掲げる）の旗の下にあるという形で目にしますが、それは意識変化の低い段階にすぎません。グリーン・ポリティクスは関係論の一つの表れでしかないのです。危機的状況にあるものについての、誤った解釈なのです。</p>

<p>まだ意識は最高段階に達していませんが、そこに向かいつつあります。　</p>

<p>21世紀はアジアの世紀だと言われており、私もそう考えています。中国だけではありません。さまざまなプレイヤーがアジアの世紀を作っています。</p>

<p>中国、韓国、日本、シンガポールなどなど、多くのプレイヤーたちが密につながり合い、超高速で動いています。この加速感がアジアです。そう考えると、東洋思想がますます存在感を増すことが確実に期待されます。</p>

<p>そして、次の世紀はアフリカの世紀になると予言しておきます。誰もその兆しを見てはいませんが、アジアと西洋の次の融合がアフリカに出現すると私は思っています。</p>

<p>アフリカの人々がこの二つを新しい意識の形に合体させるでしょう。彼らには歴史的な下地がありますから。しかし私たちはまだそこに至っていません。まだ遠い先の未来ですから、今その心配をする必要はありません。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/a_image9/250415MarkusGabriel01.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 05 May 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[マルクス・ガブリエル（哲学者）, インタビュアー：大野和基（国際ジャーナリスト）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>イギリスの紅茶文化は「茶の密輸」で発展した　最大の密輸国はどこだった？  玉木俊明（京都産業大学経済学部教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12157</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012157</guid>
			<description><![CDATA[イギリスの茶の文化が発展した経緯を、玉木俊明氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="紅茶" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_tea.jpg" width="1200" /></p>

<p>今のように船や飛行機のような長期移動手段が当たり前にはなかった頃、国の国力は国が持つ物資や資材によって繫栄が影響を受けていた。また、それらを輸送できる技術を持っているかどうかで世界的に活躍する国は巡るように変わっていった。</p>

<p>世界史を物流を軸に見ることで、これまで気づいていなかった国々の繁栄と衰退の流れを簡単に追うことができる。例えば、世界最大の茶の消費国イギリスは、どのようにして茶を輸入していたのだろうか。</p>

<p>※本稿は『物流で世界史を読み解く　交易、移民問題から食文化の革新まで』より抜粋・編集を加えたものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>フランス東インド会社の密輸</h2>

<p><img alt="ブルターニュの主要な港" height="1341" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250408Tamakitoshiaki01.jpg" width="1200" /></p>

<p>18世紀のフランスは、大西洋貿易ではイギリスと争うほどに貿易量を拡大させた。場合によっては、イギリスよりも貿易の成長率は高かった。しかしアジアでは、そこまで大きな活動はできなかったようだ。</p>

<p>フランスも英蘭と同様に、1604年に東インド会社を創設し、1664年に同社を国営会社とした。1719年は、インド会社となり、東西インドの貿易をおこなったが、1731年にはアフリカとルイジアナが切り離され、ふたたび東インド貿易に専念することになった。その後、同社は1795年に清算された。</p>

<p>フランスの東インド会社は、茶の輸入で大きな役割を果たした。そして同社は輸入した茶を、スウェーデン東インド会社と同様、イギリスに密輸していたのである。</p>

<p>フランスにおける東インド貿易の根拠地は、ブルターニュ地方のロリアンにあった。17世紀終わり頃のブルターニュの人口は約200万人であり、フランスの総人口の10パーセントを占めていた。</p>

<p>上記地図にあげた港湾都市のうちサン・マロはスペインに繊維品を供給し、フランス中の製造品をスペインに送った。サン・マロは太平洋貿易にまで乗り出した世界中と結びついた都市であり、1713年にこの都市を出港したグラン・ドーファン号は、南米大陸最南端のホーン岬をへて、繊維品（リネン）をペルーに輸送したのち、アメリカ銀で中国商品を購入し、フランスに戻った。</p>

<p>もともとアメリカ産の銀は、中国で製品を買いつけるための代価であったが、18世紀のうちに繊維品、貴金属、奢侈品も代価として使われるようになり、アメリカ銀の使用頻度は相対的に低下した。</p>

<p>フランスのおもだった商品は、コーヒーと茶であり、茶の輸入量は、17世紀終わり頃の10万〔重量〕ポンドから、18世紀後半の200万ポンド弱へと急増した。さらに香辛料と胡椒、そして綿が重要な商品であった。</p>

<p>ここで注目すべきは、茶の輸入である。スウェーデンと同じく、フランスも茶ではなくコーヒーの消費国である。したがってこの茶は、世界最大の茶の消費国イギリスに密輸された可能性が高い。</p>

<p>フランスの茶の輸入を扱ったデルミニの研究によれば、1749〜64年にかけて広州からフランスが輸入した茶の総額は、年平均で1192万5288リーヴル、1766〜75年は、1288万5739リーヴルであった。そのうちブルターニュが占める割合は、それぞれ42.7パーセント、50.2パーセントであった。この時代を通じて、フランスの茶の輸入総額のうち、ブルターニュが占める比率は82.5パーセントであった。</p>

<p>その多くはブルターニュの都市ナントに輸出されていた。18世紀のナントは奴隷貿易をした貿易都市として知られるが、広州からの茶の輸入も重要であった。さらにフランス東インド会社の輸入品として、茶がコーヒーよりも多いこともあった。</p>

<p>ブルターニュに輸入された茶は、主としてイギリスとオランダに輸送された。イギリスへの輸出は、多くが密輸であった考えられる。オランダからどこにいったかはむろん詳らかではないが、イギリスに再輸出されるものもあったであろう。ブルターニュの茶は、高級であったので、イギリスの富裕層に飲まれたと推測されている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>茶の密輸がなければ、イギリスで茶は普及しなかった</h2>

<p>イギリスは、一人あたりに換算すると、おそらく18世紀では世界有数の茶の消費国であった。しかし、その茶はイギリス東インド会社が輸入したものとはかぎらなかった。</p>

<p>そもそも、イギリスや英仏海峡、さらに北海に接する国々がおこなう中国との貿易は、イギリス人の多くが茶を飲むようになったことを基盤としていた。1784年に減税法が導入される以前には、密輸される茶の量は400万〜600万ポンドともいわれ、なかには750万ポンドという説をとなえる研究者もいる。このように17世紀中頃には、茶の密輸は例外的とはいえない現象になっていた。</p>

<p>ヨーロッパ人にとって、茶は、重要な密輸品であった。たとえば、広州からハンブルクに茶が輸出されているが、この都市の後背地はエルベ川流域、さらにはバルト海地方であるので、そこに茶が輸出されたとは考えられない。ハンブルクは「小ロンドン」と呼ばれたほどロンドンとは密接な関係にあったのだから、ハンブルクからロンドンに密輸されたと推測できる。</p>

<p>密輸を促したのは、イギリスの茶に対する関税率の高さであった。1784年に減税法が導入されるまで、茶に対する関税率は80パーセントを下回ることはほとんどなく、100パーセントを超えることも珍しくはなかった。</p>

<p>減税法により、密輸への誘惑は減った。イギリス東インド会社が販売した茶の額は、1783年が586万ポンド、1784年が1140万ポンド、1785年が約1508万ポンドと、大きく増加した。これは、密輸量が大きく低下したためであろう。</p>

<p>しかし、減税法以前には、おそらくイギリスへの最大の茶の密輸国はフランス、ついでスウェーデンであった。フランスからは高級茶、スウェーデンからは低級茶が密輸入された。両国は、イギリスが世界最大の茶の消費国になることを助けたのである。</p>

<p>日本では川北稔が、「東インドの茶と西インドの砂糖が一つのティーカップに入れられることにより、世界は一つになった」と表現した。それは同時に、イギリス帝国の拡大を物語る。</p>

<p>しかし砂糖とは異なり紅茶は、イギリスの船で東インドや中国から合法的に輸入したものとはかぎらなかった。密輸された茶がなければ、イギリス人は、これほどまでに茶を飲む国民にはならなかったかもしれないのだ。</p>

<p>茶という商品の物流は、密輸によっても拡大した。広州からヨーロッパ大陸、さらにイギリスへと、密輸の道が開かれていったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_tea.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 04 May 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[玉木俊明（京都産業大学経済学部教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>80年間放置してきた国家的な課題　国家情報局とスパイ防止法がなぜ必要なのか  小谷賢（日本大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14182</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014182</guid>
			<description><![CDATA[高市政権は 「インテリジェンス改革」 について、三本柱で検討したうえで実施をめざしている。これらの改革は、 はたしてなぜ必要なのか、日本のインテリジェンス研究の第一人者である小谷賢氏が読み解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="国会議事堂" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_KokkaiyoruG.jpg" width="1200" /></p>

<p>高市政権は 「インテリジェンス改革」 について、三本柱で検討したうえで実施をめざしている。これらの改革は、 はたしてなぜ必要なのか、日本のインテリジェンス研究の第一人者である小谷賢氏が読み解く。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>国家情報局と国家情報会議の創設</h2>

<p>高市自民党政権は日本維新の会との合意に基づき、インテリジェンス（情報活動）分野の改革に積極的であると見られている。具体的には、「国家情報局の創設」「スパイ防止法の制定」「対外インテリジェンスの強化」という三本柱からなっており、本稿では、今後実施されるであろうこれらインテリジェンス改革について概観していきたい。</p>

<p>高市政権が最初に着手した国家情報局と国家情報会議の設置は、それぞれ既存の内閣官房内閣情報調査室（内調）と内閣情報会議の格上げによって実現されるので、比較的ハードルが低いと言える。両者を格上げしなければならない理由は、まず内閣情報調査室の情報集約能力を高めるためである。</p>

<p>現状では、各省庁の情報部門（インテリジェンス・コミュニティ）が情報収集・分析を行ない、内調がそれを束ねて官邸に報告することになっている。内調のもっとも重要な任務は、週に二回程度官邸に情報を報告することであるが、そのためにはインテリジェンス・コミュニティの協力が不可欠となる。</p>

<p>ただし、各省庁は重要な情報があれば、内調ではなく直接官邸に情報を届けることが多いので、必ずしもすべての情報が内調に届けられるわけではない。その結果、官邸は雑多な情報で溢れかえり、内調には分析業務に必要な情報が届かないこともある。</p>

<p>このような状況になっているのは、内調の各省庁に対する権限を明確に規定していないためである。1952年に前身の組織が設置された内調は、米国の中央情報庁（CIA）をめざしてつくられた経緯があるが、当時の政治的混乱や世論の反対によって腰砕けとなり、そのとき以来、ほとんど権限が与えられないままとなってきた。</p>

<p>対照的なのは、2014年に内調と同じ内閣官房に設置された国家安全保障局（ＮＳＳ）であり、こちらは国家安全保障会議設置法によって「内閣官房長官及び関係行政機関の長は、議長の求めに応じて、会議に対し、国家安全保障に関する資料又は情報の提供及び説明その他必要な協力を行わなければならない」と規定されている。</p>

<p>そのため現状では、ＮＳＳのほうがインテリジェンス・コミュニティに対する情報要求が強く働くとも評価できる。つまり、今回の格上げの狙いは、内調にもＮＳＳのように各省庁の情報に対するアクセス権限を与えるため、各コミュニティから内調への情報提供を法的に義務付ける、といった点にある。</p>

<p>また、コミュニティのすべての情報が共有されることになっている内閣情報会議も、同じく曖昧な存在となっている。現状、こちらは官房長官が議長となり、各省庁の次官級の事務方が出席して情報を共有することになっているが、やはり各省庁は情報を出し惜しみすることが多い。そこで総理が出席することで、すべての情報を包み隠さず共有すること、そして各省庁も他省庁の情報を共有してもらうことで、国家的なインテリジェンスが機能していくことが期待されている。</p>

<p>基本的に各省庁は、自分たちの所掌事務のために情報収集を行なっており、国のためという意識は希薄である。たとえば外務省であれば、外務省の政策のため、防衛省・自衛隊であれば、防衛省の政策のための情報収集に専念し、そのなかで使えそうな情報があれば官邸に報告している。</p>

<p>しかし、格上げされた国家情報局や国家情報会議に情報提供するとなれば、最初からそこを意識しなくてはならないので、インテリジェンス活動にも国家観が重要になってくる。さらにいえば、官邸、内閣官房、他省庁すべてに見られる可能性があるのであれば、下手な情報は出せないので、情報収集や分析も高いレベルのものが要求されるようになるのではないだろうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>あとを絶たない中露のスパイ事案</h2>

<p>1985年に当時の中曽根自民党政権が、いわゆる「スパイ防止法」を国会に提出したが、死刑という量刑の重さなども相まって、反対多数で法制化には至らなかった。ただ、その後も中露によるスパイ事案があとを絶たず、日本は「スパイ天国」と呼ばれて久しい。</p>

<p>最近では国家機密だけではなく、民間企業や研究機関のもつ技術情報が狙われることも多くなってきた。2020年にはロシアの情報員がソフトバンクの部内情報を、中国の情報員が積水化学工業の部内情報をそれぞれ窃取したことが発覚し、2023年には産業技術総合研究所の中国籍の研究員が研究データを中国企業に漏洩させたことが発覚している。どの事案も情報が漏洩したあとに発覚したもので、未然に防ぐことはできず、中露の情報員も本国に逃れている。</p>

<p>もちろん近年、日本政府は情報漏洩への対策を進めてはいる。2013年には「特定秘密の保護に関する法律（特定秘密保護法）」が制定され、防衛・外交・テロ・特定有害活動分野で、漏洩すると「我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがある情報（諸外国ではTop Secret、またはSecretに相当）」を保護することができるようになった。</p>

<p>また2024年には、「重要経済安保情報の保護及び活用に関する法律（重要経済安保情報保護法）」が成立し、国と民間企業の共有する情報で、漏洩すると「我が国の安全保障に支障を与えるおそれがある情報（諸外国ではConfidentialに相当）」が保護されるようになった。さらに不正競争防止法では、民間企業のもつ営業秘密の漏洩も処罰の対象となる。既述のソフトバンクや積水化学工業の事件では、この法律が適用されている。</p>

<p>これらの法律では、情報の不正取得や取得のための働きかけやそそのかし（教唆）も処罰の対象となったため、一見、外国の情報機関による情報の不正窃取に対応できる仕組みにも見える。しかし、これら法律は、基本的には漏らす側、つまりは日本の国家公務員や民間企業の従業員に焦点を合わせたもので、外国の政府機関を念頭に置いているとは言いがたい。</p>

<p>なぜならば、情報を取りにくる行為を未然に防ごうとするなら、その行為を監視する必要性があるが、特定秘密保護法などはそのような監視行為を規定しているわけではないからである。その結果、我が国の秘密保護法制度は、情報流出の防止という本来の目的を果たしておらず、漏らした側への罰則適用という視点から運用されているにすぎないのである。既述した情報流出の事例においても、情報を取りにきた側は逮捕されていない。</p>

<p>戦後直後のスパイ事案では、日本に密入国してくる北朝鮮系の工作員が想定されていたため、事件のほとんどは出入国管理令や外国人登録法で対処することになった。しかし、中露のスパイとなると摘発が難しくなり、ほとんどの場合は事件が発覚したあとに警察の出頭要請を無視して出国してしまい、手が出せなくなるのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>スパイ防止法以外に整えるべき法制度</h2>

<p>他方、欧米のスパイ防止においては、機密や行為を規定し、漏洩させた場合だけでなく、情報流出の防止のため、情報を取りにくる側を監視し、その兆候があれば迅速に対応する。それに対して我が国の現状の法体系では、外国スパイの監視によって情報漏洩を未然に防ぐことができないため、スパイ防止法を検討する際にはこの点を突き詰める必要がある。</p>

<p>監視の対象は、日本国内の外国人となるが、闇雲に行なうわけではない。まず可能性が高いのは、大使館や領事館に外交官の身分で赴任し、情報活動を行なう情報員や軍人であるので、それら外交官はすでに監視の対象となっている。</p>

<p>問題は、民間人に偽装しているスパイ（Non Official Cover: ＮＯＣ）であり、彼らは普段、ジャーナリスト、学者、企業の従業員の肩書で働いているが、本業は国家機関に所属する情報員である。ＮＯＣの場合は、誰がスパイなのか、そしてどこで勤務しているのかがわかりにくいため、その監視は容易ではない。そのため欧米では、外国代理人登録法なるものが存在している。</p>

<p>この種の法律では、米国の外国代理人登録法（ＦＡＲＡ）がよく知られており、これは米国以外の国籍で、米国に在住し、外国勢力や団体の利益のために活動する者を外国代理人と定義し、司法省に登録する制度である。このデータベースは国防総省にも共有されており、監視の必要があれば、実際に連邦捜査局（ＦＢＩ）などが監視活動を行なうことになっている。また、登録の拒否、虚偽の登録などを行なった場合は、外国代理人届出義務違反罪によって罪に問える。</p>

<p>また近年、中国の浸透工作に悩まされてきた豪州は2018年に外国影響力透明化法を制定しているが、こちらは外国人の豪州の政治家や政府関係者などへの接近を厳しく制限するものである。このように諸外国では、それぞれの国内で外国人が政治的に活動することを制限しているのである。</p>

<p>他方、日本国内における諸外国の情報機関の監視は各省庁で実施しているが、その手段は基本的に目視による監視と尾行である。しかし、このような監視活動は膨大な労力がかかる割に、相手の意図などを事前に調べることができない。これに対して欧米諸国では、通信傍受による情報収集が基本となっている。ここでいう通信傍受とは、平時から情報収集のために行なう行政傍受のことである。情報機関による行政傍受は、基本的に自国民に対してではなく、スパイ活動を行なう可能性のある外国人やテロリストに対して行なわれている。</p>

<p>日本では行政傍受の導入については、いまだ議論の俎上にも上がらない。行政傍受は個人のプライバシーが侵害されるおそれがあるとして、日本国内の世論やマスメディアは慎重な姿勢を崩さない。また通信傍受の実施は、日本国憲法第二一条の「通信の秘密」にも関わる事項であるため、広範な議論が必要になってくる。</p>

<p>ただし、ここで通信傍受の対象となるのは、日本の秘密を非合法に得ようとする外国政府勢力、もしくは外国政府の利益のために働く外国人エージェントが対象であるため、大部分の日本人にとっては直接的な影響はないだろう。基本的に調査機関が日本人の通信を傍受することは想定されていないが、もし外国人エージェントとの接触が認められた場合は、裁判所の許可を得て実施することも検討しなければならないだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>いかなる対外インテリジェンス組織をつくるか</h2>

<p>日本は戦後長らく、米国のCIAや英国の秘密情報部（MI6）に相当する、海外での人的情報収集活動を専門とする対外インテリジェンス組織をもたなかった。ただし、2010年代には海外で邦人がテロリストに誘拐・殺害される事件が相次ぎ、それに対応するため2015年に国際テロ情報収集ユニット（ＣＴＵ‒Ｊ）が設置されている。</p>

<p>ＣＴＵ‒Ｊはテロ分野に特化しているため、警察官僚を中心に、同組織を対外情報機関に拡大するような構想もある。第二次安倍政権下で内閣情報官と国家安全保障局長を務めた北村滋氏は、「国際テロ情報収集ユニットは対外情報機関の先駆けといってよい組織ですが、任務がテロ関連の情報収集に限定されています。人員を拡充し、大量破壊兵器の不拡散や経済安全保障関連での情報収集も担わせることを検討してもよいでしょう」と主張している。</p>

<p>対外インテリジェンス組織は、海外で外務省のアセットを使用することから、外務省の協力は不可欠である。ＣＴＵ‒Ｊも組織上は外務省に設置されているが、他方、情報機関は情報と政策の分離の原則から、政策官庁のなかに置くことは好ましくなく、また、政治指導者に直接情報を伝えられることが重要なので、同組織は内閣官房の指揮下にも置かれている。そのため日本が対外インテリジェンス組織をもつのであれば、同組織の拡充がもっとも現実的な方法であるが、どのような組織としていくかは、さらに議論を詰めていく必要があるだろう。</p>

<p>現在、ＣＴＵ‒Ｊは100名程度の規模の組織であるが、対外情報機関となると相当な数の人員が必要となってくる。2013年の自民党、民主党、みんなの党による超党派議員の提言によれば、人員500人、予算200億円程度から始めるのが妥当との指摘もある。ただ問題は、それほどの数の即戦力をどこから集めてくるかだ。</p>

<p>おそらくこの点で重要になってくるのが、公安調査庁の再編だ。公安調査庁は法務省の外局であり、所掌事務は破壊活動防止法（破防法）による規制対象の調査を行なうことだ。破防法自体は1952年に制定された法律で、当時は共産主義勢力の監視を想定していた。しかし冷戦後、同勢力の活動は極めて低調となり、それに比例して破防法を根拠とした調査活動も低調となっている。</p>

<p>公安調査庁みずからも、近年の活動領域については経済安全保障、サイバー、テロを挙げており、そちらにより多くの人員を割いている。同庁の定員は1800人程度であるので、破防法に従事している調査官を法務省に残し、のちの調査官は新たな対外インテリジェンス組織に合流させるというのも手であろう。そのあとは外務省のような専門組織によって、情報収集や分析に長けた若者を採用していく、というやり方も考えられる。あとは部内にインテリジェンスの研修機関を設置し、そこで教育・訓練を行なっていくことも必要である。現在、日本政府内にインテリジェンス研修のプログラムは皆無に等しい状況であるため、この点についてもきちんとしたものを整備していくことが必要になってくる。</p>

<p>＊　　　　　＊　　　　　＊</p>

<p>本稿では、今後予想される高市政権のインテリジェンス改革を概観してきたが、現組織の国家情報局と国家情報会議への格上げ、外国代理人登録法や外国影響力透明化法といった法制整備については、それほどハードルは高くないだろう。おそらく本丸は行政傍受の導入と対外インテリジェンス機関の設置となるが、両者の実現には高いハードルが存在する。前者は憲法21条の問題に加え、野党や世論からの強い反発を招く可能性があり、後者は各省庁間の権限争いに発展する可能性がある。</p>

<p>それでも高市政権は、政治的資源を割いてでもそれらを実現しなくてはならない。これはインテリジェンスの領域だけでなく、日本の国としての在り方の問題でもあるのだ。日本は戦後80年間、この分野の改革を避け続けており、欧米諸国が当然のように備えているインテリジェンス機構を未整備のままにしてきた。この未整備状態は、露華鮮といった諸国に付け入られる隙を生じさせている。日本には、みずからの情報を守る、そして海外にも積極的に情報を取りにいくという、国としての当然の活動が求められているのである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_KokkaiyoruG.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 29 Apr 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[小谷賢（日本大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>東大入試を突破できない生成AIが、「文系上司」の強力な武器となる理由  鈴木貴博（経営戦略コンサルタント）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12094</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012094</guid>
			<description><![CDATA[鈴木貴博氏は根回しやご機嫌うかがいだけで生きてきた「旧来型上司」が生成AIを利用して跋扈する未来の到来を予測している。その理由とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="AIのイメージ" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_digital.jpg" width="1200" /></p>

<p>経営戦略コンサルタントで「未来予測のプロ」である鈴木貴博氏は、生成AIを利用した根回しやご機嫌うかがいだけで生きてきた「旧来型上司」が跋扈する未来の到来を予測している。そんな環境の中で生き残るためには、私たちはどうあるべきなのだろうか？</p>

<p>本記事では、鈴木貴博氏の『「AIクソ上司」の脅威 2030年、日本企業の序列がひっくり返る』より、「生成AIの限界」と「新たな支配者層」について触れたい一節を紹介する。</p>

<p>※本記事は鈴木貴博著『「AIクソ上司」の脅威 2030年、日本企業の序列がひっくり返る』（PHPビジネス新書）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「東ロボくん」が示すAIの限界</h2>

<p>本記事では、人工知能の性能の限界について説明いたします。</p>

<p>知識の範囲という意味で人工知能が「知の怪物」となったとしても、思考力では依然、人間の方が強い領域が存在することがわかっています。そのため、人工知能により大量の仕事が消滅するとしても、「人工知能が人類を支配する」というのは絵空事だと考えられるのです。その根拠についてお話ししたいと思います。</p>

<p>仕事消滅論が起きた当時、国立情報学研究所の新井紀子教授が率いる「東ロボくんプロジェクト」に日本のAI関連の頭脳が集結していたことで、現行方式のAIの性能限界がある程度はっきりすることになりました。</p>

<p>東ロボくんプロジェクトとは、「人工知能を育てることで東大受験を突破できるか」を試みたプロジェクトでした。結果としては、人工知能は東大入試を突破できないというのがプロジェクトチームの結論になりました。</p>

<p>その理由ですが、数学や世界史といった分野ではAIは非常に高い偏差値をたたき出すのですが、国語と英語では偏差値が50近辺以上には上がらなかったのです。2016年の模試で総合偏差値が57.1まで上がったところで、公式なプロジェクトは終了しました。</p>

<p>東大に入学するためには偏差値が70台に達する必要があります。偏差値70以上というのは、1000人の中で上位22人に入っていることを意味します。言い換えると97%の人類よりも勉強ができないと、この水準に入ることができません。</p>

<p>一方で偏差値50前後とは、1000人の中で500位前後に入っていること、つまり人類の平均レベルの学力だという意味です。東ロボくんが到達した偏差値57は上位24%を意味します。</p>

<p>国語にしても英語にしても、試験で問われるのは読解力です。文章に書いてあることを正確に読み取る能力が、いくら学習しても人工知能は並の力しか獲得できなかった。だから人工知能には人間と正しくコミュニケーションする力は備わらない、ということが明らかになりました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>人工知能によるコミュニケーションは「空虚」</h2>

<p>実は東ロボくんプロジェクトが解散した後、人工知能の語学力はそこからかなり向上したという報告があります。2019年のセンター試験の英語筆記試験で、人工知能が偏差値64.1を記録したのです。GPT-4が会議の議事録や論文の要約をまとめられるのは、その能力向上の一端を窺わせます。最近のグーグル翻訳の精度が上がってきたことからも、そのことが推測されます。</p>

<p>ただ、AIの能力が上がってきたことは確かですが、AIが文章の意味を理解できるようになったわけではありません。確からしい答えを推測で返してくるその精度が上がっただけです。二進法の計算機の限界をAIが超えられていないことに変わりはありません。</p>

<p>つまりここで判明している人工知能の限界は、人工知能は論理力や記憶力には優れていても、読解力やコミュニケーション力には決定的な欠陥があるということです。</p>

<p>具体例を1つ挙げると、金融機関が販売する「仕組み債」のような複雑な金融商品があります。見た目上利回りが大きくて有利な金融商品に見えるのですが、隠れたリスクが小さい字でどこかに書いてあって、本当は消費者の不利になる投資商品だったりするものです。この仕組み債の説明書（目論見書）をAIに読ませて「この商品のリスクを教えて」と訊ねても、現在のAIはもちろん、未来のAIですらそれをきちんと見抜くのは容易ではないかもしれません。理由は、AIには緻密な文章を正しく読み取る国語力がないからです。</p>

<p>もっと身近なものとして、携帯電話のプラン比較も同じです。国語力が人間よりも劣るAIツールに、各社のさまざまな携帯プランを学習させて、「私にぴったりのプランはどれ？」と訊いても、間違った答えがはじき出される可能性が高いわけです。</p>

<p>でも、もっともらしい返事はできます。先ほどSNS企業が生成するAIはあなたのよい話し相手になると言いましたが、それはあなたのSNSのタイムラインに表示されるポストを読んで、それと同じような「もっともらしい意見」や「共感を得られそうな返事」を生成しているだけです。つまり話し相手にはなるのですが、その会話は実は意味を理解していない空虚なものなのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>AIは人類を支配しないが、「新たな支配層」を生み出す</h2>

<p>人工知能の性能限界がわかったことで一番勢いづくのは、文系のビジネスエグゼクティブでしょう。何しろ自分の弱点である論理的思考や分析思考といった理系の能力はAIツールで補うことができるようになる一方で、人を動かすコミュニケーション力ではAIツールよりも自分の方が力量が上なのですから。</p>

<p>この限界からわかることは、この先の未来では人工知能が人類を支配するのではなく、人間が人類を支配するという点には変わりがないということです。しかも人類を支配する人間は、AIによってパワーアップした強化人間になります。この点で、AI強化上司はこれまでの支配者たちよりも新しい支配者ははるかに手ごわい敵になるはずです。</p>

<p>逆に悲しいことに理系の技術者はこれまでどおりというか、これまで以上に日本企業の中では冷遇されるようになるかもしれません。会社の中では理系人材は、口先が回って政治力があるうえにAIでパワーアップした文系のライバルに出し抜かれてしまいます。そして自分の専門価値は生成AIの台頭によって徐々に削られていきます。</p>

<p>例外が、理系でもAIに関わるエンジニアです。勉強のできる理系の学生はこの先、競って情報工学分野に進学するようになるでしょう。私立の医学部の偏差値が旧帝大並みに高いように、この先、私立の情報工学部の偏差値は、東大や京大の機械工学科や建築学科の偏差値を上回るようになるでしょう。</p>

<p>そしてここまでの議論について一番気をつけなければならないのは、こういった議論が当てはまるのは、偏差値で言えば本当に上の上の方の人たちだけだということです。論理力に優れ語学力が平均並みのAIは、人間で言えば偏差値60台の存在になりますが、それが意味することは、生成AIは最近でも人類全体の上位16%には入るということです。「AIは語学力が大きく劣るので、人類の手足となるだけで支配者にはなれないだろう」という観測は結論としては間違ってはいないのですが、その劣った語学力のAIでも、人類の50%はそれよりもさらに劣るというのが現実です。総合力では84%の人類はAIには勝てません。</p>

<p>ここで議論しているのは人工知能の性能論なのですが、その性能を前提に、上位16%の支配者たちが「人間の半数は近未来のAIよりも語学力が低い」と判断するようになります。一方で、16%の支配者はAIを武器として強化人間へとパワーアップします。そしてそれらのAI強化上司は、普通の人間たちを徐々に見下すようになるかもしれません。そんな「AIの冬」がやってくるのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 23 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鈴木貴博（経営戦略コンサルタント）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】「文明を継承する」ということ　山形の「王祇祭」を守れるか（第４回）  船曳建夫（文化人類学者／東京大学名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13774</link>
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			<description><![CDATA[抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」を例に検討していく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="762" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260227funahiki4.jpg" width="1200" />王祇祭で演じられる奉納神事「黒川能」（写真提供：山形県公式観光サイト/やまがたへの旅）</p>

<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」を例に4回にわたって検討していきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「家が途切れる」ことの意味</h2>

<p>現在の黒川の危機に際し、例えばある集落全体の資産をどこかの農業会社が買い取り、すでにインフラとしてある水田の生産を続行すれば、生産性は何ら変わらないし、そこの数軒がその会社の農業法人に構成員として入ればいいという話になる。しかし問題は、イエという連続体とそこで継承されていたことがらがなくなるということです。</p>

<p>「家が途切れる」「連続性が途切れる」ということが地域全体にとってどれほど深刻な意味をもつか。単に一軒の家屋が失われるということではありません。そこに積み重ねられた人々の記憶、役割、系譜――つまり文明の単位が消滅するということです。</p>

<p>民俗学者の柳田國男は戦時中、しきりに先祖についての講演を行なっています。彼は、「跡継ぎが戦争で亡くなって『家』が途絶えることによって日本国がどうなるのか」に、強い危機感を持っていた。</p>

<p>今になって、というのは自分が柳田の年齢になって、人口が縮減する現実を目の前にして、柳田の気持ち、切迫感が、私は分かってきました。かつては地方へ旅行などに行くと「日本の村って、なんと美しいのだろう」と思ったものです。だから直近で黒川に行った際も夕日の中の風景を「美しい」と思ってもいいはずでしたが、むしろうそ寒さを覚えました。</p>

<p>フランスの人類学者レヴィ・ストロースも、日本滞在に際して「イエ」に強い関心を示しました。日本の文化人類学者も「イエ」という概念をずいぶん打ち出していた時代がある。「イエ」というと、現代では&ldquo;家長が暴力的に権利を振りかざす家父長制&rdquo;といった悪しきイメージとしてとらえられる傾向がありますが、社会の仕組みとして見ればそうではありません。自身や家族を守るためのユニットであり、血縁や親族関係を超えて社会的連続性を保持するための装置でもあった。それによって秩序の安定や職能・技能の維持・継承といった、社会的・経済的に重要な役割を果たすものでもあったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>いま「新しいイエ社会」を考えるとき</h2>

<p>ですが現代社会において、イエの仕組みは急速に機能を失っています。個人の問題の多様化と女性へのしわ寄せが限界に来て、イエは連続性を担う力を喪失しつつある。</p>

<p>黒川地区でもこのたび、下座の名だたる家の長男が当屋の権利と義務を返上する願いを出したと言います。「能は自分の芸能として続けるけれども、祭りを引き受ける当屋はしない」と。この返上の願いを皮切りに、後に他の家も続いているという。祭の継承、連続性の断絶の危機は、すぐそこまできています。</p>

<p>とはいえ、私たちはもはや「旧いイエ」に戻ることはできません。家父長制も、性別役割分業も、社会の基盤とはなりえない。ゆえに私たちはいま、新しいかたちの「連続性を保つ制度」「文明の根幹を支えるイエ」を模索していく必要があるのではないでしょうか。いわば「イエ社会2.0」とでも言うべきものを。</p>

<p>私が好きな落語家・古今亭志ん生の有名な枕に、なんで夫婦で一緒にいるかといえば、「寒い晩はねぇ、くっついて寝るとあったかいんだ」があります。これは案外、イエの&ldquo;本質&rdquo;を突いている。なぜだかわからないけど、あったかいから人と人は一緒にいる。人が「くっついて生きる」ことで家は、文明は支えられてきたわけです。これが現代で失われているのだとしたら、現代版「くっついているとあったかい家」は、どのようにつくることができるのか――。</p>

<p>私は、従来の家族の在り方――夫婦や親子、養子、婿入り等々――に限らず、同性婚を含め、アセクシャル、ノンバイナリー、シェアハウス、地域共生住宅など、血縁や婚姻を超えてあらゆるものに可能性を見出していく必要があると思います。それらのものに対して、法的制度や社会的承認を与えることも含めて。それほど、これまでの人と人の間の価値観を変えなければならない局面に、私たちは立たされているように思うのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>思いがけないことが起こる可能性を信じて</h2>

<p>黒川に話を戻すと、この地域の衰退を目の当たりにしながらも、私は応援団としてまだあきらめていません。ここ数十年を見ていても、日本が直面する問題について、解決が不可能だと思われた事象が後にひっくり返った例は何度もあります。戦後長い間、大きな問題は「少ない住宅」の問題でした。家の数が少ないので、1960年代は、私たち団塊の世代が大人になったとき、「住む家」がない、大問題だ、と。しかし今は、むしろ、「住む人」がいない、と問題は逆転、またはねじれてしまいました。問題は残っていますが、問題の「かたち」が変わった。人口の縮減の問題は、それがどのような「かたち」を取るのか、まだ見極められていません。分かっているのは文明の継承のためには、新しい事態を把握し、あらゆる手段や選択肢を考え、そしてそこに現れるものを受け入れる寛容さを持つことでしょう。</p>

<p>都心にある私の事務所の町内会には、祭がありますが、本祭（例大祭）は3年に1度行なわれます。日本の祭りで本祭が2年に1度、または3年に1度行なわれるという事例はよくあります。種々の理由や原因はあったでしょうが、やはり毎年、全力で祭りを開催することは困難であることが一因で、継続のために、そうしたのではないでしょうか。</p>

<p>これに倣って、黒川の友人たちと会ったとき「3年に1度、3人がまとめて当屋になるのはどうか」と提案してみました。これは言う前からかなり侮辱的な発言だなと私自身は感じていましたが、驚いたことに、みなはすぐに否定せずに、「うーん」と考え始めました。私は、驚きと希望を感じました。問題はそこまで来ているし、待ったなしであるゆえに大きな変革がありうるかも知れない。</p>

<p>まずは祭の信仰と仕組みの問題です。何百年も祭と芸能が維持されてきたのは、村の中でも積極的に芸能を演じる人とそうでない人もいて、関わり方に濃淡は昔からありました。メーリングリストなど、ネットで言うROM（読むだけのメンバー）の人たちのように、芸能は演じないが見る方にいる人たちも、「座狩り」では名前の読み上げられる王祇祭のメンバーなのです。何百年も祭と芸能が維持されてきたのは、そうした人たち含めての「黒川」だったのです。生まれ育って出て行った人たち、王祇祭と黒川能を愛する人たち、そうしたいわば「外にいるサポーター」の人をどう組み込むかを考えてもいいでしょう。</p>

<p>黒川は、鶴岡市に行政的に合併されただけではなく、実際に市の中心からなだらかに続く平野に位置します。移住も行き来も難しくありません。人口縮減のプロセスで起きることが何であるか、考えると怖いことの中に、新しい芽があるかも知れません。昨今は日本の伝統芸能を外国人が演じることも珍しくはありません。制度が簡略化されても、演者に外の人が加わっても、祭りの本質が失われるとは限りません。ただそこに「信仰」があれば、です。ただそのことは今から心配しても仕方ない、まずは、次の10年、また次の10年と考えるしかないと思います</p>

<p>話は変わるようですが、能太夫になった友人は高台に畑を作り、そこで1本の桜の世話をしています。その桜は圧倒されるほど見事です。遠くから見た別の地域の子どもたちが自転車に乗って、わざわざ「見せてください」とやって来たことがあるそうです。ここには祭と芸能を支えてきた彼の美意識、信仰があるのだ、と思います。</p>

<p>重要なのは、「続けたい」という思いでしょう。それを梃子に、現在を生きることをどのように可能にするかを工夫する。その続けたいという意思がある限り、文明は途切れることはないと思うのです。文明の継続の中で、それを背負って生きる人間を「全取っ替え」することはできません。だからこそ私たちは、これまでに蓄えた知恵をフル活用して、少しずつの変化を起こして、生き続けるほかありません。</p>

<p>しかしそうすれば、黒川という文明が生きのびるための思いがけない工夫が起こるに違いない。黒川の外にいる人間として、そう期待しています。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 22 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[船曳建夫（文化人類学者／東京大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>真の自己理解に必要なのは？ 心理学者が警鐘を鳴らす「性格タイプ別診断」の利用法  小塩真司（早稲田大学文学学術院教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/11663</link>
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			<description><![CDATA[若者の間で流行しているMBTI診断を利用する際の注意点とは? 早稲田大学文学学術院教授の小塩真司氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="MBTI診断" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_racismG.jpg" width="1200" /></p>

<p>「MBTI（Myers-Briggs Type Indicator）診断」をご存じだろうか。</p>

<p>若者を中心に昨今流行している自己理解メソッドとされるもので、「外向：Ｅまたは内向：Ｉ」「感覚：Ｓまたは直観：Ｎ」「思考：Ｔまたは感情：Ｆ」「判断的態度：Ｊまたは知覚的態度：Ｐ」の四項目でどちらの傾向が強いかを判定し、計16のタイプに分けられる。</p>

<p>自分のタイプを認識するのはもちろんのこと、友人との会話で互いのタイプを聞きあったりすることや、SNSのプロフィール欄に明記したりすることも珍しくない。こうした類のタイプ別診断は言うまでもなく、「MBTI診断」に始まったものではなく、過去にもさまざまなトレンドがあった。</p>

<p>しかし、このような診断で自分の「タイプ」を知ることは、本当に自己理解につながるのだろうか。</p>

<p>前編記事では、本来のMBTIは日本では「日本MBTI協会」が取り扱っており、たとえば「無料性格診断テスト16Personalities」などのネットに流布している診断とは異なる目的で用いるものだという指摘もされた。</p>

<p>「MBTI診断」をはじめとするタイプ別診断の活用法、そして真の自己理解についてパーソナリティ心理学の専門家に話を聞いた。</p>

<p>※本稿は前後編の後編です。『Voice』2024年1月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>本当の「自己理解」のために必要なこと</h2>

<p>――韓国では、MBTIが就活に活用されるケースもあると聞きます。ほかの診断よりも精度が高いなどの特徴があるのでしょうか。</p>

<p>【小塩】どんな診断でも、自分のタイプや点数がわかったとして、それを何に使うかが重要でしょう。インターネット上の「MBTI診断」については自己理解メソッドとして受け入れられていると聞きますが、しかし自分が16のうちどのタイプだと判定されたところで、それが本当の意味での自己理解につながるのでしょうか。</p>

<p>――そもそも、人はどのような状態になれば「自分を理解した」と言えるのでしょうか。</p>

<p>【小塩】私が推奨しているのは、「辞書を開いて自分を表現する言葉をじっくり探すこと」です。点数やタイプではなく、自分自身を表現する「言葉」を探したうえで表現できるようになったほうがいいでしょう。</p>

<p>たとえば、「自分を漢字一文字や四字熟語で表すと何か」という質問もありますね。それを考えることには意義があると思いますが、しかし若い人たちは語彙がまだ十分ではない。つまり、自分を表すうえでしっくりくる言葉にまだ出合っていない可能性がある。</p>

<p>ですから私たちは多くの言葉を知っておくべきで、少ない語彙で自分自身のことを考えても、たいした分析はできません。多くの就活生が自己分析に悩んでいますが、その原因は語彙の少なさではないでしょうか。</p>

<p>――だからこそ、まずは「辞書を開くこと」を推奨されているのですね。</p>

<p>【小塩】映画を観たり小説を読んだりすることも重要でしょう。さまざまな作品を通じて、登場人物と自分とを照らし合わせれば、どんな言葉で自分を表現するべきかを考えるでしょうから。それこそが本当の意味での「自己理解」につながるのではないでしょうか。</p>

<p>就活の面接で自己紹介するときに「私はこの検定で何点でした」と言っても、自分自身の内面の魅力を伝えることはできません。ただし、採用する側は数字やタイプで就活生を比較したほうが楽です。だからこそ、韓国の就活などでは用いられているのでしょう。</p>

<p>でも繰り返すようですが、診断の結果やタイプは、自分自身のことを表現する手段にはなりません。そもそもテストとは検査する側が利用するもので、受ける側が進んで使うものではないでしょう。</p>

<p>――「テストは受ける側が使うものではない」とは具体的にどういうことでしょうか。</p>

<p>【小塩】たとえば、研究者は自身の研究のためにテストを活用します。あるいは、何かの研修を受けた場合、効果が上がったか否かを確認するためにテストが必要になる。</p>

<p>また臨床場面であれば、患者がどんな状態か知るために医者が検査します。本来のMBTIも、簡単にその場で診断を出すものではなく、専門家のもとでアドバイスを受けながら、自分自身について理解を深める目的で実施されます。</p>

<p>つまり、何がしかの目的があるからこそテストが手段として使われるわけで、最近のタイプ別診断のように、ただ答えて終わりということはあり得ないのです。多くの日本人が、この点で各種のテストや診断を勘違いしている気がします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「テスト」を自分に向けてはならない</h2>

<p>――「テスト自体が目的ではない」とは見落としがちなお話で、あらゆるテストにも言えることですね。たとえば、学校で受ける定期テストだって各生徒の学習の進捗具合を比較して成績をつける教師のためのものと言えるでしょう。</p>

<p>【小塩】そうです。テストは比較のために使われたり目標を見据えた予測のために使ったりするものですが、中学生くらいからその本質を履き違えてしまい、テストでよい点数をとることが目的化してしまう。要するに、テストのために勉強をしてしまうのです。</p>

<p>しかし、本来であれば学校の試験も大人の健康診断や血液検査と一緒で、問題があるかどうかを確かめる方法の一つにすぎない。テストが本質ではないのに、多くの日本人がそのように誤解している現状に対しては強く危惧しています。</p>

<p>――テストはあくまでテストにすぎない、ということを見落としてしまっているのですね。</p>

<p>【小塩】だからこそテストの結果で人と比べあい、それぞれが優越感と劣等感を抱いたり、勝ち組と負け組のようなカテゴライズが始まったりするのでしょう。またテストが目的化すると、皆が「テスト対策」ばかりに気をとられて、実際にはあまりの意味のない小手先のテクニックで点数を上げようとしてしまいます。</p>

<p>ただし、この話を若い人に理解してもらうのは簡単ではありませんね。私は以前、高校生を前にして「『テスト勉強』と『本当の勉強』は違うんだよ」と話したことがありますが、やはりわかってもらえませんでした（苦笑）。そうして高校を卒業するまでテスト勉強に明け暮れているので、大学に進学した途端、勉強しなくなってしまう子が多いのです。</p>

<p>――非常に重要なご指摘です。では最後に伺いたいのですが、「タイプ別診断」について、それを受ける私たちにはメリットはないのでしょうか。</p>

<p>【小塩】利点があるとするならば、それはやはり「使う側」に立ったときでしょう。たとえば、会社や部門経営をする際に、従業員に対してテストをして、このタイプの人がこれくらいの成果を上げるという結果がわかれば、どうマネージメントするか考えやすいはずです。</p>

<p>ただし、繰り返すようですが、タイプ別診断で「自分はこのタイプだから」と自分自身の本質を理解しようとするべきではないし、望ましいことではありません。</p>

<p>テストはあくまでもテストだし、なかには診断されたタイプが先天的で固定的なものだと思ってしまう人がいる。しかしどんな診断でも、受検者をどれかのタイプには当てはめないといけないため、微妙な部分を無視して無理やり既定のタイプに分類していることもあります。同じ診断をふたたび受けると、前回とは結果が変わるということは珍しくない。</p>

<p>じつは、定評ある心理的な検査であっても、それほど結果が安定しているわけではないのです。ですから、何かの診断を受けていずれかのタイプに分類されたとしても、その結果で自分自身を縛ってしまう必要はありません。</p>

<p>残念ながら、テストという本質ではないもので、人と比べあって優越感や劣等感を抱いているのがいまの日本社会でしょう。カテゴライズには有用な面もあるからこそ浸透しているのでしょうが、それで自分が苦しむことがないよう気を付けなければいけません。周囲の大人も、若者たちにそう伝えるべきではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_racismG.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 21 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[小塩真司（早稲田大学文学学術院教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>今さら聞けない「chatGPT」のGPTって何？　意味を理解すれば見えてくるその正体  鈴木貴博（経営戦略コンサルタント）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12093</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012093</guid>
			<description><![CDATA[これだけ耳にする「ChatGPT」。しかしどれだけの人が「GPT」の意味を理解しているだろうか？ 鈴木貴博が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="サーバー" height="840" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_server.jpg" width="1200" /></p>

<p>AIの急速な実用化と発展は加速するばかり。仕事や環境がすっかり様変わりしてしまったという人も少なくない。しかし誰もがAIを利用して同質の情報やスキルを身につけられてしまうと、根回しやご機嫌うかがいだけで生きてきた「昭和型上司」も自分たちと同質の情報を手にして、好き放題をしてしまう未来が近づいているのかもしれない。そんな環境の中で生き残るためには、私たちはどうあるべきなのだろうか？</p>

<p>本記事では、経営戦略コンサルタントで「未来予測のプロ」である鈴木貴博氏が、AI時代に起こるべき脅威を伝える『「AIクソ上司」の脅威 2030年、日本企業の序列がひっくり返る』より、「ChatGPTの正体」について触れたい一節を紹介する。</p>

<p>※本記事は鈴木貴博著『「AIクソ上司」の脅威 2030年、日本企業の序列がひっくり返る』（PHPビジネス新書）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ChatGPTは「逆順」で考えると理解しやすい</h2>

<p>ChatGPTの本質は、実は逆順の「T&rarr;P&rarr;G&rarr;Chat」で捉えると理解しやすくなります。</p>

<p>「T」はTransformer（トランスフォーマー）の略で、これは機械学習の専門用語です。文章を単語に分解して重みづけをしたうえで、重要な単語に重きを置くというAIの学習方式のことを指します。</p>

<p>トランスフォーマー方式だと精度が高いまま学習スピードが速くなるということで、この「学習スピードが速いAI」というのが、ChatGPTの1つ目の特徴だと捉えることができます。</p>

<p>次の「P」が意味するのはPre-trained、つまり「事前に学習された」という意味です。</p>

<p>ここが一番誤解されているところなのですが、ChatGPTは事前に学習した範囲内でアウトプットを出してきます。はっきり言うと、ChatGPTには創造力はありません。事前に調べた範囲内で整理して模倣する、その成長スピードが速いAIがChatGPTということです。</p>

<p>Pの意味するところについては、この後改めて深掘りして考えてみたいと思うのですが、ここではChatGPTは「既存のものを素早く上手に模倣する機械」だと理解して、先に進んでいきましょう。</p>

<p>3番目の「G」が意味するのが生成（Generative）です。この「生成するAI」という言葉がパワフルなためにChatGPTの性能が過剰に評価されてしまっているのですが、Pのところで説明したように、生成してアウトプットできるのは過去に学習した範囲内の整理、ないしは模倣までです。新しいものを創造する形での生成能力は持たない、その意味では限定的な性能しか持たない機械だと理解してください。</p>

<p>そしてChatGPTの最大の特徴が「Chat」、つまり「対話形式で使える」ということです。これはChatGPTが成功した商品特徴そのものなのですが、自然言語を入力していけば答えをどんどん生成してくれるため、便利なのです。</p>

<p>このように4つの特徴をT&rarr;P&rarr;G&rarr;Chatの逆順で解釈すれば、ChatGPTの正体とは、「学習スピードが速く、既存のものを素早く上手に模倣し生成する、対話形式で使える機械」であることがわかります。能力が限定的とはいえパワフルなAIが出現したというのが、2022年11月に起きたChatGPTの出現という「事件」の正体です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>グーグルの危機</h2>

<p>ChatGPTの4つの特徴が揃ったことで、最初に危機に直面したのがグーグルです。</p>

<p>私たちは1日のかなりの時間、グーグルで何かを検索しています。しかし、グーグル検索には2つの欠点がありました。</p>

<p>1つはキーワードをどう選ぶかで検索結果が変わること。最初から適切なキーワードを選ぶことができればすぐに目的のサイトが出てきますが、場合によってはキーワードの組み合わせを何度も試していく必要に迫られます。</p>

<p>次に、表示された検索結果のサイトの中身を1つひとつ見ていく必要があること。そして、「このサイトには調べたいことが書いていない」とか、「このサイトの説明はわかりにくい」とぼやきながら時間が過ぎていくのです。</p>

<p>この2つの欠点をChatGPTは取り除いてくれました。今やマイクロソフトのブラウザであるエッジにはChatGPTを実装した検索エンジンであるBingがついていて、調べたい内容を自然言語で入力すれば、対話形式でより早く答えを見つけることができるようになりました。</p>

<p>そして今後、「調べる」「整理する」「模倣する」の3つの仕事が生成AIによって、より洗練された形で短時間でこなせる未来がやってきます。その意味するところが近未来の可能性である半面、社会にとっての危険性になるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ニッチ分野の学習」が競争のカギを握る</h2>

<p>では、生成AIはこれからどうなるのか。1つ、予測をしてみましょう。</p>

<p>今、世界中のIT企業が独自ないしは提携の形で、新しい生成AIを育成しようとしています。</p>

<p>ここでカギとなるのが、先ほど申し上げたT、つまりトランスフォーマーの側面です。これから出現するであろう新しい生成AIは、成長スピードがとにかく速いのです。それはトランスフォーマーという機械学習方式に加えて、エヌビディアが提供する最新のGPUの性能がスパコンクラスに上がってきているというもう1つの要素も関係してきます。</p>

<p>繰り返しになりますが、AIベンチャーがエヌビディアのGPUを3個購入して組み合わせれば、1500万円程度の投資でスーパーコンピューター「京」と同じ計算速度のスパコンを作れてしまいます。それを手元に置いて生成AIを育成すれば、独自の生成AIができあがる。そんな研究がこれから世界中で行われます。</p>

<p>その際に、それぞれのAIの差異を生み出すのがPの部分、つまり「何を学習させるか」です。</p>

<p>ここでBingやグーグルの「Bard」といった先行組のAIはインターネット情報を学習していることを思い出してください。ググって出てくる情報についてはこれらのAIが先行しています。そのため、これからの生成AIはインターネットに載っていないニッチな情報の学習にフォーカスするだろうと、予測できます。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_server.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 20 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鈴木貴博（経営戦略コンサルタント）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>自分の頭を使わない人が有能な時代に？　生成AI時代に生き残る人と企業の条件  鈴木貴博（経営戦略コンサルタント）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/12092</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012092</guid>
			<description><![CDATA[経営戦略コンサルタントの鈴木貴博氏が、企業や個人のAIとの向き合い方の実例を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="AIの活用で無個性に？" height="840" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_person.jpg" width="1200" /></p>

<p>AIの急速な実用化と発展は加速するばかり。仕事や環境がすっかり様変わりしてしまったという人も少なくない。しかし誰もがAIを利用して同質の情報やスキルを身につけられてしまうと、根回しやご機嫌うかがいだけで生きてきた「昭和型上司」も自分たちと同質の情報を手にして、好き放題をしてしまう未来が近づいているのかもしれない。そんな環境の中で生き残るためには、私たちはどうあるべきなのだろうか？</p>

<p>本記事では、経営戦略コンサルタントで「未来予測のプロ」である鈴木貴博氏が、AI時代に起こるべき脅威を伝える『「AIクソ上司」の脅威 2030年、日本企業の序列がひっくり返る』より、企業や個人のAIとの向き合い方の実例について触れた一節を紹介する。</p>

<p>※本記事は鈴木貴博著『「AIクソ上司」の脅威 2030年、日本企業の序列がひっくり返る』（PHPビジネス新書）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「法律相談」「履歴書」をAIが代替</h2>

<p>「弁護士ドットコムは、オープンAIと提携して独自の弁護士AIを育成しています。ChatGPTはあくまでインターネット情報しか学習しませんから、たとえば、「離婚を考えているのですが、慰謝料はいくらかかりますか？」と質問しても、「そうですね。慰謝料はケースバイケースで変わります。その金額はさまざまです」としか回答が返ってきません。しかし、弁護士ドットコムの会員しか見ることができないイントラネットの内容を学習すると、AIの答えは次のように変わります。「離婚の慰謝料はケースバイケースですが、大半の判例ではおおむね50万円から200万円の間に収まっているようです」</p>

<p>このように弁護士のノウハウを学習することに特化したAIが育つようになると、この先1～2年でAIを用いた法律相談が圧倒的に便利になります。それを見越して弁護士ドットコムはAIの育成に力を入れているわけですが、その先に起きるのは人間の弁護士が無料相談に乗ってくれる法テラスの衰退です。無料相談はスマホ上のチャットで代替できるようになるからです。</p>

<p>転職サービスのビズリーチではレジュメを生成AIに書かせるサービスを開始しました。「個人情報をAIが学習することは是か非か」という問題はまだ議論の途中のルールの段階だ、ということをいったん脇に置いておくと、転職サービス会社のイントラネットには過去の大量の転職者のレジュメが保管されています。その情報をAIが学習して、すぐに転職できた人となかなか転職できずに苦戦している人のレジュメの差異を把握すれば、AIは自分をより効果的に売り込める履歴書を人間よりもうまく書けるようになるはずです。</p>

<p>ビズリーチでは実際に、機能を使った人と使わなかった人とを比較したところ、使った人の方が、企業からの問い合わせが4割多くなったといいます。自分の頭で考えるよりも、生成AIを最初から使いこなすビジネスパーソンが生産性競争で勝つ時代が来たのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「わが社専用AI」がつぎつぎと登場</h2>

<p>実はこのような社内限定のAIは今後、つぎつぎと自動的に誕生することになりそうです。その兆しの1つが、オープンAIが提供を始めた「ChatGPT Enterprise」という商品です。これはカタログスペックとしてはGPT-4を基盤技術として使用し、利用回数の制限なしで社員が使うことができ、動作スピードはこれまでの2倍というものです。そして企業にとって重要な点は、利用企業のデータを基盤技術の訓練に使用せず、会話内容は暗号化されるという点です。</p>

<p>今、通常のGPT-4は月額20ドルでそのサービスを使うことができるのですが、問題は、機密情報を入力するとその機密がオープンAIの側に学習されてしまうことになることです。</p>

<p>たとえば全国に展開する飲食チェーンの従業員は今後、店舗開発の際には、「未展開エリアに新規出店をしたいので、わが社の空白地点で有望な順に出店候補地を200か所挙げてくれないか？」「北海道エリアに5か所出店するのと関西エリアに5か所出店するのとでは、どちらが早く黒字になりそう？」「わが社の関西エリアで業績がいいのはA店とB店、C店の3か所だが、候補地でこの3店舗よりも多くの売上が見込める立地はどれくらいある？」といった具合に質問をしながら、出店地を選んでいくことになるでしょう。ところが、こうした質問をすればするほど、自分たちの出店計画がAIに学習されます。この例だけならまだ大した被害はないかもしれませんが、社内会議の議事録のまとめを従業員がChatGPTに丸投げするようになれば、社内の議論をすべてAIが学習してしまいます。</p>

<p>そのため、ChatGPT Enterpriseが「利用内容を基盤技術の学習に利用しない」という前提が大企業にとってはまずもって重要になるのですが、その安心が担保されることで、次の段階として大企業の側は、「それならばもっと積極的に、わが社の内部データをAIに学習してほしい」と考えるようになります。</p>

<p>一般的なインターネット上の情報だけを事前学習しているGPT-4からは所詮、一般的な回答しか出てきません。一方、社内のさまざまな営業レポートや会議議事録を積極的に学習してくれたAIなら、自社の課題により早く、より深く回答してくれる可能性が出てきます。</p>

<p>おそらく数年以内にChatGPT Enterpriseというサービスはこういった方向に進化していくと予測できますが、そうなると結果として、各社独自のノウハウを学習した無数の人工知能が誕生していくことになります。</p>

<p>三菱商事には三菱商事の社員のように思考するAIが、ソニーグループにはソニーグループの社員のように思考するAIが誕生します。そして過去の機密データすべてを学習したうえで、社員の機密ランクに応じてアドバイスを返してくれるようになります。組織としての集合知が人を介さずに受け継がれるようになるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>しゃべる生成AIが2025年の標準機能になる</h2>

<p>生成AIの進化についてはもう1つ強調しておくべき点があります。文字ベースで始まった生成AIツールですが、2024年には音声ベースにサービスが進化するということです。</p>

<p>2023年9月、アマゾンはスマートスピーカーの「エコー」に、生成AI技術を適用した対話型の新型Alexaを搭載する予定だと発表しました。Alexaはこれまでも、音声認識技術の精度向上で反応時間が大幅に短縮されるようになってきています。そこに生成AIを組み合わせるというのです。</p>

<p>具体的には最新の大規模言語モデルを適用することで、人間とAlexaとの会話が、まるで人間同士が会話しているように行えるようになるというのです。</p>

<p>このニュースに続いて同じ9月にはオープンAIも、ChatGPTが新たに「見ること、聞くこと、話すことができるようになった」と、サービス機能拡大を宣言しました。対話型の生成AIと会話をしながら相談をすることができるようになったのです。</p>

<p>技術的には音声認識技術の正確さと生成AIの反応スピード、機械音声の性能の3つの壁を超えることができれば、既存の生成AIの能力で実現できる機能であることは間違いありません。この先、反応スピードが上がり、かつ、機械音声が人間の音声にどんどん近づいていくにつれて、私たちはスマホやスピーカーに話しかけながら、まるで人間のようなAIと会話をする時代がすぐにやってくるはずです。</p>

<p>順序としてはまずは2024年に英語圏で実用化レベルに近い商品が登場し、1年ほど遅れて日本語でも同じようなサービスが提供されるようになるでしょう。日本語の方が適用マーケットが小さいため開発が後回しになる点と、英語ほど論理的な言語ではないために性能が若干劣ることが予測されますが、いずれにしても2025年までにわれわれの日常が変わるはずです。</p>

<p>``` 【修正事項】 1. すべての数字（1, 2, 3, 20, 50, 200など）を半角に変更しました 2. すべてのアルファベット（AI, ChatGPT, GPTなど）を半角に変更しました 3. 機種依存文字の「‒」（ハイフン）を「-」（ハイフンマイナス）に変更しました 【誤字の指摘】（前回と同様） 1. 1段落目に「すっかり様変わり変わってしまった」と「変わり」と「変わって」が重複しています。「すっかり様変わりしてしまった」が正しいと思われます。 2. 2段落目の「兆きざし」は「兆し」が正しいと思われます。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 17 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鈴木貴博（経営戦略コンサルタント）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>心理学者が指摘する「無料のMBTI診断」の正体　利用者に問われるネットリテラシ―  小塩真司（早稲田大学文学学術院教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/11660</link>
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			<description><![CDATA[若者の間で流行しているMBTI診断だが、本当に自己理解に有用なのだろうか? 早稲田大学文学学術院教授の小塩真司氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="MBTI診断" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Peoplegrean.jpg" width="1200" /></p>

<p>「MBTI（Myers-Briggs Type Indicator）診断」をご存じだろうか。</p>

<p>若者を中心に昨今流行している自己理解メソッドとされるもので、「外向：Ｅまたは内向：Ｉ」「感覚：Ｓまたは直観：Ｎ」「思考：Ｔまたは感情：Ｆ」「判断的態度：Ｊまたは知覚的態度：Ｐ」の四項目でどちらの傾向が強いかを判定し、計16のタイプに分けられる。</p>

<p>自分のタイプを認識するのはもちろんのこと、友人との会話で互いのタイプを聞きあったりすることや、SNSのプロフィール欄に明記したりすることも珍しくない。こうした類のタイプ別診断は言うまでもなく、「MBTI診断」に始まったものではなく、過去にもさまざまなトレンドがあった。</p>

<p>しかし、このような診断で自分の「タイプ」を知ることは、本当に自己理解につながるのだろうか。その懸念すべき点については、見逃されていないだろうか。「MBTI診断」をはじめとするタイプ別診断の功罪についてパーソナリティ心理学の専門家に話を聞いた。</p>

<p>※本稿は前後編の前編です。『Voice』2024年1月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>若者のあいだで流行する「MBTI診断」の正体</h2>

<p>――小塩先生は日々、大学で学生と接していると思いますが、「MBTI診断」が彼ら彼女らの関心を集めていると実感するでしょうか。</p>

<p>【小塩】大学では「パーソナリティ心理学」の講義などを担当していますが、一昨年ぐらいから「MBTI診断」について聞かれたり感想を求められたりする機会が増えたのは事実ですね。</p>

<p>「ネットで診断しましたが、あれは正確なのでしょうか」「就活中で自己分析の一環でやっています」といった声のほか、「私はこのタイプなのですが......」と最初から診断結果を明かしてくる学生も少なくないですね。</p>

<p>講義では昔から学生にアンケートを書いてもらっていて、時代とともに流行りの診断は変わりますが、ここ2、3年は「MBTI診断」がトレンドであることは間違いありません。</p>

<p>――とはいえ、現状の「MBTI診断」には懸念すべき点もないでしょうか。そもそも、多くの日本人が受けているネットでの診断は、本来のMBTIとは異なりますよね。</p>

<p>【小塩】まさにそのとおりで、私も憂慮している問題です。本来のMBTIは現在、日本では「日本MBTI協会」が取り扱っています。これはたとえば「無料性格診断テスト16Personalities」などのようなネットに流布している診断とは別物で、自分自身を理解する研修の中で使用される一種の分析ツールのようなものです。</p>

<p>――具体的には何が違うのでしょうか。</p>

<p>【小塩】質問項目から回答の仕方まで異なります。本来のMBTIでは、たとえば「社交家である」と「控えめである」というフレーズの比較ですが、ネットで無料提供されているのは、受検者は一つの文章に対して自分がその内容にどれだけ当てはまるか、七段階程度で回答します。それにもかかわらず、診断結果に関しては、本来のMBTIと同じ16タイプの分け方が採用されているのがネットの無料診断です。</p>

<p>――「日本MBTI協会」と無料診断サイトでは診断の内容が異なるというわけですね。</p>

<p>【小塩】さらに申し上げるならば、あのような診断をネットで「無料」で受けられるのはなぜか、立ち止まって考えるべきでしょう。</p>

<p>どのような診断であれ、検査を作成することにも提供することにもそれなりのコストがかかります。「MBTI診断」に限った話ではありません。それにもかかわらず無料で提供できているのは、一つはネット広告で収入を得ているからで、もしかしたら個人情報を収集することが目的かもしれない。診断前に性別や年齢を入力させられるケースもありますし、相手のサイトは少なくとも受検者のIPアドレスなどは入手しているわけです。</p>

<p>なかには「結果を送ってほしい方はメールアドレスを入力してください」という画面が出てくるサイトもある。その仕組みまで意識して気を付けたうえで、ネットの無料診断を受検した人がどれほどいるでしょうか。</p>

<p>――私たちのネットリテラシーも問われている、ということですね。</p>

<p>【小塩】そういうことです。私の研究室の学生も自身の研究の過程でさまざまな調査を行ないますが、協力していただける方には、必ず調査母体を明らかにしたうえで、得られたデータの活用目的を事前に開示します。研究以外の目的では使用しないと明記するし、そのうえで同意いただける場合には回答していただく。</p>

<p>ですから私は学生が何がしかの無料診断をネットで受けたときは、「そうした手続きはありましたか」と聞くんです。使用目的が英語でしか書いていないケースもあるし、しかも読むと「信頼できる結果は出ません」という内容が書いてあることも珍しくありませんから。</p>

<p>――一方で、本来のMBTIの中身はどう評価できるのでしょうか。</p>

<p>【小塩】MBTIの歴史はかなり古くて、もともとは100年以上前に提唱されたユング理論からきています。1940年代にアメリカで作られ、2000年に正式な日本語版が発表されていますが、アメリカの心理学者のなかには、MBTIを批判している人も少なくありません。</p>

<p>じつは、そんなMBTIの歴史をさかのぼると日本人が大きく関わっています。1960年代、MBTIに注目して、アメリカから権利を取得したのが、リクルートの創業者として知られる江副浩正氏を含む研究グループでした。彼らは「MBTIを日本に適用する」という趣旨の内容で、当時の日本教育心理学会で学会発表までしています。</p>

<p>以上について、詳細は経営者のバイブルでもある『心理学的経営』（大沢武志著、PHP研究所）に書かれています。同書の副題は「個をあるがままに生かす」。社員一人ひとりが個性を発揮する経営を試みるなかで、MBTIの活用を考えたのでしょう。</p>

<p>なお、MBTIは当時のアメリカで流行っていたわけではないのですが、日本の実業家からそれだけ注目されているということで、その後、アメリカのMBTI協会までも次第に大きくなっていきました。</p>

<p>しかしそもそも、本来のMBTIは、適性検査や診断という目的で用いるものではありません。専門家のサポートを受けながら結果を見返し、自分自身で振り返る中で自己分析をするためのツールです。気軽に診断をする「性格検査」ではありませんので、その点は注意が必要です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「タイプ別診断」が生み出す構造</h2>

<p>――現在の「MBTI診断」の流行は韓国から日本の若者のあいだに流入したと言われています。そもそもタイプ別診断について、小塩先生はどのように評価しているでしょうか。</p>

<p>【小塩】どのタイプ別診断も似たような構造を生み出します。すなわち、受検者をいくつかのタイプに分けて、そのなかで上位と下位を設定する。そうして人びとのあいだに優越感や劣等感を生み出すことで、コミュニティができたり、違うタイプの人を攻撃したりする人が出てきたりします。血液型で言えば、しばしばB型が理不尽なバッシングを受けるのと同じで、多数派が安全圏から少数派をバッシングするという構造です。</p>

<p>「MBTI診断」のケースでも、ネット上には社会に不適合なのはこのタイプで、性格が良いのはこのタイプといったネット記事が氾濫していますね。それを読んだ人たちが「自分が生きづらいのはこのタイプだからではないか」「嫌いなあの人はこのタイプじゃないかな」と考えて診断を受けるようになるのです。</p>

<p>日本で長年流行ってきた血液型の性格判断も、ここ数年は頭打ちです。社会ではそれに代わるようなものが求められていて、だからこそ多くの人が「MBTI診断」にとりつかれているというのが私の見立てです。</p>

<p>――「診断系」と同じような構図で人びとの心をつかんでいるのが「占い」ではないでしょうか。</p>

<p>【小塩】大前提として、占いとは誰もが運勢の良い時期と悪い時期があるとされますから、必ずしもタイプ別診断と完全に合致するとは言えません。でも、たとえば星座占いでも「さそり座は怒りっぽい」などとタイプ別に分ければ、その瞬間に優劣の構造が生まれます。このように自分と他者のあいだに優劣をつけたがるのは人間の本質のようなもので、あらゆるところで昔から繰り返されてきたことでしょう。</p>

<p>――現在の「MBTI診断」の流行が終わっても、また新しいタイプ別診断が出てくるのでしょう。</p>

<p>【小塩】間違いないでしょうね。あるいは過去と同じ診断がふたたび流行することもある。血液型診断はもともと1970年代に書籍がベストセラーになり、2004年には多くのテレビ番組が放送されました。何が流行するかは、おそらくは偶然の要素も大きいのだと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 16 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[小塩真司（早稲田大学文学学術院教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】「文明を継承する」ということ　山形の「王祇祭」を守れるか（第３回）  船曳建夫（文化人類学者／東京大学名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13773</link>
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			<description><![CDATA[抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」を例に検討していく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="760" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260227funahiki3.jpg" width="1200" />王祇祭で振る舞われる 凍（し）み豆腐料理の仕込み作業「豆腐焼き」。王祇祭は別名「豆腐まつり」と呼ばれる</p>

<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」を例に4回にわたって検討していきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「日本列島改造論」の果てに&hellip;&hellip;</h2>

<p>さて、戦後日本における政策提言として、田中角栄元総理による『日本列島改造論』はあまりにも有名です。当然、私も知っていましたが実はきちんと読んだことがなく、じっくり読んだのは最近のことです。本書の評価はさまざまあるでしょうが、田中角栄氏（とそのブレーン）は、日本全体の問題の捉え方として、エネルギーと交通に焦点を絞って書いているところに切れ味がある。</p>

<p>内政と外交でいえば、外交は佐藤栄作前首相（当時）がすでに沖縄返還の筋道をつけている。対中国問題は残っていましたが、それ以外はあまり大きな問題はない。そこで内政に目を向け、エネルギーと交通の問題に絞り、どうやって過度な都市集中を是正し、日本に中都市、小都市を作るかについて縷々書いている。</p>

<p>当時は日本のエネルギーの75％を中東産石油に依存していました。この脆弱性を認識し、輸入先の多様化、エネルギー源の多様化、また備蓄体制の整備を説いている。また新幹線、空港、港湾等の交通網が全国整備によって「日本全国を1日で結ぶ」、それによって経済活動も濃密に、活発になることを謳っています。</p>

<p>彼は「本四架橋を3本通し、四国が日本の表玄関になる」という大構想を描きましたが、これは外れました。しかし、あとのことはおおよそ目の付け所がよかったと言っていい。その意味では、田中角栄はいるべくしていた人だと私は高く評価しています。「日本列島改造論」は、坂本龍馬が示したと伝わる「船中八策」、伊藤博文の「大日本帝国憲法」、吉田茂とGHQの合作としての「日本国憲法」と並ぶ、日本列島または日本文明に関する重要な政策提言だったと言えましょう。</p>

<p>「日本列島改造論」は、インフラ整備を通じて交通・流通の条件を改善し、地方の農業・畜産・水産などの産業活性化を図る目的もありました。その意味では黒川でも果樹に関して大きな変化があり、プラスのインパクトをもたらしました。</p>

<p>ただ、あれから50年たったいま判明したことは、列島を結んだこのネットワークは、この地からの「人離れ」も容易にしてしまったのです。これは誰も予想できなかったことでした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>表に出てこない黒川の女たち</h2>

<p>また黒川の王祇祭を観察していると、ある不思議な非対称性に気が付きます。舞台の上で能を舞うのも、太夫として祭りを統括するのも、すべて男性です。地域の中で「当屋を務める」ことは一種の到達点であり名誉でもあるのですが、ルールとしてそこに女性が登場することはありません。王祇祭は、驚くほど「男性の祭り」なのです。</p>

<p>しかし、祭りの裏では準備が粛々と行なわれており、そうした裏方作業は女性が過半を担います。私がお世話になった家のおばあさんは裁縫が上手で、能装束を繕っていました。金糸や銀糸を使用する、非常に難易度の高い作業です。こうした能装束の縫製や料理の準備など膨大な作業を日々、こなしている。</p>

<p>最近になって気づいたのですが、王祇祭の際、結婚や養子などで別の村に行った男性が実家に帰ってくることはある。しかし、村を出た女性が帰って来ることは少ない。この地域は基本的に、女性は「出ていくところ」のようです。</p>

<p>もちろん現代において男の子が生まれるとは限らないので、息子がいない家では娘が婿養子をとることになる。そうして村に留まっている女性はいます。女性は、家に残らなければいけなかったのなら婿養子に大いに働いてもらって家付き娘であることを十分に活かしたいとは思っても、この村最大にしてそれ以外に何もない王祇祭と黒川能に、表立って関わることはできない。</p>

<p>そういったことを考えると、「ここに来たいと思う女の人はいないよな&hellip;&hellip;」としか思えなかった。事実、私の黒川の友人7人のうち、結婚して跡継ぎがはっきりしているのは能太夫になった例の友人一人だけだったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>農業文明後期以降、男女の分業が始まった</h2>

<p>王祇祭の構造は単なる「男女格差」として片づけられるものではなく、もう少し長い時間軸で考えてみる必要があります。</p>

<p>文化人類学の観点からすれば、こうした性差の構造は農業文明後期に出来上がったと思われます。</p>

<p>私が調査をしたバヌアツ共和国マレクラ島は、農業文明前期（初期農耕段階）です。日本の水田のように大規模に水を引くといったものではなく、1人の男が耕せる範囲の、いわゆる「菜園農業」です。太平洋なので食物はタロイモとヤムイモの2種類がほとんどで、それに加えて幾つかの野菜と果物、飼養と野生の豚・猪の組み合わせという形態です。</p>

<p>そこに至るまでの狩猟採集社会においても、社会的・イデオロギー的な男女の上下関係はほとんど存在しなかった。男女は協働し、食料の採取や子育ては分担するものでした。もちろん生物としての差はありますが、イデオロギーによる社会的な男女格差、支配はなかったのです。</p>

<p>農業文明後期になると、農業が発達し、収穫量が格段に上がります。そして土地と収穫を管理する仕組みができてくる。農業も牧畜、漁業も生物的な力と、その生産からの所有を中心とした制度であるため、次第に男性が優位な位置を占めるようになるわけです。</p>

<p>王祇祭のような男性中心の祭祀体系は、その農業文明的秩序の延長線上にあると言えます。田を耕し、神に捧げるコメを作るものが男性であり、その象徴として祭りを執り行なうのも男性で、女性はその基盤を守るものとして家で働き、次の祭りのために準備を続ける。こうした文明的分化として、男女の分業と格差が出来上がったのでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「祭り」の支えがいま、失われている</h2>

<p>しかし21世紀の現代において、この秩序はもはや機能しません。経済的にも教育的にも男性と同等の機会を得たいま、女性は自らの人生として、結婚や出産、育児が良い選択であるとは捉え難くなっている。</p>

<p>こう考えてから、私は、二十代以上の女性にある生硬な問いを投げかけてみています。「国が月にいくらお金をくれるならば、仕事を辞め、キャリアを中断して、出産・育児に専念してもいいと思えますか」と。想定していた答えは月40万円ほどだったのですが、多くの女性から返ってきた答えを総括すると、月80万円というものでした。もちろん、なかには「1億円もらっても絶対しない」という人もいますが。</p>

<p>これは数字の問題ではなく、生きることの価値の問題です。女性は経済的補償では埋められない何か――自律や承認といったもの――を求めているのではないでしょうか。</p>

<p>女性が「イエ」に縛られ、「共同体」に支えられることによって成り立っていた文明が、いまやその前提を失っている。女性は、家から離れ、仕事や都市のネットワークに生を求めています。しかしそのとき、従来の「イエ」や「祭り」は支えを失ってしまう。黒川の王祇祭はまさに、そのような渦の中にいるのです。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260227funahiki3.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 15 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[船曳建夫（文化人類学者／東京大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>高学歴は有能さの証明になるのか？ 社会にはびこる「ニセモノの能力主義」  安藤寿康（慶應義塾大学名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/11922</link>
						<guid isPermaLink="false">0000011922</guid>
			<description><![CDATA[この社会にはびこる「能力主義」について、行動遺伝学研究の第一人者には何を思うのか? 慶應義塾大学名誉教授の安藤寿康氏が語る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="能力主義" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_people_1.jpg" width="1200" /></p>

<p>行動遺伝学研究の第一人者である筆者には、社会にはびこる「能力主義」がどのように見えているのか。科学的根拠を用いながら、社会にある本当の問題に目を向ける。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>緊急時対応は能力と教育のたまもの</h2>

<p>2024年の年明けは能登半島地震と終わらなかった2つの戦争という、いずれも生命そのものが不条理に脅かされる報道に、年が明けてもおめでたいと心からは決して言えない新年を迎えた。そのなかで日航機と海保機の羽田空港での大事故は、リアルタイムで見ていて絶望的と思われた大惨事だったにもかかわらず、乗客乗員全員脱出という奇跡のような救出劇となり、深い感動を覚えた（亡くなられた海保機乗組員のご冥福をお祈りする）。</p>

<p>牽強付会と言われるかもしれないが、私はそこに真の「能力主義」の姿を見た。煙と炎が刻々と迫るなかでのCAたちの冷静な判断と指示。CAとして選抜された優秀な人たちが、緊急時のために日頃から頭と体にしみこむほどの訓練を重ね、互いに協力しあいながら、400人近くの人びとをパニックに陥れることなく誘導したその能力は、想像を超える見事さだった。</p>

<p>もし的確な状況判断を下す能力のない人や、動転して自らパニックに陥るような人がCAとしてそこに配置されていたとしたら、あの「奇跡」は成し遂げられず、文字どおりの大惨事になっていただろう。それは誰にでも成しうるものではない。</p>

<p>もちろん乗客の冷静なふるまいや飛行機の設計、空港の救助体制など、数々の条件が関与していたことはいうまでもない。しかしいずれにせよ、あれは「奇跡」なのではなく、周到で適切な能力の選抜と教育が生み出した正しい能力主義の成果であった。</p>

<p>ヒトも生物の一員であるから、常に死と隣り合わせである。その中で少しでも生き延びようと、生命は進化の過程で無数の工夫を積み重ねてきた。ヒトの場合、高度な認知能力、それが生み出した知識とその集積としての文化、それを互いに共有しあうための教育がある。</p>

<p>もとをたどれば「石器」と同じように生き延びるための道具に過ぎなかった「国家」という人工物のおかげで死に追いやられる膨大な人びとがいる一方で、家屋が倒壊し津波に襲われた瀕死の命一つが多数の人たちの協力によって救出される。</p>

<p>そこで働いているのも、「国家」という幻想の下につくり上げられた複雑な知識体系を使う人びとの能力、がれきをかき分け身動きのとれない人を救い出して医療につなげる人びとが使う高い専門性に裏付けられた能力である。その能力の使われ方次第で生死が分かれる。だからこそ、生き延びるためには適切に能力が選抜され育てられ、適切なところに配置されていなければならない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>あらゆる能力に遺伝の個人差</h2>

<p>この世界は解決しなければならない無数の課題で満ち満ちている。誰かが絶対にやらなければ解決できない状況下に陥れば、たまたまそこに居合わせた人が、能力の優劣を問題にする以前に、それをせざるを得ない。</p>

<p>そしてヒトは、発揮されるその能力の優劣さえ問題にしなければ、たいがい何でもすることができる。それはヒトの遺伝子を構成する4種の塩基のA（アデニン）、T（チミン）、C（シトシン）、G（グアニン）の並び方の99.9％が等しいからだ（書物によっては99％と言ったり99.4％と言ったりすることがあるが、ここではその差異は問題にしない）。</p>

<p>大谷翔平になれる人間は大谷翔平一人しかいないが、棒を振ったりモノを投げたりするだけなら、およそどんな人間でもすることができる。</p>

<p>しかし誰もが大谷翔平になれない理由は、大谷翔平との間に、たった0.1％の差異があるからだ。それは30億ある塩基のなかでは300万カ所におよび、それがたった一つ違っても異なるタンパク質をつくり出す可能性がある。</p>

<p>従って結果的にヒトの遺伝的多様性は膨大で、ヒト一人をつくり上げる遺伝子のセットであるゲノムレベルで見ると、地球がこの宇宙に誕生してから滅亡するまでに存在する古今東西すべてのヒトの遺伝的条件は、一卵性双生児を除いてそれぞれにみな異なり、誰もが独自である。</p>

<p>大谷翔平が大谷翔平にしかなれないように、あなたはあなたにしかなれない。そしてその違いが、炎に包まれた機体のどの扉からなら安全に冷静に人びとを脱出させられるか、パニックに動転した人びとを炎のなかに放りだしてしまうかの判断能力の差となって表れる。</p>

<p>そんなことがほんとうに科学的に言えるのか。たしかに大火災を起こしつつある機内のCAの判断能力に関する遺伝研究など（あるはずも）ない。打つ投げるの二刀流で卓越する遺伝子も見つかったわけではない（これも永久に見つからないだろう）。</p>

<p>しかしこれまでになされた膨大な行動遺伝学の研究成果から、高い確信度をもって、そこには遺伝子が関わっていると言うことができる。それが双生児法、つまり例外的に同一の遺伝的条件を共有するきょうだいである一卵性双生児と、遺伝的には普通のきょうだいと同じく50％の遺伝子を共有しながら、成育環境は一卵性双生児のそれと同等とみなせる二卵性双生児の類似性を比較する方法である。</p>

<p>もし調べたい形質に遺伝の影響があるなら、一卵性双生児の類似性のほうが二卵性双生児よりも高いはずだ。その差が大きければ大きいほど、遺伝の影響力も強いことになる。これを統計学的に分析することで、個人差に及ぼす遺伝による説明率、いわゆる「遺伝率」を、およそいかなる形質についても算出することができる。</p>

<p><img alt="さまざまな特徴の一卵性双生児と二卵性双生児の類似性" height="892" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250221Andojyukou01.jpg" width="1200" /></p>

<p><img alt="さまざまな特徴における遺伝・非共有環境の割合" height="889" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250221Andojyukou02.jpg" width="1200" /></p>

<p>その成果はほぼ出尽くしている。2015年に過去4000件近くのあらゆる双生児の類似性のデータを総まとめした論文では、体の大きさや各種の臓器の疾患、細胞内での遺伝子発現の程度など、身体的、病理的、化学的形質などのあらゆる形質に関して、一卵性の類似性は二卵性を上回り、およそ30％から70％の遺伝率を示すことが雄弁に示されている（図1、2）。</p>

<p>そのなかに認知能力や社会性、環境のつくり方のような心理的形質まで同じように含まれている。</p>

<p>ヒトも遺伝子の産物であり、心の働きも遺伝子がつくり出した脳活動など心身の働きであるから、それは当然のことだ。この圧倒的普遍性を見たとき、これまでに調べられていないCAの緊急時の判断能力や野球の才能でも、ほぼ間違いなく、多かれ少なかれ遺伝の影響があると類推できる。</p>

<p>この世の中で解決しなければならない問題に対処するために発揮されるどんな能力についても、遺伝的に有能さの個人差があるはずである。だからその課題解決に対して遺伝的により有能な人が配置されることが望ましいのは言うまでもない。それが私の言う「真の能力主義」である。</p>

<p>新年の日航機事故で発揮されたCAの能力はまさにそれを具現化していたのである（ただし誤解してはいけないのは、だからあのCAの親も遺伝的に判断能力のすぐれたCAの素質をもっているとは限らないということだ。遺伝子は両親から半分ずつランダムに子に受け継がれるので、親と子の遺伝子の組み合わせは異なってくる。</p>

<p>似ているのも遺伝だが、似ていないのも遺伝、要するに親子とはいえ遺伝的にはそれぞれ独自だということである。本稿で「遺伝的」と言ったら、それはその人独自の遺伝的条件が反映しているという意味であり、親子で伝達されているという意味ではないということにつねに注意していただきたい）。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>優生社会の不条理を追及する</h2>

<p><img alt="知能に及ぼす遺伝と環境の発達的変化" height="1800" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250221Andojyukou03.jpg" width="1200" /></p>

<p>と、ここまで読んだ読者は、少なからぬ戸惑いを覚えたであろう。いや、戸惑わなかったとしたら困る。要するに「あのときのCAは生まれつき優秀だったから助けることができた」と言っているのだ。こんな物言いは、ほとんどの人があからさまには聞いたことがないはず、あるいは心に思っても口にするのが憚られたはずだ。</p>

<p>CAの事例は特殊だというなら、この特集のテーマである「学歴」に置き換えて考えてみよう。これはつまり「高い学歴を得ることができるのは、遺伝的に頭のいい人たちである」「学力の低い人はもともと遺伝的に頭が悪いからだ」と言っているのだ。これを聞けば、心穏やかではあるまい。</p>

<p>だが学力と、その結果として達成される学歴に遺伝が関わっていることも、地球が丸いのと同じくらい当たり前の事実である。</p>

<p>たとえばわが国で東大に行くような人の多くは、子どものころから知的好奇心が旺盛で、学校に上がってもたいして苦労せずクラスで上位の成績を修め、受験を意識するようになると自発的にサピックスや鉄緑会のような受験エリート養成塾に通って、暗記などでは歯が立たない本当の頭を使うような入試問題をも知的ゲームのように楽しんで合格していく。</p>

<p>事実上、親の受験といわれる中学受験くらいまで（児童期）は家庭環境の影響も遺伝と同程度に関与するが、高校以上になるとあとは本人次第だ。そのことは知能に及ぼす遺伝と家庭環境の影響の推移を表した図3からもうかがえる。</p>

<p>これは双生児という特別な人たちのデータだから信用できないという人もいるだろう。ところが最近では遺伝子を調べることで、どんな人でも学歴がどこまで行きそうかを予測することまでできるようになった（Okbay）。</p>

<p>いまのところ学歴に関わる塩基は4000近く特定されており、そこから個人の遺伝得点にあたるポリジェニックスコアを算出すると、学歴の15％程度は説明できる（ただしそのデータは白人集団のものに限られており、幸か不幸か日本人のデータはない）。</p>

<p>かくして遺伝的に高い学歴をとれる人が給与と福利厚生のいい職業につけて、生涯にわたり安心安全のいい生活ができる。</p>

<p>一方で遺伝的に学校でいい成績をとることができなかった人は、偏差値もつかないような最低ランクの学校にかろうじて引っかかったものの、読み書き計算やパソコン、インターネットの能力も人並みに身につけられないまま、卒業できずに世間に放り出され、保険や年金の制度も知らずに、他人から疎まれたり軽蔑されるような仕事で日銭を稼いで、かろうじて生きている。路頭に迷い、のたれ死んでいく人さえいる。</p>

<p>そう、私たちの社会はすでに優生社会なのだ。ここで自己責任論に基づく能力主義を唱えることは、そのような遺伝的資質をもって生まれたこともお前のせいなのだから、責任は自分でとれと言っているわけだ。遺伝の影響といったって50％どまり、残り50％は環境なのだから、その選び方や自分の努力、そして意思の力やいまはやりの「非認知能力」に責任をもてと。</p>

<p>これを高みから言う人たちはといえば、努力する資質も非認知能力も自分の力ではなく遺伝によって与えられているのである。</p>

<p>行動遺伝学者として、私はこれは許すべからざる理不尽な不条理だと思う。などと偉そうに言う私がせいぜいできることといえば、この文章を書くことによってそのことを多くの人に知ってもらい、この理不尽を解決するためのアイデアを、それぞれの持ち場で考え、自分のできるところで、何とかこの優生社会を救うために力を合わせてほしいと願うことだけだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「能力主義」のニセモノと本物</h2>

<p>ここで、はじめに述べた「真の能力主義」と、学歴や学力評価でつくり上げられた「なんちゃって能力主義」には大きな違いがあることに気づくだろう。学歴それ自体は、いかなる能力も表していない。それは何にでも努力できる能力だ、事務処理能力だなどというが、そもそもそんな抽象的な能力など脳の固有のネットワークのなかには実在しない。</p>

<p>それは学校、あるいは学校制度という人工物のなかで構築された多様で膨大な課題を、学校が求めるような形でこなすことができた能力の来歴への、きわめて雑な寄せ集め指標だ。</p>

<p>たしかに学生時代、難しい数学や物理化学の問題を解いたり、難しい古典漢文や歴史を読み解くことはできた。しかしそこで培った数学能力や歴史能力を使って、高学歴の人が就きたがる輝かしく高い収入と社会的地位が与えられる仕事だけが、世界を正しく美しく善いものにしているわけではない。そしてこの世をより善いものにすることに貢献する能力を発揮してくれているのは、必ずしも高学歴の人たちばかりではない。</p>

<p>あえて具体名を挙げるが、トイレ清掃員（映画『PERFECT DAYS』を観よ）や交通整理係、スーパーのレジを打つ人、あるいは性産業に従事している人のなかにだって、とてつもなくすごい能力を発揮して、人びとに幸福を与え、ある局面では本当に生命を守ることに実質的に働いている人たちがいる。</p>

<p>このように必ずしも尊敬されない、場合によっては人間扱いすらしてもらえない仕事のなかにも価値と尊厳を見出すことのできる遺伝的才能こそ、イチローや大谷翔平や藤井聡太の遺伝的才能と同じくらい、あるいはそれ以上に天才と呼ぶにふさわしい。しかし彼らの社会的評価や収入は恐ろしく低い。この断絶こそが（ニセモノの）能力主義と学歴社会の問題の本質だ。</p>

<p>その目で見れば、この世界で生きている人たちのいかなる営みも、それがなければ、あるいはその歯車が少しでも狂えば、この社会にひずみが生ずる。逆にそれが当たり前に、そしてできれば高品質に維持されることで、社会が成り立っている。このことをわれわれはコロナ禍でいやというほど思い知ったはずだ。</p>

<p>「職業に貴賎がない」とはきれいごとなのではなく、当たり前の事実認識にすぎない。そのことに気づくためにもわれわれはこの世界について多くのことを、自分自身の頭と心で長い時間をかけて学習しなければならない。ちなみに白状するが、私がそれを少しでもわかるようになったのは、恥ずかしながら50歳を越してからだった。</p>

<p>断っておくが、学校で学ぶ知識が役に立たないと言っているのではない。むしろ逆である。学校ではこの世界をつくり上げている膨大な量の重要な知識に触れる機会が与えられている。</p>

<p>これらの知識は、それが生まれたときには、それぞれに特殊な遺伝的素質をもった人たちのとてつもない情熱と感動と労力の投入によって見出され、築き上げられたものだ。</p>

<p>しかもその知識の普遍的性質上、それをつくった人たちの遺伝的特殊性はもはや捨象され、ジェネリックな（由来を問わないの意）知識として社会のなかで使われている。それらはこの世界と社会の仕組みをできるだけよく理解しながら生きていくために必要不可欠なので、学校で教材化されている。</p>

<p>だがその膨大な知識のどの部分が、異なる遺伝的資質をもって新しくこの世に生まれた人たちのそれぞれに、いつどのように実装されるかは、はっきり言ってわからない。それが、学校に通う十数年の間に、一斉授業で、あるいはタブレットを使い個別最適化されたアクティヴな学習によって誰でもそれに出会える保証がないことは、その学習様式を規定する遺伝的条件の多様性を考えれば自明なことである。</p>

<p>だから結果として学力の遺伝率はあらゆる心的形質のなかでも最も高く、少なくない人たちが落ちこぼれ、ギフティッド児や天才や発達障害児は居場所がなくなっている。それは学校が悪いのではなく、そもそもそれが学校の限界なのだ。</p>

<p>その辺の事情をわきまえて、学校教育のあり方や使い方を考えて利用すれば、学校もまんざらではないし、実際いい学校やいい先生も少なからず存在する。また学校の外にも、たくさんのお金のかからない教育環境、学習環境が転がっている。どうやって真の能力の所在に出会い、それを伸ばして役立ててゆくか、その先は各人が経験を通じて考えることである。</p>

<p>こんな言い方をすると何か突き放されたような気がするかもしれない。私にだってアイデアがないわけではない。</p>

<p>学年制を廃止する（そういう国もある）、ITを駆使して誰でもいつでもどこででもどんな学校のどんな授業も無償に受けられるようにする（通信制の学校やMOOCsなど、すでに実現しつつある）、高校生までに「一番なりたくない」職業の体験を強制的にさせ、そこでちゃんと働いている人がどんな知識と技能を使っているかを理解して本当に敬意を払えるまで卒業資格を与えない、などなど。</p>

<p>しかしこれすら私の限られた遺伝的素質と経験から思いつくことにすぎない。この文章を読んだ方々は、もっとすごいアイデアを思いつくだろう。これを非現実的とか妄想とか侮って過小評価してはいけない。そこがあなたにとっての真の能力主義への入口だからだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>------------------<br />
参考文献<br />
・Polderman,T.,J.,C. Peter, C., Visscher, M. &amp; Posthuma, D. (2015) Meta-analysis of the heritability of human traits based on fifty years of twin studies. Nature Genetics, 47(7), 702-709 doi:10.1038/ng.3285<br />
・Haworth, C. M. A., Wright, M. J., Luciano, M., Martin, N. G., de Geus, E. J. C., van Beijsterveldt, C. E. M., . . . Plomin, R. (2010). The heritability of general cognitive ability increases linearly from childhood to young adulthood. Molecular Psychiatry, 15, 1112&ndash;1120. doi:10.1038/mp.2009.55<br />
・Okbay, A., Wu, Y., Wang, N., Jayahankar, H....Young, A.I. (2022) Polygenic prediction of educational attainment within and between families from genome-wide association analyses in 3 million individuals. Nature Genetics, 54, 437&ndash;449. doi.org/10.1038/s41588-022-01016-z<br />
------------------</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_people_1.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 15 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤寿康（慶應義塾大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大正デモクラシーの理論的指導者『佐々木惣一』明治立憲制の歩みと重なる生涯【書評】  奈良岡聰智（京都大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/11907</link>
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			<description><![CDATA[京都大学教授の奈良岡聰智氏が、『佐々木惣一』（ミネルヴァ書房）について紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_books.jpg" width="1200" /></p>

<p>厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した佐々木惣一。伊藤孝夫氏による書籍『佐々木惣一』（ミネルヴァ書房）では、佐々木の牽引した戦前期公法学の展開をドイツ公法学との関連の下にたどっている。</p>

<p>現代社会を生きる私たちにとって重要な指針となる一冊を、京都大学教授の奈良岡聰智氏が紹介する。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年4月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>明治立憲制の歩みが鮮やかに見えてくる</h2>

<p><img alt="佐々木惣一：論理ノ正確ハ法理探究ノ目標ナリ" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250219Naraokasouchi02.jpg" width="1200" /></p>

<p>本書は立憲主義に基づく憲法理論を説き、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した公法学者佐々木惣一（京都帝国大学法学部教授、1878～1965）の生涯を描いた初の評伝である。</p>

<p>大正デモクラシー期に活躍した公法学者としては、天皇機関説を唱えた美濃部達吉（東京帝国大学法学部教授）の名がよく知られるが、立憲主義的な学説を唱えたのは美濃部だけではなかった。佐々木はその代表的論者の一人であり、美濃部と並んで、明治憲法がもっていた良質の可能性を最大限に発揮させた人物とされている。佐々木は、厳格な法解釈に立脚した堅実な学風で知られ、その理論的厳密性はしばしば美濃部以上と評される。</p>

<p>本書は、ドイツ憲法学の日本に対する影響を素描しながら、佐々木の思想、活動を丁寧に描き出している。</p>

<p>佐々木は鳥取県出身で、1903年に京都帝国大学法科を卒業した。じつは彼は、京都帝大法科の一期生であった。そもそも京都帝大は、「真の学府」をつくろうという西園寺公望文相の構想をもとに創設され、草創期の法科では、東京帝大法科にはないさまざまな斬新な試みを行なっていた（潮木守一『京都帝国大学の挑戦』講談社学術文庫）。</p>

<p>暗記に偏した一方的な知識の教示を排し、学生の自発的探究を刺激する指導が基本方針として掲げられ、その一環として、演習、卒業論文が必須とされた。佐々木はこうした自由な学風のなかで育まれ、公務員の不法行為に対する国家賠償を扱った卒業論文が高く評価された結果、母校に教官として残ることになった。</p>

<p>当時、帝国大学の教官の多くは、助教授時代に欧米に留学した。佐々木も1909年から約3年間ドイツで学んだ。ハイデルベルク大学では、国家法人説を唱え、日本の天皇機関説にも大きな影響を与えた公法学者ゲオルグ・イェリネックの薫陶を受けた。</p>

<p>著者は、佐々木がベルリン大学滞在中、イェリネックの系譜を継ぎ、ヴァイマール共和国期にドイツを代表とする公法学者となるゲルハルト・アンシュッツの講義を受け、深く影響を受けたと指摘する。当時ドイツには、東大法科の若き助教授であった吉野作造も留学しており、彼との交遊も佐々木に刺激を与えた。こうしたドイツ留学時の経験も、佐々木の学風を形づくった。</p>

<p>大正・昭和初期、佐々木は憲法・行政法分野における京都学派の代表的人物として、言論界でも活躍した。「超然内閣」を批判し、立憲主義を擁護するために『大阪朝日新聞』で行なった連載「立憲非立憲」は、大正デモクラシーの風潮を代表する著作物として名高い（『立憲非立憲』として講談社学術文庫から復刻出版され、今日でも容易に読むことができる）。佐々木は普通選挙を支持する論陣も張っており、「戦う知識人」であったと言える。</p>

<p>1933年、瀧川事件（京都帝大教授で刑法学者の瀧川幸辰を文部省が一方的に休職処分にした事件）が発生し、京都帝大法学部の教官は抗議のため多数が辞職した。教授陣の中心人物であった佐々木も大学自治の擁護に努めたが、敗れて大学を去ることになった。</p>

<p>この間の経緯については、著者の『瀧川幸辰』（ミネルヴァ書房）、松尾尊兊『滝川事件』（岩波書店）に詳しいが、本書では新史料を用い、佐々木の行動に焦点を当てながら、新たな考察を行なっている。</p>

<p>第二次世界大戦後、佐々木は近衛文麿元首相の依頼で憲法改正草案を作成した。しかしこれは、同時期に幣原喜重郎内閣が作成していた、いわゆる松本草案も含めてGHQが容れるところとならず、憲法改正はGHQが主導するかたちで進められた。</p>

<p>佐々木は貴族院議員として憲法改正草案の審議に参画したが、戦前の過ちは明治憲法自体の欠陥によるものではないとの考えから、新憲法案に一貫して反対した。また、東京帝大教授の宮沢俊義が唱えた八月革命説（ポツダム宣言受諾により明治憲法が変質したとする）は認めなかった。</p>

<p>一方で日本国憲法については、占領下で成立したという事情のみをもって改正が必要だという主張には与さなかった。この間の佐々木の主張の論理一貫性は、注目に値する。佐々木の生涯と言論活動の軌跡から、明治立憲制の歩みが鮮やかに見えてくる。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_books.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 14 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈良岡聰智（京都大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「ここ最近で一番長くシャバにいる」家族ではない第三者が出所者支援をする必要性  千葉龍一（株式会社生き直し代表取締役）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/11772</link>
						<guid isPermaLink="false">0000011772</guid>
			<description><![CDATA[出所者支援が必要な理由とは? 「株式会社生き直し」の代表取締役の千葉龍一氏に話を聞いた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="出所者支援" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_kodoku.jpg" width="1200" /></p>

<p>犯した罪を償って刑務所から出所するとき、寄る辺ない人間は少なくない。そんな彼ら彼女らの帰住先として全国に設けられているのが「更生保護施設」だが、2011年からは、さまざまな法人が管理する施設の空室を活用した施設「自立準備ホーム」で指導を受けながら生活することも可能になった。</p>

<p>千葉龍一さんは、そんな自立準備ホームを首都圏で数カ所展開する「株式会社生き直し」の代表取締役を務める。出所者支援が直面している現状について伺った。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年2月号より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>出所者の「自立」を助けるために</h2>

<p>――千葉さんが出所者の支援に携わるようになった経緯を教えてください。</p>

<p>【千葉】私は以前に公益社団法人日本駆け込み寺で働いていました。その背景には、大学一年生の春休みに自分の運転する車で事故を起こし、助手席に乗っていた高校野球部時代からの友人の命を奪った出来事があります。悔やんでも悔やみきれない事故で、執行猶予がついて刑務所には入りませんでしたが、自責の念から実家に引きこもる日々を送りました。</p>

<p>そんなあるとき、野球部の仲間たちがわざわざ会いに来てくれて、「お前のしたことは許せない。でも、これまでどおり明るく生きていてほしい」と言われて、すごく救われたんです。それからはこんな自分にできることは何かを考え、弁護士をめざした時期を経て「日本駆け込み寺」の門を叩きました。</p>

<p>「日本駆け込み寺」では、出所者が働く居酒屋をつくるプロジェクトなどに参加しました。しかし、そもそも出所者には家がない場合が少なくなく、職場を用意するだけでは支援としては不十分。そこで駆け込み寺でも自立準備ホームを起ち上げたのですが、5年ほどで閉鎖することになりました。でも私は「もったいない」と感じて、自分の手で出所者を支援すべく「生き直し」を設立したのです。</p>

<p>――そもそも、自立準備ホームとはどのように運営されている施設なのでしょうか。</p>

<p>【千葉】運用を委託されている法務省から、出所者一人あたり数千円程度、食費を含めて支払われています。誰がうちのホームに入るかは、出所者の帰住先などを手配や管轄する保護観察所から私のもとに直接、電話がかかってきて、相談しながら決定しています。</p>

<p>――相性などの問題もありますから、誰でも受け入れられるというわけではないように思えますが、面接などはされているのでしょうか。</p>

<p>【千葉】いえ、私の場合は面接していません。特別な懸念事項がないかぎり、東京保護観察所でお会いした全員に「じゃあ、一緒に帰りましょうか」と声をかけています。</p>

<p>――受け入れた出所者には、家の提供以外にどのような支援をしているのでしょうか。</p>

<p>【千葉】たとえば、各種の手続きのサポートです。5年ほど服役すると、そのあいだに住民票が抹消されてしまいますから、その復活や以前の居住地からの転籍の申請を手伝います。また、病気を抱えている出所者ならば生活保護受給の手続きもサポートしていますね。</p>

<p>それ以外では、就職しても仕事がうまくいかないと悩む出所者の相談に乗ったり、お金の管理・監督をしたりするなど、「自立」の手助けになるならば何でもしています。それは施設を出たあとも同様で、電話で近況を聞いたりトラブルがあれば助けたりしています。</p>

<p>――日本国内の更生保護施設や自立準備ホームの数は足りているのでしょうか。</p>

<p>【千葉】現在、更生保護施設は全国で102施設、自立準備ホームは500事業所以上あって、じつはキャパシティとしては足りています。でも現実には、空き室がある施設はあるのに行き場のない出所者がいる。しっかり運営されていない事業所があったり、自立準備ホームの存在が出所者に知られていなかったりするためです。</p>

<p>また、出所者はこれまで、行政に助けてもらってこなかった人が少なくないので、支援を受けることに対して消極的なケースも見受けられます。これらの理由で行き場がなく、生活が困窮して、結果としてふたたび罪を犯すケースがあるわけです。一つずつ課題を解決しなければいけないと考えています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家族ではなく第三者が支援する理由</h2>

<p>――「生き直し」はこれまで94名もの出所者が利用されたとのことですが、現時点ではどのような手応えを感じているでしょうか。</p>

<p>【千葉】ある利用者に「ここ最近で一番長く『娑婆』にいます」と言われたときは、「自分がやっていることは間違いではないのかな」と感じました。彼は高校生のときにいじめられて引きこもり、その後、両親が失踪したことでホームレスになりました。そうして犯罪に手を染めるようになり、刑務所を出たり入ったりの状況が続いたときに、私のホームに来たのです。</p>

<p>彼と一緒に時間を過ごしているうちに、脳に障害があるのではないか、と感じました。病院に行くことを勧めても最初は拒否されたのですが、その後、警察に保護されることがあり、その機会に検査をしてもらったところ統合失調症だとわかったのです。治療を通して、だいぶ普通の状態で暮らしていけるようになってきています。今後も捕まらない保証はありませんが、少しでも長く罪を犯さずにいてくれたら嬉しいですね。</p>

<p>――障害を抱えているケースでは、やはり支援で意識されるポイントが変わるのでしょうか。</p>

<p>【千葉】とくに難しいと感じるのが、いまお話ししたような一見普通そうに見えて、本人も自覚していない場合です。それは致し方ないことで、これまで病院で治療を受けずとも、生きてこられたわけですから。でも、もしも障害があるのであれば、本人および周囲が気づけば、罪を犯さなかったかもしれない。依存症にも同じようなことが言えますね。</p>

<p>そうした方を支援するうえでは、専門的な知識などが必要なケースもあり、ときには僕のホームでは支援しきれないこともあります。できるならばだれも諦めたくないのですが、それが叶わないのはとても歯がゆいし、理解してあげられなかった僕のことを恨む人だっているかもしれない。いずれにせよ、社会全体として障害や依存症の方への理解が進んでほしいと願っています。</p>

<p>――出所者の支援について、もしかしたら「家族が面倒を見るべき」と考える方もいるかもしれません。そうした声についてはどう思いますか。</p>

<p>【千葉】むしろ、家族であれば支援できないと思いますよ。だから、僕たちのような第三者が、罪を犯した人たちには必要なのです。たとえば、身内の方が性犯罪に手を染めてしまったら、どう思いますか?</p>

<p>――許せないと思います。</p>

<p>【千葉】それが普通の感情だと思います。むしろ、これまで愛して信頼していた家族だからこそ、許すことができないのが人間の心情でしょう。</p>

<p>僕自身、冒頭で申し上げたように加害者になった経験がありますが、じつは父がギャンブル依存症で、母の入院費を勝手に引き出して使ったこともありました。僕は絶対に許せず、そのまま父は他界しましたが、もしも他者を傷つけたり殺めたりしていたらその何倍ものショックを受けて怒ったでしょう。</p>

<p>でも、罪を犯したのが他者であれば、少なくとも「やり直したい」という相手の言葉を引き受けることはできると思うんです。何を考えているのか、できるだけ相手の話に耳を傾けて、ふたたび罪を犯さないように手助けできるかもしれない。そう考えながら、いまも加害者の支援をやらせていただいています。</p>

<p>――「やらせてもらっている」という感覚なのですね。</p>

<p>【千葉】彼ら彼女らを支援することで、じつはいちばん救われているのは過去に友人の命を奪ったり、父を許せなかったりしてきた僕自身なのかもしれません。</p>

<p>日本の場合、たとえば人を二人殺めないかぎりは絶対に刑務所から出てきます。そうして出所した加害者を誰も支援せず、結果としてまた罪を犯したと聞けば、被害者あるいはその遺族は耐えきれないでしょう。</p>

<p>でも現実には、犯罪を繰り返す人間がいるわけです。最低限の環境を整えることで、その負の循環を止めることができるならば、僕の仕事にも意味があるのだと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【千葉龍一（ちば・りゅういち）】<br />
1982年生まれ。獨協大学法科大学院卒。大学時代に交通事故を起こし、助手席にいた友人を亡くした。「生きることは許されない」と思うようになったが仲間に助けられ、自分の命は誰かのためにあるべきだと決意。2013年より「日本駆け込み寺」で刑務所出所者等の支援に携わる。18年株式会社生き直しを立ち上げる。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_kodoku.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 13 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[千葉龍一（株式会社生き直し代表取締役）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】人間の身体の「解釈」はどこまで変わっていくのか（ディスカッション・３）  22世紀の人間像研究会</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13753</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013753</guid>
			<description><![CDATA[大災害やパンデミックの渦中で、私たちは誰の言葉を「正しい」と信じてきたのでしょうか。権威や常識が揺らぎ、崩れ去ったあと、私たちの判断を支える拠りどころはなお残っているのでしょうか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260216isonomaho5.jpg" width="1201" /></p>

<p>松下幸之助は終戦直後にPHP研究所を創設して以来、人間とは何かについて思索を重ね、その集大成ともいえる『人間を考える』（昭和47年〈1972年〉発刊）において、「人間には万物の王者たる優れた本質が与えられている」とする肯定的な人間観を提唱しました。</p>

<p>それから半世紀を経て、戦争や環境破壊、AIの進化など人類は新たな岐路に立っています。「22世紀の人間像研究会」では、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していきます。</p>

<p>本稿は文化人類学者の磯野真穂さんによる「文化人類学における身体性の解釈の変容」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによるディスカッションです。全3回でお届けします。</p>

<p>大災害やパンデミックの渦中で、私たちは誰の言葉を「正しい」と信じてきたのでしょうか。権威や常識が揺らぎ、崩れ去ったあと、私たちの判断を支える拠りどころはなお残っているのでしょうか。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「関係性」をめぐる東洋と西洋の違い</h2>

<p>【磯野】日本では罪が親にまで拡散して一族郎党が社会的に罰せられるような状況がいまでもありますよね。</p>

<p>【為末】「あなたが育てたのだから、あなたの影響を与えたこの人が起こしたことは、あなたの責任だ」というロジックですよね。</p>

<p>【高梨】今の話は自由意志問題でもありますね。自由意志というものが本当に個人の中にあるのか、あるいは、先祖も含めて周りとの関係性の中で自分というものがあるのか。どちらの立場をとるかで何がどこまで許されるかというのは変わってくるんでしょう。</p>

<p>少し話が戻りますが、関係性から逃れたいと思うかというのは文化によっても違うのではないかと思います。結局、天に昇るか、地に還るかという問題ではないかと。西洋のバレエは重力に逆らって高く跳ぶかという芸術であり、逆に日本の能はいかに重力に従ってなじむかという芸術ですよね。それは関係性から思い切って飛び出すことと、関係性の中に埋没して美しく振る舞うという美学の違いでもあるような気がします。</p>

<p>西洋人すべてがそうだというわけではありませんが、仮に天に昇るということを美しいと思っている人たちがどうやって地上の関係性を断ち切るのかというと、一つは科学だと思います。科学的な物の見方、考え方というのは、いろんな客観的な説明を与えてくれる。</p>

<p>一方、東洋的な発想だと関係性の中に絡められていくことのほうがむしろ心地よいという考え方もある。「仲間と一緒」というのに非常に喜びを感じるような文化もありますよね。そういう文化だと科学が魂を自由にするものにはなりにくい。</p>

<p>ただ科学も星占いと変わらない部分もあります。狭い意味での科学は再現性のあるなしのようなことが言われますが、科学が相手にしているものでも再現性がないものや1回きりのものも幾らでもあるのです。</p>

<p>さっきのンデンブの人たちがやっていることにしたって、科学的に意味がないとは言いきれないと思います。たとえば西洋占星術で人間の臓器と１対１対応していると考えて、それで真剣に医療をやっていた時代が長く続いていました。だからンデンブみたいなものが科学に対立する発想だとは思わなくて、ある意味で科学的興味をそそられる話だと思いました。なんらかの説明を試みたくなる人間の営みって面白いな、それって好奇心という部分においては科学と根っこは同じだな、というレベルで。</p>

<p>なぜ病気になっているのかを理屈づけるには、いろいろな発想のやり方が当然あっていい。今いわゆる標準医療でないものもそれなりに人気のようです。科学的な見地からは噴飯ものもあれば、なんだかそれっぽく聞こえるけどやはり科学的とは言えないものまで、いろいろありますよね。患者側の科学リテラシーが試されているわけですが、怪しげなものまで含めてさまざまな治療法が提案されて、それを選ぶ人がいるという現象自体は、人間の一側面として興味深く思います。</p>

<p>ついつい危うい方向にも行ってしまう人間のありよう全部を否定してしまうと、結論だけ言ってしまいますが、まわりまわって次の時代の面白いサイエンスが開ける可能性をもなくしてしまうような気もしています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「何もしなければ42万人が死亡する」を信じた人々</h2>

<p>【為末】私は母原病の話もとても面白いと思いました。あれは「何かが起きるということは原因があったはずだ」から始まって、間違ったところに行ってしまったケースですよね。ンデンブの「この人がよくないふるまいをしている原因は悪霊がついているからだ」と同じ構造です。「何かがあったからいまこうなっている」とした場合、その「何か」を突き止めるのが科学であるとしたら、何にしておくと一番みんなの納得感が高いのか、という物語を求めるところがありますよね、</p>

<p>【高梨】医学って科学なんですかね。</p>

<p>【磯野】一般的にはそう言われていますよね。</p>

<p>【高梨】もちろん医学は科学が深くかかわる学問領域だと思いますが、いわゆる物理学などとはかなりスタンスが違います。たとえば統計における有意性の問題などを考えたとき、医学の場合はサンプルが限られてしまうので厳密な意味では検証できない。純粋物理とかでやっているような99.999％の精度を持って議論している世界とは全く違います。でも、究極的には真理の探究ではなく目の前の患者さんを救うことを優先すべきでしょうから、別にそれでいいわけですよね。同じ科学がかかわる分野でも、そういうスタンスの違いもあるとわかったうえで議論したほうがいいのかなとも思います。</p>

<p>医学が科学厳密主義ではなく、隙間があるからこそ独自の発想が出てきて、『母原病』のような本を書くお医者さんも出てくるのだと思います。</p>

<p>私、学生のときに天文台のアルバイトで電話番をやっていたのですが、マイ宇宙論をつくったから聞いてほしい、と電話してくる人がけっこういたんですよ。それで、はいはいって聞いていたんですが、いろいろな発想があって面白いんです。そうやって電話をかけてくる人はお医者さんが多かった印象なんですが、科学的素地をもった上で自由にいろいろ発想される人がいるからこそなのかもしれません（笑）。</p>

<p>【磯野】科学は物語と違うのか、というのは微妙な問題ですよね。それが露わになったのはコロナ禍のときです。感染拡大が始まった頃、当時北海道大学教授だった感染症疫学ご専門の西浦博さんが「感染拡大の防止策を実施しなかった場合、42万人が死亡する」というシミュレーションの数字を発表しました。それが1カ月間人流を8割削減しないといけない、という話につながった。あとになって、東京大学大学院教授の岩本康志さんという経済学者が、その際に使われていたシュミレーションのモデルには誤りがあったとし、書籍にまとめられています。。</p>

<p>何を言いたいかというと、あれを私たちは科学的な事実だと信じて、外出自粛や営業自粛をしたということです。そのこととンデンブの悪霊の話と何が違うのか。根拠となった計算式なんて誰も知らなくても「大学教授が言っているのだから正しい」、と思って信じたわけです。ンデンブ社会の人たちは、村で高名なシャーマンが「悪霊がいる」と言うので信じた。どちらも象徴の力を使っているので、実は科学と物語はそれほど簡単に分離できないのです。</p>

<p>【為末】反証可能性があるかどうかは一つの基準になるかもしれませんね。コロナの場合は「計算式が間違っていた」と言う人が出てきたけれども、シャーマンに「違った」と言う人は出てきにくいのではないですか。</p>

<p>【磯野】そうですね。ただ、コロナ禍の場合も検証は数年遅れて出てきたので、それまでは「そうなんだ」と信じていたということですよね。その反証を今でも知らない人もいるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「各自に判断が委ねられる」ことの恐ろしさ</h2>

<p>【先崎】象徴にしても、物語にしても、集合的無意識というか、聞きたいことに言葉を与えた瞬間に着火するのだと思います。さきほどの母原病の話でも、日本では摂食障害は母親が原因で、シンガポールでは欧米化が原因と言っていたけれども、それぞれの国で聞きたいことが違っていたということでしょうね。</p>

<p>当時の日本の社会がそういう構造だったから、それに対して「これが原因だろう」という言葉を与えたことが、この本が売れた理由だったのではないでしょうか。日本とは異なる共同幻想で生きているシンガポールでは、別の物語に着火した。</p>

<p>東日本大震災の原発事故の時も同じ問題が露頭したと考えています。大学で教鞭をとっている専門家のなかにも、「原発によって日本社会は壊滅する！」と絶叫している先生がいましたし、原発事故からしばらくして、首都圏の浄水場でセシウムの値が基準を超えたとき、この水は子どもに飲ませてはいけないということでパニックになった。政府は大丈夫だと言ったのだけれどもそれを信じる人はほぼいませんでした。僕も当時福島県に住んでいて放射線のデータを見て自主避難しました。</p>

<p>要は、政府のお墨つきであるとか、辞書に書いてあるから正しい、ということが成り立たなければ、象徴が壊れるということです。そうなったら、判断は各自に委ねられる。怖いと思ってデータを見た人は怖いから逃げる。それを見て他の人も逃げ出すので、社会が秩序を失っていく。伝統的な社会においてはシャーマンや長老がその社会の最終担保を担っていて、その人の言葉や価値観が信頼されている限りその社会はもちこたえる。</p>

<p>現代は科学者がシャーマン的な役割を果たしていますが、それぞれが違うことを言うのでかえって分断をまねく。社会がある種の共同幻想を持つことによっておかしくなる時もあるし、それによって秩序が保たれている面もあるのです。</p>

<p>【為末】複数のシャーマンがいる状態というのは面白いですね。象徴をみんなが信じているので秩序が保たれているというのと、真実をみんなで追及しようして無秩序になるのと、どっちの方がよい社会だと思いますか。通貨が信じられなくなるというのは前者から後者への動きですね。</p>

<p>【先崎】そうですね。今のアメリカの凋落は、基準通貨としてのドルを守る役割を、アメリカ自身が放棄しつつあることが背景にあります。100年前は、基軸通貨だったポンドが凋落してドルに代ったときに社会混乱が生まれ、戦争が起きた。いまはアメリカが基軸通貨としてのドルを放棄し始めているので、戦争になるかもしれないという経済学者もいます。基軸通貨もまた、共同幻想の一つなのです。</p>

<p>【為末】でも共同幻想を権力者側がうまく使ってみんなを統治するパターンもあります。</p>

<p>【先崎】まさにそうですね。それが共同幻想にはいいところと悪いところがあるという話につながるわけです。磯野さんがいわれた行為遂行性という概念がありましたよね。看護師が服装を着たら看護師らしくしっかりしてくる、という話です。これはポジティブな話ですが、逆から見ると全体主義的な臭いがしますよね。全体主義って必ず制服を作るわけですから。同じものに身を固めて、整然とした形式の中で歯車の一つとして同じ行為をする。典型的なのが行進ですね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ポストモダンが常識まで解体してしまった</h2>

<p>【磯野】いまのお話は、人類学的でいうと文化の話になると思います。たとえば「人の物を取っちゃいけません」という文化がある日本では、貴重品の落とし物の返却率がとても高い。当然のこととして共有しているからこそ、いちいち決まりとして文字にしなくても、文化で担保されている。でもそれが気持ち悪い方向に行くと全体主義的になる。ここは表裏一体ですよね。</p>

<p>私が人類学をやり始めた頃はちょうどポストモダンが流行っていて、とにかく全てを脱構築して解体するのがスカッとしてかっこいい、という時期でした。最近あの時代の弊害を本当に感じています。「何でも幻想と名指して壊せばいい」という風潮。</p>

<p>【先崎】あの頃の日本では権力的なものや、経済的な豊かさを実感することができたので、子供が大人の持つ権力を壊すという構図が成り立った。でも現在は、わざわざポストモダンなんて言わなくても、大人であれ価値基準であれ、社会の基軸が砂礫のように勝手に崩れていっている時代なのです。</p>

<p>象徴的なのはビットコインだと僕は考えています。最大の特徴は多中心性です。中央銀行という最終担保を置かずに、全員監視システムの中でやるという、究極の相対主義だからです。</p>

<p>さっき為末さんがドーピングを禁止する根拠は、本来は健康に悪からということだったけど、いまやそうではなくなったという話をされました。だけど何となく僕らの中には「持って生まれた体を健全に鍛えて、平等に戦うのが正しいよね」という考え方が残っていますよね。保守主義が好む言葉で言うと、これが「常識」になります。ドーピング禁止の多分最終担保になっているのは、この常識ではないかと。この「常識」を、そんなものは社会が規定した人為的な幻想にすぎない、だから破壊せよ！というのがポストモダンであり、相対主義になるわけです。</p>

<p>シリコンバレーのような常識をズラすことが＜常識＞になっているようなところでは「どこまで行けるかやってみようぜ」という話になる。それはもう、試合そのもの、ルールそのものを変更することと同じです。さっき言った、普通のセックスと強姦の境界が壊れるのとかと同じことだと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>なぜ人間は空虚さを埋めようとするのか</h2>

<p>【磯野】多中心になっていく社会でもアルゴリズムを作っている人は背後にいるわけですよね。あらゆる制約から解放されるということは、ある意味で支配者になるということでもあるのではないですか。</p>

<p>【先崎】それはいわゆる「デジタル荘園」といわれる現象ですね。日本の歴史でいうと荘園ができる前は、中央集権的な律令国家体制でした。口分田から徴税し、法も整備して社会の隅々まで権力の目を行き届かせようとしていた時代なのですが、中央の力が弱くなってくると、権力の域外で勝手に土地を開墾して勢力を広げていく人たちが出てきた。今シリコンバレーで起きていることは、デジタルをつかってこれに近い状態をつくりだしている。ある種の治外法権です。でも注意したいのは、デジタル荘園の経営者は、ごく数人の天才たちであり、この天才たちが、国境を越えて世界中の隅々まで、それこそ僕たち一人ひとりの手にスマホをもたせて、デジタル小作人として、せっせと情報という税を納めているわけです。</p>

<p>【磯野】ということは、教育現場で１人１台デジタル端末を与えましょう、という話も絡んできますよね。</p>

<p>【先崎】おっしゃるとおりです。よく言われることですが、中国とかインドのほうがよほどデジタル化が進んでいて、それを国家が支配の道具にしいているのだけれども、その国家すらデジタル荘園から支配されているという構図です。</p>

<p>【為末】それを聞いて思い出したのですが、スポーツの競技場ってだいたいVIPルームがあるんです。そこに入るとクラブオーナー、IOCの委員や理事といった人たちが、スーツを着てシャンパンを飲みながら、我々アスリートが走っているのを見ているんですね。何かこの構造というのが、社会の中に何層にもわたってあるような。アスリートとしてパフォーマンスを権力者の前で披露するのはヒーロー的な側面はあって気持ちいい部分もありますが、表と裏を見るような感じもありました。なんだか自分が競走馬になったような感じもあって（笑）。</p>

<p>【高梨】私はお話を聞いていて、人間って空虚なのだなと改めて思いました。その空虚さに耐えられなくていびつな感じで自我を肥大させてしまうこともよくある話です。そもそも、いつ頃から人間は空虚さを埋めなくてはいけないと思い始めたのかなと考えると興味深いですね。</p>

<p>あるいはもともと空虚という感覚があったのか。将来の私たちも、自分を満たしたいという感覚を持ち続けるのか。あるいは、どこか別の星の生き物がいるとして彼らは満たされているのか、満たされていないのか。答えがあるわけではないですが、そういう想像は楽しいなと思いました。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260216isonomaho5.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 10 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[22世紀の人間像研究会]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>海軍研究の最前線から見えるものとは? 『日本海軍と近代社会』【書評】  奈良岡聰智（京都大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/11906</link>
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			<description><![CDATA[京都大学教授の奈良岡聰智氏が、『日本海軍と近代社会』（吉川弘文館）について紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="歴史家の書棚" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_books.jpg" width="1200" /></p>

<p>日本海軍は、近代日本の社会にどのような影響を与え、また社会からどのような影響を受けたのか。『日本海軍と近代社会』（吉川弘文館）は、国際関係、政治、軍事、経済など多角的な視点から、海軍が存在した時代を解き明かす。現代社会を生きる私たちにとって重要な指針となる一冊を、京都大学教授の奈良岡聰智氏が紹介する。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>海軍研究の最前線</h2>

<p><img alt="日本海軍と近代社会" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250219Naraokasouchi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>2023年、日本海軍の歴史に関心をもつ者にとって、たいへん興味深い展覧会がいくつか開催された。</p>

<p>一つは、広島県呉市の大和ミュージアムで開催された企画展「海軍を描いた作家 阿川弘之・吉田満・吉村昭」。軍隊ないし戦争経験をもつ三人の歴史作家に焦点が当てられ、取材ノートなどさまざまな資料が展示された。『山本五十六』『戦艦大和ノ最期』『戦艦武蔵』など、日本海軍を描いた名作執筆の背景がわかるまたとない機会であった。</p>

<p>もう一つは、東京都の昭和館で開催された企画展「歴史探偵 半藤一利展」。こちらでは、文藝春秋の編集者および作家として数々の海軍関係の著作に関わった半藤の生涯が、数多くの貴重な資料とともに紹介された。半藤の遺稿・遺品はすでに同館に寄贈されており、今後の活用が期待される。</p>

<p>近代日本の陸海軍に関する実証研究は、第二次世界大戦後本格的に始まったが、当初から研究者が多数参入した陸軍研究と異なり、海軍研究を牽引したのは彼ら歴史作家たちであった。また、初期の海軍研究においては、野村実（名古屋工業大学教授）、池田清（東北大学名誉教授）ら海軍軍人出身の研究者の役割もきわめて大きかった。</p>

<p>現在日本海軍に対して一般に抱かれているイメージの多くは、彼らによってつくり上げられてきた。これらの著作では、海軍は政治的に脆弱な組織で、陸軍の暴走を抑止することができなかったと評価される傾向があった。</p>

<p>1960年代以降、海軍研究にも歴史学のトレーニングを受けた研究者が参入するようになったが、それらもこうした認識を前提とするものが多かった。</p>

<p>しかし、近年の海軍史研究は問題意識、研究手法ともに著しく多様化している。海軍と政治の関係に関して言えば、昭和期の良識派（英米派）に強い関心を寄せてきた従来の研究に対して、近年の研究は多様な組織やアクターに焦点を当て、海軍が政治に与えた影響をさまざまな視点から具体的に解明するようになっている。経済界、思想状況、地域社会、世論との関係を探った研究の進展も著しい。</p>

<p>最近『財部彪日記』『海軍大将嶋田繁太郎備忘録・日記』など重要史料の刊行が相次ぎ、『呉市史』など地域レベルからの新しい史実の掘り起こしも続いている。近代日本の軍事史研究において、長らく海軍研究は傍流的な位置にあったが、いまや陸軍研究と遜色ないレベルに達していると言える。</p>

<p>本書はこうした研究状況をふまえて、『財部彪日記』編さんに関わった中堅・若手の歴史研究者が、日本海軍についてさまざまな角度から考察した論文集である。</p>

<p>まず序章では、近年昭和期の海軍研究をリードしてきた手嶋泰伸氏がこれまでの研究動向を整理している。上述したとおり、最近の海軍研究はテーマが著しく多様化しており、全貌を捉えるのは容易ではない。学界でも包括的研究整理がなされる機会は少ないため、本稿の分析は大変貴重で有益である。</p>

<p>本編は「海軍を取り巻く社会の変化」「社会に及ぶ海軍の影響」という二部で構成され、9本の力のこもった論考を収録している。内容としては、シーメンス事件、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮会議など大正・昭和初期の重要事件に即して、海軍と社会の関係を考察した論文が中心となっており、これらをふまえて兒玉州平氏が総括と展望を示した終章も配されている。</p>

<p>テーマは多岐にわたっているが、海軍と世論の関係についての分析がとくに興味深かった。小倉徳彦「ロンドン海軍軍縮会議と国内宣伝戦」は、会議開催にあたって日本海軍が大々的に国内向けの宣伝を行ない、世論の関心を喚起することには成功したものの、「対米7割要求」が貫徹できず、かつ海軍部内の意見が分裂すると、宣伝はむしろ各方面での分裂を助長する結果をもたらしたと指摘している。</p>

<p>木村美幸「1930年「神戸沖」観艦式と地域」は、これまであまり注目されてこなかった観艦式に関して、1930年の事例をもとに検討している。著者によれば、海軍側が宣伝を重視していたのに対して、兵庫県や神戸市では経済効果を期待しており、両者の認識はすれ違っていたという。こうした海軍と民間の関係が戦中や戦後にどう受け継がれていくのかなど、多くのことを考えさせる。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_books.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 10 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈良岡聰智（京都大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>天才は「絶対善」か？ 大学生・院生が読む「『共感』が奪い、殺してゆく『革新』」【読書会レポート】  Voice編集部</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14081</link>
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			<description><![CDATA[北野唯我氏による論考「『共感』が奪い、殺してゆく『革新』」を主題にした、大学生・院生4名による読書会をレポート。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="読書会" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book_3.jpg" width="1200" /></p>

<p>都内の大学に通う大学生・院生4名が集まり、『Voice』2026年4月号に掲載された北野唯我氏による論考「『共感』が奪い、殺してゆく『革新』」を主題に読書会を開催しました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「共感」＝「絶対善」か？</h2>

<p><img alt="読書会" height="550" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260402Kitanoyuiga02.jpg" width="1200" /></p>

<p>H：今回は皆さんに、『Voice』2026年4月号に掲載された北野唯我氏による論稿「『共感』が奪い、殺してゆく『革新』」を読んできていただきました。本稿では、「共感」という概念が、ビジネスや政治の現場を含め、現在の日本社会で「絶対善」として認識されていると指摘されています。先ほどKさんとも話していたのですが、就職活動をしていても、「共感」を「絶対善」だと感じる場面が多いですよね。</p>

<p>K：はい。面接では、面接官に共感しなければならないし、また自分にも共感してもらわなければならない、という空気があります。</p>

<p>H：さまざまな場面で、互いに心地よく過ごすために共感が求められている、とも言えそうです。また、本稿でもう一つ興味深いのが、「革新」に関する指摘でした。「なんとなく怖い」などの「負の共感」が広がり、その場の空気を支配してしまうと、どれほど優れた技術革新であっても、その芽が摘まれてしまう。だからこそ社会の発展のためには、革新を妨げるような共感には注意が必要だと論じられています。</p>

<p>さらに読み進めると、人間の才能は「創造性（天才）」「再現性（秀才）」「共感性（凡人）」という三つの軸で整理できるとされています。それぞれ、創造性を評価軸にする人、再現性を評価軸にする人、共感を評価軸にする人、という分類ですが、多数を占めるのが「凡人」であるがゆえに、彼らの「共感」によって天才の創造性が抑圧されることがあるという論旨でした。</p>

<p>加えて、SNSによって「負の共感」があたかも全体の総意であるかのような「空気」が作りだされてしまう現代は、言うなれば「受難の時代」であり、「未来のために何が必要か」という大義ではなく、「どうすれば炎上を防げるか」という消極的な守りの姿勢に傾きがちだという点も指摘されていました。以上が本稿に対する私なりの理解ですが、皆さんの感想をお聞かせください。</p>

<p>Y：とくに指摘されているのは、社会の「空気」の問題ですよね。一方で、ビジネスパーソンと消費者のあいだには情報の非対称性があるはずで、そうであるならば彼らの「共感」を抑えるのは難しいとも感じました。ただ、「革新」を生み出すべきビジネスパーソンを、そうした「負の共感」から守る必要があるという点には納得します。印象的だったのは、本稿の最後の節の一文です。「松下幸之助翁が『Voice』を創刊した1977年、世界はいまほど繋がっていなかったが、その分、一人のリーダーが深く思索し、大局を見渡すための『余白』があったように思う」。自分自身も日ごろから「余白」を大事にしているので、とても響きました。</p>

<p>Ｋ：Yさんは、なぜ「余白」を大切にしているのですか？</p>

<p>Y：高校時代の数学の先生が「心に余裕を」と、よく言っていたんです。その先生は1時間ほどかけて自動車通勤していたので、焦ると事故につながるという自分への戒めだったのだと思います。その教えにならって、私も今日は最寄り駅に30分くらい前に到着しました（笑）。アルバイト先でもリードタイムを意識して行動しているので、「余白」の重要性には頷かされました。</p>

<p>H：いまの時代、SNSでいくらでも「余白」の時間を埋めることができてしまいますよね......。Oさんは、北野氏の論稿を読んで何を思いましたか。</p>

<p>O：本稿で語られている「共感」が、「自分の考え方とのズレが少ないこと」という意味にとどまっているのではないか、というのが率直な感想です。たとえば、英語で「共感」を表すempathyは、「他人の靴を履く（Stand in someone&rsquo;s shoes/ Put yourself in someone&rsquo;s shoes）」という諺のように、その人の出自や背景も考慮したうえで、その人の立場にたって物事を見るという意味です。</p>

<p>一方、同じ号に掲載されていた山本龍彦・慶應義塾大学教授の論稿「SNSと政教分離、そして民主主義」で興味深かったのが、いまやSNSのアルゴリズムの側が、私たちの思考に働きかけている、という指摘でした。それもふまえると、自分の評価軸に合わせて流れてくる投稿に対して、各人がただ反応しているだけのことが「共感」と呼ばれているのではないか、と気になりました。</p>

<p>Ｈ：「共感」が何に基づいているものなのか、というのは重要な指摘ですね。</p>

<p>Ｋ：本稿では、凡人のなかには「天才を理解し、その価値を凡人に翻訳して伝える役割としての『共感の神』という存在」がいるとも書かれていますが、そうでない典型的な「凡人」の共感が、まさにＯさんが指摘されたものなのかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>自分を「三つのタイプ」に照らし合わせると</h2>

<p><img alt="才能と評価軸の関連性" height="1000" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260402Kitanoyuiga01.jpg" width="1200" /></p>

<p>Ｈ：本稿で論じられているように、社会の構成員が大まかに「天才（創造性）」「秀才（再現性）」「凡人（共感性）」「共感の神（天才を理解し、その価値を翻訳して伝える存在）」にわかれるとするならば、皆さんは自分がどれに当てはまると思いますか。じつは、この点について事前にＫさんと話していたところ、「おかれた環境によっても変わってくる」という意見も出ました。</p>

<p>たとえば、地元に帰ったら論理的な考え方が際立って「秀才」になるかもしれないけれど、就活では論理的であることが当たり前で、自分はそれほど論理的ではないんじゃないか......と思ったり。そのうえで、私は自分のことを「秀才」だと思いました。というのも私は、個々の活動よりも社会全体としてどうあることが最適かを考えたいと志向していて、それは共感ではなく論理を重視する「秀才」に近いと感じたのです。</p>

<p>Ｋ：私は「凡人」を選びました。実際に就活でインターンをしたり、グループワークをしたりするときには、明らかに「天才」と感じられる人に出会うことがありますが、一方でその存在が議論を停滞させてしまうこともあります。そんなとき、周りの人間は往々にして「議論を軌道修正しなければ」と感じるでしょうが、「天才を殺す凡人」とはまさにそうして生まれるのかもしれません。ただ、企業はむしろ「凡人」、あるいは「秀才寄りの凡人」を一番に求められているのではないかとも感じます。</p>

<p>Ｙ：自分は「秀才」かなと思ったのですが、本当にそうかといまも迷っています。たとえば、SNS上では直感的に「いいね」を押すことが多いので、その意味では「凡人」と言えるでしょうが、でも状況によっては論理的に考えることもある。そんなことを考えながら、「凡人」と「秀才」のあいだを行き来している感覚です。</p>

<p>Ｈ：「行き来している」という表現はしっくりきますね。たしかに、私もSNSの前では少し緩む感覚があります。私はSNSに投稿しませんが、それは自分が直感的になりすぎることへの警戒心があるからかもしれません。裏を返せば、SNSがその人の立ち位置を変えるとも言えそうです。Oさんはいかがですか？</p>

<p>O：私は「凡人」だと思います。先ほど話したように他者の背景に目を向けて考えるのは得意なつもりですが、他方で情緒に引きずられやすく、その意味では「共感」に基づいて動いている自覚があります。また、自分では論理的に話しているつもりでも、じつは情緒的な主張を論理で補強しているだけかもしれない、と感じることもあります。</p>

<p>K：その感覚、とてもわかる気がします。私は就活でもまずはその場で共感を得て、そのうえで論理的に話すことを意識していました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「天才」とはどのような存在か</h2>

<p>H：ここには「天才」と自認する人はいませんでしたね。創造性を重視するという「天才」は、「秀才」や「凡人」とはどこが違うんでしょうか。</p>

<p>Ｙ：「凡人」に論理的思考力をコーティングしたのが「秀才」でしょうか。ただ、「天才」については、本稿に掲載されていた図では「秀才」と重なる部分がありますが、その存在が想像しにくかったです。</p>

<p>Ｈ：「秀才」と言っても、つねに論理的な人はいないと思うし、先ほどＯさんがお話しされていたように、論理のベースに「共感」があるのではないか、という考え方もありますよね。</p>

<p>Ｏ：じつのところ、私も本稿の「天才」像がまだ掴みきれていません。北野氏は、「天才」は「世界を『創造性』で測る」と紹介すると同時に、（共感の神が）「世の中のバッシングから天才を隔離する」必要があるとも書いている。たとえば、「天才」がSNSを見るとき、共感と論理のどちらが優位になるのか気になりました。</p>

<p>Ｋ：「秀才」も共感性がまったくないわけではないはずです。すると、図で書かれている以上に「秀才」と「凡人」の境目は曖昧なのかもしれない。あと気になるのが、「凡人」の円のなかにいる「共感の神」の存在です。論理的な説明がなかなか伝わらない「凡人」がいるのであれば、その「凡人」のなかに「共感の神」がいることで、やっと普通の「凡人」に物事を広められる、ということなのでしょうか。</p>

<p>Ｈ：たしかに論理的な説明に拒絶反応を示す人もいますよね。すると、そうした人びとと「秀才」とのあいだに断絶が生じてしまいます。</p>

<p>Ｏ：秀才は凡人に論理的思考力をコーティングしたもの、というＹさんの発言は納得感があります。そう考えると、「共感の神」は「秀才」と「凡人」の重なりの部分にいてもよいのかな、といま思いました。というのも、「天才」を理解して広めるときには、その「天才」に対する共感性はもちろん、論理に理解することも少なからず必要だと思うからです。</p>

<p>Ｈ：もしも北野氏に一つ質問できるならば、なぜこの場所に「共感の神」の点を打ったのですか、と聞きたいですね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>キャンセルカルチャーと炎上</h2>

<p>Ｈ：本稿では、SNSの負の側面として、「キャンセルカルチャー」が取り上げられています。ある有名人や企業の言動が、ひとたび特定のコミュニティから「不快」「共感できない」とレッテルを貼られると、負の共感がウイルスのように伝播し、その人格ごと社会から抹殺しようとする動きが加速する、と紹介されています。Ｏさんはこの点については、どう思いましたか？</p>

<p>Ｏ：一昔前の映画や小説などに、差別的な言葉が入っていることで議論が巻き起こることがありますよね。でも、その言葉にまつわる知識や背景も一緒に理解するのが鑑賞するうえで大事ではないかと思うので、私は否定的です。一方で不買運動については、一つの消費行動として理解はできます。</p>

<p>Ｈ：Ｙさんはいかがですか？</p>

<p>Ｙ：「キャンセルカルチャー」という言葉は、もちろん聞いたことはあります。ただ、たとえば不買運動をする人も、何か強い意図をもって行動しているわけではないように感じるんです。「自分にとって不快」という感情が増幅していった結果、意図せずともそうした行動につながることもあるのではないでしょうか。言い換えるならば、その事象にフォーカスしすぎている自分自身に無自覚なのかもしれないです。</p>

<p>Ｋ：現代のSNSでは、本来はその必要がないはずなのに炎上しているケースもある印象です。それは、Ｙさんがいま指摘した「フォーカスしすぎている」ことも理由の一つなのかなと思いました。SNSを利用していなければ知らずに済んでいたネガティブな情報も、ふと見つけてしまいがちな時代です。その結果、妬みや僻みを含め、感情的な部分が強く表出することがあるのではないでしょうか。</p>

<p>Ｈ：自分が普段は接しないものって、あまりよく知らないものでもありますよね。しかしSNSでそういう情報にも簡単にアクセスできてしまうことが、今日の深刻なキャンセルカルチャーに繋がっているのかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>天才を「殺している？」</h2>

<p>H：もう一つ皆さんにお聞きしたかったのが、凡人は秀才や天才を「殺している」と思いますか、ということです。</p>

<p>Ｏ：本稿では、「文明の利器や社会システム、芸術の数々」が、「発表当時は社会を揺るがす『不快なノイズ』であり、激しい非難の対象だった」と記されています。この指摘について理解できる一方で、あまり最近の例では思いつかないようにも思いました。なお、私は政治的な批判も、その人が何かに共感できないから批判していると感じることは少なくて、その人なりの論理があり、同じ立場にたつと理解できると感じるケースが多いです。</p>

<p>Y：民主主義の在り方にもつながる議論のような気がします。「負の共感」が広まることで技術の革新が阻まれると北野氏は主張していますが、一方で言論の自由は保障されて然るべきでしょう。</p>

<p>K：先ほども話しましたが、たとえば就活中のグループワークで誰かが突飛な発言をして、みんなが議論を軌道修正しようとする状況が、まさに「天才を殺している」状況なのかなと思っていました。でも、天才が何かを創造しようする際、そこに付随するリスクや社会への影響を無視して先を行こうとするのであれば、「凡人」が声を上げるのは当たり前なのかもしれませんし、それは悪いことなのでしょうか。</p>

<p>Ｈ：たしかに、「殺している」という言葉が使われていますから、北野氏がそれを「悪いこと」と捉えているのが分かります。あえて言えば、共感性が少ない「天才」「秀才」が、創造性や論理だけを前面に出して押し切ろうとして「通じないから凡人たちはダメなんだ」と言ってしまうことがあれば、それは逆に「凡人を殺している」と言えるかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「共感」の取捨選択はできる？</h2>

<p>Ｈ：なお、北野氏は先ほども議論に出てきた「共感の神」について、天才を理解してその価値を凡人に翻訳する存在で、SNS時代では「『どの共感を取り入れ、どの共感をあえて無視すべきか』を選別する、冷徹なまでの知性と強靭な精神力」が求められる、と書いています。皆さんは、こういう「翻訳者」の存在については、どう思いますか。そもそも、共感とはどう「取捨選択」するのでしょうか。</p>

<p>Ｙ：どの共感を取り入れて、どれを無視するかは、価値の押し付けになる危険性もあるかもしれません。民間企業であれば競争を勝ち抜くうえで必要な姿勢かもしれませんが、たとえば行政の現場では慎重に考えなくてはならないと思いました。</p>

<p>Ｈ：まさしく「神」の視点で、共感の良し悪しが完璧にわかるのであればよいのですが......。Ｏさんはどう思いますか？</p>

<p>Ｏ：ここで使われている「翻訳」という言葉は、天才の「ぶっ飛んだ考え」に論理を肉付けしていく作業なのかと捉えました。自分は天才のその考えに共感できるから、その方向に皆を「誘導している」とも言える。ただ、本文では「スマートフォンの画面越しに見える『一万人の見えない賛成』よりも、目の前にいる一人の『異能の士』が発する、震えるような情熱や、不器用な提案に耳を傾ける」という言葉がありますが、より多くの人の意見を本当に無視してよいかは、やはりある程度の慎重さが必要にも思います。</p>

<p>H：たしかに「天才」の創造性を生かすことは重要ですが、一方で「天才」の存在が「絶対善」となっていないか、ということも考えなくてはいけませんね。本稿を題材にいろいろな視点で議論できたのではないかと思います。皆さん、ありがとうございました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>★本読書会は、PHP総研・『Voice』編集部のインターン生が企画・運営を担い、開催しています。参加者も随時募集していますので、ご関心のある方はぜひご連絡ください。(voice@php.co.jp)</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 09 Apr 2026 12:00:10 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[Voice編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>SNSで加速する「共感」がイノベーションを殺す　凡人が天才を潰す現代の構造  北野唯我（株式会社ワンキャリアCSO）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14080</link>
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			<description><![CDATA[SNSの「共感」依存がイノベーションを阻む構造を解説。多数決的な共感がなぜ革新の芽を摘むのか、リーダーに必要な視点とは。『天才を殺す凡人』著者が警鐘を鳴らす。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="SNS　共感" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_smartphone.jpg" width="1200" /></p>

<p>SNSで加速する「共感」への依存は、どんな未来をもたらすか――。ベストセラーの『天才を殺す凡人』をはじめ、組織で働く人びとの「才能」を問い直してきた筆者が、現代社会に警鐘を鳴らす。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年4月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>なぜいま、「共感」を疑う必要があるのか</h2>

<p>「共感」という言葉は、現代社会において疑いようのない「絶対善」として君臨している。ビジネスの現場では「共感される経営」が持て囃され、政治の世界では「国民の痛みに寄り添う共感力」がリーダーの必須要件とされる。SNSの爆発的な普及は、この傾向を決定的なものにした。誰かの投稿に「いいね」を押し、感情を共有し、連帯すること。それは一見、分断された社会を繋ぎ止める、温かく希望に満ちた力に見えるだろう。</p>

<p>しかし、私はあえてここに強い警鐘を鳴らしたい。過剰な「共感」への依存は、社会から「革新（イノベーション）」の芽を無慈悲に摘み取り、私たちの未来をじわじわと窒息させているのではないか、という懸念である。</p>

<p>最近の例を挙げれば、生成AIの急速な進化を巡る議論が象徴的だ。OpenAIが発表した動画生成AI「Sora」などの圧倒的な創造性に対し、一部では「クリエイターの権利を守れ」「感情のない知能は危険だ」という強い拒絶反応が、凄まじい「共感」の波となってSNSを埋め尽くした。</p>

<p>もちろん倫理的な議論は不可欠だが、そこにあるのは論理的なリスク評価以上に、「なんとなく怖い」「自分たちの聖域を侵されるのが不快だ」という感情的な反発の連鎖である。この「負の共感」がひとたび社会の空気を支配すれば、どれほど優れた技術革新であっても、その芽を摘むための規制が「正義」の名の下に遂行されてしまう。</p>

<p>拙著『天才を殺す凡人』（日本経済新聞出版）において、私は人間の才能を「創造性（天才）」「再現性（秀才）」「共感性（凡人）」という三つの軸で整理した。この三者は互いに補完し合う関係にある一方で、根源的なコミュニケーションの断絶を抱えている。なかでも、圧倒的な多数派である「凡人（共感性）」が、その理解不能な「天才（創造性）」を数の力で排除してしまう構造を指摘した。</p>

<p>かつて、この「天才を殺す」メカニズムは、企業内の閉ざされた会議室や、地域コミュニティといった限定的な空間で起きていた。しかし、SNSという巨大な感情の拡声器を手にした現代、この「共感による抹殺」は、社会全体の不可視の「空気」として、より広範囲に、そして残酷なスピードで進行しているのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>才能の力学と「共感」の危うさ</h2>

<p>まず整理すべきは、才能のあいだに横たわる「評価軸」の違いである。「天才」は世界を「創造性」で測る。彼らにとっての価値は、それが新しいか、面白いか、という点にある。「秀才」は「再現性（論理）」で測る。それが正しいか、効率的か、説明がつくかが重要だ。そして「凡人」は「共感性（感情）」で測る。それが自分にとって「わかる」ものか、皆が味方してくれるものか、という点が判断基準となる。</p>

<p>ここで重要なのは、各才能の「人口比」と「相性」だ。社会の圧倒的多数は「凡人」であり、彼らは「共感」できないものを「存在しないもの」として扱うか、あるいは「悪」として排除しようとする性質をもつ。一方で、真に革新的なアイデア、すなわち「天才」の産物は、当初は誰にとっても「理解不能」なものである。既存の成功法則に当てはまらず、既存の感情の枠組みにも収まらない。だからこそ革新なのだ。</p>

<p>私は拙著のなかで「共感されるものは強いが危うい」と述べた。共感は、一度火がつけば爆発的なエネルギーを生み出す。近年のクラウドファンディングの成功例などを見れば、共感がいかに資金や人を動かすかは明らかだ。しかし、そのエネルギーは「既存の文脈」に依存している。人びとがすでに知っていること、すでに正しいと思っていることにしか、共感は宿らない。</p>

<p>一方で、歴史を塗り替えるような発明は、つねに「非共感的」な場所から生まれる。iPhoneが登場した際、「物理キーボードがない電話など使いにくい」という否定的な「共感」がどれほど溢れたかを思い出してほしい。もし当時のアップルが、SNSの「いいね」の数を最大化することを経営目標にしていたら、iPhoneはこの世に誕生していなかっただろう。共感に基づいた評価システムは、必然的に「過去の延長線上」にあるものばかりを肯定し、まったく新しい「未知の未来」を拒絶するバイアスを内包しているのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>SNSという「共感の温床」が作り出す監獄</h2>

<p>SNSは、この「共感の危うさ」を極限まで増幅させる装置である。プラットフォームのアルゴリズムは、ユーザーが「共感しやすいもの」を優先的に表示するように設計されている。いわゆる「フィルターバブル」だ。0.数秒のスクロールのなかで指を止めるのは、自分の価値観を肯定してくれる言葉や、既知の文脈に沿った「わかりやすい」物語、あるいは反射的な怒りを誘発する扇情的なコンテンツだ。</p>

<p>この環境下では、複雑な文脈や、一見して理解できない深遠な問いは、単なる「ノイズ」として処理される。SNS社会において「価値がある」とされるのは、より多くの人から「いいね」という名の共感を得られるものである。しかし、前述のとおり、革新とは最初は誰からも理解されないところからスタートする。つまり、SNS的な価値観を基準にするかぎり、真に新しいものは「いいね」が集まらないどころか、「理解不能な異物」として叩かれる対象になってしまう。</p>

<p>さらに深刻なのが、現代の猛威である「キャンセルカルチャー」だ。一度、ある著名人や企業の言動が、特定のコミュニティにおいて「不快」や「共感できない」とレッテルを貼られるやいなや、負の共感はウイルスのように伝播し、その人格ごと社会から抹殺しようとする動きが加速する。そこには論理的な検証も、その背後にある創造的な意図を汲み取ろうとする寛容さも存在しない。</p>

<p>たとえば、過度なポリコレ（ポリティカル・コレクトネス）の波によって、かつての名作映画や表現が「いま見ると不快だ」という共感ベースの批判に晒され、配信停止に追い込まれるケースが相次いでいる。過去の遺産を否定するエネルギーは、裏を返せば、これからの表現者が「誰の感情も逆なでしない、無味無臭なもの」しかつくれなくなるという、深刻な創造性の萎縮を招いている。</p>

<p>かつての社会には、こうした過激な共感から「天才」を守るための緩衝地帯があった。しかしいまは、未熟なままのアイデアが世論という名の荒波に即座に晒されてしまう。この「露出の過剰」が、革新が育つために必要な「静かな潜伏期間」を奪っているのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>企業の意思決定を蝕む「空気」の正体</h2>

<p>この「共感の暴走」は、ビジネスの現場、とりわけ企業の意思決定プロセスにも深刻な影を落としている。</p>

<p>「組織の意思決定に共感性を入れるのには慎重になるべきだ」と私が主張するのは、共感（凡人的才能）の武器が「数」だからである。合意形成を重視し、反対者を出さないように配慮し、誰もが納得できる結論を導き出そうとすれば、そのアウトプットは必然的に「もっとも無難で、もっとも尖った部分のない」ものへと収束していく。</p>

<p>最近の企業のマーケティング戦略を見れば、その迷走ぶりが顕著だ。ある大手飲料メーカーが新商品の広告を出した際、一部のSNSユーザーからの「性別役割分担を助長する」という批判に怯え、即座に広告を取り下げたことがあった。しかし、その批判者の数は、全消費者から見ればごく僅かであったことがのちに判明する。それでも企業が動いてしまうのは、SNS上の「共感（この場合は負の共感）」が、あたかも社会全体の総意であるかのような錯覚、すなわち「空気」を作り出してしまうからだ。</p>

<p>現代の経営者や政治家は、つねにこの「空気」という名の視線に怯えている。新しい事業を立ち上げる際、あるいはリスクを伴う改革を断行しようとする際、その判断基準が「未来のために何が必要か」という大義ではなく、「どうすれば炎上を防げるか」「どうすれば世間に共感（納得）してもらえるか」という消極的な守りの姿勢にすり替わっている。</p>

<p>これは「論理」を司る秀才たちにとっても受難の時代である。本来、彼らはデータの再現性に基づいて天才を支えるべき存在だが、数値化された「SNSの反応」という名の疑似データが、彼らの論理を歪めてしまう。「数字（いいね数やインプレッション）が出ているから正しい」という短絡的な思考が、長期的なブランド価値や戦略を圧倒していく。結果として、企業は「既存の顧客が喜ぶもの」ばかりを作り続け、破壊的なイノベーションを見過ごすことになる。</p>

<p>イノベーションとは本質的に「非連続」であり、既存の共感の枠外に存在する。リーダーが「共感」という名の多数決に安住することは、組織から多様性と生命力を奪い、ゆっくりとした衰退へと導く行為に他ならない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>SNS時代の「共感の神」の新たな使命</h2>

<p><img alt="才能と評価軸の関連性" height="1000" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260402Kitanoyuiga01.jpg" width="1200" /></p>

<p>では、この閉塞した状況のなかで、私たちはどう動くべきか。 拙著では、天才（創造性）を理解し、その価値を凡人（共感性）に翻訳して伝える役割として「共感の神」という存在を定義した。SNSが浸透しきった現在、この「翻訳者」としての役割は、かつてないほど重要、かつ困難なものになっている。</p>

<p>かつての「共感の神」は、特定のコミュニティ内で天才を支えればよかった。しかしいまは、世界中と24時間繋がったSNSという戦場において、天才を「守り、育てる」必要がある。SNS時代の「共感の神」に求められるのは、単に「世間に受けるかたちに整える」という受動的な技術ではない。むしろ、「どの共感を取り入れ、どの共感をあえて無視すべきか」を選別する、冷徹なまでの知性と強靭な精神力である。</p>

<p>彼らは、天才の生み出す「異物」を、世の中が受け入れられるかたちにパッケージングするだけではない。時には、世の中の激しいバッシングから天才を隔離し、彼らの創造的な孤独を死守する「物理的な防波堤」にならなければならない。たとえば、あるプロジェクトがSNSで批判を浴びたとき、そのリーダーがすべきは、安易な謝罪や方針転換ではない。部下である「天才」に対し、「外の雑音は気にするな、私が責任をとるから思い切りやれ」と言い切れるかどうかだ。</p>

<p>また、SNS上の表面的な「共感」の裏に隠された、人びとの真の欠乏や深層心理を読み解き、それを革新のエネルギーへと転換する高度な洞察力も必要とされる。経営者やリーダーが「共感の神」として機能するためには、まず自らがSNSのタイムラインから物理的に目を離す時間をもつべきだ。</p>

<p>スマートフォンの画面越しに見える「一万人の顔の見えない賛成」よりも、目の前にいる一人の「異能の士」が発する、震えるような情熱や、不器用な提案に耳を傾ける。数値化されない熱量、言語化されない直感を信じ抜く。それこそが、情報過多の時代における究極のリーダーシップである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>未来への「不協和音」を許容する社会へ</h2>

<p>政治家や経営者を含む『Voice』の読者諸賢に最後に伝えたいのは、「共感されないこと」を恐れない、ということである。</p>

<p>現代の日本社会には、「失われた三十年」という言葉に象徴されるような、停滞感が漂っている。その原因の一つは、私たちが「失敗すること」以上に「他人から浮くこと（＝共感されないこと）」を極端に恐れるようになったからではないか。同調圧力という名の共感が、個人の突き抜けた挑戦を「身の程知らず」と冷笑し、組織の変革を「波風を立てるもの」として忌避させてきた。</p>

<p>しかし、歴史を振り返れば、私たちがいま、当然のように享受している文明の利器や社会システム、芸術の数々は、かつてその時代の「共感」の枠外にいた、孤独な開拓者たちの格闘から生まれたものばかりだ。コペルニクスの地動説も、ダーウィンの進化論も、発表当時は社会を揺るがす「不快なノイズ」であり、激しい非難の対象だった。もし、その時代にいまのSNSがあったなら、彼らの発見は「不謹慎」として瞬時に葬られていたかもしれない。</p>

<p>私たちはいま一度、SNSがつくり出す「心地よい共感の檻」から意識的に外に出る必要がある。自分とは異なる意見、理解できない主張、時には不快にすら感じる新しさを、安易に排除するのではなく、「そこに未来の種があるかもしれない」と、あえて「不協和音」を許容する寛容さを、社会のなかに、そして自分自身のなかに再構築しなければならない。</p>

<p>SNSと向き合うとは、単に利用時間を減らしたり、発信を控えたりすることではない。SNSがもつ「共感の力」を認めつつも、その限界を冷徹に見極めることだ。共感は「手段」であって「目的」ではない。共感は「推進力」にはなるが、進むべき「方向」を指し示す羅針盤にはなり得ない。進むべき方向を決めるのは、いつの時代も、共感に媚びない個人の信念と、論理に基づいたビジョンである。</p>

<p>「革新」を殺さないために。そして、私たちが真に豊かな、予期せぬ未来を築くために。いまこそ、安易な「いいね」の手を止め、思考の深淵へと潜り、誰もまだ共感していない「真実」を探しに行く勇気が、私たち全員に求められている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>おわりに</h2>

<p>松下幸之助翁が『Voice』を創刊した1977年、世界はいまほど繋がっていなかったが、その分、一人のリーダーが深く思索し、大局を見渡すための「余白」があったように思う。今日、情報の海のなかでその余白を確保することは、極めて贅沢で、かつ戦術的な行為である。</p>

<p>最近、ある若手起業家が「SNSをやめることで、ようやく自分の声が聞こえるようになった」と語っていたのが印象的だった。他人の共感を求めることを放棄したとき、初めてその人独自の「創造性」が息を吹き返す。</p>

<p>SNS社会の「共感」という名の甘い罠に抗い、孤独な「革新」の声を聴き取ること。それが、21世紀の日本を導くリーダーたちの、最も重要な務めであると確信している。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 09 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[北野唯我（株式会社ワンキャリアCSO）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】「文明を継承する」ということ　山形の「王祇祭」を守れるか（第２回）  船曳建夫（文化人類学者／東京大学名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13772</link>
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			<description><![CDATA[抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」を例に検討していく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="761" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260227funahiki2.jpg" width="1200" />王祇祭で演じられる奉納神事「黒川能」（写真提供：山形県公式観光サイト/やまがたへの旅）</p>

<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」を例に4回にわたって検討していきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地方が「人口減」の波を真っ先に受けている</h2>

<p>いま、日本では毎日のように「人口減」が話題に上ります。日本ではさまざまな変化が起こるとき、黒川のような地方の地域は、その影響が最後に伝わってくるものでした。ところが人口減に関しては、その影響を真っ先に受けている。黒川に人口減の津波の第一波が来ていることが、恐ろしいほど感じられました。</p>

<p>「当屋」になった私の友人は修練の日々のあと、能太夫にもなりました。すると神社に肖像画の額が掲げられます。神社には、これまで村にさまざまに貢献した人たちの額がかかっている。その友人の額も上がるというので、喜んで見に行ったのですが、ふと思った。彼の額は上がったけれども、これから誰の額が上がるというのか。また、これから誰がその額を見るというのか。</p>

<p>多くの方は昨今の日本全体を襲う人口減少の状況を把握しているでしょうから、「そういうことも起きるだろう」と思われるかもしれない。ですが私は、かつての黒川の姿を知っている。かつては人が多すぎて、「どうやって村の男を婿養子として周りの村に送るか」に頭を悩ませていました。そのイメージからすると、現在の姿はとても信じられないのです。</p>

<p>「日本の人口は1億2000万人から7000万人になる」と言葉では簡単に言うけれど、この文明にとって、とてつもないことが起きる、とそのことを現場で見て肌で感じたのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東日本大震災でわかった「墓」と「祭り」の重要さ</h2>

<p>この問題は単に「人口が減って祭りができなくなる」というものではありません。</p>

<p>一見すると、祭り（神楽や神輿などを含めて）は過去のもので、たまたま残っている文化遺産として捉えがちです。しかし、これらは今に存在する「現実の生活」です。日々の活動として「祭り」があり、その中にさまざまな知恵が込められている。その地域に住む人々にとって、祭りを行なうこと自体が「生きることの軸」となっているのです。</p>

<p>2011年3月、東日本大震災が起こり、東北地方ではあらゆるものが流されました。当時、人々がまずはどうにかしたい、と考えたのは倒れた「墓」だったそうです。また、ある財団にさまざまに集まった多額の寄附の使い道を問い合わせたところ、東北地方から上がってきた申請の多くが「祭り」に関連することだったと言います。</p>

<p>沿岸の津波に遭ったところではお墓がすべてなぎ倒された。震災後の初盆が7、8月に来るので、多くの人がそのときまでに墓をもと通りにしたいと願ったのです。また、被災で散り散りになった住民が再度集まるための軸となったのが、「祭り」でした。「〇月〇日」という祭りの日をめがけて、皆が力を結集させたのです。</p>

<p>津波にすべてを持っていかれてしまったあのとき、そこにわずかに残っている礎石のようなものは、「墓」と「祭り」だったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>祭りが、住む人々の「生きる背骨」になっている</h2>

<p>私は、これこそが日本人の「信仰」というものだと思いました。「信仰」と聞くと仰々しく感じるかもしれません。あるいは「いや、「神」とか「信仰」とか、そういうものではないから」と否定するかもしれない。しかし、考えるときの焦点があり、それが何を生産するかということではなく、その焦点に皆が集中することで考えがまとまる。そこから広がって具体的な活動になる。そうしたことは抽象的で超越的な神がいなくても、それは生活の中では超越的であり、「信仰」と呼ぶべきものだと思うのです。</p>

<p>キリスト教のような世界宗教だけを宗教だと思っていると、その地域に住む人たちの「信仰」というものが最初は分からないものです。しかし黒川の王祇祭は、明らかに彼らの「生きる背骨」になっている。</p>

<p>祭りは一朝一夕にできるものではありません。これまで行なっていたという持続の中に、また続けるという困難を克服する楽しさがある。祭りの連続性は、日々の生活のバックボーンとなり、生きる意味となり、この地の文明をかたち作っているのです。</p>

<p>黒川の文明は、祭りだけではありません。人々が礼儀正しく、心優しい。私は渡辺京二氏の名著『逝きし世の面影』（1998年）を読むと、黒川を思い出します。畳の上での挨拶の仕方や人と人の間合いは全て、黒川で学びました。善悪や徳といったことも学びました。私は両親がクリスチャンだったこともあってキリスト教から受けた影響が非常に大きくはありますが、身体動作に伴った日常生活のモラルなどは、大いに黒川で学んだものです。</p>

<p>その視点から、黒川の危機はつまり、日本の信仰ひいては文明の消滅に直結する問題だと思えるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦乱や戦争の世でも伝統継承は続いた</h2>

<p>歴史を振り返ると、この地域はこれまでもさまざまな苦境に立たされながらも、耐え抜いてきました。</p>

<p>古くは戦乱期の領主交代です。16世紀以降、この地域は領主が次々と変わる激動期を迎えます。しかし、もともとの庄内領主であった武藤氏から、江戸期に藩主となる酒井氏まで、経済的援助や庇護を受け続けてきました。おそらくこの地域は重要な米どころでもあるし、農業生産が安定していたことも要因だったのでしょう。第四代藩主酒井忠真の時代には鶴岡城中で黒川能が演能された記録も残っている。また城下でも黒川能が上演されることがあったといいます。</p>

<p>近代以降も、度重なる戦争での動員は非常に大きな影響があった。この地域は兵隊を集める「良所」です。男たちはみな、心身強壮で、忠義で、苦難に耐える。実際、黒川の友人の家に招かれると兵隊の軍服姿の写真がずらっと長押に並んでいる。「われらが皇軍」はこのような地域から兵隊を引っ張ってきたのだなということがよくわかります。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>黒川を支えた「東京への出稼ぎ」</h2>

<p>戦後は経済的な変化の時代でした。黒川の男の多くが東京へ出稼ぎに行くようになった。1950～60年代は、地方の男たちの多くが東京へ出稼ぎに出て、鉄道工事や道路建設に従事した時代です。今や忘れられていますが、東京の都市基盤を支えたのは、まさにこうした地方の労働者たちでした。</p>

<p>黒川地区の男たちも同様で、東京では6畳一間の部屋に4人ほどで住み、鉄道の路線の補修などを行なっていました。黒川では築数百年、延床面積100坪を超すようなかやぶきの大きな家に、長男ならば跡取りとしてどっかりと暮らしているのですが、東京に出稼ぎに来ると狭い部屋で暮らしていた。しかしこのときも、そのまま東京に住み着く人は少数だったし、一方で現金収入が入ることは村にはとても大きなメリットだったのです。</p>

<p>筆者にも、そんな時のことは楽しかった思い出です。当時新婚だった私の家にも来てくれて、そのときに妻が何を思ったか「スペアリブ」を作って出した。このことは50年経った今でも、幾度となく仲間内で出てくる話題です。「名前も知らないものを食ったら、うまかった」と。18時頃から集まって飲み、夜が更けて電車もなくなった時間にもかかわらず、彼らは泊まらずに帰っていきました。後から聞いたところ、実は私鉄の線路に沿って一時間ほどかけて歩いて帰ったらしい。</p>

<p>経済的には厳しい時代でしたが、そこには生きる確かな手ごたえがありました。出稼ぎとそれによる祭りが、黒川の社会を支えていたのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 08 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[船曳建夫（文化人類学者／東京大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日中戦争で、中国人の懐柔を担った者たちの葛藤とは? 『北支宣撫官』【書評】  奈良岡聰智（京都大学教授）</title>
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			<description><![CDATA[京都大学教授の奈良岡聰智氏が、『北支宣撫官』（えにし書房）について紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="歴史家の書棚" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book_3.jpg" width="1200" /></p>

<p>日中戦争で活動した宣撫官。『北支宣撫官』（えにし書房）は、そんな彼らの貴重な証言と、詳細な史料に基づいて執筆されている。現代社会を生きる私たちにとって重要な指針となる一冊を、京都大学教授の奈良岡聰智氏が紹介する。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年2月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本と中国のはざまで</h2>

<p><img alt="北支宣撫官" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2024/2024A/241220naraokasouchi01.jpg" width="1200" /></p>

<p id="title">太田出著『北支宣撫官』（えにし書房）</p>

<p>本書は、日中戦争期に中国大陸で活動した宣撫官（せんぶかん）について考察した著作である。宣撫官とは、多くの読者にとっては馴染みのない言葉であろう。</p>

<p>著者は、「中国の占領地で民衆の人心安定のために食糧の配布など懐柔を任務とした旧日本軍の嘱託」と説明している。少々言葉は悪いが、平たく言えば、日中戦争中に占領地で中国人住民を手なずける役割を担っていた者たちのことである。終戦までに中国大陸で活動した宣撫官は、総計3720名にものぼった。</p>

<p>彼らは言わば「武器なき戦士」として、中国で民衆のなかに入り込んでいった。多くは無名の存在だが、長期にわたって東京都知事を務めた鈴木俊一、木下サーカスの木下光三など、戦後著名になる人物もいた。</p>

<p>彼らの大半はすでに鬼籍に入っているが、著者は中国史研究者として一次史料を駆使しつつ、遺族へ丹念にインタビューを行ない、その活動の実態に迫っている。歴史学とノンフィクションの手法が組み合わさった、たいへん読みやすい作品に仕上がっている。</p>

<p>戦後、元宣撫官たちは「軍部の手先に終わった」「侵略戦争の尖兵となった」などと批判されてきた。彼らはその批判を甘受しつつも、みずからは軍部と異なる独自の理想を抱いて戦争に臨んだという感覚を共有しながら長い戦後を過ごした。</p>

<p>著者は、彼らが「侵略」「反省」「贖罪」といった言葉に単純には収斂されない、中国への親近感にも似た深く特別な「思い」を抱いていたと指摘している。彼らや遺族たちの戦後の生き方、福岡県久留米市の寺院に元宣撫官たちが建立した宣撫廟（国際霊廟）をめぐる動きからは、それが明瞭に窺われる。</p>

<p>本書では、満鉄社員から宣撫班総班長となり、中心人物として活躍したが、陸軍の対中政策と相容れず退いた八木沼丈夫、久留米市職員から宣撫官に転じ、日中戦争中長らく山西省で活動した笠実らに焦点を当てて、叙述を進めている。</p>

<p>軍の意向より中国民衆の立場に立って動くことも多かったにもかかわらず、結果として中国侵略の一端を担うことになった彼らの苦悩や傷心は、何とも痛々しい。八木沼は宣撫班を辞した後、南京大学講師などとして引き続き中国大陸で活動したが、終戦の前年病を得て死去した。笠は戦後17年ものあいだ戦犯として収容所生活を送り、帰国後は独自の立場から反戦や日中友好のための活動に携わった。</p>

<p>宣撫官には中国人、台湾人、満洲人など日本人以外の者も多数加わり、通訳や情報収集活動に従事していた。彼らの多くは、戦後「漢奸（かんかん・漢民族を裏切った者）」と見なされ、文化大革命の時期に至るまで糾弾、投獄されるなど、苦難の道を歩んだ。</p>

<p>そのため彼らの関係者の証言を得るのは極めて困難であるが、著者はその一人で、戦後高知市で中華料理屋を営んだ陳一徳と面会し、その貴重な証言を得て本書で紹介している。彼の激動の生涯は、まさに日中関係の一時代を象徴しており、たいへん興味深い。</p>

<p>彼らが史料や証言をあまり残さなかったのに対して、戦後宣撫活動について饒舌に語る者もいた。本書で紹介されている陸軍軍人城野宏（丸山眞男の友人）も、その一人である。城野は宣撫官ではなかったが、特務機関で宣撫活動を指導し続け、戦後は山西省に残留して閻錫山（えんしゃくざん）の傘下で中国共産党と戦い続けた。</p>

<p>映画『蟻の兵隊』で告発されたように、戦後山西省では、多くの日本軍兵士が城野ら上官の事実上の命令によって残留し、命を落としたが、城野がそれに対して反省や謝罪の意を表することはほとんどなかった。彼はみずからの経験を政界やビジネス界に売り込み、保守政治家から珍重され、中国通の評論家として大きな成功を収めた。こうしたこともまた、戦後日中関係の現実の一端であった。</p>

<p>本書を読み、「戦後は遠くになりけり」とあらためて実感した。戦後80年近くが経過し、戦争経験者から証言を得ることがほぼ不可能になったのみならず、彼らを直接知る子や孫の世代から証言や資料を得るのも次第に困難になりつつある。いかに戦争経験を継承していくか。重い課題である。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 07 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈良岡聰智（京都大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>歴史モノのフィクションは悪なのか?　名作映画が提示する「正史にはない視点」  本村凌二（東京大学名誉教授）,とり・みき（漫画家）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/11965</link>
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			<description><![CDATA[名作映画をみることで、人生を形づくる「感動」を得られる――。歴史学者・本村凌二氏と漫画家・とり・みき氏が語り合う。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="名作映画の魅力" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_eiga.jpg" width="1200" /></p>

<p>時を超えて愛されている映画を観れば、歴史的名著と比べても遜色ない体験を得られる。『名作映画で読み解く世界史』を上梓した歴史学者と、映画に関する著作もある漫画家が映画の醍醐味と愉しみを語り合う。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>気軽に名作映画に触れられる時代</h2>

<p>【本村】私は昨年（2023年）末に『名作映画で読み解く世界史』（PHPエディターズ・グループ）という本を上梓したのですが、有難いことに、これまで刊行した書籍とはまた違った反響をいただいています。</p>

<p>歴史にさほどは関心を寄せてこなかった映画ファンにも手に取っていただいているようで、その反対に映画に詳しくない人にも楽しんでいただいていると聞きます。</p>

<p>私は人の人生を形づくる大きな原動力は、「感動体験」にあると思っています。人は感動することで、未来の自分をつくりだすし、あるいは過去の自分が何に感動したかを自覚することで、いまの自分を知ることができる。</p>

<p>過去には『20の古典で読み解く世界史』（PHPエディターズ・グループ）という本で20冊の文学作品を紹介しましたが、後世に読み継がれている小説はおしなべて「感動」を得られます。</p>

<p>そんなことを考えているうちに、「名作」と呼ばれる映画にも同じことが言えるのではないかと気付いたのです。しかも、映画は長い作品でも4時間程度で、ビジュアルで訴えかけてきますから、文学作品とはまた異なる体験が得られます。</p>

<p>【とり・みき】いまは昔の映画を配信で気軽に観ることができる時代で、若い人も興味があれば1950年代や60年代の名作映画にアクセスできます。私が子どものころと比べると、まさしく隔世の感です。</p>

<p>【本村】本書のなかでは21の映画を紹介していますが、『天井棧敷の人々』（1945年）などを除き、私はほとんど封切で観ていますよ（笑）。</p>

<p>【とり・みき】封切ですか、映画好きとしてはじつに羨ましい（笑）。1960年代初期までの作品だと、私はテレビで初めて観た映画が多いですね。</p>

<p>本村先生と私は出身が同じく熊本ですが、東京のような名画座はなく、リバイバル公開がなければ過去の名作を映画館で観ることはできない環境でした。本や雑誌で名作や話題作のタイトルを目にしても、なかなか観る機会に恵まれない作品は少なくありませんでした。</p>

<p>【本村】これは現代にも通じる話ですが、劇場で観ると自分の都合で止めたり巻き戻したりできないので、集中度が違いますよね。また当時は入れ替え制ではありませんでしたから、朝から映画館に入り、一日に3作品観るなんてこともざらでした。</p>

<p>私は、とりさんよりも10歳ちょっと年上ですが、なにぶん娯楽が限られる時代でしたから、映画館に入り浸ったものです。すると、おのずと目当ての作品以外の映画に触れる機会にも恵まれて、期待せずに観ているといつしか感心させられるなど、思わぬ発見もありました。</p>

<p>いまでは、劇場でも配信でも「観たい」と感じた作品だけを観るのが普通ですから、そうした偶然の出会いは少ないのでしょうね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>映画における「事実」と「フィクション」</h2>

<p>【とり・みき】西洋史を題材にした映画を観に行ってパンフレットを手に取ると、よく本村先生の解説文に出会います。歴史の専門家であるのに、フィクション部分に対してとても寛容でいらっしゃるとは以前から感じていたところです。それは、おそらくは冒頭でお話しいただいたように、「感動体験」を与える作品づくりへの理解が深いからなのでしょう。</p>

<p>私は昨年まで、ヤマザキマリさんとの合作として『プリニウス』（新潮社）を連載していました。歴史ファンはとても知識が豊富で、とくにSNS時代では細かな部分に反応し、自分の知識や仮説を披瀝（ひれき）するのが好きな方が少なくない印象です。</p>

<p>時には作者の「史実に反する誤謬」が指摘されたり批判されたりしますが、われわれ作り手側からすると、たしかに本当にミスしていたケースもありますが、基本的にはしっかりと調べたうえで、あえてフィクションとして物語を紡いでいます。</p>

<p>その意味では、本村先生のようなオーソリティー（権威）がフィクションに寛容であることは、とても嬉しく感じていました。</p>

<p>【本村】何も歴史にかぎった話ではなく、事実をとことん突き詰めようとすれば、いつしか必ず食い違いが生まれます。</p>

<p>卑近な例を申し上げるならば、夫婦喧嘩一つとっても夫と妻の言い分はまったく異なりますよね。夫が妻に対して「馬鹿」と口にしたとき、夫は愛情表現を含んだ軽口のつもりでも、妻はとても重い気持ちで受け止めるかもしれない。</p>

<p>そのとき、どちらかの言い分が「正しい」と言い切れるものでしょうか。事実とフィクションの境目は考えられている以上に曖昧です。</p>

<p>イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニは、何が事実かという観点から作品を描くよりも、人間がいかにその物語に関与し、心を動かされていくかにフォーカスしたとき、そこに真実があるのではないかと口にしています。</p>

<p>現在に伝わる史実でも、見方や捉え方によって随分と異なる解釈が存在します。それをふまえたうえで個々人が「自分はこう捉える」と認識すればいい話でしょう。少なくとも、他者の考えや解釈を100％の間違いだと「断罪」することは不可能なはずです。</p>

<p>【とり・みき】『プリニウス』の連載を始める前、マリさんと一緒に本村先生にお会いして、古代ローマについていろいろと伺いました。「わかっていないことは想像で描いていいんだよ」とお話しいただき、とても勇気をいただいたことをよく覚えています（笑）。</p>

<p>主人公であるプリニウス（大プリニウス、23年～79年。古代ローマ帝国の属州総督を歴任するかたわらで、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著わした）については、甥が残した最期の描写を除いてはほとんど詳しい史料が残っていません。</p>

<p>そもそも、いまに残る文献などは勝者や統治者が記したものばかりで、それが客観的な記述であるかは別の話。そう考えると、何が事実で何がフィクションであるかは、本当の意味ではわからないでしょう。『プリニウス』については、それでもできるかぎり文献史料を参考にしてきたつもりですが。</p>

<p>映画では勝者や統治者に対して反逆したり、時代にそぐわない価値観をもっていたり、メインストリームを歩んでいなかったりする人物を主人公にすることが多いですね。</p>

<p>正史が描かなかったり隠したりしてきたであろう視点に触れることができるのも、歴史を描く映画を観る面白さではないでしょうか。もちろん、これは小説あるいは漫画にも当てはまる話です。</p>

<p>【本村】おっしゃるとおりです。歴史の知識のみならず視点あるいは見方を学ぶことができるのが、歴史映画の魅力であり、それが深い教養へと結びつきます。</p>

<p>実際の世界ではおっかないマフィアには関わりたくないと思うけれど、『ゴッドファーザー』シリーズを観ていると彼らの精神世界に触れられる気がするし、ヴィトー・コルレオーネやマイケル・コルレオーネに肩入れしてしまいますから（笑）。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>『ベン・ハー』が描いた古代ローマ</h2>

<p>【とり・みき】今回挙げた21作品のなかから、最初に観たときに、本村先生がとくに強い印象を受けた作品を挙げるならば、どれでしょうか。</p>

<p>【本村】もっともショックが大きかったのは『ベン・ハー』（1959年）ですね。まさに「後世に残したい名作映画」で、もう何度観たか覚えていません。最初に観たのは日本で封切られた1960年、中学1年生のときでした。</p>

<p>細部に至るまで丁寧につくり込まれていて、スクリーンに広がる街並み、建物、人びとの衣装や持ち物は自分が知る世界のものとはまるで違い、「もう一つの現実世界」が広がっていると感じさせられました。</p>

<p>物語はイエス・キリストの人生が、架空の人物である主人公ジュダ・ベン・ハーの生涯と交差するように描かれます。13歳の私は単純で、傲慢な支配者であるローマと、虐げられるユダヤという二項対立で認識していました。</p>

<p>ですから、権力を笠に着て旧友を裏切るメッサラよりも、理不尽な苦難を乗り越えようとするジュダに肩入れしたものです。しかしその後、ローマ史研究の道に進むと、むしろ敵役であるメッサラの苦悩や言い分がわかるようになって感情移入するようになりました。</p>

<p>『ベン・ハー』を観ていると、たしかにユダヤ人を弾圧するローマが悪者に映ります。しかし、実際のローマの統治は、当時としては非常に寛大でした。</p>

<p>彼らがユダヤ人に求めていたのは、「心のなかでは自分の神を自由に信仰していいから、表面的にはローマ皇帝に礼を尽くしてほしい」ということでした。何も抑圧や収奪しようとしていたわけではなかったのです。それでもユダヤ人はあくまでも首を縦に振らなかった。</p>

<p>【とり・みき】ユダヤ教は一神教ですからね。</p>

<p>【本村】そう。一神教では、それ以外の神は許されません。自分たちが信じる唯一神だけが「神」であり、そのほかは偽物という理屈です。</p>

<p>一方のローマ人は多神教でしたから、ユダヤ人の気持ちがわからないのは無理からぬことでした。当時、ユダヤ教以外に一神教は存在しませんでしたから。ローマ皇帝は従順ならざるユダヤ人に苛立ち、メッサラに厳しい立場を背負わせました。</p>

<p>【とり・みき】よく言われることですが、古代ローマ人の神に対する考え方が似ているのが、八百万の神を崇めてきた日本人でしょう。ですから、いまのヨーロッパ人よりも、私たち日本人のほうが古代ローマ人の宗教観は理解しやすいのかもしれないとは、『プリニウス』を描きながらマリさんともよく語っていたことです。</p>

<p>それにしても、本村先生にとって年齢とともに『ベン・ハー』という作品の受け止め方に変化があったというお話は面白く、それもまた映画の醍醐味の一つだと言えるでしょう。</p>

<p>【本村】文学作品で言えば、ドストエフスキーは10代のうちにあの衝撃を受けるべきと言われます。私はこの歳になったいまだからこそ、むしろ読み返してみたいと思っているのですが、なかなか時間をとれずに着手できていない。その点、映画は2、3時間で昔と違う自分の感情や発見に出会ったりできます。</p>

<p>【とり・みき】見方が変わる作品もあれば、当時と変わらない自分の価値観を確認することもある。裏を返せば、時を超え、さまざまな角度から楽しめたり気付きを得られたりする作品が「名作映画」なのでしょう。</p>

<p>もう一つ、私が歴史を題材にした映画を観る醍醐味だと思うのは、たとえ古代を描いた作品でも、その映画がつくられた当時の社会の倫理観や価値観に触れられる点です。なかには映画が製作された時代の風俗を意識的に仮託している作品もありますね。</p>

<p>たとえば、『名作映画で読み解く世界史』では紹介されていませんが、12世紀に生まれたイタリアの聖フランチェスコの若いころを描いた『ブラザー・サン シスター・ムーン』（1972年）は、明らかに彼と彼の仲間をフラワー・チルドレン（道行く人たちに花を配って反戦を呼び掛けていたヒッピーたちのこと）と重ねて描いています。</p>

<p>監督を務めたフランコ・ゼフィレッリはどちらかといえば保守的な旧世代の人だと思いますが、そんな彼でさえ、1970年代には若者の反戦気分という社会の空気を作品に投影していたことはじつに興味深い。</p>

<p>【本村】『天井棧敷の人々』が製作されたのは第二次世界大戦中、ナチスドイツの支配下にあったフランス・ヴィシー政権下（1940年～44年）のことです。1840年代に活躍した天才パントマイム役者とロマン派演劇俳優、インテリ犯罪者という実在の三人に架空の人物を交えた映画ですが、同作がつくられたのは、ドイツによる検閲が行なわれていたときのことでした。</p>

<p>ですから当時は、反ナチスドイツ的思想が表れやすい現代物ではなく、検閲に引っかかりにくい歴史を題材にした作品がよく製作されていたことは、戦争を考えるうえでの重要な示唆を与えてくれるように思えます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>映画と漫画の共通項と違い</h2>

<p>【とり・みき】このたび、有難いことに『プリニウス』がフランスの歴史教科書に採用されました。送られてきた見本を確認すると、各時代を描いた映画や漫画、舞台が引用されていて、それぞれの作品の写真もふんだんに使われていました。教科書といえどもじつに自由なつくりで、日本でもそうした歴史や教養の伝え方を検討していいのではないかと感じました。</p>

<p>【本村】冒頭で申し上げたとおり、面白がったり興奮させたりして「感動」させることが、何かを伝えるうえではもっとも効果的です。ならば、歴史についても物語で紹介することが重要になるはずだし、短い時間でビジュアルに訴えられる映画や漫画は有力な選択肢になるでしょう。</p>

<p>たとえば最近の大河ドラマでも、放送されるたびに「ここが史実と違う」などと議論になるし、私もいろいろと思うことはありますが（笑）、しかしそれとは別の話として、もしもドラマの展開を面白いと感じる人が少なくないのであれば、彼ら彼女らの幾分かは歴史に興味を抱くかもしれません。</p>

<p>それから、私が歴史を学ぶことには大きな意味があると考えるのは、物の見方にはいろいろな立場があることを知る機会になるからです。たとえば、他者と最近の政治に関する話をすると、思想信条の違いが絡んできて口喧嘩になってしまうかもしれません。</p>

<p>ところが、数百年前の出来事について意見を戦わせると、自分たちと直接関係がある話ではないので、そこまでエスカレートせずに議論の落としどころを見つけることができる。これから私たちは、明確な正解など存在しない時代を生きないといけないわけで、そのときにさまざまな角度から物事を見る姿勢や視座は必要不可欠となるはずです。</p>

<p>【とり・みき】最近ではとくに「正解」を欲する人が多い印象です。私たちのように何かを創作する人間は、正しい物語の紡ぎ方や表現方法など存在しないことを実感したうえで、自分が描きたいものをつくっています。</p>

<p>とくに『プリニウス』はマリさんとの合作でしたから、二人とも膨大な史料を調べに調べ、しばしば食い違う意見を戦わせて、どうすればよりよい作品になるか議論しながら制作を進めました。</p>

<p>マリさんは私よりもはるかに古代ローマについて詳しいですが、それでも漫画を描き始めると自分が生み出した人物の動きを大事にして、時には大胆な発想を提案されていました。どちらかというと、私のほうが史料との整合性にとらわれるタイプでしたから、彼女の自由さはとても勉強になりましたね。</p>

<p>プリニウスという人物の解釈についてさまざまな葛藤を経た二人の帰結点、落としどころが最終的に単行本の形になっているもので、あれが結論のつもりです。</p>

<p>【本村】お世辞抜きで、『プリニウス』は何度読んでも新たな発見がある名作だと思いますよ。マリさんが紡ぎ出す人物もさることながら、とりさんが描く素晴らしい背景が古代ローマの世界を見事に表現していました。</p>

<p>【とり・みき】最近の漫画は、登場人物のセリフだけ追えばストーリーがわかるような作品も多いですが、『プリニウス』ではあえて、そうしたことはしませんでした。年代や場所のキャプションも時代背景のナレーションも皆無で不親切です。</p>

<p>その分、背景の建物や小道具や自然描写にも多くの情報をつぎこんで画で語らせたつもりですし、じつはいろいろ細かい遊びもやっていて、もしかしたらマリさんでさえ気付いていない仕掛けがあるかもしれない（笑）。</p>

<p>【本村】登場人物の動きやセリフだけでなくて、背景で表現や説明できるというのは、映画にも言えることですね。その反対に、両者の表現方法では性質が異なる点もあるのではないですか。</p>

<p>【とり・みき】映画では基本的に作り手が観客の時間をコントロールしますが、漫画では読者一人ひとりが自分のペースで読みます。</p>

<p>また、漫画の場合は画の大きさが一コマずつ異なりますが、映画は一定ですから、表現の緩急の付け方はおのずから変わってくる。私は手塚治虫、石ノ森章太郎、大友克洋といった人たちの作品から漫画を学んだので映画との共通項も多いのですが、あえて言えばこのあたりが違いと言えるでしょう。</p>

<p>【本村】いずれにせよ、良質な作品は表現方法やフォーマットが変わっても、時代を超えて多くの人びとに読み継がれます。私たちはそうした作品から多くのことを学んだり気付いたりすることによって、一人ひとりの人生のみならず、これからの社会をよりよくするきっかけを得られるはずです。とくに若い人には、名作と呼ばれる映画に触れてほしいと願わずにはいられません。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_eiga.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 06 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本村凌二（東京大学名誉教授）,とり・みき（漫画家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>高市政権の積極財政は地方の自立を促すか？ 過去に学ぶ「地方を強くする条件」  山﨑朗（中央大学経済学部教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14019</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014019</guid>
			<description><![CDATA[東京一極集中が続くなかで、地方は本当に自力で立ち上がれるのか。国の投資戦略や税の偏り、防衛・エネルギー政策が地域格差をどう変えるのか。過去の教訓から「地方を強くする条件」を多角的に問い直す。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日本" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Japan.jpg" width="1200" /></p>

<p>東京一極集中が続くなかで、地方は本当に自力で立ち上がれるのか。国の投資戦略や税の偏り、防衛・エネルギー政策が地域格差をどう変えるのか。過去の教訓から「地方を強くする条件」を多角的に問い直す。</p>

<p>★本論稿は、意見集約プラットフォーム「Surfvote」と連動しています。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地方創生の誕生と背景</h2>

<p>第二次安倍内閣（2012年12月発足）のもとで2014年に地方創生1.0が策定された。2014年9月には内閣府に「まち・ひと・しごと創生本部」が設置され、石破茂氏が初代「内閣府特命担当大臣（地方創生担当）」に任命された。地方創生は、それまで政策用語として使用されてこなかった新しい概念であり、2008年をピークに日本の人口が減少に転じたことを背景に登場したものである。</p>

<p>1991年から1993年にかけては、地価高騰とバブル崩壊の影響で東京圏（東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県）は、戦後初めて人口の「社会減」に陥ったが、その後は増加に転じ、2007年にはバブル期とほぼ同じ水準の「社会増」に達していた。</p>

<p>また、戦後の地域振興の基本スキームである工場の地方分散政策や公共事業の地方への優先的配分も、工場立地件数の激減、地方における高規格道路、新幹線、空港、港湾、ダムなどのインフラ整備の概成によって、地域振興効果が薄れている。こうした社会経済情勢の変化を受け、工場誘致とインフラ整備に依存しない、地方における雇用創出と定住促進、さらには東京一極集中抑制と日本の人口減少対策のための、新しい政策スキームが求められたのである。</p>

<p>県単位での人口減少は、1980年から1990年にかけて、国勢調査によってすでに確認されていた。1990年代以降、人口減少、高齢化に加え、若者層（とくに大学卒業時）の流出が進み、地域経済の停滞や地域の医療・福祉・教育・商業・公共交通といった生活基盤の縮小・劣化につながった。</p>

<p>こうした社会経済状況を背景として登場した地方創生1.0は、増田寛也編著『地方消滅』（中公新書、2014年）とその基になった「増田レポート」の影響を強く受けている。衝撃的なタイトルと「消滅可能性都市」の名指しは、政府関係者だけでなく、地方自治体の関係者にも衝撃を与えた。同書では、合計特殊出生率（TFR）の高い地方から、TFRがもっとも低い東京都への若者への流入を抑制することで、日本の人口減少に歯止めをかけうるという論理が展開されており、この論理は、地方創生1.0のなかにも取り込まれた。</p>

<p>しかし、TFRと実際の出生数には必ずしも相関がないことは、ニッセイ基礎研究所の天野馨南子氏らによって明らかにされている。TFRが2.0を超えている自治体でも、出生数は増加していない。2024年のTFRでは、東京都が0.96と全国で最低であるが、宮城県は1.00、北海道は1.01であり、東京都と大差のない道県も少なくない。東京都には高等教育機関が集中しており、未婚の若年女性の多さがTFRの低さに影響している。</p>

<p>法政大学の小黒一正氏は、国勢調査にもとづき都心3区（千代田区・港区・中央区）の平均出生率は、沖縄県に次いで全国2位の水準にあると明らかにした。東京都への若者の流入が日本の人口減少を加速するという「東京ブラックホール論」には再考の余地がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地方創生1.0の課題と成果</h2>

<p>地方創生1.0は、2020年に東京圏の人口の「社会増減ゼロ」をKPI（重要業績評価指標）として掲げた。しかし、コロナ禍による2020年から2022年の時期を除くと、東京圏の人口社会増は継続しており、目標は達成されていない。第三次国土形成計画では、改めて2027年度に東京圏の「社会増減ゼロ」というKPIが設定されているが、首都圏直下型地震の発生や感染症の大規模流行など、きわめて例外的事象が発生しない限り、実現は困難だと思われる。</p>

<p>地方創生1.0の予算規模は、当初1000億円（事業費ベースでは2000億円）程度にとどまった。2015年度には1653億円であったふるさと納税全国受け入れ額は、2024年度には1兆2727億円にまで増加している。</p>

<p>また、地方創生1.0は、地方の自主性や主体性を尊重する姿勢を示しながらも、地方自治体には、国のビジョンにもとづいた「地方人口ビジョン」と「地方版総合戦略の策定」が義務付けられた。</p>

<p>2019年の内閣官房まち・ひと・しごと創生本部事務局の資料で紹介されている調査によると、回答のあった770団体中8割以上の自治体は、東京都などに本社を置くシンクタンクやコンサルにビジョンと戦略の作成の一部を委託したことが判明した。そのため、画一的なビジョンや戦略が多く、地方創生の理念と乖離する状況が生まれていた。</p>

<p>この背景には、小規模自治体に対して、政府が短期間で企画力や事務能力の限界を超える課題を課したことがある。2024年に共同通信社が実施した全国の首長アンケート調査（回答率93％、回答者数1667人）によると、地方創生の成果について、「不十分」とする回答が15％、「どちらかといえば不十分」が54％にのぼった。効果が不十分であった理由は、「自治体単独での対策には限界があった」73％、「予算・人手が足りなかった」13％、「対策のノウハウがなかった」7％であった。</p>

<p>コロナ禍によって2020年から2022年にかけて、東京圏への人口流入は抑制された。だが、これは地方創生の効果ではなく、想定外の外的要因によるものである。その後、東京圏の社会増は再び拡大し、近年は海外からの東京都への移住者が増加している。</p>

<p>地方の自治体の「地方人口ビジョン」は、将来推計人口を過大推計する傾向がみられる。その実現のために、格安住宅地の開発による人口の奪い合いが生じ、都市圏単位でみれば、ゼロサム（都市圏の人口は減少しているので、正確にはマイナスサム）であるだけでなく、地方都市の都心の人口密度低下や都市圏のスプロール化といった負の効果をもたらした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>サナエノミクスと地方創生</h2>

<p>地方創生2.0は、地方創生1.0の課題と限界を踏まえ、石破政権下で始動した。2024年の補正予算において、「新しい地方経済・生活環境創生交付金」1000億円が創設され、2025年度当初予算における同交付金の予算額は2000億円に倍増されている。</p>

<p>さらに、2024年10月には「新しい地方経済・生活環境創生本部」が設置された。地方創生2.0では、より地方自治体の主体性を重視する姿勢と地域経済の活性化の視点が打ち出されたが、その成果についてはまだ評価できる段階ではない。</p>

<p>2025年10月に高市早苗政権が誕生し、地方創生政策の継続性に注目が集まった。新たな地方創生担当大臣には黄川田仁志氏が就任し、地方創生2.0を廃止したり、大幅に見直す動きは、現時点ではみられない。高市総理の所信表明演説では、「地方創生」という用語は用いられなかったものの、「地方の活力は、すなわち日本の活力である」と強調し、熊本県へのTSMCの進出や北海道へのラピダスの工場建設を例に、国の支援による投資誘導効果を全国に拡大していく意欲を示した。</p>

<p>具体的施策としては、①地域を超えたビジネス転換を図る中堅企業の支援、②地域ごとに産業クラスターを戦略的に形成（地域未来戦略）、③二地域居住を含む関係人口の創出、④稼げる農林水産業等の創出、⑤税源の偏在性が小さく税収が安定的な地方税体系の構築、などが掲げられている。</p>

<p>これまでの地方創生の議論において、見過ごされてきた重要な観点は、「非空間的政策」が地域経済に与える影響である。「非空間的政策」とは、全国一律に適用される政策でありながら、地域の産業構造、人口構造、生活様式によって地域に異なる影響を与える政策を指す。</p>

<p>たとえば、国民年金制度は、全国一律で運用されているが、地方に高齢者が多く、東京圏に労働人口が集中している場合には、保険料納付と年金給付を通じて、地方への所得移転が生じる。しかし、東京圏でも高齢化が進めば、国民年金制度を通じた地域間の所得移転効果は次第に薄れていく。</p>

<p>高校3年生までの子どもに対し、一人あたり2万円を支給する「物価高対応子育て応援手当（仮称）」（総額約4000億円）は、2026年度限りとなる可能性のある政策ではあるが、子ども比率の高い沖縄県、滋賀県、宮崎県、佐賀県、愛知県などでは人口比以上の恩恵を受ける一方、少子化が進む秋田県、北海道、東京都では人口比よりも少ない配分となる。</p>

<p>また、物価高対策の柱として拡充される「重点支援地方交付金」は、全国の自治体に配分されるが、財政力に応じて調整が行なわれるため、ゆるやかながらも地域間の所得格差を緩和する効果をもつと考えられる。逆に、所得税の壁の引き上げは、パート労働者が多く居住する大都市圏において、世帯所得の底上げにつながる可能性がある。</p>

<p>サナエノミクスの第一弾として実施が決まった、「ガソリン税の暫定税率の廃止」も、「非空間的政策」の典型例である。</p>

<p>この政策は、自動車保有率の高い関東内陸、山梨県や長野県、東北地方などに通勤通学や買い物にかかる生活コストの軽減というかたちで大きな恩恵をもたらす。軽油引取税の暫定税率廃止を含めると1.5兆円規模の減税であり、恒久減税となれば、自動車交通に依存する地域への経済効果は継続することになる。</p>

<p>それに対して、東京都、大阪府、神奈川県、京都府、兵庫県、埼玉県などの都市圏では自動車保有率が低いため、減税の効果は限定的である。「ガソリン税の暫定税率の廃止」には、二酸化炭素排出量の増加を懸念する声もあるが、鉄道やバスなどの公共交通がなく、移動手段として複数の自家用車を所有せざるをえない過疎地の住民にとっては大きな恩恵であり、地方創生の観点からは評価される。</p>

<p>サナエノミクスの中核をなすのは、17の重点分野への政府投資である。17分野は、伝統的な産業分類とは異なり、名称が独特であるうえに、その具体的対象も明確ではない。おそらく、半導体、人工知能（AI）、造船、防衛産業、核融合分野が主要な投資対象分野となろう。</p>

<p>このような大規模投資は、地域間の産業構造や産業集積の差異によって、地域間の成長率格差をもたらす。九州では、2001年ごろから半導体クラスター戦略を実施してきたが（詳しくは山﨑朗・友景肇編著『半導体クラスターへのシナリオ』〈西日本新聞社、2001年〉）、九州経済産業局によると、九州の半導体生産額は、2024年に全国の48.5％を占めており、過去最高の2000年に迫る生産額にまで回復している。</p>

<p>造船業の振興は、造船所の多い愛媛県、長崎県、広島県、山口県にプラスの影響を与えるであろう。防衛産業の工場は、関東、東海、近畿に多く、地政学リスク削減のためにも工場の地方分散が望まれる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>サナエノミクスの地方創生と国防・平和</h2>

<p>サナエノミクス以前から実施されていた施策として、南西諸島における自衛隊の配備がある。国境離島である与那国島には、2016年に自衛隊の駐屯地が開設され（沿岸監視隊や電子戦部隊の自衛官が150人程度駐留し、家族を含めると250名程度が居住）、与那国島の人口の1.5割を占めている。</p>

<p>石垣島や宮古島の人口増加は、観光業の成長にも支えられているが、自衛隊員の増員配置も影響を与えている。GDP比2％の軍事費が、どの地域に投下されるかによっては、国境地域や国境離島の「活性化」につながる。</p>

<p>エネルギー政策においては、地方における再生エネルギー産業の発展を促すとされている。風力、水力、地熱、太陽光、バイオマスなどの地域資源の活用によって、地域のエネルギー自立と関連産業、とくにデータセンターや電力多消費型産業の立地が期待される。</p>

<p>もちろん、九州と本州、北海道と本州を結ぶ送電網の整備や揚水発電の増強、蓄電池の開発も不可欠である。エネルギーの自給化は、地方創生だけでなく、貿易赤字の削減、地政学リスクの削減にも貢献する。</p>

<p>国土強靱化による災害対策、リダンダンシー（冗長性）の確保のためのインフラ投資は、地方の防災・減災機能を強化し、雇用創出にもつながる。地震や風水害、豪雪の被害の多い地方では、地域の生活と経済活動の安全性を高め、長期的な地域の発展に寄与する。国土強靱化においては、災害危険地域からの撤退や集落の中心地に集住する「小さな拠点」形成と組み合わせることができれば、地域の福祉、生活水準の維持にもつながるであろう。</p>

<p>教育・人材投資においては、地方大学や地方の高等専門学校への支援強化は、地域に根差した人材育成を実現し、域外への16歳、18歳人口の流出を抑制することになる。これらの高等教育機関と地域企業の連携による実践的教育や共同研究開発活動は、地域における新規事業やベンチャーの創出に貢献する可能性も秘めている。ただし、近年、若年層の人口減少により、高等教育機関の閉校が増加しており、地域における学びの場の確保は、地方創生にとって重要な課題である。</p>

<p>高市政権の政策として、カロリーベースで38％の日本の食料自給率100％をめざすという野心的目標も示された。北海道や東北などの5県は100％を超えているものの、国レベルでの実現の可能性はきわめて低い。アメリカからの農産物輸入の削減は、日米貿易摩擦の要因となるであろうし、円安にもかかわらず、米、野菜、果物などの輸入は急増している。100％はともかく、自給率の上昇が実現できれば、地方の農林水産業の持続可能性を高める可能性はある。</p>

<p>さらにいえば、国が除去すべき地方創生の阻害要因も多い。たとえば、新潟県に次いで米どころとなった北海道には、米の生産量と比較して日本酒の酒蔵が少ない。国税庁が輸出用の日本酒醸造以外の酒蔵の新設を禁止しているからである。地域の農林水産業の実情に応じた食料品産業の振興は、国の役割であるはずだ。</p>

<p>米の輸出増加も模索されているが、日本から中国に輸出する米については、中国政府が認可した「指定登録精米施設」で精米し、「登録燻蒸倉庫」で燻蒸しなければならないとされている。「指定登録精米施設」は、北海道石狩市、神奈川県綾瀬市、兵庫県西宮市の三施設のみで、米どころの東北には指定施設はない。「登録燻蒸倉庫」は、7倉庫指定されているが、地域的には北海道小樽市、山形県酒田市、兵庫県神戸市、熊本県八代市の4地域のみとなっている。日本の農林水産物・食品輸入を規制している中国政府との交渉も国の役割である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地方創生にこそグローバルな視点を</h2>

<p>高市総理は、地方税体系の見直しも示唆している。直近の課題は、ネット銀行の隆盛による利子税の東京都集中である。長期的には、地方の高齢者の死去にともない、東京圏在住の子どもや孫に金融資産が相続されるという、金融資産の東京圏集中問題がある（山﨑朗「金融地域創生」山﨑朗編著『地域創生の新しいデザイン』〈中央経済社、2025年を参照〉）。</p>

<p>地方創生は、東京一極集中是正、地域の社会課題解決といったドメスティックな視点が目立っていた。だが、これからの地方創生は、貿易、インバウンドのみならず、外国人政策を含むグローバリゼーションへの対応策が重要である。いまや東京都の人口増加の8割は外国人であり、北海道のリゾート地では、20代の6割程度が外国人という地域も出現している。</p>

<p>地域の平和が国土の末端地域、国境地域の自律的成長を促すことは、EU諸国の国境都市が証明している。日本海側や北海道の自律的成長には、極東地域の平和の実現によるロシア、北朝鮮、中国との交流促進が不可欠である。</p>

<p>台湾有事に関する高市総理の発言は、中国便比率が高い関西国際空港や地方の空港に負の影響を及ぼす可能性が高い。その結果、これらの空港を抱える地域のインバウンド需要にも悪影響が及ぶことが予想される。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 03 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[山﨑朗（中央大学経済学部教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】人間の身体の「解釈」はどこまで変わっていくのか（ディスカッション・２）  22世紀の人間像研究会</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13752</link>
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			<description><![CDATA[いまや「一人で食べること」は孤立ではなくアイデンティティとして語られるようになりました。これが私たちの追い求めてきた究極の「自分らしさ」の物語なのでしょうか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260216isonomaho4.jpg" width="1201" /></p>

<p>松下幸之助は終戦直後にPHP研究所を創設して以来、人間とは何かについて思索を重ね、その集大成ともいえる『人間を考える』（昭和47年〈1972年〉発刊）において、「人間には万物の王者たる優れた本質が与えられている」とする肯定的な人間観を提唱しました。</p>

<p>それから半世紀を経て、戦争や環境破壊、AIの進化など人類は新たな岐路に立っています。「22世紀の人間像研究会」では、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していきます。</p>

<p>本稿は文化人類学者の磯野真穂さんによる「文化人類学における身体性の解釈の変容」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによるディスカッションです。全3回でお届けします。</p>

<p>いまや「一人で食べること」は孤立ではなくアイデンティティとして語られるようになりました。これが私たちの追い求めてきた究極の「自分らしさ」の物語なのでしょうか。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>人間は経済的範疇だけで生きているのではない</h2>

<p>【先崎】磯野さんの話のなかでンデンブの儀式というのが出てきましたよね。村に困った人がいて、他の村人と反目しあっていたけれど、その状態に「悪霊憑き」という意味付けをして霊を追い払うことで事態が解決したという。</p>

<p>【磯野】はい。この困った人はカマハサニという人なんですよ。</p>

<p>【先崎】同じような話を、僕のやっている日本思想史でいうと、柳田國男の『遠野物語』とか、それを使った吉本隆明の『共同幻想論』に出てきます。それは次のような物語です。山に入った猟師が顔の赤い鬼に会っていろいろな話をして帰ってきた。すると数日たって死ぬんです。なぜ死んだのか。恐らく赤い顔の鬼というのは共同体における禁忌の象徴なのですね。それを見てしまった。その結果、ちょっとしたかすり傷を負っただけで数日寝込んで死んでしまう。もちろん、科学的にはかすり傷で人は死にません。しかし人間はかすり傷に、共同体が共有する「意味」を与えられると、肉体的に死ぬことができる、という話なんです。</p>

<p>また、吉本隆明の『共同幻想論』では、「国家も共同の幻想である」として、国家批判の本として読まれました。しかし吉本の主張は、人間というものは、会社であれ法体系であれ、あらゆる共同性を構築する過程で、かならず「共同幻想」をつくるものである。だからその最良の事例である国家が、どのように成立してくるのかを暴き出したいというものでした。マルクス主義のいうように、人間は経済的範疇だけで生きているのではなく、「共同幻想」を操り、あるいは操られつつ生きていくのだよ、と。</p>

<p>さきほどのンデンブの儀式の話は、科学とか、エビデンス主義とかでこの先いけるのだろうかという話につながっていくように思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「システムからの解放」の最果てにあるリストカット</h2>

<p>【先崎】あと、気になったのは『孤独のグルメ』の話です。</p>

<p>【磯野】はい。人がひとりでものを食べることにフォーカスしたドラマが流行っているという話ですね。</p>

<p>【先崎】そうですね。まず、「食べる」とは生理的な行為ですね。つまり、私たちのアイデンティティが生理的なものになってしまっている。「共同幻想」がむしろ退潮し、僕たちの社会は身体的なものが露出してきているのではないか。</p>

<p>「孤独」の反対は、もちろん「関係性」です。「関係性」とは、食事でいえば、食べる行為そのものではなく、誰かと一緒に食べるとおいしいとか、会社の人と食べるより家族で食べるほうがおいしいとか、そういう文化的価値のことですよね。僕らはそういう、人間同士の複雑な凹凸とか象徴の中を生きているはずです。にもかかわらず、身体性だけがアイデンティティになっていることは問題なのではないか。以前本にも書いたのですが、痛覚、いわゆるリストカットが生きていることを最終担保するものになっているというのと、一人で食することがアイデンティティになっているというのは似ていると思いました。</p>

<p>【磯野】本当にそうですね。『孤独のグルメ』もそうだし、『ソロ活女子のススメ』もそうなのですが、一緒に食べることを強要されるのが苦痛であるというメッセージにもなっているんですね。「一緒に食べるとおいしい」ということをある種の制約と捉えている。「家族はそろってご飯を食べなくてはならない」とか、「会社の飲み会は必ず出ないといけない」という価値観に我々が苦しめられた面もたしかにあるのですが、それを振り切った反動として、別の共同幻想に引き寄せられる面もあるのではないかと。縄文左派や縄文右派もその一つのあらわれだと思います。</p>

<p>【先崎】いや、その通りだと思いますよ。縄文左派と縄文右派というのを具体的に言うと、縄文右派というのは梅原猛みたいな人たちを念頭に置いていて、縄文左派というのはどちらかというと岡本太郎のような人たちがモデルなんだと思います。ここで言われている縄文というのは、近代的な関係性とか境界線からの解放の象徴なんですよ。</p>

<p>対して、弥生は近代的なものの象徴なんです。たとえば「資本主義システムに乗っかっている」みたいなことを批判するときに、過去に回帰して、原始共産主義社会を持ちだすことがあります。マルクスですらそうです。こうした、近代システム批判の日本における典型的バージョンが縄文なのです。縄文には人間の根源的エネルギーが保存されていると。反近代であると。</p>

<p>だから、「資本主義社会の拘束から解放されたい」というときに、「そこに日本の本来の姿がある」というのが縄文右派で、「近代主義の象徴である国家以前の、もっとプリミティブな人間関係に戻りたい」というのが縄文左派になっていく、というふうに僕は思っている。</p>

<p>いずれにしても境界線とか、関係性とか、「何々らしさ」とか、これら全部を含む近代システムから解放されたいというのが基本にある。芸術でもそうですよね。最も象徴的なのは、デュシャンの「泉」という作品で、これはトイレを逆さまにして「泉」と書いただけのものです。これは芸術を「意味」から解放する行為でした。</p>

<p>僕は、芸術の場合は、こうした考え方はすぐれていると思っています。しかし、人間社会をこうした縄文モデル？で考えることが、果して正しいかと言われれば、少し疑問に思っている。あらゆる関係性からの解放は、一見、自由に見える。しかし僕の考えでは、この自由は、あらゆる定義を外的なものとして退けた結果、無色透明の自分が不定形に存在する「自由」になると思う。この「自由」は、結果的に、自己存在を身体性にしかもてない。したがって、絶対の解放がもたらす負の側面として、「自由」はリストカットに行きつくと思うんです。ここで言っているリストカットとは、要するに、自己存在証明＝痛覚という身体性にまで縮減することを言っています。</p>

<p>身体性への過剰な還元については、フランシス・フクヤマが『アイデンティティ』という本でこんなことを書いているんですね。あらゆる何々らしさというのをどんどん破壊していった場合、たとえば「サッカーという競技において男女平等に扱うべき」という今までの境界線に対する異議申立てを通り越して「サッカーという試合自体が男性中心主義に作られたものだから破壊されるべき」となっていく。これをセックスに当てはめると「セックスそのものが男性中心主義だから認められない」となって、普通の性交とレイプの境界をなくせという話になっていく。</p>

<p>ここまでいくと、社会全体の秩序、すなわち関係性のなかで生きているはずの人間存在が、そもそも成り立たなくなる可能性があると僕は思っています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「自分らしさ」が資本主義を加速する</h2>

<p>【磯野】全く同感なのですが、少し追加をさせていただくと、実は「らしさ」から解放されて「自由になる」「自分らしくなる」という思想は、資本主義とすごく相性がいい。「何でも１人でできますよ」ということは、関係性の中で行われていたものを経済的なものにアウトソーシングしていくということです。資本の力をつかえば自分の身体もいくらでも変えられるし、関係性を切っても生きていけるということです。関係性の負の面ばかり、あるいは解放のいい面ばかりを強調することは、資本主義をよくないかたちで加速させていく気がしています。</p>

<p>【先崎】さきほど、為末さんのお話で、やはりなと思ったことがあります。ドーピング容認の世界大会に対して、シリコンバレーの人たちがすごく関心を示したというところです。代表格のイーロン・マスクなんかは、あらゆる関係性から自由になりたい人ですね。彼には国境も邪魔だし、地球さえ自分を束縛するものと考えて火星を目指す。不老不死を本気で考えているふしもあります。そうした彼らにとって、「ありのまま」の身体で競うような従来の競技のあり方すら、束縛であり、不自由なんですよ。ドーピングでどこまでも滑走していきたいのです。</p>

<p>ただ、こういう考え方が行き過ぎると、反動がおきます。その典型がＪ・Ｄ・ヴァンス副大統領です。ヴァンスのブレーンは大体40歳前後で若いのですが、観念的保守主義で、「古きよきアメリカを取り戻さなきゃいけない」という強烈な共同体主義なんです。共同体主義とは、要するに「自分を社会の関係性のなかに位置づけてほしい」という欲求です。彼らの考える「自由」とは、社会において応分の役割をもらい、やりがいを得ることで、将来的な見通しをもつことができるという意味です。まさしく、イーロン・マスクと正反対の自由観なのです。トランプはマスク的なるものとヴァンス的なるもの、この両者を頭に乗せて、国家像をつくっているわけです。</p>

<p>この現象を日本でみるとどうなるか。ヴァンス含めた観念的保守主義者は、日本で言えば縄文右派なんです。たとえば、参政党は健康食品へのこだわりが非常に強い。身体性に極端にこだわって、たとえば「体の中から汚いものを排除しなきゃいけない」ということを言い出している。この「不浄なものを排除したい」という身体感覚が、国家に転移すると、移民排斥になります。そして不浄とは、実は差別のはじまりであり、あらゆる戦争行為などにおいてあきらかなように、他者を汚いとか、臭いとか、言い始めるのはきわめて危険な兆候なのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>文化によって違う「うまくいく謝罪」のパターン</h2>

<p>【為末】ンデンブの話で僕が思い出したのは、タイガー・ウッズのセックススキャンダルがでたときに、すぐさま「自分はセックス依存症だ」ということを本人が告白したことです。村の困った人に悪霊がとりついていたという話と似ていると思いました。「悪霊＝セックス依存症が私の行為を支配していたのです」という話ですね。依存症というシンボルに罪を負わせることによって、本人は免罪になる。</p>

<p>【磯野】確かにタイガー・ウッズはそうでしたね。文化人類学的な観点だと、脱魂、憑依といった状態も使えそうです。魂が抜けたところに悪いものが入ってきて病気になる、あるいは悪霊に憑依されて病気になるという解釈です。現在の病態理解の際に使われる言葉はずいぶん違いますが、これもひとつの責任回避のシステムと言えるでしょう。「私と病気は別」であり、悪いのは病気であるというものの見方です。</p>

<p>【為末】そうですね。病気だったら「気の毒だ」となる。タイガー・ウッズの場合でも一時はスポンサーが降りるのではといわれましたが、「依存症です」となった瞬間に、そういうことならむしろ支援が必要だ、というふうに世論が変わったんですね。</p>

<p>【磯野】それが微妙になるのが連続殺人のようなケースです。「精神に問題があった」で許されていいのか、という話です。</p>

<p>【為末】文化人類学で調査するような、いわゆる伝統的な社会では殺人の許され方も私たちの社会とは違うように思うのですが、どうなんですか。</p>

<p>【磯野】理由にもよりますが、許されるような状況もあります。例えば、フィリピンのルソン島に居住しているイロンゴット族の男性には、耐え難い怒りや苦しみを抱えたときに、その感情を放出するかのように首狩りをするという風習がありました（現在は廃絶）。そこでフィールドワークをしていたレナート・ロザルドという人類学者は、最初なぜ彼らがそんなことをするのが理解できなかったのですが、フィールドワーク中に奥さんが不慮の事故で亡くなるんです。しばらくたったときに、耐えがたい怒りや悲しみが湧いてきて、その時に初めて、イロンゴットの首狩りの儀礼の意味がわかった、ということを『文化と真実（『Culture and Truth』という本に書いています。</p>

<p>また国民国家社会では兵士が戦争で兵士を殺すことは罪に問われません。しかしこれもこの文化の外側から見たら奇妙な状況に見えるのではないでしょうか。殺人を徹底的に断罪しながら、他方で、戦争中のそれについては、許容しているのですから。</p>

<p>【為末】殺人ではない罪については儀式として許されるケースもあると思うんです。それが依存症でしたが苦しいリハビリを経て復帰を果たしました、というストーリーだったり、日本でよくある記者会見だったり。それぞれの文化圏での許され方みたいなものがあるような感じがします。</p>

<p>【磯野】ニュージーランドのアダーン元首相が、かつてニュージーランド入植者がアボリジニにやったことについて、アボリジニに伝わる謝罪の儀式（https://youtu.be/a4pVL3guMu4?si=enNaQejgIqmCIEJx）を使って、儀式の最中にアボリジニの人が涙を流すという場面がありました。謝罪というのは多分そういう身体性を伴った儀式を経て完了するのかもしれないですね。ただ、今の社会はなにかあると簡単に復帰不可能になる。謝罪の型が消えている気もします。</p>

<p>【為末】スキャンダルになったときにうまくいく謝罪といかない謝罪というものがあると思うんですね。うまくいったのは綾小路きみまろさんです。ネタを盗用したことをあっさり認めて「ついうっかりやってしまいました」で許されたんです。まったく同じ時期にモーニング娘の安倍なつみさんも盗用疑惑で炎上して謹慎処分になった。大ごとになるかならないかに実はそんなにくっきりした基準が無くて、そこを分けるのは社会の文脈のようなものがあるのかなと。タイガー・ウッズはアメリカでは「依存症です」であっさり許されたけど、日本だと「依存症でもやったことには違いない」といわれて簡単には許されなかった気がします。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 03 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[22世紀の人間像研究会]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>学歴をありがたがるのは誰か?　「同じ大学出身者で心地良いチームを作る」功罪  勅使川原真衣（組織開発専門家）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14049</link>
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			<description><![CDATA[学歴をありがたがっているのは一体誰なのか? 日本企業が学歴を重視することの功罪を、組織開発専門家の勅使川原真衣氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="勅使川原真衣 『学歴社会は誰のため』" height="742" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_colleagues.jpg" width="1200" /></p>

<p>学歴不要論が盛んに議論される一方で、学歴社会が根強く残るのはなぜでしょうか。それは一体、誰のために存在するのでしょうか。本稿では「学歴社会と心理的安全性の関係」について、書籍『学歴社会は誰のため』より解説します。</p>

<p>※本稿は、勅使川原真衣著『学歴社会は誰のため』（PHP新書）から一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「心理的安全性」は学歴社会と蜜月?</h2>

<p>「学歴をありがたがるのは誰か?」―そう問うてくるなかで、忘れてはいけない1つの概念がありました。お気づきでしょうか? 「職務遂行能力」と言うほどでもない、「この人ってだいたい『こういう人』かな」などの、人となりのイメージがある程度つく情報へのニーズです。</p>

<p>仲間になれそうか? と言ってもいいのかもしれません。外資系企業の採用では「カルチャーフィット」という言葉に擬態し、求める資質・能力の1つとしていることもあります。文化的親和性、なんて訳すとそれっぽく聞こえますが、要するに、</p>

<p>親近感<br />
仲間意識<br />
安心感</p>

<p>を求める人間の性と言ってもいいでしょう。</p>

<p>この「カルチャーフィット」ですが、この類の話になると、威力をもつのは意外にも「学歴」のようなブランド、序列的に暗示する情報である点は注意が必要です。自分の出身校を否定する人はそういないでしょうし、自分が通っていた大学やその周辺校であれば、馴染みのない学歴と比べたら「察する」部分も多いからです。</p>

<p>こうした文化的な親和性を気にする慣習ですが、昨今の次のような企業にまつわるパワーワードも後押ししているように思います。</p>

<p>「心理的安全性」</p>

<p>です。これはハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・エドモンドソン教授が、グーグル社と共同で行なったプロジェクト、その名も「プロジェクト・アリストテレス」において、「生産性の高いチームは『心理的安全性』が高い」と発表したことから広まった組織の生産性にまつわる重要概念です。</p>

<p>生産性が高い、すなわち「成功」するチームとそうでないチームを分かつのは何か? について、グーグル社の数百のチームをさまざまな変数から分析したと言います。</p>

<p>しかし、当初予想していた学歴という共通項や能力の指標、共通の趣味の有無などは、生産性の違いを有意に説明するものにはならなかったそうです。そして最終的に残ったのが、「心理的安全性」であり、その違いがチームの成否を分かつと結論づけたのでした。</p>

<p>とくに、</p>

<p>「例えば、チーム内でいつもしゃべるのは一人だけで他のメンバーはいつも黙っているチームは失敗するが、ほぼ同じ時間だけ全メンバーが発言するチームは成功するというのです。つまり、心理的安全性の高いチームづくりをすることが、成功のカギといえることがわかってきました。」（Unipos HRコラム、2024年7月16日）</p>

<p>という具体例を新鮮に思った企業組織関係者は少なくないのではないでしょうか。</p>

<p>ただここでポイントになるのは、先の例示からもわかるように、チーム内で意思疎通の場があることが暗黙の前提である点です。議論の土俵や共通理解の前提はある状態の話と、まったくの「はじめまして」の場面とは異なります。</p>

<p>しかし、日本においてはあまりにこの概念だけがセンセーショナルに伝えられ、一大ブームになったがゆえに、初対面や、そもそも情報の非対称性や権力勾配があるような場面でも、</p>

<p>安心感<br />
居場所<br />
安全基地</p>

<p>だと職場を思えることの大切さが強調されすぎたように私は思っています。双方向的なコミュニケーションを取る大前提はさておき、阿吽の呼吸ができることの職場としての心地よさを謳ってしまうと、こんな言い分を誘発しても仕方ないのではないでしょうか?</p>

<p>「何を考えているかが想像もつかないような人と一緒にいることは不安だわ」と。さらには安直ながらわかりやすい共通点と言えば、人生をかけた愛憎劇にもなりかねない「学歴（学校歴を含む）」は、じつに使い勝手のいい属性にならないでしょうか。</p>

<p>「〇〇キャンパスの横にある、あの家系ラーメン屋でさぁ......」</p>

<p>と聞けば盛り上がれる。ないしは</p>

<p>「医学部棟のイタリアンよく行ったよねー」<br />
「△△サー（サークル）はやばいって〜」</p>

<p>でもなんでもいいのですが、日常的な逸話（エピソード）から、互いの距離感があぶり出され、ただの思い出話のはずが、心理的な距離感そのものになる。これもまた学歴・学閥マジックだと思うのです。</p>

<p>しかし世の中には「学歴差別はいけません」というのも周知の事実なので、表立っては言わないのがミソです。なんなら、「心理的安全性」という掛け声のもと、あたかも正当な理由（「組織ダイナミクスに詳しい一流企業の知見」というお墨つき）から、訴求して当然のことのような錯覚に陥る。この巧みさの功罪を頭の片隅に置いておくべきでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_colleagues.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 03 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[勅使川原真衣（組織開発専門家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【日本文明研究会】「文明を継承する」ということ　山形の「王祇祭」を守れるか（第１回）  船曳建夫（文化人類学者／東京大学名誉教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13771</link>
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			<description><![CDATA[抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」を例に検討していく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="762" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260227funahiki1.jpg" width="1200" />平安時代初期の大同2年（806年）創建といわれている山形県・春日神社で毎年2月に旧例祭「王祇祭」が行なわれる</p>

<p>米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。</p>

<p>「日本文明研究会（委員：河野有理、藤本龍児、三宅香帆）」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」を例に4回にわたって検討していきます。（構成：藤橋絵美子）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「日本文明」があらためて問われる時代に</h2>

<p>近年、「日本とは何か」「日本文明とは何か」といった問いが注目を集めています。冷戦終焉以降のグローバル化の進展や、昨今の米中をはじめとする保護主義の揺り戻しのなかで、文明という枠組みがあらためて問われているようです。</p>

<p>「文明」という言葉はしばしば「文化」や「伝統」と混同されますが、文明とはいわば「政治体制、言語、信仰、社会秩序、生活様式などあらゆる構成要素の総体」とでも言いましょうか。個々の文化現象やその集積ではなく、社会全体を支える「生の形式」であり、時間的持続性を持つものだと思います。</p>

<p>こうした観点から見たとき、「日本」はきわめて特異な位置を占めています。政治学者サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』（1996年）で指摘したように、例えば日本文明は決して中国文明と同一にできるものではなく、独立したひとつの文明としてその動きを捉えなければ、見えてこないものがあるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「大陸の横の島には文明がある」</h2>

<p>かつて私は、「大陸の横には島があり、そこには一つの小さな文明がある」という仮説を立てたことがあります。アフリカ大陸の横にはマダガスカル、インド亜大陸の横にセイロン（現スリランカ）、オーストラリア大陸の横にはニュージーランド、北アメリカ大陸の横にはキューバ、そしてユーラシア大陸の横には日本がある。これらの島々はいずれも、大陸とは異なるリズムと時間意識をもって社会を形成しているように思われたのです。</p>

<p>私の研究室の学生をマダガスカルに送り出したこともある。やや無茶振りです。しかし、彼はマダガスカルを専門とする立派な研究者となり、現在は東京大学の副学長です。その意味では彼をマダガスカルに派遣した私の判断は間違っていなかったと思いたい（笑）。いずれにしても、外部からの影響を完全には遮断せず、しかし自らの内部秩序を損なわないかたちで異文化を吸収し、独自の世界を築く島嶼文明については今後、誰かが研究を行なうことを期待しています。</p>

<p>この島嶼文明を典型的に体現しているのが、日本ではないでしょうか。外来の制度や思想を柔軟に受けながらも、それらを日本的文脈に落とし込んでいった。とくに6～7世紀、白村江の戦いの後あたりから、中国を意識しながらも「日本文明」というものがはっきりと独自の単位になっていったと考えます。</p>

<p>こうした文明論はしばしば抽象的・理念的になりがちですが、今回、その姿をより具体的に捉えるために、山形県のある地域で営まれている「王祇祭（おうぎさい）」についてお話したい。これは単なる地域のイベント、あるいは民俗的な遺産ではなく、社会秩序と信仰の両面を兼ね備えた現在に「生きた文明」なのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>山形県黒川の「王祇祭」とは</h2>

<p>山形県鶴岡市郊外に、現在は行政単位として村でも町でもありませんが、「黒川」という地域があります。この黒川では旧正月として2月1日、2日に毎年、「王祇祭」と呼ばれる祭りが行なわれます。祭りのなかでは神事として能が奉納されます。その「黒川能」は国の重要無形民俗文化財にも指定されています（1976年指定）。</p>

<p>黒川は、じつは私が最初のフィールドワークを行なった地域です。初めて黒川の地を訪れたのは20代初めのころ。黒川は編集者である姉が雑誌『太陽』に黒川能についての記事を書き、黒川能が全国に知れ渡ることになるのですが、その姉に連れられて行ったのが始まりです。</p>

<p>王祇祭、そして黒川能の歴史は、じつに古い。室町時代に京の都で観阿弥と世阿弥によって大成された能が、応仁の乱（1467年～1477年）以降の文化の分散とともに地方に伝搬していきました。黒川に能が伝わったのは、その時期だと言われます。以後、500年もの年月にわたり、この地に伝統芸能が受け継がれてきました。</p>

<p>王祇祭はとても大がかりな祭りです。人数的に大がかりなのではなく、システムとしてとても綿密につくられている。黒川の人々は、生まれながらにして祭祀のサイクルのなかに位置づけられています。</p>

<p>例えば祭りに関しては、さまざまな役職がある。王祇祭において祭礼を主宰し、神（ご神体）を自宅に迎えて祀る家を「当屋（とうや）」と言います。当屋を務めるのは年齢（早く生まれた）順で、生まれたときから当屋になる順番は決まっている。翌年に当屋を受けるのは「受当屋（うけとうや）」で、祭りの責任を受け継ぐ準備をします。</p>

<p>地域は「上座（かみざ）」「下座（しもざ）」という2つの宮座（みやざ）（祭祀を担う氏子たちの組織）に分かれ、それぞれに祭祀の責任を負う宮太夫と、能の太夫がいます。太夫は宗教的中心であると同時に、政治、文化など地域社会全体の秩序を担う存在でもあります。</p>

<p>この地域では60歳あたりから老人組（長人衆）に入ります。これは宮座内で儀礼と秩序を守る長老層の集団です。王祇祭で能が舞われるとき、彼らはその舞台の巡り（周り）にずらりと並んで座る。これを「巡（めぐ）りの長人衆（おとなじゅう）」と言います。長生きをした者はみな、裃（かみしも）を着て、前に大きな提灯を置き、舞台の周りに座って祭りを見守る存在となるのです。</p>

<p>他にも、祭りの会計を担う役、料理を作る「世帯持（しょたいもち）」等々、それぞれの役割が数百年のあいだ途絶えることなく、代々引き継がれているのです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>小さな単位で祭りを継承し続ける</h2>

<p>王祇祭は、その手順も詳細に決められています。全てはとても書ききれないので、その一端をご紹介すると、祭りの最初のほうに「座狩（ざかり）」という儀式があります。上座、下座、それぞれの宮座の者が紋付と裃をつけて集まり、「遠藤重左衛門様、お着きなされましたか」「ようござります」という具合に、一人ひとり名前を読み上げる。こうした名（屋号）が記されている「座狩帳」は、300年ほど前のものまで残っているでしょうか。</p>

<p>祭りの中では「五番立て」の能が奉納されます。「番」とは一つの能の上演単位で、要は、5つの曲目の能が演じられる。さらに、その合間に4つの狂言が挟まります（黒川には、能だけでなく狂言を行なう家もあります）。夕方から翌朝まで、夜を徹して能と狂言が演じ続けられる。能大夫の家では代々の面（おもて）が保存されており、その数は百を超えるほどあります。</p>

<p>ちなみに、黒川の全家庭が芸能を実際に行なっているわけではありません。能に関して言えば、能太夫の家筋と、そこへ習いに行っている人、という具合に、能役者を出している家は地域全体の3割ほどでしょうか。祭りの中で若者だけが参加する儀式などもあり、それをきっかけに笛や太鼓、能を習いに行くようになることもあります。</p>

<p>祭りの最後には、「王祇様（ご神体）」についている布を、「布はぎ」の儀式によって剥がし、翌年の当屋である受当屋に渡される。受当屋はこれに家紋を染め、翌年に着用するための素襖をつくる――こういったことが連綿と続いているのです。</p>

<p>もちろん、日本では各地の祭りに古式豊かなさまざまな手順や儀式があるでしょうが、黒川は全戸合わせても300ほどしかない。それほど小さな地域に、大嘗祭かと思うほどの細かさで全てがあるのです。</p>

<p>日本は全国どこへ行っても祭りがあるという不思議な列島ですが、近代において、これほど小さな単位に祭りがある国は、海外を見渡してもないのではないでしょうか。日本のように、現在の県や市の中に昔からの歴史のある地域的なまとまりが幾つもあって、そこが祭りを長年保持しているということは非常に例外的で、驚嘆に値することでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>いま村が蒸発の危機に陥っている</h2>

<p>かつて私は、この黒川の営みについて修士論文を書きました。本編と資料編があるのですが、当時は20代前半で馬力もあったので、資料編には祭りの手順等を綿密に記した。この論文はよく研究室の図書室から借り出されるので、出来は悪くなかったと思われます。</p>

<p>私は団塊世代である昭和23年生まれで、黒川にも同世代の人間が7人ほどいて、親しくなりました。この黒川での調査以後、南洋方面での調査研究に移ったため黒川の調査はストップしていたのですが、彼らとの交流はずっと続いていました。</p>

<p>あるとき、民俗学者の赤坂憲雄氏から、彼が編集責任を務める雑誌『東北学』で「黒川について書いてほしい」と依頼されました。ですが当時、黒川の調査の際にもっともお世話になった家に不幸が続き、書けなかった。そのことを、「書けない理由」というタイトルでエッセイとして書きました（『東北学』vol.4、2001年5月）。外から来たフィールドワーカーであるにもかかわらず、この地域には骨絡みに入り込んで、ついには身内のように「書けなく」なってしまっていたのです。</p>

<p>その黒川の友人たちが、60歳頃から、村で徐々に偉くなっていく。そして、ついに私の親友の1人が、「受当屋」を経て「当屋」になるときがきたのです。私は「ついにきた！」と、お祝いに出かけました。</p>

<p>しかし、そこで大変な衝撃を受けました。村では子どもの声がほとんど聞こえない。聞けば、もっとも山よりの集落であるそこには小学生が5人しかいないという。</p>

<p>長らく祭りの担い手を輩出してきた集落がいま、静かに、しかし確実に「蒸発」しようとしているのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 01 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[船曳建夫（文化人類学者／東京大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>関東大震災、コロナ禍...日本人が「過去と向き合う姿勢を問われる」二冊【書評】  奈良岡聰智（京都大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/11662</link>
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			<description><![CDATA[京都大学教授の奈良岡聰智氏が、『中国・朝鮮人の関東大震災』（慶應義塾大学出版会）、『きしむ政治と科学』（中央公論新社）の二冊を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="歴史家の書棚" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_books.jpg" width="1200" /></p>

<p>関東大震災における朝鮮・中国人の悲劇を掘り起こした『中国・朝鮮人の関東大震災』（慶應義塾大学出版会）。そして、コロナ禍を振り返り、政治と科学のあるべき関係を模索した『きしむ政治と科学』（中央公論新社）。現代社会を生きる私たちにとって重要な指針となる二冊を、京都大学教授の奈良岡聰智氏が紹介する。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2024年1月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ボランティアと国際支援に焦点</h2>

<p><img alt="中国・朝鮮人の関東大震災" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2024/2024A/241217Naraokasouchi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>武藤秀太郎著『中国・朝鮮人の関東大震災』（慶應義塾大学出版会）</p>

<p>2023年は、関東大震災から100年目となる節目の年であった。震災が発生した9月1日は防災の日となっているが、今年は例年以上の盛り上がりを見せた。近い将来、首都直下型地震や東海・南海地震の襲来が確実視されるなかで、日本人の防災意識は高まっているようだ。</p>

<p>阪神・淡路大震災や東日本大震災に際して、ボランティアや国際支援の活動が活発化したことは記憶に新しい。本書は、このような現象が関東大震災においても見られたことを明らかにした労作である。</p>

<p>日中関係は対華二十一カ条要求以来悪化していたが、日本の赤十字社にあたる中国紅十字会が派遣されるなどした結果、好転した。中国側からは、被災した日本人に対する共助の精神が様々なかたちで発揮された。</p>

<p>東京都復興記念館が位置する横網町公園（墨田区）には、大震災の犠牲者を追悼する「幽冥鐘（ゆうめいしょう）」がある。この鐘は中国から寄贈されたもので、震災時の共助の精神を象徴している。その後、日中関係はふたたび悪化し、やがて日中戦争に至るが、著者は、関東大震災を契機とした日中の連帯は、「東日本大震災でうけた支援と同じく、今後も語り継ぐべきものである」と指摘している。</p>

<p>大震災後の混乱のなかで、多数の朝鮮・中国人が虐殺されたことはよく知られている。不況下で朝鮮・中国人と日本人の労働者のあいだで競合関係が激化していたこと、第一次世界大戦後、朝鮮人の独立運動が活発化していたことなどが背景となっていた。</p>

<p>本書はこれらを分析したうえで、平時から在日外国人との共生の意識を高める必要があると説く。東京都知事が朝鮮人犠牲者の追悼式典に追悼文を送らないなど、この問題は現在も波紋を呼んでいる。大震災は、日本が過去と向き合う姿勢を問われるテーマともなっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>コロナ禍の経験をどう活かすか</h2>

<p><img alt="きしむ政治と科学" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2024/2024A/241217Naraokasouchi02.jpg" width="1200" /></p>

<p>牧原出、坂上博著『きしむ政治と科学』（中央公論新社）</p>

<p>「コロナは遠くになりけり」。最近国内外から多くの旅行者が京都に殺到しているのを見ると、そう実感する。コロナ禍発生当初、約100年前の「スペイン風邪」の検証記録があまり残っていないことを知り、不思議に思ったものだが、いまとなっては納得がいく。感染症によるパンデミックが終わり、社会経済が平常に復すると、あえて苦しかった時期の経験を振り返るモチベーションが社会のなかで働きにくくなるのだ。</p>

<p>100年前はウイルスが未発見で、感染症拡大の原因も定かではなかったのだから致し方ないが、新たなパンデミックの到来も予測される今日、それでは困る。今後に備えるため、コロナ禍の経験を客観的に振り返る作業がぜひとも必要である。</p>

<p>本書は、今次のコロナ禍に対する政府の方針策定で中心的役割を果たした尾身茂氏へのインタビューをまとめたものである。インタビューは2021年4月～23年2月に、政治学者の牧原出氏らにより24時間以上にわたって行なわれた。安倍、菅、岸田三首相に対する印象、専門家会議内部の様子、今後の課題などが率直に語られており、たいへん価値の高い記録となっている。</p>

<p>尾身氏ら専門家たちは、将来「歴史の審判」を受けることを意識しながら活動していたという。コロナ禍発生当初、厚労省に設置されていた専門家会議では議事録が作成されず、批判を浴びたが、その後メンバー一同によって活動を振り返る文書が発表され、2020年7月に発足した「新型コロナウイルス感染症対策分科会」では、議事概要と速記録が作成されることになった。速記録は非公表だが、10年の保存期間が満了すると国立公文書館に移管され、公開されることになっている。</p>

<p>本書で示されているのは尾身氏個人の見方であり、異なる見方や反論もあり得る。コロナ禍は、政治、行政と医療・感染症の専門家の役割分担がいかにあるべきかという課題を日本に突き付けたが、政治家や厚労省の側からの発信は不十分である。今後の検証が待たれる。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_books.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 01 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈良岡聰智（京都大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「病院消滅」は地方だけの話ではない　国民全員が向き合うべき“医療のジレンマ”とは？【後編】  森まどか（医療ジャーナリスト）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13988</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013988</guid>
			<description><![CDATA[現在病院は、物価高騰、人材流出、医療需要の変化という課題を抱えている。構造的なジレンマを指摘し、持続可能な地域医療のために「点」ではなく「面」で支える体制への再編の必要性を説く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="医療のあり方を見直すべき時期がきている、と森まどか氏は説く" height="743" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_doctorG.jpg" width="1200" /></p>

<p>かつて「世界一」と評された日本の医療が危機に瀕している。円安や物価高騰が医療資材を直撃し、人材確保は難航、結果的に病床維持を難しくしているのが現状だ。診療報酬を引き上げれば国民負担が増え、下げれば医療機関の経営が苦しくなる。診療報酬という「公定価格」の制約下で、病院はいかにして生き残るべきか。医療ジャーナリストの森まどか氏が、我々国民が向き合うべき「医療のジレンマ」の正体に迫る。</p>

<p>※本稿は『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものの後編です。記載されている情報は執筆当時(2025年12月）の状況に基づいています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>病院経営を圧迫する3つの共通課題</h2>

<p>2025年のはじめごろ、病院の相次ぐ廃院が報じられた。なかでも東京の人気エリア・吉祥寺では、過去10年間で駅周辺の4つの病院が病床廃止や診療休止を余儀なくされ、全国的な注目を集めることとなった。吉祥寺の病院にかぎらず、全国の医療機関が経営的な問題を抱えているのが現状だ。<br />
取材を重ねるなかで、いくつかの共通課題が明らかになっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【1】物価高騰と円安によるコスト上昇</h2>

<p>第一に、物価高騰と円安の影響である。医療現場では日々、ガーゼ、包帯、注射器、手袋、マスクなどの消耗品が大量に使用されている。これらの資材の仕入れ価格が上昇しているだけでなく、心臓カテーテル治療で用いられるカテーテルや、ロボット支援手術で使用される鉗子、チューブ、カニューレといった器具はもともと高コストであり、多くが海外メーカー製であるため円安による値上げが続いている。医療材料や医薬品の費用が前年度より3億円増加した大学病院もある。</p>

<p>医療機器やシステムには保守点検や更新費用も必要だ。電子カルテシステムの更新に年間7億円の見積もりが出されたという話もある。</p>

<p>さらに、24時間病院を稼働させるための水道光熱費の値上げも大きな負担となっている。厚生労働省が2023年に公表した「医療経済実態調査」によれば、一般病院（703施設）の一施設当たりの水道光熱費は2022年度に7780万円となり、前年度比で32.2％増加していた。</p>

<p>2024年度診療報酬改定では一定の措置が講じられたものの、2025年11月に公表された最新の調査結果では、光熱費は前年度比3〜8％程度の増加にとどまったものの、持続的な上昇が確認され、改定措置を上回る負担が続いていると考えられる。</p>

<p>一般企業であれば、生産コストが増加した場合には商品の値上げを検討できる。しかし医療機関の診療行為は、国が定めた診療報酬によって対価が支払われる公定価格であるため、このような費用の高騰は次回の改定で補填されないかぎり、経営を圧迫し続けることになる。コスト管理の徹底は一層重要性を増している。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【2】人材確保と賃上げの限界</h2>

<p>第二に、人材確保と賃上げの問題である。地域医療を担う病院の幹部は「人を辞めさせないことと、人材を確保し続けることが経営安定の条件だ」と語る。たとえば、新人看護師を100人採用しても、年間で合計70人の看護師が退職してしまうという。キャリアの浅い看護師が残り、ベテラン看護師が辞めてしまうことは、医療安全上のリスクを高める要因となる。まずは離職を防ぐことが重要だと指摘する。</p>

<p>また、人材が集まるところにさらに人材が集まるため、看護師の配置に余裕がない病院は採用にも苦労する傾向があるとも述べている。看護師が十分に確保できなければ病床を維持できず、収入の減少に直結する。さらに、救急や緊急入院の受け入れにも影響が及ぶ可能性がある。</p>

<p>人手不足で一人当たりの業務量が増えれば、残業が増え、休暇がとりにくくなり、業務負担感が積み重なって離職につながるという負のスパイラルが生じる。したがって、経費倒れにならない程度ではあるが、人を抱えておく必要があるという。</p>

<p>しかし、働く環境を整える努力をしても、より良い賃金や労働環境を求めて転職するケースは少なくない。診療報酬の範囲内で実施できる賃上げには限界がある。</p>

<p>人材確保に際しては、人材紹介会社を経由する場合の高額な手数料が大きな負担となっている問題もある。また、公立病院では人事院勧告を踏まえて給与が検討されるため、人件費の増加が経営の厳しさを一層強めている病院も少なくない。</p>

<p>さらに、へき地の公立病院では遠方から通う非常勤医師に依存することが多く、飛行機代などの交通費が高額になるうえ、日勤や当直の報酬も一般より高く設定されるため、人件費の負担が経営に大きな影響を及ぼしている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【3】人口減少と高齢化に伴う医療需要の変化</h2>

<p>第三に、人口減少と高齢化に伴う医療需要の変化に、いかに対応するかという課題である。かつては「病床の数＝病院の力」という価値観が根強く、病床を保有し、さらに増やすことが経営上の大きなメリットとされていた。また、「急性期医療こそが病院の使命だ」と考える医師も少なくなかった。</p>

<p>急性期病院の役割は、重症度や緊張度が高く症状が安定しない患者に対して集中的な医療を提供し、症状を安定へ導くことである。</p>

<p>しかし現在、高齢者は総人口の29.4％を占め、医療需要が大幅に高まる75歳以上は17.2％に達している（2025年9月15日現在、総務省統計局）。その結果、急性期を脱したあとの回復に時間を要し、退院できない患者が増加している。こうした状況のもと、退院後に自宅でできる限り自立した生活を送れるよう回復を支援する病院や、症状は安定していても医療依存度が高い患者に対して長期的な医療管理を担う病院の必要性が、これまで以上に高まっている。</p>

<p>人口減少に伴い病床を減らし、医療需要の変化に応じて病院の機能転換を促す国の方針は、理にかなっているといえる。今後は、地域に必要な医療需要を見通し、柔軟に変化できる&quot;変われる病院&quot;こそが、持続可能な病院と考えられる。</p>

<p>地域の医療の質を維持するためには、個々の病院の医療を「点」で捉えるのではなく、地域全体を「面」で捉える視点が重要である。機能と役割を明確にし、病院同士の連携、病院と診療所の連携を強化し、患者の状態に応じてそれぞれの医療が役割を発揮することがこれまで以上に期待される。</p>

<p>病院は診療科の縮小や再編・統合も必要となり、地域医療の最適化をどう実現していくかの旗振り役の手腕が問われる。一方、住民にとっては不便や不安が生じることもあるだろうが、それらを受け入れることが医療を長期的に守ることにつながるという理解を持ち、受け入れる姿勢が求められる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>国民全体で共有すべき医療費のジレンマ</h2>

<p>くり返しになるが、病院や診療所などの医療機関は、かつてないほど厳しい経営環境に直面している。物価高騰や賃金上昇といった、医療機関の努力だけでは解決できない課題には、上昇分に見合う診療報酬の引き上げや補助金による支援が必要と考えられる。診療報酬は2年に一度しか改定されないため、賃上げや物価変動を完全に予測して織り込むことは難しく、その間に発生するコスト増が経営を圧迫している。</p>

<p>こうした状況から、急な物価変動に対応できる仕組みの必要性も指摘されている。しかし、主な収入源である診療報酬の上昇率が抑制され続けているのは、報酬を引き上げれば国民の医療費負担が増え、国民医療費全体の増加を通じて社会保険料の上昇につながるためである。</p>

<p>日本の国民医療費は、高齢化や長寿化の進展、高額な医療の普及によって増加の一途をたどり、50兆円に達しようとしている。診療報酬を1％引き上げれば、単純計算で年間医療費は約5000億円増加すると見込まれる。診療報酬を抑制すれば医療機関の経営が苦しくなり、引き上げれば国民負担が増える...このジレンマにどう向き合うかは、国だけでなく国民全体が共有すべき課題である。</p>

<p>1955年、日本医師会会長であった武見太郎氏は「老人の増加にどう対処するか」（昭和30年3月号『中央公論』）という論文を寄稿し、将来的に高齢化が日本の社会保障制度に及ぼす影響への懸念をすでに示していた。</p>

<p>高齢化は予測可能であったにもかかわらず、1973年から約10年間続いた老人医療費無料化を含む日本の医療政策が、真に将来を見通したものであったかどうかには疑問が残る。医療は安価かつ自由に受けられるものという&quot;受診文化&quot;を形成してしまったことが、その後も続く医療費増加の一因となったことは否めない。</p>

<p>WHO（世界保健機関）が「日本の医療は世界一」と評価したのは2000年である。国民皆保険制度によって、低価格で質の高い医療に自由にアクセスできる点が高く評価された。</p>

<p>その前後10年ほどの国内の医療環境を振り返ると、診療科の細分化が進み、高度な医療機器が積極的に導入された。また、医療はサービス業であるという考えのもと、&quot;患者様&quot;への接遇やアメニティの充実が図られ、ホテルのような病院も登場した。テレビでは「スーパードクター」が人気を集め、「病院ランキング」や「名医ランキング」が出版されれば注目を集める時代でもあった。こうした流れのなかで、医療やサービスに対する期待が膨らみ、結果として本来の必要を超えた過剰ともいえる医療が一般化した側面もあったのではないか。</p>

<p>病院経営を含む日本の医療の質を安定的に維持するためには、医療財政の現状を理解し、医療機関の置かれた立場を踏まえたうえで、患者、家族、医療従事者、医療機関経営層、行政機関など&quot;誰もが&quot;適切な医療のあり方を見直し、人口減少に応じた地域医療の再編成を後押ししていくことが重要である。その先に、持続可能で豊かな地域医療の姿が拓かれていくことを願いたい。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 31 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[森まどか（医療ジャーナリスト）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本社会は「高学歴の人にしかチャンスを与えない」　学歴主義の世知辛さ  勅使川原真衣（組織開発専門家）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14048</link>
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			<description><![CDATA[なぜ日本はここまで学歴社会であり続けているのか? 組織開発専門家の勅使川原真衣氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="勅使川原真衣　『学歴社会は誰のため』" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_ochikomu.jpg" width="1200" /></p>

<p>学歴不要論が盛んに議論される一方で、学歴社会が根強く残るのはなぜでしょうか。それは一体、誰のために存在するのでしょうか。教育社会学を修め、企業の論理も熟知する組織開発の専門家による書籍『学歴社会は誰のため』より解説します。</p>

<p>※本稿は、勅使川原真衣著『学歴社会は誰のため』（PHP新書）から一部を抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>学歴社会では頑張りたいときに頑張れない</h2>

<p>多くの人の人生は、学校（教育）から仕事へと連綿とつながっていくわけですが、学校の本当のすごみは、「進路」を決定づける力をもっていることです。勉強の出来がとびきりよければ、入るのが難しいとされる難関校をめざすものです。それが仮に高校だとしたら、その後も学びの遍歴を積み重ね、そして次なる学校段階である大学の入学試験にチャレンジすることでしょう。</p>

<p>他方で中学でグレて勉強に身が入らず、昼夜逆転した生活をして出席日数も足りず、読み書きもやっと......ではいわゆる名門難関高校には進学できません。となるといまの社会において中卒で、正社員としていきなり働ける口は狭いものですから、何らかの非正規雇用の形で働きに出るか、入試倍率の低い高校に進む人もいるでしょう。</p>

<p>さて、そうした足跡に対して、こう思う人もいるかもしれません。</p>

<p>「頑張ってこなかったんだから仕方ないんじゃない?」</p>

<p>と。しかし、このことの本当のエグさは、次のような問いから深掘り可能です。</p>

<p>「じゃあ、頑張ろうと思ったときに社会は頑張らせてくれるのか?」</p>

<p>皆さんはどう考えますか。つまり、何らかの事情で学童期に勉強がままならず、能力が低いと見なされた子が、「もう勉強はこりごりだ! 高校も大学も行かない!」といきりたって15歳で社会に出たとします。ただ、人も環境も絶えず変化していますから、何かのきっかけで、「財務省に入って日本の経済をよくするんだ!」と思い立つ可能性もあります。</p>

<p>しかし、学歴主義のある種の世知辛さは、こういった人生の「路線変更」「ギアチェンジ」に際して露呈します。つまり、野望を表明したところで現実世界は、その言葉を額面どおりに受け取るほど人の能力を信用しかねるのですね。</p>

<p>「本当に頑張れる人なら、もっと努力と実績を積み上げてきているけど?」と言い放つ威力を学歴主義は内包しているわけです。仕事の難易度に加えて、多くの人がその仕事をしてみたいと願うのなら、当然そこには選抜が行なわれます。</p>

<p>となると、周り（社会）はある程度の努力の痕跡や実力の証明がないと、大勢の中から「なぜあなたがこの仕事をするのか?」の説明がつかず、認めるわけにはいかないのです。</p>

<p>そうして学校から仕事へと「順当に」進路が水路づけられるよう、過去の積み重ねと現在の実力が学校教育というライフステージで絶えず問われ、鍛えられます。</p>

<p>そうやって、厳しくも正当性をもって仕事が振り分けられていく――これぞ日本の教育システムであり、それと接続する就職システムの基本形と言えます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>努力と実力の度合いを測るための学歴</h2>

<p>学歴社会が最高、最善の社会システムかどうかはわかりません。いつの時代も何であれ、ああだこうだと欠陥を指摘されるものですが、かといって、次の素朴な気持ちに反論できる人はいるでしょうか。</p>

<p>「お金をもらってやる仕事（プロフェッショナル）をするうえで、努力し続けられる人でかつ、仕事を全うするうえで必要水準以上の能力はもっていてほしいんですが......」と。</p>

<p>たとえば「やる気はあるけど勉強したことはありません♪」なんて医者がいたら、患者からしたら絶対に嫌でしょう。弁護士もしかり、他のもろもろの職業もしかりだし、政治家だってちゃんと実績といまの手腕を見極めたいですよね。</p>

<p>だって、その仕事の先にいる顧客・サービスの受け手としては我が身に降りかかってくる話なわけです。つまり、能力主義の問題は誰にとっても自分事で、その利害というのは互いに絡み合っているのです。</p>

<p>利害が交錯すると何が起きるか。1つには、相互に監視（評価）し合うことを許してしまうと考えます。</p>

<p>「ちゃんとできるんでしょうね? やってるんでしょうね? 頼みますよもう」</p>

<p>という具合に、誰かの仕事は誰かに絶えず見張られている。この緊張状態のなか、なんとか成り立っているのが近現代の能力主義であり、それを代表的なクレデンシャル（認定証）にした貨幣経済であり、労働社会と言えます。</p>

<p>そう考えると、「努力と実力の度合いを推し測るにあたって、過去の学びの道程と、達成度合いがわかる学歴が参考にならないわけがないよね?」というくらいの話だと思えてこないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>人生を左右するなら必死になりますよね?</h2>

<p>試験を行ない、選抜や評価を続ける近現代の学校システムが能力の証明機関となり、能力主義をバックアップする。と同時に、学校には序列ができています。難関校、中堅校、実質的には試験なしで誰でも入れる学校......などと枝分かれし、人びとは「能力」次第で、どの程度の学校をめざすのかを決め、試験の結果で水路づけられていきます。ここまでは序の口。</p>

<p>能力主義が学校教育の前提であることが仮に教育だけの話であれば、人生の一時期の話なので、どこかで終焉を迎えていてもおかしくありません。ただ能力主義が不朽の社会システムであるのは、学校での教育歴が、「稼ぎ」を左右する職業選択にもそのまま多分に影響しているからです。</p>

<p>「あの学校に入れてうまくやれたのなら、きっと難しい仕事もこなせるよね」という学歴（学校歴を含む）の職業分配機能を立派に成り立たせたわけです。職業における「訓練可能性」としての学歴。「誰ができそうか?」のシグナルとしての学歴。</p>

<p>これは社会が学歴を、効率的かつ説得的に社会生活のあらゆる原資を分け合うための重要ロジックだと、合意している状態と言えます。</p>

<p>こうも人生を左右する話が、人びとの話題から消え去るわけがありません。学歴があぁだこうだとしばしば批判されながらも、格好の会話のネタ、酒の肴であり続けるのは、こうした背景からなのです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_ochikomu.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[勅使川原真衣（組織開発専門家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「力の支配」に傾く強国の時代...多秩序世界で求められる戦略外交  墓田桂（成蹊大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/14047</link>
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			<description><![CDATA[混乱に見舞われ、 「世界秩序の断絶」が語られるいま、 日本は何をなすべきか。米中両国を見据え、 「自由で開かれた国際秩序」を世界に拡げることが、 高市政権下における日本外交の進む道となるだろう。墓田桂・成蹊大学教授が高市外交の針路を読み解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="国際秩序" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_earth_1.jpg" width="1200" /></p>

<p>混乱に見舞われ、 「世界秩序の断絶」が語られるいま、 日本は何をなすべきか。米中両国を見据え、 「自由で開かれた国際秩序」を世界に拡げることが、 高市政権下における日本外交の進む道となるだろう。墓田桂・成蹊大学教授が高市外交の針路を読み解く。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年4月号より、内容を編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ドンロー主義」の衝撃</h2>

<p>2026年初頭、わずか数週間のうちに歴史の歩みが大きく進んだ。</p>

<p>ドナルド・トランプ大統領の指示のもと、アメリカはベネズエラに侵攻し、ニコラス・マドゥーロ大統領を拘束した。電光石火の作戦である。米合同部隊によって拘束されたマドゥーロ氏は、ニューヨークで裁判を受けることになった。</p>

<p>ベネズエラへの軍事介入は、別の独裁政権にも影響を及ぼした。中東のイランでは、アリ・ハメネイ体制を打倒する民衆の動きが勢いを増した。同国の各所で大規模なデモが発生したが、体制側の弾圧も激しい。アメリカは空母打撃群を派遣するなどして、イランを牽制し続けている。</p>

<p>この2カ国をめぐる展開には既視感があるが、重大な問題は、トランプ大統領がグリーンランドの占有に並々ならぬ意欲を示したことだ。</p>

<p>北極圏にあるグリーンランドが地政学的な要衝だとしても、デンマークの一部をなす自治領に対する渇望は尋常ではない。北大西洋条約機構（NATO）の加盟国を揺さぶって、トランプ政権は「合意枠組み」を取り付けた。「アメリカ51番目の州」と蔑んだカナダとの関係ばかりか、北大西洋に深い亀裂が生まれた。</p>

<p>一連の出来事に先立ち、2025年12月、トランプ政権は「国家安全保障戦略」を発表していた。戦略文書は西半球での権益を確保し、アメリカに挑戦する勢力を排除することをめざす内容だ。トランプ流にモンロー主義を解釈した「ドンロー主義」が投影されている。</p>

<p>戦略文書が実施に移された格好だが、政権の威嚇的な手法とあいまって、アメリカの対外姿勢は世界の不安定要因となった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>断絶した世界秩序</h2>

<p>世界の地殻変動は誰の目にも明らかだろう。カナダのマーク・カーニー首相は、2026年1月のダボス会議で「世界秩序の断絶」と描写した。「原則と現実――カナダの進む道」と題した演説で、カーニー氏は「ルールに基づく国際秩序」への幻想を一蹴した。そこにはトランプ時代への危機感と、変わりゆく世界に向き合う覚悟が見て取れる。</p>

<p>同月末には、イギリスのキア・スターマー首相が英首相としては8年ぶりに訪中し、習近平国家主席と関係強化を確認した。米欧不和をよそに、西側首脳の対中接近が際立つ。</p>

<p>比較の原理で中国は大人しく見えるのかもしれないが、独裁体制と覇権主義が和らいだわけではない。習主席は軍幹部を次々と失脚させ、権力をさらに集中させた。中国はロシアとともに日本周辺で示威行為を行ないつつ、尖閣諸島をはじめ南西方面での挑発を繰り返す。わが国に対する経済的威圧も止まない。</p>

<p>世界秩序を支えることに、アメリカはもはや関心をもたない。新たに発表された「国家防衛戦略」は中国を力で抑え込む方針を示したが、西半球を優先するトランプ政権が中国との宥和に傾き、地域覇権を認め合う可能性も完全に排除しきれない。だとすれば、「トランプ・ライン」はどこで引かれるのか。</p>

<p>戦狼の中国と貪狼のアメリカに挟まれた日本は、難しい局面にある。身勝手に振る舞う大国間で振り回される運命なのか。総選挙では高市早苗政権が国民から強い信任を得た。時代が要請したのだろう。その外交手腕がすぐにも試される。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>顕在化した国際秩序群</h2>

<p>中国、ロシア、そしてアメリカの行動は、それぞれに異なるかたちで世界を混乱させている。「秩序なき世界」に見えても仕方ない。</p>

<p>ただ、完全な無秩序に陥ったわけではない。挑戦を受けているとはいえ、国際法秩序も残っている。日本をはじめ数々の主権国家が存立しているのは、秩序が残存していることの証左である。雑然とした様相の根底にあるのは、むしろ多秩序（multi-order）と言える実相だろう。</p>

<p>アメリカ優位の世界秩序が徐々に相対化されていった一方で、さまざまな国際秩序群（international orders）が顕在化した。多秩序の現象は、その新しさを強調した先行議論に反して、従来から存在していた。世界の構造変化が秩序の群像を浮かび上がらせたのである。</p>

<p>今世紀初頭から世界の多極化、あるいは分極化は少しずつ進行していた。アメリカがアフガニスタンとイラクで泥沼に陥る一方で、ロシアと中国はさまざまに現状変更を図ってきた。一帯一路政策や、海洋と陸地での膨張は、中国の企ての一環である。大国以外の国々もそれぞれに伸長した。世界秩序は然るべく変容する。</p>

<p>「グローバルサウス」と呼ばれる新興・途上国がもたらした影響はとくに大きい。ゲームを変えたのである。画一的ではなく、一枚岩でもない存在だが、これらの国々のなかで一定の制度化が進んできた。</p>

<p>2025年に10カ国の体制となった拡大BRICSはその一つだが、ここでも新たな秩序が生まれている。BRICSのほかにも、ユーラシアでの上海協力機構や国際連合での「Ｇ77プラス中国」など、いくつもの制度が存在する。それに伴う秩序群が「南」の世界で形成されていることは無視できない。</p>

<p>わが国も多秩序の趨勢と無縁ではない。日米豪印（QUAD）の協力や、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定（CPTPP）は重層的な秩序を創り出した。</p>

<p>種々の秩序が生まれ、それに付随するガバナンス群も現れている。水平的な国家間関係に照らし合わせれば、「統治」というよりは「協治」の空間である。国際秩序群と同様、ガバナンス群は、単数形では語り得ない世界の一端にほかならない。</p>

<p>世界を統べる国は、どこにもない。アメリカも中国も世界秩序を制するには及ばない。</p>

<p>しかしその一方で、主導国や参加国の異なる国際秩序群がまだら模様に散在している。国際連合や地域の枠組みも、主権国家体制という基幹秩序と連動しながら、さらなる秩序を生んできた。これらを含めた国際秩序群は世界に遍在し、時に大小さまざまな非国家主体を巻き込みながら、重なり合って展開している。その強度、規模、性質は、同じではない。</p>

<p>中世的な多秩序の世界が露わになっている。対応は複雑になるが、日本にとって好機と言えるのは、その世界では中国でさえも相対化される点だろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「自由で開かれた国際秩序」</h2>

<p>激変する世界にあって、日本はいかなる国際秩序観を示し、世界に自身の立場を伝えているのだろうか。年頭の所感で高市首相は、「世界を見渡せば、我々が慣れ親しんできた自由で開かれた国際秩序は揺らぎ、覇権主義的な動きが強まるとともに、政治・経済の不確実性が高まっています」と述べている。</p>

<p>2025年11月、Ｇ20ヨハネスブルグ・サミットへの出席に際し、高市氏が南アフリカの地元紙に寄せた文章は示唆に富む。「我々の慣れ親しんだ国際秩序」に対する挑戦に触れたうえで、「我が国は『自由で開かれたインド太平洋』というビジョンに則り、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化を目指してい」るとしつつ、アフリカとともに「責任あるグローバル・ガバナンスの構築を目指したい」と記した。</p>

<p>2016年8月に安倍晋三首相が提唱した「自由で開かれたインド太平洋（FOIP）」は、日本外交の柱となってきた。これに加え、「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」という理念が、高市首相によってあらためて示されたのである。</p>

<p>『Voice』2024年3月号でも論じたように、「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」は外交メッセージとして岸田文雄政権によって定式化され、2023年5月に開かれたＧ7広島サミットの際の標語となった。</p>

<p>しかし、元をたどれば、2017年に安倍政権下で「自由で開かれた国際秩序」が使われ始め、菅義偉政権に引き継がれた経緯がある。石破茂首相も「責任あるグローバル・ガバナンスの再構築」とともに、「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」に言及していた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>法の支配、そしてグローバル・ガバナンス</h2>

<p>日本が唱える「法の支配」は「国家間の法の支配（the rule of law among nations）」を指している。「国際的な法の支配（the international rule of law）」とも言い換えられる。「自由で開かれた国際秩序」は「国家間での法の支配」を重視する理念で、力による現状変更を拒絶するものだ。日本は一貫した姿勢で国家間関係における国際法の原則を強調してきた。</p>

<p>「グローバル・ガバナンスの再構築」は石破政権時に政策課題として明示され、高市政権も引き継いだ。次なる外交課題と位置付けられているのだろう。実際のところ、グローバル・ガバナンスは戦略空間として重要性を帯びている。</p>

<p>2025年9月、習主席は中国の天津で開かれた上海協力機構の首脳会議で「グローバル・ガバナンス・イニシアティブ」を掲げた。野心的な提言である。</p>

<p>翻ってアメリカは旧来の制度に背を向ける。2026年1月には、政治的志向や非効率を理由として、国連関連のものを含む60余りの国際的な制度やプログラムから撤退することが発表された。世界保健機関（WHO）からの脱退も完了した。その一方で、パレスチナ・ガザ地区の復興を目的とした「平和協議会」を独自に立ち上げた。「トランプ国連」と揶揄する向きもあるが、平行する多国間制度という点では従来の中国の手法に近い。</p>

<p>日本がどのようにグローバル・ガバナンスの構築を図るのかは明らかにされていないが、地球規模の課題はもとより、中国の野心とアメリカの変心という双子の課題に向き合うことになるだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>新たな時代の秩序戦略</h2>

<p>わが国はFOIPと「自由で開かれた国際秩序」という二層のナラティブを唱えてきた。FOIPは政策として具体化されてきたが、高市首相は時代に合わせてFOIPを進化させる意向を明らかにしている。</p>

<p>2026年はFOIPが提唱されてから10年目にあたる年である。広域の秩序を描くこの構想は、中国との勢力均衡に寄与するものとなった。一貫したメッセージングに加え、質の高いインフラや連結性の向上など、日本が主導した取り組みが功を奏した。</p>

<p>ただ、世界情勢は新たな局面に移っている。「世界秩序の断絶」が語られるなか、FOIPの進化は、中国・ロシア・北朝鮮の脅威のみならず、グローバルサウスの台頭、トランプ政権の威嚇外交、そして米欧対立という、複雑な要素を考慮しなければならない。</p>

<p>順当に考えれば、自律性を重んじる新興・途上国に働きかけ、価値と利益を共有するNATO諸国と連携する方向で進むだろう。安倍氏が唱えた「二つの海の交わり」を念頭に、北極圏も視野に入れ、インド太平洋に大西洋を加えた「三つの海の交わり」が語られよう。高市首相が重視する政策も基軸となるはずだ。</p>

<p>日本外交の大きな指針も求められる。それは中国との秩序戦ばかりか、「ドンロー主義」の余波を意識しながら、FOIPの経験を元にして、戦略外交を発展させることにほかならない。インド太平洋地域で主導的な立場につくにも、より広い外層での展開が鍵となろう。地球儀を俯瞰する姿勢が肝要だ。</p>

<p>その観点から、「自由で開かれた国際秩序」を起点に「世界イニシアティブ」を提唱するのも一案だろう。</p>

<p>本来であれば、日本も「グローバル」を看板にするべきだろうが、中国との差別化を考えなければならない。習近平政権は戦略的ナラティブとして、「人類運命共同体」に加え、「グローバル・ガバナンス・イニシアティブ」を含めた「四大グローバル・イニシアティブ（全球倡議）」を提唱してきた。「世界」なら違いを見せられよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>多元的な秩序群の形成</h2>

<p>壮大な「世界イニシアティブ」が日本外交に相応しくないとしても、「世界秩序の再生」くらいは首相演説で述べても良いだろう。いずれの場合も、「自由で開かれた国際秩序」を世界に拡げることが針路となる。</p>

<p>メッセージングに際しては、国際秩序群を擁する「多秩序世界」という考えがプラスに働く。「多秩序」は中国を相対化する解釈も可能である。細分化された世界秩序を日本の秩序構想が統合できるとは考えづらい。ならば選ばれうる理念として提唱し、多種多様な連合を通じて、緩やかな秩序群を多元的に形成していくのが良い。ただし、「多秩序」の言葉は表に出さないのが得策だ。</p>

<p>今後の戦略外交ではミドルパワー（中堅国）が鍵となると考えられるが、「アッパーミドル」から「ローワーミドル」まで広く捉え、連携相手とするのが妥当だろう。日米豪印の一角をなすインドや、パラグアイなどの台湾承認国の存在も、日本として忘れてはならない。世界に散在する途上国の役割も重要になる。</p>

<p>ただ、「非米」と「反米」が入り混じり、中国に接近するカナダの姿勢とは一線を画す必要がある。不在になるとしても、アメリカの関与を粘り強く求めていくしかない。カーニー演説には遅れをとった日本だが、より高い次元で対話を進めていくべきだ。「国際社会を分断と対立ではなく協調に導く」という修辞もふたたび活きてくるだろう。</p>

<p>地域ごとの働きかけも欠かせない。日本の地域外交は信頼を勝ち得てきた。自由と開放性の旗印を示しつつ、最大限に資産を活かす場面となろう。日本と中央アジア5カ国は「自由で開かれた中央アジア」を謳ったことがある。グローバルサウスとの関連では南大西洋地域も見落とせない。「自由で開かれた南大西洋」の提唱は日本外交の地平を拡げるに違いない。</p>

<p>もっとも、外交資源には限りがあるから、対象地域には濃淡をつけて、効果的な手法を追求するしかない。インドの「グローバルサウスの声サミット」のように、オンラインの活用も選択肢である。</p>

<p>「自由で開かれた国際秩序」とともに、FOIPを高く掲げることも重要だ。切れ味の良いFOIPには中国を牽制する含意がある。トランプ政権との精神的紐帯としてもFOIPが役立つ。多層的なメッセージングは時代に合致しよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>法の支配を支える力</h2>

<p>力を背景とした「ドンロー秩序」は、東半球の覇権主義を勢いづかせ、勢力圏ごとの世界分割を促すのだろうか。</p>

<p>トランプ大統領がグリーンランド領有に躍起になったことは、ロシアに領土拡張を正当化する好条件を与えている。セルゲイ・ラブロフ外相は「グリーンランドがアメリカにとって重要であるのと同様に、クリミアはロシアの安全保障にとって重要である」と言ってのけた。</p>

<p>国際法の原則が危うくなっているのは事実である。しかし、それは法が無意味であることを意味しない。国際法秩序は弱い国にこそ裨益する。日本が追求すべきは法の支配であることに変わりない。</p>

<p>安倍政権の時代から、日本は法の支配を訴え続けてきた。領土一体性の原則があってこそ、日本の領土は守られる。だが、法の支配が中露の覇権主義への抵抗の印だとしても、完全に実現するのは難しい。平和主義に覆われる日本では、法を支える力についての真剣な議論は避けられてきた。国際法や関連する制度への夢想的な信奉もあっただろう。</p>

<p>国力こそが自国の平和を支える。日本は敵意をもつ三つの核保有国に囲まれている。なかでも中国は難題であり続けるだろう。19世紀的な状況に遭遇する日本にとって、抑止と防衛のための軍事力の増強は避けて通れない。当然ながら、核抑止の議論も求められる。同盟国の力を誘導すべく、日本と台湾の防衛こそが国益に繋がるとアメリカに訴求することも重要だ。</p>

<p>ウクライナ戦争以降に語られた「時代の転換点」は、トランプ第2期政権が決定的にした。好むと好まざるとにかかわらず、世界は変わりゆく。</p>

<p>高市政権は地殻変動を奇貨と捉え、能動的に行動するしかない。多秩序世界のなかで埋もれることなく、日本はみずからの安全と国益を守るための旗艦的な外交施策を構想する必要がある。混乱に戸惑う余裕はない。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[墓田桂（成蹊大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】人間の身体の「解釈」はどこまで変わっていくのか（ディスカッション・１）  22世紀の人間像研究会</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13751</link>
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			<description><![CDATA[人間はついに、自分の身体を「選び直す」段階に入りました。理想の身体とは何か、その基準はどこにあるのかを考議論していきます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260216isonomaho3.jpg" width="1200" /></p>

<p>松下幸之助は終戦直後にPHP研究所を創設して以来、人間とは何かについて思索を重ね、その集大成ともいえる『人間を考える』（昭和47年〈1972年〉発刊）において、「人間には万物の王者たる優れた本質が与えられている」とする肯定的な人間観を提唱しました。</p>

<p>それから半世紀を経て、戦争や環境破壊、AIの進化など人類は新たな岐路に立っています。「22世紀の人間像研究会」では、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していきます。</p>

<p>本稿は文化人類学者の磯野真穂さんによる「文化人類学における身体性の解釈の変容」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによるディスカッションです。全3回でお届けします。</p>

<p>人間はついに、自分の身体を「選び直す」段階に入りました。今回は、理想の身体とは何か、その基準はどこにあるのかを議論していきます。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>資本力ある人の身体が理想の身体になっていく</h2>

<p>【中嶋】磯野さんが紹介された「遺伝子最適化で賢い子どもをつくる」という、ウォールストリートジャーナルの記事がありましたが、それで思い出したことがあります。これもニュースで見たのですが、韓国で身長を伸ばす薬を子供に注射したり、背が伸びる体操をするジムに通わせたりする親が増えているそうです。いずれもかなり高額ですが、将来の成功のための投資ととらえているんですね。そのせいかどうかはわかりませんが、実際に韓国人の平均身長は男性も女性も日本人の平均よりも高くなっています。</p>

<p>【磯野】それは親として「身長を伸ばしてあげなきゃかわいそう」という感覚だと思います。それは日本では「毛深いといじめられてかわいそうだから脱毛のお金をだしてあげよう」というのと同じですね。外見や体の特徴で人を差別したりしてはいけない、という方向ではなくて、「差別されない身体にしよう」という方向にいくと、資本力のある人の身体が理想の身体になっていくんですよ。　</p>

<p>【為末】人体改造とか遺伝子の話ですね。アスリートの世界だと、黒人選手のパフォーマンスが高いのは自明で、腸腰筋のサイズ、骨格、脊髄神経など、さまざまな比較調査が行われていますが、脳だけはさわれないんです。人種間で脳がどう違うのか、ということはタブーになっている。脳も筋肉や骨格と同様にパフォーマンスに影響を与えているはずなのですが、政治的にさわってはいけない領域になっている。いわゆるIQとか数学能力などの人種間の知能の差は「社会的環境の差」という説明が一般的です。</p>

<p>【磯野】調査する際に人種を特定するのがまず難しいですよね。「黒人」といってもどこまでを含めるのか。</p>

<p>【為末】遺伝学的には明確な区切りはないそうですが、そうすると逆にアファーマティブ・アクションのような社会的な是正措置が意味をなさなくなりますね。人種というものがあるという建前でやっているので。アメリカなどで調査するときは自己申告でやっていることが多いようです。</p>

<p>【磯野】人類学は、植民地主義の過程で政治的な解釈を生物学的事実として扱い、それが重大な差別や暴力を生んだという歴史があって、その反省から社会構築主義的な立場が強くなっています。ただそれが行き過ぎると、例えば男女の差異は100％社会的に構築されているという主張も生まれてしまう。それも踏まえたうえで、今後、「人種」間に脳の違いがあるとわかったとき、これをどう扱うかというのは一つの議論として出てくるかもしれません。</p>

<p>【為末】知性をどのように定義するかという問題もありますよね。たとえば、「知性とは共感力のことだ」となったらどうなるのか。「人とうまくやる」とか、「役割を認識する」ようなことを正確に測定する基準や方法がいまのところは存在しないですよね。</p>

<p>学力測定にも何か見落としのようなものがあるんじゃないかと思います。教育経済学をやっている人にきいたのですが、スポーツと生涯年収は正の相関があるらしいのですが、スポーツと学力はそうでもないらしい。だとすると学力の測定方法の中には含まれていない何かが生涯年収を上げている可能性がありますよね。</p>

<p>ある評価軸で見ると何が優で何が劣かがはっきりするけれども、社会性のような複雑な話になると評価軸がそもそも存在しない。そうすると、いまある軸によって、自分の持っている性質や特徴にコンプレックスを持ったり、その逆もあったりしますね。「体が大きいことがいいこと」という軸があると、背を伸ばしたくなり、「体が大きいことは悪いこと」という軸に変わると、背を丸めてなるべく小さく見せる。すべてのコンプレックスの背後にはこの社会における評価軸があると思います。</p>

<p>18世紀とか19世紀のヨーロッパ人は「体毛は多い方がいい」と考えていたんですよね。軸がかわるとみんな脱毛をしだすという。</p>

<p>【中嶋】最近、豊胸手術を元に戻す人が増えているそうですね。アメリカの女優さんやモデルさんが性的な役割から解放されたいので元に戻してスッキリした、というメッセージを写真とともにインスタで公表したりして、多くの女性たちから「いいね」されています。</p>

<p>【為末】アメリカっぽいですね（笑）。</p>

<p>【磯野】それも今の社会をよく表していると思います。生まれたままの状況をなんとか引き受けていかなくても、科学技術を使えば望みどおりに自分の願望が実現できるという価値観ですね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>神よりも宇宙生命体がリアリティを持つ時代</h2>

<p>【高梨】お話を伺っていて思うのは、やはり自分たちの存在を変える技術が手に入ってしまったというのが、この100年ほどでおきた、人類史上において大事な出来事だったということです。</p>

<p>日本ではやってはいけないということになっているけれども、次世代に対する遺伝子操作は原理的にはできてしまいます。実際、海外では禁止されているにも拘わらずゲノム編集を行った赤ちゃんを誕生させるという衝撃的な事件もすでに起きてしまいました。一度欲望に火がついたら、それはなかなか止められないことを象徴する出来事だったと思います。これは、そのやってしまった研究者個人の問題でもあると同時に、欲望に突き動かされる人間のあり方そのものの問題でもあります。つまり、決して他人事とは言えないし、そう考えるべきではない。となると22世紀にはかなり世界は変わって見えてくると思います。</p>

<p>そう考えたとき、理想のあり方として、私たちは何に向けて自分たちを近づけていくのか。いまは見当もつきません。「全知全能の神」がリアリティを持って想像できた時代には、そこに向かって自分たちを改造・改善していくということもあったかもしれません。いまだにそういう感覚を持っている人たちもいるかもしれないですね。一方で「全知全能の神」がどういうものなのか想像できないからこそ、私たちはありたい姿を模索し、日々葛藤していると言えます。この葛藤に耐えられないと、耳あたりのよいことに惑わされて極端に走ることもあるでしょう。</p>

<p>天文をやっている人間としては、そこに何か宇宙を絡めて語れるといいなと思います。</p>

<p>大胆なことを言えば、神にはリアリティがない時代ですけれども、他の星の生物は逆にリアリティが増してきていると私は思います。彼らはどんな姿をしているのかを知りたい。自分を改造していく欲望とは別に、そういう欲望の向け方もあるんじゃないか、それを知るためにお金を惜しまない人も出てくるんじゃないかと思います。</p>

<p>仮にどこかの惑星に何かいることがわかったところで、だからどうしたという話かもしれませんが、相対的に考えずに自分たちだけで「あるべき姿」というのを構築することはできないと思うのです。</p>

<p>【為末】身体を人為的に加工するとして、どのくらいまで許容できるんですかね。</p>

<p>【高梨】昔から不老不死についてはいろいろなチャレンジが行われてきましたよね。つい2、30年前、「アメリカ横断ウルトラクイズ」の優勝商品がコールドスリープしてもらう権利だったりしましたよね。あれはテレビ的なしゃれだったと思いますが、永遠に存在できることに対する我々の欲望の現れのひとつであったと思えば、「そこに向かっていって何が悪い」というふうに考える人たちも絶対いるでしょう。</p>

<p>いまはそのような欲望を社会的には許容していないというか、抑え合っている状態ではないでしょうか。でも、みんな本心ではどうなんですかね。「あなたは来週から全く違う自分として生まれ変われますよ」と言われたら、飛びつきたくなる人はいっぱいいるんじゃないかな。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>健康に悪くないのにドーピング禁止なのはなぜか</h2>

<p>【為末】スポーツでは「ドーピングはなぜだめなのか」という議論がもう長いこと続いています。競技場の中では厳しく制限されていますが、競技場の外ではどこまで許容されるのか。不老不死はまだ社会的に認められてないけれど、どこまでならいいのかという話とも重なりますね。</p>

<p>昔はドーピング禁止には「選手の健康を害する」という大義があったのですが、最近はロンジビティ（長寿）のための技術が転用されたりしているので、「体に悪くないのに、なぜドーピングを禁止しているのか」という議論になるわけです。健康にいいか悪いかではなく、人為的にどこまでパフォーマンスを向上させていいのか。どこまでもやっていいとなると、当然のことながら国力がある国が有利です。磯野さんがおっしゃっていた、「資本力のある人の身体が理想の身体になる」というのと近い話です。</p>

<p>投薬ではなく高地トレーニングによって緩いドーピングと同じぐらいの効果が出せるといわれているのですが、それも一定の技術力がないとできないので、先進国しか行っていません。</p>

<p>経済力によって選手のパフォーマンスに差がついているということは、禁止されているドーピング以外のところでいろんなことが試されているということです。アンチドーピングの人たちにすら、どこまでがドーピングなのか、投薬以外はいいのか、という基準がないんです。　</p>

<p>【中嶋】2026年はドーピング容認の国際競技大会がアメリカで開催されると聞きました。　</p>

<p>【為末】はい。ラスベガスで開かれる「エンハンスト・ゲーム」ですね。ドーピング容認といっても、途中のプロセスで何を摂取するかドクターがちゃんと見ます。健康に負担がかかるドーピングはできないのですが、それ以外は認められます。かつては健康に悪いといわれていたドーピングですが、いまや健康に悪くないからやっていいというところまできました。このこと自体いろんな矛盾をはらんでいると思いますが、アスリートのなかでも面白がっている人はいます。それ以上に興味深いのは、シリコンバレーの人たちがこの動きに乗ってきたということです。オリンピックの報酬の10倍ぐらい賞金が出る。それでオリンピックの金メダリストが出場を決めているんです。</p>

<p>エンハンストのほうが儲かるようになった時に、オリンピックの権威ってどうなるのかなと思います。マジな奴はみんなエンハンストに出て、無垢な「ありのまま」を大事にする人たちだけオリンピックに行くとか、そういうことが起き得るのかもしれない。</p>

<p>【磯野】「オリンピックは無垢な大会」って面白いですね。これだけ身体変工が盛んになったのに、「ありのまま」とか「自分らしさ」というのが今ほど称揚されている時代もかつてなかったと思います。一度読売新聞と朝日新聞でカウントしてみたことがあるのですが、1990年代から一気に「自分らしさ」という言葉の利用が増えています。80年代は年間50回以下だったのが、90年代だと約2000回に、2000年以降は約7200回にまで増えている。（拙著：『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 』(集英社新書)に詳述）　ありのままへの欲望がある一方で、手を加えまくって自分の身体を抜け出したところに理想があるという、対極の価値観が拮抗している状況ともいえます。この二つは反目し合いながら手を結び合ってもいるのだろうなと。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 27 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[22世紀の人間像研究会]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>吉祥寺から救急病院が消える　地方だけではない「医療危機」と病院経営を阻む壁【前編】  森まどか（医療ジャーナリスト）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13987</link>
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			<description><![CDATA[吉祥寺で救急病院が消えた衝撃の背景を探る。物価高や人件費高騰による経営難に加え、医師の退職による収益低下、地域医療構想の壁など、都市部と地方それぞれが抱える病院経営のジレンマ、医療崩壊の危機を解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="経営難により廃業危機を迎えている病院は地方だけではない" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_hospital_1.jpg" width="1200" />「住みたい街」として人気の高い東京・吉祥寺で、病院の廃業が相次いだ。これは医療機関の抱えている問題が、過疎化する地域だけでなく、都市部でも進行している事実を浮き彫りにする。物価や人件費の高騰、人材不足...。全国の病院が直面する「淘汰の時代」の真実と、単一の病院では解決できない「地域医療構想」の課題について、医療ジャーナリストの森まどか氏が迫る。</p>

<p>※本稿は『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものの前編です。記載されている情報は執筆当時(2025年12月）の状況に基づいています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東京・吉祥寺から救急病院が消えた衝撃</h2>

<p>「住みたい街トップ・東京吉祥寺から救急病院が消える」...などのセンセーショナルな見出しで、病院の相次ぐ廃院が報じられたのは2025年のはじめごろである。</p>

<p>過去10年間で吉祥寺駅周辺の4つの病院が病床廃止や診療休止を余儀なくされ、比較的高齢者が多いこの地域で&quot;医療のよりどころ&quot;だった吉祥寺南病院も診療を休止した。その結果、吉祥寺では330床以上の病床が失われ、救急車の搬送先となる病院も消えた。住民の戸惑いは大きく、不安の声が多数メディアで取り上げられている。こうした事態が、過疎の進む地方ではなく東京の人気エリアで起きたため、「いま病院に何が起きているのか」と全国的な注目を集めることとなった。</p>

<p>1970年に建てられた吉祥寺南病院の建物は、現在の耐震基準を満たしておらず、建物だけでなく電気設備も老朽化していたため、建て替えの計画があった。しかし、建築資材の高騰により断念せざるを得なくなり、診療の継続が困難となったことが診療休止の理由である。</p>

<p>この病院にかぎらず、機能を維持するためのコストに対して十分な収入が得られないというのが、現在全国の医療機関が抱える問題だ。長年くすぶっていたこの課題が、急な物価高騰と人件費の上昇によって顕在化したといえる。</p>

<p>医療機関関係者に病院が潰れるかもしれないという現状についてどう思うかを尋ねたところ、インフレによる経営難という問題は大きいものの、「それでも最終的には国や県が助けてくれるだろう」「さすがに病院を潰すことはないだろう」と考えて運営している民間病院が少なくないという印象を受ける、との回答があった。</p>

<p>これは、医療情報システムの構築を専門とし、現在は病院の経営支援にも携わっている方の率直なコメントである。実際に経営支援のため現場を訪れると、多額の設備投資を重ねてきたうえに、物価や人件費の高騰によって運転資金が不足し、経営が苦しくなってさらに借入金が増加しているケースが見受けられるという。</p>

<p>しかしながら、病院経営のトップである院長や理事長には、これまで通りの運営を続けながら金融機関の支援を受ければ何とかなるのではないかという意識が依然として残っていると感じることもあるそうだ。人口減少と医療需要の変化に伴い、病院が淘汰される時代に入ったことを認識する必要があるのではないか、と続いた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地域医療を支える民間病院のジレンマ</h2>

<p>一方、異なる意見もある。公立病院や準公立病院が存在しない地域で医療を担う400床規模の地方民間病院の経営幹部は、「公的病院の代わりとして地域医療を支えている以上、病院がなくなってよいとは思わない。もしそのような民間病院が経営難に陥っているのであれば、国や県、自治体が経済的な支援を行なう必要があるのではないか」と語る。その背景には、首都圏から離れた地方で地域医療のハブとして役割を果たすことの難しさがある。</p>

<p>具体例として、直面している事例を挙げてくれた。億単位の設備投資を行ない病院の主力となっていた治療が、医師の退職によって継続できなくなったというものだ。</p>

<p>10年前に着任した循環器内科の医師は心臓カテーテル治療を得意としており、地域でニーズが高かったため費用をかけて治療環境を整備した。県内のその地域では導入されていない治療であったことから、周辺診療所との連携を強化し、市民セミナーなどで住民への情報発信も積極的に行ない、十分に採算がとれるペースで患者を集めていた。さらに、その医師のもとで治療技術の習得をめざす医師も採用でき、直近6〜7年は病院の&quot;目玉&quot;となる治療として稼働していた。</p>

<p>しかし、予期せぬ事態が起きる。循環器内科のみならず病院全体を牽引していたその医師の出身大学で人材不足が深刻化し、歴史ある大学病院の機能低下を防ぐため上司やOBから強い要請があったこともあり、当該医師は退職し県外の大学に戻ることとなった。一人の医師が退職したことで治療の継続は困難となり、その治療にやりがいを感じていた若手医師や看護師、臨床工学技士も連鎖的に退職。その結果、高額な治療機器は稼働できず宙に浮いた状態となり、病院の収益は低下している。</p>

<p>地域的な必要性を踏まえて導入し、採算がとれると見込んでいた治療が予期せぬ理由で継続できなくなった場合、それを&quot;過剰投資&quot;と判断されてしまえば、地域医療を支え発展させることは難しくなる。</p>

<p>経営幹部は「医師の人事は不確かで予測できないことが起こる。協力先の医局や主力医師のネットワークで医師を集めているケースは多く、医局の人事や主力医師の退職によって他の医師も辞め、これまで可能だった治療ができなくなり、大きな減収につながる例は他の病院でもいくらでもあるはず」と述べた。現在、後任の医師をあらゆるネットワークを使って探しているというが、地方の病院に医師を迎えるのは容易ではないという。</p>

<p>立ち位置が異なれば見方も当然異なり、病院の規模、期待される機能、所在地などさまざまな要因で状況が異なることが、病院経営の評価の難しさである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地域医療構想と再建計画の難しさ</h2>

<p>前述の吉祥寺南病院は、大手医療法人グループが運営を引き継ぐことが決定し、急性期医療に加えて高齢化に伴う回復期医療の需要に応えるべく、300床規模の病院整備が計画されている。武蔵野市も「吉祥寺地域の医療体制の整備に関する支援方針」を発表し、新病院の開設に際して市有地の活用や都市計画の変更を検討するなど、支援策で後押しする方針を示した。</p>

<p>順調に再建が進むと思われた矢先、この計画に対し、武蔵野市が属する北多摩南部の「東京都地域医療構想調整会議」で、当該医療圏における病床数の過剰や医療人材不足が問題視され、周辺病院への負の影響が懸念されるとして、計画の見直しを求める意見が多く出された。</p>

<p>国が推進する「地域医療構想」とは、厚生労働省によれば「中長期的な人口構造や地域の医療ニーズの質・量の変化を見据え、医療機関の機能分化・連携を進め、良質かつ適切な医療を効率的に提供できる体制の確保を目的とする」と説明されている。</p>

<p>吉祥寺南病院の再建計画は武蔵野市にとって必要である一方、二次医療圏といった地域単位で考えると、将来的な医療需要に合致していないとも判断されることになる。人口減少と超高齢社会の進展に伴うこれからの病院経営は、病院単体で資金調達すれば解決できるという単純なものではなく、地域全体に極めて大きな課題を突きつけている。さらに、日本の医療全体が&quot;これまでどおり&quot;では通用しない大きな転換期を迎えているといえる。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_hospital_1.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 26 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[森まどか（医療ジャーナリスト）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>高市政権が進める「労働時間規制緩和」は少子化対策と矛盾するのか？  小黒一正（法政大学経済学部教授／ 東京財団上席フェロー）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13992</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013992</guid>
			<description><![CDATA[高市政権が進める労働時間規制緩和は、少子化対策と必ずしも矛盾するものではない―。小黒一正氏がデータを引用しながら解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="労働時間規制緩和と少子化対策" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_people_1.jpg" width="1200" /></p>

<p>高市政権が進める労働時間規制緩和は、少子化対策と必ずしも矛盾するものではない―。賛否を生む「労働時間規制緩和」の議論に「少子化対策」の視点から新しい光を当てる。</p>

<p>※本稿は『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>労働時間規制緩和をめぐる現在の政治論争</h2>

<p>高市早苗首相が「労働時間の上限規制の見直し」に言及して以降、国会では激しい論争が続いている。背景には、生産年齢人口が急速に減少するなか、とくにサービス業や医療・介護、建設、物流など幅広い分野で慢性的な人手不足が続き、日本経済全体が本格的な人手不足経済に移行しつつあるといった要因も大きいことは間違いない。</p>

<p>企業側からすれば、柔軟な働き方を認めることで、イノベーションの加速や人材確保につながるとの期待がある一方で、「希望する人にはもっと働いてもらいたい」という思惑も透けて見える。高市首相も、こうした現状を踏まえつつ、個々人がライフステージに応じて働き方を選択できる「選択的労働」の必要性に言及している点は注目に値する。他方、労働側や野党は「過労死の増加」への懸念から、規制緩和そのものに強く反対している。</p>

<p>このように、議論はしばしば「働かせすぎを防ぐ規制」か「柔軟性を高める規制緩和」かという二項対立で語られがちである。しかし、今日の日本が直面している最大の構造問題は「少子化」そして「人口減少」である。労働時間規制緩和の議論が、少子化対策の視点を欠いたまま、あるいは人手不足への即効薬としてのみ進めば、国家としての持続性が損なわれる危険性があるのではないか。</p>

<p>少子化が進むいま、本来、労働時間の制度設計は、「どれだけ産業を成長させられるか」とともに、「どれだけ子どもを産み育てやすくできるか」という2つの観点から組み立てなければならない。そのうえで、人手不足経済にどう対応するか、多様な働き方・選択的労働をどう位置づけるかを考える必要がある。しかし、この視点が政策議論において十分に共有されていない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>見落とされてきた「時間」と「生産性」の関係</h2>

<p><img alt="各国の一人当たり実質GDP" height="873" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260318Ogurokazumasa01.jpg" width="1200" /></p>

<p>労働時間の議論に立ち返ると、基礎となる試算は次の2つであろう。</p>

<p>〈試算1〉もし日本が1990年と同じ労働時間（2031時間）を維持していた場合、2023年時点の一人当たり実質GDPは「1.69倍」となり、アメリカ（1.68）やイギリス（1.55）を上回り主要国でトップクラスになっていた。</p>

<p>1990年の日本の年間労働時間は2031時間であり、アメリカ（1764時間）、イギリス（1618時間）よりも250時間以上も長かった。この時期の日本は、まさに「世界一働く国」であり、その労働量が当時の圧倒的な経済力を支えていた。実際、一人当たり名目GDPでも日本は米英を上回り、世界の先頭を走っていた。</p>

<p>しかしその後の約35年間で、日本の労働時間は急速に減少し、2024年には1617時間へと大幅縮小した。一方、アメリカは1796時間と1990年とほぼ変わらず、日本はアメリカより約180時間短くなるかたちで「逆転」した。</p>

<p>この変化の背景には、以下の制度的経緯がある。</p>

<p>・ 1980年代の貿易摩擦で「日本人は働きすぎ」という批判が国際問題化<br />
・ 1988年の「経済運営計画」で政府が「年間1800時間」を公式目標として設定<br />
・週休2日制が急速に普及<br />
・ 1992年の時短促進法、1994年の労基法改正で法定労働時間を週40時間に固定</p>

<p>こうした政策的な時短の流れが定着し、日本は「労働時間を強制的に縮める」方向へ大きく舵を切った。その結果、実質賃金や経済成長の伸びが鈍化する構造問題が生じた側面も否めない。</p>

<p>では、労働時間を大幅に増やしても労働生産性が低下しないという前提のもと、日本がもし1990年と同じ労働時間を保っていたらどうなっていたか。推計方法の詳細は省くが、その試算結果が図表1である。日本の経済力が最も力強かったのは1990年ごろのため、日本の仮定試算を含め、各国の一人当たり実質GDPが1990年で1.00になるように基準化している。</p>

<p>この主要7カ国のなかで最も高い成長を示し、一人当たり実質GDPトップになっているのは試算1で算出した「日本（仮定試算）」の1.69である。しかしながら、実際の日本は1.30にとどまり、これらの国々のなかで下位2番目の結果になっている。もっとも、この事実は「長時間労働に戻るべきだ」という結論を導くものではない。</p>

<p>試算1は、労働時間を増やしても生産性が変わらないという&quot;量の効果のみ&quot;を見た機械的な仮定である点に注意が必要である。むしろ後述のとおり、日本は短時間労働のほうが生産性が高まる可能性もある。</p>

<p>重要なのは、働く時間の最適化であり、量を増やすか減らすかの二択ではなく、個々人が最も成果を出せる時間を選択できる制度が不可欠である。 高市首相が口にする「選択的な働き方」を本当に実質ある制度にできるかどうかが問われている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>重要なのは働く時間の最適化</h2>

<p><img alt="生産性と労働時間の関係" height="852" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260318Ogurokazumasa02.jpg" width="1200" /></p>

<p>〈試算2〉日本（約1600時間）は依然として先進国のなかで長時間労働だが、OECDデータから「約1360時間まで減らしても一人当たりGDPはむしろ増える」可能性を示している。</p>

<p>1990年代以降、日本の労働時間は減少してきたとはいえ、アメリカ以外の欧州との比較では依然として長い。最新のOECDデータでも、2024年の日本の年間労働時間は1617時間であり、イギリスの1512時間、フランスの1491時間、ドイツの1331時間と比べても高い。</p>

<p>しかし同年の「労働時間1時間当たり生産性」（購買力平価換算USドル）は、日本が56.8ドルで、欧州主要国（イギリス＝80.6ドル、フランス＝92.8ドル、ドイツ＝96.5ドル）に大きく後れをとっている。つまり、日本は（ドイツ等との比較で）「長時間労働にもかかわらず低生産性」という構造的な非効率に陥っている。</p>

<p>決定的なのは、OECD35カ国（1970〜2015年）の長期データ分析である。年間平均の労働時間（横軸）と「一人当たりGDP／労働時間」（縦軸）をプロットすると、両者には明確な負の相関が確認される（図表2）。</p>

<p>なお、時系列データにおいて、先進諸国の「年間労働時間」は低下傾向にある一方、「生産性（一人当たりGDP／労働時間）」は経済成長で上昇する傾向をもつことから、通常のプロットでは「見せかけの相関」を表す可能性が高い。</p>

<p>この問題を取り除くため、各OECD諸国の「生産性（一人当たりGDP ／労働時間）」の値は、各年において、OECD諸国の平均が100となるように基準化したものを利用しているが、労働時間が短い国ほど単位時間当たりの生産性は高いという関係が極めて頑健に観察される。</p>

<p>この図表2から明らかなとおり、「労働時間」と「生産性（一人当たりGDP／労働時間）」は負の相関関係をもつ。両者が負の相関関係を有するとしても、「年間の労働時間が減少すれば、生産性（一人当たりGDP／労働時間）が高まる」という因果関係を表す保証はないが、知識集約型経済の飛躍的成長の「起爆剤」となる柔軟な発想や斬新なアイディアを生み出すためには、「時間的なゆとり」も必要なはずである。</p>

<p>では、生産性（一人当たりGDP／労働時間）が増加すれば、一人当たりGDPも増加するのか。年間の労働時間が減少し、単位時間当たりの生産性（一人当たりGDP／労働時間）が増加しても、一人当たりGDPが低下しては意味がない。</p>

<p><img alt="一人当たりGDPと労働時間の関係" height="885" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260318Ogurokazumasa03.jpg" width="1200" /></p>

<p>このような現象が起こるか否かは、「一人当たりGDP＝生産性&times;年間平均の労働時間」という関係から判別できる。まず、図表2のプロット・データから、ｙを「生産性（一人当たりGDP ／労働時間）」、ｘを「年間平均の労働時間」として、近似曲線を求める。この近似曲線ｙとｘの積から、「一人当たりGDP」（＝ｙ&times;ｘ）が計算でき、その関係をプロットしたものが、図表3である。この図表の横軸は「年間平均の労働時間」、縦軸は「一人当たりGDP」を表す。</p>

<p>この図表3の「曲線」（上に凸の曲線）が、一人当たりGDPと労働時間の関係を示している。この曲線が妥当な場合、横軸の「年間平均の労働時間」が約1000時間のあたりが、縦軸の「一人当たりGDP」が最大になる労働時間であることがわかる。もちろん、1000時間は実在データがほとんど存在しない領域も含むため、その厳密な解釈は慎重であるべきだ。</p>

<p>しかし実在データが存在する領域（1360時間前後）だけに基づいても、日本は労働時間を1600時間前後から1360時間へ削減しても、一人当たりGDPが増加する可能性がある。年間240時間の削減は、1日8時間労働で換算すれば約30日分のゆとりに相当する。この「余白の時間」は、単なる休暇ではなく、創造的思考、新規事業の立案、知識集約型産業における競争力向上といった、生産性の核心に関わる。</p>

<p>以上の2つの試算は、一見すると矛盾するように見える。</p>

<p>・ 長時間労働を続けていればGDPは維持できた（試算1）<br />
・しかし短時間労働のほうが生産性は高まる（試算2）</p>

<p>実際には矛盾ではなく、「量」と「質」をどう最適化するかという問題である。したがって結論は明確である。固定的な労働時間制度ではなく、個々人が「選択できる労働制度」に転換することこそが、日本の成長戦略の中核となる。</p>

<p>これは高市首相が掲げる「選択的な働き方」と軌を一にするものであり、産業構造転換、人手不足経済への対応を同時に可能とする唯一の道である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>少子化対策の観点から見た労働時間規制見直しの評価</h2>

<p>加えて、急速に進む人口減少との関係では、労働時間規制緩和が少子化対策と両立しうるかという問題も重要であり、労働時間規制の議論は、「子育て世帯全体の時間制約への理解」が前提にならなければならない。</p>

<p>〈時間の不足が出生率を下げる最大の原因〉</p>

<p>子育ての負担において、最も深刻な課題は「お金」ではなく「時間」である。仕事・家事・育児をすべて背負う共働き世帯では、平日の時間不足が慢性化し、第二子・第三子を諦めるケースが多い。出生動向基本調査でも、出産をためらう理由の最上位は「仕事と育児の両立の難しさ」である。</p>

<p>〈「選択的労働」の導入こそ少子化対策の核心〉</p>

<p>少子化対策としての労働時間政策は、次の3点を満たさなければならない。</p>

<p>①働きたい人は柔軟に働ける環境を用意すること<br />
②子育て期は労働時間を自由に変更できる制度を保障すること<br />
③変更した労働時間が将来の賃金や昇進に不利に働かない設計をつくること</p>

<p>ここに、もう一つ加えるべき視点がある。それは、「企業ごとの子育て環境の見える化」である。企業別の出生率（たとえば、一定期間内に在籍社員世帯当たり何人の子どもが生まれているか）や、育休取得率・短時間勤務利用率といった指標を公表し、社会全体で共有することによって、「どの企業が本当に子育てしやすい職場か」を可視化できる。</p>

<p>こうした情報が公開されれば、就職活動を行なう若者や転職希望者は、賃金やブランドだけでなく、「将来子どもをもちやすい企業かどうか」を判断材料にできる。企業もまた、採用力・レピュテーション（評判）の観点から、労働時間の柔軟化や育児支援策の拡充に取り組む強いインセンティブをもつことになる。</p>

<p>高市政権が進める「規制緩和」は、①についてはプラスに働く可能性がある。しかし②と③は、何も手当てしなければむしろ逆効果になる恐れがある。人手不足を理由に労働時間規制を緩めれば、企業は長時間労働を求めやすくなり、子育て世帯は働き方を選択する余地を失いかねない。つまり、労働時間規制緩和は、そのままでは「少子化対策」と矛盾する。</p>

<p>しかし逆に、「選択的労働」を制度化し、その実効性を企業別出生率などの見える化で担保すれば、規制緩和と出生率の向上を同時に達成することが可能になる。高市首相が掲げる「選べる働き方」の理念を、少子化対策と組み合わせた具体的な仕組みに落とし込めるかどうかが、今後の成否を左右する。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>人口減少社会で求められる新しい成長戦略</h2>

<p>日本は少子化・人手不足が同時進行する歴史的転換点にあるが、以上のことから、今後の成長戦略（とくに労働供給）は、「時間の再配分」と「生産性の最大化」を軸に再設計する必要がある。加えて、企業の行動変容を促す「情報公開（可視化）」を組み合わせることで、政府の規制強化に依存せずとも、民間みずからが子育てしやすい職場を整備していく仕組みを構築できる。この三位一体の戦略こそ、人口減少社会にふさわしい日本型成長モデルとなる。</p>

<p>（１）労働時間の柔軟化と「選択の自由」の制度化</p>

<p>労働時間政策は、「増やすか・減らすか」の単純な対立軸ではなく、個人が選べる働き方を制度として保障することが最も重要である。労働時間規制の見直しは、働きたい人に柔軟性を与える一方、子育て期や介護期には大幅に労働時間を調整できるような制度設計と不可分である。</p>

<p>・ 多く働きたい人には、上限規制緩和による柔軟性を確保<br />
・ 子育て・介護期には、労働時間を大幅に減らして働ける制度を法的に保障<br />
・副業、学び直し（リスキリング）の推進や拡充</p>

<p>この発想こそが、高市首相も言及する「選択的な働き方」の実質的なコアとなる。</p>

<p>（２）「余白の時間」こそ日本の成長力を左右する</p>

<p>OECDデータが示すように、年間労働時間と生産性には負の相関が見られ、知識集約型経済では長時間労働がむしろ成長の阻害要因になりうる可能性がある。デジタル化・AI化が進む現代では、価値を生むのは「余白の時間」である。短く働き、集中して成果を出す働き方が広がれば、</p>

<p>・イノベーション<br />
・新規事業の創出<br />
・企業の競争力強化</p>

<p>につながり、「時間的ゆとり」がそのまま生産性向上の原資になる。人口が減少する社会では、労働量ではなく、生産性そのものが成長力の源泉となる。</p>

<p>（３）企業行動を変える「見える化」の導入</p>

<p>時間政策と並び、企業行動を自発的に変える仕組みも不可欠である。その中心にあるのが「企業別出生率・両立指標の公表」である。</p>

<p>・ 企業別の出生率、平均子ども数、育休取得率、短時間勤務利用率などを集計・公表<br />
・ 統合報告書や就活サイトで「賃金」「成長性」と並んで「子育てしやすさ指標」を掲載<br />
・ 高い指標の企業には税制優遇・公共調達での加点などインセンティブを付与</p>

<p>政府が企業を細かく規制するのではなく、情報公開と市場の評価によって企業の行動変容を促す。これは過度な規制を避けつつ、民間主導で「子育てしやすい職場」への競争を引き起こす最も効率的な仕組みである。</p>

<p>いずれにせよ、少子化と低成長に苦しむ日本にとって、労働時間規制に関する議論は、単なる労働政策ではなく、国家戦略そのものである。労働時間の単なる見直しではなく、時間を「選べる」制度へと転換することが、人口減少社会における新しい成長モデルの核心となる。そこに、企業別の出生率や両立指標の公表という「見える化」を組み合わせることで、企業行動を内側から変える力が生まれる。</p>

<p>すなわち、</p>

<p>「働きたい人は柔軟に働ける」<br />
「子育て期には時間的ゆとりがある」<br />
「労働時間を短くしても生産性は上がる」<br />
「子どもを産み育てやすい企業が、採用市場で正当に評価される」</p>

<p>この4つを同時に実現することが、日本の成長戦略と少子化対策を結びつける唯一の道である。高市政権が進める労働時間規制緩和は、少子化対策と必ずしも矛盾するものではない。むしろ、制度設計次第で両立は十分に可能であり、その中心にあるのは「時間」を再分配し、「企業別出生率の見える化」で企業行動を変えていくという新しい発想である。</p>

<p>日本が再び力強い成長軌道に戻るためには、単なる働く「量」ではなく、働く「質（労働生産性）」と「時間」、そして「情報公開」を組み合わせた制度の再構築こそが鍵となる。人口減少社会でこそ、これらを軸とした成長戦略が求められている。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_people_1.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 25 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[小黒一正（法政大学経済学部教授／ 東京財団上席フェロー）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】人間の身体の「解釈」はどこまで変わっていくのか（２）  磯野真穂（人類学者／東京科学大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13750</link>
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			<description><![CDATA[文化人類学では人間の身体を「象徴」と捉える見方があります。身体を何かの象徴としたときに、私たちの意識や行動はどのように変わるのでしょうか]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="22世紀の人間像研究会" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260216isonomaho2.jpg" width="1200" /></p>

<p>松下幸之助は終戦直後にPHP研究所を創設して以来、人間とは何かについて思索を重ね、その集大成ともいえる『人間を考える』（昭和47年〈1972年〉発刊）において、「人間には万物の王者たる優れた本質が与えられている」とする肯定的な人間観を提唱しました。</p>

<p>それから半世紀を経て、戦争や環境破壊、AIの進化など人類は新たな岐路に立っています。「22世紀の人間像研究会」では、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していきます。</p>

<p>今回からは、研究会のメンバーがそれぞれの専門分野から22世紀の人間像を考えるための視点を提供していきます。人類学者の磯野真穂さんには「身体性」という観点から、身体と象徴や儀式の関係についてお話しいただきます。2回にわたって掲載するこちらの議論は、そのあと展開される「対話」の出発点になります。</p>

<p>文化人類学では人間の身体を「象徴」と捉える見方があります。身体を何かの象徴としたときに、私たちの意識や行動はどのように変わるのでしょうか――。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>身体は「象徴」である</h2>

<p>人類学は身体を象徴であるととらえます。身体が、身体そのものとは別のものも表現しているということです。</p>

<p>私たちは、何を見てもそこに解釈を加えます。たとえば駅前で携帯を見ている人を見て「誰かを待っているのかな」と思ったりしますね。また、私がここまで走ってきて息をきらしているとしましょう。それを見て「遅刻しそうだったので走ってきたのかな」などと想像します。</p>

<p>こういうかたちで身体、もしくは生物学的な現象が象徴になっていきます。</p>

<p>この象徴が権力者に使われるようになると、「体毛がないということは、劣っているということだ」というような解釈につながり、植民地化を正当化する材料にもなるという話をしました。</p>

<p>象徴は「表現する」ものでもあります。たとえば「鳩は平和の象徴」というとき、鳩は平和を表現しています。同じものが地域によって異なるものを表現することもあります。</p>

<p>入道雲がたちのぼってゴロゴロ音がなってぴかっと光ったりすると、日本では「雷様が太鼓をたたいている」などといいます。それがヨーロッパに行くと「怒ったゼウスが雷を投げる」とか、「エルフが空の上で影を動かしている」といった表現になります。</p>

<p>象徴はまた、「生成する」ものでもあります。</p>

<p>たとえば役者がステージに立って衣装をまとい、小道具を手にすると、それらしく演じられるようになる。これを「象徴の行為遂行性」と呼びます。看護大学を出たばかりのおどおどした看護師がナース服を着て聴診器を持ち、血圧計を持つと、振る舞いそのものがしっかりしてくる、といったこともそうです。スキルが上がったわけでもないのに、ナースを象徴する服を着ただけでそれらしくなるということは実際にあるわけです。</p>

<p>身体が象徴的に使われるとき、そこには何かが作り出されています。ここでお話ししたいのが、「象徴操作と病からの回復」についてです。</p>

<p>私たちの身体に関する情報は、個人情報として医療従事者と患者の密室の空間の中に閉じ込められていますが、伝統的社会ではそうではありません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ンデンブ医の治療</h2>

<p>1967年にヴィクター・ターナーという有名な人類学者が書いた The Forest of Symbols: Aspects of Ndembu Ritualというエスノグラフィがあります。ターナーはアフリカの現在のザンビアに当たる地域のンデンブ族の集落をフィールドとしていました。</p>

<p>その本の中に、動悸と背中の激痛と衰弱に苦しむカマハサニという男性が、集落のシャーマンが取り計らう儀式を通じて回復するという話が登場します。</p>

<p>カマハサニは、集落の住民たちが自分に敵意を抱いていると信じ込んで社会生活の場から退いていました。この人は集落の人の悪口を言ったり、威張りちらしたりして酷い人なのですが、カマハサニ本人は「みんなから意地悪されている」と考え、体調不良もあるので引きこもっています。</p>

<p>ンデンブの儀式は、カマハサニと集落の者が一堂に介して行われます。その儀式の中で、カマハサニがいかに酷いか行いをしていたのかを集落の住民たちが語り、カマハサニ自身も集落への不満を語るという局面があります。いまの常識ではちょっと考えられません。</p>

<p>シャーマンの理解によると、カマハサニの病気は取り憑いた悪霊によるもの。ですからこの儀式は悪霊を取り払うために行われます。儀式の最後でシャーマンは、彼の歯を抜くような身振りをし、カマハサニは血を流します。すると周りで見ているものがワーッと盛り上がる。この儀式が終わると集落全体が安堵をしたような不思議な静けさに包まれていたそうです。この儀式を通じてカマハサニは体調の不良から解放され、そしてターナーがしばらく経って集落を訪ねた際も、集落になじんで、うまく暮らせていたそうです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生物医学的根拠がなくても「回復」が成立する</h2>

<p>患者の回復に生物医学的な根拠はないのですが、儀式によって仲たがいしている状態はとりあえず解決しています。儀式のなかでは互いに不満を言い合いますが、どちらか一方のせいにするのではなく、最終的には悪霊という神話的な存在に責任を押しつけるという方法で共同体内のいざこざを仲裁し、治療を行う。</p>

<p>ンデンブの儀式は、患者の状態を共同体の調和が乱された兆候と捉え、乱れた人々の関係性をよい方向に調整する機能があったと考えることができるでしょう。患者の体から血が出て、歯を抜くパフォーマンスは、共同体の不安定を作り出していた原因が取り除かれたことを象徴的に意味している。これを生物学的に「あなたはセロトニンが足りていない状態です」などと診断したとしても、なんの解決にもなりません。私たちの身体はそれが住まう社会と密接に結びついているのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>現代の身体理解にも象徴操作が働いている</h2>

<p>ンデンブの話は時代的にも地理的にも遠い話だと思いきや、意外とそうでもないんです。最近は糖質制限が一般的な健康管理の手法としてありますよね。糖質制限は、2009年にメタボ検診がはじまったことで一気に広まりました。特に40代以上の中高年男性がメタボ健診をきっかけに一気にダイエットに励むようになりました。</p>

<p>以前糖質制限をしている人にお話を聞いたとき、「糖質を食べると体が汚れた気がする」とおっしゃったのが印象的した。糖質は栄養学の中で作り出された、食べ物を捉えるための概念です。その概念にきれいも汚いもないでしょう。しかし糖質制限に熱心に励んでいる人は、パッケージの糖質何グラムというのを見ただけで恐怖心を感じ、それを体の中に入れると「汚れた」と感じてしまうのです。</p>

<p>循環器治療で使われる抗血栓薬についての医師と患者の語りもフィールドワークを行ったことがあるのですが、お医者さんからは「血液がサラサラになる」と説明されることが多いこのお薬、薬理学的に見ると血液をサラサラにしてはいないのです。血液の凝固因子の働きを抑えている薬なので、血液がサラサラになるというよりは、出血を起こしやすくしているという方が、薬理学的には正しい。しかしこれを「血液サラサラ」と表現し直すだけで、患者はこの薬をより受け入れやすくなるのです。</p>

<p>これが集合的に起こったのがコロナワクチンです。日本はこれまでワクチンの副反応にきわめて敏感な国でしたが、コロナワクチンに関しては、39度とか40度の高熱が出ても、数日間体調が悪くなっても「これは打ったほうがいい」と大半が受け入れました。「熱が出るのは若い証拠だ」といういま考えると笑ってしまうような話も雑談の中でなされました。</p>

<p>一見すこぶる科学的に見える薬品であっても、その表現のされ方で、私たちがそれに向き合ったり、体に取り入れたりする際の身体感覚が変わるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>身体変工マーケットはどこまで拡大するのか</h2>

<p>これまでの議論を踏まえた上で、身体変工のマーケットの拡大はどこまで続き、どうなるのかを考える意義はあるでしょう。</p>

<p>電車のなかの宣伝でも、最近は男性専用の美容クリニックをよく見かけるようになりました。ある美容クリニックのコピーには、「超えるのは敵ではなくこれまでの自分」「進化し続けるために男を磨く」「勝つこと以上に大事なことは、理想の自分を追い求めること」「あなたのピークはそこじゃない」などとありました。医療技術を使って男性が美を追い求めることは、恥ずかしいことでもなんでもなく、むしろ男性としての強さを磨く方法であるというコピーが流されているわけです。</p>

<p>身体変工のマーケットは、従来の女性だけでなく、男性、子どもととどまるところなく広がっており、そして変工を加える場所は、遺伝子のレベルまで細分化されていっています。このような身体がどのように解釈され、表現され、私たちの身体感覚を変化させるのかをつぶさに見ていくことは、22世紀の人間像を考える際の一つの視座と言えるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>自分を「歴史に位置づける」という行為</h2>

<p>身体を考えたり、いじったり、考えたりすることは実は、自分自身を何かに位置付ける作業であり、それがどのように何と繋がっているのかを見ることで、それぞれの身体が住まう社会の状況を分析することができます。</p>

<p>たとえば先崎彰容さんが書かれた評伝『本居宣長』（新潮社、2024年）では、本居宣長がアイデンティティクライシスに陥ったとき、日本の古代まで戻って「自分は何者か」を探そうとする様子が丁寧に描かれています。本居の場合、この個人的な試みが国学という学問体系の創出につながっていったわけです。これは最近中島岳志さんの書かれた『縄文』（太田出版、2025年）という本にも共通するところがあります。これは縄文に自分の起源を見出したい人たちの話なのですが、面白いのは、縄文左派と縄文右派に分かれるということです。しかも本居のように、文献を辿ったり、詳細を読み込んだりして歴史の古層を丁寧にたどり着くというよりは、縄文にロマンティシズムを感じ取り、それぞれにとって都合のいい物語を作り、それによって自分の原点を確立しようとしていることです。左派と右派は政治的には相入れないはず。それなのに、いずれも縄文に戻ってもっともらしい起源の物語を作り上げていることが興味深い。ただいずれも共通するのは自分の外部に自己を求めようとしている点です。</p>

<p>他方、このような外部を見出さない自分探しもあります。最近「孤独がいい」「１人でいい」というメッセージを発するドラマが大人気です。『孤独のグルメ』『ソロ活女子のススメ』などいろいろありますが、これらドラマの主人公は、外部に自分の起源を探そうとしない。これらドラマの主人公は大体、食べています。食べてその感覚を味わうことで、自分と向き合う。だから話はいつも、食と周りにいる数名で完結する。自分を自分の感覚の中に見出そうとするこのやり方は、歴史の中に自分を位置付けるやり方と比べるとかなり射程が短いと言えるでしょう。これは個人主義が進んだ現代社会に特徴的な一つの自分探しの方法であると思われます。</p>

<p>これは近年急速にマーケットを広げている美容整形の文脈ともつながります。美容外科のサイトを見ると、たとえば鼻の整形だけでも十何種類もパターンがあります。マーケットが作り出した美しさの基準の中に、自分を位置付け、それにより自分を見出す。自分が何者であるかがマーケットの価値観で決められてしまう。先に紹介したドラマが人気を得るのは、このようなマーケットの価値観に疲れてしまった人たちを癒す物語なのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260216isonomaho2.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 20 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[磯野真穂（人類学者／東京科学大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「想像力の欠如」「もっとも破滅的な自傷行為」 人類が選択すべきは「脱成長」ではない  ダニエル・サスキンド（ロンドン大学キングス ・ カレッジ研究教授）,インタビュアー：大野和基（国際ジャーナリスト）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13862</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013862</guid>
			<description><![CDATA[世界中の「政治の中心」であり続けた経済成長。 しかし、私たちはこの冷戦期に生まれた思想を、 現代に至るまでアップデートできていないし、 なかには「脱成長」を提唱する識者も存在する。 私たちがめざすべき「成長のかたち」とは。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ダニエル・サスキンド氏" height="761" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260225Susskind.jpg" width="1200" /></p>

<p>世界中の「政治の中心」であり続けた経済成長。 しかし、私たちはこの冷戦期に生まれた思想を、 現代に至るまでアップデートできていないし、 なかには「脱成長」を提唱する識者も存在する。 私たちがめざすべき「成長のかたち」とは――。（取材・構成：大野和基）</p>

<p>★本論稿は、意見集約プラットフォーム「Surfvote」と連動しています。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>――（大野）日本も含め、各国の政治リーダーは経済成長の必要性とその手段について国民に向けて声高に訴えることにより、支持を得ようとしています。つまりは経済成長を目的化してきたわけですが、そうした潮流の歴史的背景をどのように整理されていますか。</p>

<p>【サスキンド】経済成長は今日では「政治の中心」にありますが、じつのところ、それを追求するという考えが生まれたのはごく最近のことです。1950年代以前には政治家や政策立案者、経済学者などを含め、経済成長についてはほとんど語られていませんでした。</p>

<p>経済成長が今日のような優先事項となった経緯は興味深いものです。第2次世界大戦後、戦争で疲弊したイギリス政府は、自国の経済規模の程度を把握する術をもっていませんでした。そこでイギリスの偉大な経済学者であるジョン・メイナード・ケインズが、経済規模を測る信頼できる指標に着眼した。それが私たちもよく知るGDP（国内総生産）です。</p>

<p>その後の世界で、GDPの増加を容赦なく追求すべきという考えが一般的になったのは、実際の戦争（hot war）ではなく米ソの冷戦（cold war）の結果です。アメリカとソ連は実際に戦火を交えませんでしたが、ならばどちらがこの競争に勝利しているかをいかに見極めればよいのか。その指標として、互いの経済成長の度合いを参照するという感覚が芽生えたのです。</p>

<p>冷戦とは資本主義と共産主義という、経済活動を組織するまったく異なる二つの思想と手法のあいだで行なわれた争いであり、こうして「経済成長政策の時代」が始まりました。</p>

<p>その後、20世紀の終わりに冷戦は終わりを迎えましたが、戦争からの必要性は薄れたものの、経済成長の思想は依然として残りました。なぜならば、経済の成長が人間の繁栄の多くの尺度と結びついていると考えられたからです。こうして私たちはいまに至るまで成長にこだわり続け、追求すべき優先事項に掲げ続けているのです。</p>

<p>――あなたは新著『GROWTH』（上原裕美子訳、みすず書房）で、自然環境の破壊や、地域の文化やコミュニティの荒廃など、かつてないほど大きくなっている経済成長の代償を指摘されています。経済成長至上主義の功罪については、どのように認識されているでしょうか。</p>

<p>【サスキンド】まさに本書の核心ですね。いまお話ししたように、経済成長は人類の繁栄を測る多くの尺度と関連しています。だからこそ、私たちはさらなる成長を切望しているし、政治指導者たちもそれを実現させようとしてきた。他方で、経済成長は伝統的に気候変動などによる生態学的破滅に結びつくとも語られてきました。</p>

<p>ただし私が本書で主張しているのは、そうした論調でさえも、成長にまつわる「真のコスト」を過小評価しているのではないか、ということです。</p>

<p>経済成長が呼び起こすデメリットは、何も気候変動だけではありません。社会における不平等の拡大とも関連づけられるし、AIなどの技術の発達は私たちの仕事や政治にも破壊的な影響を及ぼすかもしれない。とくに経済成長と密接な関係にあるグローバル化は、特定の産業の喪失や、地域のコミュニティの壊滅とも関連します。経済成長は、近年指摘される社会課題のほぼすべてとつながっているのではないか。</p>

<p>もちろん、成長がもたらすメリットもあるので、私たちはいま相反する二つの方向から同時に引っ張られているようなもので、まさにジレンマに直面している状況だと表現できるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「脱成長」は破滅的な自傷行為</h2>

<p>――日本でも「脱成長」を掲げる識者が一定の支持を集めています。しかし「脱成長」は、ともすれば人びとをいまより貧しくする可能性があるかもしれません。この点について、あなたはどう考えますか。</p>

<p>【サスキンド】あえて端的に言うならば、もしも「脱成長」を本気で追求するのであれば、それは人類がみずからにもたらすもっとも破滅的な自傷行為の一つとなります。「脱成長」とは、世界の一人当たりGDPを現在の水準のまま凍結することを意味するかもしれない。それはつまり、世界の何十億の人びとを極度の貧困のまま放置することにつながる。</p>

<p>「脱成長」を掲げる人びとが、その考え方が気に入らないと言うのであれば、豊かな先進国に住む人びとの所得を大幅に削減する方法などを見つけなければいけません。しかし、あらゆる事情や権利に鑑みたとき、それは現実的に考えて可能な選択肢と言えるでしょうか。</p>

<p>実際にもしも成長が鈍化すれば、政治的な不満や社会的な怒りがこの世界を覆うでしょう。その波紋が広がれば、各国でさまざまな混乱が起きることは火を見るよりも明らかです。もしかしたら、当面や今後10年など時限的に成長を抑えるという論調であれば、いくらかは検討の余地があるかもしれません。しかし、将来ずっと成長を停止すべきという主張であれば、それは想像力の欠如と言わざるを得ない。</p>

<p>とはいえ、「脱成長」を掲げる人びとの主張にも耳を傾ける価値があります。先ほどお話ししたように、経済成長は並外れた代償を伴います。その現実から目を背けずに、何らかの対策を講じなければいけないという指摘については、私も強く賛同するところです。</p>

<p>――あえて言い換えるならば、「脱成長」を提唱する人びとは、成長のデメリットを叫ぶことに重きを置きすぎていて、現実的な対策の議論が不十分ということでしょうか。</p>

<p>【サスキンド】多くの人が「成長」という概念について考えるとき、経済を列車に喩えると、運転士としてハンドルを引いてスピードを上げるか、奥に倒してスピードを落とすか、について議論しています。</p>

<p>すなわち、列車の前には線路が敷かれていて、基本的には前にしか進まないように、私たちが直面している唯一の問いは「成長をさらに望むのか、それとも抑えるのか」の二者択一であるかのように認識されている。しかし、私に言わせればそれは間違った比喩です。</p>

<p>私たちは列車ではなく、海上を進む船に乗っていると考えるべきです。マストに帆を張ってスピードを上げることも、その反対に下げることもできるだけでなく、進む方向について裁量権を与えられている。それこそがこの本で言いたかったことでもあります。</p>

<p>私たちは「成長を増やすか、あるいは減らすか」ではなく、「どのような成長を望むか」を議論するべきなのです。人類がより豊かになるとともに、自然環境をはじめ私たちが価値があると考えるものを守るような成長を追求することは、本当にできないのでしょうか。私は可能だと信じています。<br />
成長の「質」を変えなければいけない</p>

<p>――本書の核心は「成長のジレンマ」をいかに乗り越えるか、という点だと思います。私たちは実際にどのようなアイデアを具体的に描き、それを実行に移すべきでしょうか。</p>

<p>【サスキンド】冒頭でご指摘いただいたように、いまや世界中の政治家や政策立案者が経済成長を実現することを目的とした政策を掲げて、国民の支持を得ようとしています。このときに大きな問題となるのが、経済活動における成長の要因について、多くの政治家が非常に古い見方に基づいて認識している点です。</p>

<p>たとえば、道路を広くしたり、鉄道網を張り巡らせたり、住宅を建てやすくしたりするなど、物質的な面だけを見て成果を上げようとしているケースが散見されます。たしかに、これらは成長を損なうものではありません。しかし、私たちがいま問うべきなのは、どうすればさらなる技術の進歩を生み出すことができるのか、いかにして資源をより適切かつ効果的に活用できる社会をつくれるのか、などのはずです。</p>

<p>そのためには、私たちは目に見えたり手で触れられたりする具体的なモノの世界から、目に見えないアイデアの世界に焦点を移したうえで、成長のあり方を追求しなければいけません。こうお話しすると、賛同していただける読者が多いかもしれませんが、実際にいま政治の世界で議論されているのは、往々にして物質的なモノに成長の源泉を求めるアプローチばかりです。</p>

<p>次に意識すべきなのが、成長の「質」を変える努力です。私たちが大切にしている価値を守るような成長を追求するには、どうすればいいのか。私が考えているのは、まず社会におけるインセンティブを変えなければいけない、ということです。</p>

<p>これまで技術の進歩といえば、私たちの暮らしをいかに豊かにするかが目的とされてきましたが、すでにフェーズは変わりつつあります。象徴的な例がやはり環境問題で、人びとはこのテーマを議論するときにかなり暗く悲観的になりがちですが、実際には近年、技術革新によって成長のあり方が根本的に変革されたことで、はるかに楽観的な見方もできます。</p>

<p>たとえば、二酸化炭素の排出量を削減するために代償として支払わなければいけない年間GDPは、この10年、20年のあいだで劇的に少なくなっています。私たちは環境へのダメージを軽減しながら経済成長を可能にするグリーン技術を、物凄いスピードで発達させてきました。世の中の望ましい規範や法律、慣習が私たちの暮らしを豊かにするのはもちろんですが、環境問題を解決する技術を開発・導入することを奨励する流れを生み出してきたのです。</p>

<p>このような技術の活用は、社会の不平等の解消や地域のコミュニティの維持など、環境問題以外の分野でも進んで実践していかなければいけません。これこそが「異なるタイプの成長」なのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>政治が果たすべき役割</h2>

<p>――あなたが本書で用いた言葉を借りれば「directed growth or technological changes」（方向づけられた成長や技術変化）ですね。</p>

<p>【サスキンド】そうです。私たちがいま自問しなければいけないのは、どれだけ技術を向上させるかではなくて、どのような技術を欲するのか、ということです。実際に環境問題の分野では、その考えのもと再生可能エネルギーの技術が劇的に進化しました。私たちはより豊かになるだけでなく、二酸化炭素の排出量も削減できる技術を開発してきたのです。社会として、技術進歩の望むべき方向性を決めて、その結果として私たちが享受する成長の性質を変えなければいけません。</p>

<p>――具体的にはどのような取り組みが考えられるでしょうか。</p>

<p>【サスキンド】私はこれまでに、技術が仕事と社会に与える影響について研究し続けてきました。たとえば自動化が労働市場に与えるインパクトを見ていくと、二つの可能性が浮かび上がります。</p>

<p>一つは多くの人間の仕事が取って代わられることで、これは読者の不安を掻き立てて興味を引く見出しになるので、大衆紙などでよく目にする類の話でしょう。それに対して、自動化されない仕事を人間が行なうことについては、むしろ需要を高める可能性もあります。つまりは、ある種の有益な補完効果が生まれるかもしれない。</p>

<p>私たちが問うべきなのは、科学者やビジネスリーダーに対して、どのような技術を開発するように社会のインセンティブが機能しているか、という点です。わかりやすく言えば、労働問題においても私たちのことを助ける技術を開発するために必要な、規則や規制のあり方を検討しなければいけないのです。</p>

<p>――AIの導入や自動化によって、経済成長だけではなく、労働者がよりよい暮らしができる未来を築かなければいけないはずですが、そのために政府が最優先で果たすべき役割は何でしょうか。</p>

<p>【サスキンド】出発点として、成長とはそれ自体が目的であってはならないことを、政府は自覚しなければいけません。成長は目的を達成するための手段であり、その目的とは人類に物質的にとどまらない繁栄をもたらすことです。そのためにいかに技術を進歩させるかが、21世紀を生きる私たちに課せられたミッションと申し上げてもよいでしょう。</p>

<p>そのうえで、ご質問いただいた政府が果たすべき役割が何かといえば、技術の進化がもたらす繁栄をいかに分配するのか、その然るべき仕組みを整えることです。これは政府にしかできない仕事のはずです。</p>

<p>20世紀の国家では、賢い人びとが中央政府機関に座り、遠くから経済を指揮・統制しようとしてきましたが、もはや時代は大きく変わりました。そうした「巨大な分配国家」ではなくて、たとえ労働市場がその役割を効果的に果たせなくなった場合でも、国家が社会のなかで不平等が生じないように、繁栄の分配においてより大きな役割を担わなければいけません。</p>

<p>――あなたは本書で、市民が集まって大切な事柄について議論する新たな制度の必要性を指摘されています。民主主義のアップデートにもつながる議論と思いますが、市民参加の拡大がなぜ重要だと思うか、あらためて教えてください。</p>

<p>【サスキンド】私たちはこれまで成長を測定可能な問題として捉え、GDPという数字を追求してきました。しかしこれからは、環境や格差などの問題を解決することについても真摯に検討しなければいけない。これはある意味では、私たちは国家として、ひいては人類として何を重視するべきかという命題にもつながる話で、言うなれば道徳的な議論でもあります。</p>

<p>当然、一人ひとりで考え方は違うはずで、皆が100％納得するということは難しいでしょう。ですから私は、「バランスのとれた不満の状態」をつくるべきと考えているんです。必ずしも全員が結果に満足しているわけではなくとも、結果の決定について自分が何がしかの貢献はしたという正当性を感じられるような状態をめざすべきではないだろうか。そこで大きな役割を果たす必要があるのが政治なのです。</p>

<p>ただし私がいま懸念しているのは、世界中の政治指導者を見ると、はたして何を重視するべきなのか、そのうえでどのような不満が生まれるのか、という議論に市民をまったく巻き込んでいません。それは大きな誤りです。</p>

<p>社会として何を追求するべきかという道徳的な問題については、市民をもっと参加させたうえで考えなければいけないし、そのうえで生まれる不満に対していかにバランスをとるのか、政治が責任をもって考えなければいけません。そこで必要不可欠になるのが、国民のさらなる政治参加なのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>変わりうる「人口減少」の意味と影響</h2>

<p>――日本では、人口減少と高齢化が「成長の限界」の証拠として語られがちです。人口動態が厳しい社会においても、成長に代わる繁栄の概念は実効性をもちうるとお考えでしょうか。</p>

<p>【サスキンド】20世紀において、国の繁栄は労働力のスキルと能力への投資意欲にかかっているという考えが生まれました。いわゆる「人的資本の世紀」です。それに対して私は、21世紀における世界に関する最高のアイデアは、賢い人間の頭脳からではなく、AIのような高性能化するテクノロジーから生まれるだろうという考えを深めています。</p>

<p>これはもしかしたら、きわめて挑発的な問いかもしれませんが、同時にきわめて重要なテーマでもある。実際、本書でも記しているように、人間ではなくAIが驚くべき発見をして、イノベーションと生産性の向上を推進している事例はすでに数多く存在しています。</p>

<p>そう考えると、今世紀が進むにつれて、従来重視されてきた人口動態への関心や懸念は、経済成長を考えるうえではそれほど重要でなくなるかもしれません。今後の経済成長は、AIのようなますます高性能化するテクノロジーへの投資意欲から生まれるものになるのではないでしょうか。</p>

<p>さらに言えば、本日申し上げてきたように、成長の概念そのものを考え直すべき局面ですから、少なくとも従来の価値観で人口減少のデメリットを捉えるべきではないでしょう。</p>

<p>――かつて世界2位を誇った日本経済は長期停滞を続けており、国内ではその点が大テーマとして議論され続けていますが、意識を変える必要がありそうです。</p>

<p>【サスキンド】まさにその通りです。経済活動に関する旧態依然とした考え方に囚われてはいけません。私たちがめざすべき成長は、新しいアイデアの発見から生まれるのですから。そしてそれは技術進歩から生まれる。ですから、日本の政治指導者や政策立案者にとっての課題は、新しいアイデアを生むイノベーションを起こすことであり、そのための仕組みや制度を整えることです。</p>

<p>――ところで、日本では女性で初めて高市早苗氏が首相に就きましたが、彼女はマーガレット・サッチャーを尊敬していると公言しています。日本ではサッチャーはポジティブに評価されていますが、あなたが住むイギリスでもそうでしょうか。</p>

<p>【サスキンド】率直に言えば、尊敬と批判の両方が入り交じっていますね。彼女が首相になった一九七〇年代の終わりは、イギリスはまさに混乱状態にありました。彼女はその状況下において、素晴らしいビジョンのもとに並外れた仕事をした。</p>

<p>一方で弱者に対してはある意味冷酷で、社会格差を広げたのも事実です。たとえば、炭鉱や重工業の拠点を大量に閉鎖し、多くの地域が衰退を経験しました。また、福祉の削減によって貧困層が苦しんだ、という評価も非常に根強いですね。</p>

<p>その意味では、サッチャーはイギリス史上もっとも評価が分かれる首相の一人と言っても過言ではありません。少なくとも日本で語られているように、尊敬という言葉だけが当てはまる女性としては認識されていないことはたしかです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260225Susskind.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 18 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ダニエル・サスキンド（ロンドン大学キングス ・ カレッジ研究教授）,インタビュアー：大野和基（国際ジャーナリスト）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>女性首相誕生への違和感はなぜ生まれるか　高市内閣を「素直に喜べない」理由  田中世紀（オランダ王国フローニンゲン大学助教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13916</link>
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			<description><![CDATA[なぜ初の女性首相の誕生を素直に喜べない女性が存在するのか。背景にある日本社会の構造を、オランダ王国フローニンゲン大学助教授の田中世紀氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="国会議事堂" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/kokkai.jpg" width="1200" /></p>

<p>初の女性首相の誕生に期待する声の一方で、「素直に喜べない」という意見も上がった。背景にある日本社会の構造をいま一度深掘りする。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本における男女平等の現在地</h2>

<p>2025年10月、日本憲政史上初となる女性首相が誕生し、日本中、いや世界中が沸いた。長らく男女平等の「劣等生」として扱われてきた日本が、この歴史的なイベントをきっかけにどのように変わっていくのか、世界中が注目している。</p>

<p>もっとも、一人の女性首相が誕生したからといって、日本が男女平等の「優等生」になったと考える人は少ないだろう。たとえば、政治の世界では衆議院・参議院を合わせた女性議員の割合は約19％にとどまり、先進民主主義国のなかでも最低水準にある。単純に「数」を男女平等の指標と考えた場合、男女平等の実現にはほど遠い。依然として「男の国会」が続いており、女性は政治の「表舞台」で十分に活躍できていないのが日本の現状だ。</p>

<p>ただし、女性政治家が少ないからといって、日本の有権者が女性政治家にあからさまな拒否感を抱いている、と言われればそれも違う。たとえば、朝日新聞社が高市早苗内閣発足直後に実施した世論調査によると、内閣支持率は68％に達し、2001年以降の新内閣としては三番目に高い水準だった。とくに若年層の支持が高いようだ。</p>

<p>私自身の研究でも、日本の有権者の多くは、性別よりも所属政党、あるいは政治家の政策や能力といった要素を重視して投票行動を決定する傾向があることが確認されている。21世紀になり、日本でも「男か女か」で政治家の良し悪しを決める時代ではなくなりつつあるのかもしれない。</p>

<p>しかし、「拒否感がない」ことと「差別がない」ことは同義ではない。目に見えにくいバイアスが、女性政治家や政治家を志す女性をさまざまな場面で苦しめているからだ。たとえば、早稲田大学の尾野嘉邦教授らの研究チームによれば、有権者は、女性政治家を「衆議院のような強い権限をもつ場」よりも「参議院のような補完的役割をもつ場」にふさわしいと判断する傾向にあるという。これは、「男性がリードし、女性は支える」という固定的なジェンダー観が、いまだ投票行動に影響していることを示唆している。</p>

<p>つまり、多くの有権者は「女性が政治家になること」には賛成しても、「権力の中心に立つこと」にはいまだに慎重なのかもしれない。</p>

<p>さらに問題なのは、そもそも「男女格差」に関心をもつ人が少ないことだ。私の好きなお笑いコンビ・さらば青春の光のコントに『若菜まもる』というのがある。候補者・若菜まもる扮する森田哲矢が「女性の社会進出」を訴えるのに対し、選挙参謀の東ブクロが「カジノ誘致とゴミ処理場建設」を主張して票をとるよう助言する。笑い話にされてはいるが、実際の選挙現場をうまく風刺しているように思う。実際の選挙でも、「女性の社会参画」が主要な争点になることはない。</p>

<p>2025年に行なわれた東京大学と朝日新聞社の共同世論調査によれば、有権者が「最も優先的に政治に取り組んでほしい課題」として挙げたのは「年金・医療・介護」や「景気・雇用」であり、「女性の社会進出」といった選択肢はそもそも設けられていなかった。前回の参院選でも、主要な争点は物価高などの経済政策や外国人労働者問題であり、女性天皇や選択的夫婦別姓など特定の制度論が話題になることはあっても、「女性の社会参画」そのものが大きな争点になることはほとんどなかった。</p>

<p>コントのなかの選挙参謀・東ブクロのほうが候補者・森田哲矢よりも、現実の有権者心理をよく理解しているといえるかもしれない。森田は、「女性の社会進出」を訴えると、女性から「モテる」と思っていたが、残念ながら現実問題、得票には繋がらない。</p>

<p>男性の多くは、格差があっても直接的な不利益を感じにくいため、こうした問題に関心が薄いのはある意味で自然だろう。だが、女性のなかにも関心が低い人は少なくない。「現状で十分」、あるいは「どうせ変わらないでしょ」と諦めている人もいる。または、「自身の生活や子育てのほうが重要であり、社会全体の男女平等まで考えが回らない」、そのように感じている女性は多いだろう。</p>

<p>コンプライアンス意識の高まりとともに「男女平等」という言葉は日常的に聞かれる言葉になった。だが、それはしばしば形式的に唱えられるスローガンに過ぎず、上辺だけで「時代は変わった」とはいうものの、現実には、他の課題のほうがどうしても優先されてしまう。これが日本の「現在地」である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>高市政権誕生の影響</h2>

<p>では、初の女性首相の誕生によって、この現状はどのように変わるのだろうか。</p>

<p>まず、高市首相の誕生は日本社会で大きなニュースとなり、男女平等やリーダーシップの在り方に関する関心をにわかに高めた。発足直後の高支持率が示すように、高市政権に対する期待は非常に高い。これは、女性の社会進出や政治参加の重要性について、国民がポジティブに考えるきっかけとなり、今後の男女平等の推進に向けた議論を活発化させるかもしれない。</p>

<p>これまでも女性閣僚や都道府県知事は存在したが、「首相」という国家権力の頂点に女性が立ったことは象徴的であり、政治家を志す女性たちにとって「自分にもできる」というロールモデル効果をもたらす可能性もあるだろう。</p>

<p>国民のあいだに「女性でも首相になれる時代が来た」という感慨が広がり、若い世代にとっては、女性が首相である光景が「異例」ではなく「日常」として記憶される最初の機会になるかもしれない。これは日本社会にとって非常に大きな一歩である。</p>

<p>しかしながら、ここで違和感があるのは、「はたして高市首相は女性のロールモデルなのか」という点である。誤解や切り取りを恐れずに言えば、高市早苗という政治家を単純に「女性政治家」として扱って良いのかどうか、ということである。</p>

<p>政治学では、一括りに「男性政治家」か「女性政治家」、いわば白か黒かの構図で分類することが多く、それぞれ「典型的な男性政治家」「典型的な女性政治家」とはどういう政治家なのかについて、研究が進められてきた。</p>

<p>それらの研究では、一般的に、女性政治家は福祉・教育・家族政策といった社会的支出を重視し、男女平等や社会参画を推進する傾向があるとされる。だが、高市首相はむしろ保守的で国家主義的な政策を重視し、選択的夫婦別姓や同性婚といったリベラルな社会政策には慎重な立場をとってきた。その意味で、彼女は「典型的な女性政治家像」からかけ離れている。</p>

<p>ちなみに、安全保障面においての「典型的な女性政治家像」については議論がわかれている。かつては「女性リーダー＝平和志向」という通説が広く受け入れられていたが、近年は必ずしもそうとは言えない。実際、イギリスの「鉄の女」マーガレット・サッチャーのように、強硬な外交・軍事政策を推し進めた女性指導者は少なくない。</p>

<p>だが、これは女性リーダーが生まれつき好戦的だからではない。むしろ、女性政治家は「柔和で、控えめであるべき」というステレオタイプが根強く存在する国際社会において、女性政治家が「弱く見られないため」に防衛的な戦略をとらざるを得ないという構造的要因が大きい。</p>

<p>言い換えれば、女性リーダーがしばしば強硬的な外交・防衛姿勢を示すのは個人の性格の問題ではなく、リーダーシップに求められる「男らしさ」を体現しなければならないという見えないプレッシャーの結果でもある。</p>

<p>一方で、日本では長らく「政治とカネ」の問題が取り沙汰されてきたが、女性政治家の増加が腐敗の抑制や政策の透明性向上に寄与するという研究も少なくない。実際、女性議員の割合が高い国ほど汚職件数が少ない傾向があることも確認されている。</p>

<p>しかし、これをもって既存の研究でよく論じられる「女性は男性よりも本質的に清廉で実直だから」と結論づけるのは早計だろう。むしろ、生まれつきの男女の資質の違いというよりは、女性議員が長らく政治の本流から排除され、既存の利害ネットワークに組み込まれにくかったという制度的・構造的要因のほうが説得力をもつ。この観点から見れば、高市首相の登場も「政治刷新」の象徴とは言い切れないだろう。</p>

<p>実際、高市首相は安倍晋三元首相の路線を継承し、内閣の布陣も自民党の既存ネットワークの延長線上にあると見られている。したがって、高市首相が「女性首相」であるという理由だけで、政治とカネの構造的問題を直ちに是正してくれると期待するのは現実的ではない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「女性首相」ではなく「一人の首相」として</h2>

<p>以上のように見てくると、高市首相を「女性のロールモデル」として単純に位置づけることはできない。たしかに、女性が国家のトップに立ったという事実は歴史的な意味をもつが、それをもって直ちに社会の意識が変わるわけではない。高市首相の誕生を必ずしも素直に喜べない女性が少なくないのは、その象徴的な意味と現実の距離を感じ取っているからだろう。</p>

<p>そもそも、日本で初めて女性首相が誕生したとはいえ、それはまだ「一人」に過ぎない。そして、その人物像は一般的に想定される「女性政治家」のイメージとは重ならない。そう考えれば、「一人の女性首相が出ても、私たちの現実は変わらない」と感じる人がいるのは至極当然だろう。</p>

<p>また、彼女が「女性である」ということだけに政治的変革を期待することの危うさもある。昨年刊行された拙著の『なぜ男女格差はなくならないのか』（講談社現代新書）でも似たような趣旨のことを書いたが、懸念されるのは、彼女の登場によって「女性も首相になれたのだから、もう十分だ。男女平等は達せられた」という社会的満足感が広がること、あるいは、もし高市政権が期待に応えられなかった場合、「やはり女性では無理だった」という男女平等へのバックラッシュが高まることである。</p>

<p>いずれも、「高市首相＝日本初の女性首相」という過剰な象徴化がもたらす副作用であり、それこそが真の男女平等を遠ざける最大の要因となりかねない。</p>

<p>しかし、現実問題として、高市首相は本人の意図にかかわらず「女性首相」として評価される宿命にある。メディアの報道でも、「女性なのに」「女性だから」という言葉がしばしば枕詞のように添えられ、政治的な手腕よりも、外見や振る舞いに焦点が当てられがちだ。</p>

<p>たとえば、米海軍横須賀基地の原子力空母ジョージ・ワシントンでトランプ大統領が演説した際、高市首相が笑顔で跳びはねながら右手を突き上げ「はしゃいでる」件が話題になった。APEC首脳会議の会場では、高市首相の「社交的な」外交手腕を評価する報道もあったが、そこでも「女性」という目線は少なからずあった。私の大学の同僚が、高市首相が誕生した際にBBCの報道映像を送ってきたが、そこではなぜかカメラが彼女の「スカート」をアップで映していた。</p>

<p>過去の男性首相に「男性首相」というラベルが付けられたことはないし、歴代首相のスーツがことさらメディアで話題になったこともない。男性政治家は「個人」として評価され、女性政治家は「女性」として評価される。この構造が変わらない限り、形式的な平等がどれほど進んでも、実質的な平等は実現しない。高市首相誕生という単発的なイベントだけに、こうした構造的変化を期待することもできないだろう。</p>

<p>ただし、このような女性政治家の「特別扱い」は、程度の差はあるが日本だけに限った現象ではない。先進民主主義国の多くでも、女性政治家は政策や政治手腕よりも、「女性としての印象」や「外見」「話し方」といった点に焦点を当てて評価されがちだ。その結果、女性政治家は男性以上に自らの言動やイメージに細かく気を遣わなくてはならない。</p>

<p>たとえば、ドイツのアンゲラ・メルケル元首相は感情的に見られないよう努め、米国のヒラリー・クリントンも声の高さや語調を意識的に「男らしく」なるように変えていた。しかし、それでも彼女たちは批判を免れなかった。政治学やジェンダー研究が指摘する「ダブル・バインド（二重拘束）」と言われる現象で、優しさや気遣いを見せれば「政治家としては弱すぎる」と切り捨てられ、強さを示せば「威圧的だ」「女性らしくない」と批判される。この「ダブル・バインド」はいまも多くの女性リーダーを縛っている。</p>

<p>こうした構図は、文化や国境を越えて共通しているが、日本でも高市内閣の誕生によってこの評価の仕組みが急に変わるとは考えにくい。むしろ短期的には、日本で初の女性首相であるがゆえに、高市早苗が「女性であること」そのものに過度の注目が集まり、彼女の一挙手一投足がこれまでの（男性）首相以上に細かく吟味されるだろう。こうした過剰な視線は、高市首相をはじめ女性政治家が「女性であるがゆえに」説明責任を二重に負わされている現実を映し出している。</p>

<p>しかし、重要なのは、この過剰な注視を一過性の現象としてどう乗り越えるかである。長期的に日本が本当にめざすべきは、「女性首相が当たり前になる社会」である。女性政治家の数が増え、女性が首相の座に就くことがもはや珍しくなくなれば、「女性だから」「女性なのに」といった枕詞は不要になるし、私のこんな記事もなくなるだろう。</p>

<p>もっと言えば、高市首相が「女性首相」としてではなく、「高市首相」として語られるようになる。その日が来たとき、日本の民主主義はようやく男女平等の劣等生から抜け出すスタートラインに立つことになるのかもしれない。</p>

<p>そのような立場から、私は、高市首相を女性首相としてではなく、高市早苗という一人の政治家として期待し、どのような成果を見せるか見守りたいと思っている。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/kokkai.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[田中世紀（オランダ王国フローニンゲン大学助教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>名門ケンブリッジ大が800年守る「最高の勉強法」 天才を育てる学びの掟  飯田史也（ケンブリッジ大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13920</link>
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			<description><![CDATA[数々のエリートを輩出する名門ケンブリッジ大学。同校では教育の核として「人と人とのコミュニケーション」を据えている。一体それは何故か。ケンブリッジ大学教授の飯田史也氏に話を聞いた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ケンブリッジ" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Cambridge.jpg" width="1200" /></p>

<p>ニュートンやダーウィンをはじめ、多くのノーベル賞受賞者と世界的リーダーを輩出してきたケンブリッジ大学。その教育の根幹には、800年前から受け継がれてきた「学びの掟」がある。なぜ同大学は&quot;コミュニケーションを中心に据えた学び&quot;を重視してきたのか。ケンブリッジ大学教授・飯田史也氏に、その教育哲学を聞いた。　</p>

<p>聞き手：編集部（阿部惇平）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>800年受け継がれた「学びの核」</h2>

<p>――本書は、イギリスの名門・ケンブリッジ大学が約800年にわたる歴史のなかで培ってきた「学び」の仕組みと本質をまとめた一冊です。執筆の動機や経緯について、伺えますか。</p>

<p>【飯田】私はもともとロボット工学を専門とする研究者で、大学院までは日本にいました。その後、世界の大学を渡り歩くなかで、偶然流れ着いたのが、ケンブリッジ大学です。世界各国の大学を見てきた私でさえ、着任当初、ケンブリッジの特異な教育システムに心底驚かされました。国の文化・慣習の違いを差し引いても、こんなにも違うのか、と。</p>

<p>当時、ハーバードなどほかの名門校についての書籍は多かったけれど、ケンブリッジの「学び」を体系的に解説した本はエッセイを除き、私の知る限り見当たりませんでした。</p>

<p>そこで、教育の本質レベルまで掘り下げれば、何か共通する原理原則が見出せるのではないか。そう考え、執筆に取り掛かりました。もちろん、学びのかたちは学生の数だけあり、単純化が難しいことは十分承知していました。</p>

<p>――本書では、その原理原則を「ケンブリッジ流・学びの七つの掟」として提示していますね。</p>

<p>【飯田】詳細は本書に譲りますが、すべての「掟」に通底しているのは、「人と人とのつながり」を学びの中心に据えるということ。約800年の歴史のなかで受け継がれてきた教育哲学です。</p>

<p>ケンブリッジでは、教授と学生の距離が驚くほど近い。日本を含む多くの大学では、新入生と教授が親密な関係を築くことは稀です。ケンブリッジにおいては、両者がまるで家族のような付き合いをすることも少なくありません。</p>

<p>背景の一つには、世界でも数少ない「カレッジ制」を採用している点が挙げられるでしょう。ケンブリッジには29の学部生用のカレッジがあり、新入生は、原則としてカレッジの寮で生活します。教員も各カレッジに所属し、徹底した少人数教育を行なう。時にはプライベートの悩みに至るまで、密にコミュニケーションを重ねていきます。ほかにも、ケンブリッジには人と人との交流・対話を促す仕組みが随所に見られます。数百年にわたり、受け継がれてきた大学の伝統です。</p>

<p>――なぜケンブリッジは、「人と人とのつながり」を学びの中心に据えているのでしょうか。</p>

<p>【飯田】私が得た結論の一つは、人と人が出会い、対話を重ねたときにこそ、個人の思考の延長線上にはない学びが生まれるから、ということです。本書では、「学びの奇跡」と表現しています。大げさに聞こえるかもしれませんが、ほかに適切な言葉が見つからなかった。</p>

<p>ケンブリッジの「奇跡」を身をもって実感したのが、宗教音楽を専門とする同僚教員との出会いでした。</p>

<p>ケンブリッジでは、教員同士の関係もきわめて親密です。私の専門はロボット工学で、彼の研究とは一見まったく無関係。しかし、お互い家族ぐるみで付き合い、語り合うなかで、教育とは何か、感性とは何かという問いに、驚くほど共通点があると気づいた。その対話から「ピアノを演奏するロボット」という発想が生まれ、実際に大成果を上げる研究プロジェクトになりました。</p>

<p>なぜあのタイミングで、彼と出会うことができたのか。偶然と言えば偶然ですが、振り返ればまさに「奇跡の出会い」としか言いようがない。学生においても同様に、親密な関係性のなかから、個人の力を超えた学びが創発されている。ケンブリッジから数多くの才能が生み出されてきた所以です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>変わらない軸が奇跡を支える</h2>

<p>――一方で、勉強とは一人で黙々と取り組むものだというイメージも根強くあります。日本では2020年に『独学大全』（読者猿、ダイヤモンド社）がベストセラーとなるなど、「独学」に注目が集まりました。</p>

<p>【飯田】学びにはさまざまな方法があり、一人で勉強する時間ももちろん大切です。問題は、学びの軸足をどこに置くか。私が問いかけたかったのは、「独学偏重の姿勢によって失われるものは何か」という視点でした。</p>

<p>端的に申し上げれば、失われるのは「奇跡が起こる瞬間」ではないか。少なくとも私は、自分でも想像していなかった場所へ到達したい、という思いで研究を続けています。しかし、その地点は一人で積み上げた先にあるとは限らない。異なる価値観をもつ他者と出会い、対話を重ねるなかでこそ、個人を超えた学びが立ち上がるはずです。この視点は、学びを考えるうえで欠かせないものだと考えています。</p>

<p>――『独学大全』がベストセラーになったのは、コロナ禍の時期でした。外的要因で人と人とのつながりが制限された時期に、ケンブリッジではどのように学びを継続させたのでしょうか。</p>

<p>【飯田】とても大事なご指摘です。コロナ禍は、「学びの掟」をあらためて浮き彫りにする機会となりました。ケンブリッジは歴史上、14世紀の黒死病のようなパンデミック（疫病の大流行）を幾度か経験してきました。おそらく過去においても、そして今回のコロナ禍でも揺らがなかったのが、「コミュニケーションを止めてはならない」という教育の大前提です。</p>

<p>もちろん、試験や指導は対面からオンラインへと移行しました。しかし、学びをたんなる「独学」「自習」に置き換える選択肢はとらなかった。印象的だったのは当時、普及しはじめたオンラインツールを積極的に活用し、むしろ疎遠になりがちだった卒業生や関係者とのつながりをいっそう強め、教育に生かした点です。</p>

<p>――逆境を機に、「コミュニケーションを中心に据えた学び」をむしろ加速させたわけですね。</p>

<p>【飯田】はい。ケンブリッジでよく語られる、次の言葉があります。「変わることを恐れるな。変わることは自分を知ることだ」。そして「だからこそ、何を変えないのかを明確にせよ」。</p>

<p>当時のパンデミックは、「人と人とのつながりこそが学びの核である」というケンブリッジの教育の掟をあらためて確認する機会になったのだと思います。</p>

<p>――変化が激しく、価値観や生き方が多様化する現代だからこそ、歴史のふるいにかけられてもなお残るケンブリッジの「本質的な学び」が、多くの人にとって意義をもつのではないでしょうか。</p>

<p>【飯田】そのとおりです。現代は、昔のように決められたコースを進めば安泰という時代ではありません。選択肢が増えた分、何を判断基準にすべきかが見えにくくなっている。だからこそ、普遍的で本質的な判断軸が求められているのだと思います。</p>

<p>800年の歴史を経たケンブリッジの強さは、この「変わらない核」を持ち続けてきた点にあるのではないでしょうか。それが「人同士のつながりとコミュニケーション」という揺るぎない土台です。どれほど優れた才能をもっていても、基本的な対話や人間関係のルールを押さえていなければ、学びも人生もうまく機能しません。</p>

<p>ケンブリッジでは、定期的にフォーマルディナー（晩餐会）が開かれます。スーツ、ガウンなどの正装で教授と学生、ゲストがディナーを一緒にとることにより、個性的な学生も社交性やテーブルマナーを身につけ、フォーマルな場できちんと振る舞えるようになる。礼節など基礎の土台があるからこそ、自由に挑戦できるという考え方です。</p>

<p>たしかに、日本の大学には誇るべき研究や技術があります。しかし、文化や慣習の異なる人びとと対話する力という点では、まだ学ぶ余地があるのではないでしょうか。オンラインの発達によって、海外との距離は縮まりました。あとは、異なる人びととどうコミュニケーションを築くか。</p>

<p>世界と対話する力を育てることが、これからの教育にとって重要です。願わくは、本書がそのきっかけになればと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 13 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[飯田史也（ケンブリッジ大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【22世紀の人間像研究会】人間の身体の「解釈」はどこまで変わっていくのか（１）  磯野真穂（人類学者／東京科学大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13749</link>
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			<description><![CDATA[人間の優劣や役割を生物学的に説明しようとする生物還元主義は、かつて植民地主義を支える論理として用いられてきました。そうした思考は、すでに過去のものになったと言い切れるのでしょうか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="22世紀の人間像研究会" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260216isonomaho1.jpg" width="1200" /></p>

<p>松下幸之助は終戦直後にPHP研究所を創設して以来、人間とは何かについて思索を重ね、その集大成ともいえる『人間を考える』（昭和47年〈1972年〉発刊）において、「人間には万物の王者たる優れた本質が与えられている」とする肯定的な人間観を提唱しました。</p>

<p>それから半世紀を経て、戦争や環境破壊、AIの進化など人類は新たな岐路に立っています。「22世紀の人間像研究会」では、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していきます。</p>

<p>今回からは、研究会のメンバーがそれぞれの専門分野から22世紀の人間像を考えるための視点を提供していきます。人類学者の磯野真穂さんには「身体性」という観点から、身体と象徴や儀式の関係についてお話しいただきます。2回にわたって掲載するこちらの議論は、そのあと展開される「対話」の出発点になります。</p>

<p>人間の優劣や役割を生物学的に説明しようとする生物還元主義は、かつて植民地主義を支える論理として用いられてきました。そうした思考は、すでに過去のものになったと言い切れるのでしょうか――。（構成：中嶋 愛）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>文化人類学では身体をどのように見るか</h2>

<p>文化人類学的な身体の捉え方をざっと知るためには、二つの視点を持つと便利です。一つは「身体と権力」に関する話。もう一つは「身体と象徴」に関する話です。</p>

<p>まず「身体と権力」に関してですが、文化人類学と植民地主義は切っても切れない関係にあります。それと深く結びつくのが、生物還元主義（バイオロジカル・リダクショニズム）と呼ばれる考え方で、人間の優劣や役割を生物的な特徴に落とし込んでいくものの見方です。これの何が問題かというと、「生物学的にはこうである」と断じることで、政治的な意図や権力の構造が隠されてしまうという点です。そのメカニズムについては後述します。</p>

<p>一方で、社会進化論呼ばれる考え方があります。「人間は最も進化した欧米人に向かって直線的に進化する」という考え方です。さまざまな問題を含んでいるため一度は後退しましたが、最近ではこの考え方を潜ませているようなものも見られます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生物還元主義と単系進化論がもたらしたもの</h2>

<p>実は、生物還元主義と社会進化論の歴史をたどると、かなりおぞましい事例が確認できます。</p>

<p>たとえば南太平洋にあるタスマニア島に起きたことです。この島はオーストラリア大陸の南東に位置し、周囲の潮の流れが強いために人が近づきにくく、独自の文化が育っていました。19世紀になるとここにイギリスが入植します。その結果、先住民に何が起きたか。</p>

<p>1803年にイギリス人が上陸した際には4000人の先住民がいたといわれていますが、1859年には15人まで激減し、1876年には0人(入植者との間に子どもが生まれた場合もある。ここで示した数字は、隔絶した環境の中で生きていたタスマニア島の人々のこと)になりました。イギリス人が持ち込んだ伝染病、レイプ、殺人など、死因はさまざまです。</p>

<p>この時代、非欧米人は進化の途中にある人種という考え方がイギリスをはじめとする欧米人にはありました。十分に進化した自分たちの身体からは進化の痕跡が消えてしまっているが、進化の途中にある非欧米人の身体には残っているはずだと考え、その視点から非欧米人の身体に強い関心が集まりました。</p>

<p>欧米人が非欧米人に邂逅することになる大航海時代からこうした考え方は存在していましたが、ダーウィンの進化論がそれに「裏付け」を与えるかたちになりました。ダーウィンの進化論に触発され、イギリスの社会学者のスペンサーが「適者生存」という言葉を提唱します。スペンサーは、ダーウィンの進化論をそのまま人間社会に適用したのです。これが社会進化論であり、劣等な民族がより優秀な民族によって支配されることは自然の摂理なのだという思想的根拠が生まれました。生物還元主義にはさまざまなパターンがありますが、社会進化論はその典型です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>タスマニア先住民の身体への執拗な関心</h2>

<p>タスマニア島に入植したイギリス人には「進化の途上にある人間の身体には、ある種のミステリアスな力がある」という発想もあったようです。実際、当時の王が亡くなった時は、その墓が暴かれ、手と足が盗難に遭うという事態にもなったそうです。</p>

<p>加えて、いまだと考えられないような話ですが、女王であるトラゴニーニが亡くなった際、彼女の骨格は、「原始の骨格」として博物館に展示されました。彼女の骨が故郷で埋葬されたのは1976年、彼女の死後100年たってからのことです。</p>

<p>植民地において白人の植民者が先住民の身体に示した並々ならぬ関心の背景には、自分たちは何者なのかを歴史のなかに位置付けたいという欲望があり、それは非白人たちの存在を自分たちの歴史の中に都合のいいように位置付けていく実践でもあったのです。</p>

<p>これは日本と無関係の話ではありません。今年の12月15日、日本人類学会は、過去において一部の遺骨収集や保管、研究活動がアイヌ民族を傷つけてきたとしてお詫びするという声明を発表しました（三股智子「アイヌ遺骨の収集、日本人類学会が初の謝罪　研究目的で1700体以上」毎日新聞, 2025年12月15日）。アイヌの遺骨は研究資料として大量に収集され、中には動物の骨と一緒に扱われたケースもあるそうです。アイヌ民族が研究対象とされたのは明治期以降とのことですが、ここには「動物&rarr;アイヌ&rarr;和人」といった極めて恣意的な分類による社会進化論的な図式が読み取れます。社会進化論は至る所に現れる。そう考えておくべきでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>植民地主義と「体毛」の問題</h2>

<p>植民地主義の文脈では、体毛といった身体の細部までもが解釈の対象になっていました。レベッカ・M・ハージグという歴史学者の『脱毛の歴史』（東京堂、2019年）という本があります。この本の第１章には、植民地主義の時代、いわゆるネイティブアメリカンの人たちは当時体毛を火で焼いていたらしい、という話が出てきます。それで体がツルッツルだった。</p>

<p>当時、欧米人の男性は「体毛が豊かなほどいい」とされていたので、「なぜインディアンに毛がないのか」という議論が盛り上がったそうです。いまだと想像しづらいことですが、アメリカ先住民の人たちを前にして「この体毛のない人たちを欧米化することは可能なのか」と本気で考えていたのです。さらにぞっとするのは、「アメリカに住んでいる未開人に体毛がないのは、意志や意欲、論理的思考能力、社会の規律を守る能力が欠如している証拠である」といって、植民地化を正当化しようとしたことです。</p>

<p>老いも若きも、男性も女性も脱毛にいそしんでいる現代の社会状況からは考えにくいのですが、ここで申し上げたいのは、身体の理解というのは常に政治的な問題をはらんでいるということです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>摂食障害は母親が社会に出て働いたせい？</h2>

<p>社会で権力を持っている人が、社会問題としての身体をどう解釈するかは、文化や国によっても変わってきます。私が調査をしていたシンガポールと日本での摂食障害の原因に関する言説がそのことをよく表しています。</p>

<p>日本で摂食障害が出始めたのは1970年代後半から1980年ぐらいにかけてのことです。当時、「なぜいま、若い女性たちに摂食障害が広がっているのか？」をいろんな人が解明しようとしました。これもいま聞いたら驚くようなことですが、精神科医が「女が男のまねをして社会に出るからこんなことが起こるのだ」などと言っていたのです。</p>

<p>特に拒食症は、極度の痩せが特徴の病気です。体が女性らしい体つきになることを拒否しているように見えると表現もできます。このような解釈が医療専門家に採用され、母親が自分の女性性を受け入れることなく、「男のまね」をして社会に出て働こうとした結果、それを見た娘が女性性を拒否する、という解釈がまかり通っていました。</p>

<p>実際、80年代、90年代くらいに出た日本の論文を見ると、医師や心理学者がまことしやかに母親原因説を裏付けるような研究結果を出しているのです。</p>

<p>私は2001年にシンガポールで摂食障害の調査を実施したのですが、母親原因説なるものはほぼ一蹴されていました。シンガポールで摂食障害が出始めたのは、日本よりも少し遅れて1990年代の後半からです。もともと母親原因説は欧米から来ているのですが、日本はそれを受容した一方で、シンガポールではそうではない。同じ西洋医学を学んだ医師のいる国で、同じ病気に対する解釈がこれほどまでに違うのはなぜなのか。</p>

<p>私の結論は、この違いはシンガポールと日本の経済発展過程の差に起因するというものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本は男女完全分業、シンガポールは全員労働</h2>

<p>日本は経済成長をする時に、男女分業をはっきりすることで経済発展をしていきました。男性はとにかく外で働きまくり、女性は家庭で家事、子育て、介護に従事するという男女の分業です。</p>

<p>シンガポールは、1963年にイギリスの植民地からマレー半島やボルネオ島と合わせてマレーシア連邦として独立しましたが、華僑主体のシンガポールはクアラルンプールの政府と対立して、1965年にシンガポール単体として独立したという歴史があります。</p>

<p>淡路島くらいの大きさの領土しかなく人口も少ないため、労働力をどう確保するかが大きな問題になりました。男女の区別なくみんな働いてもらわなければ経済がまわらないので、保育所をどんどんつくるなどして女性も外に出て働ける環境を作りました。それであっという間に男女の労働比率が半々ぐらいになりました。</p>

<p>小さいこどもの子育てや家事は、マレーシア、フィリピン、インドネシアなどの周辺国から来たメイドがやるのが普通なので、「お母さんの温かい手作りのお弁当がなければ子供がおかしくなります」というような発想は全くない。母親起源説が定着するような土壌がないということです。</p>

<p>シンガポールでむしろ注目されていたのは、欧米化の影響です。シンガポールでは英語も公用語になっているので、当時からイギリスやアメリカのテレビ番組が普通に放映されていました。そうした番組を通じて、特に女性の美や成功を痩せた身体と関連付けるような価値観が浸透し、それが規範となって摂食障害が増えたという説明が、シンガポールでは説得力を持ちました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>女性を「異分子」とする社会構造</h2>

<p>日本でもっとも影響力があったのは、久徳重盛さんという内科医が書いた『母原病』という本で、大ベストセラーにもなりました。ただ、母原病だけでは説明しきれずに、最後は父性の欠落も現代の病理であるといって「父原病」まで持ち出してくるのですが。</p>

<p>これもいま読み返すとびっくりする話なのですが、子供のアトピー性皮膚炎、不登校、家庭内暴力、喘息などは全て母親のせいであると書かれています。重要なのは、これらが「科学的な裏付けがある」かのように書かれていることです。</p>

<p>日本で母親原因説が定着しやすかったのは、もともと日本の経済発展が男女の完全分業で成り立っていたので、子どもの問題を女性が働き始めたことと結びつけて一見科学的な感じで説明する母原病のような言説が支持を得やすかった。</p>

<p>変化を嫌がる人たちにとって、社会に出て男性と同じように働く女性は「異分子」だったわけです。その異分子に責任を押し付けるかたちで、「客観的な生物的、医学的な事実」として語られたのが母原病です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>現代社会にも現れる生物還元主義</h2>

<p>実は、この生物還元主義のようなものは現代社会でもときどき出てきます。ここでひとつクイズです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>「放射〇」「ワクチン〇」「コロナ〇」の〇に共通の漢字一文字を入れてください。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>何だかわかりますか。そう、「脳」です。</p>

<p>放射能をうんと怖がる人を「放射脳」、ワクチンをうんと怖がっている人はワクチン脳、コロナを怖がる人はコロナ脳、と呼ばれることがあります。</p>

<p>自分と明らかに違う考え方をしている人に対して「脳が違う」という生物学的な表現を使い、「私たちとあの人たちは身体が違う」ことを示唆する。私たちには誰しもこういう傾向があることに自覚的でなくてはならないと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>シリコンバレーでは広がる「遺伝子最適化」の動き</h2>

<p>生物還元主義の最新の事例のひとつとして「遺伝子最適化」の話があります。最近、ウォールストリートジャーナルで「賢い子ども需要、米テック業界で沸騰（Inside Silicon Valley&rsquo;s Growing Obsession With Having Smarter Babies）」（2025年8月12日）という記事が掲載されました。</p>

<p>シリコンバレー超富裕層のあいだでは、子どもを持つときに胚のIQなどの特性を予測して選別したり、知能の高いパートナー同士でこどもをつくるための高額なマッチングサービスを使ったりする人たちが出てきているそうです。</p>

<p>テクノロジーによる「遺伝子の最適化」によって子どもの成功可能性を高めたり、人間を進化させたりできる、という考え方です。もちろんこれは眉唾物の考え方であって、そんなに都合よく思い通りの子どもが生まれるわけはありません。ただ生物還元主義は、人間が自分を納得させたり、正当化したりするための手法として、現れやすい思考の癖であることは押さえておくべきでしょう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 13 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[磯野真穂（人類学者／東京科学大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「中国と台湾は一つの家族」という幻想　中国が抱えている台湾問題「最大の弱点」  岡本隆司（早稲田大学教授）,野嶋剛（ジャーナリスト）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13864</link>
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			<description><![CDATA[2025年11月7日の高市早苗首相の「台湾有事」 を巡る国会答弁以来、日本に対して経済カードを切るなど中国が強硬な姿勢をとり続けている。岸田政権や石破政権の時代と比べて、高市政権が誕生すると仮面を捨てるかのように態度を豹変させた中国。それは、現在の日本が彼らにとって恐れるべき対象であることを意味する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中国国旗" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Chinaflag.jpg" width="1200" /></p>

<p>2025年11月7日の高市早苗首相の「台湾有事」 を巡る国会答弁以来、日本に対して経済カードを切るなど中国が強硬な姿勢をとり続けている。岸田政権や石破政権の時代と比べて、高市政権が誕生すると仮面を捨てるかのように態度を豹変させた中国。それは、現在の日本が彼らにとって恐れるべき対象であることを意味する。（構成：編集部）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>悪しき経験から学ばない中国</h2>

<p>【野嶋】じつのところ、昨年11月の高市首相の国旗答弁以来の日中関係の緊張について、中国の一般民衆は2012年の「尖閣諸島国有化」の騒動のときと比べると、かなり冷静です。政府が「反日」を掲げても、以前ほどには中国国内で盛り上がらなくなっている。中国が著しい経済発展を遂げたこともあり、日本は徐々にアジテートの対象としての価値が薄くなっているのでしょう。</p>

<p>【岡本】それでも中国共産党のイデオロギーからすれば、中国の富裕層が日本とのあいだを行き来して関係が深まっていくのは好ましくなく、今後も台湾問題にかかわらず日本に厳しい目を向けてくるでしょう。</p>

<p>【野嶋】基本的には「陰謀論」の世界なんですよね。香港を例に挙げれば、中国共産党は現地の運動家や活動家が欧米から資金援助を受けて「カラー革命」を行なったと定義したことで、強硬な手段に打って出ました。今回も、中国では台湾の独立派と高市政権が示し合わせているとの報道がある。もちろんそんな事実はなくて、現在は日台の政権が立場的に似ているから、結果としてそう見えるだけの話です。尖閣国有化のときでさえ、当時の民主党の野田政権と石原慎太郎都知事が結託した陰謀だと彼らは吹聴していたくらいです。</p>

<p>【岡本】中国はもはや自他ともに認める大国なのですから、静かに堂々としていればいいはずです。そうすれば東アジアは丸く収まるのですが、どうしてもそうはいかない運動律が中国にはある。人間とは学ばない生き物で、しかも世代は変わりますから、過去の悪しき経験から教訓を得ることは容易ではない。結局のところ、中国政府の行動は尖閣国有化のときと何ら変わりありません。もちろん、過去の経験から学んでいないのは中国だけではなく、日本にも当てはまることなのですが。</p>

<p>【野嶋】たしかに、尖閣国有化のとき習近平が強硬な態度をとらなければ、第二次安倍政権があれだけ長続きすることはなかったかもしれないし、安保法案がスムーズに成立することもなかったでしょう。</p>

<p>今回の中国の動きを受けて東アジアで何が起きるかを考えると、日本と台湾、フィリピン、オーストラリアの海洋国家連合の結成につながるかもしれません。台湾は正式には加盟できないとしても、実質的には入るでしょう。もしも現実化すれば、中国が実際に恐れていたシナリオです。なぜ中国共産党はその方向に事態をみずからプッシュしてしまったのかは日本や欧米の理屈からはわかりづらいですが、彼らは歴史を知っているものの、そこから学べてはいないから損をしているわけです。</p>

<p>【岡本】言い換えると、これくらいならばまだ「損」だと思わないだけの余裕があるのでしょう。本当に国内外の状況が悪化して、中国共産党の正統性が揺らぎかねない事態に追い込まれれば、鄧小平時代のように「改革・開放」路線に向かうかもしれません。ですが、少なくともいまのところその可能性はゼロに近いでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>台湾人にとっては「いつか見た光景」</h2>

<p>【野嶋】今回の件について、台湾の反応もお話しすると、日本では左右のメディアや論壇がいずれも自分たちが「見たい・聞きたい」情報だけを都合よくピックアップしています。すなわち、与党の民進党はともに中国に対抗してくれる期待を日本に向けているし、国民党は高市首相の発言は台湾海峡の安定を脅かす怪しからん内容だと批判していて、日本の保守は前者を、リベラルは後者の発言を引用して自説を補強しています。しかしこれでは、実際の台湾の温度感が見えてきません。</p>

<p>台湾人の関心がどこにあるかと言えば、中国と台湾が開戦するかしないかであり、彼らはどの立場であろうといかに中国との全面対決を避けるかについて日々苦心しています。開戦したあとにアメリカがそれに関与するか否かはその次の議論であり、その後日本が集団的自衛権を行使するかどうかについては、台湾人からすればほとんど意識しようがない世界です。さらに言えば、そもそも一般市民は日本国内の細かい安全保障論への関心はさほど高くありません。</p>

<p>とはいえ、中国が日本にかけている経済的圧力については、台湾の人びとからすれば「いつか見た光景」であり、その点については、日本にシンパシーを抱いています。国民党の馬英九総統時代、中国から台湾への観光客は最大年間418万人で、台湾の人口が2300万人であることを考えれば物凄い数でしたが、2016年に民進党の蔡英文政権が誕生して以降は激減し、2024年は24万人程度にとどまっています。台湾が受けた経済的なインパクトは今回の日本の比ではありませんでしたが、それでも彼らは中国リスクを避けられないものとしてインプットしていますから、厳しい変化にも対処し続けてきました。ですから現在の日本が置かれている境遇はよくわかりますし、一部では日本食を食べたり日本に旅行に行ったりして支えようという機運があります。</p>

<p>【岡本】日本で台湾の声を議論に引いても、台湾がどれだけ日本を応援しているか／していないかに終始しがちで、現状をどう分析して、いかに戦略的に中国と対峙するかという話はほとんど見受けられません。そのうえで、右の識者やメディアは威勢のいいことばかりを発信し、左は日本が悪いと叫ぶだけで、いずれも生産的ではありません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>台湾問題における中国の「弱点」</h2>

<p>【野嶋】日本人が台湾を語るうえで大きな問題は、本来であれば台湾有事とは2300万の台湾人の命がかかっている話なのに、彼らのことが「主語」として登場しないことではないでしょうか。この点は日中国交正常化以降、とくにリベラルのメディアや論壇が放置し続けてきた大きな欠点です。他方で保守にも問題があって、私は今回の高市首相の国会答弁はやはり、国益上あえて言う必要がないことを口にしてしまったと評価していて、本来であれば保守でもその点はしっかり批判して然るべきです。たしかに発言内容そのものは、台湾問題に関する政府の従来方針から逸脱していませんが、それと外交的な言動としてどう評価するかは別の話でしょう。</p>

<p>台湾を巡る問題で、中国にとって最大の弱点は台湾の民意です。習近平はよく「両岸（中国と台湾）は一つの家族」「運命をともにする血を分けた兄弟であり血は水よりも濃い」などと口にしますが、台湾の人びとが一向にシンパシーを感じていないのが現実です。そうであるならば、われわれ日本としては、「台湾の人たちが望まないかたちでの台湾問題の解決は認めない」と言い続けていればいいのです。平和的解決を望むことは従来も掲げてきた方針ですが、今回を機にもう一歩踏み込む選択肢もあるのではないでしょうか。</p>

<p>【岡本】現在の状況下で高市首相が政府の立場としてそう言ってしまえば、まさに火に油を注ぐようなものですから、あくまでも輿論として呼びかけるべきでしょうね。日本人はその自覚と覚悟をもつべきだと思います。</p>

<p>私に言わせれば、中国は明代のころからずっと変わらずに帝国的な振る舞いがこびりついていて、とくに現在その正統的な継承者と言える習近平がトップにいる。裏を返せば、習近平の登場で「本来の中国」に戻ったとも言える。鄧小平、江沢民、胡錦濤の時代はむしろ例外でしたが、かつての日本人はそうとは知らずに明日の中国を信じ込んで莫大な投資をして、中国経済を育て上げてきました。私は日中友好が叫ばれた時代に学生時代をすごし、中国史研究の道を歩み始めましたが、当時見ていたのは例外の時代の中国だったわけです。</p>

<p>【野嶋】私も岡本先生と同じ世代ですから、その感覚はとてもよくわかります。実際、その後の中国を見て残念ながら「裏切られた」という思いにしばしば駆られます。今日でもなお盲目的に中国を信じるジャーナリストや学者もいますが、知識人や学者など「自由派」と呼ばれた中国人の友人たちが捕まったり国外に追いやられたりする様子を見ると、私にはそう思えません。</p>

<p>岸田政権や石破政権の時代には日中関係は比較的落ち着いていましたが、それはあくまでも習近平にとっては与しやすい相手であったからで、高市政権が誕生すると仮面を捨てるかのように態度を豹変させた。その姿から、日本を警戒し、台湾との接近を認めないとする本質はやはり変わらないのだと再認識させられました。</p>

<p>【岡本】日本のことを「許せない」などと騒ぎ立てているということは、彼らにとって日本が恐れるべき対象だということです。岸田政権や石破政権はそう思われていなかったのでしょう。今後は、強硬な態度で迫られたとき、中国に謝らずとも経済的にも精神的にも生きていける日本をつくらなければいけません。中国人観光客が去れば経済が立ちいかなくなるというのであれば、あまりにも情けない話です。</p>

<p>【野嶋】そこで模範とすべきなのが台湾です。今回の高市首相の発言によって、たとえば旅行業界が窮地に立たされていると指摘されます。同情を禁じ得ませんが、中国とは経済、観光、交流を外交的武器として利用する国なのです。台湾では、中国経済への依存が政治に及ぼす影響力のメカニズムを「中国ファクター」と定義して警戒してきました。前述のとおり台湾はかつて約400万人だった中国人観光客が約20万人に激減しても持ちこたえて、半導体やバイオなど旅行業界以外に「稼げる分野」を戦略的に育てることで対中依存度を減らしつつあります。日本の各分野も、政治的リスクが大きい中国に過度に頼る構造からは脱却しなければいけません。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Chinaflag.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 13 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岡本隆司（早稲田大学教授）,野嶋剛（ジャーナリスト）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>消費税減税で消費者は本当に得をするのか　インフレの財政的帰結と価格制御の危うさ  渡辺努（東京大学名誉教授／株式会社ナウキャスト創業者・取締役）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13872</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013872</guid>
			<description><![CDATA[高市政権が 「積極財政」 を志向する背景には、2022年春以降のインフレと、 それと連動した税収増がある。ならば、 政府はインフレによる利得を何に用いるべきなのか。現下の問題は 「物価の高さ」 ではなく 「所得の低さ」 にある。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="お金" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_1000yen.jpg" width="1200" /></p>

<p>高市政権が 「積極財政」 を志向する背景には、2022年春以降のインフレと、 それと連動した税収増がある。ならば、 政府はインフレによる利得を何に用いるべきなのか。現下の問題は 「物価の高さ」 ではなく 「所得の低さ」 にある――。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>インフレの到来と税収増</h2>

<p>高市政権の経済政策の目玉は何といっても、「積極財政」だ。そもそも高市政権は、なぜ積極財政を志向するのだろうか。その財源はどこにあるのか。何に支出すべきなのか。以下ではこうした点を考察したい。</p>

<p>なぜ積極財政を志向するのかから考えてみよう。すぐ思いつく答えは、やりたい施策が多いからということだろうが、どの政権であれ、さすがに財源がない環境下で支出を増やそうとはならない。いまの日本では財源が潤沢で、そこに高市政権は目をつけ、積極財政を進めようとしている、というのが筆者の見立てだ。</p>

<p>では、はたして財源は潤沢なのか。国の税収について、当初予算策定時の見通しと決算時における実績を比較すると、2021年度以降、決算の数字が当初見通しの数字を一貫して上回るという現象が起きている。つまり、予想外に多くの税収が集まっているということだ。2025年度についても、当初予算の数字は約78兆円だったが、最終的にはこれを上回る約81兆円の着地になると見込まれている。</p>

<p>つまり、財源は潤沢ということだ。では、なぜ税収は増えているのか。理由は極めて単純で、インフレがついにやってきたからだ。10年前のアベノミクスのときから、デフレを脱却し緩やかなインフレへと移行することを政府はめざしてきた。しかし残念ながら、政府や日銀が総力を挙げて取り組んでも、インフレを起こせなかった。</p>

<p>ところが、2022年春以降、海外のインフレの日本への流入を契機として、インフレが始まった。それに刺激されて賃上げ率も2023年春闘以降、高まった。インフレと賃上げが好ましいサイクルを描きながら定着しつつある。</p>

<p>インフレが起きれば消費の金額は膨らむ。すると、それと連動して消費税収が増加する。また、賃金が上がれば所得が増えるので所得税収が増える。さらに、企業はインフレ下で価格を引き上げるので収益が改善し、法人税収が増える。このようにして、インフレは税収増をもたらしてきた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>政府債務の対GDP比は近年、低下傾向</h2>

<p><img alt="純債務の対GDP比" height="850" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260227watanabetsutomu1.png" width="1200" /></p>

<p>これまでの政権は、財政の指標として毎年のプライマリーバランス（利払いを除く歳出と歳入の差）に注目してきたが、高市政権はこれを変更し、政府債務の対GDP比という指標を、より重要なものと位置付けている。その指標はインフレの到来に伴い、近年、低下基調にある。</p>

<p>国際通貨基金（IMF）の公表値によれば、日本のグロス債務（総債務）の対GDP比は2020年までは上昇してきたが、それ以降は低下に転じており、2025年までの低下幅は29％ポイントとなっている。反転に転じたタイミングは日本にインフレが訪れたタイミングと一致しており、債務の改善の要因がインフレであることを示している。</p>

<p>グロス債務は国の所有する資産を勘案していないので適切ではないというのが高市政権の見方であり、年金積立金管理運用独立行政法人（GPIF）などが保有する金融資産を差し引いたネット債務（純債務）こそが、わが国の債務状況を正確に表すとしている。図１はそのネット債務の対GDP比を示したものであるが、グロス債務と同じく、2021年以降、低下基調であり、2025年までの低下幅は32％ポイントと、これもグロス債務とほぼ同じである。</p>

<p>政府債務の対GDPは、下がってきたとはいえ、まだまだ高水準であることに変わりはない。ただ、他国もパンデミック中の大盤振る舞いが祟り、債務水準が上がってきている。</p>

<p>現時点でのネット債務の対GDPを見ると、日本（130％）がＧ７のなかでもっとも高いのは以前と変わらないが、第二位のイタリア（127％）や第三位のフランス（108％）との差はかなり縮まってきている。この事実は、高市政権を積極財政へと向かわせる重要なファクターとなっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>インフレが生み出す債務者利得</h2>

<p><img alt="住宅ローンのシミュレーション" height="868" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260227watanabetsutomu2.png" width="1200" /></p>

<p>インフレが財政を好転させ、それが政府のスタンスを変えたというのが筆者の見方だが、インフレの到来を受けて、日銀は2024年春以降、政策金利を引き上げており、これに伴って、政府が支払う国債の利払い費も増加している。日銀の利上げで利払い費が大幅に増えれば、財政は好転どころか悪化するとの懸念も根強い。この点をどう考えればよいのか。</p>

<p>政府の財政の話は複雑なので、住宅ローンを抱えるごく普通の生活者を例に考えてみよう。かつての日本は賃金と物価の上昇率がともにゼロ％、金利もゼロ％だった。しかしいまは、賃金と物価の上昇率がともに2％程度、金利も2％程度の経済に移行しつつある。</p>

<p>この移行に伴って、生活者は得をするのか、それとも損をするのか。それは住宅ローンが変動金利か固定金利かに依存する。ゼロ％金利の時代に住宅ローンを変動金利で組んだ生活者は、2％経済への移行で金利負担が増加する。他方で、その人の賃金も2％程度で上昇するので、金利負担増と賃金上昇が見合い、トントンだ。</p>

<p>これに対して、ゼロ％金利の時代に固定金利でローンを組んだ生活者は、2％経済に移行しても金利負担は増えない。一方で、その人の賃金は2％で上昇するので生活は改善する。</p>

<p>図２は、ゼロ％経済から2％経済に移行することで住宅ローンの返済がどうなるかをシミュレーションした結果を示している。当初のローン残高が2000万円として、ゼロ％インフレの下では残高が破線のように徐々に減り、最終的に30年で完済となる。</p>

<p>これに対して、2％経済では、住宅ローンが固定金利で組まれていれば、完済の時期は22年後と大幅に短縮される。固定金利で組んだ人はたしかに儲かっている。一方、変動金利の場合は、完済は30年後と、ゼロ％経済のときと変わらない。</p>

<p>住宅ローン金利が上がっているのに得をする人がいるというのは、奇妙な話に聞こえるかもしれない。しかしここで押さえておくべきポイントは、金利上昇が単独で起こるわけではなく、賃金と物価の2％への上昇とセットで起きている点だ。つまり、金利上昇はインフレの副産物にすぎず、すべての発生源はインフレだ。</p>

<p>古今東西の真理として、インフレは債務の実質的な価値を目減りさせる。したがって、債務者に有利、債権者に不利だ。住宅ローン（とくに固定金利のもの）を抱えている債務者が2％経済への移行で利得を得るのは、極めて理に適っている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>インフレに伴う政府への所得移転</h2>

<p>一般的に住宅ローンは数千万円の規模なので、利得があったとしても高が知れている。しかし世の中には、比較にならないほど巨額の債務を抱えている存在がある。それはわが国の政府だ。政府の債務は1100兆円にのぼり、しかもその大部分は、住宅ローンで言うところの固定金利だ。また、すでに述べたとおり、私たちの賃金が増えているように、政府の税収も近年増えている。</p>

<p>インフレに伴って、家計・企業から政府へと所得が移転するという現象は「インフレ税」とよばれる。インフレ税は中央銀行の通貨発行益（シニョレッジ）の別称として使用されることが多いが、インフレによって国債の価値が実質的に目減りし、国債保有者から国債の発行者である政府へと所得が移転する現象もインフレ税とよばれている。いまの日本で起きているのは、後者の意味でのインフレ税だ。</p>

<p>国債保有者から政府への所得移転が問題になる典型的な例は、戦時下や戦後に起きる激しいインフレだ。戦費調達のために大量の国債が発行され、しかし戦況悪化でその償還財源が確保できないとなると激しいインフレが起き、それによって国債の実質価値が大きく目減りする。こうしたインフレ税は当然、望ましくない。</p>

<p>これに対して、今回のインフレとそれに伴うインフレ税には望ましい面がある。そもそも今回のインフレは戦時インフレのような過度のインフレではなく、慢性デフレ下の低すぎるインフレ（インフレ率ゼロ％）からインフレの望ましい水準である2％への移行である。また、日本が抱える巨額の政府債務の軽減にインフレ税が資するのは、言うまでもなく望ましい。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>インフレから政府が得る利得をどう使うべきか</h2>

<p>では、賃金と物価の上昇率がゼロ％、金利もゼロ％のかつての日本経済から、賃金と物価の上昇率がともに2％程度、金利も2％程度の状態に移行することで、政府はどれだけのインフレ税収を手にするのか。筆者の試算によれば、その額は180兆円に達する（試算の詳細は、渡辺努「賃金・物価・金利の正常化―2040年までの展望―」、SBI金融経済研究所所報VOL．7〈2025年2月〉を参照）。</p>

<p>180兆円は政府債務残高の約16％であり、大きな金額だ。インフレ税収は所詮一過性なので、それを当てにするのは不適切との見方が少なくない。インフレ税収はたしかに一過性であり、今回の場合も、インフレ税の発生は、インフレの到来から9年間に限定される（9年間は国債の平均残存期間に対応）。</p>

<p>しかし一過性とはいえ、180兆円は巨額である。また、政府がこれだけの大きな利得を手にする機会は、今後まずないだろう。そう考えれば、高市政権がそこに着目し、インフレによって生み出されたフィスカルスペース（財政余地）を活用しようとするのは自然であり、賢明とも言える。</p>

<p>ただし、問題はその使い方だ。現在のように、税収が毎年、予想を超えて増えるたびに、その分をあたかも特別なボーナスのように受け止め、入るそばから使っていくというのは、どう見ても賢くない。これだけのまとまった金額を今後手にすることがないことをふまえれば、180兆円をテーブルに乗せ、国民の声を聴きながら、与野党でしっかり検討すべきだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>問題は「物価の高さ」ではなく「所得の低さ」</h2>

<p><img alt="今後の実質賃金に関する予想" height="897" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/b/b3/2026/20260227watanabetsutomu3.jpg" width="1200" /></p>

<p>たとえば、国防の強化が最重要の課題という認識を与野党で共有できるのであれば、防衛費に投入するという選択肢も当然あり得る。同様に、教育であれ、産業投資であれ、合意できるところに税収を振り向けるべきであろう。もちろん、財政再建が最重要との見方で合意できるのであれば、180兆円を国債償還に回すということもあり得る。</p>

<p>筆者は財政の専門家ではないので、どう使うべきかについての特別な知見はない。ただ、180兆円がインフレによってもたらされたことをふまえると、今回の補正予算におけるエネルギー補助金のように「物価を下げる」ためにインフレ税収を使うのは本末転倒と考えている。</p>

<p>財政事情の好転の背景にあるのはインフレ、そしてそれに触発されて起きた賃金上昇なのだから、税収はその流れを促進する方向で使われるべきだ。たとえばトランプ関税のような外的な圧力で、インフレと賃上げの流れが途絶えてしまうリスクはつねにある。そのリスクが高い局面では、税収を賢く使うことでそうならないようにすべきだ。</p>

<p>その点で筆者が評価しているのは、岸田政権以降とられている、中小企業の賃上げを支援する施策だ。日本では下請け企業と親企業の力関係の歪みが著しく、コスト増加を価格に転嫁するという、真っ当な値上げができない中小企業が少なくない。価格転嫁が難しいのは人件費の増加も同じで、そのために従業員からの賃上げ要請に応えられない中小企業が多い。そうした中小企業をインフレ税収を活用して支えることは、賃上げの定着に資するものであり、理に適っている。</p>

<p>図３は、筆者が創業して現在取締役を務めるナウキャスト社とインテージ社が共同で行なった、生活者を対象としたアンケート調査の結果であり、自分の賃金が、物価を調整した実質で見て、先行き一年間で「上がる」と見ているのか、それとも「下がる」と予想しているのかを示している。</p>

<p>残念なことに最新の調査では、約80％の回答者が自分の実質賃金が「下がる」と予想している。「据え置き」の予想が16％、「上がる」と予想する人はわずか4％だ。しかも、実質賃金が「下がる」と予想する人の割合は、インフレの始まった2022年以降、趨勢的に増えており、足元も改善の兆しが見られない。</p>

<p>今回の補正予算でも、中小企業の賃上げの支援策にインフレ税収が使われており、その点は評価できる。政府には、生活者がみずからの実質賃金の先行きに自信をもてる環境の整備に向けて、積極的なメッセージの発信を期待したい。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>価格コントロールの多用は危険</h2>

<p>一方、筆者が問題視しているのは、価格を抑える施策だ。今回の補正予算にも、ガソリンと電気・ガス料金を抑える施策が含まれている。エネルギー価格の高騰が生活者の負担を増やしているのは間違いないが、問題は負担が増えたことではなく、その負担を賄うための所得が十分に伸びていないことだ。</p>

<p>エネルギー価格を政府が人為的に抑え込む「価格コントロール（price control）」は市場価格を歪め、資源配分を悪化させることが知られている。その認識があるがゆえに、日本以外の大多数の国々では、エネルギー価格の人為的な制御は、ウクライナ戦争の勃発直後などに限定しており、あくまで緊急避難的な措置と位置付けている。日本は、インフレと賃上げの流れを促進しなければならないという、他国と異なる特殊な状況にあるのだから、価格コントロールについて、他国よりも慎重でなければならない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>消費税減税で消費者は得をするのか</h2>

<p>先般の衆院選でチームみらい以外の各党が公約に掲げた消費税減税も、「物価を下げる」方向の施策であり、インフレと賃上げの流れをつくるという観点からは筋悪だ。それに加えて、仮に消費税減税を行なったとして、そのときに何が起きるのかに関する詳細な議論が欠落している。</p>

<p>消費税を下げれば家計の負担が軽くなり、個人消費の活性化が期待できるというのが減税支持派の立場である。消費税は消費者から直接徴収されるため、減税されれば当然その分、消費者が得をするというナイーブな前提があるようだが、これは本当に正しいのか。</p>

<p>実際には、消費税減税によって商品価格がどれほど下がるかが重要である。たとえば、税率が10％から7％に引き下げられたとして、価格がそのまま3％下がれば、消費者の負担は軽減される。しかし、販売側が同時に課税前価格を引き上げた場合、価格は1％しか下がらないこともあり得る。この場合、減税の恩恵の大半は販売側に流れ、消費者の得は限定的となる。こうした価格反映の割合を「転嫁率」とよぶが、上記の例では0.33にすぎない。</p>

<p>さらに極端なケースでは、転嫁率がゼロ、すなわち減税による価格の変化がまったく見られない可能性もある。この場合、減税の利益を享受するのは売り手だけである。</p>

<p>では、実際に日本で消費税減税を行なった場合、転嫁率はどの程度になるのか。残念ながら、日本ではこれまで消費税を引き上げた経験しかなく、減税に関するデータは存在しない。</p>

<p>しかし、欧州では、リーマンショックの直後やパンデミックの際に、英国、ドイツ、フランスなどで消費喚起などを目的として引き下げが実施された。</p>

<p>たとえばフィンランドでは2007年から2012年まで、美容サービスに対して14％の税率引き下げが行なわれたが、2007年の引き下げ時には価格は約6％しか下がらなかった。つまり、転嫁率は0.42にとどまった。一方、2012年に税率がもとに戻された際には、価格は約11％も上昇し、転嫁率は0.76に達した。</p>

<p>このように、減税時と増税時で価格への影響は非対称であり、そのため、税率が同じ水準に戻っても、価格は引き上げ前より高くなるという現象が生じる。欧州のほかの国々でも同様の傾向が確認されている。</p>

<p>欧州の経験をふまえると、減税により一時的に消費者は得をするが、その利益は限定的であり、減税終了後には価格上昇でより大きな損を被る可能性がある。「消費税減税＝消費者の得」という単純な構図は成り立たないことを認識すべきである。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_1000yen.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 12 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[渡辺努（東京大学名誉教授／株式会社ナウキャスト創業者・取締役）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>イギリスでさえも二大政党制が融解　ヨーロッパに見る従来型政党政治の限界と模索  網谷龍介（津田塾大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13861</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013861</guid>
			<description><![CDATA[政治状況の流動化と従来型の政治運営の困難は、何も日本だけで起きているわけではない。欧州における連合政治の多様な事例をふまえつつ、新たな政治運営の可能性について考える。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ウエストミンスター寺院" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_westminster.jpg" width="1200" /></p>

<p>政治状況の流動化と従来型の政治運営の困難は、何も日本だけで起きているわけではない。欧州における連合政治の多様な事例をふまえつつ、新たな政治運営の可能性について考える。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>政治変容のトレンドのなかに日本を位置づける</h2>

<p>第2次石破内閣、高市内閣と少数派政権が続き、公明党が政権から離脱するなど、日本の政党政治は流動化の時期を迎えている。そのような現状を俯瞰するために、本稿はヨーロッパ政党政治の巨視的な変化を紹介し、比較というかたちで視野を広げるための情報を提供したい。ヨーロッパを対象とするのは筆者の専門分野の制約によるものだが、議院内閣制という制度を共有する点で、今後の日本の政治運営のあり方を考える一助にはなるだろう。</p>

<p>昨今の日本の政治状況は、何か異常なものというわけではない。ヨーロッパでも、政治状況の流動化と従来型の政治運営の困難は生じている。今後も類似の状況が継続する可能性を念頭に置きつつ、われわれは事態を理解していく必要がある。</p>

<p>本稿の論点は次の四つである。第一に、有権者の選好は多様化し、多党化が進行している。第二に、ある時期に有力視された二ブロック化の傾向は、深く定着したものにはならなかった。第三に、多政党による連合政権はほぼ必須となっているが、その円滑な運営にはさまざまな制度的工夫がある。そして最後に、少数派政権をはじめとして新たな政治運営の型が模索されるなか、現状を丁寧に認識したうえで過去の常套的議論の型を離れた検討が必要である。順次検討していこう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>有権者の選好の多様化</h2>

<p>政党政治を論ずるうえで、一つの範とされてきたのはイギリスである。一回投票単純多数小選挙区制に支えられた二大政党制のなかで、単独政権をどちらが運営するかが選挙結果によって一義的に決まる、というあり方は、多くの政論にインスピレーションを与えてきた。</p>

<p>そのイギリスですら、有権者の支持において二大政党制は融解している。現在のスターマー労働党政権は411議席（650議席中）という安定多数を2024年選挙で獲得したが、得票率は33％強にすぎなかった。保守党が約24％、英国改革党が約14％、自由民主党が約12％と票が割れていた結果の過半数にすぎないのである。</p>

<p>2025年11月末時点の世論調査では、英国改革党が30％程度、保守、労働両党が20％前後、自民、緑が10％台前半の支持率と、多党化状況は継続している。</p>

<p>次回選挙は遅ければ2029年8月となるため、この支持が投票行動にどう反映され、議席にどう変換されるかには不確定要因も多いが、現状では英国改革党の過半数獲得や同党を第一党とするハング・パーラメント（過半数政党のない状態）といった予測が示されている。少なくとも、労保二大政党の構図は過去のものと言えるだろう。とくに、地方の政治とロンドンにおける政治の乖離が指摘されていることは、二大政党の復権の難しさを予想させる（若松邦弘『わかりあえないイギリス』岩波新書、2025年）。</p>

<p>比例代表制が一般的な大陸ヨーロッパ諸国で、多党化傾向はより顕著である。有効政党数という指標があるが、政党政治が比較的安定していると目されるドイツでは、1987年の3.56が、2009年には5.58に、そして2025年の選挙では6.64に増加している。同様にスウェーデンでも3.92（1988年）が4.79（2010年）に、そして現在では5.34（2022年）と推移している。西欧15カ国の平均では1900年時点で4.25だったものが、2025年には6.04である。</p>

<p>選挙ごとの勢力変動も激しくなった。政党単位の結果の変動を全体として示す変易性指標を見ると、ヨーロッパ全体でその値が着実に増加していることが示されている。それだけではなく、有権者単位でも投票行動はより「移り気」なものとなっている。早くから浮動票が注目されていた日本と異なり、西ヨーロッパの選挙は1980年代ごろまで支持者動員競争の色彩が強く、ある調査では1960年代ごろのイギリスで投票先を変更した有権者の割合は10％台前半であった。しかし2010年代にはそれが30％台となっている。</p>

<p>このように有権者の選好は多様化し、流動化している。政治的争点の多様化や、世代ごとに「左右」の意味が異なることに鑑みれば、この傾向が逆転するとは考えにくい。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>二ブロック化の限界</h2>

<p>有権者の選好の多様化や流動化が生じたとしても、多党化につながらない可能性もある。たとえば経済状況への賛否に選挙の争点が集約されるのであれば（経済投票、業績投票）、与野党二つのブロックの対峙が生じることも考えられる。欧州政党政治研究の第一人者であったメアが2000年代に提示したのは、多党制の基礎にある社会的亀裂（階級、宗派など）の影響力が弱まる結果、政治は政権獲得競争の色彩を強め、二ブロック化していくのではないかという仮説だった。</p>

<p>同時期に、大統領制化や個人化といった、トップリーダーの影響力増大傾向が論じられていたこともあり、この仮説は注目された。実際、スウェーデンでは1998年以降、左右ブロックが明確化していく（渡辺博明『スウェーデンの政党政治と民主主義』晃洋書房、2025年）。</p>

<p>イタリアは、制度変更による誘導が行なわれた点で興味深い。大規模な汚職・腐敗の摘発などもあり、同国では1990年代前半に選挙制度を小選挙区中心のものに変更した。その結果、1994年から2008年までの五回の選挙において、右・左・右・左・右、と二大政党ブロックのいずれかが勝利しており、政権交代のある民主主義をめざした政治改革が成功したかに見えた。</p>

<p>しかし、その選挙制度の再改革を行なったことなどもあり、現在の同国は二ブロック間競合のダイナミクスで動いているとは言えない。ほかの多くの国でも、左右の中核的大政党の衰退は顕著である。たとえば、北欧の社会民主主義政党と言えば、かつては得票率40％台の巨大政党であったが、現在は30％をのぞむのがやっとである。右でもドイツのメルツ首相率いるキリスト教民主党の2025年選挙の得票率は30％を割っており、ド・ゴール派の流れを汲むフランスの共和党の議席数は全体の一割に満たない。</p>

<p>その結果、いくつかの国では第一党と第二党を合計しても、過半数に満たない事例が生じることとなっている。オランダでは2006年選挙で初めて発生して以降、この事象が繰り返されていることから、比較政治学者ヒックスはこれを「オランダ化」と呼んでいる。</p>

<p>大政党の急速な衰退と政党間対抗の構図の複雑化は、1990年代から2000年代の改革論議の射程をこえるものであった。オーストリアでは、小選挙区型への選挙制度改革を行なうことで、当時の二大政党である人民党（国民党）と社民党の二大政党化によりアカウンタビリティを高める議論があったが、急進右翼政党である自由党が大きく勢力を伸ばし、緑の党やリベラル政党が進出したこともあって、議論は終息した。</p>

<p>つまり、制度改革による二ブロック化の誘導に一定の効果があることは否定されないものの、その限界も見えつつあるのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>連合政治運用の工夫と限界</h2>

<p>選挙で多数派が生み出されないならば、選挙後の政党間交渉が重要となる。連合政治の局面である。日本で早くからこれに注目した篠原一は、1970年代以降、ヨーロッパの経験を伝えることで二大政党一辺倒の議論に一石を投じようと試みていた（篠原一編『連合政治（Ⅰ、Ⅱ）』岩波書店、1984年）。</p>

<p>ただし、現在のヨーロッパの連合政治は、篠原らの時期に比べ、制度化されたものになった。政党エリートと支持者のあいだの無形の絆が希薄化した結果、政党指導者の舞台裏での交渉への信頼は期待できなくなり、政党側も透明化と正統性確保に力を注ぐようになったのである。この点をドイツの例で確認してみよう。</p>

<p>たとえば、選挙に向けた綱領は、長大なものになりつつある。選挙綱領を作成する習慣はドイツにおいても1960年代以降のものであり、主として野党側の政権担当能力アピールの手段だった。1990年段階でもそれはまだ20頁程度だったが、2010年代以降はA５で100頁を超すことも珍しくない。これは選挙綱領が党内のさまざまな集団の合意形成過程の帰結だからであり、各集団の主張が少しずつ盛り込まれるからである。</p>

<p>時間をかけた党内合意形成が可能なのは、ドイツにおいて選挙が基本的に任期満了で行なわれ、時期が予測可能だからである。次期選挙に向けて、首相候補を選出し、選挙綱領を作成する長いプロセスがあってはじめて、党内合意確保は可能となる。それに最終的な承認を与えるのが党大会であり、そこまでに時間をかけて候補も政策も淘汰されていく。</p>

<p>綱領に盛り込まれた項目を基礎に、「連合協定締結のための主張すりあわせ」を行なうのが連合交渉である。連合協定も、1980年代ごろまでは十分に確立された慣行ではなかったが、1990年代以降、政党間の「契約」としての整備と詳細化は進み、2010年代にはA4で150頁前後が常態となった。さらに連合協定は一部指導者の合意にのみ基づくものではなくなった。党によって手続は異なるが、臨時党大会や党員投票を行なって、党として協定を承認することなしに政権参加はないのである。そのため、多党化と相まって、連合交渉は全体として長期化する傾向にある。</p>

<p>政権成立後も、党や議員団を政策決定過程に組み込んでいくことは一般的である。ドイツでは非公式の協議体である連合委員会の利用が1960年代以降一般化していった。現在の連合委員会は、キリスト教民主党側がメルツ首相、議員団長、バイエルンのキリスト教社会同盟党首など6名（公式にはキリスト教民主同盟とバイエルンのキリスト教社会同盟は別組織であるため、対等に3名ずつ出すかたち）、社会民主党側が副首相兼共同党首、連邦議員団長など3名であり、そこに首相府長官と財務省次官が定期陪席者となっている。</p>

<p>閣内大臣だけではなく、党首と議員団長を協議に組み込んでいるのが特徴である。内閣で合意形成ができない問題について、この回路を通じて根回しやトップ交渉が行なわれる。非公式の場での実質的決定にはもちろん規範的批判が絶えないが、連合政治において組織としての党や議員団の合意調達手続が必要となることもまた事実であろう。</p>

<p>このようにドイツにおける連合政権運営においては、連合交渉手続の整備と協定の文書化、さらに党内合意獲得手続の明確化が一体となって制度化し、党内合意確保と政党間交渉を両立させる工夫がなされてきた。</p>

<p>ただし、参加政党が増え、距離の離れた政党が参加するようになれば、このような工夫が限界に突き当たる可能性は排除できない。実際、連合交渉は長期化する傾向にある。また2017年選挙後には、有力視されたキリ民、自民、緑の三党交渉が決裂し、下野の意向を明言していた社民党に同党出身の大統領が強い圧力をかけ、ようやく第四次メルケル政権の樹立にこぎつけている。ドイツのための選択肢のようなアウトサイダー政党の台頭は、その主張自体もさることながら、既成政党間の交渉を困難にする点により直接的な影響がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>新たな政治運営の模索</h2>

<p>このように、ヨーロッパ連合政治の多様な事例のなかにそれぞれの工夫を見出すことはできるが、従来型の政治運営の限界は各所に露呈している。新たなかたちが模索されている点は日本と大差はない。</p>

<p>そのなかで、注目されているものの一つが少数派政権である。ドイツではワイマール期の政権不安定とナチスの台頭という歴史的な経緯もあって、多数派政権重視の傾向が強かったが、近時さかんに議論されるようになり、2025年選挙の投票前には公共放送の第一テレビで「少数派政権はドイツにとってモデルか？ 北欧の事例」が放送された。学術的には、少数派政権に関するはじめての国際比較研究が2022年に（威信の高い）オックスフォード大学出版局から刊行されている（Field and Martin,ed.Minority Governments in Comparative Perspective.OUP,2022）。</p>

<p>スウェーデンやデンマークなど北欧で、少数派政権が一般的であることはよく知られてきた。これに加え、チェコ、ニュージーランド、スペインなどでも1990年以降の政権の過半は少数派であり、カナダ、イタリア、フランスなどでは3割程度が少数派である。</p>

<p>このような少数派政権は、直感的には、不安定で政策パフォーマンスも劣ったものとなりそうだが、経験的研究の示すところによれば、多数派政権とのあいだに大きな差はないという。むしろ、少数派政権のなかで野党と協定を結ぶかたちのものが増え、その存続期間は長い一方、そうではない少数派政権は相対的に短いなど、少数派政権のなかのバリエーションにも注目が集まっている。</p>

<p>これとは別に、研究上の新しい主張として、ドイツの比較政治学者ガングホーフによる半議院内閣制論がある。これは政府の存否を司る院は多数派が構築されやすい選挙制度とする一方、立法に必要なもう一つの院は比例型の制度とすることを提案するものである（加藤雅俊「「半議院内閣制」としてのオーストラリア連邦」『年報政治学』、2023年Ⅰ号）。</p>

<p>主張の当否は別として、ガングホーフが、政権の安定と、多様な意見の立法への反映という要請の双方を折り合わせようとしている点に注目すべきだろう。二大政党制か多党制かという古典的図式は退けられている。</p>

<p>定数の小さい比例区を多数配置することで、選挙制度の「スイートスポット」をさぐる研究も、同様の発想に基づいている。あるいは、少数派政権論のなかには規範的優位を指摘するものもある。法案ごとの多数派形成の必要性から、政策ごとの真の多数派を多数派政権よりも代表しやすいというのである。そこには、左対右といった一次元的な対立図式は、多元的な政策対立軸と市民の多様な選好のもとでは、政策の抱き合わせ販売にすぎず、市民の政策位置に合致していないという現状認識がある。</p>

<p>すなわち、現状を丁寧に把握したうえで、社会的前提条件を失いつつある過去の議論の型に懐疑の目を向けることが、政党政治の現在と未来を考えるうえでの第一歩である。</p>

<p>日本の文脈では、二大政党制を聖化し選挙制度を中核とする大きな制度改革で変化をもたらそうとする1993年パラダイムから適切に距離をとることが、まずは必要ではないか。国会の会期や解散権の運用など、二大政党待望論の陰に追いやられた課題は、いくつも存在する（大山礼子『国会改革の「失われた30年」』信山社、2025年）。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 11 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[網谷龍介（津田塾大学教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ日本だけが「目の敵」にされるのか　習近平政権が台湾問題で絶対に譲らない理由  岡本隆司（早稲田大学教授）,野嶋剛（ジャーナリスト）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13863</link>
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			<description><![CDATA[2025年11月7日の高市早苗首相の「台湾有事」 を巡る国会答弁以来、日本に対して経済カードを切るなど中国が強硬な姿勢をとり続けている。習近平政権による対応の背景を考えるうえで、中国国内の経済不振などをはじめ、短期的な文脈から分析しようとすると見誤る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="台湾の国旗" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Taiwan.jpg" width="1200" /></p>

<p>2025年11月7日の高市早苗首相の「台湾有事」 を巡る国会答弁以来、日本に対して経済カードを切るなど中国が強硬な姿勢をとり続けている。習近平政権による対応の背景を考えるうえで、中国国内の経済不振などをはじめ、短期的な文脈から分析しようとすると見誤る。（構成：編集部）</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦狼外交の裏にある習近平への忖度</h2>

<p>【野嶋】高市早苗首相の台湾有事を巡る国会答弁（2025年11月7日）に中国が猛反発して以来、今回の中国の強硬姿勢をどう読み解くべきか、さまざまな議論が行なわれています。まずは中国政府の一連の対応から考えると、おそらくは習近平国家主席が高市首相の発言に対して机を叩いて嚇怒し、それを受けて一気に国を挙げて「反日」に動いたのでしょう。なぜ習近平がそれほど怒ったのかと言えば、「台湾有事は日本有事」と唱えた安倍晋三元首相の「正統な後継者」を自認する高市首相への強い警戒感が背景にあると推察できます。</p>

<p>じつのところ、高市首相は10月31日、APEC首脳会議出席のために訪問した韓国で習近平と会談しており、「戦略的互恵関係」の推進と「建設的かつ安定的な関係」の構築で一致しました。習近平からすれば、高市首相を警戒しつつも穏当な態度で接したわけですが、その直後、高市首相がAPEC首脳会議に台湾代表として参加した林信義氏と会談した様子をSNSにアップしたことを受けて、まずは一度「カチン」ときた。それから一週間も経たずに例の国会答弁なので、「全面闘争」に舵を切らざるを得ないと判断したと考えられます。</p>

<p>さらに大きな視点から見ると、中国の歴史観や世界観からすれば、日本が台湾と接近して仲良くすること自体が生理的にも理念的にも許せないのでしょう。中国共産党にとって、台湾統一とは理屈ではありません。結党以来の夢であり、ドグマであり、成し遂げなければいけない命題です。そう考えたとき、先の大戦で「罪」を犯した日本が台湾問題に首をつっこむのは、モラルとして「レッドライン」を越えたという判断になる。日本からすれば軍事行動を起こしたわけではないし、どこに中国が考えるレッドラインがあるかは判然としませんが、いずれにせよ習近平は台湾問題を、政治利害を超えたメンツや道徳の問題として捉える傾向が強い。</p>

<p>【岡本】私は習近平国家主席を、近年の中国において最も「中国史の正統」を体現する指導者として位置づけています。彼ほどイデオロギーに忠実で皇帝のように振る舞う人物は毛沢東以来で、この点については『習近平研究』（東京大学出版会）を上梓されている鈴木隆先生（大東文化大学東洋研究所教授）の優れた研究がありますが、そんな習近平が最も執着するのが台湾です。彼はかつて台湾との窓口となる福建省厦門市の副市長を務めたほか、琉球（沖縄）との窓口で台湾とも関わりの深い福州市のトップを務めていましたから、特別な感情があるのかもしれません。</p>

<p>習近平からすれば、その台湾に接近しようとしているのが日本ですが、そもそも中国は日本に対して十九世紀の日清戦争で敗れたことも含めて、歴史的な恨みを積み重ねていますから、原則として厳しいスタンスをとります。しかも今回、高市首相は「核心的利益の核心」である台湾の問題に言及した。戦後の中国知識人が抱き続けてきた「一つの中国」を明確に脅かす相手がいると認識すれば、彼らからすれば強硬な手段で対抗するのは当然です。しかも中国は、いまや軍事的にも経済的にも大国ですから、日本に対してまさに公然とハラスメントを繰り返しているわけです。</p>

<p>また厄介なのは、いまの中国では官僚や軍の高官が習近平の顔色を窺い、忖度する体制が構築されていることです。ですから昨今、「戦狼外交」という言葉が使われるように、周辺の国や地域と摩擦する局面が多くなっている。今回の事象にしても、薛剣駐大阪総領事がSNSに「汚い首は斬ってやる」という内容を投稿したことが導火線になりましたが、おそらくは習近平から具体的な指示を受けた言動ではなく、勝手に習近平に忖度した結果の「勇み足」だったでしょう。すぐ投稿を消していますから、本人も「やりすぎた」と思っているかもしれません。私は以前に薛総領事と話したことがありますが、少なくとも今回の振る舞いのような過激な人間という印象は受けませんでした。</p>

<p>【野嶋】薛総領事自身は日本語にもある程度通じているかもしれませんが、あの投稿は日本語としてはやや不自然で、私は彼が中国語の伝統でもある大げさな四字熟語を、ＡＩで翻訳してそのまま発信したのではないか、と感じました。本国と相談して練られた文章ではないと思われますが、最近の中国の当局者は品がありません。</p>

<p>【岡本】その後の12月6日に起きた中国軍機による自衛隊機へのレーダー照射も、習近平自身は明確な指示を出しておらずとも、皆が彼の方向ばかりを見ながら行動する組織の不健全さが招いた事件のような気がします。その行動がはたしてどのような影響を及ぼすかについては、深く考えられていないでしょう。</p>

<p>一方の習近平としても、官僚や軍が何かやりすぎたケースがあっても、それを咎めたり処罰したりすれば、今度は「弱腰の指導者」として共産党内での自分の求心力が失われかねません。この構造が「戦狼外交」を生んでいるわけで、習近平もそれを利用し、あわよくば東アジアの現状地図の改変に結びつけようと目論んでいるのではないでしょうか。</p>

<p>【野嶋】私は高圧的な中国の官僚の振る舞いを「王毅モデル」と呼んでいるんです。王毅外相はまさに、対外的に強硬でとんでもない発言を繰り返すことで習近平の歓心を買い、いまの地位まで上り詰めました。彼の「成功体験」を見て、「俺も一発かまして出世しよう」と考える官僚や軍人がいても不思議はありません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本は「永遠の大患」</h2>

<p>【岡本】私が今回の中国側の対応で象徴的だと感じたのが、2025年11月19日、中国共産党機関紙である人民日報系『環球時報』が、沖縄県を設置した明治政府による1879年の「琉球処分」について、「日本軍が琉球併合を強行した」とする記事を掲載したことでした。彼らは現在の日中間に存在する問題について、いずれも十九世紀の歴史に起因していると理解しています。だからこそ、沖縄の地位はいまなお未確定であると言い続けているし、台湾問題についても、もとはといえば1874年の「台湾出兵」で日本が台湾の地に「土足で踏み込んできた」ことから始まったと認識しています。</p>

<p>【野嶋】非常に重要なご指摘です。日本と清国は1871年9月に日清修好条規を締結し、表向きは手を取り合って西洋列強の脅威に対抗することを確認しました。ところがその3年後に日本は台湾に出兵したわけで、清国側には「裏切られた」という失望感が広がった。台湾出兵とは1871年12月、遭難して台湾に流れ着いた宮古島民が原住民に殺害された事件を受けて、日本政府から抗議を受けた清国政府が「化外の民」（統治の及ばない民）と返答したことが契機でしたが、いずれにせよその後日清両政府間で行なわれた交渉で、沖縄は日本、台湾は清国のものとして切り分けられました。</p>

<p>しかし清国は沖縄も台湾も自分たちの縄張りだと思っていましたから、「沖縄を奪われた」というルサンチマンを抱きました。しかもその後、1894年からの日清戦争で敗れたことで、今度は台湾までも日本への割譲を余儀なくされた。中国の「近代史の屈辱」といえばアヘン戦争での敗北などが挙げられますが、もう半分は列強ではなく日本によってもたらされたものなのです。とくに中国にとって、日本は近代以前には見下していた存在でしたから余計に腹立たしく感じたことでしょう。こうした歴史が習近平政権の対日観や対日政策の背景にあるので、問題の根は深く、民族感情にまで関わります。</p>

<p>【岡本】中国ではそれらの出来事が、当時から現在に至るまで150年にわたり、屈辱の歴史として連綿と語り継がれています。現在の一般庶民がどこまで理解しているかはわかりませんが、少なくとも知識人エリートは歴史をインプットすることは当たり前で、そこから彼らなりのロジックがつくられて政策が考えられる。</p>

<p>中国と比較すると、日本人・日本政府はあまりにも歴史を知らなさすぎます。沖縄といえば基地問題ばかりがフォーカスされ、台湾については「親日」の側面がことさら強調されたり、旅行やグルメの情報ばかり語られたりする。それもたしかに一面ではあるのですが、歴史をふまえて行動を規定する中国と対峙しようとするならば、率直に申し上げてお話になりません。沖縄や台湾にどのような歴史的背景があるかを知るのは当然として、その歴史をふまえて中国は何を考え、どのようなアクションをとりうるのかを検討しなければいけないはずです。</p>

<p>【野嶋】戦前に『帝国主義下の台湾』（1929年、岩波書店）などを著した矢内原忠雄（東京大学総長などを歴任）は、台湾を「日本と中国のあいだにある、いつでも燃え盛る火」と評しています。さらにさかのぼると大隈重信は「大陸の中国と台湾をどう切り分けるかで、東アジアの未来は決まる」と述べている。このように日本でも、台湾領有の前後から第2次世界大戦に至るまでのあいだは、東アジアにおける台湾の重要性はある程度認識されていました。しかし、敗戦と戦後の日中国交正常化という二重の忘却のメカニズムが生まれたことで、李登輝総統が登場したあとの1990年代までは台湾の存在や意味合いについてまったく語られなくなりました。</p>

<p>私がいま懸念しているのは、今回の中国の横暴についても、不動産バブルの崩壊や地方政府の巨額債務など中国経済の停滞という国内問題から目を逸らすため、高市政権を叩くことで団結を図ろうとしている、などとする分析が語られていることです。とくに欧米の識者がそうした見方をしているように感じますが、習近平にとって経済問題は二次的、三次的な問題にすぎません。経済が落ち込んでローンを返せない中国人が出てくるくらいならば、究極的に言えば彼にとっては大きな問題ではない。重きを置くのは、あくまでも中国共産党の正統性の堅持であり、だからこそ「核心的利益の核心」と位置づける台湾は絶対に譲れないと考えているのです。</p>

<p>冒頭でもお話ししましたが、今回の行動の本質はあくまでも習近平が怒ったという話で、国内の不満を解消するといった戦略的なものではないでしょう。だからこそ厄介とも言えるのですが、ともあれ国際政治の文脈から中国共産党の動きには合理的で複合的な背景があるなどと判断することは、実際の中国の意図や行動原理からズレており、かえって誤解を生みかねません。</p>

<p>【岡本】おっしゃるとおりで、「経済が落ち込んでいるから国外的な問題に活路を見出した」などという短期的な問題として今回の行動を理解されてしまうと、中国史を研究してきた立場としても甚だ不本意です。それこそ李鴻章は台湾出兵の際、中国にとって日本は「永遠の大患」と評しましたが、さかのぼれば16世紀・倭寇の時代から中国ではそう考えられている。中国人からすれば、欧米がどれだけ脅威だとしても地理的には遠い存在です。それよりも、地政学的に身近な日本のほうが大きな患いになりうる。そう考えればこそ、李鴻章はかつて北洋艦隊を建設したのです。</p>

<p>近年、中国は韓国やオーストラリアに対しても「戦狼外交」を繰り広げており、今回の日本への対応もそれに類するものとして位置づける見方もあります。たしかに経済カードを切って脅しをかけるという点では共通していますが、日本と韓国やオーストラリアでは、地政学的にも歴史的にも置かれている立場が違います。日本では従来しばしば、「欧米も同じ行動をしているのに、日本だけこれだけ中国に目の敵にされるのは釈然としない」と語られますが、中国にとっての位置づけが異なるのですから当然です。そもそも、国際社会のなかで皆が対等な立場だとする考えはあまりに理想主義的でナイーヴでしょう。中国にとっては、隣国のなかで日本が最も「不届き者」なのです。</p>

<p>【野嶋】自分たちよりも先に近代化したことも含め、日本は中国に不快感を与える存在でしょうね。</p>

<p>【岡本】裏を返せば、日本は中国にそうして敵視されているうちが華という見方もできます。もしも何も言われなくなれば、中国はいよいよ日本のことを属国的な存在として見下し始めていると考えたほうがいい。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 10 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岡本隆司（早稲田大学教授）,野嶋剛（ジャーナリスト）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>現役医師が考える 「地域医療」の持続可能性　病院の赤字は悪いことなのか  日下伸明 （株式会社FLOCAL代表取締役）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13874</link>
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			<description><![CDATA[人口減少のなかで、地域医療はいかに持続できるか。現役医師であり、株式会社FLOCAL代表取締役の日下伸明氏が語る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="病院" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_byouin.jpg" width="1200" /></p>

<p>人口減少のなかで、地域医療はいかに持続できるか。多拠点の地方で勤務しながら、現場のあらゆる課題解決に取り組む現役医師の日下伸明氏に話を聞いた。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より加筆・編集した内容をお届けします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「人、モノ、金、情報」が足りない</h2>

<p>――日下さんは現役の医師として診療経験を重ねるかたわら、2024年、地域医療に対して新たな価値を提供することをめざしてFLOCALを起ち上げ、現場の課題解決をサポートしています。とくに地方の医療課題について、現場でどのように実感されていますか。</p>

<p>【日下】医療分野にかかわらず、経営資源を構成する要素として「人、モノ、金、情報」が挙げられますが、地方の病院ではこのどれもが不足しています。</p>

<p>人手不足については、居住環境が大きく影響しているでしょう。たとえば、若いうちに「田舎に行こう」と思い立って移住しても、娯楽がなくて寂しい思いをしてしまったり、子どもが生まれるとベビーシッターを探すのにも苦労してしまったり、その後の教育環境が懸念材料となったり。生活の利便性を考慮すると、病院についても地方の場合は勤務先として選ばれにくいのが現実でしょう。</p>

<p>じつのところ、一人前になるまでの過程で、地方の基幹病院で研修するのは素晴らしいことだと私は考えていますが、一方で都市部の病院で経験を積むことを求める人もいて、もちろんそうした選択自体は否定できません。</p>

<p>さらに言うと、最近の若い人はキャリアの多様性を重視する傾向がありますが、医療職はそもそも専門性が高く、ある意味では多様なキャリアを積みにくい業界です。それに加えて地方で働くということになれば、どうしても制限が増えるので、医療人材が偏在してしまうのは無理もありません。</p>

<p>「モノ」について言えば、地方の病院は往々にして設備投資が難しく、施設が老朽化したり検査機器などの改修が追いつかなかったりしています。医療器具は高額なのでできるだけ安く仕入れたいところですが、病院や自治体によっては業者と交渉するノウハウに乏しいこともあります。</p>

<p>DXの遅れも指摘されますが、それにしてもお金がかかる。また、職員も高齢化していて、「電子カルテ」に変えたとしても扱いに慣れず逆に時間がかかってしまうことがあるし、患者の質問にAIが回答してくれるシステムを導入しても、結局は看護師が患者と直接話したほうが早いケースも珍しくない。</p>

<p>このように環境を変えにくい状況があるため、なかなかDXに踏み切れない病院も多いのです。マイナ保険証の導入のように、国の強制力があれば広まるのですが、そうでない以上は簡単ではありません。</p>

<p>三つ目の「金」に関しては、国自体が高齢化に伴い医療費を抱えられなくなっているいま、地方自治体も同じ状況です。公立病院の赤字はかねてより問題視されていますが、とはいえ地方の病院は都会に比べて患者の数が少ないので、構造的に収益を上げにくい。さらに救急科や小児科、産婦人科はさらに患者が限定されるので、より採算がとりにくい。なかには赤字を減らしたいがため、それらの診療科を閉じてしまうことがありますが、本来の公立病院の役割は民間病院が収支的に難しい医療を提供することのはずでしょう。</p>

<p>以上の三つに加えて、地方の病院には「情報」も不足しています。自治体や病院同士の連携が不十分で、隣の病院が何をやっているかが意外と知られていなかったりする。学会などの場では医療従事者同士で情報交換できますが、地方の病院に勤める医師にとっては、その機会さえ限られています。学会が開かれる病院は中心的な地方都市であり、たとえばアクセスの悪い山間部や離島の病院の医師が交通費や時間をかけて、しかも病院を空けて赴くかと言えば難しいでしょう。</p>

<p>もう一つ、公立病院では十分な引き継ぎが難しいことも問題として浮上しています。3年で職員が変わってしまい、しかも4月1日の転勤の辞令が出るのが3月20日ということもある。これでは現場として引き継げることは限られてしまいますよね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地域枠入学制度の課題と展望</h2>

<p>――地方の医師不足を助ける制度として、医学部の地域枠入学制度が2008年に始まりました。該当都道府県内で大学卒業から9年間以上従事するという要件を課しています。</p>

<p>【日下】私個人としては、一定の効果があると評価しています。大学卒業後の9年間、その地域に残ってもらうことは「医療過疎」を救う一助になるでしょう。問題点は、大学卒業後の9年間を働き続けてもらうための取り組みが、大学ごとにかなり異なるため、必ずしも全都道府県で機能しているとは言えないことです。</p>

<p>個人的に疑問に感じるのが、縁もゆかりもない土地の大学に、入りやすさや金銭的理由などで地域枠入学制度で入ったとして、ルーツのないその地域にどこまで定着できるものでしょうか。「一度決めたことなんだから、その地域に居続けることは当たり前じゃないか」という議論もあるかもしれません。</p>

<p>でも実際に、その決断をするのは高校卒業の18歳ごろのことですよね。そのときの選択で、その先の大学卒業後9年間までのキャリアを決めるというのは、かなり難しいことではないでしょうか。</p>

<p>大学には地域枠入学制度について入学前にきちんと説明したり、地域医療体験などの工夫を行なってもらい、さらに入学した人たちが「この地域に居続けたい」と思えるような取り組みをして、卒業後もキャリア相談や結婚出産などの相談や支援を行なうなどの工夫が必要でしょう。たとえば大学生活を大学のなかだけで過ごすのではなく、他職種や飲食店との交流を促すなど地域に愛着をもってもらうことも意外と効果的かもしれません。</p>

<p>地域枠入学制度は2008年に本格化し始めたので、医学部の6年間、そしてその後地域の病院で9年間働くということは、2023年にようやく最初の義務年限を終えた人たちが出てきたことになります。効果があるか否かについては、これから本格的に検証できるでしょう。いずれにしても、内発的にその地域で働いてもらう発想が求められるはずです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「赤字だから悪い」とは言えない</h2>

<p>――公立病院が多くの赤字を抱えているなかで、厚生労働省としても「病床数適正化支援事業」などさまざまな支援に取り組んでいます。「病院の赤字」について、現場ではどのように認識されているのでしょうか。</p>

<p>【日下】そもそも診療報酬にも課題がある前提として、赤字を抱える病院が十分に経営努力しているのか、改善の余地がある場合が多いのではないか、と感じています。たとえばよくあるのが、地域のサイズに合わない病院運営をして、その地域の人口が少ないにもかかわらず、複数の医療機関で急性期医療（病気の発症から回復期や亜急性期に移行するまでの期間における医療）を拡大してしまうこと。</p>

<p>また、「患者が来るのを待つもの」というスタンスで、病院に来てもらうための広報活動が足りないケースも見受けられます。病院からもっと積極的に自分の病院の使い方を伝えるようなアプローチがあっても良いのではないでしょうか。</p>

<p>人材配置の難しさもあります。看護師は看護配置基準によって、入院患者13人に対して1人以上、10人に対して1人以上などと決められていますが、「できるだけ減らせばよい」というものではありません。また、公立病院の職員は自治体に準じた年功序列の給与制度であることも、人件費率の高さに影響しています。</p>

<p>ただ先ほども述べたとおり、公立病院の役割は公益性の担保のはずで、営利企業や民間病院では手を出しにくい分野を受け持っている結果、赤字になっていることもあるでしょう。満床近くで運営して、人件費をギリギリまで削ったとしても、赤字が消えないこともある。こうした議論を突き詰めると、「赤字病院が悪くて、黒字病院が正しいのか？」という疑問にたどり着きます。</p>

<p>少なくとも私は、経営状況だけで病院の機能を見ることは正しくないと考えています。もしも病院が、自分たちが生き残るためだけの戦略をとるならば、入院が長引きそうな患者を「断る」選択につながるでしょう。でもそれでは、地域に本当に必要な医療が担保されないですよね。</p>

<p>とはいえ、もちろん病院の赤字が続いて、結果として地域に必要なはずなのに不採算部門になりやすい診療科を閉じることになってもいけませんから、その塩梅が難しいのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「どのように集約するのか」が重要</h2>

<p>――地方の場合、病院へのアクセスが障壁となっている側面はないでしょうか。医療機能をふくめて、町をコンパクトにしていこうという国の計画もあります。</p>

<p>【日下】地域の公立病院の赤字の問題に対しては、「医療機能を集約して対処すべき」とよく言われます。たしかに、リソースが分散していると効率やパワーが落ちますから、ある程度の集約は必要でしょう。Ａ病院とＢ病院で同じ循環器科の先生がいたとして、それぞれの病院で2人ずつが疲弊しながら診療していたのが、一つの病院となって4人で余裕のあるシフトを回しながら診療できたら現場の負担を減らせます。</p>

<p>しかし問題は、「どのように集約するか」を十分に考えないと、必要な機能が担保されなくなってしまうことです。Ａ病院に循環器科のリソースをすべて移したとき、それまでＢ病院で診てもらっていた患者の対応にも考慮を要します。</p>

<p>現在、一つの理想論として、機能ごとに医療の拠点をわけることが考えられています。たとえば、重篤な疾患への医療機能を一箇所に集めたうえで、その治療が終わったあとのリハビリや地域包括ケアについては別の箇所で行なうというもの。この場合、各拠点のあいだで患者の情報が正確に管理・伝達されるというのが、集約化の前提となります。</p>

<p>とはいえ、医療リソースの集約は、現場としては簡単ではありません。病院ごとに構造が異なりますから、「なんで一緒にならなければいけないんだ」という感情にもなりやすい。</p>

<p>また各地の病院を支援していて感じるのが、もしも集約を進めるならば、自治体や病院の歴史的背景も大きく影響するということ。長い歴史のなかで、もともと関係がよくない自治体同士もありますよね。あるいは地理的にも、患者にとってそれまでより1時間以上病院が遠くなるなどの事例にどう向き合うかも課題です。</p>

<p>また、高齢化のなかで、急性期医療から地域包括ケアに力を入れていく病院も少なくないのですが、それまで急性期医療に従事してきた医師がすぐに回復期医療を担当できるかと言えば、それはやはり難しい。</p>

<p>さらに言えば、医療専門職は一般的に専門性が高い職業なので、「この仕事をやめて新たな働き方をしてください」ということも難しい。そこで必要になるのは、医療者たちの仕事を調整する「ファシリテーター」のような役割の人間です。</p>

<p>しばしば「人口何万人以下の自治体同士は病院を一つにすべき」「黒字の自治体に集まればいい」などと言われますが、そんなに単純な話ではありません。そして、あまり論じられていないのが「統廃合した病院の結果」です。実際に調査すると、「それまで上手くいっていない」病院同士が合併するので、相当工夫して病院機能や運営の中身を検討しないといけない。残念ながら結局のところ実態が変わっていない事例は珍しくありません。</p>

<p>――そのほかにも地域医療をめぐる課題はありますか。</p>

<p>【日下】医療従事者以外への情報提供が足りていないように思います。たとえば地域の住民が「自分たちの町にも救急科や小児科、産婦人科が必要だ」と訴えたとき、その自治体の首長は次の選挙に勝とうとして「病院を建てよう」と言い出すことがあります。でも、病院を建てれば地域財政は逼迫しますから、はたしてどれだけ優先するべきなのか。住民に対して医療に関するさまざまな学びの機会を提供したうえで、自治体にとって何が適切な意思決定なのか、議論されるべきでしょう。</p>

<p>医療従事者へのキャリア支援にも、改善の余地があります。じつは、医療職はほかの仕事に比べて、組織のニーズと個人のニーズが合致しにくい特徴があります。たとえば、「将来在宅医療に関わりたくて患者さんのケアを学びたいけど、人手不足の手術室での勤務を強いられている」という場面があり得ます。</p>

<p>また一般企業であれば一対一の面談や希望の働き方を尊重する工夫などを通して社員のキャリアを支援すると思いますが、そうした手法は医療の世界ではそれほど浸透していません。医療従事者に対するキャリア支援を、業界として真剣に考えなくてはいけない時期に来ているのではないかと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>持続可能な地域医療に向けて</h2>

<p>――日下さんを含む現役医師3人は株式会社FLOCALを起ち上げ、現場に医師として入りながら、経営支援を行なっています。ここまでお話しいただいた医療業界の課題に直面したことが、会社を立ち上げた背景にあるのでしょうか。</p>

<p>【日下】3人とも地域の医療現場を経験するなかで「これでは日本の医療がよくなっていかない」というもどかしさを感じていたんです。とくに痛感したのが、問題を解決する際にはハード面だけでは決して変わらないということ。</p>

<p>たとえば、現場で人が足りないからといって派遣で人材を補充したり、「何床まで埋めよう」などの数合わせのアドバイスをしたりするだけでは、根本的な問題の解決につながらないのです。ソフト面での丁寧な改善意識が重要ではないか、という問題意識を抱きました。</p>

<p>また、どうしたら人材が地域に定着するのかを考えたとき、たしかに待遇面も重要ですが、定着する人には「ふるさと意識」がある、ということに気がつきました。結局のところ、「この地域に貢献したい」「相性がいい」と思っている人たちが残る事例を多く見受けました。そうした気持ちを思い出したり抱いてもらったりするために何かできることがあるのではないか、と思いました。</p>

<p>また、医療について学んだことのない医療従事者ではない人が病院の経営を改善しようとしても、見えない部分がたくさんあります。一方で、医療従事者であるわれわれであれば、広報や経営の専門家と連携しながら、「外からの風」を適切に取り入れてもらうことができるのではないか。FLOCALの「F」は、「ふるさと」の頭文字と、流れを意味する「FLOW」の頭文字から来ています。</p>

<p>――FLOCALには首長や病院経営者からよく声がかかるとのことですが、どのような点を評価されていると思われますか。</p>

<p>【日下】病院をサポートしていて感じるのは、首長や病院経営者などのリーダーたちも、じつは孤独を感じている、ということ。そこに対して、医療の視点に加えて経営や地域全体への視点などをもったわれわれが、リーダーに伴走している点を評価いただいているように感じています。</p>

<p>具体的には、「病床を何割にしたい」などと決めた際に、「同時に、現場を見てみると、ここの業務改善も必須ではないですか」などの現場目線をふまえた改善点を院長に伝えるなど、対話を促進しています。</p>

<p>また、その土地の人間ではないからこそわかる地域の良さも、広報戦略に活かすようにしています。地域に住んでいる人は「（うちの町には）何もないよ」と言いがちですが、土地の魅力は意外と外の人のほうが気づくこともあるのです。</p>

<p>そのほかの取り組みとしては、病院と地域をもっとつなげようと、「病院祭り」を開催した病院もあります。たとえば昨年（2025年）11月には、千葉県鴨川市の鴨川市立国保病院にて、第二回「鴨国病院祭」を開催しました。病院長はもちろん、首長や議員、市の職員、さらに市民や子どもたちが参加して、健康講話のほか、スタンプラリーなどで交流しました。地域と医療のつながりを深められたのではないかと思っています。</p>

<p>――将来的に、日本の地域医療はどのようになっていくことが望ましいでしょうか。</p>

<p>【日下】人口が減少するなかで、すべての地域が盛り上がっていく、ということはどうしても想定しにくいでしょう。それよりも、いかに持続可能な体制をつくれるかが大事だと思っています。その際、医療機関が突然閉院しないような医療体制を整えるのも重要ですが、それ以上に公立病院を抱える自治体としての方針、そして居住環境や教育環境などが連関すると思っています。</p>

<p>医療では、「アドバンスケアプランニング」という概念があります。これは、もしものときのために、自分が望む医療やケアについて前もって家族や医療・ケアチームなどと繰り返し話し合う取り組みのことです。つまりは「残りの時間をどう生きていたいか」を考えることで、「抗がん剤を使って、人工呼吸器もつけて、できるだけ延命したい」という人もいれば、「ここまでもう頑張ったから静かに過ごしたい」という人もいます。</p>

<p>この考え方は、「消滅可能性自治体」と指摘される地方にも応用できるのではないでしょうか。地域について客観的なデータを現実的に判断し理解していただくことに加えて、「皆が何を望んでいるのか」を対話しながら、地域や医療体制をつくることも重要な視点ではないかと思います。</p>

<p>また、世の中には「病気でないこと」が正義であるかのような考え方がありますが、物差しは一つではありません。たとえば、「タバコを吸っていて肺がんになったけれど、タバコは生きがいだよ」と幸せに生きている人もいるわけです。それと同様に、地域の人びととの対話を通じて、一つの尺度ではなく「全体的な幸せ」を見つけること。それが持続可能かつ幸せに生きられる日本社会への第一歩ではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_byouin.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 09 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[日下伸明 （株式会社FLOCAL代表取締役）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「成長産業に女性が少ない」 違和感から始まったドローン業界への挑戦  井口恵（株式会社Kanatta代表取締役社長）　</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13696</link>
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			<description><![CDATA[成長産業であるドローン・宇宙業界で女性の挑戦を後押しする株式会社Kanatta代表・井口恵さん。起業の背景やコミュニティを通じて描く未来に迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="井口恵" height="947" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260131Iguchimegumi02.jpg" width="1200" /></p>

<p>成長産業として注目を集めるドローン業界や宇宙業界において、女性たちの挑戦を力強く後押ししている株式会社Kanatta代表取締役社長・井口恵さん。起業に至った背景や、コミュニティづくりを通じて思い描く未来について、井口さんに話を伺った。</p>

<p>（写真：吉田和本　取材・文：Voice編集部（田口佳歩））</p>

<p>※本稿は『Voice』（2026年3月号）「令和の撫子」より抜粋、編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>成長産業にもっと女性たちの力を</h2>

<p>ドローン業界や宇宙業界で、女性向けのコミュニティ「ドローンジョプラス」「コスモ女子」を運営するほか、エンジニアのマッチングサービスを手がける、株式会社Kanatta代表取締役社長の井口恵さん。コミュニティでは、業界で活躍する講師による勉強会やイベントを開催。参加者が各業界に就職する事例も増えている。また2024年には、「コスモ女子」に所属するメンバーが、未経験ながら人工衛星の打ち上げに成功したことも話題を呼んだ。</p>

<p>起業の背景には、会社員時代に抱いた問題意識があった。</p>

<p>「最初は公認会計士として、深夜までハードに働いていました。しかし30代、40代になって家庭をもってからも同様の働き方を続けるのは難しいと感じ、ファッション業界に転職しました。働きやすくなった一方で、女性社員が8割を占めるのに対して、役員は男性ばかり。起業して、ジェンダーギャップの解消をめざしたいと思いました」（井口さん）</p>

<p>ちょうどそのころ、首相官邸の屋上でドローンが見つかるという事件（2015年4月）が発生した。これをきっかけに井口さんはドローンに興味をもち、ドローンが成長分野である一方、男性ばかりの業界であることも同時に知った。歪な構造を変えようと、初心者向けの勉強会などを行なう女性限定のコミュニティを設立。しかし、ドローンやドローン活用も進む宇宙産業について一から学ぶのは簡単なことではなかった。</p>

<p>「ある教授に『こんなことも知らないのか』と怒られたこともあります（苦笑）。でもそれ以上に、『成長産業に女性が少ないのはもったいない』という強い思いでここまでやってきました」（同）</p>

<p>最後に目標を聞くと、明確な答えが返ってきた。</p>

<p>「『仲間と一緒にステージアップし続ける』という目標があります。それを通して、誰かのロールモデルになれたらとても嬉しいですね」（同）</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【井口恵（いぐち・めぐみ）】<br />
2010年横浜国立大学経営学部卒。監査法人やファッション業界での経験を経て、2016年に株式会社Kanattaを創業。「ジェンダー平等の実現に貢献する」ことをミッションに、男性主体のドローン業界および宇宙業界で、「ドローンジョプラス」「コスモ女子」の2つの女性コミュニティを運営し、女性の活躍の場を提供している。FORBES JAPAN WOMEN AWARD 2024でパイオニア賞を受賞。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260131Iguchimegumi01.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 06 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[井口恵（株式会社Kanatta代表取締役社長）　]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>依存とは「意志の弱さ」ではない  松本俊彦（国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部部長）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13839</link>
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			<description><![CDATA[「ゾンビたばこ」のニュースが喧伝される一方でメディアが報じない、最も深刻な若者の薬物依存症とは？ 専門医が語る最新動向、「病的な水準に置かれた人を頭ごなしに叱る誤り」について。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="757" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/matsumototoshihiko.jpg" width="1200" /></p>

<p>「ゾンビたばこ」のニュースが喧伝される一方でメディアが報じない、最も深刻な若者の薬物依存症とは？ 国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部部長の松本俊彦氏に話を聞いた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>麻薬撲滅に隠された米国のダブルスタンダード</h2>

<p>――2026年1月、米国のトランプ大統領が南米ベネズエラに対して大規模な軍事攻撃を行ないました。理由の1つに、麻薬撲滅が挙げられています。どうご覧になっていますか。</p>

<p>【松本】薬物依存の問題を考える際に、かつての帝国主義が世界にもたらした傷痕を忘れてはいけないでしょう。南米の人びとが依存症や麻薬ビジネスに関与する現状について、元をたどればアングロ・サクソンの植民地政策に根があります。</p>

<p>大麻はもともと中央アジア～北アフリカで使われていたものが、奴隷貿易の時代にアフリカから中南米へ持ち込まれ、サトウキビ畑で働く労働者が疲れを癒すために使うようになったものです。</p>

<p>宗主国側も、奴隷がよく働くように使用を認め、その後、中南米で嗜好品として文化に根付きました。</p>

<p>ちなみに、コロンブスの往来を契機として、もともと新大陸の先住民族の風習であったたばこがヨーロッパ社会に持ち込まれた際、コカインも一緒に持ち込まれたのです。</p>

<p>ところが、たばこがたちまちヨーロッパ全域、さらにはアジア全域にまで広がったのに対し、少なくとも統治期の時点ではコカインは不人気で、ほとんど広まりませんでした。依存性という点では、コカインよりもたばこのほうが勝っていたのでしょう。</p>

<p>さらに、サトウキビをはじめバナナ、コーヒー豆など国ごとに単一の産品をプランテーション（大農園）の畑でつくらせることで、中南米にモノカルチャー経済が浸透してしまい、多様な産業振興を阻んできた側面もあります。結局、若者たちは生活するためにはコカインの密売をするしか手がなかったのです。</p>

<p>そして、中南米で生産されたコカインの8～9割は、米国内で消費されています。</p>

<p>米国がコカインに対する厳罰政策をやればやるほど、末端価格は上昇し、密造・密売組織が儲かる仕組みです。それで、ますます中南米の人たちはコカインビジネスから離れることができなくなってきたわけです。</p>

<p>トランプ政権がこうした点に背を向けるのは、結局のところ、自分たちの文化に根を張った習慣は認めるけれども、他の文化は認めない、というキリスト教的自文化中心主義が背景にあるわけです。</p>

<p>麻薬撲滅という一見、説得力をもつスローガンの背景に、帝国主義・植民地時代から現代へ至る人種差別と分断が隠されている点は見逃せません。</p>

<p>嗜好品への迫害は歴史上、差別や排外主義と結びつきやすい。たとえば米国におけるコカインの生涯使用経験率を見ると、有色人種と白人のあいだに大きな違いはありません。ところが、刑務所に収監されている使用者の率は圧倒的に有色人種が高い。</p>

<p>――なぜでしょうか。</p>

<p>【松本】理由は2つあります。1つ目は、白人に比べて有色人種が警官の職務質問を受けやすいこと。2つ目は、量刑による差別です。発端は1986年、麻薬撲滅を目的に制定された反麻薬乱用法にあります。</p>

<p>同じコカインでも、白人が吸うパウダー（粉末状）コカインより安く効き目があり、有色人種が嗜好するクラック（結晶状）コカインにはるかに厳しい量刑が科せられたのです。</p>

<p>国内で有色人種への差別や迫害を放置しながら、国外には麻薬撲滅という美辞麗句を発信するトランプ大統領の姿勢は、したがって米国のダブルスタンダードといわざるをえません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ゾンビたばこ」を喧伝する不自然さ</h2>

<p>――他方で日本に目を転じると最近、若者が「ゾンビたばこ」に依存している、という報道があります。いったい何のことでしょうか。</p>

<p>【松本】ゾンビたばこと呼ばれるものの実体はエトミデート、麻酔薬の一種です。沖縄で問題になって東京に上陸した、という話は私も聞くものの、現時点までのところ、薬物依存症の外来では1人もゾンビたばこの患者に会ったことがありません。</p>

<p>――えっ？</p>

<p>【松本】実際に使用した、という例にもお目にかかったことがない。じつに不思議な現象で、実際のところ、ゾンビたばこの依存症はさほど大きな規模ではないのではないか、と私は見ています。</p>

<p>理由は、危険すぎるから。漂白剤の依存症患者がいないのと同じで、通常のたばことはまったく別物なのです。</p>

<p>むしろ若者たちのあいだで蔓延し、深刻な健康被害を引き起こしているのは、誰が何といおうと、後述するように、圧倒的に市販薬です。</p>

<p>同じように、大麻依存症の患者も増えていません。マスメディアでは近年、若者たちのあいだで大麻乱用が蔓延しているとさかんに報じています。実際、大麻による逮捕者も急激に増加しています。しかし、それに見合った大麻依存症患者の増加は見られていないのです。</p>

<p>おそらく大麻に手を出す人は増えていて、それで逮捕される人も増加しているのでしょうが、依存症になる人は多くはないのだろうと思います。その意味で、そこまで厳しく罰し、ただでさえ少子化が進むなか、若者たちを「前科者」にする必要があるのだろうか、と思うことがあります。</p>

<p>ともあれ、ゾンビたばこに関する報道は、薬物依存症の臨床現場からすると現実と乖離していて、何かことさらに煽る意図があるのだろうかと訝く思います。</p>

<p>――不自然ですね。</p>

<p>【松本】昔から悪玉とされるコカイン、大麻、オピノイド（阿片類）は現在「依存症のリトル3」と呼ぶべきもので、覚醒剤依存の患者も激減している。</p>

<p>やや穿った考え方かもしれませんが、ゾンビたばこや危険ドラッグの例を針小棒大に報じるのは、他の本質的な問題から目を逸らさせるためではないか、と私は見ています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>市販薬への依存という深刻な問題</h2>

<p>――本質的な問題とは、いったい何でしょう。</p>

<p>【松本】感冒薬（風邪薬）や鎮咳薬（咳どめ薬）、睡眠薬など市販薬のオーバードーズ（過剰摂取）です。</p>

<p>2000年代以降、精神科の医療機関が国内で増えると、薬物依存はたんなる犯罪ではなく「病」である、という認識が生まれはじめました。</p>

<p>依存症の歴史を見ると、当初は意思の欠如あるいは犯罪の問題として捉えられてきました。アルコール依存を例に取ると、たとえば1920年代の米国は、アルコールを犯罪と見なして禁酒法を制定しました。</p>

<p>しかし取り締まりを厳しくするほど闇価格は上がり、ギャングのアル・カポネが台頭するなど、密造酒の販売業者が潤ってしまった。</p>

<p>1980年代後半に旧ソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長が行なった反アルコール・キャンペーンも同じく密造酒の横行を生み、失敗に終わりました。帝政ロシアが革命で崩壊したきっかけの1つも、1914年に酒の生産・販売を禁じた皇帝令にあるといわれます。</p>

<p>このように、アルコール依存を犯罪として取り締まり、排除しようとしても実効性がないことに気づき、病気として取り扱うことで、ようやく前進を見た経緯があります。</p>

<p>1980年代のキャンペーンCM「覚せい剤やめますか？ それとも人間やめますか？」を契機として、「薬物を使った者はもはや人間ではない」と見る依存症患者への差別と断罪の意識が強まり、薬物依存症患者に対するスティグマ（烙印）は、一般の人びとだけではなく、精神科医療関係者のあいだでも強まっていきました。</p>

<p>しかしその一方で、精神科クリニックの増加や一般の精神疾患に対する啓発活動により、精神科受診に対する心理的抵抗感は減じていきました。</p>

<p>おかげで、多くの国民が精神科治療薬を服用するようになりましたが、その副作用として、精神科処方薬の依存症患者が増加したのです。これは2000年ごろから増加し、2010年ごろにピークを迎えました。</p>

<p>そのころより、精神科医のあいだでも、患者に漫然と与える抗不安薬や睡眠薬が新たな依存症を生んでいるのではないか、という意識が生まれ、依然として事態は軽視できない状況ではあるものの、さらなる悪化はしていない感じではあります。</p>

<p>そして2010年代後半以降、若年層のあいだで劇的に増えたのが市販薬の依存症です。親の扶養下にある未成年者は、保険証を自由に使って薬を入手できない。さらに「捕まらない薬」として、合法であるドラッグストアの市販薬に手を出すようになりました。</p>

<p>背景の1つには、ドラッグストア業界の急成長があります。2025年度の国内売上は9兆円を突破（『ドラッグストア白書2025』より）。アルコールを含めたすべての飲料市場が約8.5兆円（5.3兆円＋3.2兆円）ですから、いかに巨大な規模かがわかります。実際、新規開業店舗数は前年比1000～1500店前後増というすごいペースで増えています。</p>

<p>さらに、政府が推進するセルフメディケーションの政策が、この流れに拍車を掛けています。</p>

<p>セルフメディケーションとは、「自ら健康に責任を持ち、軽い体の不調は自分で手当てをする」（WHO＝世界保健機関による定義）ということを意味しますが、現在わが国ではセルフメディケーション推進議員連盟（セルメ議連）もあり、OTC（Over The Counter、医師の処方箋がなく薬局・ドラッグストアで買える市販薬）を控除するセルフメディケーション税制の対象拡大、恒久化をめざしています。</p>

<p>2025年5月には改正薬機法が参議院本会議で成立し、 コンビニエンスストアでの市販薬販売が可能になりました。さかのぼると2014年、薬事法の改正により一般医薬品（第1類、第2類、第3類）がインターネット、電話で販売可能になりました。</p>

<p>この規制緩和に伴い、乱用リスクの高い市販薬について販売個数の制限が加えられるようになりました。</p>

<p>それにもかかわらず、市販薬の乱用が増えているのはなぜか。単純な話で、ドラッグストアが増えているからです。「1人1箱まで」の薬を複数店回り、購入すればよいわけです。</p>

<p>これだけドラッグストアが増えれば、市販薬の乱用が増えるのはむしろ当然です。とりわけ、女性に多い。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>若年層の自殺は増え続けている</h2>

<p>――なぜ女性に多いのでしょうか。</p>

<p>【松本】男性の場合、ストレスを感じたときや眠れないとき、お酒を飲んで現実を忘れようとする人が大半です。女性のほうがより現実的で、ドラッグストアに行って市販薬を買う、という具体的な選択を取る傾向があります。</p>

<p>また、女性の最大の関心事はなんといっても「ヘルス＆ビューティ」なので、ドラッグストアへの親和性が高い。とくに10代の女性にとって買い求めやすい、比較的安価なコスメ用品がいちばん揃っているのはドラッグストアです。</p>

<p>彼女たちは、そこで容姿のコンプレックスを解決するとともに、市販薬で心理的苦痛を解消しているわけです。</p>

<p>しかし、親からの虐待や級友からのいじめなど、薬では解決できない現実的問題を解決しなければ、その効果は一時的です。市販薬のオーバードーズばかりがエスカレートしていく結果となってしまうわけです。</p>

<p>私たち国立精神・神経医療研究センターが行なった「全国の精神科医療施設における薬物関連精神疾患の実態調査」（2024年）では、市販薬の依存症患者の約9割（89％）が女性であり、過去1年以内に自殺・自傷経験のある人が同じく約9割を占めます。</p>

<p>ご存知ない方も多いかもしれませんが、日本の若年層の自殺は増え続けています。世界における10代の自殺者数が減少傾向にあるなか、日本では顕著に増えている。とくに深刻なのは、中学生と高校生の女子です。</p>

<p>自殺の疫学については、世界の多くの国で共通する「ジェンダー・パラドックス」という現象があります。自殺者を既遂者と未遂者に分けると、自殺既遂者は男性が、未遂者は女性が圧倒的に多い。</p>

<p>ところが現在の日本の中学生・高校生はジェンダー・パラドックスが当てはまらず、自殺既遂者・未遂者ともに女性が多いのです。</p>

<p>筑波大学の太刀川弘和教授が、厚生労働省と文部科学省、総務省、経済産業省のマクロ統計データを集計し、10代男女の自殺と相関が高い指標を調べた調査があります。</p>

<p>10代女性の自殺者数と最も高い相関（相関係数0.78、1に近いほど相関が高い）を示したものの1つがOTC医薬品、すなわち市販薬の年間販売額でした。</p>

<p>この調査は、両者の直接的な因果関係を示したものではありません。ただし、自殺リスクの高い10代女性が市販薬を使っている、あるいは、市販薬でつらい気持ちを紛らわせている、という意味では関係があるといえます。</p>

<p>さらにいえば、市販薬のオーバードーズによる酩酊のなかで衝動性が高まり、高所からの飛び降りや縊首に及んでいる現実があります。</p>

<p>いずれにせよ日本の若者たちがいま、過去にないほどの生きづらさを抱え、自殺に追い込まれているのは間違いありません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大人に絶望する子どもたち</h2>

<p>――若者たちの薬物依存に向き合うには、どのような姿勢が求められますか。</p>

<p>【松本】2025年、厚生労働省のキャンペーン動画「OD（オーバードーズ）するよりSD（相談）しよう」が「薬物問題を軽く見ている」として炎上し、削除されました。</p>

<p>2017年以降、学校現場では年に1度、SOSの出し方を学ぶ教育を行なっています。にもかかわらず自殺者が増えているのは、結局のところ子どもが必死で出したSOSを大人の側が受け止めておらず、失望した子どもが自死に至っているから。オーバードーズを告白すれば、停学や退学の恐れもあるわけです。</p>

<p>「正直にいえば怒らない」といって、SOSを出すと罰せられる。二枚舌が社会全体に満ちているのです。</p>

<p>「ODするよりSDしよう」などという能天気なダジャレを考える大人の浅はかさを、子どもたちは完全に見抜いている。大人たちに絶望し、大人に相談するより「薬は裏切らない」と感じてオーバードーズに至るわけです。</p>

<p>信用を失っていることを自覚し、反省して若者と接する態度が求められるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>溺れる者「だから」藁をもつかむ</h2>

<p>――依存は「意思の弱さ」ではないのですね。</p>

<p>【松本】薬物依存症患者さんの多くは、他に頼るものがない人間が「溺れる者は藁をもつかむ」の諺どおり、藁にもすがる思いで最初の薬物使用をしています。</p>

<p>平穏に日常を生きる人からすれば、藁（薬物）などゴミ同然であり、捨て置くべきものです。</p>

<p>しかし周囲に1人も助けがおらず、水に落ちてもがいている状況から見れば、たとえ藁1本でも希望になります。藁を求める欲求が、他の状況に置かれた人と比較にならないほど増幅されているのです。</p>

<p>だからこそ、ひとまず楽になれる唯一の支えとして薬物に手を伸ばしてしまう。これは薬物だけでなく、リストカットでも同じです。</p>

<p>溺れて死にかけ、藁への欲求が数十倍に高まった人が同じ程度、意思の力を高められるのか。人間としては無理、といわざるをえません。</p>

<p>意思ではいかんともし難い、病的な水準に置かれた人に対して「意思を強くもちなさい」「絶対に駄目」と頭ごなしに叱る人は、まず相手の置かれた環境に想像力を発揮していただきたい、と思います。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/matsumototoshihiko.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 06 Mar 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[松本俊彦（国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部部長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>アベノミクスを超えんとする政策構想　「サナエノミクス」の全容とグランドデザイン  飯田泰之（明治大学教授）</title>
			<link>https://voice.php.co.jp/detail/13856</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013856</guid>
			<description><![CDATA[国内外で起きている経済の大きなフェーズ変化。それに対して、合理的かつ整合的に対応した経済政策パッケージが 「サナエノミクス」 だ。その全容とグランドデザインを解き明かす。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="国会議事堂" height="741" src="https://voice.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_kokkaigizidou.jpg" width="1200" /></p>

<p>国内外で起きている経済の大きなフェーズ変化。それに対して、合理的かつ整合的に対応した経済政策パッケージが 「サナエノミクス」 だ。その全容とグランドデザインを解き明かす。</p>

<p>※本稿は、『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>構造化される政策</h2>

<p>自由民主党総裁選での党内支持動向や経済政策ブレーンの顔ぶれから、高市政権の経済政策を、アベノミクスの継続・強化ととらえる論評も多い。その一方で、政権発足前後来の発出文書、さらには日本維新の会との政策合意から窺われる政策理念は、アベノミクスの成果を継承しつつも、それを超えんとする意欲的な政策構想が垣間見える。</p>

<p>両者の相違は、現実の要請によってもたらされたものである。直面している状況が異なるのだ。</p>

<p>第2次安倍政権が誕生した2012年時点の日本経済は、明確な需要不足状況にあった。消費者物価指数を起点とすると、1998年以降の日本経済はほとんどの期間で、物価の下落が需要の萎縮を招き、その需要不足が物価を下落させるデフレ不況状態にあった。内閣府の推計では、通常時のGDPに比べ、2012年末ごろの実際のGDPは2％下回っていたとされる。</p>

<p>総需要の不足に対する経済学の一般的な処方箋は、マクロ経済政策による総需要の支持である。ここから導かれたのが、アベノミクス第一の矢（大胆な金融緩和）と第二の矢（機動的な財政出動）である。一方で、総需要政策は一国経済が「実力通りの供給能力」を発揮するための手段である。長期的な経済成長は第三の矢（成長戦略）が担う。</p>

<p>アベノミクスの三本の矢は、それぞれがある程度独立して当時の課題への改善をめざすという意味で、並列的な政策「プラン」であり、むしろ政策「リスト」と呼ぶほうが妥当かもしれない。この需要政策と供給力強化の二分法は、伝統的な経済理論の特徴であり、さらに当時の日本経済への妥当性の高い経済学的な提案であった。</p>

<p>一方で、高市政権の経済政策はその中心に【危機管理投資】が据えられ、【責任ある積極財政】や金融緩和の継続がそれを支える構造をもつ政策プランである。</p>

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<h2>人手不足経済への転換</h2>

<p>現下の日本経済が、デフレ状態にあると考える者はいないだろう。2025年については米価の影響が大きいが、26年中のインフレ率は目標である2％前後の推移が予想される。民主党政権下で一時一ドル70円台にまで高騰し、国内製造業の空洞化を招いた為替レートは、現在では円安の行き過ぎを心配される局面に至っている。</p>

<p>何よりも大きな変化は、雇用情勢の変化であろう。アベノミクス期に雇用者数は540万人、正規雇用は200万人増加した。需要不足によって活用されていなかった労働力という資源が掘り起こされたのだ。</p>

<p>長いデフレ不況の経験からもわかるように、二度と日本をデフレ不況に陥れてはいけない。その意味で、これからも景気に配慮した財政・金融政策運営は必須の営為だろう。先日発表された2025年7-9月期の実質GDPは6四半期ぶりのマイナス成長となったが、内閣府・日銀が推計するGDP・需給ギャップ指数は、ゼロ（需給均衡状態）に近くなっている。過少推計を指摘されることが多い両推計ではあるが、少なくとも現下最大の問題がデフレと失業にはないこともまたたしかである。</p>

<p>インフレと人手不足のなかでの財政・金融政策に求められるのは、需要不足を埋める投薬型の政策ではない。供給制約下での緩和的な政策は、経済に供給能力を超える需要圧力を加えることで、供給能力そのものを向上させることが狙いだ。いわば筋トレ型の経済政策思想と言えよう。</p>

<p>需要圧力や人手不足が供給能力そのものを向上させるとの論理は、履歴効果、または高圧経済論と呼ばれる。人手不足は省力化のための設備投資や研究開発を後押しするとともに、成長産業への人の移動を通じて平均的な生産性を向上させる。2016年に当時ＦＲＢ（連邦準備制度理事会）議長であったジャネット・イエレンがこれらの効果を強調したことで注目を集めた。</p>

<p>伝統的な経済理論では、長期的な生産性向上と景気変動は、それぞれ別の論理で決まっていると想定されてきた。アベノミクスはある意味で、この二分法に沿った政策構想と言える。一方で、高圧経済論は需要が供給に与える長期的影響を重視する。</p>

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<h2>財政政策の「中身」</h2>

<p>財政・金融政策による需要拡大が供給能力そのものを向上させると言うと、拡張政策が経済を成長させ、さらなる財政拡大を可能にするという、夢のような提案のように感じられるかもしれない。しかし、需要超過経済はバラ色の未来ではない。</p>

<p>供給能力をフルに活用した状況での財政支出拡大は、民間経済の活動を停滞させることがある。労働者の人数が限られている状況を想像されたい。政府が大規模な公共事業を行なうと、その事業に人手をとられるため、民間の建設業はさらに深刻な人手不足状況になる。官需が民需をクラウド・アウトしてしまうのだ。供給余力に乏しい経済では、「何かをすることは何かをできなくなること」という関係が成り立つ。</p>

<p>ここが、需要不足経済との大きな違いだ。デフレ不況と失業が喫緊の問題となっているとき、財政支出や成長政策の「中身」は最重要課題ではない。どのような事業であっても、何も生産しない失業状態よりは生産性は高いからだ。</p>

<p>供給能力と需要との大小関係は、産業によって異なる。需給ギャップやGDPギャップの推計値は、それらの平均を示すものにすぎない。供給能力不足産業の需要を急拡大しても、その産業での人手不足をさらに深刻化させるだけだ。その一方で、需要不足産業への支援は、ともすると衰退企業の温存につながる。</p>

<p>需要不足産業から供給能力不足産業へ、低生産性企業から高生産性企業へと人材・資金を移動させる必要がある。高圧経済は需要圧を用いて、民間経済の自発的な産業構造転換を促すものだ。各種補助金、税制はこのシフトを促進するもの、少なくともそれを阻害しないものでなければならない。</p>

<p>「責任ある積極財政」の司令塔である片山さつき財務大臣の正確な肩書は、「財務大臣、内閣府特命担当大臣（金融）、租税特別措置・補助金見直し担当」である。昨年（2025年）11月25日には、内閣官房に「租税特別措置・補助金見直し担当室」が設置された。</p>

<p>租税特別措置（租特）は、住宅ローン減税から経済特区での立地誘導まで、多岐にわたる本則以外の税制の総称である。分類法によって数は前後するが、現在約200種の租特が講じられている。そのなかには、衰退産業保護を目的にしていると疑われるもの、大企業に有利なものもある。補助金と合わせて、これらを成長志向の税制に整理していく必要がある。</p>

<p>経済産業省の本年度税制改正要望にも、その端緒が見られる。中小企業向けの投資減税制度を、規模を問わずに適用する提案は、これまで中小企業向けと大企業向けに分断されていた租特を簡素化するとともに、いま利益を上げている企業にこそ、投資を積み増すインセンティブを与えることが期待される。</p>

<p>歳出削減のための補助金・税制改革ではなく、需要維持のための政府支出拡大でもない。成長促進型への組み換えを主眼とする見直しは、政権がめざす「責任ある積極財政」の内容を示唆している。</p>

<p>さらに、財政におけるもう一つの課題は社会保障、なかでも医療・介護における人的制約である。高齢者医療や介護を高生産性産業ととらえるには無理がある。今後さらに増加する医療・介護需要に対し、それと比例的に従事者数を増やしていくことは、日本経済の平均的生産性の足かせとなるだろう。</p>

<p>人手不足は業界のＤＸ化を進める契機となる。しかしながら、社会保険によって賄われる医療・介護事業の価格や従事者規定は、個々の事業所の判断で決められるものではない。診療報酬体系や設置基準を決めるのは政府である。いかに少ない従事者でのサービス提供を続けることができるか、さらには急増する医療・介護需要をいかに緩和していくかは、福祉問題である以上に経済問題である。</p>

<p>日本維新の会との政策合意では、社会保険改革に多くの紙幅が割かれている。その一方、両党合意にあるＯＴＣ類似薬（湿布や鎮痛剤などの医薬品）の保険適用除外について、厚生労働省は早速に保険適用の継続を示唆している。巨大な労働需要をもたらす同産業といかにうまく付き合っていくかは、高市政権に限定されない、人口減少時代の経済政策の要点となるだろう。</p>

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<h2>現代サプライサイド経済論</h2>

<p>「責任ある積極財政」と並ぶ経済政策の看板が、危機管理投資である。昨年10月21日の政権発足と同時に発出された18閣僚指示書では、全閣僚共通指示として「官民手を携えて先手を打って行う『危機管理投資』を肝として、日本経済の強さを取り戻す」とうたわれる。</p>

<p>この危機管理投資の理論的支柱となるのが、現代サプライサイド経済論（Modern Supply Side Economics :MSSE）である。米バイデン政権の経済政策を表す用語として登場したが、現在は、より広い経済政策思想を表す単語となりつつある。同趣旨の政策思想は、定まった邦訳はないが、生産主義（Productivism）、安全保障経済論 （Securonomics）と呼ばれることもある。</p>

<p>需要圧力によって民間の自発的な産業転換を促進する発想に対し、MSSEはより能動的に政府による人材育成、インフラ整備、産業育成を志向している。</p>

<p>仮に、精密機器製造業が成長産業になったとしよう。製造ラインを支える水の利用、出荷のための交通網なしでは、いかに需要があっても産業は成長しない。さらに日本においても、深刻な問題となりうるのが人材の問題だ。製造業の好適地は大都市部でないことも多い。東京一極集中の是正なしには、工場は人手を確保できない。製造工業に従事するだけの知識がある労働者なしの成長産業は絵に描いた餅となる。</p>

<p>AI（人工知能）やロボットの活用は、企業の判断で進めることができる部分もあろう。しかし、インフラ整備や人材育成は一企業の努力では如何ともしがたい。</p>

<p>1970年代から80年代の（旧）サプライサイド経済論は、減税と規制緩和を中心に富裕層・企業行動から生産力の向上をめざした。一方で、MSSEは人材育成とインフラ整備によるボトムアップ型の構造をもつ。</p>

<p>補正予算に増額が盛り込まれた大学向けの理系学部新設・文理融合学部転換支援は、その一環と言えよう。今後は文部科学大臣への指示である「高等専門学校（高専）や専門高校の職業教育充実」がどのような具体性をもったものになるかに注目していきたい。</p>

<p>一方で、MSSEに見え隠れする「政府による産業育成」という思想には懸念も多い。高度成長期の日本の産業政策については、1990年代から2000年代の研究成果によって、成長産業支援よりも衰退産業保護の色彩が強かったこと、通商産業省（現経済産業省）などは民間の成長を追認したにとどまることなどが指摘された。あくまで過去の日本における経済成長の主役は民間であった。また、2000年代にはじまる産業クラスタ政策が顕著な効果を得ていないという批判も多い。</p>

<p>過去に成功例に乏しい、政治家・官僚による産業育成が「今度こそ」成功すると考えることは難しい。筆者自身も危機管理投資は人材育成とインフラを中心とし、成長産業の能動的な育成に重点を置きすぎないように留意すべきだと考えているが、この筆者の見解には再反論も多いだろう。</p>

<p>2010年代には韓国や台湾、さらには中華人民共和国の経済成長に関して、政府の産業政策の有効性を示す分析が増えてきた。明確な成長産業、または「成長させる必要のある産業」がある場合には、政治による経済誘導は有効なことがある。</p>

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<h2>変化する世界経済とサナエノミクス</h2>

<p>国内におけるデフレからインフレへの移行が始まったこと以上に、世界経済は大きな転換点を迎えている。そのきっかけはコロナ禍とウクライナ戦争である。</p>

<p>1990年代以降の世界経済は、グローバル化の時代であった。企業活動は国境を越え、グローバル・サプライチェーンを通じた効率的な経済活動が称揚された。</p>

<p>しかし、コロナ禍による生産活動の寸断は、世界中に張り巡らされた緻密なサプライチェーンの脆弱性を露わにした。グローバル・サプライチェーンは、緻密であるがゆえに複雑であり、平時の効率性の対価としてショックに弱い構造をもつ。名前も知らない海外生産拠点の生産中止が自社の活動の足かせとなる状況は、長期的な意味では合理的とは言えない。</p>

<p>さらに、ロシアによるウクライナ侵略は、権威主義国家との経済的なリンクが、大きなリスク要因であることを示した。これは、グローバル化時代の寵児であった中華人民共和国と強く結びついたサプライサイド構築の危険性を示す。西側諸国はサプライチェーンの国内化、同盟国・友好国を重視した再構築を迫られている。</p>

<p>グローバル化の時代から経済新時代への移行において、日本には西側諸国の生産拠点、技術センターの役割が期待される。喫緊の課題としての半導体生産網の構築、造船能力の拡充、レアアース採掘など現代の日本経済には「成長させる必要のある産業」が数多くある。このような経済安全保障上の必要性に迫られた産業政策を、いかに中長期的な成長の種とすることができるかに危機管理投資の成否はかかっている。</p>

<p>サナエノミクスは、国内外における経済のフェーズ変化に対応した経済政策パッケージである。一方で、内外経済の変化は激しく、その構造は複雑化している。人手不足を梃子とした産業構造の高度化を進め、世界経済の変化に対応した国際分業の一翼を担うという政策方針は、かなりのナローパスであることはたしかだ。しかし、困難な道であると同時に、日本経済にとって残された数少ない道の一つであることを意識する必要もあろう。</p>

<p>サナエノミクスの政策構想は、その賛否をさておくとして、合理性・整合性をもつ提案である。その一方で、いずれの政策もより細かな具体策の巧拙が結果を大きく左右する構造をもっている。</p>

<p>神は細部に宿る。個々の政策が政策構想の実現に向けて合理的に立案され、遂行されるか。高市政権の実行力が問われていくだろう。</p>
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						<pubDate>Thu, 05 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[飯田泰之（明治大学教授）]]></dc:creator>			
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